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隨分と暫く御無沙汰仕候。寒冷の候大兄には相變らず御壯健にて結構に存じ候。小生事、試驗終了後、一度御目にかゝり、いろ〳〵御話致し度存じ居候ところ、家の方に用事出來、昨夜遲く京濱電車にて六郷へ歸省仕候。多分此の暮は田舎にて越年致す事と相成可く候。ヲルヅウオースの大好きな小生も、寮の生活の自由にして豐富なる都會の色彩の華麗にして複雜なるに比べて、今年ばかりは、故郷に蟄居《ちつきよ》する事の淋しさ物足らなさをつく〴〵感じ申候。昨今は父を始め家族一同の顏を見るのも嫌にて、一日鬱々と讀書したり、煙草を吹かしたり致し居り候。

春子との Marriage 問題は、遂に破談と相成候。先方は勿論、小生の父も賛成、母も賛成、妹も賛成なるに拘らず、急に小生の心變りて、契約を破棄致し候次第、此事に就きてはいづれ拜眉《はいび》の節委しく申し上ぐる積りに候へ共、要するに春子の性格が小生の妻として甚だ不適當なるを發見したる結果に外ならず候。彼の女は小生如き愚直一徹なる人間の妻たるべく、餘りに怜悧にて、度胸が好すぎるやうに覺え候。寧ろ外交官の夫人にでもなりて、歐州の交際界に押し出し、數多の男子を手玉に取る方が其の本領に候可きか、もと〳〵小生などの思ひを懸けたるが誤りに御座候。先逹《せんだつて》父が姬路へ參りて、其れとなく春子の實家を調査致し候處に依れば、土地にて可なりの家柄には相違なきも、彼の女の兄が申す程の資產は無之《これなき》やうの趣に候。小生とても彼の女の愛情に疑を挾む者には無之《これなく》、かう申しては可笑しきやうなれど、小生の家は聊か纏まりたる財產も有之《これあり》候へば、多少其の邊の利害關係に心を動かしたりとするも、全然慾づくにて仕懸けたる事とは存ぜられず、極めて冷靜に忌憚なく申せば、先づ第一に春子の兄が小生の朴訥《ぼくとつ》らしき氣象に惚込み、次で相當の財產あるを確かめ、これに彼の女の戀―――たとへ不純なるにもせよ。―――が加はりて、今度の相談と相成り候やうに考へられ候。其の點を察すれば、今更氣の毒の感も致し候へど、性格の背馳せる兩人の結婚は、お互に將來の不幸と存じ、淡泊に先方の兄に打ち明け破約を乞ひ候處、兄も妹に負けぬシツカリ者とて、不平を色にも表はさず、兎にも角にも快諾致し、さらば此の後とも親友として往復致し度き希望を述べて、譯なく落着仕候。

小生の初戀が、斯くも悲慘なる終りを遂げたるは實に意外にて、形式上の解決は着き候へ共、手痛き創痍《さうい》の痕は容易に恢復仕らず、當分懊惱の種と相成り申す可く候。いかにして此の頃の無聊、倦怠孤獨を救はんか。刺戟なき生活は小生の一日も堪へ難きところ。さればとて第二の戀を作る元氣もなく、昔のクリスチヤンに復る心にもなれず、過去を想ひ出す度每に、忌々しく、情なく、徒《いたづら》にいらだち申し候。

せめて、小生の心事境遇を最も熟知せらるゝ大兄を捕へて、悶々の衷情《ちゆうじやう》を訴へたく、近日憂さ晴らしに上京して御尊宅を訪問仕可く候。此の際飄然と旅行に出かけたき存念切に候へども、破約以來家族一同小生の擧動を解しかね、何かにつけて餘計な心配を醸し居る折柄故、蟲を殺してヂツと辛抱致し居り候。先は御近狀御尋ね旁《かた〴〵》御報迄以上。

十二月二十四日      佐々木卯之助

橘 大兄 机下

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暮の二十一日に試驗が濟むと、宗一は早速寮を引き拂つて濱町へ歸り此の休暇の間に小田原の方の話を始末して了はうと思つた。さうして、一旦物置き代りに使はれた自分の書齋を綺麗に片附けて、再び其の部屋の住人となつた。父からは容易に何の挨拶もなかつたが、あれ程淸く承知してくれた以上、あまり執念《しふね》く追求する譯にも行かず、每日々々返答を待ち焦れつゝ空しく時を過ごして居た。丁度此の手紙が屆いてから、中一日置いた二十六日の事である。まだ宗一が寢て居る時分に、佐々木がヒヨツコリ訪ねて來た。

「何處かへお出掛けになるといけないと思つて、今朝六時前に家を立つたんです。………先逹の手紙は御覽になつたでせう。」

「うん、此の頃は始終退屈で困つてるんだ。今日はゆつくりして行つてくれ給へ。」

宗一は二階の緣側の、日あたりの好い東向きの障子を開け放して、敷居際に八端《はつたん》の座蒲團を据ゑ、佐々木と差し向ひに庭の梢の霜除けを眺めながら語つた。疊替へをしたばかりの座敷の中に、朗かな朝の空氣が透き徹つて、佐々木の薰《くゆ》らす敷島の煙が、靑く白くゆるやかな圏を描き、恰も水に流るゝ女の髮の毛のやうに、たゆたひながら漂つて居た。

「大層書齋が立派になりましたね。―――あれは何ですか。」

佐々木は身を屈めて、向う側の壁に沿うた本箱の硝子戶を透かしながら、

「君、デイヷイン、コメデイーを買つたんですね。全部《すつかり》お讀みになりましたか。」

「此の休みに讀む積りで居たんだが、まだ十頁ぐらゐしか手を付けない。」

「あれには、ロングフエローの譯と、ロセツチの譯があるさうですが、孰方がいゝでせう。」

「さあね。」

と、宗一は曖昧に云つた。中學時代に一級下であつた關係から、佐々木はいまだに彼を先輩扱ひにして、言葉遣ひを叮嚀にするばかりか、自分が専攻する文學上の質疑までも、宗一に聽かうとする。其れが一片の禮讓から出たのではなく、本當に相手の學識を買ひ被つて居るらしいので、宗一は度々遺憾を感ずるのであつた。

「僕は此の間、クオー、ヷヂスを讀んで見ました。」

「僕もあれは讀んだ。」

「素晴らしいもんぢやありませんか。此の頃の小說で、あの位動かされた本はありませんね。ヸニチアスと云ふ人は、日本の文覺上人の樣な所がありはしませんか知ら。」

「それでも戀が成就したゞけ、文覺上人よりは仕合せだと思ふ。」

「しかし、今の靑年は文覺上人よりもつと不仕合せですよ。僕等はとても彼れ程無遠慮に、自分の戀を貫くだけの熱情が湧きませんもの。文覺やヸニチアスのやうに、熱烈な生一本な感情が持てれば、其れだけでも僕は幸福だと思ふんです。今の人間はどうしたツて、あんな單純な頭にはなれませんからね。」

「君なんぞでもさうかなあ。僕は此の間の手紙を讀んで、實際意外に思つたよ。春子さんの方で逃げたのなら格別、君の方から嫌になると云ふのは可笑しいぢやないか。」

「そんなに可笑しうござんすか。」

「可笑しいさ君、今になつて性格が合はないとか、將來の不爲めだとか、そんな冷靜な判斷が出來よう筈がない。よしんば判断が付いたところで、單に理窟一遍で別れるなんて、君にやり通せる藝當ぢやないぜ。やつぱり飽きたんだね。」

「飽きたんだと云はれゝば、其れもさうでせう―――しかし、僕が彼《あ》の女《をんな》に飽きた原因は、どうしても性格の相違する點にあるんです。だん〳〵附き合つて見ると、そりやナカ〳〵喰へない女なんですよ。まあ、まるで僕なんぞとは別世界の人間ですね。僕に對する素振にしろ、仕打ちにしろ、一々政略の細工を持つて居るんです。必ずしも惡い動機から技巧を用ふるんぢやないとしたつて、實際腹が立ちますよ。此の儘捨てゝ置いたら、僕は氣が弱いから、次第に彼の女に壓服されて了ふでせう。」

「惚れた女になら、壓服されたつて構はないぢやないか。」

「そりやさうです。けれども遣り方が如何にも見え透いて居て淺ましいから、壓服される前に先づ不快を感じて、嫌になるんです。あれではいつ迄馬鹿にされるもんかと云ふ敵愾心《てきがいしん》を起させるばかりです。」

「君のやうな道德家―――道德家と云ふのも變だが、正直な、愛情の淸い人でも、飽きると云ふ事があるのかえ。何にしても意外だつたよ。」

宗一は意味ありげな微笑を浮べながら、相手の表情を判じるやうに凝視して

「君、彼《あ》の人と何か關係があつたんぢやないのかい。」

「決してありません。」

と、佐々木はキツパリ答へて、强く首を振つた。

「そりや、二人で夜遲く散步した事は隨分あるんですけれど、關係なんかは斷じてないんです。」

「さうか知ら。―――山口の說に依ると、男と云ふものは關係が附いて了へば、直に女を棄てるさうだから、或は其の邊の事情があるかと思つて、………」

「それこそ、僕に出來る藝當ぢやありませんよ。藝者を買つたり、女中に手を附けたりしたのなら、棄てた所で冷酷とは云へますまいが、其れとは場合が違ふんですもの。かうなれば、何も彼も打ち明けてお話しますがね。いつか夏の晚に芝の山内をうろついた時なんぞ、春子をベンチへ坐らせながら、僕は後から庇髮の中へ鼻を埋めて、兩手で頰を挾んでやつたり Kiss したりしました。其の他の時にも Shake hand や Kiss は何度したか知れません。けれど決して、其れ以上には進まなかつたんです。」

