東の空には依然として黒っぽい灰色の雪雲が低く垂れこめていた。そこに一条のか細い紅色の線が走り、朝の訪れを告げた。風は止み、幽霊でも出そうな気配が静かに薄明のなかに漂っていた。ドミニーは屋敷の裏から外に出て、まだ誰も踏んでいない雪の道をロザモンドの窓の下へと進んでいった。そこに立った彼の唇から小さな驚きの声が漏れた。テラスから踏み段を降り、庭園を抜けてまっすぐブラック・ウッドへ向う足跡がくっきりと残されていたのである。あの叫び声は空耳ではなかった。人間か何かが夜中にブラック・ウッドから出てきて、ここへまたやってきたのである。

ドミニーはこの発見に異常なくらい興奮し、足跡を熱心に調べ、ついで森の端までそれを追った。ところどころで彼は首をひねった。足跡は人間のものでも、人間が知るどのような動物のものでもなかった。それは森の端の巨大な茨の茂みのなかに消えているようだった。茨にかかっている雪が所々こぼれ落ちていた。小径があるようには見えない。かつてはあったのかもしれないが、長年ほったらかしにされ跡形もなく消えていた。羊歯、茨、灌木、藪が乱雑に育っていたのだが、それらがこんぐらがっていっそう密な下生えを形成していたのである。木はまだたくさん生えていたが、多くのものが風に倒され、朽ちるがままに放置されていた。あたりは沈黙が支配し、聞こえるのは垂れさがった葉からゆっくりと落ちる雪の音だけ。慎重にもう一歩足を踏み出すと、地面が柔らかく沈みこむのが感じられた。足の下から雪を通して真っ黒い泥がしみ出してきた。泥に埋まってしまう前に、彼はかろうじて足を引き抜いた。細心の注意を払い、歩くところを選びながら、彼は時間をかけて森の外周を調べはじめた。

一時間ほどのち、管理人見習いのヘッグスは、もう一度銃架を確かめ、空のケースをこつこつと叩いて、ミドルトンのほうを振り向いた。彼は暖炉の前の椅子に座って、パイプをくゆらしていた。

「旦那様の二番の銃が見つかりません、ミスタ・ミドルトン。なくなってます」

「もう一度見てごらん」年老いた管理人はパイプを口から離して言った。「旦那様は昨日、あの銃をお使いだった。銃架の隅っこにばらばらに置いてあるやつを調べてみろ。どこかにあるはずだ」

「それがないんですよ」若者は譲らなかった。

急にドアが開いて、ドミニーがなくなった銃を抱えて入ってきた。ミドルトンはすぐさま立ちあがって、パイプを置いた。驚きのあまりすぐには口がきけなかった。

「ちょっと一緒に来てくれ」主人が命令した。

管理人は帽子と杖を取りあげ、あとに従った。ドミニーは足跡の行き着く先、ロザモンドの窓の外の砂利道まで彼を連れて行くと、ブラック・ウッドの方を指さした。

「これをどう思う?」

ミドルトンは躊躇しなかった。彼は重々しく首を振った。

「昨日の晩、何かお聞きになりましたか?」

「この窓の下で地獄のような叫び声がした」

「そりゃ、ロジャー・アンサンクの亡霊ですよ。間違いない」ミドルトンは身震いした。「森から出てくると、呼びかけるんで」

「亡霊はあんな跡を残さないよ」

ミドルトンは考えこんだ。

「地元の人の話なんですがね、ロジャー・アンサンクの亡霊は何かでっかい動物に取り憑いていて、餌をもらうためにときどきここにやって来るんだそうです」

「誰から餌をもらうんだね?」ドミニーは辛抱強く尋ねた。

「そりゃミセス・アンサンクでさあ」

「ミセス・アンサンクはもう何ヶ月もこの屋敷にいない。彼女が出て行ってから昨日の晩まで、わたしの知る限り、この幽霊だか獣だかの声は一度も聞いたことがなかった」

「確かにおかしなことです」

ドミニーは森のほうまで目で足跡を追い、また逆にたどり直した。

「ミドルトン、亡霊のことがだんだん分かってきたよ。やつらは足跡を残すだけでなく、餌も必要なんだな。そういうことなら、弾丸を食らわすこともできるかもしれない」

老人はじわじわとこみあげてくる恐怖にしばらく凍りついたようになっていた。

「あいつを撃ったりなさらないでしょうな、旦那様」

「今朝もチャンスさえあれば、そうしていただろうよ。天気がもう少しからっとしてきたら、森のなかに入ってみるよ、ミドルトン。銃を持ってね」

「そんなことをなさったら、絶対に戻ってこられなくなりますよ、旦那様!」彼は真顔で答えた。

「やってみるさ。アフリカでは怪しげな場所も藪をたたき切りながら進んだんだ」

「こんな森は世界中どこにもありゃしません」老人はしつこく食いさがった。「下は隅から隅まで腐っています。上はどこもかしこも毒を放っています。鳥は木の上で死ぬし、トカゲや気味の悪い生き物がうじゃうじゃはっているんです。五十センチもある緑や紫のきのこが生えていて、においを嗅いだだけで毒にあたるんです。森に入るなんて墓に入るようなものです」

「それでも早急に解明してやるよ、この夜の訪問者の謎は」ドミニーは強い口調で言った。

彼らは並んで屋敷に戻った。なかに入る直前にドミニーは同伴者のほうに向き直った。

「ミドルトン、君は今でも昔みたいにときどきドミニーズ・アームズに行って軽く一杯やるのかい?」

「ほとんど毎晩ですよ、旦那様。八時から九時のあいだです。わたしは規則正しい人間なんで。一日の仕事をつつがなく終えたあとは、人間誰しものんびりする権利がありますからな」

「そうだね、ジョン。今度あそこに行ったら、わたしが森を探索する予定だと話しておいてくれ。噂を広めてほしいんだ。いいかい?」

「連中、度肝を抜かれますよ」賛成しかねるといった返事だった。「でも伝えておきますよ、旦那様。きっとえらい評判になるでしょう」

ドミニーは銃を渡して部屋に帰った。風呂に入って着替えたあと、朝食を食べに下に降りた。彼が入っていくと、急に話し声が途絶えた。それはドミニーも覚悟していたことだった。全員がその日の狩りの見こみについて話しはじめた。ドミニーはサイドボードから食べ物をよそうと、テーブルに座った。

「最新式の幽霊に眠りを妨げられた人はいないでしょうね」

「どうやら全員が同じものを聞いたようですよ」閣僚が好奇心もあらわに言った。「身の毛もよだつ、この世のものとは思えない叫び声でした。最近、心霊協会というやつに片っ端から入りまくりましてね。面白い研究ですな」

