歌舞伎座の春の狂言が、十四日に蓋を開けたので、初日から五日目の日曜日に、野村は中島と杉浦を誘ひ、西の花道に近い平土間へ陣取つて居た。遲れ馳せに宗一の駈け着けた頃は、旣に一番目の大詰の幕が下りて、天井、棧敷、一面の穹窿《きゆうりゆう》に電燈が燦然と閃き、劇場の内部は、さながら灯の雨が降るやうに光の海を現じて居た。

「おい、其處に居るのか。」

と、聲をかけながら、土間の劃《しき》りを傳はつて行く時、宗一には二三人の友逹の顏が眞赤に燃えて輝いて見えた。

「おう、君遲かつたなう。もう一番目が濟んで了つたぞ。」

野村は半分席を讓つて、自分の橫に宗一を坐らせ、頻りとオペラ、グラスを八方へ廻して居る。「市村羽左衞門」「片岡仁左衞門」などゝ記した緞子《どんす》や綸子《りんず》の引幕が舞臺の一方から一方へ、何枚も何枚もする〳〵と展いては縮まつて行く。

「鬼と呼ばれし高力《かうりき》も、淚の味を覺えて御座る。………」

杉浦は唇をへの字なりに歪めて、仁左衞門の口眞似をして、

「今の幕は、仁左衞門が好かつたぜエ。もう少し早く來ると、面白かつたのになあ。」

「家光になつたのは、ありや何と云ふ役者かい。」

と、相變らず中島は說明を求めて居る。

「アレは八百藏さ。―――どうも家光らしい機略が見えないで、八百藏としては出來の惡かつた方だよ。」

「しかし、立派な聲ぢやなう。輪廓もなか〳〵整つとるぢやないか。」

中島は杉浦の批評が腑に落ちないで、内々八百藏に感心したらしい口吻である。

出方が五六人東の花道に立つて、

「○○御連中樣、御手を拜借!」

と、怒鳴つたかと思ふと、向う側の鶉《うづら》、高土間、新高《にひたか》の觀客の間から、バタ〳〵と拍手が起つて、無數の掌が胡蝶のやうに飜る。

杉浦は伸び上つて、劃りの板に腰かけながら、

「ありや、みんな藝者だぜ。山口が居たら喜ぶだらうなあ。」

「左の隅から三番目の柱の處に居るのは、素敵な別嬪ぢやなう。」

かう云つて、指差した中島の手の先には、粹な年增が旦那らしい紳士と、何處かの女將《おかみ》らしい老婆を捉へて、睦ましさうに話をして居る。金煙管と指輪の寶石が、遠くまでピカ〳〵光つて居る。

「うむ、ありや大變な美人だな。萬龍や靜枝なんぞが繪ハガキになつて、彼《あ》の女《をんな》が繪ハガキにならないのは怪しからんね。第一、あんな醜男《ぶをとこ》を旦那に持つて居るのが不都合だよ。われ〳〵有爲《いうゐ》の靑年が、あゝ云ふ男に、おめ〳〵美人を取られて居る法はないぜ。」

杉浦は仰山に地團太を踏んで、

「實際殘念至極だ。………仕方がないから、僕は寮へ歸つたら、鐵亞鈴《てつあれい》を二三百振つてやるんだ。」

と肩を聳やかした。

「橘、彼處に佐々木が來とるやうだぜ。」

野村はオペラ、グラスをヂツと西の棧敷に据ゑて云つた。

「佐々木が來て居る?」

「ほら、彼處に居るぢやないか。」

杉浦は目敏《めざと》く氣が付いて、

「………うむ、さうだ〳〵。佐々木に違ひない。而も此れがまた別嬪を連れて來て居るぜ。―――佐々木の傍に居る若い男は、何だらう。一高の奴ぢやないやうだが。」

「あれは高等商業の淺川と云ふ男だよ。僕の友逹で此の間佐々木に紹介したばかりなんだ。」

宗一も漸く見付け出して、二階を仰いだが、先では一向知らないらしい。佐々木と淺川が腕組をして坐つて居る前に、姉のお靜は母親と並んで手すりに凭《もた》れ、平土間に波打つ群衆の頭の上を、餘念もなく眺めて居る。丁度一階と二階の境目の提灯に電燈がともつ[#「ともつ」に傍点]てお靜の額を眞下からあり〳〵[#「あり〳〵」に傍点]と照らし、うつとり[#「うつとり」に傍点]と無心に一方を視詰めた儘人形のやうに靜止して居る目鼻立を、極めて鮮明に浮き出させて居る。殊に、ピクリとも動かさぬ瞳の色の潤澤、魅力の强さ、宗一は今日程お靜の眼つきを美しいと思つたことはなかつた。

「彼《あ》の女は何者だい。まさか藝者ぢやあるまいな。」

と、杉浦が訊く。

「あの男の姉さんなんだ。」

「へーえ、佐々木もナカ〳〵隅へ置けないね。紹介してくれた君を出し拔いて、芝居へ來るなんか、彼《あ》の男に不似合な藝當をやつたもんだ。」

「僕にもちつと意外だね。たしか七草の晚に淺川の内で骨牌會があつて、其の時先生を連れて行つたんだが、あれから二三度も僕と一緖に出かけたかな。何にしても紹介してから、まだ十日位にしかならないんだ。」

「春子で手を燒いた代りに、あのシスターをどうかしようと云ふ氣が知らん。」

「そんな深い計畫はなからうが、多少惚れて居るらしいね。先生はふだん臆病の癖に、ラブしたとなると、隨分大膽な眞似をするよ。」

「あの器量では、佐々木の惚れるのも無理はないなう。」

豪傑の中島も、半分は惚れたやうな言《こと》を云ふ。

「新派の喜多村にそつくり[#「そつくり」に傍点]な顏をしとるぜ。何處ぞ女學校でも遣つたのかい。」

と、今度は野村が尋ねる。

「虎の門を出たんだ。學校が同じだから美代子もよく知つて居るよ。」

「うん、さうかな。美代ちやんとは何方が別嬪かの。」

「美代子なんか、とても比べ物にならない。淺川の一家は、あの弟にしても、母親にしても、みんな眉目《びもく》秀麗だからな。」

「そりやさうだらう、あの位の女が、無闇とわれ〳〵仲間の細君になられちや困るからな。佐々木だつて、結局失敗するに極まつて居るから安心し給へ。―――第一、ソクラテスのやうな面を提げて居て、あの女に好かれる筈はないよ。」