宗一は友逹の甘い物語を、默つて聞かされる程、寛大ではなかつたが、佐々木のやうに眞劍に惚《のろ》けられると、冷嘲する隙がないので、いつも謹聽を餘儀なくされた。

「さう云へばね、一度妙な事がありましたよ。此れは決して、他へ行つて話されちや困りますが………」

と、何を想ひ出したのか、佐々木は眼を光らせて、一段と調子を低め、

「一時僕が千駄木に二階を借りて居た事があつたでせう。あの時分、土曜日になると、屹度春子が僕の妹と一緖に、―――兩方とも○○女學校の同級生だもんですから、互に誘ひ合つて訪ねて來たものなんです。たしか去年の四月ごろでした。半どん[#「どん」に傍点]の晚に二人でやつて來て、十一時過ぎまで話し込んで、とう〳〵泊ることになつちやつたんです。其れまで彼處へ泊つたと云ふ例はないんですが妹も一緖だし、差支あるまいと思つて、座敷へ蒲團を三つ並べて敷いたんですよ。すると、寢るときに春子が『あたし此處がいゝわ。』ツて、中央《まんなか》の蒲團へ入つたんでせう。其れがいかにも無雜作《むざふさ》に輕く云はれたもんですから、僕も格段氣に留めないで寢ちまつたんです。今考へると彼《あ》の調子なんぞ、全くうまいもんでしたね。」

「其座敷には灯がついて居たのかい。」

「いゝえ、僕は暗くないと寢られませんし、それにランプでしたから、危險だと思つて消して了ひました。春子は妹の方へ背を向けて、いつまでもコソ〳〵僕に話しかけて、なか〳〵寢さうもないんですよ。二時間ばかりさうして居るうちに、だん〳〵此方へ體を寄せながら、腕を伸ばして僕の手頸を押さへるんでせう。妹も寢られなかつたと見えて、其れまで我慢して居ましたが、とう〳〵夜具を被つてシク〳〵泣き始めたんです。其のお蔭で、まあ、際どい所を逃れましたがね。」

「若しも妹が知らなかつたら、隨分危いもんだつたね。」

「二人ぎりだと受け合ひませんが、側に妹が寢て居たんですから、たとへ知れないでも、そんな眞似は出來ませんよ。妹も後になつて、春子さんは妾《わたし》と同じ年だけれど、まるでする事が姉さんのやうだツて、皮肉を云つてましたつけ。―――此れで彼《あ》の女の性質は大槪解るでせう。」

「事に依つたら、もう Virgin ぢやないんだらう。」

「さあね、隨分そんな疑ひも起りますね。―――しかし、今になつても、僕は春子を憎いとは思ひません。兎に角あれ程に僕を慕つてくれたのだし、未だに未練があるらしいんですから、可哀さうな氣もしますよ。一生友逹附き合ひをして幸福を謀つてやる責任はあらうと思ふんです。」

と、佐々木は傷ましい顏をして云つた。

宗一は、一身の祕密を隱さず打ち明ける友逹の信義に對して、自分が今迄、美代子の事を厘毫《りんがう》も吿げなかつたのが、濟まないやうに感ぜられた。殊に、山口のやうな人間に洩らして置きながら、佐々木の耳へ入れないと云ふのは、どう考へても不都合である。自分の戀が、將來何の心配もなく、易々《やす〳〵》と成就するめでたい話なら、失意に沈む現在の佐々木に語らずとも宜いであらう。しかし、佐々木が宗一に胸中の苦悶を訴へると同じく、彼も佐々木の同情を求めたいのが、目下の狀態であつた。

「ところで僕も、昨今君のやうな問題に惱まされて居るんだよ。」

かう云つて彼は、川甚の折よりも更に詳しく、戀の成行《なりゆき》をこま〴〵と話して聞かせた。

「しかし、君のお父さんはよく解つた方ですねえ。」

佐々木は宗兵衞が何も云はずに金を吳れた處置に感心して、「ほんとに君は仕合せですよ。」

「あんまり捌《さば》けて居られるのも困り者だよ。だだ[#「だだ」に傍点]を捏ねて催促する事も出來ず、やけ[#「やけ」に傍点]になつて道樂する譯にも行かず、實際此の頃はヤキモキして居るね。―――君のお父さんは、どんな工合だい。」

「僕の親父も、決して解らない方ぢやありませんが、あんまり如才なさ過ぎて、人を欺すやうな眞似をするので、時々腹が立ちますよ。それに、何しろ僕が我が儘者ですから、腫物《はれもの》に觸るやうにして御機嫌を取るんです。妹なんぞお父さんは陰險だと云つて、嫌ひ拔いて居ます。―――尤も、親父としては多少の政略も無理はないんですが、戀愛の問題なぞになると、どんな仲の好い親子だつて、感情の齟齬《そご》は免れませんよ。戀の味を知り初めたら、誰だつて家庭に不滿を抱くやうになるんです。」

「全くさうだ。………」

宗一は熱心に、佐々木の意見に賛成の意を表した。

「僕なんか、此れまで親父にも母親《おふくろ》にも心服して居て、出來るだけの孝行を盡す積りで居たんだ。今日でも兩親の仕打ちに何一つ手落ちはなし、淚がこぼれる程有難いと感じながら、どう云ふものか、さつぱり家《うち》が面白くない。九月に寮へ入つたのも實は其の爲めなんだ。それでも今度の休暇中に是非型を付けようと思つて、家へ歸つたんだが、一日不愉快で、落ち着かないで、仕樣がないね。兩親と遇ふのが嫌で、用事の外はめつたに階下《した》へなんか下りやしない。と云つて、少しも兩親が憎いんぢやないのだ。つまり兩親の顏を見ると、氣の毒で溜らなくなつて、自分の不幸なのが、悲しくなるんだらう。」

「けれども君は仕合せですよ。お父さんは行き屆いた方だし、美代子さんだつてなか〳〵考へがシツカリして居るし、そんなにヤキモキ心配する必要はないぢやありませんか。安心して、落ち着いて、吉左右《きつさう》を待つて居たらいゝでせう。」

「吉左右が來ると極まつて居れば、安心するけれど、さう譯なく運びさうもないんだよ。向うの家が、さつき話した通りの込み入つた事情なんだからね。」

「どんな事情があつたつて、美代子さんさへ、さう云ふ考へなら安心ぢやありませんか。君はたゞ、神を信じると同じやうに、美代子さんを信じて居ればいゝんです。大丈夫ですよ。吉左右に極まつて居ます。どうしたツて、一緖になれない筈はありません。夫《そ》れ程に二人が思ひ合つて居乍ら、結婚が出來ないなんて噓です。」

眞心の籠つた燃えるやうな舌に說き慰められて、宗一は氣が弛んだのか、遣る瀨ない胸の憂ひが一時に込み上げ、

「こんな所を君に見せちや恥かしいが、僕は美代子が可哀さうで仕樣がないんだ。」

かう云つたまゝ、頭《つむり》を膝の上へ伏せた。

「………美代子は望みがかなはなければ死ぬと云つてるんだぜ。さうなれば、僕だつて死にたいけれど、男は親に對する責任があるから、そんな譯には行かないぢやないか。だから可哀さうで仕樣がないんだ。」

「今から其れ程ガツカリする事はありませんよ。大丈夫ですよ。」

佐々木はうつむいて瞑目しながら、簡單な言葉に力を籠めて云つた。けれども宗一は容易《たやす》く泣き止まない。歔欷《しやく》り上げる聲がだん〳〵忙《せは》しく、遂に梯子段の下まで洩れさうになると、佐々木は狼狽して、女のやうに友逹の背筋を撫でつゝ耳元へ顏を近づけ、

「どうしたんです、君はあんまり悲觀し過ぎますよ。まあ、よく考へて御覽なさい。美代子さんが斷じて餘所へ行かない覺悟なら、いくら親が不賛成でも、結局君の所へ寄越すより外方法がないぢやありませんか。君だつて又、そんなに心配なら、遠慮せずにどん〳〵お父さんに催促したらいゝぢやありませんか。此の場になつて義理が惡いの恥かしいのつて、云つてる際ぢやありませんよ。結婚さへして了へば、結局圓滿に収まるんだから、一時の騷動や衝突なんか頓着しないで、ドシ〳〵押し切つて進んだらいゝでせう。さうなさい、さうなさい。君の生涯に關はる大事ぢやありませんか。」

佐々木の唇から流れでる勸吿の辭《ことば》が、長い〳〵戀の歌でも聽くやうに美しく感ぜられて、宗一は久し振に快くさめ〴〵と泣いた。友逹にこんな手數をかけて、自ら訝《あやし》まれる程淚に搔きくれて、それで漸く此の頃のもしやくしや[#「もしやくしや」に傍点]が輕減されたやうに思つた。

「時に、もう何時でせう。」佐々木は袴の紐にからんだ銀鎖に手をかけて、

「十一時ですね。―――どうです、ちつと散步でもしませんか。」

「ま、飯を喰べて行き給へな。―――ほんとに失敬しちまつた。」

かう云つて、宗一は面《おもて》を擡げたが、まだしやツくり[#「しやツくり」に傍点]が止まらなかつた。

「御馳走になつても宜ござんすけれど、何か喰べに行きませうよ。氣が變つていゝぢやありませんか。」

「ぢや其處まで出かけて見よう。………君、眼の周圍《まはり》がまだ赤かないかい。」

宗一は明るい方へ顏を曝して云つた。

「その位なら判りやしません。」

二人は支度をして、梯子段を下りた。

「もう御歸りでございますか、まあお午《ひる》でも召し上つて………何にもございませんが、宗一、お前お止め申したらいゝぢやないか。」

お品は惶《あわ》てゝ玄關へ送つて出た。

「はい、どうも每度伺ひまして、お邪魔ばかり致します。」

と、佐々木は上り端へ畏まり、叮嚀にお辭儀をして、中腰に立ちかけながら、

「橘君も此の頃はお丈夫で、結構でございますね。ではこれで失敬を致します。私の方は田舎で淋しい處でございますが、川崎へでもお參りに入らツしやいましたら、ちとお立ち寄り下さいまし。」

こんな風に挨拶する所は、質朴なしかしなか〳〵逹者な口ぶりで、お品には末賴もしい靑年のやうに思はれた。

戶外《おもて》へ出ると、佐々木は早速宗一に耳打ちをした。

「何ですね、君のおツ母さんは、話をしながら、始終氣を配つて眼を働かせて居ますね。同じ深切でも、散々苦勞をし盡した、複雜な心から出る深切と云つたやうなところがありますね。」

「君にもさう見えるかな。」

「そりや見えますとも。―――僕のマーザーなんか、人間は正直ですけれど、氣が小さくつて、怒りツぽくつて、其の癖馬鹿に臆病なんです。田舎の家へ知らない男がやつて來て、金を强請《ゆす》つたりなんかしようものなら、忽ち靑くなつて顫へ上るんですからね。何かの時には全く役に立ちませんよ。」

