頻りに快晴の天氣が打ち續いて、敎場に授業を受けて居ながらも、學生逹は爽かな外氣を戀ひ慕ひ、心は常に野を夢みた。勉强の爲め圖書館へ隱れても、寢室へ逃げ込んでも、秋の囁きが耳に聞え、眼に映り、魂をそそのかして、日の暮れるまでは落ち着いて讀書も出來なかつた。午後の三時頃、學校が濟んで寮へ戾ると、みんなカラ〳〵と朴齒《ほゝば》の下駄を鳴らしながら、ステツキを突いて何處かへ消え失せて了ふ。主なき自修室の机の上へ放り出された敎科書に、一日|日《ひ》がかんかん[#「かんかん」に傍点]と照つて、頁がひとりでにぴらり、ぴらりと飜つて居るが、誰も夜になるまで歸つて來ない。中島はグラウンドへ行つて、野球の練習をして居る。淸水はテニスコートへ出て汗を搔いて居る。野村は「交際術の一種」と稱して、池の端の碁會所へ通つて居る。此の頃は大分上逹して初段に六目《ろくもく》まで漕ぎ付けたと云ふ。
「ふと歸つて、ふと出でゝ行く日和かな。―――どうだい、名吟だらう。」
と云ひながら、杉浦も出かけて行く。或る時は淸水と一緖にテニスをやつたり、野村に同伴して碁の硏究をしたり、連中を狩り催して艇庫から船を出したり、野球の試合に馳せ參じたり、杉浦は多技多能を以て誇りとして居るだけに、殆ど遊ぶ方で寧日《ねいじつ》がない。夜になつても、ぷいと姿が見えなくなつて、歸るのは通例十時過ぎである。いつでも試驗の四日ぐらゐ前から蒼惶として準備に着手し、大槪五番以上の成績を占めて居る。
大山も何處へ行くのだか、屹度散步に出かけて了ふ。超然として他の連中とは關係なく、勝手に歸つて來て、飯を食つて勝手に寢て、勝手に勉强して居る。
宗一も半分は大山の眞似をして、晝間自修室の空明《からあ》きの時分に、せツせと讀書したり、小田原へ送る手紙を認《したゝ》めたりした。
「戀は人をして孤獨ならしむ。」
さう云ふ考へが彼には嬉しかつた。强ひて淋しい所へ身を置いて、美代子の事を考へながら、勉强をする。戀の手紙を書く。乃至甘い瞑想に耽る。………其れが無上の樂しみであつた。
一と月程の間に、汐風に染まつた皮膚の色はすツかり剝げて、顏も手足もつや〳〵と白くなつた。日增しに肥えて行く肉附きを、時々湯上りの鏡にうつしてぴたぴたと腕を叩きながら、彼は暫く自分の裸體に見惚れてゐる事もあつた。或る晚、宗一は運動のついでに、本郷の唐物屋から小型の鏡を買つて來て、それを机の上に立てた。
「やあ、君いゝ物を買つて來たね。」
杉浦は早速目をつけて、自分の顏をうつして見ながら、
「大分髯が生えたなあ。」
と、頤を撫でゝ、浩嘆《かうたん》するやうに云つた。
土曜日曜に宗一が歸宅する時は、屹度途中まで野村が附いて來て、
「君、日本橋で鮨のうまいのは何處だらう。」
などゝ、晝飯の案内を賴む。花村、中鐵《なかてつ》から追々進んで大國屋などへも上り込む。いつも勘定となると、
「そりやいかん、僕に拂はしてくれ給へ。」
と、野村は懷から帛紗《ふくさ》に包んだ古い繍《つゞ》れの紙入れを出す。面倒臭いと思ひながらも、始めの四五度は附き合つた宗一も、しまひには氣の毒になつて、
「今日は少し都合が惡いから、失敬する。―――板新道《いたじんみち》にうまい天ぷら屋があるさうだから、君行つて見たまへ。」
こんな事を云つて、斷《ことわ》つて了ふ。すると野村は路を尋ねて一人で出かけ、歸りに歌舞伎座、明治座あたりを覗いて、番附や筋書を大切に抱へて、夜遲く寮へ戾つて來ると、なんにも知らない運動家の中島を捉へて得意の觀劇談を試みる。
「梅幸か、梅幸はわしも知つとるよ、暑中休暇に國の方へ來て芝居をやつたことがある。―――なか〳〵好い女子になるなう。あれは君、上手なのかい。」
と、中島が尋ねる。
「うむ、芝翫よりは僕は好きだぞ。」
「さうかな、芝翫よりはいゝかな。―――わしの親父は權十郞と云ふ役者を大變褒めて居つたが、そんなにいゝのかい。」
「權十郞と云ふのは、今居らんよ、そりやきツと昔の役者だらう。」
二人が眞面目で問答して居るところへ、淸水がスツキリした、ひよろ長い制服姿で、尖つた靴の爪先を立てながら、西洋流に跫音を忍ばせて入つて來る。
「淸水君、今日は何處へ行つたんだい。」
と、野村は氣輕に聲をかける。
「僕か、僕は代々木のミス、リヽーと云ふ女の所まで行つて來た。」
「リヽーと云ふのは、オールド、ミスかい。」
「うん、三十前後のレデーだよ。僕は事に依ると、今夜英語の寢言を云ふかも知れんぜ。何でも二三時間英語ばかりで話し續けて居たんだから。」
「大したもんだなあ。」
と、中島は冷かすやうな口調を弄したが、生憎杉浦が居ないので、辛辣な警句も出ない。
さう云ふ晚に、杉浦は大槪娯樂園か、江知勝《えちかつ》あたりへ二三人で飮みに行つて居た。さうして、門限の過ぎた時分にこつそり生垣を乘り越え、高い調子で笑つたり、歌つたり、喚いたりしながら、眞靑に醉拂つて歸つて來ると、ガタンと突慳貪《つつけんどん》に寢室のドーアを開けて、開け放したまゝ赤裸で蒲團の中へもぐり込んで了ふ。
小田原からは、五日に一遍ぐらゐ、鴇色《ときいろ》の洋紙に長々と書き列《つら》ねて、宗一の許へ送つて來た。
「あたし東京へ行きたくつて、行きたくつて仕樣がないのよ。宗ちやんにもお目に掛りたいし、叔母さんにも隨分御無沙汰して濟まないけれど、どうしても當分は出られないの。此れはごく〳〵祕密なのよ。母も相談に與らないらしいのよ。實は此の間、母がそツとあたしを呼んで、お父さんから結婚の話が出たら、お前は承知するつもりかツて尋ねられたの。何と云つて好いか解らないから、おツ母さんさへ承知ならツて、云つて置いたの。勿論まだハツキリと決まつた譯ぢやないけれど、此の頃は氣が落ち着かないで、仕樣がありません………。」
それから又二三日過ぎて、
「………先日の手紙、宗ちやん御覽になつて。寄宿舎なんぞへ時々手紙を上げて惡かないの。うるさいと思召すか知れないけれど、此の頃は淋しくつて、便りがなくつて、手紙でも書くより外、氣が紛れないの。ほんとに濱町に居た時分は、賑かで面白かつたわね。あたし彼の時分がなつかしくつてならないのよ。………」
手紙の文句は、だんだん細やかな、切ない情を訴へて、しみ〴〵と書き綴られてあつた。森閑とした晝の寢室で、胸をときめかせながら讀んでゐるうちに、宗一は譯もなくほろ〳〵と淚を流した。女は婉曲に自分へ結婚を迫つて居るのだ。他から結婚問題の持ち上らぬ先に、早く自分と話をつけて了ひたいのだ。さうだとすれば、宗一の取るべき方法は自ら明かであつた。其の運動に着手する順序として、兎に角一應美代子に會つた上シツカリと當人の意向を突き止めて置きたい。
「御手紙拜見仕り候。就いては近日中に拜顏、篤と御相談致したき事|有之《これあり》、小生の方より參上致す可きか、それとも單身御上京あるか、いづれにても差支|無之《これなく》候間、其邊の御都合伺ひたく、至急御一報下され度候。」
好ましい事ではないが、已むを得ず女名前にして、宗一は直ぐに返事を認めた。
其の後、二日經つても三日經つても美代子からは何とも云つて來なかつた。彼は今更早まり過ぎたやうに感ぜられて、いざと云ふ瀨戶際に、女が躊躇して居るのかとも想像した。自分のした事は、あまり輕擧の嫌ひがなかつたらうか。自分は結局、あの輕擧を輕擧として、後悔しなければならないのであらうか、女は自分の心を見拔いたまゝ自分を放り出して、棄て去つて了ふのであらうか。
「君は昨今意氣悄沈してるね。」
と、杉浦は或る時、晝飯の休み時間にうらゝかな日あたりのいゝ石段へ腰をかけて、ぼんやりとテニスを見てゐる宗一の肩を叩いた。
「さうかい、そんな譯はないんだが。」
「譯がないとは云はせないぜ。逐一僕に白狀し給へ。」
かう云つて、杉浦はにや〳〵と底氣味惡く笑つた。
「何を白狀するんだい。」
「江戶ツ兒と云ふものは、もう少し虛心坦懐でなくちやいかんぜ。相州小田原の消印のある手紙は、ありや一體何だい。」
ところへ、淸水が洋服の上着を脫いだ輕快ないでたちで、ラツケツトを持つたまま、コートから駈けて來た。
「橘君、あの手紙では大分杉浦が心配してるぜ。もう疾《と》うからみんなで疑問にして居たんだ。君はどうもいかんなあ。」
と、ヅボンのポツケツトから、眞白な、なまめかしいハンケチを出して、顏の汗を拭き〳〵、息をせい〳〵[#「せい〳〵」に傍点]はずませ乍ら、