杉浦はこんな毒舌を振つて居る。

宗一は直ぐ二階へ行つて、佐々木を驚かさうとしたが、もう拍子木が鳴つて居るので、次ぎの時間を待つ事にした。源平布引瀧《げんぺいぬのびきのたき》の中幕が開くと、揚げ幕の向うから羽左衞門の實盛、猿之助の瀨尾《せのを》が、頭の上の花道を步いて來る。丁度實盛の穿いて居る白足袋が、三人の眼の前へ止まつた時、

「羽左衞門は痩せて居るなあ。」

と、突然杉浦が、足許から大きな聲を出した。

しかし、羽左衞門の實盛は濟まし込んで鼻を尖らし、七三《しちさん》の邊《あたり》で、

「瀨尾殿。」

「實盛殿。」

と、互に挨拶しつゝ、本舞臺の九郞助の住家へと練つて行く。

芝居は追ひ追ひ面白くなる。九郞助の家にかくまはれた義仲の奧方|葵《あふひ》御前《ごぜん》が產氣《さんけ》づいたり、生れたのが女の片腕であつたり、其れは怪しいと云つて瀨尾がいきまく[#「いきまく」に傍点]やら、實盛が源氏に志を寄せて辯解するやら、なかなか賑やかである。

口角泡を飛ばすと云ふのは、瀨尾の事だらう。―――「腕《かひな》を生んだ、例《ためし》はねエわイ。」

などゝ、赤面《あかつら》をむき出して喰つて掛かる。

實盛の方は落ち着き拂つて、古《いにしへ》を說き、今を論じ、强引《きやういん》該博《がいはく》、見たところ大變な智慧者らしい。

「團十郞は、實盛と云ふ人物の腹が解らないで、此の芝居をやらなかつたさうだ。」

宗一は低い調子で、ちよい[#「ちよい」に傍点]〳〵通を振り撒いて居る。

「さうかなあ、考へると滑稽だからなあ。」と、中島が相槌を打つ。

「團十郞は馬鹿だよ。こんな芝居に腹も糞もないぢやないか。」

杉浦はかう云つて一喝して了ふ。

とう〳〵瀨尾は追拂はれて、九藏の葵御前がしづ〳〵と二重へ現れる。

實盛九郞助、一同畏まつて平伏して居る。

「あの葵御前には悲觀したな、ひどくまづい面ぢやないか。九藏たる者、羽左衞門や松助に土下座《どげざ》をされて、少し面喰つて居るぜ。………」

杉浦の批評には、端の人まで耳を傾けて、クス〳〵笑つて居る。

勇ましい物語が濟んで、瀨尾が切腹するまでは靜かであつたが、それから又一しきり、杉浦のお喋舌が始まる。

「何と云つても、近來での實盛だつたよ。うまいもんだ。―――實盛の腹はどうでもいゝとして、馬鹿を見たのは瀨尾君だね。白髮を着けるやら、顏を赤く塗るやら、大騷ぎをして跳び出して來ながら、愚にもつかない屁理窟でギヤフンと參つたり、藪の中へ隱れ込んで眼の中へ埃《ごみ》を入れたり、娘の死骸を足蹴《あしげ》にしたり、揚句の果が腹を切つて、ウン〳〵云つてふん[#「ふん」に傍点]反り返るのは御苦勞だなあ。恐ろしく奮鬪的生活をやつたもんだね。」

カチンと木の頭《かしら》を打つて、舞臺は旣に幕切れの見え[#「見え」に傍点]に移つた。きらびやかな緞帳《どんちやう》が、天井からゆる〳〵下り始めて、活人畫《くわつじんぐわ》の天地を一寸二寸と縮めて行く。馬に跨がつて扇を擴げた實盛の頭が先づ隱れる。次いで手塚の太郞の首が隱れる。其の傍に蹲踞つて居る九郞助も順々に隱されて、間の拔けた馬の足ばかりが見える。やがて緞帳の裾がフツト、ライトの光炎に燃えながらばつたりと地に着いて了ふ。

宗一は花道を駈け拔けて、梯子段を上つたが、二階の廊下でばつたりとお靜に出遇つた。後から弟の良作も佐々木もやつて來た。

「おや。」

とお靜はにつこりして、

「宗ちやん何時入らつしやつたの、誰かお連れがおあんなさるの。」

「學校の友逹と一緖なんです。尤も僕は用事があつて、たツた今、中幕の前に駈け付けたんです。」

かう云つて、宗一はお靜と佐々木を等分に眺めた。

「妙な所で遇ひましたねえ。今朝淺川君の前を通つて、ちよいとお寄りしたら誘はれちまつてね。」

佐々木は、何處やら烟つたいやうな顏をして、言譯がましい事を云つた。ソハ〳〵した、嬉しさうな素振が餘所目にも著しかつた。

「お勢ちやんが急に來られなくなつたので、御迷惑だつたでせうが、佐々木君を引張り込んだのです。お母親《ふくろ》も居ますから彼方へ入らつしやいませんか。」

良作も佐々木の尾に附いて辯解した。

「えゝ有難う。小母さんのいらつしやる事も知つて居ますよ。君逹の場所は、丁度僕等の頭の上なんです。―――お靜ちやん實盛は如何《いかゞ》でした。御贔屓の羽左衞門が大分振ひますね。」