「役に立つ點から云へば、僕のマーザーは實際えらい[#「えらい」に傍点]よ。兎に角箸にも棒にも懸からないやうな道樂者だつた僕の親父を、いゝ工合に操縱して了つたんだからね。母親の云ふ事だと、親父は一言もなく承知しちまふんだ。柔順なやうで、心底は案外シツカリした、惡く云ふと少しずるい[#「ずるい」に傍点]位利口なんだぜ。―――今度の事件なんぞ、親父よりお母《ふくろ》の方が何うかと思ふ。」

「なあに、そんなことはありませんよ。マーザーだつて、お父さんの時分に散々經驗していらつしやるんだから、まさか無闇な壓制はなさらないでせう。」

「ハズバンドが大人しくなつたかと思ふと、今度は子供が心配をかける。―――マーザーも長い間苦勞する人間だ。」

二人はこんな事を云ひながら、中之橋を渡つて、水天宮前へ出た。

人形町の大通りは、もうすつかり新年の裝ひになつて、軒並に松を飾り竹を結び付け、大賣り出しや、福引の旗が方々に飜つて居た。菓子屋の店先には、眞白な、搗き立ての餅が、座蒲團のやうに積み重なつて居る。溝に沿うた露店の筵には、輪飾り、穗俵《ほんだはら》、蝦、裏白などが、所狹う展がつて居る。羽子板を冷やかす客、寄切《よせぎ》れを見る女、いろ〳〵の人間が忙はしげに歲晚の町を右往左往する。

「おい、君、何處へ飯を喰ひに行かう。」

大觀音《おほぐわんおん》へお參りをして、出口の石段へ戾つて來ると、宗一はかう云つて立ち止まつた。

「何處でもよござんす。―――君はこゝいらをよく知つてるぢやありませんか。」

「うまい物を喰ひに行くのか、落ち着いて話がしたいのか、どつちだね。」

「此の邊の喰ひ物なら、僕には何だつてうまうござんすよ。靜かな、話の出來る所がいゝぢやありませんか。」

田舎者を標榜《へうばう》する佐々木は、江戶趣味の野村と違つて、花村なぞよりいつそ洋食屋の二階の方がいゝらしかつた。

宗一は末廣か鳥安へ行つて、久しぶりで好物のあひ[#「あひ」に傍点]鴨を喰べたかつたが、靜かなところと云ふ注文に懸念《けねん》して、茅場町の藥師の地内の丸金へ案内した。

下戶の佐々木が相手では、杯の數も進まず、鍋をまん中に、一本半ばかりビールを飮むと、直に飯を取つた。格別會談の興を添ふ可き話柄《わへい》も盡きて、二人は折々默つて了つた。一時間程で、其處を出ると、佐々木は鎧橋の袂で、

「それぢや、失敬しませう。」

と、云つた。

「まあ、もう一遍家へ來ないか。」

それでも獨りになるよりはいゝと、宗一は思つた。

「又にしませう。此れから丸善へ廻つて、買ひ物をしなけりやなりませんから。―――ところで、さツきの勘定は幾らでした。」

「あれはいゝんだ。」

「いゝえ、僕に半分出さして下さい。」

かう云つて、佐々木は一圓なにがしの錢を無理に宗一の手へ渡して、逃げるやうに駈けて行つた。

取引所の角から、兜町の方へ消えて了つた友逹の後姿を見送つて、宗一は再びとぼ〳〵と步を移した。鎧橋の左右に伸びた川筋の、一方は永代、一方は魚河岸の果てまで、毛程の曇りもない空が、秋の水のやうに冴え渡つて、石版刷の繪の色を想ひ浮ばせる。紅葉川の分れ口にある古い西洋館―――澁澤事務所の屋根から三四尺上に輝く日光が、鋸の齒を並べたやうな小網町河岸の土藏の壁に、まざ〳〵と黃色く漂つて居る。―――彼は、ふと、少年の折の事を考へ出した。七つ八つの時分、丁度肩の高さぐらゐある此の橋の手すり[#「手すり」に傍点]に掴まつて、足許を通る往來《ゆきき》の船を、ヂツと瞰下した事が度々あつた。橋桁の底へ潜つて行く船を視詰めて居ると、船が動かないで、橋が前進するやうに思はれる。其れが子供心に面白くつて、一艘、二艘、三艘と、次ぎから次ぎへ漕ぎ寄せる船を待ち構へつゝ、つめたい鐵の欄杆が自分の頤で溫まるまで、長い間眺め暮らした。其の頃の西洋館と云へば珍らしくつて、あの澁澤事務所の圓い柱や硝子窓が、どんなに彼の好奇心を募らせたであらう。いまだに彼はあの建築を見ると、西洋の封建時代の城砦に附隨するやうなローマンスを胸に描く。河竹默阿彌の脚本「島《しま》鵆《ちどり》月《つきの》白波《しらなみ》」に現はれたやうな、明治初年の風俗を憧憬する。

それから十五年あまりも歲月が立つて、自分はこんなに變つて了つた。二十一歲の暮も、あと五晝夜過ぎれば終りを吿げる。―――宗一に取つて、今年ほど忘れられぬ年はあるまい。去年の秋から持ち越した肋膜の大病が漸く直つて命拾ひをしたのも今年である。初戀の味を舐めてから、此れまでの人生觀が動搖し出したのも今年である。茅ケ崎から歸つて半年の間に茶屋酒を飮む度胸も附いた。親を欺く行為もあつた。贅澤な金の遣ひ方も覺えた。戀と學問とを、同じ程度に尊重する積りであつたのが、健康を恢復してから、彼はどれだけ勉强をしたであらう。どれだけ讀書をしたであらう。年内に讀破する決心で、手帳へ書き連ねた十二三册の書目のうち、一册として片附いたものはないではないか。去年の今日に比較して、どのくらゐ獨逸語は進步したらう。どのくらゐ單語の數を餘計知つたらう。功名と云ふ事、事業と云ふ事、其れ等を悉く忘却して、自己の全部を美代子に捧げて了ふ程、彼は自分を女々しい男とは氣が付かなかつた。

美代子の話は美代子の話として、此れから斷然勉强しなければならない。片時の猶豫もなく、直に家へ歸つて、讀書に取りかゝらなければならない。―――かう張り詰めて見るものゝ、二三町步く間に勇氣が沮喪《そさう》して、到底實行し難い事のやうに感ぜられる。問題の解決がつかぬうちは、失神した人間も同然である。美代子と完全な握手が出來ない以上、當分宗一の復活する道はなかつた。

銀杏八幡前へ來た時、彼は深い沈思の底から泛び上つて、體中の意識をハツキリさせて、あたりを見廻した。電車が二三臺置きに滿員の赤札を下げて、一杯の人數を運びながら、凄じく走る。切山椒《きりざんせう》を買ふお客が、多勢三原堂の店先へ押しかける。誰も彼も追ひ立てられるやうな顏をして、動いて居る。宗一は野路に行き暮れた旅人の如く、賑やかな四つ辻のまんなかに茫然と彳んだ。

此れから何處へ遊びに行くと云ふあて[#「あて」に傍点]もない。家へ戾つて、夜になるまで、どうして時間を送つたら好からう。………彼は退屈凌ぎに、新年の雜誌を二三册|漁《あさ》り求めたが、かう云ふ時の暇つぶしには年始狀でも認めるのが一番いゝと心付いて繪葉書を三十枚と、書き好ささうな古梅園の毛筆を二本買つた。歸つたら早速、二階の書齋に端坐して、硯の墨を濃く擦つて眞白な紙の面へ「恭賀新年………」と揮毫《きがう》する樂しさを想像しながら、宗一は俄かに活氣づいて道を急いだ。

「唯今。」

と云ひつゝ、玄關の障子を開き、六疊の間を跨いで行かうとすると、お品は其處に裁板《たちいた》を置いて、獨りで火熨《ひの》しをかけて居た。

「佐々木さんはお歸りなすつたのかい。」

「えゝ、つい[#「つい」に傍点]鎧橋のところで別れました。」

宗一は少し烟つたさうな面持ちをして梯子段の上り口に立ちすくんだ。

「ちよいとお前に話しがあるんだが。………」

まあ、此處へ來て坐れ。と云ふやうに、お品はちらりと宗一を見て、

「此の間お父さんから聞きましたが、出來る事ならお前の望み通りにして上げたいけれど、なか〳〵チヨツクラ行きさうもないんだよ。正月になつて嫌な話をするでもないから今の中に云つて置くがね。………」

「とても駄目なんでせうか。」

かう云つて、宗一はパタリと母の傍へ腰を落した。

「さうも云へないが、美代ちやんのおツ母さんが不承知らしいから、私やむづかしからうと思ふ。お父さんも心配なすつて、今月になつてから、二三度小田原へいらしつたんだよ。いろ〳〵手を換へ、品を換へてお賴みなすつたらしいけれど、何しろお綱さんは、若い時分から剛情な人でね。自分が斯うと云ひ出したからは、後へ引くやうな性分ぢやないんだもの。」

聞いて居るうちに宗一は、身が沈んで行くやうな、果敢《はか》なさ、便りなさを覺えて、悲しみが胸一杯に充滿した。

「わたしも美代ちやんなら差支ないと思ふし、殊にお前がさう云ふ考へだから、成る可く纏めるやうにしたいと思つたんだけれど、先方が許さない以上は、仕方がないぢやないか。お前、何とか考へ直して見る氣にはならないかい。」

「ほんとに駄目となつたら、考へ直すも直さないもありません。―――しかし、それでも、もう一遍賴んで下さる譯には行きませんか知ら。」

「そりや、春にでもなつて、又折があつたら話しても見よう。今のところ、お父さんだつてお忙しいから、さう〳〵小田原へもいらつしやれやしないよ。」

「私は決して急ぎませんから、兎に角もう一度お話しなすつて下さい。小田原の方だつて、美代ちやんが飽く迄聟を貰ふのを拒めば、いつか折れる時が來るでせう。いよ〳〵駄目だつたら、私は其の時まで待つてもいゝ積りなんです。」