ドミニーはコーヒーを淹れながら言った。「調査をなさりたいなら、拳銃持参で一晩一緒にあたりをうろつきましょう。わたしがイートンに入学する以前の子供の頃から、アフリカに行く頃までは、とても上品で品行方正な幽霊がいたもので、それが家門の誇りでもあり、自慢の種でもあったんですがね。しかしこの最新型のお化けは常軌を逸している」

「いわれでもあるのですか?」ミスタ・ワトソンが心をひかれて尋ねた。

「あれは以前この辺に住んでいた教師の霊で、彼が命を失ったのは、どうもわたしの責任ということになっているらしいのです。そんなお化けはわたしたち一族にとって誉れにも慰めにもなりません」

主人があまりにも素っ気なく喋るものだから、誰もがこの魅力に満ちた話題から奇妙なくらい離れる気になれなかった。しかしそれとなくその話に触れようとしたのはターニロフただ一人だった。

「森で狩り出しをやるのはどうだろう」

「森の様子はそこに住んでいる幽霊よりも興味深いんじゃないかと思いますね。昨日、勢子たちが、森のなかに入ると聞いただけで震えあがったのを覚えているでしょう?代々あそこは不浄の地とされてきたんです。確かに非常に危険な場所です。今朝、森の外側で膝まで埋まってしまったんですよ。十時半に銃器室に集合しましょう」

シーマンは主人のあとを追って部屋を出た。

「君、地元の些細な問題にあまり首を突っこんではいけないよ。もちろん今はのんびり過ごしてもいいんだが。しかしね、君は王女のことを考えてやらないとならない。結局のところ、われわれは彼女のご機嫌を損ねるわけにいかないんだ。ダウニング街にちょっとでも噂が流れてみろ、たちどころにおじゃんだ!」

ドミニーは親友の腕を取った。

「いいかい、シーマン、王女のことを考えろと言うのは簡単だよ。しかしこれ以上どうやって彼女に状況を分からせたらいいんだい?ドミニー夫人とは最善の関係を保たなければならないし、王女と人目につくような真似は決してできない」

「君とドミニー夫人の関係なんか、誰にとっても大したことじゃないのじゃないかな。王女は衝動的で情熱的な人間だが、同時に社会的な名声もあり、外交手腕もある。密かにロンドンで彼女と結婚しても問題はないと思う。まずはエヴェラード・ドミニーの名前で式を挙げておいて、あとで本名で式を挙げ直すのさ」

彼らは立ち止まって煙草に手を伸ばした。煙草は広間の丸テーブルの上に葉巻の小箱と並べて置かれていた。ドミニーは少し間をおいてから返事をした。

「王女が君にそうしたいと言ったのか?」

「そんなところだ」とシーマンは認めた。「もっとも彼女は君のほうからそういう提案を出してほしかったらしい」

「で、君はどうしたらいいと言うのだ?」

シーマンは軽く煙を吐き出した。

「君、わたしは王女のことが少々心配なんだ。君が彼女をどう思っているか、そんなことは訊かないよ。名誉を重んじる男として、君が遅かれ早かれ彼女に結婚を申しこむのは義務であると考えている。それで彼女が落ち着くというのなら、結婚を数ヶ月早めてもかまわないと思う。ターニロフが大使館で手はずと整えてくれるだろう。彼は王女のためなら何でもするし、そうすることで君と彼の関係も強化できる」

ドミニーは階段のほうに向きを変えた。

「出発の前にもう一度話し合おう」彼は憂鬱そうだった。

ドミニーは召使いによってただちに妻の居室に通された。ロザモンドは灰色の毛皮で裏打ちされた、薄い青の愛らしいモーニング・ローブをまとい、ちょうど朝食を終えたところだった。彼女は嬉しそうに小さく歓迎の声をあげると両腕を彼に差し出した。

「来てくれてうれしいわ、エヴェラード!お出かけになる前にちょっと会いたかったの」

彼は彼女の指を唇まで持ちあげ、隣に座った。彼女は彼がいることに有頂天になっているようで、昨晩の出来事などなんとも思っていないことが直感的に分かった。

「よく眠れたかい?」

「ぐっすり寝たわ」

彼は勇気を出してその話題を取りあげた。どんな時でもひるむまいと決心していたのだ。

「じゃあ、夜の訪問者のことを考えて眠れなくなることはないんだね?」

「全然」彼女はさりげなく話しつづけた。「あなたが本当にエヴェラードだったら、わたし、震えていたわ。だってエヴェラードが帰ってきたら、ロジャー・アンサンクの霊が彼に悪さをするでしょうから」

「どうして?」

「もちろんあなたは知らないわね。ロジャー・アンサンクはわたしに恋をしていたの。もっともエヴェラードと結婚する前、彼とは一言も口をきいたことがなかったけど。そこまでは昨日話したわよね?わたしが結婚すると、あの人、可哀想に気が狂いそうになったわ。仕事を辞めて、ここの庭園をうろつくようになった。ある晩、エヴェラードが彼をつかまえて、喧嘩になったの。それから二度とロジャー・アンサンクを見た人はいないわ。近所の人なら誰でも話してくれるでしょうけど」彼女は少しだけ声を落としてつづけた。「エヴェラードはロジャーを殺してブラック・ウッドの近くの沼に捨てたのよ。死体は沈んで、もう絶対見つからないわ」

「まさかそんなことはしないだろうと思うよ」

「あら、どうかしら。エヴェラードってひどい癇癪持ちだったの。あの晩、家に帰ってきたときは血まみれだった。怖かったわ。わたしが病気になったのはあの晩からなの」

「辛い昔の話はもう止めよう。わたしたちのお客さんのことを忘れないようにと思って来たんだよ。いつ下で顔合わせしようか」

彼女は子供のように笑った。

「あなた今、『わたしたちの』って言ったわね。まるで本当の夫みたい」

「そんなこと、他の人に言ってはいけないよ」

彼女はすぐに同意した。

「分かっているわ。ちゃんと、ちゃんと気をつける。エヴェラード、あなたのお客さんはとっても頭がいい人たちね。わたしのエヴェラードのお客さんとは大違い。長いこと世間づきあいがなかったからお客さんとお話しできるか心配だわ。看護婦のアリスがお客さんのこと、しきりに感心していたのよ。わたし、テーブルの端に座るのが怖い。キャロラインは女主人役をはずされるのを嫌がるでしょうし。わたし、お茶の時間と晩餐後に降りていくわ。そしてだんだん慣れていく。まだ病気なんだって、簡単に言い訳できるでしょう。もちろん病気なんかとっくに治っているけど」

