濱町の橘の家では、追々節季がつまつて來たので、掃除やら、洗ひ張りやら、針仕事やら、お品は天氣の續くのを賴みにして、每日々々せつせ[#「せつせ」に傍点]と働いて居た。雨と云つたら、三の酉の晚に、一としきり激しい土砂降りがあつたばかり、明くる日から又からり[#「からり」に傍点]と冴えて、大道の泥濘《ぬかるみ》も朝のうちに乾き、梅の莟でも綻びさうな、うら〳〵とした陽氣であつた。

「ほんとに有り難い、………此の鹽梅なら、今年の冬は凌ぎいゝだらう。」

かう云つて、お品は宗兵衞が店へ出掛けて了ふと、お午前《ひるまへ》の間に夫や忰の不斷着の綿入を解《ほど》いて了つて、お午からは小間使のお兼と一緖に、物干へ出て洗ひ張りに取りかゝつた。

階下には御飯焚きのおえい[#「えい」に傍点]が獨《ひとり》で留守番をしながら、太つた手頸を石鹸《しやぼん》だらけにして、勝手口で白足袋の洗濯をして居た。ところへ、格子ががらりと開いて、十日ばかり姿を見せなかつた宗一がやつて來た。四疊半の玄關を上ると、座敷を一と通り覗いて廻つて、

「おツ母さんは。」

と、おえい[#「えい」に傍点]に聲をかけた。

「物干にいらつしやいます。」

「さうか。」

と云つて、彼は臺所に接した女中部屋の梯子段を登つて、物干へ出た。

母は張板と張板の間に挾まつて、西日を背中に浴びながら、頻りにべつとり[#「べつとり」に傍点]と濡れた布を板の上へ押し伸ばして居たが、ちよいと宗一を振り返つて、

「おや、今日は半どんかね。」

「いゝえ。―――もう直き試驗で忙しくなるので、當分來られないかも知れませんから、今のうちに汚れ物を持つて來ました。」

「それぢや今日は泊らないのかい。」

「ナニ泊つても明日《あした》の朝早く歸ればいゝんです。―――それに、少しお父さんにお話しゝたい事がありますから、孰方《どつち》にしても泊りませう。」

「さうかい。………今何時頃だね。」

母は、半分仕事の方に氣を取られて居た。

「二時過ぎでせう。」

かう云ひながら、宗一は、見覺えのある自分の着物の布《きれ》が、順々に張られて行くのを眺めて居た。板の上に働いて居る母親の手先には、鮮かな光線がくつきり[#「くつきり」に傍点]と落ちて、糊だらけの十本の指は、色こそ白けれ、傷々《いた〳〵》しく節くれ立ち、ぱつくりと肉の裂けた傷口に黑い線が入つて、爪などはみんな短く擦り切れて居た。戀は神聖だとか、生活の基礎だとか、單に口の先ばかりでなく、腹の底から考へを据ゑて居た宗一も、此の手が暗示する堅實な力ある生命《ライフ》に對しては、比較にならぬ位、浮薄な輕佻《けいてう》な事のやうに感ぜられた。

彼は暫く物干の手すりに倚つて、靑空の下に遠く連なる街々の甍《いらか》を望んだ。其處からは久松町の明治座の屋根だの、深川のセメント會社の煙突などがよく見えて、子供の折から彼の瞳孔に沁みついて居た。此の物干から濱松界隈を俯瞰する時程、自分の幼い頃を想ひ出すことはなかつた。

「あの時分から見ると、母も隨分年を取つたものだなあ。」

と、宗一は思つた。

一方の手すり[#「すり」に傍点]の外には、臺所の屋根がだら〳〵と下つて居て、半分硝子障子の開いて居る引窓の下に、流し元のおえい[#「えい」に傍点]の頭が見えて居た。彼は物干用の冷飯草履を穿いたまゝ、屋根の上へ下りて、みしみし[#「みしみし」に傍点]ととたん[#「とたん」に傍点]葺《ぶき》を踏みつけながら、一二間離れた二階座敷の自分の書齋のところまで傳はつて行き、機械體操をするやうに、身を躍らせて高い窓から部屋の中へ飛び込んだ。さうして、庭に面して緣側の方へ頭を向けて、大の字に寢そべつて了つた。

近所に話相手の友逹はなし、家《うち》の者は働いて居るし、夕方父の歸宅する迄は、別段しよざい[#「しよざい」に傍点]がないので、彼はかうやつて居るより仕樣がなかつた。どう云ふ風に談判を切り出さうか、母の居る時にしようか居ない時を窺はうか、打ち明けるにしても、悉く白狀しようか、或る程度まで保留して置かうか、殊に賄の一件などは、どうしたら好いであらう。こんな考へが、頻りに彼の頭を往來したが、結局父の顏色を見てからでなければ豫め極てかゝつても何にもならないとあきらめて、ぼんやりと天井を睨んで居た。