「其の後、美代ちやんから手紙でも寄越したのかい。」

「あれきり音信《いんしん》不通になつて居ます。―――何も彼もお父さんにお任せした以上、當人同士は直接に往來しないと云ふ約束をしたんですから。」

「何卒此れからもさうしておくれ。本来ならかうなる前に、私の耳へ入れてくれゝばよかつたんだよ。それをお前が蔭へ隱れて、内々美代ちやんと相談なんかしたものだから、向うでも少しは氣持を惡くしたんだらう。今となつて、其れを云つても仕樣がないがね。―――たゞ私が心配するのは、お前が待つと云つたところで、此れから先何年かゝるものか判らない。美代ちやんだつて、だん〳〵月日が立つうちには、どう變らないとも限らないから、一途に其れをあて[#「あて」に傍点]にすると、飛んだ間違ひが起ると思ふ。」

「しかし、私は美代ちやんの性質から考へて、其の點だけは疑はないんです。」

「いゝえ。此ればかりはナカ〳〵當人の思ひ通りに行かないものなんだから、いくら美代ちやんが其の積りで、堅い約束をしたからツて、先の事は判りやしないよ。當人同士は勿論、親と親とが立派に取り極めた許嫁でさへ、五年十年と立つうちには隨分破談になるぢやないか。お互に明日が日貧乏するかも知れないし、いつ何時病氣にかゝつて、死なない迄も片輪になるとか、一生直らないとか、―――そんな事があつてくれちや大變だけれど、人の身の上はどうなるか判らないんだから、其の時になつて、以前の約束を楯に取る譯にも行かなくならあね。それに女は氣が弱いから、親に手を合はされて、拜まれでもして御覽、いつ迄强い言《こと》も云つて居られないから。」

「私だけは、どんなに境遇が變つたつて決して違約しない積りです。けれども先がそんな薄情な眞似をするかどうか、其の場にならなければ何とも云へませんが、若しさうなつたら、私もキツパリ思ひ切ります。」

「お前は一槪に薄情と云ふけれど、さうばかりも云へやしないよ。だん〳〵年を取つて見れば解る事だが、いくら當人は一緖になりたくツても、據んどころない事情が澤山出來てくるのだから。―――私や兎に角、一旦あきらめて貰つた方がいゝと思ふ。さうして、お前が大學を卒業する迄には、五六年もあるのだから、其の後になつて、双方の心が變らないで居るやうだつたら、改めて話をしてもいゝぢやないか。何にしても、こゝのところ、當分そんな話は忘れちまつて、學校の方に精を出すと。さう云ふ風にしてくれないかね。」

宗一は何と答へてよいか、當惑して、眼の前に坐つて居る母親の白足袋の裏を視詰めながら、狛犬のやうに蹲踞《うづくま》つて兩手をついて、「宜しうございます。そんなら一旦あきらめて了ひます。」―――かう答へたら、勿論母は滿足する。前後の行き掛りが、自分に此の答へを、血を吐くやうな此の答へを餘儀なくせしめて居る。親に安心を與へる爲め、たつた一と言云つて了へば濟むのであるが、宗一には其れが口惜しかつた。眞の覺悟が極らないのに、一時逃れの挨拶をして、お茶を濁すのは快くなかつた。

「あきらめなければならない時が來れば、私も男らしくあきらめますから、もう暫くお見逃しなすつて下さい。いろ〳〵御心配をかけて濟みませんが、今のところ、まだ早計のやうに考へられて、どうもそれ程にする氣にはなれないんです。其の爲めに學校を怠けるとか、手紙の遣り取りをするとか、そんな不埒《ふらち》な眞似は一切致しません。以前の通り勉强もします。品行も愼みます。唯私が心の中で思つて居る事だけ、許して頂きたいんです。此ればかりは忘れろと仰しやつても、またいくら自分で忘れようとしても、容易に忘れられるものぢやないと思ひます。」

「忘れられない、忘れられないと思つて居るから、駄目なんだよ。お前の氣の持ちやう一つで、どうにでもなる話ぢやないか。―――出來ないと云ふなら、無理にとは言はないが、それで學校の方が疎《おろそ》かにならないかね。口ではさう云つたツて、女の事に氣を腐らせたりなんかした日にや誰でも怠け癖の附くものだよ。みーんなさう云ふのが原《もと》で、道樂を始めたり、財產を失くしたり、しまひには墮落をして了ふのさ。今時分から、色の戀のツて嫌らしい騷ぎをするやうぢや、ナカナカ出世は出來やしない。………」

母はクド〳〵と意見しながら、始終せはしなく手を働かせ、細々《こま〴〵》した着物の布《きれ》を根《こん》よく取り出して、順々に火熨斗《ひのし》を掛けて居たが、其れが濟むと、やがて長火鉢の傍へ立て膝をして、煙草を吸ひ始めた。態度と云ひ、調子と云ひ、別段氣色ばむでもなく、憎らしい程落ち着いて居る。

「お前は敎育のある人間だから、よもや間違ひはないだらうけれど、どんな利巧な者だツて、女の事では無分別が起るものなんだから………」

父にも母にも、「敎育のある人間」と言ふ言葉を、宗一は何囘聞かされるだらう。「敎育のある人間」は、心が鐵にでもなるのか知らん。

「勉强だけは必ずするから大丈夫だ、なんと思つたツて、其の通り行くものぢやないんだから御覽。ほんとに今が肝腎の時だよ。よウく考へて何かしないと、一つグレ出したら、一生の損になるよ。お前だつて、お父さんの若い時の事を知つてゐるぢやないか。それでも中途で眼がお覺めなすつたから、漸く取り返しがついたものゝ、今だつて、家は決してお祖父さんの時分の樣に好くないんだよ。わたしやいまだに、お父さんがあんな道樂をなさらなかつたら、もう少し何とかなつて居るだらうと思つて居る。―――お父さんも御自分に覺えがおあんなさるから、此の頃はお前の事をどのくらゐ心配していらつしやるか判りやしないよ。」

其の時臺所に續いた障子を開けて惡いところへ打つかつたと云ふやうに、お兼が恐る〳〵顏を出した。

「あの、おかみさん鐵瓶が沸騰《にた》ちましてございますが、後へ何をかけますんですか。」

「伽羅蕗《きやらぶき》を煮るんだから、さつきのお鍋を掛けといておくれ。今わたしが行つて見ますから。」

母はぽんと煙管をはたいて、

「まあ、こんな事は當人の心次第で、ハタがいくら八釜《やかま》しく云つても無理な話だから、二三日とつくり[#「とつくり」に傍点]考へて見るさ。わたしが此れ丈云つたんだから、お父さんは改めて何も仰しやるまいと思ふ。」

かう云つて、立つて行つた。

どうなる事かと案じて居たのに、辛《から》くも放免されて、宗一は胸を撫で下ろしながら、逃ぐるが如く梯子段を上つた。さうして買つて來た雜誌や繪葉書を机の上へ放り出して、惱ましげに腕組をしたまゝ、書齋の中をグル〳〵と廻り始めた。丁度三廻りばかりして四度目に本箱の前へやつて來た時、パツと電燈のあかりがついた。まだちつとも暗くならないのに細い赤いカーボンの線が電球の中にぼんやり光つて居るのを見ると、心がせか〳〵と焦ら立つやうに感ぜられて、彼はいきなりパチリとスヰツチを拈り返した。

「お父さんは、改めて何も仰つしやるまいと思ふ。」

―――此の言葉から察すると、母は明らかに父の意を體して、伜に忠吿したのであらう。事に依つたら、父の寛大を齒痒く思ひ、母が自ら進んで、憎まれ役の衝《しよう》に當つたのかとも邪推される。放任主義の父の遣り方としては、少し干渉し過ぎるやうである。父だつて昔の事を考へたら、そんなに强い事を云へる筈がない。色戀に關して立派な口が利けるのは、自分だけであると云ふ地位を利用して、母は伜の監督權を父の手から奪ひ取つたのであらう。………

戶外《おもて》を步いて居た間に、火鉢の炭がすつかり灰になつて、部屋はしんしん[#「しんしん」に傍点]と凍切《こゞえき》つて居た。寒さがうら寂しい彼の心に沁み徹つて、一層悲しく情ない感慨を催さしめる。何にしても、此の惶しい歲晚の五日間が早く過ぎてくれればいゝ。正月になつて、一陽來復の春めいた景氣に出會つたならば、少しは氣分も引き立つであらう。………彼があれ程苦に病んで居た問題が、こんなに突然、こんなに雜作なく、且こんなに不得要領の結末を吿げようとは思はなかつた。もう家に燻つて居る必要はないのだから、若し兩親が許すならば、彼は何處へなりと旅行に出かけて了ひたかつた。

出かけるならば、人里離れた山奧の、雪に鎖された溫泉宿へ籠りたい。眞綿のやうな雪がこんこんと降り積つて、谷を埋め川を塞ぎ、庇の垂氷《つらゝ》の三四尺も下るやうな一軒家に隱れて、戀の炎を封じ込めて了ひたい………。

九

冬の休暇になつてから、中島と淸水は歸省して了ふ。野村と大山は旅行に出かける。山口は千駄木の安下宿へ移る。杉浦一人が、寄宿寮へ踏み止《とゞ》まつて、朶寮一番の寢室を我が物顏に橫領して居た。年末のソハ〳〵した空氣も、向陵の門内へはまるきり吹き込まない。授業の鐘は鳴らず、朝寢坊の邪魔は這入らず、いつも蒲團を敷き放しにして、森閑とした晝の靜けさに無聊を喞ち、夜になれば山口を誘つて、銀座通や淺草公園や、下町の賑やかな景氣を見物に步く。其のうちにとうとう大晦日の晚となつて、しよざい[#「しよざい」に傍点]なさに宵の九時頃から眠つて了つた。

元日の朝は彼も例になく早く起きて、國許から屆いた地織木綿の綿入の紬《つむぎ》の紋附を重ね、少しばかり身じまひを整へて食堂の雜煮を喰つた。寒い事は寒いが、風が止んで空が晴れて、申し分のない天氣である。保證人の家と、縣の寄宿舎と二三軒年始に廻つて、それから橘でも訪ねようか知らん、と思つて居る所へ、