「………僕だつて、そんな解らずやぢやないから、隱さなくたツていゝぜ。そりや何だよ。本當に、眞面目なラブならば、僕等の信仰と少しも矛盾しないばかりか、寧ろ同情を持つてるよ。」
かう云つて、淸水は宗一の傍へ腰を下した。シヤツがべつとり[#「べつとり」に傍点]と濡れてくツ着いて、胸隔の狹い、細長い胴が呼吸の度每に激しく波打つて居る。
コートの方では絕え間なくぽん、ぽん、と球の音がした。其れが小春日和の朗かな空に響いてネツトを掠めて走つて行く球が、白線を描きつゝ、流星のやうに飛び違ひ、入り亂れる。
「原田ア、スタイルが好いぞウ。」
淸水は痩せた體から、大聲を出して怒鳴つた。原田と呼ばれた男は、半顏にてかてか[#「てかてか」に傍点]と赭色《しやいろ》の日光を浴びて、眉を顰《しか》めて球を打ちながら、ちよいと此方を向いてニツコリした。
「………一體あの手紙の主は何者だい。娘か、藝者か。」
杉浦は眞顏を作つて、詰るやうに、
「………兎に角堂々と狀袋へ名前を書いて寄越すんだから、人目を欹《そばだ》てるね。え、おい、一體あれは娘か藝者か。」
「まあ、孰方でもいゝさ、何れ話すから。」
「いや、孰方でもよくないよ。娘か藝者か、其處が判明するに從つて、我々の肩の入れ方に大差を生ずるからな。君にしても、僕等の臀押しがあれば、意を强うするに足るぜ。非常に重大な利害問題だぜ。」
「野村は、何でも君の事だから、相手はいなせ[#「いなせ」に傍点]な藝者に違ひないツて、頻りに想像を逞しくして居るからなあ。」
かう云つたのは、淸水である。
「若し美代ちやんなる者が藝者だとすると、野村の江戶趣味先生は喜ぶかも知れないが、淸水ピユーリタンは之を擯斥《ひんせき》するさうだ。成るべく美代ちやんが良家の令孃で、英語がぺら〳〵で、洋服が似合つて、理想の高い淑女である事を希《こひねが》ふのださうだ。」
「僕はさう云つたんぢやないよ、藝者だつて眞面目な戀ならばいゝさ。」
「成る程、そんなら猶の事安心だ。君、君、云ひ給へ。」
其の時、からん、からん、と授業の知らせの鐘が鳴つた。
「何《いづ》れ機會があつたら、きツと話すよ。」
「うん、今夜あたり、飮みながらゆつくり[#「ゆつくり」に傍点]聞かう。―――今度の時間は倫理だな、おい、ラツケツトを借せ。」
杉浦は淸水の手からラツケツトを奪つて、
「返辭をして置いてくれ給へ。」
かう云ひ捨てゝコートの方へ駈けて行つた。彼は學課が氣に入らないと、いつでも敎場へ出なかつた。而《さう》して、敎師が出席簿を讀み上げる時だけ、友人に賴んで、代つて返辭をして貰ふのが常であつた。
「僕は、返辭をするのは困るよ。」
淸水は苦々しい調子で云つた。
「そんなら橘に賴んだぞウ。」
かう叫びながら、杉浦はぽんと球を靑空へ打つた。
宗一は倫理のノートを取りに自修室へ入つたが、いつの間にか一通の手紙が、自分の机に載せてあつた。考へると丁度一週間目に、小田原から返辭が屆いたのである。封書ではあるが、文句は極めて短く、而も卷紙へ鉛筆であわたゞしげに、
「御返事がおくれてほんとに申譯がありません。あれから急にいろ〳〵の事件が降つて湧いて、宗ちやんに手紙を上げるのさへ、内證でなければ出來なくなつたの。今日は父も母も留守なのでやう〳〵ひまを見て、此れだけ書いたのよ。まことに濟みませんが、此れから宗ちやんもあんまり手紙をよこさないやうにして下さい。若しよんどころない用事があつたなら、端書へちやんと本名を記してよこして下さい。」
と、ぞんざいな走り書で認めてある。
どうしても宗一には「自分の事を斷念してくれ。」と、云ふやうにしか判じられなかつた。戀しさと、哀れさと、腹立たしさが、胸の内で渦を卷いた。恐ろしい力で、頭をグワンと撲《う》たれたやうに、體中が痺れて、心が晦《くら》くなつて、意氣も根氣も張合も、彼は一度に取り落した。
「淸水君、僕も休むから君が嫌なら誰かに杉浦と僕の返辭を賴んでくれ給へ。」
かう云ひ捨てゝ、彼は散步に飛び出した。
僅か一瞬の間に、自分の境遇が激しい變化を來たしたやうに思はれた。戶外《おもて》を步きながら、自分で自分の悲しい顏が、見えるやうに感ぜられた。往來には午後一時の日が黃色く照つて、眼に快い程の明るさが、ぱツと大地へ映つて居る。眞直な本郷通りが、路を行く人の下駄の齒まで數へられさうに、果てから果てへくツきり[#「くツきり」に傍点]と澄んで冴え返つて、追分の角へ立ちながら「おーい」と呼んだらば、三丁目の電車の終點に聲が響きさうである。遠くの方の家々の一部や、人間の着物などが、時々白く小さく、ピカ〳〵と光る。其の細かい、光る物を、彼は遙にヂツト視凝めてぼんやりと步いて居た。大學の正門から血色のすぐれた四五人の角帽が、ノートを抱へて威勢よく語り合ひつゝ、彼と擦れ違ひに駒込の方へ行つた。
何だかまだ、一縷《いちる》の望みがあるやうにも考へられた。唯あの手紙の文面を臆測したゞけで、がツかりして了ふのは、早計のやうにも信じられた。平生の美代子の性質から推すと、輕々しく自分を棄てゝ父の云ふなり次第に、心にもない結婚をする筈がない。少くとも、自分と結婚が出來ると云ふ、希望が確であつたならば、選んで他へ嫁ぐ筈はあるまい。さう解釋するのが至當であつた。さう解釋して、宗一の方からも、堂々と美代子の家へ結婚を申し込んで見るのが、上策であつた。
「おい、獨《ひとり》で何處へ行くんだ。」
丁度靑木堂の前へ來た時、宗一は聲をかけられて振り返つた。杉浦と、もう一人見知らぬ男が連れ立つて、後から追ひ着いて來た。
「何だい、君も休んぢまつたのか。僕の返辭をどうしたんだい。」
「淸水に話して置いたから、誰かに賴んでくれたゞらう。」
「いやにそは〳〵してるぢやないか。全體何處へ出かけるんだ。例の手紙の一件かね。」
「あんまり天氣がいゝから、ぶら〳〵步いて見ようかと思つて。」
宗一はもどかしさうに彳みながら、浮かぬ顏をして、出放題を云つた。
「此れから柴又《しばまた》の川甚《かはじん》へ行くんだが、君も一緖に附き合ひ給へ。それともお邪魔かね。」
「うゝん、そんな事はない。」
一層《いつそ》こんな時には、友逹と一緖に田舎の景色を眺めて、酒を飮むのも惡くない。と、宗一は思つた。
「君に此の男を紹介する。―――此れは佛法《ふつはふ》の山口といふ人間だ。始終女郞買ばかりして、向陵の健兒の面汚《つらよご》しを一手に引き受けてる男なんだが、感心に少しばかり端唄《はうた》がうまいんだよ。まあ後で川甚へ行つたら、ゆつくり聞けるがね。」
「何を云うとるんぢや君、初對面の人に、そんな事を云はんでもいゝがな。」
と、山口は、靑黑い、むくんだ顏を迷惑さうに顰《しか》めたが、やがて髯だらけの頤を搖るがして、から〳〵と如才なく高笑ひをしながら、
「や、橘さん、お名前はかねてから承知致して居ります。江戶趣味の方では、野村君の先生ださうで。」
と、眼鏡の奧から、ぎよろりとした、一と癖ありげな瞳に愛嬌を含ませて、下脹れの頰へ深い皺を作つて、薄氣味惡くにこにこ[#「にこにこ」に傍点]して見せる。古ぼけた新銘仙の袷の上へ、紡績の綿入羽織を重ね、裾の綻びた小倉の袴にぴたんこ[#「ぴたんこ」に傍点]な薩摩下駄を穿いたところは、如何にも胡散臭くて、端唄を呻りさうな柄でもない。宗一は、同じ二本筋の帽子を冠つた學生のうちに、こんな連中のあるのが可笑しく感ぜられた。杉浦は隨分變な人間を友逹に持つ男だと思つた。
「杉浦さん、川甚などへ行かんと、橘さんに何處か下町の粹なところを、案内して貰うたらどうぢや。」
「いや、つまらん、つまらん、やつぱり柴又へ行かうよ。今から運動に彼處まで出かけると、時間の都合もいゝよ。お前の端唄を聞く代りに、橘君がいゝ物を聞かせるさうだ。」
杉浦は山口に限つて、特に「お前」と云ふ代名詞を使つた。
「へーえ、そりや賛成ぢや。わしの端唄は、橘さんの前などぢや迚《とて》も出やせんよ。」
「まあ、そりやどうでもいゝがな。―――橘君、君先刻の約束を履行するんだぜ。」
と、杉浦は面白さうな、根性の惡さうな眼つきをした。
「約束ツて何を。」
「Der Brief von Odawara.」
かう云つて、杉浦は、ふゝんと鼻の先で輕く笑つた。
やがて三人は、上野から海岸線の汽車に乘つて、金町へ向つた。丁度南千住の停車場へ近づいた頃、山口は小塚原の向うを眺めて、
