「エヴェラード」彼は主人に向かって少しだけ声を張りあげた。「君はここの借地人に国民兵役の理念を教えこんでいるんだろうね」
ドミニーはやや曖昧に返事をした。
「このあたりではあまり快く受け入れられないでしょうね。農村の人々はなかなか頑固なものだから」
「連中の考え方を変えてやるのは地主としての責務だよ」彼は鼻眼鏡越しに好戦的な視線をシーマンに向けた。彼はテーブルの反対側に座っていた。「いいかね、遠からずドイツと戦争になり、自分たちが何も準備していないことに気づいてあっと驚くのは間違いないんだ」
彼の隣に座っていた州統監の妻、マデレー夫人はいささか驚いたようだった。恐らく彼女は、その場でただ一人、公爵の奇癖を知らない人間だったのだろう。
「本気でそう考えていらっしゃるの?ドイツ人はとても文明的ですわ。平和を愛し、家庭とかを大切にしていると思いますけど」
公爵はうめいた。彼はテーブルの向こうに目を走らせ、ターニロフ王子には聞こえてないことを確認した。
「マデレー夫人、ドイツはイギリスのように統治されていないのです。戦争になったらそんなものは、あの国の人間にとってどうでもいいんですよ。そりゃ、あなたみたいにびっくりする人も大勢いるでしょう。でも戦争を仕掛けてくるのに変わりはない」
それまで必死に自分を押さえ、黙っていたシーマンが公爵の挑戦を受けて立った。
彼はテーブルの向こうから一礼した。「失礼ながら、奥様、公爵が危惧なさるドイツとの戦争は決して起こらないと断言できます。根拠のないことを言っているのではありません。わたしはイギリスに帰化しましたが、生まれはドイツだからです。ロンドンにもベルリンにも同じくらい親友がいます。最近、アフリカに行っていて、そこでこちらのご主人と知り合いになったのですが、それ以外の時はほとんど二つの首都のあいだを行ったり来たりしていました。また独英両市民の友好を促進する会の幹事もやっております」
「くだらん!ドイツ人は友好など望んではおらん。望んでいるとわれわれに信じこませようとしているだけだ」
シーマンはちょっと困った顔をした。しかし彼は一歩も譲らなかった。
「公爵とわたしはこの件に関して昔から敵同士なんですよ」
「その通り。君は正直な男かもしれないが、シーマン、この件に関しては無知蒙昧の輩だ」
「たぶん二人ともそれぞれに正しいんでしょうね」とドミニーが口を挟んだ。いかにも育ちのいい主人が、大きく意見の食い違う二人を調停するため、いつものように割って入ったという感じだった。「ドイツに参戦派と非参戦派がいることは論を待たないでしょう。経済成長を第一に考える政治家もいれば、ひたすら征服をめざして軍事的野望に燃える連中もいますよ。わが国ではその両者のバランスを取るのがとても難しい」
シーマンは感謝の笑みを主人に送った。
彼はもったいぶるように言った。「ドイツの高官のなかにも友人がいますが、彼らはイギリスでやっているわたしの活動をいつも応援してくれます。皇帝ご自身も、イギリスに友好の機運を高めるわたしの努力を祝福してくださいました。失礼ですが、公爵、あなたがわたしの国に対していつもまき散らしている無分別で根も葉もないご主張、それこそがいっそうの相互理解を妨げているものなのです」
「わたしにはわたしの見解がある。それはもう確信となっている。これからもずっと弁舌の限りを尽くしてそのことを話すつもりだ」公爵は噛みつくように言った。
この会話の一部は大使にも聞こえていた。彼は座ったまま身体を少し前に乗り出した。
「まず個人的見解を申しあげましょう。われわれ両国が戦争をするのはまさしく民族的自殺行為です。筆舌に尽くしがたい、おぞましい犯罪である、これがわたしが熟慮の末にたどり着いた意見です。次にこちらでわたしが代表している国家の立場から、大使の資格において、こうつけ加えましょう。わたしがここに来たのは、平和を築くという、偽りのない、純粋な使命を果すためです。ここでのわたしの仕事は、平和を守り、平和を確かなものにすることです」
キャロラインは夫に警告するようなまなざしを向けた。
「腹蔵なくおっしゃっていただいてありがとうございます、王子。公爵は趣味が嵩じて、私的な晩餐の席が演壇とは違うことをときどき忘れてしまうんですよ。もっと本当に面白いことについて議論しましょうよ」