「あたしなんか、贔屓の引倒しですけれど、今のは可なり見堪《みごた》へがしましたよ。―――佐々木さんは羽左衞門より高麗藏の方がお好きなんですつて。」

「いえ、さう云ふ譯ぢやありませんが………。」

と、佐々木は頭を搔きながら、

「何だか、羽左衞門は冷酷で、暖みがないから近寄り難いやうに思はれるんです。しかし猿之助の瀨尾は、逹者で、熱があつて好ござんしたねえ。」

「うん、まあ惡かないが、ちつと騷々し過ぎるよ。」

「いつか歌六の瀨尾を見ましたが、あゝ云ふ役は角々が極まつて、猿之助よりズツとうまござんす。『腹に腕《かひな》があるからは』なんぞ、澤瀉屋《おもだかや》は無雜作にすら〳〵と云つ了《ちま》ひましたね。」

良作は團十郞時代から歌舞伎を缺かさないだけあつて、黑人《くろうと》じみた事を云ふ。

「そりや彼《あ》の方が好かつたわ。今度は團藏が演《や》る筈だつたのに、途中で猿之助に變つたんですツて。―――團藏がやると、藝が枯れて居るから、面白かつたでせう。」

佐々木は門外漢の如く、自分の劇評に一顧の價値も與へられないで、憮然《ぶぜん》として三人の傍らに立つた。

又幕が開いた。今度は仁左衞門の「鰻谷《うなぎだに》」である。宗一は此の一と幕だけ、淺川の席へ割り込んで見物したが、お靜も良作も、母親も、一心に舞臺へ注目して、殆んど言葉を交はす機會を與へなかつた。

「あゝ、くだびれたこと。」

幕が閉まると、お靜はガツカリしたやうに、腰を擡げて、

「誰か一緖に運動場へ行きませんか、―――佐々木さんも、宗ちやんも入らつしやらなくツて?」

と云つた。

「僕は、もう直き下へ行きますから………」

宗一が辭退すると、佐々木も氣の進まない面持で、

「僕はお留守居をして居りますから、皆さん入らしツたら宜いでせう。」

かう云つて、苦しさうに笑つた。

「佐々木君、杉浦や中島が來て居るから、ちツと下へも話しに來給へ。」

淺川の家族が出て行つた後で、宗一は置いてき堀[#「置いてき堀」に傍点]にされた佐々木を顧みて云つた。

「えゝ有り難う。中島君は運動家の癖に、やつぱり芝居を見るんですか。」

佐々木の顏には、知らず識らず陰鬱な表情が浮かんで居たが、それでも彼は、努めてあいそ[#「あいそ」に傍点]好く口を利かうとして居るらしい。

「芝居を見ると云つても、大して解りやしないんだよ。中島の事だから、子供が錦繪を見るぐらゐな無邪氣な考へで、面白がつて居るんだらう。別に藝術がどうのと云ふ譯ぢやないのさ。」

「どうせ僕だつてさうですよ。かう云ふ都會の藝術は、細《こまか》いところはとても田舎者に解りませんね。僕は芝居へ來る度每に、何となく妙な壓迫を感じます。」

「しかし、今日はお靜さんが居るから、さうでもないらしいぜ。―――それぢや又後程。」

宗一はから〳〵と高笑ひを殘して其處を立つた。廊下の外の眞黑な夜空には、星がきら〳〵輝いて居た。

「鰻谷」の次ぎに、花やかな所作事《しよさごと》があつて、打ち出しは十時過ぎになつた。

宗一は別れしなにもう一度、淺川へ挨拶をしようとしたが、混雜に紛れて、とう〳〵捜し出せなかつた。杉浦を始め四人の連中は、銀座のそば屋で一と休みして寮へ戾つた。

其の晚、遲くまで佐々木は寮へ歸らなかつた。淺川に進められて、植木店《うゑきだな》に泊つたと云ふ事を、宗一は明くる日の朝になつて知つた。

四五日過ぎてから、朶寮一番の宗一の自修室へ、川崎の消印のある長い手紙が舞ひ込んで來た。「六郷河畔にて、佐々木生」と認めてある封筒を開くと、眞書《しんかき》のやうな筆で、原稿用紙へ細字が二三枚も書き列《つら》ねてある。

[#ここから一字下げ]

歌舞伎座以來、御無沙汰をいたしました。今夜用事があつて歸省したのを好機會に、あなたへ手紙を差し上げます。いづれ明日はお目にかゝるでせうが、手紙の方が思ふ事を十分に述べられると存じますから、御面倒でも讀んで下さい。

先日、歌舞伎座で私はあなたに飛んだ失禮をしました。あなたは勿論、其れに氣が付いていらしツたでせう。さうして、或は私を淺ましい人間だと御考へになつたかも知れません。あゝ、私はどうして、斯うも了見の狹い、片意地な男でせう。どうして、斯うも我が儘な、固陋な人間なんでせう。歸つて來て、自分でつく〴〵呆れて了ひました。

而もあの晚あなたに對しては、あれ程冷淡な態度を示しながら、植木屋へ戾つて來ると、もうすつかり上機嫌になつて、お靜さんや良作君と、夜の二時頃まで元氣よく話をしました。其の樣子をあなたが御覽になつたら、嘸《さぞ》勝手な奴と思つたでせう。私はまるで子供のやうな、取り止めのない感情を持つて居るんです。―――子供のやうなと云へば、いかにも無邪氣に聞えますが、其の實決して無邪氣ではありませんでした。内々私は、殆んど口にす可からざる卑しい動機から、あなたを恨んで居たのでした。それが殘念でなりません。恥かしくてなりません。

有體《ありてい》に懺悔《ざんげ》したら、あなたは御立腹なさるよりも、寧ろお笑ひなさるでせう。實に Trivial な事なんです。お話しするだに極りの惡い位、些細な事なんです。あの日、私逹の連中が突然廊下で、あなたと出遇つて、俳優の噂をしました時、私は言ひ知れぬ淋しさと哀れさを感じました。私の如き田舎者と、あなたやお靜さんや良作君のやうな都會人との間には、永劫に一致し難い Gap があるのだと感じました。