宗一が寄宿へ入つて以來、誰も此の部屋に住む者がなくなつて、なつかしい書齋の舊態は大方面影を失ひ、六疊の一間は物置きの如く種々雜多な品物で埋まつて居た。父が此の間關西へ旅行した時の鞄が二つ三つ、旅館のレツテルを貼つたまゝ、壁の片隅へよりかゝつて、其の橫には、兩親の居間に敷いてあつた由多加織《ゆたかおり》の敷物だの、茶の間にあつた熊の皮の蒲團など、丸太のやうにぐるぐると卷いて重ねてある。昔學校の制服や帽子を掛けた折れ釘には、新聞紙にくるんだ鮭の鹽引が吊る下り、昨夜の雨に濡れたらしい蛇の目の傘が、座敷の中央に擴がつて居る。正月、玄關のとツつき[#「とツつき」に傍点]に立てる二枚折の、萬歲の繪を畫いた屛風が、藏の奧から引き出されて、柱へ凭《よ》せかけてある傍に、夜具蒲團の綿が堆《うづたか》く積まれて、宗一が古馴染の本箱や机はみんな後へ隱されてあつた。彼は何となく其の本箱が戀しさに、綿の上へ腹這ひになつて、窮屈な、狹いところへ首を突込みながら、硝子戶の中に一杯につまつて居る書籍の數々を拔いて見た。中學時代に愛讀した樗牛全集、一葉全集など、手に取るまゝに好い加減なページを開いて眼を落すと、つい[#「つい」に傍点]面白さに次から次へと何枚も引き擦られて行き、平家雜感とたけくらべ[#「たけくらべ」に傍点]とを、日の暮れる迄に讀み終つて了つた。あたりが薄暗くなつたので、氣が付いて見ると、もう母もお兼も物干には居なかつた。夕餉《ゆふげ》の仕度をするらしい臺所から、秋刀魚《さんま》を燒く匂ひがぷんと鼻を襲つて、ちやらちやらと皿や茶碗を揃へる音が聞えて居た。

程なく「お歸り」と云ふ聲がして、宗兵衞が戾つて來た樣子である。八疊の居間へ通ると衣類を着換へて風呂加減を訊き、早速湯殿へ行つて十分許りで上がつて仕舞ひ、相撲取のやうに肥滿した、眞赤にゆだつた[#「ゆだつた」に傍点]體へ、腰卷一つ卷いて、飯の知らせを待つ間茶の間で夕刊を讀むのが例になつてゐる。其の刻限を見計らつて、宗一は目立たぬやうに書齋を下りたが、階下《した》では旣に電氣がかんかん[#「かんかん」に傍点]燈《とも》つて居て、母は長火鉢の猫板に頰杖を衝き、小皿に滴らした八盃《はちはい》の汁を舐めて見ながら、

「お前、何かお父さんに話があると云つたぢやないか。」

と、宗一に云つた。

「えゝ。」

「話があるなら、もう直《ぢき》御飯だから、今のうちがいゝよ。―――茶の間にいらつしやるから。」

母は何か、ちよいと一と言話せば濟む物のやうに考へて居るらしかつた。けれども、今を除いては、親父一人の折を捉へる機會がないやうに思はれて、

「さうですか。」

と云つて、彼は緣側傳ひに茶の間へ行つた。

「お父ツさん、今日は。」

かう云ひながら、潜り戶を開けて、彼はいつになく改まつてお辭儀をした。

「うむ、―――試驗はいつから始まるんだ。」

父は依然新聞の方へ眼を着けたまゝ、氣輕に尋ねた。

「十二月の十五日ごろからです。」

「體は相變らず丈夫か。」

「えゝ。」

「試驗でも濟んだら、また沼津へでも行つたらどうだ。―――今度は溫泉もいゝだらう。此の間大阪へ行つた歸りに修善寺へ廻つたが、彼方は暖かだな。」

「はあ。」

又旅行の話になつたら、果てしがないので、宗一は氣のない返辭をした。

「尤も正月の事だから、東京に居るも好いし、まあお前の好きにするさ。休みはいつまであるんだ。」

「正月の十日時分までゞす。………お父さん、今日は………」

と云ひつゝ、彼は唾吐《つばき》を呑んで、疊へ兩手をついた。

「少し、私に取つて重大な話があつて、參りました。」

「なんだ。」

かう云つて、父は、側に疊んで置いてあつた浴衣とどてら[#「どてら」に傍点]の重ね着の襟を摘《つま》むで立ち上がり、湯氣の乾いた素肌の肩へふわ[#「ふわ」に傍点]ツと纏つて、兩腕を袂へ通すと、縮緬の兵兒帶を手早く締めて、再び坐る拍子に右の手で煙草盆を膝近く引き寄せた。