「これより重要な問題なんかありはせんぞ」公爵はそう断言したが、あきらめて黙ってしまった。
大使が提案した。「ご主人のキジ撃ちの腕前について話しましょうよ」
シーマンは右隣の女性に言った。「よろしければ、みなさんイギリスの女性が、ドイツの主婦よりもずっと自由に振る舞っていらっしゃる理由など、教えていただけませんか」
ステファニーが微かに震える声で主人にささやいた。「あとであなたをびっくりさせるものを渡すわ」
ドミニーの客は晩餐のあと、いつの間にかそれぞれ自分が好む気晴らしへと移っていった。ブリッジのテーブルが二つ出され、ターニロフと閣僚はビリヤードに興じた。シーマンは居間の古いグランドピアノにむかい、誰もが唖然とする指の運びで黄色い鍵盤から風変わりな曲を奏でて見せた。ステファニーと主人はゆっくりと広間と絵画陳列室を抜けていった。しばらくはドミニーが同伴者の注意をあれこれの絵に向けさせ、それをめぐって話が交わされていた。しかし他の客に聞かれるおそれのないところへ来ると、ステファニーの指は相手の腕を強く握り締めた。
「二人きりでお話したいわ。誰にも立ち聞きされずに」
ドミニーはためらうように後ろを振り返った。
「お客さんは遊びに夢中よ。それにわたしも客の一人なんですからね。ちゃんとお相手していただかなければ」彼女は少しいらいらして言った。
ドミニーは書斎のドアを開け、電灯を二つつけた。彼女は薪が燃える暖炉のほうへ進み、室内の暗い陰に視線を走らせた。そして再び主人の顔を見つめた。
「一回、灯りを全部つけてちょうだい。他に誰もいないことを確かめたいの」
ドミニーは命令に従った。本でいっぱいの棚が並ぶいちばん奥の角が照らし出された。彼女は頷いた。
「この灯り以外は全部消していいわ。安楽椅子を持ってきてちょうだい。いいえ、この長椅子にする。横にお座りなさいな」
「真面目な話ですか?」彼は不安そうに尋ねた。
「真面目だけれど、素晴らしい話よ。聞いてくれる、レオポルド?」彼女は目をあげた。
彼女は長椅子の端で身体を半ば丸めるようにし、長い指で軽く頭を支え、茶色い目で相手をじっと見つめた。真剣だが優しい気持ちがにじみ出していた。ドミニーの顔は彼女の目の訴えを見て、さらに強ばったように思えた。
「レオポルド、わたしは数週間前にイギリスを離れたの。獣みたいなあなたに二度と会わない決心をして。出ていく前に、あなたの化けの皮をひんむいてやろうかとさえ思ったわ。ペテン師の食わせ者だって。ドイツなんてわたしには意味がない。人間的な義務を考慮しない愛国主義にどうして共鳴できるものですか。故郷に帰って、ロンドンには戻らないつもりだった。わたしの心は傷つき、とても惨めだった」
彼女は言葉を切ったが、相手は何の反応も示さなかった。しかし彼女がいつまでも黙ったままなので、何か言わざるを得なくなった。
「王女、あなたはここにいない人間に向かって話しかけているのですよ。わたしの名前はもうレオポルドではないのです」
彼女は優しさと苦々しさとが奇妙に入りまじった声で笑った。
「心配だわ。新しい人間になって、名前だけじゃなく、人間らしさまでなくしてしまったんじゃないかしら。話をつづけますけど、都合があってわたしはベルリンに何日か滞在し、そのためポツダムの王宮に出向かなければならない羽目になったの。そこで驚くようなことを聞いたわ。ウィルヘルムがあなたのことを話してくれたの。心の傷はまだ癒されていないけど、でも彼はわたしに理解させてくれた」
「こんな話をするのはまずいんじゃありませんか?」彼はうろたえたように言った。
彼女はその言葉を無視した。
「わたしはもう一度好意的に王宮に迎え入れられました。そのことはあなたに感謝します。ウィルヘルムは先頃あなたの訪問を受けてとても感心していたのよ。それとこっちの人間になりすました手口に。アフリカでの仕事も口を極めて賞めていた。追放者として送りこまれただけに、なおさら評価しているようね。皇帝はわたしにこうお尋ねになったわ、レオポルド」彼女は声を落とした。「あなたに対するわたしの気持ちは変わっていないのかと」