こゝまで申し上げたら、すでにお解りになるでせう。羽左衞門に對する好惡《かうを》、猿之助に對する批評、私の云ふ事は、あなた方に一つとして顧みられませんでした。私は一時、全く會話の埒外に捨て去られて了ひました。無論其れは、あなた方が故意になすつた所行でない事は存じて居ります。けれども私は何となく、お靜さんを自分の掌中からあなたに奪はれたやうに感じました。私は實に Jealousy! の强い人間ではありませんか。

Jealousy! Jealousy! ―――私はもうお靜さんに對して Jealousy を持つまでになつて了ひました。お靜さんは私を正直な朴訥な、田舎者として愛してくれるやうです。芝居へ誘つたり、家へ泊めたりして吳れるのが、通り一遍の深切のやうには考へられません。しかし萬一、私がこんなに頑《かたくな》な、エゴイスチツクな男だと知れたら、お靜さんはどう思ふでせう。幸に此の間の事は感づかれないで濟みましたけれど………。

戀をする男の精神は多忙です。いとしい女の一つの趣味、一つの好惡に就いてさへ、こんなに氣を揉まなければなりません。だが私には果して、羽左衞門が好きになれるでせうか。都會人のリフアインされた生活が理解されるでせうか。

「佐々木さん、あなたは正直で着實な末賴もしい靑年です。あなたは愛すべき靑年です。しかし都會の女にはあなたを戀する事が出來ません。あなたの妻になる事は出來ません。」―――お靜さんにかう云はれたら、何としませう。あゝ私はお靜さんを知つてから、始めて自分の田舎者である事を後悔しました。都會に生れなかつた自分の運命を悲しみました。

ほんたうにお靜さんは、私をどう思つて居るでせう。あの氣高い美しい額の蔭、頭の奧の片隅にでも、私の事を考へて居て下さるでせうか。私は江戶兒の美點とも云ふ可き公明淡泊なお靜さんの性質を、寧ろ齒痒く感じて居ます。お靜さんは男に向つて冷酷だと思へる程淡泊でテキパキして居ます。いろ〳〵の冗談を云つたり、いたはつてくれたりするのが、溫情と云ふよりも、サツパリしたキビ〳〵した氣象から出て居るらしく推察されます。私ばかりか、誰に對しても寸毫《すんがう》の城壁を設けず、嬌羞《けうしう》を帶びずに話をされます。都會の女はあゝもサバケた、さうしてつめたい者でせうか。私には其れが飽き足らなくてなりません。

お靜さんは私を愛して下さらずとも、私がお靜さんを愛して居る事だけ、心付いてくれますまいか。たツた一と言「佐々木はあなたを戀ひ慕つて居ります。」とお靜さんの耳へ入れて置きたいのが、今の私の願ひです。それで可哀さうだと思つて下されば私の氣が晴れます。

あゝ怪しくも奇《く》しきは緣《えにし》なるかな。つい先頃は春子を慕つて居た私、春子を捨てゝ了つた私、それがあなたに紹介されて、僅か半月も立たぬのに、此れ程|彼《あ》の人を思ひ詰めるやうにならうとは。

今時分、植木店の家では暖かい電燈の下に姉弟が睦まじく膝を擦り寄せて話をし合つて居るでせう。なつかしき淺川一家の人々よ。

Shizu-chan よ。―――私は淋しい片田舎に、うす暗いランプの心《しん》を便りとして手紙を書いて居るのです。明日は朝早く戾ります。戀しい戀しい東京の地へ戾ります。

橘君、どうぞ此の物狂はしい手紙を笑止と思つて讀んで下さい。せめて私の切なる戀を、あなただけでも知つて居て下さい。

[#ここで字下げ終わり]

文句は此處でぽつんと終つて居る。戀をせずに一日も生きて居られぬ人間は、佐々木ばかりではない。「あゝ私もかうして居られないのだ。」と宗一は思つた。さうして、手紙を机に投げて、椅子に反り返りながら長大息をした。美代子、美代子、…………美代子はどうして居るだらう。

十二

其の年の春、四月頃の事である。ちやうど第三學期が初まつた時分の或る日の夕方、山口が森川町の下宿の二階でぼんやりと寢そべつて居ると、そこへぶらりと橘が這入つて來た。

「やあ失敬、大分待たせた。どうだいこれから出かけるかい。」

「うん、出かけてもえゝがな。」

と云つて、山口は依然として寢ころんだまゝ、大儀さうに相手の顏をぢろぢろと上眼《うはめ》で眺めて居る。

「なんだい、いやに元氣がないぢやないか。今夜の約束を忘れちまつたのかい。」

「いや、忘れたと云ふ譯でもないんぢやがな、私《わし》はあの約束をえゝ加減の事ぢやと思つて居たんぢやが、いよいよ君が、ほんたうに決心したんだとすると、少々私も驚いて居る次第ぢや。」

「どうしてさ、何も驚かなくたつていゝぢやないか。」

さう云つて、橘は少し極り惡さうににやにや[#「にやにや」に傍点]笑つた。

「しかし後になつて、私が誘惑したなんて云はれて恨まれたりすると困るからなあ。それさへなければ案内してもえゝんぢやけれど、………」

「ふん、柄にもない心配をするぢやないか。いつもそはそは[#「そはそは」に傍点]して遊びに行く癖に、そんなに臀を落ち着けなくてもよささうなものだ。」

「そりや私《わし》一人なら喜んで行くがな、何しろ君は今までに經驗がないんぢやから、さう云ふ人を私《わし》が始めて連れて行くのは、何となく氣が咎めるんぢや。また杉浦にでも知れると、彼奴《あいつ》いよ〳〵私を攻擊するぢやらう。」