「杉浦さん、あすこが吉原だぜ。」
と、耳打ちをし乍ら日本堤を指した。
「どれ、何處が。」
「彼處に見えとるがな、彼《あ》の土手《どて》が日本堤ぢや。あの土手がズウツと續いて、彼處に高い家が澤山見えとるだらう。あれぢや、あれが、吉原なんぢや。晚になると、燈がついて、綺麗だぜエ君。」
山口は綺麗でたまらないやうな聲を出した。
「お前の行く家は何處なんだい。」
「そりや此處から見えん。―――何處と云つて、一軒にきまつとる譯ぢやないが、私《わし》や此《こ》れから當分|中米《なかごめ》へ行くと極めた。いゝ華魁《おいらん》が居るぜエ。」
「それで一と晚にいくら懸るんだ。」
「三兩!」
と、山口は右の手の指を三本、ぴたりと眉間へ押しつけながら、
「之丈《これだけ》あれば大丈夫ぢや。一兩でも二兩でもやつて行けるが、まあ三兩ぢや。」
杉浦は面白半分、冷かし半分に、妓樓の内幕だの、遊興の形式だの、詳しい質問を試みて、山口の經驗談を聽いた。吉原ばかりか、品川でも、新宿でも、千住でも、洲崎でも、山口の足を踏み入れない所はなかつた。大槪一週間に二度ぐらゐ遊ばなければ、とても辛抱し切れないと云つた。惚れられて金を貢《みつ》がれた話や、夜中に振られて相方《あひかた》を追ひかけ廻した話や、恰も深奧な哲理を語るやうに、委曲《ゐきよく》を盡して說明した。
「そんなに道樂をして、それでお前は、よく頭を壞さないな。學校の成績だつて、あんまり惡くないぢやないか。」
杉浦はしまひに感心して、こんな事を云つた。
「一向壞さんのぢや。却つて辛抱しとる方が、氣がむしやくしや[#「むしやくしや」に傍点]していかんのぢや。女郞買に行つて來た朝などは、頭がカラツとして、私やせいせい[#「せいせい」に傍点]するがな。」
「けれども萬一梅毒にでも罹つたら、頭だつて惡くなるだらう。」
「いや、梅毒なんて、ありや何でもないんぢや、あれ程容易く直る病氣はないんぢや。鼻が落ちるなんて、昔の事なんぢや。それにあの病氣は免疫性で、一度罹つたら二度と移らんから、植ゑ疱瘡も同じ事ぢや。」
「何も、さう俄にえらい鼻息にならなくつてもいゝよ。―――お前も梅毒をやつた事があるかい。」
「うん、事に依つたら、やつとるかも知れんなう。どうも時々、腰が痛んでならんから。」
山口は急に眼鏡を曇らせ、陰鬱な顏をして、腰の廻りを平手で撫でた。
其れから其れへと、二人の問答は、金町の停車場へ着いて、帝釋天《たいしやくてん》へ行く畑道まで續いた。健全な家庭や寄宿寮の生活で、夢にも聞く事の出来ない、耳馴れぬ卑しい話を、猥《みだ》りがましい言葉を使ひながら、山口は平氣で喋舌つた。彼の口にかゝると、女と云ふ物は、唯もう醜《みぐる》しい慾望の對象のやうにしか取れなかつた。戀とか、憧れとか、―――若い人々の感情を湧き立たせて、心を恍惚の境に運ぶ淸い貴い樂しみは、此の男の胸に微塵も潜んで居ないらしかつた。若し放蕩の結果が、誰に對しても山口と同じやうな、荒《すさ》んだ人間を作らせるならば、放蕩程忌まはしい物はない、と、宗一は思つた。
あゝ美代子、美代子、………それにつけても美代子はどうして居るであらう。宗一は二人の會話を聞きながら、時々追ひかけられるやうな、切ない、忙《せは》しい氣持に襲はれて、重い溜息をついた。山口の樣な人間は論外として、世の中に自分程淸い心を以て、戀人を慕ふ男はあるまい。自分程熱烈な愛情を戀人に注ぐ人はあるまい。美代子が生涯の夫と賴んで、自分程確な、十分な幸福を與へ得る人は、斷じて外にない。萬一、二人が別れ別れに生きて行くやうな事になつたら、自分にも、美代子にも、永久に不仕合せな月日が纏はるであらう。此のくらゐ明白な利害問題に、世間の親が眼をくれないで、敢て其の子を死地に陷れるやうな、不自然な、不合理な結婚を强ひる理由が何處にあらう。親としては迂闊とも、疎忽とも、不深切とも、云ひやうのない話である。自分はどのやうな障害を排しても、必ず美代子と結婚しなければならない。………
「お前はいつ頃から、女を買ひ始めたんだい。」
と、杉浦は、帝釋天の境内を後へ拔けながら、相變らず問答を繼續して居る。
「私《わし》は中學を卒業した年からぢや。―――杉浦さんは、まだ一度も覺えがないのかな。」
「うむ。………學校の連中で、女を知つてる奴はあんまりないだらう。」
「橘さん、君はどうぢや。下町の女は綺麗だからなう。」
「僕だつてまだピユーアだよ。下町とか、江戶趣味とか云ふと、いかにもみだらな風俗のやうに思ふけれど、純粹の東京人の家庭は、そりや嚴格なもんだよ。一般に都會の男や女は、田舎よりズツト行儀がいゝやうに思ふ。」
と、宗一は眞面目な考へを述べた。
「さうかなう。男でも女でも、ピユーアな奴と、ピユーアでない奴とは、私や一と眼見れば大槪判る。まあ君方は、ピユーアだらうよ。―――一遍關係すると、女なんて者は何ともなくなるから不思議ぢや。」
「さうだらうなあ。女と云ふ物を知つて見ると、あのくらゐ馬鹿らしい物はないさうだからなあ。」
と、言ひながら、杉浦はステツキをクル〳〵と空に廻して、眼の前に現はれた土手の頂きへ活潑に馳せ登つた。幅廣《はゞひろ》の中川の水が帶のやうに悠々と流れて、薄《すゝき》や葦や生茂つた汀に、「川甚」と記した白地の旗がぱたぱた鳴つて飜つて居る。川向うの見渡す限り田圃の打ち續いた葛飾の野を吹き越えて、强い風が一度に堤へぶつかつて、三人の袴の裾を掠《すく》ふやうにする。遙に晴れた東の空には、筑波山が靑く鮮かに泛んで居る。
「何處か川緣の座敷は空いて居ないか。」
と、杉浦は先へ立つて川甚の玄關へ入つて行つた。時々ボートで中川を溯《さかのぼ》つて、此の家の川添ひの座敷に一盞《いつさん》傾けるところから、女中はみんな杉浦の顏馴染であつた。
「あゝ私や草臥《くたび》れた。腰が痛うてどうもならん。」
山口は一と間へ通ると、早速大の字に反り返つて、
「時に杉浦さん、今來た女中はちよい[#「ちよい」に傍点]と好いがな。私やあゝ云ふ、ぽちや〳〵太つた女が大好きぜエ。」
と、橫着さうに頰ぺたを疊に押しつけた。
一と風呂浴びて、三人が膳の前へ坐つたのは四時近くであつた。短い日脚がもう暮れかゝつて、夕燒けの光が、川波の尖つた面や、帆掛船の肩先を、斜にあかあかと照した。豪酒家の杉浦は、肴の來ないうちから、ちびり〳〵と杯を乾して、頻りに二人へ進めた。
「橘君、君と飮むのは初めてだ。山口は下戶で話にならないんだから、君一つ、大いに飮んでくれ給へ。」
「ありがたう。僕の親父は酒飮みだから僕も今にきツと强くなるだらう。」
かう云つて、宗一はなみ〳〵と注がれた杯の緣を唇にあてた。一年に二度か三度、何かの會合の時より外は、めつたに手にしない杯中《はいちゆう》の酒の色を、かう云ふ席でしんみり[#「しんみり」に傍点]と眺めるのは今日が初めてゞ、濱町の家とは非常に緣の遠い、怪しからぬ境遇に身を置きながら、親の許さぬ罪を作りつゝあるやうな氣持もした。一滴を舌に啣《ふく》んで、グツト飮み下すと、熱い液體が湯上りの腸《はらわた》へ燒けるやうに滲み通つた。何だか、日本橋邊の、始終親父の飮む酒よりも惡いやうに感ぜられたが、其れにも拘らず、杉浦はうまさうに幾杯となく傾けて居る。
蒲燒、鯉こく、すつぽん煮、―――そんな料理が順々に三品程、膳の上に列べられた。
「なんと杉浦さん、此の鯉には鱗が着いとるがな。」
鯉こくの碗をすゝりながら、山口はこんな事を云つて、女中に笑はれて居る。先《さつき》から漸く一杯か二杯飮んだらしいのに、顏から顎まで眞赤に染まつて、眼ばかりぱちぱち光らせて居る。
「お前の顏は醉ふと猥褻《わいせつ》になるなあ。そんな顏は土手の馬肉屋へでも行かなければ、あんまり轉がつて居ないぜ。」
杉浦がかう云つたので、一座はどつと吹き出した。見た事もない光景を好い加減に想像して、時々圖星を刺すやうな知つたか振りの警句を吐くのが、杉浦の得意とする所であつた。
いつしか日はとつぷり暮れた。暗い川面の方には、ぴちやり、ぴちやりと船の橫腹を叩く波の音が聞えて、ぎい、ぎい、と鳴る櫓聲と共に、闇を行き交ふ舳《へさき》の灯が、徐《しづか》にする〳〵と滑つて居る。宗一は久しぶりの醉心地にうつとりとなつて、緣側の敷居に足を投げたまま、戶外《おもて》の景色を凝視した。成らう事なら、二人の前に自分の戀のいきさつを打明けて、一緖に泣いて貰ひたいやうな氣分にもなつた。