「私はお父さんにいろ〳〵御詫をしなければならない事と、お願ひをしなければならない事があるんです。實は私は、お父さんにもおツ母さんにも内證で、美代ちやんと結婚の約束をして了ひました。今迄餘計な御心配をかけては濟まないと思つて、隱して居りましたが、今日はお叱りを受けるのは覺悟の上で、何も彼もお話する決心で參りました。」

此れだけ喋舌るのが、宗一には容易な業ではなかつた。すら〳〵と續けて行かうにも、自分の舌が言葉の重味に堪へられないで、苦しい息を吐いたり、文句を劃《くぎ》つたりした。話の中途から、父はつひぞ見た事のない眞顏を作つて、煙管の金口《きんくち》を右の頰にあてがひ、疊の面へ瞳を注いで默つて聞き耳を立てゝ居た。屹度商賣上の相談などを持ち掛けられた時、宗兵衞はいつもこんな態度を取るのであらう。相手の言葉が、いかにも明瞭に靜かに聞き取れさうな身構へをして居るだけ、其れだけ宗一は一層話づらさを感じた。

「勿論、結婚の約束をしたと云つても、二人の間に何か間違ひを仕出來したと云ふ譯ではないんですから、其れだけは御安心を願ひます。私は唯どうせ將來結婚しなければならないものなら、美代ちやんを貰つて頂きたいと思ふんです。さう云ふ考へから、先方の意向を確める爲めに、今迄度々内證で手紙のやり取りをしました。また小田原から美代ちやんを呼び寄せて會つても見ました。親の眼を忍んで、二人で勝手に約束なんかした事に就いては、一言の申譯もありませんけれど、忌まはしい關係のなかつた事だけは、何處までもお父さんに信じて頂きたいんです。」

「一體いつ頃からそんな事をして居たんだ。」

宗兵衞は、いつものやうな隱かな、打ち解けた聲で云つた。

「ことしの夏時分………丁度沼津から歸つて來る時に、一つ汽車で東京へ來た事もありますし、寄宿舎へ入つてからも度々手紙の遣り取りはしました。尤も會つたのは沼津の時と、昨日と、たツた二度ぎりです。」

「昨日? きのう何處で?」

「美代ちやんが不意に寄宿舎へ電話を掛けて、至急に會ひたいと云ふもんですから、學校を休んで、二人で柳光亭へ行きました。それも此の間頂いた賄のお金で勘定を拂つたんです。………まことに申譯がありません。」

宗一は顏から火の出るやうな恥かしさを忍び、凡べての大《だい》それた[#「それた」に傍点]不都合を一緖くたにして、吐き出して了つた。

「己はお前の云ふ事を疑つて居やしないが、たとへ實際はそんな行ひがないにもせよ、二人で料理屋へ出入《ではひ》りをしたり、内證で文通したりした事がぱつとなれば、世間では決してお前の思ふ通りに見てくれないぞ。お前は若い了見で、關係さへしなければ、女に傷が着かないと思つて居るだらうけれど、世間ではうはべ[#「うはべ」に傍点]の樣子を見ただけで、立派に傷物と極めて了ふんだ。此れからもある事だから、よく心得て居なければいけない。ましてお前はまだ學生の身分ぢやないか。どんなに自分逹の意志がシツカリして居る積りでも、男女の仲と云ふものは、得て知らず識らずの間に、とんだ間違ひを來たすものなんだ。―――お父さんは親の慾目でお前を信用するにしても、世間の人に怪しまれたら、己だつてそれを絕對に否認する證據がない。」

宗一は思つた。昔の人は男女の關係になると、案外疑い深いものである。つまり、今日の靑年の抱いて居るやうな、性慾を放れた戀愛の存在を合點する事が出來ないから、惚れたと云へば、直ぐに肉體の方面を考へる。何事に依らず早解りのする父の言葉として、證據がないから否認する譯には行かないとは實際殘念であるが、いくら辯明したところで、到底了解されないに極まつて居る。