「いや大丈夫だ。杉浦には知れないやうにそうつと[#「そうつと」に傍点]出て來たんだから、分りつこはないんだよ。ねえ、だから早く行かうぢやないか。此の間の晚はあんなに僕を勸めて置きながら、いざとなつて澁るなんて甚だ怪しからんぜ。」

「それ、それを云はれるから私《わし》は迷惑すると云ふんぢや。私が勸めたから遊びに行つたと云はれるならほんたうに御免蒙るぜ。私はたゞ一時の興味に驅られてあんな話をしたんぢやからな。」

「あゝさうか、さう云つたのは僕が惡かつた。成る程此の間の話は君が冗談に云つたんだらう。しかし其の冗談に挑發されて、今夜は僕の方から斯うして誘ひに來たんだから、まあ行つてくれてもいゝぢやないか。」

橘には山口が自分の足許を見拔いていやにゆつくり構へて居るのがよく分つた。それでも彼は見す見す相手の策略に乘つて、思ふ壺へ陷つてまでも連れて行つて貰ひたかつた。

「まあ君がそれ程に云ふのなら行つてもえゝ。だが、一體金をいくら持つて居るんぢや。」

「實は此處に二十兩ばかりあるんだ。此れだけあればいゝだらう。」

「ほゝう、大分持つとるんぢやなう。」

山口はにやりとして、

「二十圓あれば何處へでも行ける。だが其の金を全部使はんとえゝだらう。此の間も云うたやうに二人で五兩あつたら大丈夫ぢや。そんなに君に使はせやせん。」

「僕も要心に持つて來たんだから、十圓位は殘して置きたいんだ。兎に角直ぐに支度をして出かける事にしようぢやないか。誰かやつて來ると面倒だから。」

「よろしい、それでは先づ淺草の方へでも行つて見るか。………私《わし》は大分|髯《ひげ》が生えたからちよつと剃つて行きたいもんぢや。ちよつとの間ぢや、待つて居てくれ給へ。」

山口はいそ〳〵と立ち上つて、机の抽出しから西洋剃刀と、剝げちよろの手鏡とを出して、血色の惡い、煤ぼけたやうな頰《ほつ》ぺたへ石鹼の泡をぬる〳〵と塗つた。さうしてところどころに瑕《きず》を拵へたり長い毛を殘したりして、大急ぎで髯を剃つてしまふと、今度は押入を開けて、柳行李の蓋を開いたまゝ何か考へ込んで居る。

「はて困つたもんぢやなあ、餘所行きの着物は此の銘仙きりしかないんぢやが、何しろ親父のお古でもつておまけに此の間臀を拔いてしまつたんでなあ。」

斯う云つて繩のやうに綯《よ》れたまゝ突込んであるものを、ぞろ〳〵と引き出して高く差し上げて見せた。成る程臀の所が一尺程綻びて綿がだらしなく飛び出して居る。

「どうしような、君はひどく洒落とるやうぢやなあ。」

と云つて山口は、節絲の綿入れに新しい小倉の袴を穿いた橘の服裝を羨ましさうに見上げ見下ろした。

「なんだい、君なんぞは年中出かける癖に今更めかす必要もないぢやないか。」

「ところがさうでないて、此れでもやつぱりいゝなりをして行かんと大分持て方が違ふんぢや。よし〳〵、臀が破れて居ても、袴を穿けば分りやせんわ。」

それから山口は足袋が汚いの下駄が穢《よご》れて居るのと云つて、それ等の品を本郷通りで買つて貰ふ約束をしたが、表へ出ると彼はだん〳〵圖に乘つてハンケチや鳥打帽子までも買はせた。しまひには「あの蜜柑を五錢ばかり買つてくれりや。」などと云つて八百屋の前で立ち止つたりした。

二人が雷門で電車を下りた時分にはもう夜になつて居た。

「どうだな橘さん、君は一體吉原がいゝのかそれとも千束町へ行きたいのか、どつちなんぢや。それを極めて置かんといろ〳〵時間の都合があるんぢや。」

と、山口は向島の花見客が雜踏して居る中店を步きながら、何か眞面目な相談でもするやうに仔細らしく橘の耳に囁いた。

「さうだな、僕は何だか吉原へ行きたくないな。千束町にしようぢやないか。」

「なぜ吉原は嫌なんぢや。銘仙屋の女なんぞより花魁《おいらん》の方がいくら氣持がいゝか知れやせんがな。大店へ行けば座敷も綺麗だし、寢道具なんぞそりや素晴しいもんだぜ。」

「けれども僕は何だか花魁と云ふものが嫌ひなんだよ。あの毒々しいゴテゴテの衣裳を着けて居るのからして氣に喰はない。まだ銘仙屋の女の方が、幾分かすつきりして居るやうに思はれるんだ。」

「はゝそりやあ君が無經驗だからさう思ふんぢや。私のやうに遊びの經驗を積んでみると、結局花魁が一番いゝと云ふことになる。君が嫌ならば孰方でも構やせんけれど。」

「いや、いくら經驗を積んだつて、僕にはとても花魁は好きになれさうもない。あんなグロテスクな風つきをした、化物みたやうなものは、てんで僕の趣味には合はないんだ。僕はあつさりとした意氣な女がいゝんだ。」

「ふん、分つた。さうすると何ぢやな、君はつまり藝者のやうなのを要求しとるんぢやな。」

「うん、まあさうなんだ。」

「意氣といふ點から言へば、そりや銘仙屋の女の方が幾分か藝者に近いかも知れん。しかし、斷《ことわ》つて置くが、藝者買をするやうなつもりで居ると大きにあてが外れるから、後になつて愚痴をこぼしても私や責任を持たんぜ。千束町に萬龍や靜枝のやうなのが居ると思つたら、とんだ間違ひぢやからなあ。」

「僕だつてまさかさうは思つて居ないよ。でもまあ、君の働きでなるたけ藝者らしい奴を紹介して貰ひたいのさ。さうして泊るところも、銘仙屋の二階でなしに、どこか待合じみたところへ連れて行つて貰へないだらうか。」