「君の好きなようにしていいんだよ」出ていきながら、彼はそう言った。

その日の午後、いささか疲れを見せながらも、運動と狩りの楽しさに顔を紅潮させて、狩猟隊がどやどやと広間に入ってきたとき、部屋の片隅、お茶が用意された大きな丸テーブルの後ろに、どちらかというと青白い顔色の、ひどく子供っぽい可憐な女性が、保護と同情を求めるような、愛らしい、大きな目を向けて、おどおどと立ちあがるのを見たのだった。ドミニーはすぐに彼女の横に行った。彼が紹介をはじめるや全員が周りに集まってきた。彼女は口数こそひどく少なかったものの、その言葉は素晴らしく自然で優雅だった。

彼女はキャロラインに言った。「夫のおもてなしをお手伝いいただいて感謝しています。だいぶ良くなったのですが、病気の期間が長すぎて、いろいろなことを忘れてしまい、女主人としてはあまりお役に立てないだろうと思います。でも皆さんにお茶を淹れさせてくださいね。キジを何羽撃ち落としたのかもお聞きしたいわ」

ターニロフは彼女の横の長椅子に腰掛けた。

「このややこしい作業はわたしがお手伝いしましょう。この角砂糖ばさみはお一人で持つには重すぎますからね」

彼女は陽気な笑い声をあげた。

「でも本当は、わたし、ちっとも身体は弱ってないんですよ。とても重い患いでしたけど、今はまた丈夫になりましたから」

「それじゃあ、ここに座る理由を別に考えないと。ご主人が撃ち落としたキジのことや、他の人がみんな当て損なったのに、ご主人だけしとめることができたヤマシギのことをお話しましょう」

「それは楽しみ。お砂糖はいくつ入れます?ホット・マフィンを王女様にさしあげてくださいな。それからそのベルを鳴らしてください。お湯がもっといりますね。みなさん、とっても喉が渇いているでしょう。お会いできてよかったわ」

第二十章

ターニロフ王子と主人は腕を取り合って長々と続く樅の木立の裏の、雪に覆われた斜面を登っていった。二人がめざしていたのは小さな旗つきの棒だった。そこが彼らの立ち位置なのである。見渡す限り人影はなかった。他の撃ち手たちは傾斜のきつい、けれども回り道をしないですむ道筋を辿ることにしたのだ。

「フォン・ラガシュタイン、勝手だが名前で呼ばせていただく。知っていると思うが、わたしには一つ弱点がある。若かった頃は、そのせいで外交官を首になりそうになった。わたしはスパイというものがとにかく嫌いなのだ。それが必要な場合でもね。わたしには君の役割が滑稽に思える。ポツダムには個人的に電報を送って、その旨を伝えておいた」

「今までのところ、たいした働きもありませんが」

「いいかね、たいした働きがないというのは、正当化しうるような仕事がないからだよ。これからもそんなものはありはしない。あなたのここでの仕事には何のメリットもない。本当の名前や役割がばれてごらん。イギリス政府に恐ろしく悪い印象を与えるんだよ」

「わたしは盲目的に祖国に従うしもべです。どうかそのことを忘れないでください。命令に従っているだけなのです」

「それはたしかに認めるがね。しかし話をつづけよう。わたしがこの国に着任してからもうすぐ一年が経つ。それなりに成果をあげてきたと自負している。わたしが関係してきた閣僚メンバーからは、両国の相互理解をいっそう深めるよう、努力を促す声しか聞こえてこない」

「確かに今のところ万事順調にすすんでいます」ドミニーが同意した。

「ダウニング街にはドイツとの平和な関係を望む真摯な、根強い願望があると確信している。いつ議論しても、いつ譲歩を求めても、両国の友情を育みたいという心からの願いに出会うのだ。わたしは自分の仕事に誇りを感じている、フォン・ラガシュタイン。ボーア戦争の頃から比べると、ドイツとイギリスはずっと近しい間柄になったと思う」

「大使の個人的な人気と国民感情を混同なさってはいませんか?」

「その点は確信がある」大使は重々しく言った。「わたしがこの国で人気を得たのは、現在の世界政治をもっと健全なものにしたいという気持ちがあるからだよ。いま大いに楽しみながら自分の仕事の成果を回顧録に跡づけているところだ。いつか両国のあいだに平和がしっかりと築かれたとき、出版しようと思っている。そのなかに現政権が真剣に平和を望んでいる証拠を、知り得た範囲で挙げておいた」

「内々にその回顧録を読ませていただけるなら大変嬉しいのですが」

「いいだろう」彼は愛想よく返事した。「とりあえずあなたにはこちらでのご自分の役割を考え直していただきたい」

「わたしの役割は自発的なものではありません。命令に従って行動しているのです」

「その通りだ。しかし過去半年のあいだに情勢は大きく変わった。フランスの不興を買うことを承知で、イギリスはわが国のモロッコに対する要求に素晴らしく柔軟な姿勢を示している。重要課題を巡って両国が衝突する可能性は今やなにひとつ無くなったのだ」

ドミニーは考えこみながら言った。「戦争を仕掛けたいという欲求がダウニング街にではなくて、ポツダムのほうにあるとしたら話は別でしょう」

ターニロフは厳しく言い切った。「われわれがいただく主人は高潔なお方だ。わたしはその御本人から直接お気持ちをたまわったのだ。皇帝は平和と大いなる繁栄を望んでおられる。わが国はとっくにそれを享受する資格がある。産業も商業も国民性も才能も秀でているのだから。そしてそういうものがドイツを世界最大の大国にする武器なのだ。武器をふるうだけで不滅の栄光にたどり着いた帝国など、いまだかつて存在しない。撃ち場に着いたようだな。この狩り立てが終わったらわたしのところに来てくれ。今言ったことはほんの前口上に過ぎないのだ」

空気は乾燥しはじめ、雪は粉雪になった。女性たちの小隊は勢子が森を抜ける前に撃ち場に着いた。キャロラインとステファニーはどちらもドミニーの隣に並んだ。しかしキャロラインは数分後、ターニロフが銃を構えているところへ行ってしまった。ステファニーとドミニーは図書館での波乱に満ちた対面以来、初めて二人きりになった。