ドミニーの顔は相変わらず強ばっていた。彼はあくまで彼女と目を合わせようとしなかった。
「わたしは本当のことを言いました。どんなふうにすべてがはじまったのか。そしてわたしたちの関係はわたしが死ぬまで続かなければならないことも。決闘の話もしました。介添人が説明してくれたことを話したわ。手首が返り、コンラッドがものすごい勢いで突っこみ、文字通りあなたの剣先に飛びこんでいったこと。ウィルヘルムは理解し、許してくれた。そしてあなた宛にこの手紙を書いてくれたの」
彼女はポケットから小さな灰色の封筒を取り出した。封印にはホーエンツォレルン王家の紋章が押されていた。彼女はそれを手渡した。
「レオポルド、読んでみて」
彼は気乗りのしない指で手紙を受け取ったものの、頭を横に振った。
「宛名をご覧なさい」
彼は言われたように見た。のたくるような、奇妙な筆跡で、「サー・エヴェラード男爵へ」とあった。彼は不承不承に封を切り、手紙を取り出した。たった二週間前の日付になっていた。前置きも結びもなく、ただ厚い便せんに二つの文が記されていた。
貴殿がアイダーシュトルム家ステファニー王女に結婚を申し出ることは、予が望むところである。二人の婚礼には教会からは祝福が、王宮からは承認が与えられるだろう。
ウィルヘルム
ドミニーは口がきけなくなったように座っていた。彼女は彼を見ていた。
「これでもまだ抵抗する気?」どことなくうらみがましい、皮肉のこもった質問だった。「レオポルド、まさかわたしを愛していないというんじゃないでしょうね。あなたはいろいろな面でとても変わってしまった。もう愛情はなくなったの?」
彼の声は自分の耳にすらがさついて不自然に聞こえた。その言葉には道化者の品のない残忍さがみなぎっていた。
「現実的に無理だということです。考えても見てください!わたしはここの人にそう呼ばれている人間、この先何ヶ月もその振りをしなければならない人間、エドワード・ドミニー、この家の主人、ドミニー夫人の夫なのですよ」
「あなたの評判の奥様はどこにいるの?」ステファニーは顔をしかめて訊いた。
「ここ数ヶ月、療養所にいます。もう回復したも同然です。退院するまでそれほど長くはかからないでしょう」
「退院させないよう求めるべきだわ」
「そんなことをしたら、どんな疑いを招くか考えてみてください」ドミニーは強く訴えた。「それに他の人はみんなわたしを妻帯者だと思っている。どうして皇帝の命令をいいことにあなたと結婚などできるんです?」
彼女は不思議そうに彼を見た。
「命令に従わないというの?あなたがなりすました冷たいイギリス人のようにそこに座っている気なの?わたしの手に涙をこぼしたというのに。その唇で――」
「あなたが話しているのは死んだ人間のことです」ドミニーが相手を遮った。「彼はこの大計画が成功して生き返るまでこの世にいないのです。そのときまであなたの愛人は沈黙を守らねばならないのです」
彼女は怒りを爆発させた。支離滅裂なことを荒々しく口走り、彼の顔を自分の顔に引き寄せた。次の瞬間、彼に打ちかかろうとするかのように拳を握り締めた。彼女はわっとばかりに泣き崩れた。
「そんなに――そんなにつらくあたることはないでしょう、レオポルド。ああ!あなたの任務は大切だわ。最後までやり通さなければならない。でも皇帝は許可してくれたのよ。何か方法があるはずだわ。秘密裏に結婚することができるはず。そうでなくても、せめて口づけ、抱擁くらいは!わたしの心はあなたの愛に飢えているのよ、レオポルド」
彼は立ちあがった。彼女の腕が首にしがみついたままだった。その唇は激しく接吻を求め、目の光りは彼の目に食い入った。
「許してください、ステファニー。そのときが来るまで、たった一度のキスでも名誉を汚すことになるのです。その日まで待ってください。あなたもよくご存じのその日まで」
彼女は腕をほどき、小さく身震いした。傷ついた目はいぶかしそうに彼を見た。
「レオポルド、何があなたをこんなふうに変えてしまったの?何が情熱を干上がらせてしまったの?あなたは別人みたい。顔をよく見せてちょうだい」
彼女は相手の肩に手をかけ、電灯の下へ引っぱっていき、顔を覗きこんだ。暖炉の薪が音を立ててはぜた。閉ざされたドアの外からは、話し声と笑い声がかすかな波音のように聞こえてきた。彼女の呼吸は乱れ、目は相手の顔から仮面を引き剥がそうとしていた。