「かう云ふ晚に月があると猶いゝんだがな。………江北江南無限の情だね。」
と、杉浦は杯を片手に、眼を低くして庇の外の空を仰いだ。
「山口、もうそろ〳〵歌が出てもいゝ時分だらう。」
「橘君が何か聞かせると云ふんだらうがな。」
「まあ、お前からやるさ。お前の歌だけは、全くうまいんだから、僕が保證するよ。」
「さう褒めんでもやるよう。」
山口は琵琶法師のやうに柱へ凭れて眼を閉ぢ、少し仰向き加減に頤を突き出して、えへんと咳拂ひをしたが、「それぢや立山《たてやま》を一つ。」と、口の中で斷《ことわ》つて、「あ、しやん、しやん。」と口三味線で唄ひ始めた。
「峰の白雪麓の氷、もとは互に隔てゝ居れど………」
歌の文句も、節廻しも、宗一には此れが山口の咽喉から出るのかと驚かれる位、綿々の恨みを惹いて、美しく見事に響いた。殊に甲《かん》の調子に高まる刹那の、りんりんと張つた聲の立派さ。更に細く微な錆聲《さびごゑ》に轉じて、長く長く顫はせて行く味ひの深さ。態度と云ひ、技巧と云ひ、堂々たる藝人の壘《るゐ》を摩《ま》さんばかりで、到底佐々木の詩吟などの比ではなかつた。唄ひ終る迄、杉浦も宗一も、耳を垂れ、息を凝らし、あたりは水を打つたやうに靜かであつた。
「ちよいと、唯今はどうも有難うございました。誰方《どなた》だかほんとにお上手でいらつしやいます事ね。彼方《あつち》へも好く聞えるんでございますよ。」
かう云つて、例のぽちや〳〵太つた女中が座敷から駈け込んで來た。
「さうら〳〵、どうだ山口、いつその事みんな出しちまつたら。」
「よし、私《わし》やかうなると幾許《いくら》でもやる。」
山口は又眼をつぶつて、自分の調子に聞き惚れるやうに、額を上げ、首を振りつゝ、今度は二上《にあが》り新内《しんない》を唄つた。「墨田のほとりに住居して………」と、先づ最初から、魂をそゝるやうな美音を轉がすと、しん[#「しん」に傍点]とした夜の河上に餘韻が傳はつて、遠い野末に住む人まで、耳を傾けるかと訝《あや》しまれた。古い端唄の「わしが國さ」「忍ぶ戀路」「秋の夜」など、後から後からと、山口は聲を絞つて唄ひつゞけた。
「ほんとにねえ、あなた書生さんのやうぢやありませんねえ。」
と、女中は幾度も感嘆した。
三人とも、少し寒さを覺える程に興奮して、一座は何となく白けて了つた。杯の酒も冷たくなつて居た。
「おい、酒だ酒だ、熱いのを持つて來い。」と、杉浦は德利を高く翳した。
「時に杉浦さんの義太夫はどうぢや。此の頃ちつとは進步したゞらうがなあ。」
と、山口は藝事《げいごと》にかけたら師匠であると云ふやうな、面《つら》つきをした。
「ちツと[#「ちツと」に傍点]とは何だ。怪しからん。」
杉浦は直ぐと負けない氣になつて肩を聳やかし、上半身を妙に拈《ひね》くらせて奇態なしな[#「しな」に傍点]を作りながら、
「其の淚が蜆川《しゞみがは》へ流れたら………」
と、炬燵のさはり[#「さはり」に傍点]を語り出した。薩摩琵琶とも淨瑠璃ともつかない、齒の浮くやうな節廻しに東北辯の訛が交つて、時々切なさうなきいきい[#「きいきい」に傍点]聲を發したが、
「よう―――ふん、ふん、なか〳〵うまいぞ。」
と、山口が仔細らしく手を拱《こまね》いて感服して見せるので、當人はさも嬉しさうに相好《さうがう》を崩して語り通した。宗一は笑ふまいとしても、をかしさが込み上げて來て、吹き出さずには居られなかつた。女中も袂を口へあてゝ轉げながら逃げて行つた。
「どうしたんぢや杉浦さん、えらいうまくなつとるがな。」
と、山口は呆れたやうに眼を圓くして、馬鹿々々しく大げさな驚きの思ひ入れをしながら、
「………其の淚がア、チン、蜆川へエ、ながアれたアアらア、小はるウ、………彼處邊はうまいもんぜエ、いや、もう昇之助そつくりぢやがな。」
「おい、おい、今度は橘の番だぜ。女中も居ないし、丁度いゝから、先刻の約束を履行するんだ、―――まあ、改めて一杯やり給へ。」
杉浦は獨りで一升近くの酒を呷《あふ》つて、非道《ひど》く酩酊して居るらしかつた。それでも呂律《ろれつ》の亂れたり、體のよろけたりするやうな醜態を演ぜず、泰然自若として杯を宗一にさした。
「君、君、僕は決して人の祕密を口外するやうな人間ぢやないぜ。山口だつて、隨分油斷のならない男だが、お喋舌りの方だけは大丈夫だよ。僕が請合ふよ。話し給へ、話し給へ。」
「何か知らんが、そんなに隱さんと、橘さん話したらどうぢや。君のやうな男は、女子に惚れられるに極まツとるんぢや。今に道樂でもして見給へ、其りや必ず持てるぜエ。」
「さう煽《おだ》てなくつてもいゝさ。」と、宗一は苦笑して云つた。
「いや別に煽てやせんがな。君なんぞ、きツと純潔な女子を慕うて居るんだらうが、私《わし》にだつて、其の氣持は解つとるよ。」
宗一は二人の追求をすげなく拒絕する氣にはなれなかつた。山口のやうなさま〴〵の女を知り盡した人間に、自分の戀を說明して、何か其れに關する意見を叩いて見たくもあつた。山口が實驗の上から齎した女性に對する解釋も、一應參考にする價値はあらうと思つた。
「そんなら話をしよう。」
かう云つて彼は何か込み入つた用件を談ずる事務家のやうな口吻《こうふん》で、一部始終を丁寧に語つて聞かせた。
「………それで、僕にはどうも女の心持が呑み込めないで困るんだよ。さう云ふと可笑しいが、本當に僕を戀ひ慕つて居るものなら、何の積りで今日のやうな手紙を寄越すんだらう。自分の戀を犠牲にしても親の命令に服從するやうな柔順な考へなのか、それとも、實際僕を戀して居ないで、今迄好い加減に飜弄して居たのか、つく〴〵判斷に苦しむよ。女と云ふ物は、男とは違つた心理作用を持つて居るんぢやないかと思ふ。」
宗一は話の結末に、こんな疑問を附け加へて、
「兎に角、僕はもう一度會つて見たいんだ。會ひさへすれば、本人の心もよく解るし、ほんたうに僕と結婚したい了見なら、親父に賴んで見ようとも考へてゐるんだ。しかし、向うで手紙を寄越すな、面會には來てくれるな、と云ふんだから仕樣がない。戀はして居ても、結婚は出來ないと云ふやうな戀ならば噓だと思ふよ。」
「そりや、さうに違ひないな。………けれども女の頭と云ふ物は、案外徹底しないもんだから、戀と結婚とを別々に考へて、一向矛盾を感じないんだらうよ。好きな男と添ひ遂げられず、親の取り極めた婿を貰つて、憂い目辛い目をしながら、蔭でめそ[#「めそ」に傍点]〳〵と失戀の悲しみに泣くやうな境遇を、却つて深刻だと思つてる女が澤山あるよ。それも一生泣き通すならいゝが、大槪結婚すると昔の事を忘れて了つて、直に現在の亭主や子供が可愛くなるんだからなあ。」
かう云つた杉浦の言葉は、如何にもませ[#「ませ」に傍点]て居て、世馴れない靑書生の述懷のやうではなかつた。宗一は美代子に限つて、「結婚すると昔の事を忘れちまふ」やうな、輕薄な女でないと、腹の中で辯解した。
「橘さん、何とかして小田原へ行つて、其の人に會へんものかな。」
と、山口が口を開いた。
「訪ねて行つたら、まさか會はない事はないだらうよ。唯あゝ云ふ手紙が來て居る位だから、會つたところで、十分話をする機會はなからうと思ふ。それに女の方で來るなと云ふのに、此方から出かけて行くのも意氣地がないからね。」
「いや、構はんから、君小田原へ行き給へ。場合に依つたら、非常手段を取つて、駆落をするんぢや。」
「そんな事も考へて見たが、とても實行する勇氣はないよ。第一、女が承知しないだらう。」
「いや、する、する。承知するに極まつとる。承知しないやうなら、君に惚れて居らんのぢや。―――ツルゲネーフのルヂンと同じことぢや。」
「山口がルヂンを知つてるのは、ちよいとをかしいぜ。」
杉浦はこんな時でも、冷笑の種を見逃さなかつた。
「駆落をせんでも、半日ばかり何處かへ誘ひ出して、其の女と關係を附けて了ふんぢや。其れが一番早道ぢや。さうなつたら、女と云ふものは、決して男を忘れやせんがな。」
「そんな事は絕對に嫌だよ。」
と、宗一は少し不快な調子で答へた。
「嫌ぢやと云ふなら止むを得んけれど、其れが一番早道だぜエ。會ひに來てくれるなとか、手紙を寄越すなとか云ふのは、つまり未だ關係が附いて居らんからなんぢや。關係が附いて了へば、女子はもうおしまひぢや、何でも男の云ふ事を聽くんぢや。」