「そこは話しやうでどうにもなる。あゝいふ女を連れて行くには、また其の方の專門の待合があるのぢや。さうすると、何も言はずに私に十兩預けて置いたらどうぢや。今から行くのはちよつと時間が早や過ぎるから、少しその邊をうろついて、十時頃になつたら出掛けるとしよう。十兩あれば、明日の朝まで遊んでも私はお釣《つり》を殘して見せる。うまく行けば朝飯に牛肉ぐらゐは食べられるかも知れんぜ。」

山口は仁王門の蔭のところで橘から十圓札を受取りながら、

「これを何とかして崩さんではいかんな。こんな大きな札を見せたら、きつとぼられる[#「ぼられる」に傍点]に極つとるからな。隙つぶしにおでんでも食うて一杯飮むとしようぢやないか。」

かう言つて、こんもりした公園の櫻の木の間を、十二階の方へ辿つて行つた。

朝からどんよりとしてゐた雨曇りの空が、今にも降り出しさうに曇つて、妙に生暖い、風のない晚であつた。向うの空を焦して居る活動寫眞のイルミネーシヨンや、樂隊の響や、緞帳芝居の囃《はやし》の音や、池の汀に並んで居る露店の灯影や、そんなものが橘には今夜に限つて夢のやうに感ぜられた。子供の時分から幾度となく見馴れて居る公園の夜景が、今夜始めて連れて來られた遠い國の、何か不思議な珍しくも恐しい巷《ちまた》のやうであつた。自分の左右を往き違ふ群衆さへも、自分とはひどくかけ離れた世界の人種のやうに見えた。橘はふと、兩親や乳母の手に牽かれて、花屋敷の猛獸だの奧山の見世物だのを見に來た時分の、二十年も前の頑是《ぐわんぜ》ない己れの姿を想ひ出した。あのころの幼い彼は、淺草に連れて來られるのが何よりも嬉しくて、中店の通りから觀音樣のお堂を眺めると、譯もなく小さな胸が浮き立つて來て小躍りしたいやうな心地になつたものであるが、今夜の彼もちやうど同じやうな心地がする。しかしあの時の無邪氣な喜びと、今の自分の喜びとは、何といふ相違であらう。二十年後の今になつて、この公園が斯うして自分を待構へて居ようとは、その頃の彼には思ひもよらぬ事であつた。父や母は未だに彼をその頃の子供のやうに考へて居るのに、彼はいつの間にか、親から貰つた學費を誤魔化して遊びに來るやうになつてしまつた。それはいゝとしても、今夜の樣子を美代子が知つたならば何と云ふだらう。彼女との仲を割かれた結果だと云ふ事が、何の言ひ譯になるであらう。自分が斯うなる代りに、美代子がこんな眞似をしたら、自分はどんな氣持がするだらう。

「自分はこれを機會に墮落してしまふのではないだらうか。自分はもう、山口と選ぶ所がなくなつて居やしないか。」

さう反省して見ても、それが橘には何の感情をも齎らさなかつた。彼は全身に麻醉藥をかけて物凄い手術を受けて居る人間のやうに自分を思つた。自分が今、忌まはしい穢らはしい境涯に泥《なづ》みつゝあるのだと云ふことが、まるで他人の身の上のやうに空々しく感ぜられた。たゞ何處までも淺ましい惡友のなすがまゝに、快く彼の傀儡《くわいらい》となつて、お坊ちやん扱ひにされて居たかつた。ならうことならば、いつそ目隱しをしてぐんぐんと手を引張つて行つて貰ひたかつた。

「橘さん、君は何を食ふんぢや。私はがんもどきと燒豆腐にしよう。それから其の月見芋を取つてくれや。」

………氣が付いて見ると、橘はおでん屋の暖簾を潜つて、ぐつ〳〵湯氣の立つた煮込みの鍋を前にしながら、山口と肩を並べて居た。

「それから姐《ねえ》さん、正宗一本、お燗を熱くしてな。―――大いに景氣をつけてこれからいゝ處へ繰り込むんぢや。だが何ぢやな、この姐さんのやうな別嬪が云ふ事を聽いてくれゝば、私は何處へも行きたうないぜ。」

山口は一二杯飮んだかと思ふと、直ぐに眞赤な顏になつて他愛もなく女中にからかつて居る。もう先のやうな勿體ぶつた素振りや仔細らしい態度は、疾《と》うに飛んで行つてしまつたらしい。

「君は女さへ見れば誰を掴《つか》まへても口說《くど》くんだな。あの女の何處がいゝんだい。」

おでんやの店を出ると、橘は苦々しさうに云つた。

「いゝ女ぢやないか君、色が白くつてぽつちやり[#「ぽつちやり」に傍点]として居て、私やあゝ云ふ愛嬌のある女が好きぢや。君は全體標準が高過ぎていかんわい。淺草へ女を買ひに來るのに、新橋の一流の待合へ行くやうな了簡で居るからいかんのぢや。あのおでん屋の姐さんのやうなのが惡かつたら、吉原でも千束町でもとても滿足できやせん。だから先《さつき》も斷つて置いたんぢや。ほんたうに君、案内するのもえゝが、後になつて、恨んだりしちや困るぜエ。そのくらゐなら私《わし》は御免を蒙りたいもんぢや。」

山口はわざと仰山に怫然《ふつぜん》として、往來のまん中で立ち止つた。

「まあさ、何もそんなに怒るには及ばないさ。一切君に任してあるのだから、さう手數をかけなくてもいゝぢやないか。」

「いや、手數をかけると云ふ譯ぢやないが、あんまり君が贅澤を云ふからぢや。私は一昨日《をとゝひ》吉原へ行つたばかりだから、今夜はそんなに氣が進んで居らんのぢや。今日は君に賴まれたから據んどころなく出て來たんぢや。全く君の犠牲になつとるやうなものぢや。」