「モーリスがあなたに話しかけてきた?」やや唐突に彼女は尋ねた。

「実を言うと、大使と非常に興味深い話をしている最中なんです」

「わたしのことはしゃべったかしら?」

「お名前はまだ出てきていませんね」

彼女はちょっと顔をしかめた。豪華な毛皮にロシア風のターバン・ハットをかぶった姿は雪を背景にくっきりと際立っていた。

「わたしの名前が出てこないのに興味深い会話とはね!」彼女は皮肉をこめて相手の言葉をくり返した。

「もうすぐあなたのことが話題になると思います。大使は、今までの話は前口上に過ぎない、もっと重要な用件があるとおっしゃいましたから」

ステファニーは笑った。

「モーリスは本当に遠回しね。最初にきっとお小言があるわよ、あなたのひどい仕打ちのことで」

猟がはじまったため会話はしばらく中断した。ドミニーは忠実なミドルトンをそばに呼んで弾薬の補給を頼んだ。ステファニーは勢子たちが森から出てくるまで待った。

「あなたの仕打ちは、ひどいなんて生やさしいものじゃないわ。レオポルド、はっきり言えば、わたしの心をずたずたにしたのよ。誇りさえ傷つけた」

「女性としての観点からしか物事を見ないからですよ」

彼女は声を低くした。「あなたはどうなの。昔は誰よりも優しくて情熱的だった人が、今は政治という観点からしか物事を見ないじゃない。お国のことをたいそう大事になさっているわね、レオポルド。わたしのことなんかどうでもよくなった?」

「エヴェラード・ドミニーにとってはどうでもいいことです。時が至れば、レオポルド・フォン・ラガシュタインは、彼が権利を持つすべてのものを手に入れることができるでしょう。信じてください。冷たくされたとか決断が遅いといって不平を鳴らす必要はまったくありません。彼はただ一つのことを考え、ただ一つのことを望んでいるのです。それはこの離別の苦しい歳月にできるだけ早く決着をつけることです」

彼女の顔から強ばった表情がなくなり、話し方がずっと自然になった。

「あなた、待つ必要はないのよ。皇帝がお許しになったのですもの。あなたの政治的指導者はそれを支持するどころか、それ以上の気持ちをお持ちなのよ」

「わたしは危険にさらされています。わたしには何がいちばん安全で賢明であるか、分かっています。二つの男性の役を同時に平然とこなすなど、とてもできやしない。しかし王子はまだ何もおっしゃっていません。まずは王子のお話をうけたまわりましょう」

ステファニーはやや横柄に顔を背けた。

「わたしに哀願させようという気なの!今晩、お互いをしっかり理解する必要があるようね」

小隊は全員そろって別の鳥の隠れ場所に向かった。ロザモンドが一行に加わり、嬉しそうにドミニーの腕にしがみついた。庭園を急ぎ足で歩いてきたので頬が紅潮していた。彼女の歩き方には健康な女が持つ自由な、力強い美しさがあった。ややあって彼女がそばを離れターニロフのそばへ行こうとしたとき、ドミニーは複雑な思いに震えながら彼女を見ている自分に気がついた。ふと誰かが彼の腕を触った。狩猟隊の一人と一緒にそばを通りかかったステファニーが立ち止まって彼の耳にささやいた。

「演技しすぎると、もっと大きな危険に見舞われるかもしれないわよ。用心深いあなたでさえうっかり見逃してしまうような危険に!」

ドミニーは次の撃ち場に行く途中でキャロラインに捕まった。彼女は狩猟ステッキをつきながら彼のそばを離れず、容赦なく非難を浴びせはじめた。

「ねえ、エヴェラード、放蕩者が悔い改めた例としてあなたはわたしが知る最高の例のひとつだわ!立派な社会的地位まで手に入れて。お願いだから、わたしたちみんなを失望させないでちょうだい!」

「どうもわたしは失望させるのが得意のようですね」ドミニーはやや憂鬱そうに言った。

「ねえ、あなたは他人の言いなりになることはないのよ。分かりやすく言えばね、ステファニーといっしょになって馬鹿な真似はしないでほしいの」

「そんなことしようなんてちっとも思っていませんよ」

「でも、彼女はその気よ!わたしの言うことをよくお聞き、エヴェラード。あの女のことは、わたし、ちゃんと分かっている。彼女は利口だし、素敵だし、いろいろ美点はあるでしょうけどね、どういうわけかあなたにご執心よ。可愛いロザモンドを、まるで生きている権利がないみたいににらんでいるのよ。あなた、被害者みたいな顔をしないで。きっとあなたが彼女をつけあがらせたに違いないわ」

ドミニーは黙っていた。幸いなことに、次の数分間は忙しさのあまり口をきく暇がなかった。従姉妹は辛抱強く射撃が止むのを待った。

「さあ、どういう言い訳をするのか、聞かせてもらいましょうか。わたしの見るところ、あなたは奥さんにとっても優しくしているし、彼女もあなたを慕っている。王女と浮気したいのなら、ここではじめるのはまずいわ。彼女にやきもちを焼かせたら、また病気がぶり返すわよ」

「ねえ、キャロライン、ステファニーとは何もないんですよ。安心してください」

「彼女が一方的にのぼせているってこと?」

「彼女の態度を大げさに取りすぎてますよ。かりにあなたが正しいとしても――」

「あら、むきになって反論することはないわ!」と彼女は彼をさえぎった。「あなたが彼女をたきつけたんだと言ってるわけじゃないの。そんなことはしないと信じているわ。わたしが言いたいのは、奥さんは全快まであとほんのすこしなんだから、よほど注意を払って行動しなさいってこと。ステファニーと睦言をささやきたいなら、ここじゃなくてベルグレイブ・スクエアでおやんなさい」

ドミニーはキジが旋回しながら落ちてくるのを見ていた。彼の左手がキャロラインの持つ弾薬袋に伸びた。弾薬を取る前に、彼は彼女の指をふとつかんだ。

「あなたはいい人ですね。わたしは何があろうと、ロザモンドを傷つけるようなことはしませんよ」

「昔の癖が抜けなくて浮気せずにいられないのなら、いつでもわたしがそばにいます。ロザモンドはわたしなら気にしない。薄茶の髪には白いものがちらほら混じってるんですもの。あら庭園の向こうから執事が来る。伝言でもあるんじゃないの。料理人さえ無事なら、わたし、どんな悪い知らせだって平気だけど」

ドミニーは憂い顔の執事が雪をかき分け近づいてくるのをじっと見つめていた。パーキンスは外を歩くような格好ではなかったし、少しもそれを楽しんでいる様子はなかった。義務を果たすために黙々と進んでくるのだが、奇妙なことにその姿を目にした瞬間から、ドミニーは彼がなんとなく運命の使者であるように感じられた。しかし彼が主人のそばにようやくたどり着いて伝えた内容は少しも警戒心を抱かせるようなものではなかった。

「旦那様、ノリッジからミラーというお客様がいらっしゃってます。外国の方で、最近この国に渡ってこられたようです。おっしゃることが分かりにくかったのですが、王女様の女中がドイツ語で話をしてくれました。どうやら旦那様がアフリカでお知り合いになったドクター・シュミットでいらっしゃるか、あるいはドクター・シュミットから言づけを預かってきた方のようです」