「馬鹿を云へ、何でも云ふ事を聽くツて、相當の家の娘を捉へて、そんな事が出來るか出來ないか考へて見ろ。」
杉浦が橫合から、荒々しい聲で憤慨して云つた。
「そりや君の方が解つとらんのぢや。」
山口は罵られてカツ[#「カツ」に傍点]とした樣に、杉浦の方へ向き直つて眞赤になつて喰つてかゝつた。
「………相當の家の娘にしたところが、惚れてる男から持ち込まれゝば、肌を許すに極まつとるんぢや。寧ろ許す方が道德上當然なんぢや。若しも許さんやうな女子なら、私や薄情だと思ふ。實際男に惚れて居らんのぢや。」
「だからさ、だからさ、まあ僕の云ふ事を聞け。………」
と、杉浦は激しい見幕で、山口を制しながら、
「………そんな事はお前に云はれんたつて解つて居るさ。女と云ふ者は、直に男に誘惑され易いんだから、何もお前が橘をけしかけ[#「けしかけ」に傍点]て、好んで娘をキズ者にするには及ばんぢやないか。」
「いやいや何も好んでキズ者にさせると云やせんぜエ。君は今誘惑と云うたが、そりや成る程誘惑かも知れん。知れんけれども誘惑した後の結果を見給へ。其の爲めに二人とも望み通り結婚が出來て、幸福な家庭を作れたらどうぢや。好い加減に弄んで、捨てゝ了ふとは譯が違うとるぜ。決してキズ者になんぞなりやせんがな。」
「キズ者にならない事があるもんか。一度關係したら最後、萬一其の男に捨てられやしないかと云ふ不安と弱點とが娘に着き纏はつて、處女としての誇《プライド》も純潔《ピユーリチー》も失つちまふぢやないか。たとへ一時でも、結婚前に身を汚せばキズ者ぢやないか。此の位娘に取つて可哀さうな事はないぜ。それでも其の男と首尾よく一緖になれゝばいゝが、萬々一なれなかつたらどうするんだ。よくも道理を考へないで、惡い事ばかり人に敎へて、それでお前はいゝ積りなのか。」
威丈高になつて、相手を睨み付けながら、杉浦は滔々と反駁した。二人とも肝心な宗一を其方除《そつちの》けにして、暫く夢中で云ひ爭つた。
「君のやうな口の逹者な者に、理窟を云うても抗はんが、私の云うた事は、必ず間違つとりやせん。」
結局山口は銳く云ひ捲くられて、こんな負惜しみを云つて默つて了つた。
「お前のやうな惡黨は始末に困るよ。」
杉浦はかう云つて、意氣揚々と便所へ立つて行つた。
「ほんとに口の逹者な奴ぢや。私や議論をすると、いつでも杉浦が憎うてならん。あの馬鹿者めが!」
と、山口は相手の後姿を見送りながら、無念の齒嚙みをした。
其の晚、川甚を引き上げたのは九時過ぎであつた。山口は一文も持つて居ないので、四円足らずの勘定を、杉浦と宗一とが分擔した。
五
「橘さんはいらつしやいますか。電話でございます。」
と、寢室のドーアを開けて、呼び覺ました小使の聲に、宗一はふと眼を覺した。
「何、電話?」
かう云つて、夜具を捲くつて立たうとしたが、昨夜の川甚の酒が未だ頭に殘つて居て、彼はふら〳〵と昏倒しさうな懈怠《けだる》さを覺えた。二日醉ひの結果、思はず寢過ごしたものと見えて、彼の周圍の蒲團は殘らずきれいに疊まれてあつた。枕許の時計は、もう十時半である。顏も洗はず、寢間着の上へ袴を着けて、彼は惶てて電話口へ飛んで行つた。
「もし、もし、あなた宗ちやん………」
なまめいた女の言葉が、受話器から耳の奧へ傳はつた時、半分寢惚けて居た彼の意識は一瞬間にハツキリと冴え返つた。
「あなた宗ちやん、………あたし誰だか判つて?」
「うむ、判つた、判つた。」
「あのね、あたし今本郷三丁目の自働電話に居るのよ。今朝早く内證で小田原から出て來たの。………宗ちやん此の間の手紙御覽になつて、………」
「あゝ」宗一はなつかしい聲音をしみ〴〵と味はふやうに耳を傾けた。此の聲、此の人に自分は幾日憧れたであらう。………普通の年頃の女よりは稍《やゝ》落ち着いて、テキパキと明瞭に發音する物の云ひ振りが、電話では殊に著しく感ぜられ、美代子の姿が髣髴《はうふつ》と浮んで來るやうであつた。
「それでね、今日中に是非歸らなくツちやならないのだけれど、ちよいと[#「ちよいと」に傍点]でいゝから、あたし宗ちやんにお目に懸りたいの。どうにか時間の都合がつかなくツて?」
「そんなら直《ぢき》に行くから、其處邊《そこいら》に待つて居てくれないか。」
「だつて學校があるんでせう。」
「ナニ休んだつて構はないんだ。」―――かう云はうとして、彼は電話の傍に腰かけて居る寮務室の委員の手前を憚り、又一つには男としての鷹揚な態度を失ひ過ぎるやうにも思つて、
「いや、別に差し支へない。」
と、答へた。
「さう、濟まないわね。それぢや四つ角で待つて居てよ。」
「うむ、左樣なら。」
電話を切ると、彼は楊枝《やうじ》を咬へて、洗面所へ駈けて行つた。
やつぱり美代子は、宗一を戀して居るのであつた。齒を硏きながら、口を嗽《すゝ》ぎながら、彼は天から授かつた幸福な今日の一日を如何にして送らうかと頭を惱ました。此の機會を利用して、結婚問題の解決方法を講じなければならないと云ふ、實際的な考へよりも、先づ第一に二人で手を携へて、喜び合ひ勇み合ふ光景の想像に心を躍らせた。
いつものやうに水風呂に漬かつて寢室へ戾つて來ると、行李の底から、取つて置きの薩摩がすりの綿入に羽織を引き出して、其れを纏つた。袴も先日濱町から貰つて來たばかりの、襞《ひだ》の整つた小倉の大名縞の餘所行きの方に穿き更へた。戶外《おもて》へ出ると、昨日と同じ上天氣で、心持風が立つて居た。もう二三日の後に近づいて居る冬の時候を想はせるやうな、肌寒い空氣がうらゝかな日射《ひざし》の裏に潜んで居た。うれしいやうな、悲しいやうな氣を起させる日であつた。
萬事を當人に打つかつてからの成行に任せて、と、何等の方針も考へずに、彼は本郷通を眞直ぐにてく〳〵步いた。長らく照りが續いて、鐵板の如く乾いて、堅くなつた往來の地面には、小石の粒が鋲《びやう》を打ち込んだやうに埋まつて、無數に頭を並べて居る。そんな物を宗一は無心に眺めた。殆ど生活の目標を失つて居た昨日の悲觀狀態から、急に希望に充ちた光明世界へ浮び上つた喜ばしさに、半分は精神の爽快を覺えながら、二日醉ひの胸の塞《つか》へと、蟀谷の痛みが、全く拭ひ取られないのを、彼は忌まはしい事に思つた。尤も其れは僅かの間で、やがて美代子の姿を見たならば、忘れられるに違ひないであらう。
勸工場《くわんこうば》の前まで來ると、一町ばかり向うから、眼まぐるしい通行人の間を避けて、女はちら〳〵と笑顏を覗かせながら、近寄つて來る。
「どうも暫く。」
と、丁寧にお辭儀をして、宗一の前に立つた時、いろいろと苦勞の種を訴へて寄越した程、美代子は打ち萎れても居なかつた。却つて頰のあたりは肉が附いて、赤みがゝつた、元氣の好きさうな血色に見えた。あらい大島の龜甲絣の對《つゐ》の着物に、金春織《こんぱるおり》の白茶地に花丸模樣の丸帶を締め、銀の平打《ひらうち》を挿した高島田の風情は、もう結婚期に迫つて居る處女の資格として、男に對する相應な落着きと分別とを備へて來たやうに感ぜられた。宗一は自分より年嵩《としかさ》になつて了つたやうな、物馴れた女の素振と、きらびやかな服裝に氣壓《けお》されて、輕い嫉妬を覺えながら、
「好く來られたね。―――ま、其處いらまで一緖に行かう。」
と、云つた。
「今日はあたしやつと[#「やつと」に傍点]の事で出て來たの、手紙に書いた通り、此の頃は家《うち》がやかましくつて仕樣がないの。それに此の間の宗ちやんの手紙ね、あれがおツ母さんに知れつちまつて、お前は宗ちやんと何か約束でもしたんだらう、なんて云はれて、散々叱られたもんだから、あたしもうやけ[#「やけ」に傍点]になつ了《ちま》つたの。一昨日《をとゝひ》宗ちやんに返辭を上げた時なんか、何が何だか頭が滅茶苦茶で自分なんぞどうなつてもいゝと思つて居たのよ。」
美代子は、こんな事をすら〳〵と流暢に喋舌つた。
「やけ[#「やけ」に傍点]になつたから、誰と結婚しようが構はないと云ふのかい。」
かう云ふ意味の反問をしようとしたが、適當な、圓滑な言ひ廻しが出來ないので、宗一は遠慮して了つた。いくらひいき[#「ひいき」に傍点]目《め》に考へても、自分に遠慮と云ふ氣分を作らせるだけ、女は人形町時代から見ると、多少態度が異なつてゐた。