「仰しやつたことはよウく解りました。自分でも決して善い事とは思つて居なかつたのですから、此れから必ず氣を着けます。」

「うん、お前も敎育のない人間ではなし、こんな理窟は己よりもよく知つて居る筈だから、解りさへすれば何も云ひたかあない。」

かう云つたぎり、父は再び默つて了つた。肝心な結婚問題の腰が折れたので、逆戾りに話の筋を立て直す可く、宗一は又新たな努力をしなければならなかつた。

「それから、さツきお話しました結婚の事ですが、此れも學生の身分として、まだ其の時機でないことは存じて居ります。美代ちやんが私の大學を卒業する迄、一人で居られる年頃なら今から斯う云ふお願ひをする必要はないんですけれど、いづれ小田原の方ではお嫁の話が出るでせうし、何とか此の問題が極らないうちは、私も落ち着いて勉强する事が出來ません。美代ちやんは望みがかなはないで、外へ嫁《かたづ》くやうだつたら、死ぬと云つて居ります。私も、若し一緖になれなかつたら………一生結婚しまいと、覺悟をして居ります。かう云ふと何ですが、私は今までお父さんに御無理をお願ひした事はない積りです。一生に一度の我儘と思つて、何卒今度だけ、お聞き屆けなすつて下さい。二人が自分勝手にこゝ迄話を進めて了つたに就いて、重々不都合だと仰しやれば據んどころありませんけれど、私としてはかうするより外、世の中に生きて行く望みがありませんでした。結婚が出來れば、二人は勿論、お父さんやおツ母さんのお爲めにも、決して惡い結果にはならないやうに存じます。」

困つたことだ、と云はんばかりに、父は腕組をしながら煙草を吸つて、考へ込んで居る。湯上りの血色のいい顏へ、電燈の明りが照つて、顏や鼻柱がつや〳〵と輝いて居る。宗兵衞がまだ若旦那と云はれた時代、每夜每夜|親父《おやぢ》やお母《ふくろ》の眼を盗んで、帳場を拔け出した二三十年も前の自分の姿が、ふと彼の顏に泛んで來た。其の時分は、彼とても淺ましい戀の奴であつた。互に命までもと惚れ合つた經驗は、芳町にも柳橋にも二三度あつた。宗一が生れたお蔭で自分の性根が入れ變つた事を忘れず、せめて子供を立派に仕立てようと努めたかひもなく、放蕩の血が其の子の胸に傳はつて居て、今になつて自分に反逆を企てようとは。自分が親に心配をかけたやうに、自分も子供に心配をさせられなければならないのか、さう思つて、宗兵衞は胸を痛めた。

「昨日の美代ちやんの話では、おツ母さんが養子を貰つて分家させる積りで居るから、なか〳〵此方へは寄越すまいと云ふんです。しかし、あか[#「あか」に傍点]の他人へ嫁《かたづ》くのではなし、何とか話のしやうに依つたら、解決の道があるだらう。要するに美代ちやんのおツ母さんさへ將來安樂に過せる保證が附いたらば、纏まらないことはないだらうと思ふんです。勝手な上にも勝手なお願ひですが、御參考までに一應此の事を申し上げて置きます。」

「ま、其の話は二三日待つて貰はう。今度の日曜迄に考へとくから。」

かう云ひながら、父はぱた〳〵と手を鳴らして、

「おい、己の紙入を持つて來てくれ。」

と、奧へ怒鳴つた。

もう直き御飯だと云つたのに、今迄催促に來ない樣子を見ると、母は話の始終を立ち聞して、遠慮して居るらしかつた。母屋に續いた瓦燈口《ぐわとうぐち》を開けて、紙入を持つて出て來たのはお兼であつた。帛紗《ふくさ》の包みを宗兵衞に渡すと、其の儘何も云はずに引込んで了つた。

「金はいくらばかり足りなくしたんだ。」

「八圓ぐらゐです。」

「それぢや此れを渡して置く。試驗が忙しければ、飯でも喰べて今日は學校へ歸るがよい。」

包みを解いて、菖蒲皮《しやうぶがは》の紙入の中から取り出した十圓札を、宗兵衞は靜かに宗一の前に置いた。

「はい。」

宗一は謝罪の意味を含んで、畏まつて頭を下げて、札を懷に入れた。此れ程にしてくれる親を捉《つかま》へて、散々迷惑を掛けなければならないハメになつたのが、今更辛く悲しく感ぜられた。

七

とう〳〵冬がやつて來た。朶寮の自修室にストーブが備へられて、敎室には朝のうちだけスチームが通るやうになつた。此の二三日、淸水はテニスと西洋人の訪問を止めて、圖書館に立て籠つてゐる。野村は碁會所通ひを好い加減にして、寮務室の二階に隱れる。ノートの整理をしたり、敎科書の不審を質《たゞ》したり、みんな試驗の準備に忙殺《ばうさい》されて、運動家の中島でさへ、野球の練習が濟んで了ふと、いつもは講道館へ出かける時間を、勉强の方に割愛して居る。相變らず呑氣なのは杉浦ばかりで、