「おめでたう。」

と云ひながら、山口が飛び込んで來た。此れも珍らしくさかやき[#「さかやき」に傍点]を剃《あた》つて、靑々とした髭の跡を撫でながら、至極涼しさうな顏をして居る。親讓りの古物らしい縞絲織の羽織に、嘉平次の袴を穿いて、妙にピカ〳〵と取り濟ました樣子である。杉浦は一と眼見ると、何も云はずに腹を抱へて吹き出しかけた。

「何を笑うとるんぢや、杉浦さん。」

「だツてあんまり可笑しいからよ。お前のさうやつた處は、どうしたツて私立大學生だぜ。一體何と思つてソンナ服裝《なり》をして來たんだよ。實際不心得千萬な男だ。」

「不心得千萬だツて、今日は正月ぢやがな。君も何だかめかし[#「めかし」に傍点]とるぜエ。」

「いや、僕のは何でもないさ。―――お前の着物は、そりや一體何だい。いやに絢爛の美を極めてるね。」

「ふむ、此れか。」

と、山口は得意らしく自分の胸を俯向いて見て、

「こりや、昨夜まで質に入れてあつたんぢや。―――ゆうべ漸う煙草屋の娘に工面させて、出して來たんぢや。」

「へーえ、もうそんな事を始めたのかい。―――其の後何か面白い事でもあつたのか。」

杉浦は年始を其方除けに、落ち着き拂つて其の場へ坐り込んで了つた。

「面白いよりは、少し大變な事件が起つとるんぢや。こりや未だ君に話したうもないがな。」

「構はないから、話して了ふさ。なんだ大事件と云ふのは。」

「煙草屋の娘に別な男のあるのを發見したんぢや。」

話したうもないと云ひながら、山口は直ぐと口をすべらして、

「詳しい事を云うてもいゝが、何處か戶外で飮まうぢやないか。君、正月だから、わしに酒を御馳走せい。―――それとも年始に行くのかな。」

「年始なんぞ、いつでもいゝんだ。これから橘の處へ行つて御馳走にならう。―――先生此の頃は屈託してるから、大槪今日等は内に燻つて居るよ。」

實は杉浦も、遲延に遲延した授業料を漸く二三日前に納めた爲め、正月早々一圓の小遣ひすら持つて居なかつた。

二人は空屋のやうな學校の門から連れ立つて、春めいた本郷通の大道へ出た。去年の暮から飾り付けた門松も、今は一と入整然として、さすがに町は陽氣である。

「此の前の冬は故國《くに》へ歸つて知らなかつたが、やつぱり東京は面白いなあ。」

と、杉浦は小首をかしげて、しきりに都會を讚嘆する。

「橘さんの近所はモツト面白いぜ。わしや芳町の藝者の姿が拜みたうてならん。」

山口の口にかゝると、藝者と云ふ者はまるで神樣のやうに、貴く有難く取り扱はれて居る。

電車の中も、山高帽や七子《なゝこ》の紋附や、酒臭い息の男が澤山乘り込んで、赤い顏を並べて居る。淺草橋から兩國を過ぎて、追ひ〳〵下町へ入つて來ると、

「ほう………。」

と、山口は時々黃な聲を發して、戶外を指さしながら、

「ちよいと杉浦さん、あれを見い。下町の娘は綺麗だなう、何處となく垢拔けがしとるから不思議ぢやなあ。」

かう云つて、恐い程眼を見張つて、念入りに目的物を睨みつける。

屠蘇《とそ》の醉の廻つたらしい廻禮の人々が通る。塗り立てのゴム輪の俥が何臺も往來する。立矢《たてや》の字《じ》に萌えたつやうな鬱金《うこん》の扱帶《しごき》をだらりと下げた娘逹が、カチンカチンと羽子《はね》を衝いて居る。皮羽織を着た鳶の頭が、輪飾りの下を潜つて、手拭ひを配つて步く。獅子舞ひの太鼓の音、紙鳶《たこ》の唸り。―――人形町は水天宮の緣日で、殊に雜沓が夥しい。山口の樂しみにして居た芳町の藝者が、出の着物を着飾つて箱屋を從へ、彼方此方の新道から繪のやうな姿を現はす。

濱町へ訪ねて行くと、果して宗一は在宅であつた。

「やあ、おめでたう。―――何卒二階へ。」

と、機嫌よく云ひながら、玄關に飛んで出て來た。

家の前には、虎の皮の褥《しとね》や、びろうどの膝掛けが着いた嚴《いか》めしい人力が二三臺待つて居た。立派な疊表だの柾目の正しい男物の下駄が、踏み石に一杯揃へてあつて、突き當りにある萬歲の衝立の向うには、五六人の年始の客が落ち合つて居るらしい。宗一の母と思はれる女の聲と、客の男の笑ひ聲とで、賑かな座敷はゴタゴタに賑はつて居る。

丁度二人が宗一に案内されて、廊下の方から曲らうとする時、衝立の後の襖がスラリと開いて、

「や、それでは、もう此れで御免を蒙ります。」

と、美々しく盛裝した五十恰好の男が、仙臺平の袴をキユツキユツと鳴らしながら、玄關の帽子掛けの下に立つた。

「宗一ツつあん、お友逹がおいでゞげすかな。」

かう云つて、獵虎《らつこ》の襟卷を結んで、外套を肩に、ちよいと反身《そりみ》に構へて見せる。髮の脫け上つた、赤ツ鼻の、氣の好ささうな爺さんである。

「………唯今おツ母さんに伺ひましたが、昨年あんなにお病《わづら》ひなすつたのに、學校を及第なすつたつてえなあ、驚きやしたなあ。もう再來年《さらいねん》は、大學だてえぢやありませんか。」

「えゝ、お蔭樣で。」

「ふうん、早いもんですなあ。」と、鼻の穴を膨らがして、二三度頤を强く引いて、

「なんしろ、お父さんはお樂しみだ。何ですぜ、ちとお休み中に宅へも遊びに入らつしやい。ね、ようがすか、三日の晚に娘逹が骨牌會《かるたくわい》をやるさうだから、其の時がいゝ。」

こんな事を云ひながら、例の虎の皮の俥へ乘り移るや否や、顏を平手で撫で下すと同時に、きちんと取り濟まして、梶棒を上げさせた。

「學校を及第なすつたてえなあ、驚きやしたなあか。」

杉浦は廊下を案内されながら、口眞似をして、

「ありや一體何處の爺さんだい。」

「やつぱり兜町の人間さ。大分醉拂つて居るんだ。」

「醉つてるかも知れんが、好い年をして、滑稽な人間が居るねえ。―――橘宗一君も、下町へ來ると嶄然《ざんぜん》頭角を露はして、秀才面をして居るから面白いナ。」

「けれども、三日に骨牌會のあるのはいゝぜエ。橘さん彼《あ》の人の娘は別嬪かどうぢや。」

三人縱に並んで、窮屈な螺旋の梯子段を上る時、一番下の方から山口が云ふ。

「そんなによくはないよ。」

「しかし、君は行くんぢやらうがな、どうだ、わしも連れて行け。」

「お前のやうな惡黨は、女の居る所へはとても連れて行かれないよ。新年早々、煙草屋の事件に就いて、非道い報吿を齎して來てるのを、橘は知つて居るか。」

三人は二階へ上つて、蒲團に坐るまで、始終休まず話し續けた。宗一も久し振で心配を忘れたやうに、元氣よく語つた。

「ひどい報吿と云ふのは何だい。」

「煙草屋の娘に立派な男があるんださうだ。山口は道德上 Adultery を犯して居るんだから怪しからん。」

杉浦は居丈高になつて說明し始める。

「まあ、其の話は止してくれや。わしや君に云はんと置けばよかつた。」

「云はんと置けばよかつたつて、そりや知れるから駄目だよ。惡黨も惡黨、他人の女を押領《あふりやう》するとは、實際驚きやしたなあ。」と、又爺さんの口眞似をして、

「どうせ判つたんだから、酒でも飮みながらすつかり白狀したら好からう。―――橘どうだい、山口を少し醉はせないか。」

「うん、御馳走してもいゝ。」

今迄書生の友逹が訪ねて來ても、酒だけは出した例《ためし》がないから、母が許すかどうであらう。宗一は其れを危ぶんで、若し許さなかつたら、近所の鳥屋へでも飮みに行かうと、腹を極めた。さうして、階下《した》へ下りて行つて、

「おツ母さん、ちよいと。」

と、客間の外の緣側から呼んだ。

「お友逹に何か御飯を出してくれませんか。二人共お酒が行けるんですが、飮ませちやいけませんか知ら。」

「さうさね、みんな大學の方なんだらう。」

母は襖の間から、首だけ出して、

「修行中はマア止した方がいゝけれど、不斷と違つてお正月だから、上げるならお上げなさい。お重に辨松《べんまつ》の料理があるから、有り合せ物だけれど、あれでもお肴にしてね。―――お兼に云ひ附けて、支度をさせたら宜からう。」

かう云つて、承知してくれた。

やがて三人は二階で杯の遣り取りを始めた。

「君ン處の酒はいゝ酒だなあ。此れで漸く正月らしい氣持になつた………。」

「山口を醉はせるんだ。」と宣言して置きながら、一番先に杉浦が醉拂つて、

「おい、早く一件を打《ぶ》ちまけたらいゝぢやないか。」

と、執拗に肉薄する。

「話してもいゝが、Adultery などゝと云はんでくれや。そりや多少不道德な行爲かも知れんが、わしや始めに男のあるのを知らなかつたんぢや。娘は最近になるまで、其れを知らせなかつたんぢや。つまりわしが娘に欺されたんぢやと思ふ。」

「あんまり欺される柄でもないぜ。」

「ま、さう云はないで。」

と、宗一は制して、

「しまひまで默つて聽く事にしよう。其の男といふのは何者だい。」

「大學生ぢや。」

「大學生ツて、帝大なのかい。」

「帝大ぢや。其奴の事はあんまり尋ねんで置いてくれ。あの娘は家が貧乏の癖に、女學校へ通つて居るんぢやが、其れはみんな男の方から學費を給してやつとるんぢや。なんでも大學生があの娘に惚れ込んで、女學校をやらせる代りに、エンゲーヂしたいんぢやさうな。尤も娘は不服ぢやさうなが、親父が壓制的に取り極めるかも知れんと云ふ。」