そのとき笛が吹き鳴らされ、ドミニーはくるりと振りむいて銃を構えた。その振る舞いに不自然なところは全くなかった。頭上を飛ぶ雌キジを一羽見逃して、射程距離ぎりぎりのヤマシギを撃ち落とした。パーキンスのほうを振り返る前に、彼は弾をこめ直した。

「その方は急いでいるのかな」

「いいえ。旦那様は三時か四時にお帰りになると申しあげましたところ、待つのは全然かまわないとおっしゃいました」

ドミニーは頷いた。

「それじゃ、君がもてなしてさしあげたまえ、パーキンス。今日は帰りが遅くならないだろう。たぶんミスタ・シーマンに戻ってもらって話をしてもらうことになる」

執事はうやうやしく帽子を持ちあげて、屋敷の方へ戻っていった。キャロラインは不思議そうに彼を見ていた。

「アフリカのお友達がよくここに来るの、エヴェラード?」

銃身を覗きこみながらドミニーは答えた。「シーマンは一緒に船で帰国したからちょっと違いますが、彼を除けばあの幸運の地から訪問者があったのはこれが初めてですよ。でも、そのうちわんさか来るでしょう。植民地にいた人間はおそろしく結束が固いから」

第二十一章

ミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーは見たところすこしも警戒心を抱かせるような人物ではなかった。彼は執事の私用の居間で丁重きわまりないもてなしを受け、その歓待ぶりに充分満足しているようだった。ドミニーが入り口にあらわれると、彼は立ちあがって不動の姿勢を取った。軍人らしい挙措がいくつか眼についたが、それがなければ非常に社会的地位のある、隠退した商人としてどこでも通用しただろう。

「あなたがサー・エヴェラード・ドミニーですか?」

ドミニーは頷いた。「そうです。以前、お会いしたことがありますか?」

男は首を横に振った。「わたしはドクター・シュミットの従兄弟です。あなたがお帰りになったあと、ローデシアから植民地に行ったのです」

「先生はお元気ですか?」

「従兄弟は相変わらず忙しいのですが、たいへん元気にやっております。あなたによろしく伝えてくれとのことでした。それからこの手紙も」

男は多少気取った手つきで封筒を取り出した。そこには

英国ノーフォーク州ドミニー邸 サー・エヴェラード・ドミニー男爵様

とあった。

ドミニーが封を切っているとき、シーマンが入ってきた。

「東アフリカで知り合ったドクター・シュミットから伝言を持ってきてくれたんだ。ミスタ・シーマンはわたしと一緒に南アフリカから帰国したのです」

二人の男は互いの目をじっと見つめ合った。ドミニーは興味をそそられ彼らを見ていた。どちらもまったくの無表情で、まばたき一つしなかった。しかしその瞬間、直感的に危機の到来を感じ取り、ドミニーの感覚は極限まで研ぎ澄まされた。口にもそぶりにも出さなかったが、二人がお互いの正体を見て取ったことが分かった。ありきたりの挨拶が取り交わされた。ドミニーは数行からなる手紙を読み、ふと別の世界に連れ戻されたような気がした。

親愛なる閣下

慎んでご挨拶を申しあげます。こちらのその後の様子につきましては、別途、お聞き及びになることもございましょう。

閣下にはわたしの従兄弟で、この手紙の持参者であるミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーをご紹介いたしたく存じます。従兄弟は閣下にご承知置き願いたいある事情を説明することになっております。従兄弟にはどのようなことでもお話しください。あらゆる点で信頼のできる人物です。

カール・シュミット(署名)

「あなたの従兄弟はちょっと謎めいた言い方をしていますね」ドミニーは手紙をシーマンに渡した。「それである事情というのは何のことですか?」

ルードヴィッヒ・ミラーは小部屋を見回し、それからシーマンを見た。ドミニーは彼の躊躇をわざと誤解した振りをした。

「こちらの友人は何でも知っています。わたしに対してと同じように話してください」

男は物語を語るように話し出した。

「わたしがこちらに来たのは、あなたに警告を与えるためです。ブルー・リバーの川岸、ビッグ・ベンドであなたが殺したイギリス人が、アフリカの別の場所にいるという連絡がありました」

ドミニーは信じられないといったふうに頭を振った。「そんなことを伝えるために、わざわざここまでお出でになったんじゃないでしょうね。あの男は死んでいますよ」

「わたしの従兄弟もなかなか信じようとしませんでした。あの男は命を奪うに充分な量のウイスキーを持っていました。それを全部飲み乾すくらい喉はからからで、食料は何もありませんでしたから」

「わたしが彼を見つけたとき、付き添いに見捨てられ、譫言を言っていた。永遠に黙らせるのは赤子の首をひねるようなものだった」

「ところがそれが未遂に終わっていたのです。植民地の三つの場所から彼の消息が伝わってきました。必死で海岸方面に向かっていたそうです」

「自分の名を名乗っているのだろうか?」

「いいえ。しかし従兄弟からあなたに申しあげるよう念を押されたのですが、いずれにせよ、彼は本名を名乗ったりはしないでしょう。彼の行動はまともではありません。身体もひどく弱っています。気が狂いかけているのは間違いありません。それでも彼が植民地にいる、あるいは数ヶ月前にいたというのは事実です。海岸まで達したら、いつ彼がここに来て、あなたを驚かすかも知れません。わたしはあなたに必要な措置を取っていただき、彼があらわれても不利な立場に置かれないよう、警告を発するために送られてきたのです」

「妙な知らせを持ってきたものだね、ミラー」シーマンが考えこむように言った。

「この知らせにはドクター・シュミットもたいへん心配しています。彼は現地人を一人ひとり詰問しました。しかし彼らの話を覆すことはできませんでした」

「その話が本当で、あの男がこの国に向かっているとすれば、いつここにあらわれるかも分からないということだね」とシーマンが言った。

「わたしがここに来たのは、その可能性を警告するためです」

「君自身は現状をどこまで把握しているんだ?」

男は曖昧に頭を振った。

「何も存じません。わたしは数年前に東アフリカに行き、モザンビークでささやかな貿易業を営んできました。将校、病院、狩猟家に備品類を提供しているのです。ときどき仕入れのためにヨーロッパに戻らなければなりません。ドクター・シュミットはそれを知っていて、船出する直前に会いに来たのです。最初、彼は長い手紙を書くつもりだったようですが、気が変わったのでしょう。わたしがお持ちしたほんの短い手紙を書いただけで、あとのことは口頭でわたしに伝えられたのです」

「先生が話したことはみんな覚えていらっしいますか?」ドミニーが訊いた。

「今申しあげたことがすべてです」一瞬の間をおいて、そういう答えが返ってきた。「ドクター・シュミットはこの件を非常に気にかけています。これに関連して、訳の分からない、謎めいたことが起きていますから」