「あはゝゝゝ、犠牲はちつと大袈裟だな。さう恩に着せないでもよからうぜ。」

「冗談ぢやない。ほんたうの話ぢやがな。なんぼ私《わし》が道樂者《だうらくもの》だつて、始めての人を誘惑するのは實際いやな役廻りぢやからなあ。」

「始めてと云へば、僕にさう云ふ經驗が無いのだと云ふことを、先《さき》の女に君から斷つてくれ給へね。さうでないと僕は何だか工合《ぐあひ》が惡いからな。」

「いゝよ、心配せんでも大丈夫だよ。そんなことに氣を揉むなんて、君も可愛い男ぢやなあ。」

こんな事を語り合ひながら、二人は一二時間も公園の彼方此方をさまよつて、バアへ這入つたり立ち見をしたりして隙を潰した。やがて十時頃になつてから、「さあそろ〳〵行つてみよう。」と云ひながら、山口はずん〳〵先に立つて、十二階の下の細い新路《しんみち》へ踏み込んで、兩側にぎつしりと並んだ、明るい家の軒下をぐるぐると經廻《へめぐ》つて行つた。かういふ狹い區域に、どうしてこれほど澤山な横丁があるかと驚かれるくらゐ、其處は蜂の巢のやうに交錯した路地と路地とが、目まぐるしく折れ曲つて居た。さうして其の家々は、孰《ど》れも此《こ》れも同じやうにマチ箱のやうな粗末な普請《ふしん》で、軒燈を掲げた格子戶と曇り硝子の障子を嵌めた窓とが附いて居た。その曇り硝子の内には、白い顏の女共が眼ばかり見えるやうにして、障子の隙間《すきま》から表を覗いて居る。橘は同じ路地を何度も往つたり來たりしたやうに思つたが、實はみんな異つた橫町であつた。橫町から橫町へ拔ける間に、また第三の橫町があつて、それへ這入ると其處にも同じやうな世界が擴がつて居た。もしもあらゆる橫町の底を究めようとすれば、それが細く長く無限に續いて居て、東京市の外へまでも延びてゐるらしかつた。もう公園から餘程遠いところへきたやうな氣がして、ふと立ち止つて空を仰ぐと、不思議にも未だ十二階が頭の上に聳えてゐる。それが橘にはいよ〳〵夢のやうに思はれるのであつた。

「どうぢやな橘さん、この女はちよいと可愛い顏をしとるが、此所《こゝ》いらではお氣に召さんかな。これは千束町の萬龍といふ仇名《あだな》があるんぢや。」

さう云つて山口は、とある窓の前で臆面《おくめん》もなく說明したり、どうかすると馴染の女の家と見えて、

「よう今晚は、先日は失禮。」

などと挨拶をして通つたりする。

「まあ大體この邊のところで我慢せんけりや仕方がないが、この他にまだ、活動寫眞館の裏の方にもうちつと上等な家《うち》があるから、ひとつ彼所《あすこ》へ行つてみよう。」

かう云つて步き出した山口の跡に附いて、家と家との庇合《ひあはひ》のやうな間をひよいと潜つたかと思ふと、再び橘は元の公園の池の前に連れて來られて居た。

「いゝかな橘さん、今度の所は千束町では一流の場所なんぢやから、彼所《あすこ》が氣に入らなかつたらもう駄目だぜ。さうしたら吉原へ行くより他に仕方がないぜ。」

成る程其所は、山口の云ふ通り多少今迄のとは異つて、やゝ道巾の廣い往來に、小綺麗な藝者屋|染《じ》みた二階家が五六軒かたまつて居た。

一時間ばかり過ぎた時分、二人の男は二人の女の跡について、半町ばかり後《うしろ》から見え隱れに、夜の更け渡つた公園の未《いま》だに人通りの絕えない町を、わざと交番の前をさけながら、辿つて行つた。先に立つた女逹は、傳法院の前から中店を橫ぎつて、暗い狹い小路の間をうねりながら、時々姿を闇に消したりした。

「待合といふのは全體何處にあるんだらう。」

「もう直き其處《そこ》ぢや。きつと花川戶の方にあるんぢや。あゝあ、これで私《わし》もやつと責任を果したわい。」

と山口が云つた。橘はいくらか元氣がよくなつてゐた。

明くる日一日、寮にも敎場にも姿を見せなかつた橘は、晚の九時頃になつて、ぐでんぐでんに醉ひながら山口と一緖に駒込の杉浦の下宿へやつて來た。

見ると、杉浦はたつた一人、頭から蒲團をすつぽり被つて小說を讀んでゐる。

「やあ、君逹は何處へ行つてゐたんだ。昨夜《ゆうべ》から居なかつたぢやないか。」

「うん」

と云つたきり、橘はどしんとあぐら[#「あぐら」に傍点]を搔いて坐つた。

「いや大きに失敬した。昨夜《ゆうべ》川甚へ行つて泊つてしまつたんぢや。君を誘はうと思つたんぢやけれど、生憎見えなかつたもんぢやからなあ。」

さう云つて、山口はから〳〵と笑つた。

「見えない事があるもんか。己《おれ》はお前逹を散々捜したのに、何處にも居ないから獨りで呂昇を聽きに行つちまつた。今日になつても歸つて來ないなんて、怪しからん奴だ。未だいくらか殘つて居るだらう。罰金に何か奢らんけりや承知しないぞ。」

「うん奢らう。何でも奢らう。」

「よし、よし、其奴は賛成だ。」

杉浦は蒲團を撥ね起きて、寢間着の上へ袴を穿いた。

十三

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拝啓

先日は失禮いたしました。あれから佐々木君に御會ひになりましたか。僕の方へはあれきりさつぱり訪ねて來ません。尤も訪ねて來る譯にも行かないでせうが、僕も内々どうして居るかと心配して居ります。