「ほんたうに不服だつたか何《どう》か、あンな娘の云ふことがアテになるかい。」

杉浦が嘴を入れた。

「いや、そりや恐らく本當なんぢや。親父と云ふ奴は、極く舊弊な頑固な人間だから。―――兎に角、現在は其の男よりわしの方に惚れて居るのは確かなんぢや。」

「そりや女の事だもの、一遍でも關係のあつた方に惚れるのは當り前さ。何と云つてもお前の誘惑したのが惡いんだよ。」

「惡くないと云やせんが、娘だつて隨分不都合なところがあるぜエ。關係のあつたのは、わし斗《ばか》りぢやないんぢや。ありや恐ろしい淫婦ぢやがな。」

「君と不都合のあつた事が、もう男へ知れちまつたのかい。」

「そんな、露顯するやうなヘマはやらんよ。此れから先、萬一氣が付いたつて、證據がなけりやどうもならん。」

山口は傲然と空嘯いて、杯を唇にあてた。醉が廻つて來たと見えて、以前のやうに悄氣《しよげ》ては居ない。襟頸から耳朶《みゝたぼ》の緣を好い色にさせて、眉毛まで眞赤に染まりさうになつて居る。

「お前、此れから先も、依然として繼續する了見なんだらう。」

「うん、さうぢや。」

あたり前だと云はんばかりに、山口は輕く頷いて、

「判りさへせんけりや、當分吉原へ行かんでも濟むだけでも得ぢやらうがな。」

「ひどい奴だなあ。」

杉浦はわざと仰山《ぎやうさん》に、甲走《かんばし》つた聲を出した。

「ヘマをやらん積りだつて、長い間にはきつと知れるに極まつて居るから笑止千萬だ。ほんとだぜ、山口、好い加減に止した方がいゝぜ。」

「さう頭からケチを附けんでも好からう。―――君はわしの事を一々ケナシ居るが、そりやどう云ふ譯なんぢや。をかしい男ぢやなあ。内々面白がつて居る癖に、口ではモーラリストのやうな事ばかり云うて居やがる。―――杉浦さん、惡い事を云はんから、君一遍道樂をせい。君は利口な男なんぢやから、少し道樂をすると、屁理窟を云はんやうになる。」

「餘計なお世話だよ。道樂をしなくつても、お前の氣持ぐらゐ大槪解つて居るよ。………」

二人は川甚の二の舞を演じさうに、凄じい顏をして睨み合つた。

「僕は決してモーラリストぢやないが、無理に道德に反抗して痛快がつたり、新らしがつたりするのは、今ぢやもう古いよ。實際無意味な話だよ。今日の社會は、さう云ふ生半可《なまはんか》の近代人の多きに苦しんで居るんだから、道德に遵奉しない迄も、何とか新機軸を作らんけりやあならんね。僞善の人を誤るよりも、寧ろ僞惡の人を誤る方が、どのくらゐ有害だか知れやしないぜ。世間では多く功利主義の道德を目して僞善と云ふけれど、其のくらゐの程度の道德を持つて居ることは一應必要だらうと思ふ。勿論其れが、根柢のある人生觀の上に築かれて居なくつても差支ないんだ。寸毫も自己の Sincerity を傷つけやしないんだ。」

かう云つて杉浦は眞面目になつた。

「さう云ふ話は、わしにやよく解らんがな。」

と、山口は默つて了つた。到底議論をしても、抗はないとあきらめたらしい。

「橘、君は嘗て佛敎か耶蘇敎の信者になつたことがあるのかい。」

杉浦は山口の相手にならぬのを見て、今度は宗一に話しかけた。

「佐々木にかぶれ[#「かぶれ」に傍点]て、二三度敎會へ出入りしたが、其れも僅かの間だよ。今ぢや全く信仰なんか持つて居ない。―――僕なぞは宗敎に賴つて生きて行ける人間ぢやないんだが、一時熱に浮かされたんだね。クリスチヤンを標榜して居る時代でも、今考へると本當の信仰があつたか何《どう》か、怪しいものさ。」

「佐々木はいまだに信者なのかい。」

「先生も僕が止めようとした時には散々忠吿した癖に、いつの間にか還俗《げんぞく》したから可笑しいよ。しかし思ひ切りが惡くつて、『僕にはどうも神の存在を全然否定する氣になれない。』と云つて居るがね。一體何かに感じ易い男なんだから、いまだにエマーソンやカーライルを讀めば、直ぐと動かされるんだ。どうしても彼は文學者よりプリーチヤーの方が適任だね。―――ま、あゝ云ふ人間は、始終何かに刺戟されて、緊張したライフを送つて行けるだけ幸福だよ。」

「あんまり幸福でもないさ。―――そんなライフは煩悶が少くつて氣樂かも知れないが、決して羨ましいとは思はんぜ。何の爲めに僕等は學問をしたんだ。何の爲めに僕等は知識を要求したんだ。われ〳〵はモウ少し眼を高い所に据ゑて、努力を續ける必要があるよ。神を信じたり、女に惚れたりして、濟まして行かうとするのは恥づ可きことだ。苦しくつても淋しくつても、光榮ある孤立を維持して行く人間があつたら、それが一番えらい[#「えらい」に傍点]んだ。僕の如きは、たしかに其の一人たるを失はないね。」

酒臭い息と一緖に議論を吹き掛けながら、杉浦は肩を怒らし、眼をむき出して夢中になつて居る。傍若無人に滔々と喋り捲くる樣子は、あんまり苦しくも、淋しくもなさゝうである。さうして、時々ガブリ〳〵と水でも飮むやうに酒を呷つた。

「かう見えても、實際僕は寂しい人間だよ。山口が Adultery をする。橘が美代ちやんを追つ駈ける。佐々木が春子を振つたり惚れたりする。此の間に處して、僕の孤立は眞に偉とするに足るね。野村江戶趣味とか、淸水クリスチヤンのやうな眼の低い連中は、彼等相應のライフに甘んじて居るからいゝが、吾輩不幸にして眼識一世に高く、天下に賴る可き何物の價値をも認めない爲めに、斯くの如く孤立して居る。どうだいえら[#「えら」に傍点]からう。」

かう云つて、盃を置いてごろりと橫になつた。

宗一も杉浦の氣焰を聽きながら、知らず識らず量を過ごした。額の皮が、鉢卷をしたやうに痺れて、動悸が激しく體中へ響き、坐つて居てさへ、ふら〳〵と眩暈が起る。舌の附け根から、不快な生唾吐が湧いて、口中が引き締められるやうである。こんなに醉つたのは生れて始めてゞあつた。

後の二人もやがて橫になつて、パチ〳〵と豆を炒《い》るやうな追ひ羽子の音を遠くに聞きつゝ、のどかな元日の晝をとろ〳〵[#「とろ〳〵」に傍点]と眠つて了つた。

十

十二月の試驗の結果が、本館の廊下の壁へ貼出されたのは、七草の頃であつた。淸水は豫期の通り野村を追ひ越して、英法の一の組の主席を占めた。野村は三番、杉浦は四番、宗一が八番。―――英文の方では大山が主席になつて、朶寮一番の連中はみんな中以上の成績を贏《か》ち得た。

淸水は遇ふ人每に冷かされて、

「いや、アレは君、全く僥倖《げうかう》に過ぎないよ。全體試驗なんてものは Lottery のやうなものだから、あれで實力を測ることは出來んさ。」

と、言ひ譯して廻つて居る。宗一はいつかの日記の事件を想ひ出して、小憎らしいやうな、をかしいやうな心地がした。

野村は主席から三番目まで落ちたにも拘はらず、格別悲觀して居なかつた。ふだん自分の頭腦の許す範圍で、急がず騷がず氣樂に勉强して、大槪相当な成績さへ得れば、それほど不平はないのであらう。

「野村は人が好いだけあつて、胸にこだはり[#「こだはり」に傍点]がないから、每日コツ〳〵勉强して居られるんだね。試驗になつても、別段惶てないで、可なり成績のいゝところは、模範學生だよ。尤も學問に對する頭は、元來惡くないんだらう。」

と、惡口屋の杉浦も感心して居る。

しかし杉浦自身が遊び放題遊び暮らした上、僅か四五日準備したゞけで同級生四十人中の四番目に居るのは、最も不思議な現象であつた。

「君は實際いゝ頭を持つて居るなあ。」

かう云つて宗一が感心すると、

「それはさうさ、君は僕の頭の好い事を今知つたのかい。」

と、得意の鼻を蠢かして、

「それより山口の成績のいゝのが、餘程氣拔だよ。每日のやうに女を買つて居て、よく元氣が衰へないもんだね。」

こんな事を云つた。

成る程、山口は佛法の十二三番に踏み止《とゞ》まつて居る。英文科一年の佐々木の方は、春子の一件が打擊になつたと見え、前學期より二三番下つて、まんなか頃に挾まつて了つた。

今迄にない懶惰《らんだ》な生活を送つた報いに、嘸かし醜《みぐる》しい成績を見るだらうと懸念して居た宗一は、相變らず十番以内に入れたのを意外に感じた。頭腦の好い證據とするよりも、寧ろ在來の惰勢の結果とする方がたしからしかつた。けれども此の惰勢がどれだけ續くものであらう。美代子の問題に埒が明かぬ限り、此の放逸な狀態が改まらないとしたら、來學期の慘めさはどんなであらう。其の場合を想像すると、小學校以來一度も十番以下に甘んじた經驗のない彼の自尊心は著しく傷つけられた。

「しかし君なんざ、少しぐらゐ遊んだつて大丈夫だから、心配はないぢやありませんか。―――それより僕の方がどんなにミゼラブルだか、考へて御覽なさい。」

佐々木は其の朝、運動場で宗一を捉へると、慰めがてらいろ〳〵な愚痴をこぼした。彼は宗一よりも一層神經質なだけ、成績の不良に殊更胸を痛めて居た。

「春子の事があつたりすると、とても本なんか讀んで居られやしませんよ。去年の後半期と云ふものは、間斷なく頭の中に Storm が續いて居て、殆ど何に費やしたか、今から考へると無茶苦茶ですね。ほんとに恐ろしいもんです。」

佐々木は陰鬱な調子で、俯向いたまゝ後庭の草原を步みつゝ語つた。

「君は運が惡いんだよ。杉浦でも僕でもあんなに怠けたのが、其れほど影響して居ないんだもの。山口と來た日にや、あの通りの不行跡をやつて、依然として十二三番に漕ぎ付けて居るからね。」