「他の人に心移りしたのかしら。アフリカに女はいなかった。噂の奥さん、ロザモンド・ドミニーは美しくて、あなたはとても大切しているそうね。あなたが戻ってから健康も回復して、あなたのことを慕っているとか。まさか――」
「それは違います。そんなことはしません」
「じゃ、何を見ているの?言ってご覧なさい」
彼女の目は部屋を出ていった影のごとき存在を追った。彼は再びほっそりした、少女にも似た姿を見たのだった。訴えるような黒い瞳には愛情を求める光りが宿り、唇は震えている。怯えた子供が彼に向かい、強い男に向かい、保護を求めて甘く訴えている。彼は柔らかい指が手にからみつくのを感じ、長い歳月によって無慈悲に押さえつけられていた感情が奇跡のように蘇る甘い陶酔感を味わった。そばにいる女の情熱が急に安っぽい、わざとらしいものに思え、彼を求める彼女の唇が何かおぞましいものに見えた。ドアに背を向けていた彼は、女の口から怒りのこもった失望の叫びが発せられるのを聞き、ようやく歓迎すべき侵入者のあったことを知った。振り返ると入り口にシーマンが立っていた。まさに天の助けだった。
「邪魔してまことに申し訳ない、サー・エヴェラード」丸い、にこやかな顔は本当にすまなそうにしていた。「急いでお知らせすべきだと思ってね。ちょっとよろしいですか」
王女は一言も挨拶せず、後ろを振り返ることもなく、彼らのわきを通り過ぎた。侮辱された女王のような物腰だった。恭しく道を譲ったシーマンの顔にひときわ深い心配の色が浮かんだ。
「何があったんだい?」ドミニーが訊いた。
「ドミニー夫人が戻ってきたんだ」彼は落ち着いて答えた。
第十七章
これほどいたましいものは見たことがないとドミニーは思った。それは広間の片隅、暖炉の前に立つ女が奇妙に疲れた眼から彼に注ぐ、半ば希望にあふれ半ば不安にさいなまれた真剣なまなざしだった。彼女の横には快活で人なつっこそうな制服姿の看護婦がいた。さらにその後ろには宝石箱を抱えた小間使いがいた。黒いベールをかきあげたロザモンドは片足を炉格子にかけて立っていた。ドミニーが腕を伸ばして急ぎ足に近づいてくると、彼女は表情をがらりと変えた。
「よく帰ってきたね。うれしいよ」
「うれしい?」彼女は喜びのあまり声がつまった。「本気で言っているの?」
気持ちを制している様子は微塵も見せず、彼は自分に差し向けられた唇に触れた。世話を任された見知らぬ子供にでもするような、優しく、敬意に満ちたキスだった。
「もちろん本気だとも」彼は朗らかに答えた。「しかし連絡もなしに帰ってくるなんて、どうしたんだい?何があったんだい、看護婦さん?」
「奥様は二晩ほどお眠りになっていないのです。お身体の具合がとてもよろしかったので、かえって病気がぶり返さないかと、わたしたちは心配しました。ですが婦長のクールソンが、奥様のお望み通り、おうちに帰ったほうがいいとだろう判断したのです。ご主人様に電報をさしあげればよかったのですが、残念なことにハリソン先生に出してしまいまして。先生はお出かけ中のようですね」
ロザモンドはドミニーの腕にしがみつきながら訊いた。「まずかったかしら?わたし、急に戻らなければならないような気がしたの。もう一度あなたに会いたくなったのよ。ファルマスではみんな優しく親切にしてくれたわ。とくにこちらのアリス看護婦は。でもやっぱりうちとは違うもの。あなたは怒ってないでしょう?ここに泊まっている人は気にしないわよね?」
「もちろんだよ」彼は上機嫌で請け合った。「彼らは君のお客さんだよ。明日は全員と友達になってもらわないと」
「とってもきれいな人がいたわ」彼女はおどおどと言った。「金髪の方で、ついさっきすれ違ったの。すごく怒っていたみたい。わたしが帰ってきたからじゃないでしょうね」
「そんなことあるものか。君にはここにいる権利がある。他の誰よりも当然の権利が」
彼女は長々と満足のため息をついた。
「ああ、素敵だわ!あなた――エヴェラードって呼んでもいいのよね?――あなたも元気そうね。わたしが願っていたとおりだわ。二階に連れて行ってくれる?看護婦さん、ついていらして」