「僕ぐらゐ勉强の必要を痛切に感じて居て、而も勉强の出來ない人間はないナ。」

こんな事を吹聽しては遊び廻つて居る。

佛法の山口も、

「わしや近いうちに、一遍吉原へ行つて來んと、どうも勉强が出來ん。」

と云つて、每晚杉浦と一緖に飮み喰ひしてはお喋舌りを戰はす。

「なんと杉浦さん、淸水と云ふ男はありや可笑しいぜエ。わしや彼の靑白い顏を見ると、いつでも試驗を想ひ出すがな。」

「全く試驗のやうな面をして居るな。」

「それから君の部屋に大山と云ふ男が居るが、ありや一體どう云ふもんぢや。」

「どう云ふもんだか僕も解らんよ。ゆうべも寢室でコソコソやつてるから、大方試驗の準備かと思つたら、豈圖らんや『男女と天才』を讀んで居るんだ。」

「ヒヨツとしたら、ありや大した豪傑だぜエ。」

山口は首をかしげて、頻りに大山に感服して居る。

宗一は例の懸案が片附いて了ふまで、とても仕事が手に着きさうもなかつた。晝間から寢室の窓際に机を据ゑて書籍を前に端坐しながら、二三頁も進むと、直《ぢき》に頰杖を衝いて側方《そつぱう》を向く。どうかすると退屈紛れに友逹の本箱から雜誌や小說の古本を拔き出したが、或る時彼はウツカリして淸水の日記帳を開いて了つた。

[#ここから一字下げ]

予ハ此ノ度ノ試驗ニ必ズ主席ヲ占メザル可カラズ。予ハ實ニ野村ヲ恐ル、彼ハ予ノ Rival ナリ、予ハ如何ニシテモ彼《か》ノライヷルヲ破ラザルベカラズ。

[#ここで字下げ終わり]

ちらりと此れだけ讀むと、彼は淺ましい心地がして、其の儘元の所へ突込んで置き、晚になつてから何氣なく淸水に尋ねた。

「君はえらい馬力で勉强してるぢやないか。今度は野村が敗《まけ》るかも知れんぜ。」

すると淸水は頭を抑へて、快活に笑ひながら、

「いや、どうして、僕なんざ、そりやあ君及第する自信はあるけれど、成績なんかまあ十番以上ならいゝ積りなんだよ。」

かう云つて、何喰はぬ顏をして居る。

「ところが僕は及第する自信もないぜ。每日々々遊んでばかり居て。」

と、傍から中島は口を出した。

「君あ大丈夫だよ。杉浦の所謂《いはゆる》知勇兼備なんだもの。」

「さうはいかんぜ。夕方湯へ入つて飯を食ふとガツカリして眠くなつちまふ。」

「しかし、運動家は精力が續くからいゝね。」

と、宗一は頑健な中島の體格を眺めて云つた。

「それはさうと橘君、此の頃はさつぱり小田原から手紙が來んぢやないか。試驗だと思つて遠慮しとるのかい。」

「どうだか。」

「君は勉强するにも二人がゝりだから、愉快だらうなあ。」

子供のやうな眼をして笑ひながら、柄にもなく中島はこんな冷かし文句を浴びせる。

「いや、君の方が餘程仕合せだよ。僕見たいに下らない事にかゝづらは[#「かゝづらは」に傍点]つて居ると、勉强なんか出來やしない。一日でもいゝから、僕は君のやうな氣持になつて見たい。………」

宗一は心《しん》から中島の境遇が羨ましかつた。學問と體育とに若い精力を傾注し通して居たら、嘸かし頭がカラツとして、年中爽快な月日が送れるであらう。自分も始めから美代子の事など考へないで、活發な、無邪氣な、運動家の群に投じればよかつた。

今となつて、其れを後悔したところで仕樣がない、一旦乘り出した問題の決着する間、やつぱり山口と同じく杉浦を相手にして、宗一はウロ〳〵と大切な時間を遊び暮らした。

「橘さん、わしや明日《あす》國から爲替《かはせ》が來たら、吉原へ行かうと思うとる。君も一緖に行《い》んだらどうぢや。上るのが嫌なら、見るだけでも構はんがな。一と口に女郞と云ふけれど、大店の華魁《おいらん》はいゝぜエ。―――かう云うたら怒るかも知れんが、女が戀しいと云ふのは、つまり無意識のうちに性慾の滿足を要求しとるんぢや。つまらん事に頭を病まんと、一遍女を知つて了へばきつと落ち着いて勉强が出來るんぢや。君のやうにクヨクヨして居つても、結句損ぢやがな。」

十二月の第一金曜日の晚に、三人で豐國《とよくに》の牛《ぎう》を喰ひながら、頻りに山口は說きすゝめた。明日はいよ〳〵女郞買に行つて、明後日《あさつて》の日曜から試驗準備に取りかゝる前祝ひに、山口は大した元氣で飮みもしない酒を呷つた。