「それで君がここにあらわれたのか、ヨハン・ヴォルフ?」シーマンの口調が変わった。

訪問者は目に微かな驚きを浮かべただけで、一切顔色を変えなかった。

「ヨハン・ヴォルフですか」と彼は繰り返した。「それはわたしの名前ではありません。わたしはルードヴィッヒ・ミラーです。この件に関しては、お話した以外のことは何も知りません。わたしはただの伝令です」

「ウィーンで一度、クラクフで二度会っている」シーマンはもの柔らかに、しかし執拗に彼に思い出させようとした。

もう一人の男はゆっくりと頭を振った。「人違いではありませんか。何年も前に一度ウィーンに行ったことがありますが、クラクフには行ったことがありません」

「君は誰と話をしているのか、分からないのかね?」

「ヘア・シーマンというお名前でしたね」

「とてもいい名前だよ」シーマンは嘲るように言った。「これを見て考えてごらん」

彼はコートとチョッキのボタンをはずし、セーム革の無地のベストを見せた。その左側には文字と数字が記されたブロンズの飾りがついていた。ミラーは無表情にそれを見つめ、頭を振った。

「情報局、第十二執務室、合い言葉、時は迫れり」シーマンは声を落としてつづけた。

相手は何を言われているのか理解できない子供のように薄笑いを浮かべて頭を振った。

「こちらの紳士はわたしを他人と勘違いなさっていますね。何のお話やらさっぱり分かりませんが」

シーマンは腰をおろし、何も言わずに数分間、この頑固な訪問者をじろじろと見ていた。両手の指を合わせ、眉間に軽くしわを寄せた。差し向かいに立っていた男は身じろぎもせずこの注視に耐えていた。冷静沈着、まさにドイツの典型的なブルジョア商人だった。

「こちらに長くご滞在の予定ですか?」ドミニーが訊いた。

「一日か二日、もしかすると一週間くらいは」彼は何気ない調子で答えた。「ノリッジにおもちゃを製造している従兄弟がいます。わたしはイギリスの田舎が好きなんですよ。休暇はこちらで過ごそうと思っています」

「ほほう」シーマンが辛辣な声を出した。「雪の降り積もったイギリスの田舎が好きとはな!わたしにもう言うことはないのかね、ヨハン・ヴォルフ?」

「男爵への用向きはお伝えしました」彼は申し訳なさそうに返事した。「あなたの気分を害したことを残念に思います、ヘア・シーマン」

シーマンは立ちあがった。ドミニーはすでにドアの方を向いていた。

「もちろんうちで一泊なさるでしょうね、ミスタ・ミラー。ミスタ・シーマンは明日の朝、もう一度お話がしたいだろうと思うんですよ」

「泊めていただければこんなにうれしいことはありません、男爵。しかしながらお友達の興味をひくようなことは、もうこれ以上何もありません」

「君は大きな間違いを犯しているぞ、ヴォルフ」シーマンが怒った。「上司のわたしに対する君の態度は許し難い!」

「人違いだとお分かりいただけさえすれば!」咎められた男は懇願するように言った。

ドミニーと共に家の正面側に向かうあいだ、シーマンは険しい顔をしていた。友人の問いに答える声も険しかった。

「あの男と彼の訪問をどう思う?」

「どういうことか分からんが、分かっていることもたくさんある。あの男はスパイだ。外務省の切り札ともいうべき男で重大な事件が起きたときにしか起用されない。名前はヴォルフ、ヨハン・ヴォルフ」

「じゃ、彼の話は?」

「それは君が誰よりもいちばんよく判断できるはずだよ」

「その通りだ。わたしは間違いなくあの男の死体をブルー・リバーに投げこんだ。そして沈んでいくのを見た」

「つまり彼の話は嘘だってことだ。事情は分からないが、われわれはわれわれ自身のスパイ組織から疑いをかけられてしまったんだ」

広間に入ったとき、シーマンはアイダーシュトルム王女から緊急の呼び出しを受けた。ドミニーはしばらく姿が見えなかったが、やがて濡れた狩猟服を脱いで戻ってきた。彼のあとから召使いがやってきた。銀の盆にメモを載せている。

「ミスタ・パーキンスの部屋にいらっしゃるお客様から、ミスタ・シーマンに御伝言です」召使いは声をひそめていった。

ドミニーは小さく頷いて盆からメモを取りあげた。彼はお茶のテーブルから立ちあがろうとしている、客のなかでいちばん若くて、いちばんひょうきんな男のほうを振り向いた。

「玉突きで勝負だ、エディ。プールは得意中の得意なんだって?」

「相当な腕ですよ、わたしは」若者は満足そうに笑った。「スヌーカーで黒玉一個ハンディをあげましょう。どうです?」

ドミニーは彼の腕を取ってビリヤードルームに連れて行った。

「ハンディはいらない。用意したまえ。わたしがヨハネスブルグで二ヶ月間、どうやって生計を立てていたか見せてやろう」

第二十二章

ドミニー邸のその日の晩は、外から新たな客の一団を迎えたという点を除けば、実質的には最初の晩のくり返しに過ぎなかった。晩餐のあと、ドミニーはしばらく席を外し、ロザモンドの腕を取って戻ってきた。彼女はお祝いの言葉をかける近隣の人々に愛らしく応対していた。すぐに彼女の周りに小さな宮廷ができた。晩餐の席に連なったドクター・ハリソンは、その輪の外で彼女の軽やかな、そして時には燦めきさえ見せるおしゃべりに注意深く聞き入っていた。ドミニーは彼女が楽しそうにしているのを見て満足し、ターニロフが身振りで合図するのに応じて、彼と一緒に広間の奥のほうへ歩いていった。

「さて、ご主人」と王子は熱をこめていった。「今朝話したことは前口上に過ぎないといったが、それを結論まで持って行くことにしよう」

「是非お願いします」と主人役は小声で言った。

「わたしが君に理解してもらおうとしてきたことは、わたしの見るところ――ついでに言うと、わたしのような立場に立つといろいろなものが見えてくるものだ――この国とわが国が戦争する恐れはもうないということだ。イギリスは平和を確保するためなら、無理のない範囲でどんな犠牲をも厭わない覚悟だ。イギリスは平和を欲し、平和をめざす。だから平和が訪れる。だから君がこの偽者の役割をすぐに止めた方がずっと良い結果をもたらすのだ」

「わたしは自分の判断で行動できないのです。大使自身もご存じのように、わたしは命令を受けてここにいるだけです」

「一緒に抗議しよう。わたしはロンドンに帰りしだい、報告書を書く。思うに事態は急を要している。君とのおつき合いは本当に楽しいのだが、この国で君が偽者を演じていることが分かれば、君との交友がわたしの地位を甚だしく脅かすことになる」