「そりや、山口君なんぞとは氣持が違ひます。」佐々木は昂然と首を擡げ、

「どうして、どうして、僕が春子から受けた打擊は非道いもんですよ。山口君のやうな、呑氣なのとはまるで一緖になるもんですか。君にしたつて、隨分頭を使つたでせうが、君はまだ、男性的な、强い氣象があるから好ござんす。………」

「僕を强いと云ふのは、君ぐらゐなもんだよ。」

「いゝえ、君は强うござんすよ。僕なんぞ我れながら腑甲斐ないと思ふくらゐ、決斷力がなくつて、女々《めゝ》しくつて、お話しにならないんです。」

何でも彼でも、彼は自分の煩悶が一倍深刻であると極めて居るらしかつた。

「それにしたつて、君はもうきれいに春子さんと手を切つたんだから、此れから十分に讀書が出來るだらう。」

「えゝ、さうしたい積りですが、當分精神がぼんやりして、仕事が手に付かないで困ります。君にしても、同じことでせう。やつぱり今學期も入寮なさるんですか。」

「うん、多分明日あたり入寮するだらう。―――實は今日と思つたんだけれど、晚に近所で骨牌會があるから、もう一晚家へ寢ることにした。若し都合が宜かつたら、君も一緖に骨牌へ來ないか。」

「一體どんな家なんです。」

「親父の知つて居る仲買人の本宅さ。成る可く多く友逹を誘つて來てくれつて、賴まれて居るんだから、一緖に行つて見ないか。遲くなれば、僕の所へ泊まつてもいゝ。―――君の好きな下町風の娘が澤山見られるぜ。」

かう云つて、宗一はにや〳〵笑つた。

「さうですね、行つても好ござんすね。」

と、佐々木は同じく妙に笑ひながら、煮え切らない返答をした。

「そんなら、直ぐと飯を食つて出掛けよう。一時迄に集まる約束なんだから。」

二人は淀見軒の安いまづい洋食で晝餐《ちうさん》を濟ますと、三丁目の停留場へ急いだ。寒空のところ〴〵にちぎれちぎれの雲が散亂して、烈しい北風が、砂埃を捲き上げつゝ荒《すさ》ぶ日であつた。乘手の少い電車の中に、ぴつたり體を摺寄せ乍ら、二人とも澁い顏をして膝頭を顫はせた。

茅場町の四つ角で下りて、植木店《うゑきだな》の橫町へ曲ると、杵屋の家元から二三軒先の小粹な二階建の前で宗一は立止まつた。

「あゝ、此處ですか。」

と云つて、佐々木は「淺川」と記した軒燈の球を仰いだ。大分來會者が集まつたと見えて、家の内からなまめかしい女の囀りが、酣《たけなは》に聞えて居る。板塀の上の二階座敷にはきやしや[#「きやしや」に傍点]な中硝子の障子が締まつて、緣側の手すり[#「すり」に傍点]の傍に籐椅子が一脚据ゑてある。格子を開けると、ちりん〳〵とけたゝましく鈴が鳴つた。

「今日は。―――一人ぢや心細いから、友逹に援兵を賴んで、とう〳〵やつて來ました。」

玄關に現はれた四十三四の、如才なささうな上《かみ》さんに挨拶して、宗一は活潑に口を利いた。

「おや、ようこそ、さつきからみなさんが宗ちやんを待ち焦れて居るんですよ。」

上さんは佐々木の樣子を盗み視てから、再び宗一を振り返つた。

「お友逹はお一人なの。もつと多勢さんで入らつしやればいゝぢやありませんか。―――さあ、さあ何卒お上んなさい。」

かう云ひながら、二人の脫ぎ捨てた外套を片寄せて、

「ちよいと、誰か皆さんのお穿き物をチヤンと直してお置きなさいよ。こんなに土間が散らかつて居ちや、足の入れ場がありやしないやね。」

と、高い調子で叱言を云つた。

佐々木は宗一の後へ附いて、遠慮がちに身をすくめつつ玄關へ上つた。丁度突きあたりの芭蕉布《ばせうふ》の唐紙の、一寸ばかり開いた隙間から、ずらりと居並んだ令孃逹の花やかな衣服の色彩が、細長い六歌仙の縱繪のやうに窺はれた。すると忽ち、其の繪がお納戶地の縮緬の羽織で一杯に塞がれたかと思ふと、冴え冴えした、黑味がちの圓い瞳が、白い頰を襖の緣へ押し着けて、一生懸命に此方を隙見して居る。佐々木は極り惡さに下を向いた。

「お勢ちやん、何をしてるんだい。」

宗一はかう云つて、瞳を追ひ駈けるやうに其處を開けると、座敷の中へ入つた。矢庭にお勢は疊へ突つ伏して、

「おほゝゝゝ。」

と、頓狂に笑ひ崩れた。二十前後の、發逹し盡した豐かな肩の肉が、笑ひを堪へる息づかひと一緖に、背筋のあたりでグリ〳〵と力强く動いて居る。

新らしい靑疊の八疊の間に、紬《つむぎ》の座蒲團だの、桑の煙草盆などが秩序よく置かれて、煙草の煙や炭火の熱が、少しカツとする樣に籠つて居た。床框《とこかまち》の前と、緣側に近い柱の傍と、二箇所に据ゑられた大きい桐の火鉢の周圍《まはり》へ、七八人の男女が花瓣の如く取り縋り、互に肘を張り合つて、骨牌のうまさうな、細長い手先を炙《あぶ》つて居る。緣側の向うには、下町に珍らしい、こんもりとした植込みがあつて、生茂つた枝葉の透き間から小さな稻荷の祠が見える。佐々木は一人離れて、一番遠い座蒲團の方へ腰を下ろした。

「此れは僕の友逹で、一高の文科の佐々木と云ふ人です。」

宗一が紹介すると、みんな一度に佐々木へお辭儀をした。

「宗ちやん、佐々木さんにもつと此方へ來て頂けなくつて。」

と、二十一二になる此處の娘のお靜と云ふのが、火鉢を包んだ一團の中から首を擡げた。すらりとした鶴のやうな撫で肩へ、地味な絣の大島お召の羽織を纏つて、銀杏返しの鬢の毛をふるはせながら、きれいな、メタリツクの聲を出す樣子と云ひ、引き締まつた目鼻立ちと云ひ、新派の喜多村にそつくりの女である。

「靜ちやん、君は默つていらツしやいよ。高等學校の方はみんなお勢ちやんのお受持ちでさあ。」

かう云つたのは、頭をてか〳〵と分けた、にきび[#「にきび」に傍点]の痕のまだ消え切らない男である。毛絲のシヤツの上へ、襦袢や胴着や絣の銘仙の對《つゐ》の綿入や、何枚も寒さうに重ね込んで居る。

「あら噓よ、澤崎さん覺えていらツしやい。」

突伏して居たお勢は急に起ち上つて、さも憎々しさうに睨みつけた。

「だつて、さうぢやありませんか、ねえ。」

と、澤崎は圖に乘つて嬉しがつて、

「君は一高の生徒が好きだつて云つたぢやないか。」

「あたし、何時さう云つて?」

「云つたとも、云つたとも。―――此の間僕と一緖に本郷通りを步いた時に、後から一高の生徒が來たら、『あたし彼《あ》の人にハンケチを拾はしてやるんだ』ツて、君はわざとハンケチを落したぢやないか。」

「あら、噓よ。」

お勢は慌てゝ取り消したが、一座は可笑しがつて、笑ひどよめいた。

「へーえ、それからどうしたの。とう〳〵拾はしたんですか。」

と、お靜が訊いた。

「えゝ、とう〳〵其の學生が拾つて、お勢ちやんにお渡ししたんです。『ほら御覽なさい。拾はせてやつたでせう。』ツて、お勢ちやんは得意になつて居るんです、僕ア驚いちやつた。」

澤崎は一座の幇間のやうな格で、頻りと滑稽な仕業や辯舌を弄しては、如才なく娘逹に愛嬌を振り撒いて居る。人を毛嫌ひする癖のある宗一は、何となく嫌な男だと思つたが、それでもお勢の氣拔な行動には、吹き出さざるを得なかった。

「君のハンケチなら、僕等はいつでも拾つて上げるぜ。」

かう云つて、彼は萎れ返つて居るお勢の顏を嬲《なぶ》るやうに眺め込んだ。

「宗ちやんお止しなさいよ。あんまりからかふと、お勢ちやんだつて怒つちまふわ。―――それよりか、もうそろ〳〵始めなくつて。」

お靜は宗一を睨めて、骨牌の箱を取り寄せた。

同勢九人のうち、一人が迭る迭る讀手になつて、四人づゝ二組に別れ、何囘も勝負が行はれた。宗一も佐々木も一度づゝは總ての人を敵に廻して札を爭つた。一番上手なのは澤崎で、「ハツ」「ハツ」と景氣の好い掛け聲を浴びせながら、指先で撥ね飛ばす働きの素早さ。骨牌は彼に彈かれると、燕のやうに室内を舞つて走つた。其の間も、彼は種々雜多な身振手眞似を弄して、敵方を笑はせ、狼狽《あわ》てさせ、威嚇かす可くあらん限りの術策を施すことを怠らない。勝敗の埒外《らちぐわい》に出て、歌を讀み上げる時でさへ、得意さ加減、可笑しさ加減は一と入で、「天津《テンシン》風《プウ》雲のかよひ路」だの、「むべサンプウを嵐」だの、「振さけ見ればシユンジツなる」だの、いろ〳〵の讀み方を心得て居て、薩摩琵琶のやうな節になつたり、浪花節のやうな音になつたり、激しくなると、「天智天皇あきんどの假り寢の夢」だとか「菅家紺の足袋《たび》は黑くて丈夫」だとかたわい[#「たわい」に傍点]ない惡洒落に、女逹の腹の皮を綯《よ》らせた。

澤崎に次いで上手なのはお勢であつた。澤崎が女を喜ばせるよりも、もつと格別な意味で、お勢は男を喜ばせた。初對面の佐々木だらうが、宗一だらうが、お勢にかゝると散々に鼻毛を拔かれ、容赦なく引ツ搔かれるやら、組み付かれるやら、打たれるやらした。佐々木は勝負の最中、幾度となく自分の額に觸れたお勢の前髮の柔かさを忘れることが出來なかつた。