「へーえ、兼ねての宿願が成就して、とう〳〵明日《あした》出かける事になつたのか。」

かう云つて、杉浦は眼を圓くした。

「山口の遊ぶところを一度見たいもんだな。お前の相方は別嬪《べつぴん》かい。」

「美人ぢやないが、ポツチヤリしてちよいと可愛いんぢや。わしや少し其の女に惚れとるがな。まあ君も一緖に來て見給へ、お職《しよく》を張つとるだけになか〳〵利口な奴だぜエ。」

お職と云ふ名を聞いて宗一は二三日前に讀んだ一葉全集のたけくらべ[#「たけくらべ」に傍点]に、此の言葉のあつた事を思ひ出した。

「さうだ、わしや一つ今夜出かけてやらう。どうせ明日は金が來るんだから、マントを質に入れてやるんぢや。―――此れなら、五兩は借すだらう。」

十一時頃まで夜を更かして、引き上げる時分に、山口はかう云つて外套のホツクを外しながら、

「それぢや、此處で失敬する。」

と、大學裏門の眞暗な夜路を、いそ〳〵と龍岡町の方へ消えて失《なくな》つた。

「外套を質に入れないたつて、一日ぐらゐ待てさうなもんだが、そんなに行きたいものかなあ。―――や、何しろ奴は滑稽だ。」

杉浦は宗一と一緖に、再び靑木堂で珈琲《コーヒー》とウヰスキーの梯子飮みをして、例の如く、門限過ぎに生垣を乘り越えて寮へ戾つた。

其の明くる日、半《はん》どん[#「どん」に傍点]の授業が濟むと、三人は又落ち合つて、本郷通を步いて居た。不思議な事には、昨夜入質した筈のマントが、相變らず山口の肩に翩翻《へんぽん》とひるがへつて居た。

「どうしたんだ、ゆうべ彼《あ》れから行かなかつたかい。」

杉浦が尋ねると、山口は小鼻の周圍に皺を作つて、妙ににたにた[#「にたにた」に傍点]笑つて居る。

「どうしたツて、彼れからが奇拔なんぢや。わしや當分吉原へ行かんと濟む事になつた。」

「ま、一人でさう恐悅して居ないで、話したらいゝぢやないか。」

「かうなつたら、無論話すがな。君池の端の通りに、丁度此方から行くと左側に、汚い煙草屋があるのを知つとるぢやらう。彼處に娘のあるのを知つとるかな。」

「知らないねえ。」

「わしは知つとるんぢや。」

と、山口は顏の中央《まんなか》に人差指をあてゝ、

「少し譯があつて、前からちよい〳〵訪ねるついでに彼の娘に眼を着けて置いたんぢや。ところが昨夜質屋へ行かうとして、彼處を通ると、娘が店の戶を締め乍ら、山口さん、今時分どちらへお出でになりますツて、呼び掛けるんぢや。―――暗い往來へ眞白な首を出して、家の中のあかり[#「あかり」に傍点]を背に受け取る工合が、可愛うてならんぜエ。………」

「Description は好い加減にして、早く要領をかい[#「かい」に傍点]摘《つま》むさ。」

「こいつ、今夜何とか物にしてやらんけりや、こんな機會はないと思うて、お梅さん、―――お梅さんと云ふ名なんぢや。―――ちよいと出ていらツしやいと云ふと、なあにと云ひ乍ら、下駄を穿いて、戶外《おもて》からそツと戶を締めて、わしの側へやつて來たんぢや。少しあんた[#「あんた」に傍点]に話があるがと云うて、わしや娘の手を取つて、上野の山へ行つた。

「娘はそれで平氣なのかい。」

杉浦は大分好奇心を挑發されて、眞面目になつて山口を覗き込んだ。

「いや、多少恐ろしかつたに違ひないんぢや。わしが押さへとる手頸がぶるぶる顫へて居つたからな。―――けれど Virgin でないことは確かなんぢや。大膽な女子ぜエ。」

「いや實際呆れたもんだ。僕等の友逹にこんな惡黨があるんだから驚く。」

杉浦は口を尖らし、胸を張つて、慨然と空嘯いた。

「今更惡黨にせんでもよからう。こんな例は世間に澤山ある事ぢやがな。―――ところでわしや此れから失敬して煙草屋へ行くぜエ。晝間は親父が留守で娘と小さい弟だけぢやから、萬事都合が好いんぢや。」