ドミニーは立ちあがって、勢いよく薪が燃える暖炉の前の敷物の上に立った。大使は心地よい安楽椅子に座って足を組み、とりわけ彼が好む長くて細い葉巻をふかしていた。

「大使、あなたがおっしゃったことのなかに、たった一つ間違いがあります」

「間違い?」

「イギリスは平和を欲する、ゆえに平和が訪れる、と大使は無条件に結論なさいました。わたしはシーマンと同意見です。きっとドイツの軍部が最終的に力を握るでしょう。たとえ今、皇帝が軍部と秘密裡に結託してないとしても、軍部は次第に彼らの意志を皇帝に及ぼすはずです。だからわたしは戦争が起こると思います」

大使は静かに言った。「わたしがそんな考え方に共鳴したら、この国でのわたしの立場は恥ずべきものとならざるを得ないだろう。わたしが受けた命令は平和のために働くことだ。わたしの責務は皇帝からじきじきに受け承ったものだ」

ステファニーがやや会話に飽きた様子で、遠くの集団を離れて彼らのほうに向かってきた。美しい目は疲れているようで、動きもけだるそうだった。話し声にもいつもの自信に満ちた響きがなかった。

「大切なお話の邪魔をしたかしら。それなら向こうに行くわ」

「大使とわたしの議論が完全に行き詰まってしまいました。友好的ではあるけれど、根本的な意見の食い違いが壁のように立ちはだかっているんです」

「じゃあ、しばらくつき合ってちょうだい」ステファニーはドミニーの腕を取った。「ドミニー夫人が殿方を独り占めにするから、わたし、寂しいの」

王子は一礼した。

「議論は譲れませんが、ご主人はあなたにお譲りしましょう。わたしはビリヤードの相手を探します」

彼が立ち去ると、ステファニーがその空いたところに座った。

「ということは、わたしの従兄弟とあなたの話し合いは物別れに終ったというわけね」彼女はそう言いながら、ドミニーが横に座れるように場所を詰めた。

「けんかはしていませんよ」

「そうでしょうね。モーリスはあなたがひどく気に入ったみたいだから。以前彼と会ったことがあるかしら。ザクセンで一日か二日会っただけじゃない?」

「そうです。初めて王子と親しくお話したのはロンドンでした。王子には最大限の尊敬と敬意を抱いています。でも、この楽しいおつき合いも、実はベルリンの友人がそれを望んでいるからという、そのへんの理由が大きいんじゃないでしょうかね。わたしの個人的な意見ですが、あれくらい素晴らしい人格者は、どんな国でも見たことがありません」

「モーリスは高潔の士ね。わたしが知っている大貴族のなかでも、ちょっとした考え方や行動に生まれの気高さを感じさせる数少ない人間の一人だわ。たった一つだけ心を痛めてるものがあるけれど」

「何です、それは?」

「あなたたちの意見が分かれた話題――ドイツとこの国の戦争のこと」

「王子は理想主義者でいらっしゃる。ときどきどうしてこちらに送られてきたのだろうと不思議に思うことがあります。もっと権謀術数に長けた人間を寄こばよかったのに」

彼女は肩をすくめた。

「あのフランスの偉人が言っているでしょう、どんな大使もいつまでも紳士ではいられない――政治的には、って」

「わたしは外交官じゃないから分かりませんがね」

「でも、外交官になる資格はいろいろ持っているわ」彼女は皮肉をこめていった。

「たとえば?」

「あなたは徹底して無慈悲で、仕事となれば思いやりもいたわりの心もない」

「そんなことはありません」

「あした、わたしはロンドンに帰る。とっても惨めな、不幸な女として。幸せをもたらすはずだった手紙も持って行く。命を捨てて得ようとした愛に裏切られたのよ。皇帝の命令を振りかざしても、わたしのすべてを捧げても、幸福は五秒と訪れなかった」

「わたしがお願いしているのは、ただ猶予をくださいということだけです」

「六年前のレオポルド・フォン・ラガシュタインだったら、いったいどんな猶予をくれといったでしょう」彼女の口調が突然激しくなった。「猶予をくれだなんて!あの頃の彼は氷山をも溶かすような言葉を使った。ときどき夜中に彼の言葉が浮かんできて、わたしを嘲るの。あの頃の彼には国家なんてなかった。恋人が歩く天国しかなかった。支配者じゃなくて女王しかいなかった。そしてその女王がわたしだった。それが今は――」

ドミニーは不思議な胸の痛みを覚えた。彼女は相手の表情からいつもの厳しさが消えたのを見て、目を光らせた。

「今ちょっとだけレオポルドみたいだったわ。普段は彼と似ていないけど。あなたは彼をアフリカのどこかに置き去りにして、偽者になってここに来たんじゃない?」

「しばらくはそう信じてください」ドミニーは強く懇願した。

「それが本当だったらどうしましょう」と彼女は突然言った。「ときどきあなただと思えないときがある。レオポルドがよく使っていた言い回しを、あなたの口からは聞いたことがない。西アフリカって魔術師の天国なの?もしかしたらあなたは偽者で、わたしが愛する人はまだ向こうにいるのじゃないかしら――たぶん病気で。あなたはまるで稀代の名優みたいにエヴェラード・ドミニーを演じている。もしかしたらここに来る前はレオポルドを演じていたんじゃない?あなたはわたしのレオポルドじゃない。愛は朽ち果てたりしないもの、あなたが信じさせようとしているみたいには」

「どうやらようやく分かっていただけたようですね。カールトンでお会いした最初の瞬間から申しあげているように、わたしはあなたのレオポルドじゃないんです。エヴェラード・ドミニーなんです」

「確かめてみるわ」彼女は急にそう言って立ちあがった。「腕を組んでちょうだい」

彼女は人々が小さく固まっておしゃべりやらブリッジをしている広間を通り抜けた。シーマンは騙されやすい素人投機家に囲まれて鉱山の講義をしているところだった。彼らはあちらこちらで立ち止まり、短い言葉を交わしたが、ステファニーの指は同伴者の腕を決して放さなかった。彼らは狩りの版画の見事なコレクションが並ぶ廊下を進み、彼女はそれに興味をひかれた振りをした。そして小さな回廊から舞踏室に入った。そこには彼ら以外誰もいなかった。彼女は相手の肩に手を置き、目を見つめた。唇が彼の唇に近づいた。