會はないうちは、手紙の文句から推量して女の身の上を憐れんで居たのに、今は自分が憐れまれるやうな境遇に轉じた。女はどん〳〵思ひのまゝを喋舌つて行かうとするのに、男にはどうしてもそれが出來ない。何とかして今日一日の間に、此の不自然な關係を打ち破つて、昔の通りの親しみ易い間柄に復らなければならなかつた。
「かうやつて、步きながら話をして居ても仕樣がない。………」
湯島五丁目の停留場のところで、宗一はふと立ち止つて、
「何時頃に歸ればいゝの。」
と、優しく訊いた。
「八時ごろまでの積りで出て來たんだけれど、日一杯に歸ればいゝわ。」
かう云つて、美代子は今日の外出の口實を話した。幼い折の乳母《ばあや》が東京から尋ねて來て一泊したのを幸ひに、新橋まで送りがてら、ちよい[#「ちよい」に傍点]と出て來たのだと云つた。其れも父の不在を附け込んで、半ばは喧嘩腰で母に泣き着き、
「お歸りには私がステンシヨ迄お見送り申しますから、大丈夫でございますよ。」
と、乳母《ばあや》に助言して貰つて、漸く許されたのださうである。
「お父さんには内證だから、濱町へ寄るんぢやありませんよ。」
と、出しなに母からダメを押された事まで附け加へて語つた。
「そんなら、少しはゆつくり出來るんだね。」
宗一は一二臺の電車をやり過ごしながら、
「………上野の方へでも行つて見ないか。」
「えゝ、けど宗ちやんのお友逹に見付かりはしなくツて?」
「大丈夫だよ。家の者にさへ知れなければいゝぢやないか。」
「だつて、學校の方に見付かツちや嫌だわ。―――何かあたしの事を、お友逹にでもお話しなすつたの。」
美代子は臆病な眼つきをして、聞き咎めるやうに云つた。
「大丈夫だよ。」
宗一は同じ文句を繰返した。戀人に對しては、絕對に正直を守つて、微塵の祕密をも藏しまいとした心の誓ひが、もう破れて了つた。
「さう、そんならいゝけれど、時々手紙なんか上げたから、若しか知れやしないかと思つて、隨分心配しちやつたわ。ほんとに默つて居て頂戴ね。みだらな眞似をするやうに思はれると、嫌だから。」
かう云つた最後の一句は、恥かしさうな、消え入るやうに微かな聲であつた。
何處かへ行つて休むにしても、平生友逹と一緖に出かける「藪そば[#「そば」に傍点]」や牛肉屋では、女が可哀さうである。立派な令孃、立派な學生と云ふ體面を保つに適當な、品のいゝ料理屋の靜かな座敷を擇びたかつた。家柄の正しい新婚の夫婦か、兄弟と間違へられても、素性の惡い野合《やがふ》の男女のやうに見られたくない。………彼の蟇口《がまぐち》の中には、寄宿舎の賄《まかなひ》へ支拂ふ可き十一月分の食料と、それから半月ばかりの小遣ひと、合せて十二三圓の金が、此の間母親から受け取つたまゝ手着かずに入れてあつた。兩親に隱して一時其れを融通しても、彼は女に肩身の狹い思ひをさせたくなかつた。
「此れをみんな遣つて了つても、何とかしたら又家から貰へるであらう。」―――こんな目算が、彼の胸の奧に潜んで居た。苟くも金錢問題に關して、今迄毛程の疚《やま》しい行爲すら許さなかつた自分の良心が、女の爲めに譯なく鈍つて了ふのを、宗一は我ながら驚かれたのである。
「もう直きお午《ひる》だがお腹《なか》が減つて居やしないか。」
「いゝえ、ちつとも。―――もう少し步いたつて構はないわ。」
「しかし、どうせ何處かで飯を喰べなきやならないんだから………。」
かう云ひながらも、宗一は美代子に釣り込まれて、又そろ〳〵と步き出した。
平生父が宴會の歸りに、土產に持つて來る料理の折の燒印を想ひ浮べて、百尺《ひやくせき》、岡田、福井などゝ、彼は順々に考へて見た。藝者を呼ぶではなし、酒を飮むではなし、懷の金だけあれば十分であらう。土曜日曜ならば格別、木曜日の而も時間が晝間の事ゆゑ、下町の茶屋へ入つた所で、顏が會ふやうな恐れもあるまい。どうせ行くなら、父が昔放蕩を盡した柳橋の土地、なつかしい江戶の空氣の殘つて居る柳橋の、大川添ひの料理屋の離れ座敷が慕はしかつた。
「兎も角も兩國まで。」と云つて、松住町から電車へ乘らうとする時、
「宗ちやん、あなたは其方からお乘んなさいな。」
と、美代子はわざ〳〵彼と別々に、運轉手の臺の方から中へ入つて、五六人を隔てた席へ、澄まし込んで腰をかけたきり、成る可く言葉を交さないやうに側方《そつぱう》を眺めて、たま〳〵男の方から眼で笑つても、心付かない風を裝つた。其の樣子が、
「人ごみの中で、少しはあなたもお嗜みなさい。」
と、男を叱りつけるやうにしか取れなかつた。
「罪人ではあるまいし、何でそんなにビク〳〵する必要があるんだらう。」
と、宗一は思つた。
淺草橋で下りた二人は、暫く途方に暮れて彳んだまゝ、顏を見合はせた。
「何だか此方へ來ると濱町へ知れるやうな氣がしてならない。」
美代子は往來を見るのが恐ろしさに下を向いた。
「いつそ柳光亭へ行つて見ないか。なまじな所よりも、却つて居心地がいゝだらう。」
「さうね、あたし、何だかきまりが惡い。」
きまりの惡いのは宗一も同じであつたが、强《しひ》て女を勵まして、下《しも》平右衞門町の柳の植わつた川岸《かし》通《どほ》りを、柳橋の方へ步いた。
天氣がいつの間にか曇り始めて、淡い、煙のやうな雲が、靑空に掩ひかゝつて居た。其れにも拘はらず、大川の水の色は飽くまでも濃く、川蒸汽の白波が、殊更鮮かに眼立つて居る。婀娜《あだ》つぽい姿をした湯歸りの藝者が、二三人擦れ違ひざま、美代子の顏をふり返つて行つた。
柳光亭の門口には、きれいな俥が四五臺並んで居た。今しがた水を打つたばかりの、漆塗のやうに輝く玄關のたゝきを見ると、宗一は再び氣後《きおく》れがして、「書生の癖に生意氣な。」と女中に蔑まれさうに弱々しい心になつた。二人はひろ〴〵とした、玄關の前に立つて、案内を乞うたが、誰も相手にしてくれないのか、容易に奧から人の出て來るけはひ[#「けはひ」に傍点]はなかつた。いつそ此處から引き返して了はうかと思つた位、宗一は極りの惡い、落ち着きのない氣持に襲はれた。
「お客樣ですよ。誰か居ないのかい。」
暫くしてから、キビ〳〵した女の聲が聞えると、女中が一人ぱた〳〵と駈けて來て、二人の前へ中腰に蹲踞《しやが》んで、垂直に垂れた指の先を、ちよいと疊へ擦り着けながら、
「お二人さんでございますか。」
と、不愛想な顏をした。
玄關を上つて、左へ左へといくつも折れ曲つた細い廊下の盡きたところで、女中が襖を開くと、其處は誂へ向きの大川添ひの小座敷であつた。靑い靑い、たつぷり[#「たつぷり」に傍点]とした水面が、窓より高く漫々と膨れ上つて居るのを見ると、二人共窮屈な胸のこだはり[#「こだはり」に傍点]がサツパリして、少し興奮したやうな嬉しさを覺えた。
「お風呂が沸いて居りますが、お召しになつては如何でございます。」
女中が茶を出しながら訊いた。
「いや、僕はいゝ。」
「あたしも澤山よ。」
美代子は半分宗一の方を向いて答へた。
「左樣でございますか、丁度空いて居りますから、お二人さんでお召しになりましたら………。」
かう云つて、女中は其の時始めて笑つた。
宗一は、いつか知らず鷹揚な、大膽な心になつて、水に近い柱に凭れながら、片手を窓の閾に伸ばして、どつしり[#「どつしり」に傍点]とあぐらを搔いた。もう斯うなれば、女の爲めに不正の金を遣はうと、兩親を欺かうと、其れに換へ難い歡樂の蜜をすゝる事を辭さなかつた。こんな時に女が駆落をしようと云ひ出せば、彼は決して否《いな》みはしまい。地位も名譽も捨てゝ、どんな野の末へでも、逃げて行くであらう。
「お誂《あつら》へ」を極めて、女中が退つて了ふと、美代子は手持無沙汰のやうに行儀よく座蒲團の上へ畏まつたまま、默つて居た。お互に面と向ふのが工合が惡く、川の景色を眺めるより外仕樣がなかつた。宗一は、何か話をしなければならない場合に迫りながら、まだ本問題に入るのは早いと考へた。さうして、
「一體二人は何に見えるだらうな。」
と、さも打ち解けた、空々しい聲で云つた。
「さうね、………きつとをかしな者に見られて居るんだわ。お二人さんでお風呂をお召しになりましたらなんて、好くあんな事が云へるもんだわね。」
「それでも未だ此處いらは好い方だよ。僕の友逹なんか女と一緖に森ケ崎の鑛泉へ行つたら、賴みもしないのに眞ツ晝間夜具蒲團を出されて閉口したさうだ。」
「其の女と云ふのは、女學生なの。」
「うん。」
「宗ちやんのお友逹には、そんな方が澤山あつて。」