「一つ、家の前までくツ附いて行つて、其の娘を見てやらう。」

「見るに及ばんよ。そんな別嬪ぢやないんぢや。」

「だつてお前、さツきの Description に依ると、なかなか可愛らしさうぢやないか。」

「そりや其の時の氣持で可愛かつたんぢや。―――一緖にくるもいゝが、君が又娘を捉へて餘計な事を云やせんかと思うてな。わしや此れでも、正直な、堅い人間のやうに見せとるんぢやから。」

「見るだけ見れば、僕等は默つて引き退るさ。誰がソンナ面倒臭い事をするもんか。」

二人は山口の後に附いて、切通しの坂を下りた。岩崎邸の角から左へ折れて右へ曲つた池の端の通りを、二三町行くとむさくろ[#「むさくろ」に傍点]しい煙草屋の店があつた。五六間手前から、山口は獨《ひとり》先へ立つてすたすたと步いて、

「今日は。」

と云ひながら、框へ腰を掛けた。

娘は店先に陳列してある硝子張りの煙草の箱を楯にして肩から上を往來に曝しながら、火鉢にあたつて居たが、ちよいとニツコリしてお辭儀をするついでに、ちらりと戶外の二人へ秋波《しうは》を送つた。それから續いて、山口と何か喋舌つて居るらしいのが、さつぱり二人には聞き取れなかつた。お白粉をこてこて[#「こてこて」に傍点]塗り着けて居るにも拘らず、面長の兩頰が傷ましく痩せて、顴骨の飛び出た、額の拔け上つた、疲れたやうな容貌の女である。撫で肩のきやしや[#「きやしや」に傍点]な體つきが粹《いき》だと云へば云ふものゝ、赤い髮を銀杏返しに結つて、古ぼけた雙子《ふたこ》の綿入を着た樣子は、何處となく燻つて居て汚らしく、笑ふ度每に齦《はぐき》を露《あら》はにして、赤く爛れた眼瞼の奧から、細い瞳を光らせるのが、氣のせゐか、いかさま男狂ひでもしさうに見える。どう考へても、垢だらけな新銘仙に羊羹色の紋附を羽織つて、素足にぴたんこな薩摩下駄を穿いた貧書生《ひんしよせい》の山口とは、恰好の取組である。二人が豫期して居たやうな、ロマンチツクな色彩は、微塵もない。

「アレで山口は面白いのかね。」

宗一は夥しい Disillusion を感じて、杉浦に耳打ちをした。

「重ね重ね呆れたもんだね。あの娘が出來た爲めに、女郞買を止めると云ふんだから、女郞買の下らなさ加減も以て推す可しだよ。―――アレが可愛らしいんだとすると、山口の女好きよりも我慢强いに感心するぜ。」

かう云ひながら、二人が店の前を過ぎようとする時、

「あら隨分ね、山口さん、あたしが梅幸に似て居たら、世間にお多福はありやしないわ。」

「いや、お梅さん本當ぜエ、お世辭を云うとるんぢやないがな。」

などと、山口は娘を相手に、頻りと悅《えつ》に入つて居た。

三枚橋のところへ來ると、宗一は俄に立ち止まつて帽子の鍔へ手をかけた。

「僕も此處で失敬するぜ。………」

「何故。」

と、杉浦はつまらなさうに面と向つて彳みながら、懷手をして貧乏搖すりをする。

「此れからちよいと、家まで行つて來なけりやならん。………」

「例の問題でか。」

「うん。」

「ま、別れるにしても、其處いらまでもう少し步かう。―――どうなつたんだ彼《あ》れから。」

杉浦は友逹を氣遣ふ深切な心よりも、寧ろ無聊《ぶれう》に苦しんで、話の種に缺乏して居る所から、かう尋ねるらしかつた。

「今日か明日のうちに、親父の返答を聞く事になつた。」

「それぢや二日以内に君の運命が決するんだね。」

「親父が不承知なら、直ぐに駄目と決するが、承知したとなると、此れから小田原へ掛け合ふんだから、いくらか壽命が延びる譯だよ。」

「掛け合つて駄目だつたら、どうなるんだい。」

「此の結婚が出來なければ、僕も女も一生獨身で通す積りだから、遠からず悶着が起るだらう。」

「一つ、僕が君と美代ちやんの親父に打つかつて、大に利害得失を說明して、ウンと云はせてやらうかな。―――どうだい、僕に任せないか。かう云ふ談判は、實際うまいもんだぜ。其の代り成功したら、今學期の授業料を一時|工面《くめん》して貰ふ。」

何處まで本當で何處まで冗談か判らないので、宗一は面喰ひながら、

「あはゝゝゝゝ、」

と、煮え切らない笑ひ方をした。尤も授業料の方は、每晚のやうに大酒を呷つて居る杉浦の行動から察すれば、消費して了ふのは當り前である。實は宗一も今迄よく金が續く事だと訝《あや》しんで居た程であつた。