「お勢ちやんは一高の生徒にハンカチを拾はせても、骨牌は拾はせないんだね。」

宗一がかう云ふと、お勢は息せき[#「せき」に傍点]切つて、

「そんなに口惜しがらなくたつて好い事よ。骨牌に負けたもんだから、口で讐《かたき》を取るなんて、男の癖に卑怯だわ。」

「さうだわ〳〵。一高の生徒の癖に卑怯だわ。」

と、後から澤崎が交ぜつ返した。

斯界の兩雄―――澤崎とお勢とが敵味方に別れた時の騒擾、喧囂亂脈は、實に当日の壯觀であつた。殆ど全體の勝敗が其の一騎打ちに依つて決するかの如く、互に祕術を盡し、お轉婆を極めたが、たま〳〵此の兩人が同じ組の鬮《くじ》に中ると、敵方は滅茶々々に蹂躙されるので、

「これぢや、とても抗はないわ、澤崎さんとお勢ちやんとは、始終敵味方でなけりや面白くないわ。」

こんな動議をお靜が提出した。さうして、最後の試合迄、二人は別れ別れになつた。結局七度の戰ひのうち、五度は澤崎の勝利に歸した。

四時頃になると、みんな休憩して、御馳走の鮓《すし》を頰張りながら、一しきり賑やかに戲談《じやうだん》を云ひ合つた。

「お勢ちやんどうでした。やつぱり男の方《かた》には抗はないと見えますね。」

かう云つて、さつきの上さんも出て來て席に加はつた。

「えゝ、お勢ちやんなんぞ、まるで相手にならないんです。弱い人ばかりいぢめて居て、僕にはちつとも向つて來ないんですからなあ。」

澤崎は肩を搖す振つて、兩手に拵へた握り拳を、鼻の先へ高々と重ねた。

「あら、小母さん噓よ。澤崎さんそんなに威張るなら、二人で勝負をするから、此處へ出ていらつしやい。あなたなんぞに負けるもんですか。」

「おほゝゝゝまあお勢ちやん、急がないでもゆつくり讐をお取んなさいな。今お靜にさう云つて、かるたの間に福引をやらせますから。―――どうぞ皆さん、どんな物が中《あた》つても、苦情を仰しやらずに、持つて歸つて下さいましよ。」

上さんは用意して置いた福引のかんじより[#「かんじより」に傍点]を娘へ渡して、

「さあ、めい〳〵で、一本づゝお引き下さい。」

と云つた。

淺草觀音の鳩が豆の皿へ群る樣に、多勢はお靜の手元へ集まつて、我れがちに鬮を引いた。紙の端には、一つ一つ謎《なぞ》の文句が認めてあつた。佐々木の引いたのは「小松内大臣」、宗一のは「間男《まをとこ》」と云ふのであつた。

「間男と云ふのは怪しからんね、一體此れは何です。」

「あら、宗ちやんが間男を引いたんですか。―――そりやいゝものよ。家のお父さんが考へた謎なの。」

お靜はかう云つて、魚を燒く二重の金網を出した。

「宗ちやん其れが解りますか。『兩方から燒く』と云ふんですつて。」

上さんが說明すると、みんな手を叩いて可笑しがつた。

佐々木の「小松内大臣」は「苦諫」と云ふ謎で、蜜柑が三つ來た。澤崎は「往きは二人で歸りは一人」といふのに中つて、往復はがきを貰つた。其の外澤庵を持たされたり、草箒木を擔がせられたり、大分迷惑したらしい連中があつた。謎の秀逸はお勢の引いた「晝は消えつゝ物をこそ思へ」で、電燈の球が來たのには、奇警にして上品な思ひつきに、誰も彼も感服した。

「電氣の球はよかつたな。それは誰が考へたんです。」

と、宗一はお靜に訊いた。

「うまいでせう。あたしが考へたのよ。」

「『晝は消えつゝ物をこそ思へ』は、全く頭が好うござんしたね。何しろ今日中の傑作に違ひありません。」

佐々木までが、かう云つて賞め讚へた。

福引が濟むと、再び戰闘が開始された。丁度五時から七時頃の間に五六囘勝負をやつたが、お勢はとう〳〵澤崎に抗はないで、

「あたし口惜しいわね。―――澤崎さん近いうちに家でかるた會をやるから、是非入らつしやいな。きつと負かして上げるから。」

などゝ云つた。

「もう大分遲くなりましたから、徐々《そろ〳〵》失禮しませんか。」と、誰かゞ云ひ出した時、

「まあお待ちなさい。皆さんの運動が激しいから、お腹が減つたでせうと思つて。」

と、上さんは氣を利かして、尾張屋のそばを振舞つた。みんな暖かい鴨南蠻と玉子とぢ[#「とぢ」に傍点]とを默つて貪るやうにして喰べた。

「佐々木さん、どうぞ此れからも宗ちやんと一緖に遊びに入らしつて下さいな。別にお構ひ申しませんが、内は此の通り呑氣なんですから。」

お靜にかう云はれると、佐々木は實直らしく膝頭へ兩手を衝いて、

「えゝ、また今度、骨牌會があつたら是非伺ひます。」

と、馬へ乘つて居るやうに、臀を彈ませて云つた。

「かるたの時でなくつても、いゝぢやありませんか。近いうちに弟が退院して戾つて參りますと、お話相手も出來ますから。」

「弟と云ふのはお靜さんより一つ年下で、高等商業へ行つて居るんだよ。」

傍から宗一が說明して、

「良ちやんは、まだ退院が出來ないんですか。」

「もう四五日かゝるんですツて、良作も體が弱くつて困つ了《ちま》ひますよ。宗ちやんの樣に丈夫になるといゝんですがね。」

お靜は火箸の上へ白く柔かな兩手を重ね、何か知ら長話の端緖《いとぐち》でも語り出すやうに、落ち着いて、しみ〴〵と喋舌り始めた。淋しい冬の夜寒を、二人共成らう事なら、此の女を相手に今少し時を過ごしたく思つたが、お勢も澤崎も歸つて行くので、據んどころなく、名殘を惜みながら席を立つた。

「佐々木君、もう遲いから、僕の家へ泊らないか。」

戶外へ出ると、宗一は云つた。晝間の風が未だ止まないで、街鐵《がいてつ》の敷石の上に渦を卷く砂煙が、電柱のあかり[#「あかり」に傍点]にぼんやりと照されて居る。電車が時々、クオーと悲鳴を擧げるやうに軋《きし》みながら通る。

「彼處の娘は喜多村にそつくりですね。聲まで似て居るぢやありませんか。」

佐々木は鎧橋を渡る時、不意にこんな事を云つた。

「誰もさう云ふよ、當人も喜多村が贔屓なんだ。―――君はお氣に入つたのかい。」

「えゝ、ちよいと好ござんすね。」

「春子第二世にしたらどうだい。」

「さあ。」

と、佐々木は考へて、

「春子の轍《てつ》を踏んぢや困りますから、一番出直して、靜子第一世にしませうか。さつきの『ひるは消えつゝ』の謎なんか見ると、頭もなか〳〵いゝやうぢやありませんか。」

「惚れた弱味で、謎にまで感心しなくつてもいゝよ。惚れられると德をするんだなあ。」

と、宗一は笑つた。

濱町の家へ着くと、丁度時計が九時を打つた。「まだ風呂を拔かずにあるから、女中の入らないうちに」と進められて、二人は早速湯に漬かつた。

「佐々木さん、此處に宗一のフランネルの洗濯したのがありますから、お上りになつたら、浴衣代りにお召し下さいまし。」

母は湯殿へ出て、二人の體質を並べて見ながら、

「ほんとに佐々木さんは好いかつぷく[#「かつぷく」に傍点]でいらつしやること、宗一なんぞはとても抗ひませんねえ。」

と云つた。宗一も佐々木の裸體を見るのは久し振で、筋肉が瘤のやうに隆起して居る逞しい骨組や、丈夫さうな赤黑い皮膚の上に、石鹼《しやぼん》の白泡が快い對照をなして流れて行くのを、羨ましく思つた。

「かうやつて居ると、何だか田舎の溫泉へでも來て居るやうな氣がしますね。」

佐々木は湯船の緣へ頭を載せて、湯氣の籠つた天井を眺めながら、伸び伸びと空嘯いた。

風呂から上つて、二階の書齋へ行くと、いつの間にか蒲團が二つ敷いてあつた。互に顏を向け合つて、夜具を被つたものの、容易に眠られない。―――階下で時々、宗兵衞の咳拂ひの音が聞える外、淺川の家に比べると、ズツト陰氣な、死んだやうな座敷の沈默が、妙に眼を冴え冴えとさせた。

「どうだい、僕の家は靜かだらう。―――こんな晚に獨《ひとり》で居ると、淋しくつて淋しくつて、とても寢られやしない。」

かう云つて、宗一は蒲團の中で、肩を顫はせた。雨戶の外では、凩《こがらし》がひゆうひゆうと鳴つて居た。

「僕はこんな所が大好きですよ。君だつて、ラブ、アツフエイアがなければ、此處の方が却つて勉强出來る筈です。寮に居ると下らない附き合ひに時間を浪費して、いけませんね。旅行でも、讀書でも、僕は Solitude が一番いゝと思ひます。」

「しかし、昨今の僕は Solitude に堪へられないよ。」

「そりやあゝ云ふ事情があつては、無理もありません。―――どうなりました小田原の方は。」

「やつぱり破談になつた。暮に母親から散々意見されて、一と先づ斷念しろとまで云はれた。」

「それから、君はマーザーに何と答へたんです。」

「一應反抗したけれども、到底根本から考へが一致しないんだから、好い加減な氣休めを云つて置いた。徒に心配させたつて、仕樣がないもの。」

「此れから先、どうする積りなんです。」

「どうしていゝか、全く迷つて居るよ。美代子さへ約束を守つて居てくれゝば、結局は大丈夫だと信じて、それ程悲觀もしないがね。」

「かう云ふ問題は、だら〳〵長くなると、仕事が出來ないで困りますから、成るたけ手取早く片附ける方が宜ござんす………。」

佐々木はだん〳〵眠さうな聲を出して、やがて、

「もう寢ませうかね。」

と云つて、ぐるりと壁の方を向いた。

十一

羹 · 第 4 / 5 段