「澤山と云ふ程でもないさ。やつぱり僕等と同じやうな境遇になれば、仕方がないぢやないか。別段惡い事をするんぢやあるまいし………」
宗一は自分と美代子とを慰めるやうに云つた。
剝身《むきみ》の辛子《からし》あへ[#「あへ」に傍点]に、猪口《ちよこ》と割箸を載せた平たい膳が二人の前へ据ゑられた。女中が盃洗《はいせん》だのお銚子だのを運び込んで來るのを見ると、宗一は何となく、酒の爲めに此の場合の神聖を汚されるやうに感じた。徹頭徹尾、今日の對談は眞面目で通したい。少しも不純な無禮な態度を以て女を遇すまい。彼はさう云ふ考へから、絕對に醉を買はない覺悟であつた。それでも、
「まああなた、お一ついかゞでございます。」
と、女中に進められて、斷りを云ふのが面倒臭《めんだうくさ》さに、
「あんまり飮めないんだから、此れぎりにして、後はサイダでも貰はうかな。」
と、彼は最初の一杯を淸く受けた。
「お天氣が大分怪しくなつて參りましたね。今日はお酉樣《とりさま》ですのに、降らなければ宜しうございますが。」
女中はお酌をすると暫く其處へ坐つて、美代子の服裝を流眄《ながしめ》に視ながら話しかけた。
「あゝ今日はお酉樣か、もう直き正月だな。」
「ほんとに嫌でございますねえ、年ばかりどん〳〵[#「どん〳〵」に傍点]たつて了ひまして………。」
未だ十二時頃であるのに、戶外は夕暮のやうに暗くなつて、向う河岸の百本杭のあたりには蒼白い靄が籠つて居た。兩國橋の電車の響きが水の上を傳はつて、始終轟々と呟くやうに聞える。空には、低い鼠地の雲が一面に蔓《はびこ》つて、今にもぽつり、ぽつりと來さうである。時々冷い風がこつそり袂の裏へ吹き込んで、不意に肌をぞウツとさせる。
平生寄宿舎のまづい賄を喰ひ馴れた宗一には、久し振でかう云ふ家の料理を味はふのが一つの喜びであつた。彼は寒さと興奮とに顫へた手先で、お椀の蓋を取つて、松茸の薰《かをり》の漂ふ暖かい露を吸ひながら、柔かい蝦《えび》の糝薯《さんしよ》と、輕い鱚《きす》の肉を舌へ含んだ。それから、口取の蒲鉾に添へられた針魚《さより》の雲丹燒《うにやき》だの鴫《しぎ》のたゝき[#「たゝき」に傍点]だのを、珍しさうに突ツついて、
「美代ちやん、君は白いお刺身が好きだツたぢやないか。」
と、刺身の皿へ眼をつけて云つた。
「えゝ、あたし後で、御飯の時に頂くわ。」
「さうだね、もうそろ〳〵御飯にして貰はうか。」
かう云つて、宗一は立つて行かうとする女中の後から、「直《すぐ》でなくても好いんだから、呼んだら持つて來てくれ給へ。」
と附け加へた。
再び、さし向ひになつた二人の座敷に沈默が來た。お互に此れから語り出すべき事件を持つた儘、其れを控へて唇を嚙んだ。
「美代ちやん。………此の間の手紙ね。」
と、男の方から口を切つたのは、稍暫くした後である。
「えゝ。」
と云つて、美代子は體が凝結したやうに堅くなつた。兩手で握り緊めた膝の上のハンケチに眼を落しつゝ、肩を崩して、一遍忍びやかにスウツと溜息をしたのが餘所目にも著《いちじる》しかつた。男は「可愛い指の恰好だな」と、苺《いちご》の汁に滲みたやうな女の紅い手先に見惚れて、指輪の彫の模樣を判じるともなく眺めながら、
「あれで見ると、君はお父さんの言ひ附け通りになる積りかい。決して僕は、どうのかうのと云ふ譯ぢやないんだから、正直な考へを、遠慮なく云つてくれないか。僕は唯、君の本當の考へさへ解れば、其れで滿足するんだから。」
「あたし、あの手紙の事で、是非宗ちやんにお目に懸りたいと思つて、今日やつて來たの。實は一昨日家であんまりやかましい事を云はれたもんだから、あたしやけになつちまつて、あんな事を書いたんだけれど、後で宗ちやんが怒つていらツしやるだらうと思つて、氣になつて氣になつて、仕樣がなかつたのよ。だから、是非お目に懸つて、譯を話して詫《あやま》らなければならないと思つて居たの。ほんとに濟まなかつたわね。あたし、つく〴〵自分を馬鹿だと思つてよ。」
いざ喋舌り出すと、女は又雄辯であつた。宗一は敏捷な言ひ廻しに眩惑されないやうに、要所々々に心を留めて聞き終つた後、
「そんな事は、怒るも怒らないもないよ。………口に出すのは初めてだが、僕は美代ちやんを戀して居る。………」
かう云つて、自分の唇が洩らした大膽な言葉に、自ら戰《をのゝ》きながら語り續けた。………
「そりや美代ちやんだつて、氣が付いて居るだらう。………僕は出來る事なら、君と結婚をしたいと思ふ。君の家でも、僕の家でも承知してくれなかつたら、已むを得ないけれど、若し兩方の親が許したら………僕の所へ來るなり、外へ嫁に行くなり、美代ちやんに撰擇の自由が與へられたら、君は僕と結婚をしてくれまいか。」
「宗ちやん、そりや本當のこと?」
美代子は、低い、熱心の籠つた聲で、力强く念を押した。
「うむ。………」
「あたしのやうな者を、そんなに思つて下さるのは勿體ないけれど、宗ちやんなんか、いくらでも立派なお嫁さんを貰へるぢやありませんか。………宗ちやんはまだ、家の事情を詳しく御存知ないんでせう。あたしはほんとに不仕合せな人間なのよ。此の間から、いつそ死んで了はうかと思つた事が度々あるの。先逹《せんだつて》手紙に書いて上げた結婚の話なんぞ、あたしは嫌で嫌で仕樣がないんだけれど、此の頃は每日のやうに責められるの。」
ぽたり、と、女の手の甲へ淚が落ちたかと思ふと、續いて二三滴、ぱらぱらと膝へこぼれた。
「君が一緖になつてくれる氣さへあれば、そんな嫌な所へ行かないでも、どうにかなる話ぢやないか。美代ちやんさへ承知なら、僕は明日にも親父に賴んで、小田原の方へ至急に相談を持ち込んで見よう。是非とも美代ちやんを、私の方へ下さいツて、折入つて懇望したら、君のお父さんだつて、まさかいかんとは云ふまいと思ふ。僕は今まで親父に向つて、此れツぱかりも無理を云つた事はないんだから、一生に一度の願ひだと云つたら、親父だつて、屹度其のくらゐの事は聞いてくれるに違ひないんだ。………」
「宗ちやんの氣持はよく解つて居ますけれど、母はあたしに養子を貰つて、一緖に分家をする積りなんだから、とてもそんな譯には行かないわ。若しも宗ちやんが一人息子でなければ、そりや何とでも考へ樣があるけれど、………だから、後生だから、あたしの事はあきらめて下さい。其の代り、親が何と云つても、あたしは一生夫を持たずに通して了ふわ。それで宗ちやんが、可哀さうだと思つて下されば、滿足するわ。」
「そんな事が出來るもんぢやない。」
「いゝえ出來ますとも、自分の決心さへ堅ければ出來ない筈はないわ。若しか出來なかつたら、死んで了ふわ。」
「けれども、其れではおツ母さんに濟まないぢやないか。おツ母さんは君一人を老先の賴りにして居ればこそ、普通ならば嫁にやるところを、わざわざ養子を貰つて分家させて、一生君に懸らうと云ふ考へなんだらう。美代ちやんの一身に間違ひがあれば、おツ母さんがどの位失望するか、僕よりも君の方がよく解つて居なければならない。え、さうぢやないか。かう云ふと失禮だか、君とおツ母さんが居なかつたら、小田原の家は闇になるんだぜ。」
宗一はかう云つて、相手の返辭を待つたが、美代子は突伏して聞いて居るばかりであつた。
「………若し獨身で通すとか、死ぬとか云ふのが僕に對する義理だてなら、止めてくれ給へ。僕は美代ちやんやおツ母さんの不仕合せを見せられて、決して好い心持はしないから。其れよりか立派な人を婿に貰つて、夫婦でおツ母さんに孝行を盡してくれた方が、僕に取つてはどんなに嬉しいか知れやしない。―――君はさう考へないかい。美代ちやんが其れを納得してくれゝば、僕だつて立派に思ひ切る。」
最後の言葉を吐くと同時に、男も危く歔欷《しやく》り上げさうになつて、濕んだ聲が鼻につまつた。
「宗ちやん、そんならあたし、あなたにお願ひがあるわ。」
美代子は何か決心したらしく、すつかり泣き止んで、ハンケチで面《おもて》を拭いて、紅く脹れた眼を男の顏に注いだ。
「………いろ〳〵勝手な事ばかり云つて、濟みませんけれど、そんなら兎に角、今宗ちやんの仰しやつた通りにして下さる譯には行かなくつて。」
「僕の云つた通りツて、どうするのさ。」