きつと佐々木君は僕等に對して怒つて居るのでせう。此の間會つた時にも、あの話はどうなつたんだ。まだ姉さんに話してくれないのか。もう二た月にもなるのだから、機會がないと云ふ譯はあるまい。默つて棄てゝ置かれては、半殺しにされて居るやうで落ち着かないで困る。と云つて、例の調子で性急に追究するのです。定めてあなたにも不平を洩らした事だらうと思ひます。

しかし、僕の方でも決して投げやりにしてあるのではないのです。佐々木君にはまだ姉に話さないと云つて居ますが、實はもう疾《と》うに話してあるのです。さうして大體姉の意向も聞いて居るのです。けれども其の意向が佐々木君の爲めに決して芳ばしいものでない以上、それを無造作に返事する譯には行かないぢやありませんか。佐々木君なら家柄と云ひ人物と云ひ、決して僕の方に不足はない。それは僕にしろ母にしろ、皆さう思つて居るのです。正直のところ當人さへ承知なら直ぐに纏まる話なのです。ところが當人の姉が、田舎は嫌だと云ふのですから、どうも仕方がありません。僕からは何とも挨拶のしやうがなく、いつまで經つても、姉に話す機會がないといふ一點張りで、佐々木君に答へる外はありません。僕は事實を吿げるのが辛いので、謎を讀んで貰はうとして居るのです。結婚の話を斷る場合には、さういふ風にするのが當り前ぢやありませんか。東京の人なら、その謎が分らない筈はありませんが、佐々木君にしたつてもいゝ加減に氣が付いてくれてもよささうなものです。嫌なら嫌でハツキリと答へてくれろと、佐々木君は云ひます。ですが、正直に打ち明けたなら、佐々木君のやうな人は、きつとこれきり僕の所へ來なくなるだらうと思ひます。僕はこんな事で友逹を一人なくなすのが嫌ですから、それでいろ〳〵案じて居るのです。

就いては、あなたから何とか佐々木君の誤解を解いて下さる譯には行きますまいか。僕の方の眞意を婉曲に傳へて下すつて、今後同君と僕等との間に、不愉快な感情が殘らないやうにして頂ければ非常に結構です。さうして、成らう事ならば、佐々木君と御一緖に僕の所へ遊びに來て下さるやうに願ひます。どうぞ何分御賴み申します。

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かう云ふ淺川の手紙が、或る日橘の許へ屆いたのは、もう花見の時候が過ぎて四月が暮れようとする頃であつた。同時に彼の机の上には、春の休暇に近縣地方へ旅立つて以來、未だに學校へ出て來ない佐々木からも、頻々と繪葉書だの書狀だのが寄せられて居た。

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三月二十七日、夜來の豪雨を冐して東京出發。只今無事甲府着。此れより昇仙峽に遊び、鰍澤に出でて富士川の奔湍《ほんたん》を下るつもり。

ぬばたまの笹子の闇のをたけびに我が世の末を戰き思ふ

委細は後便にゆづる。

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と云ふのが第一便である。それから又四五日過ぎて、こんなのが來てゐる。

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たとへば我は地に傷ける鳩の、鮮血のしたゝる翼を搏《う》つて果しもなき天涯《てんがい》に翔《あまがけ》るが如し。

たゞ息の續く限り、力の許す限り、再び大地に落ちるまでは飛び行かんとこそ思へ。きのふは龍華寺に詣でゝ高山樗牛の墓を訪ひ、唯今三島に着、此れより箱根の舊道を踏破して小田原に出づる豫定に御座候。同地より汽船に投じて伊豆の下田に參り、更に大島に遊ばんかと存じ居り候。

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其の明くる日には直ぐ追ひかけて、

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箱根|本宿《もとじゆく》より蘆の湖畔に沿うて姥子の湯に參り、大涌谷、地獄谷を經て仙石原に到着、やう〳〵脚絆《きやはん》草鞋《わらぢ》を脫いで唯今硫黃の溫泉に漬かり申し候。明日《あす》は乙女峠を登りて富士の裾野を俯瞰《ふかん》せばやと存じ候。同宿に夫婦連れの旅藝人あり、妻なる女の二十前後なるが、いつの間にか我と懇意になり、いろ〳〵と愛想よく話しかけるも、旅情を慰むること夥し。夫は盲人の淨瑠璃語りなり。

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と、書いて來て居る。それから最後の郵便は伊豆の伊東から出したものらしく、原稿用紙へ二三枚ほど細々《こま〴〵》と認めてあつた。

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もはや四月の下旬に相成り、學校もそろ〳〵始まつたらうと思ひますが、私はまだ故郷へも東京へも歸る氣にはなれません。何だかあなた方の顏を見るのが極りが惡いやうな氣がします。折角旅に出て忘れかけた悲しい感情が、東京へ行けば再び想ひ出されはせぬかと、それが恐しさにかうして未だにうろついて居るのです。一月に近い旅行の間に、私はさまざまの事を覺えました。どうにでもなれと云ふやうな心地になつて、通りすがりの宿場々々の情《なさけ》を賣る女共に身を任せる事をさへ、厭ひませんでした。―――あゝ、何といふ淺ましい我になつたのでせう。―――いつそこのまゝ旅の空で野たれ死にしてしまつた方がいゝくらゐです。

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この手紙で見ると、もう橘の手を煩はすまでもなく、佐々木はすつかり絕望の淵に沈んでゐるらしかつた。さうして墮落と廢頽とが、橘ばかりでなく、佐々木の身の上にも附き纏つて來るやうであつた。

こんな事を考へながら、ぼんやりと寮の中庭を步いてゐると、

「どうぢや橘さん、今夜あたり、また此の間の所へ行かうかな。」

かう云つて、不意に山口が後《うしろ》から彼の肩を叩いた。

「今に己逹は皆《みんな》山口のやうになつてしまふんだ。失戀した者の運命は誰も彼も同じ事だ。」

ふと、さう思つて、橘は默念《もくねん》として相手の顏を視詰めて居た。

Transcriber's Notes

羹 · 第 5 / 5 段