「キスなさい、レオポルド――唇に」彼女は命令した。

「ここにレオポルドはいません。あなたもそう言ったじゃありませんか」

彼女はさらににじり寄った。「唇にキスなさい」

彼は彼女を抱き、かがむようにして唇を合わせた。それから彼女は彼から離れて立った。しばらく目を閉じ、再び彼が近づくのを防ぐように両腕をつきだしていた。

「これで本当のことが分かったわ」

ドミニーは適当な折を見て、投資先を探す少人数のグループからシーマンを引き離した。

「厄介なことになったよ」

「シュミットの密使とやらが何かしでかしたか」

「いや。今晩は彼に近づかないつもりだ。君もそうしたほうがいい。厄介というのは王女のことなんだ」

「王女の扱いに関する限り、君はへまをしたと思うね。対内的にも対外的にもなりすますべき人間になりきるという君の一般原則には大賛成だ。それこそがスパイ活動を成功させる秘訣なのだから。しかし例外を設けるときもわきまえておかなければならない。皇帝の命令に従うのは、わたしもどうかと思う。だが一方で、王女にもっと人間的な態度で接するとか、ロンドンの彼女の家を訪ねるとか、君の変わらぬ愛の熱烈な証拠を見せるとか、そういうことをするのは何の問題もないじゃないか」

「いったんそんなことをはじめたら――」

「いいかね。王女は世慣れた女性だ。分別がある。それに君たちはしっかり結ばれているのだ。遠慮なく言わせてもらうと、ドミニー夫人を相手にいちゃついているのを見るのは一瞬たりとも我慢ができない。しかし王女となら良心が咎めることなんか何もない。彼女を敵に回すことは絶対に避けたまえ」

「手遅れだよ。彼女はもう床について、早朝にここを発つつもりでいる。どうやらわたしが西アフリカの魔術を使って彼女の愛人の魂を向こうに残し、彼の身体だけ借りて戻ってきたと考えているようだ」

「そう考えてくれるなら、苦労はないじゃないか」

「とんでもない!」ドミニーは憂鬱そうに言った。「彼女は帰る前にさんざんいたずらをするかもしれない。それに万が一シュミットの従兄弟の話が本当で、彼女が向こうに行き、まだ生きているドミニーを見つけたとしてみろ。王女がドイツの生まれじゃないことは知っているだろう。ドイツの未来など、彼女には全然関係ないんだ。実際、ほとんどのハンガリー人と同じように、イギリスのほうに好意を抱いているようじゃないか。イギリス人というのは猫みたいになかなか死なないらしい。ドミニーが生き返って、彼女が連れ帰ったらどうする?君は戦争がはじまるまで、あまりわたしを活用する気はないと言っていたが、慣用句の好きなこの国の言い方を借りれば、そんなことが起きたらせっかくの計画も『水泡に帰してしまう』んじゃないか?」

「王女はスイートルームに泊まっているのか?」

「西翼のね。そうだ!君が彼女のところに行って、何とかしてくれないか。この時間ならまだ寝ていないだろう」

シーマンは頷いた。

「任せてくれ。君は戻って主人役を務めたまえ」

ドミニーはまず主人役を演じ、それから夫を演じた。ロザモンドは嬉しそうに一声叫んで彼を迎えた。

「とっても楽しいわ、エヴェラード!みんな、すごく優しくしてくれるの。ミスタ・マンガンは新しい一人トランプの仕方を教えてくれたのよ」

「そろそろお休みの時間ですな」ドクター・ハリソンが割りこんできて、ぶっきらぼうに言った。

彼女は思いきり甘えるようにエヴェラードのほうを振り返った。

「二階に連れて行ってくださる?ハリソン先生に追い出されるまえに、あなたが来てくれないかとずっと思っていたのよ」

「遅れていたら、がっかりして胸が潰れただろうな。さあ、みんなにお休みを言いなさい」

「まあ、まるでわたしが子供みたいなことを言うのね」彼女は笑った。「じゃあ、みなさん、さようなら。厳しい夫がわたしを連れ出そうとしているの。ハリソン先生、いつわたしを診にいらっしゃるの?」

「診察の必要はない。ここにいるどの女性にも負けないくらい健康なんだから」

「先生、ちょっと冷たいんじゃない?」彼女はドミニーに不平を鳴らした。「みんなに挨拶できるように広間を通っていきましょう。アイダーシュトルム王女はいらっしゃるの?」

「残念だけど、お休みになったようだ」部屋を出ながらドミニーが答えた。「頭痛がするとか言っていた」

「とってもきれいな方ね」ロザモンドは考え込むように言った。「わたしにももうちょっと好意を見せてくれたらいいのに。あなたのことは大好きのようだけど」

「今はどうも嫌われているらしい」

「そうかしら!わたしって観察眼がすごく鋭いの。ときどき、あなたを見つめているのを見かけたわ。もちろんわたしはあなたの本当の奥さんじゃないし、あなたはわたしの本当の夫じゃないから、焼き餅を焼くのは馬鹿げているんだけど。そうじゃない、エヴェラード?」

「ちっともそんなことはないさ。君の夫でないなら、ほかの誰の夫にもなりたくないよ」

「そんなふうに言ってくれるなんて、わたし、あなたが大好き」彼女は小さなため息をついた。「でも何か間違っているわ。あら、公爵夫人が怖い顔をしている。きっと誰かに悪い札を切られたのね」

ロザモンドの就寝の挨拶は容易に終わらなかった。とりわけターニロフは彼女をしりぞかせたがらなかった。しかし彼女は上品に言い訳をし、明日の晩はもう少し遅くまで起きていると約束した。ドミニーは二階へ彼女を導いた。ぐずぐずとした彼女の歩みに、奇妙な喜びを感じながら。彼女の部屋のドアまでくると、なかを覗きこんだ。看護婦が安楽椅子で読書をし、女中がその後ろで編み物をしている。

「ほう、これなら快適だね」彼は快活に言った。「看護婦さん、どうかそのままで」

ロザモンドは別れをいやがるように、彼の両手をつかんでいた。それから彼の顔を引き寄せ、キスをした。

「そうね」彼女はどことなく悲しそうに言った。「とっても快適だわ。ね、エヴェラード?」

「なんだい?」

彼女は彼の頭を引き寄せ、耳元でささやいた。

「二分間だけお休みを言いにあなたのところに行ってもいい?」

彼は微笑んだ。素晴らしく優しい微笑みだった。しかし彼は首を横に振った。

「今晩はだめだよ。王子は夜更かしが好きだから、下に行って相手をしてやらないと。それにあのいじめっ子のお医者さんには睡眠時間を十時間取るよう言われているからね」

彼女はがっかりした子供のようにため息をついた。

「分かったわ」彼女はふと聞き耳を立てた。「あれ、車じゃない?」

「誰かお客さんが早々にお帰りになるんだろう」そう答えて彼は踵を返した。

第二十三章

入れかわった男 · 第 6 / 8 段