「駄目かも知れませんが、宗ちやんのお父さんから、小田原の方へ相談をして見て下さるやうに。………母は是非とも分家をさせたいのでせうけれど、宗ちやんの所へ行くならば、もと〳〵親類の間柄だし、いつでも會ひたい時には會へるんだから、おツ母さんだつて他人に子供を取られるのとは氣持が違ふだらうと思ふわ。濱町の叔父さんさへ御承知なら、どうにでもおツ母さんの安心が出來るやうにして上げられるわ。小田原に居るのが嫌なら、東京へ引き取つてもいゝわ。一體あたしに養子を取らうと云ふのは、おツ母さんだけの考へで、お父さんは、あたしが嫁に行かうと、婿を貰はうと、おツ母さん次第にする積りなのよ。だから、おツ母さんさへ納得すれば大丈夫なの。」
「そりや成る程、おツ母さんとしたら、それでいゝかも知れないが、いゝからと云つて、世の中の事はさう易々と實行出來るもんぢやないよ。兎に角小田原に立派な家があるのを打ツちやり[#「ちやり」に傍点]放《ぱな》しにして、たとへ親類であるにもせよ、娘の嫁入先へ附いて行つて、お母《ふくろ》が厄介になれるかなれないか、考へて御覽。よしんばおツ母さんが、さうしたいと云つてもお父さんが承知しまい。君のお父さんは道樂もするし、お妾もあるし、おツ母さんなんぞ、どうなつても構はないと、思つておいでかも解らないけれども、世間と云ふものがあるから、正妻を娘の嫁入先へ追ひ出すやうな不都合な事は出來ないだらう。さうなれば、僕の親父がいくら同情してくれたつて、人の女房を預つて返さない譯には行かないぢやないか。」
「だけど其れは、お父さんも承知するやうな方法がいくらでもあるの。宗ちやんの仰しやつた通り、お父さんはおツ母さんに對して、ちつとも愛情なんかありやしないのよ。そりやほんとに非道いのよ。世間體さへ繕へれば、結句出て行つてくれた方がいゝくらゐなの。だから濱町の叔父さんに事情を話して、當分あなたとあたしだけに別家させて頂いて、其處へ暫く遊びに來て居る形で、おツ母さんを呼んでもよし、末始終はおツ母さんだけ分家して、あたしの子供を養子に直して、濱町の近所へ家を持つても濟むと思ふわ。」
美代子の云ふことは、女としては感心な程、なか〳〵筋道が立つて、理路の整つたものであつた。女は疾《とう》から斯かる目算を胸に疊んで居て、男の了見を確かめてから、始めて其れを打ち明けたのか。或はせツぱ[#「せツぱ」に傍点]つまつて窮策を案出したのか。いづれにしても宗一は、美代子がこんな綿密な實行方法まで考へて居ようとは思はなかつた。其れ程に自分を慕つて居たのなら、何故早くハツキリ知らせてくれなかつたのだらうと、彼は嬉しさを通り越して、今更女のエゴイスチツクなのが恨めしかつた。
「こんな我儘を云へた義理ぢやありませんけれど、宗ちやんと叔父さんだから、無理と知りつゝお願ひするのよ。あつかましい女だと云はれるのは、覺悟して居るわ。」
「さう云ふ譯なら、出來ないまでも、一應親父に話をして見よう。萬事を打ち明けて相談したら、何かまたいゝ分別があるかも知れない。………其れにしたところで、小田原へ掛け合ひに行くには、四五日間があるだらうし、いざ談判となつてから決定する迄には、隨分暇が懸るだらうと思ふ。其の間君はどんなに、養子の方を迫られても、斷り通して居るだらうね。」
「えゝ、そりや解つて居るわ。宗ちやんの話が極るまで、あたし剛情を張り通すわ。………だけど、今日の事だけは、濱町の叔父さんに默つて居て頂戴な。あたしが生意氣に入れ智慧をした樣で惡いから。」
「しかし、或る程度まで打ち明けなければ話が解らないよ、好い事も惡い事も殘らず眞相をさらけ出して、親を出し拔いた不都合な點は十分|詫《あやま》つた上で、賴まなければ、此方の誠意が屆くまいと思ふ。勿論、美代ちやんと結婚したいのは僕自身の希望なんだから、何も君が入れ智慧をしたやうに話す筈はない。」
「ほんとに濟みません。今日はあたし、嬉しくつて胸が一杯だわ。」
美代子は氣も心もせいせい[#「せいせい」に傍点]したやうな調子で云つたが、眼には又淚が濕んで來て、
「どうも、有難うございました。」と叮嚀にお辭儀をしながら、そつとハンケチを顏にあてた。
二人は大そう長い間會話を續けて居たやうに感ぜられた。呼鈴《よびりん》を押して飯を運ばせたのは、さし向ひになつてから二時間ばかり後であつた。
「もうお話がお濟みでございますか。何卒御ゆつくりなすつていらツしやいまし。」
かう云つて入つて來ると、女中は立ち上つて電燈を拈《ひね》つた。座敷の中にはほの暗い夕闇の光と、赤い灯《ともしび》の光とが溶け合つて、庭續きの隣座敷に粹《いき》な音締《ねじめ》が洩れ始め、向う河岸の本所の方から、黃昏の色が次第々々に川面へ這ひかゝつた。
「美代ちやん、あの三味線は何だか分るかい。」
宗一は飯を喰ひながら、女中を前に置いてこんな事を喋舌り出した。
「えゝ、淸元《きよもと》ぢやなくつて、保名《やすな》でせう。」
「それぢや、美代ちやんのお得意だね。―――君、此の先生は淸元の名人なんだよ。」
と、宗一は女中に目くばせをした。
「おや、左樣でございますか、是非伺ひたいもんでございますね。三味線を持つて參りませうか。」
「あら、噓よ、噓よ、淸元なんか出來やしないわ。」
時計を見るとまだ漸く四時頃である。何にしても、二人は一旦此處を引き揚げて、夜を幸ひに街を步きながら、殘る時間を樂しみたかつた。七圓程の勘定書を取り寄せて、
「其れでは、此れで………」
と、宗一は蟇口から、四つに疊んだ皺くちや[#「くちや」に傍点]の十圓札を出した。
「宗ちやん、あたし持つて居てよ。」
美代子も慌てゝ紙入を抽き拔いたが、
「まあ僕が拂つて置く。」
かう云つて、宗一は美代子の手先を押し除けながら、其の手に握つて居る二三枚の五圓札にちらりと眼を着けて、
「へーえ、美代ちやん大分お金持ちだね。」
と云つた。
「えゝ、さうよ。いくらでも奢つて上げてよ。」
「いづれ今日の返禮に、うんと御馳走して貰ふさ。」
結局男が全部を負擔して、釣りの中から一圓の祝儀を女中に取らせて、二人はそこ〳〵に立ち上つた。長い廊下をばたばた[#「ばたばた」に傍点]と玄關まで送つて出て、
「御機嫌宜しう。―――どうぞお近いうちに是非、ほんとにお待ち申しますよ。きつとでございますよ。」
と、女中は二人の身の上に興味を感じたのか、一と通りのお世辭とは思はれない程、前よりは打つて變つて、深切な、愛嬌のある態度で云つた。
晩秋の短い日脚がすつかり暮れて、代地河岸の兩側に並ぶきやしや[#「きやしや」に傍点]な家作りの障子の蔭に、黃橙色《だい〳〵いろ》の暖かい灯がふつくら[#「ふつくら」に傍点]と包まれて居た。柳橋を渡つた、賑やかな廣小路の往來から藥硏堀《やげんぼり》の方へ、二人は人形町時代のやうに手を取り合つて睦ましく步いた。酉の市の歸りと見えて、夜目にも著《しる》い大きな熊手や羽子板を翳した俥が、何臺も二人の側を掠めて通つた。
「ほんとに旨く行けばいゝわね。もう今度はあたしのおツ母さんより、濱町の叔父さんの方が心配だわ。叔父さんが承知して下さるといゝけれどなあ。」
「まあ僕に任して置くさ。うまくやつて見せるから。」
「何卒お賴み申します。ほんとに此れさへ旨く行けば、あたし宗ちやんに手を合せて拜むわ。」
「だけど、いよ〳〵話が極つたとしたところで、一緖になる迄には、隨分手間が取れるだらうな。學生時代に結婚するか、大學を卒業するまで許嫁《いひなづけ》で居るか、其處いらは親父の考へ次第だからね。」
「極つてさへ居れば何年でも待つわ。大學を卒業するつたつて、二年、三年………と、もう後五年だわね。五年ぐらゐ、直き立つて了ふわ。」
「五年でも、六年でも、どんな事があらうと必ず大丈夫だと思つて待つて居てくれ給へ。僕も美代ちやんを信用するからお前も僕を信用しておいでよ。………」
男は知らず識らず、「お前」と云ふやうな言葉を使つて居た。
「………此れからは談判が表向きになるのだから、當分内證で手紙のやり取りなんかしない方がいゝと思ふ。信じ合つて居さへすれば、顏を見なくたつて差支へがない。其の代り、ふだんはいくら會はないでもいゝから、萬一お互の體に變事でも起るやうな場合があつたら、電報でも何でも構はずに打つとしよう。」
宗一は嚴粛な調子で諄々と語つたが其の話が耳に入らない位、女は上《うは》の空《そら》になつて喜んで居た。
「あたし、今日の事は一生忘れないわ。あたしも此れから死ぬなんて事は云はないから、宗ちやんも體を大事にして下さいな。」
二人はかう云つて、堅い握手をした。
六