「いつもなら授業料の工面ぐらゐは出來るんだが、僕も今度は賄の食料を使つちまつたんで、どうも困る。」

「ナニ萬一の場合にはウエブスターを拂ひ下げる計畫だから、心配しなくつてもいゝよ。―――それよりかほんとに其の談判は僕に任し給へ。」

「有難う。いづれお賴みしないでも、相談に與つて貰ふかも知れない。―――それぢやあんまり遲くなるから。」

と、廣小路の四つ角で、宗一は電車を待つた。

「あゝつまらんな。本郷座の立ち見でもしようかな。」

杉浦は天神の方へぶら〳〵と步いて行つたが、又引き返して、

「おい、君、君、いゝ歌が出來たぜ。―――晴れたる日、晴れたるまゝに雲れる日、曇れるまゝに暮るゝ悲しさ。―――悲しさがいゝか、悲しきがいゝか、どつちかな、何しろ傑作に違ひないだらう。ぢや、左樣なら。」

かう云つて、どん〳〵行つて了つた。

早く獨りになりたいので、杉浦と別れたやうなものゝ、宗一は別段急いで家へ歸る必要もなかつた。「晴れたるまゝに曇れる日」の、雲の裏に光つて居る太陽を仰ぐと、何か不祥《ふしやう》の運命の蔽ひ被さつて來る前兆のやうに感ぜられて、クド〳〵と重い心に問題の成りゆきを考へ乍ら、其の儘お成街道を萬世橋の方へ辿つた。須田町から掘留へ出て人形町に來たのは三時頃であつた。まだ親父の歸宅する時間ではない。彼の事に就いて、當然父から相談を受けて居る筈の母親に、其れとなく顏を合はす恥かしさ窮屈さを思ふと、此れから直ぐには、家の敷居を跨ぐのが辛かつた。據ん所なく竈河岸《へつゝひがし》の甘泉堂へ入つて、小豆《あづき》を二三杯喰べて、明治座の立ち見をして灯ともし過ぎに濱町へやつて來た。

「大そう暗くなつてから、來たぢやないか。今日はもう遲いからどうかと思つて居たのに。」

かう云つて、お品は十能《じふのう》の炭火を長火鉢に移して居た。姐さん冠りをした中高の顏へ、火氣が赤く映つてポツと上氣《のぼ》せたやうな血色に見える。

「本郷から步いて來たんです。」

と、宗一は率直に答へた。少し手先のかじかむ[#「かじかむ」に傍点]やうな寒さの宵に戶外を彷徨《うろつ》き廻つた揚句、急に家の中へ入つた爲めであらう、人いきれ[#「いきれ」に傍点]と、燈火《ともしび》の熱の籠つた室内の空氣に、ぬく〳〵と體の溫まるのを覺えて、彼は今更しみ〴〵家庭のなつかしさ惠み深さを感じた。

「お前、御飯前にお湯へ入つたらどうだい。」

「えゝ、頂きます。」

「そんなら直にお入り、今お父さんがお上りになる所だから。」

母のかう云つて吳れるを幸《さいはひ》彼は袴と帶を解き捨てゝ、土藏と臺所の間に挾まつた湯殿の廊下へ駈けて行つた。姿見の前で素裸になつて、手拭を片手に、曇り硝子の障子を開けると、父は流しの中央に大柄な體格を据ゑて、お兼に背中を洗はせて居た。

「今日は。」

宗一は立ち罩《こ》めた湯氣の中から聲をかけて、石鹸《しやぼん》の泡の流れて居る板の間へ下りた。

バタ〳〵と手拭を宗兵衞の肩にあてゝ、お兼は暫く按摩をして居たが、其れが濟むと、背筋へ湯を注いだ後、小桶を一杯酌み換へて、

「若旦那、お背中を流しませうか。」

「いゝや、澤山。」

と、宗一が湯船の中から答へた時、父はどツかと腰を擡げて、彼と並んで體を浸しながら、

「もう試驗が近くなつたな。どうだ勉强してゐるか。」と云つた。

「えツ。」

宗一は生返事をして下を向いて了つた。「美代ちやんの事が氣懸りで、勉强が出來ません。」と云ふのもあんまり不躾《ぶしつけ》のやうで、不本意ながら噓を吐《つ》いた。

「此の間の話は兎に角先方へ相談してやるから、其の積りで勉强するがいゝ。―――いづれゆつくり聞かせたい事もあるけれど、試驗が濟むまで、學校の方に精を出すさ。」

かう云つて、ザアツと凄じく湯の溢れる音を立てゝ、宗兵衞は湯船を出た。

八

羹 · 第 3 / 5 段