彼女は彼の腕に体重をかけて寄りかかり、途中でわざとぐずぐずしさえした。しかし自分の部屋に近づくと、足取りは軽くなった。とうとう廊下にたどり着いたとき、彼女は腕を放して、子供のようにはしゃぎながら部屋のドアに向かって駆けだした。ドアを開け放ったとき、失望の声がもれた。数人の女中たちがなかなか火のつかない薪を相手に悪戦苦闘したり、家具の覆いを取り払っていたのだ。もうもうと煙のこもるその部屋は使えるような状態ではなかった。
「まあ、がっかりだわ。エヴェラード、どうしましょう?」
彼は自分の部屋のドアを開けた。暖炉の火はあかあかと燃え、部屋は暖かく、心地よかった。彼女は小さく喜びの声をあげると、暖炉の前の敷物の端に置かれた大きなソファに飛びこんだ。
「あなたがお休みになるときまでここにいてもいいでしょう、エヴェラード?戻ってきたら、ここに座ってお話してちょうだいね、誰がきているのか、どんな人たちなのか。わたしがどんなによくなったか分からないでしょうね。昔弾いていた音楽をみんな思い出したのよ。ブリッジの腕前も今まで以上にあがったって言われたわ。おもてなしのお手伝いなら喜んでするわよ」
女中が女主人のブーツの紐をゆっくりと解いていた。ロザモンドは足を持ちあげ、彼に触れさせた。
「冷たいでしょう。こすって暖めて。夕食はここで看護婦と取るわ。女中さん、誰か一人下に行って用意をさせてちょうだい。ずいぶん新しいものを買い入れたのね、エヴェラード!」彼女は部屋のなかを見回した。「あら、わたしの絵がテーブルの上に!客間に置いてあったのに」彼女の目が急に嬉しそうに光った。「あなたったら!どうしてあれを持ってきたの?」
「ここに置きたかったんだよ」
「わたし、もうあの絵みたいにきれいじゃないわ」彼女は切なそうにため息をもらした。
「そんなことはないさ。君は少しも変わってない。二、三ヶ月したらもっときれいになる」
彼女はほとんどはにかんだような、いたいけな視線を彼に送った。しかしそこには毅然とした光もあった。
「あなたのご希望通りになってあげる。あなたにはわたしを好きなように変える力があると思うわ。どうか優しくしてちょうだい」彼女は両腕を彼のほうに伸ばした。「病気が長かったせいだと思うけど、自分がすごく頼りなく感じられるの。わたし、あなたのたくましさが好き。あなたに守ってもらいたい。あなたの手もずいぶん冷たいのね」彼女は不安そうに言い足した。「それに顔色も悪いわ。病気じゃないでしょうね、エヴェラード?」
「何ともないよ」彼は声に動揺をあらわすまいと必死だった。「ゆっくり話せなくてわるいんだが、お客さんが来ているからね。ちょっと大事なお客さんなんだ。あしたはみんなと挨拶しなければならないよ」
「そしてあなたのお手伝いをするのね」
「そう、手伝ってほしい」
ドミニーは部屋を抜け出し、よろめくように廊下を歩いた。いちばん上の大きな四角い踊り場まで来ると、彼は立ち止まって、軽く目を閉じ、数秒のあいだ立ちつくしていた。下からは楽しそうな甲高い声や、遠くで鳴っているピアノの音や、ビリヤードの玉のぶつかる音が聞こえた。彼は気持ちが落ち着くのを待った。階段を降りようとしたとき、シーマンがあがってくるのが見えた。相手の押しとどめるような仕草に、彼はシーマンがあがってくるのを待った。それから相手の腕を取り、陰になった角の大きな長椅子に導いた。シーマンにはいつもの陽気さがなかった。唇に人当たりのいい微笑みは漂っていなかった。
「ドミニー夫人はどこにいる?」
「わたしの部屋だよ。彼女の部屋の用意ができるのを待っている」
シーマンの態度はいつになく重々しかった。
「よく分っているだろうが、わたしは君と重要な任務についているにもかかわらず、じつにいい加減な人間だ。おまけに、なんと、悪い癖が一つある。任務を離れているときのわたしは――女に目がないのさ」
「それで?」
「君の立場は確かに微妙で厄介なものだ。ドミニー夫人は君を愛しているらしい。二人のあいだにはいろいろな問題があったが、にもかかわらず、ドミニー夫人は間違いなく夫に対する愛を失っていない。君を怒らせるつもりはないが、しかし彼女の気持ちを助長させることは厳に慎んでくれたまえ」
ドミニーの目が光った。ほんの一瞬、怒りの言葉が唇の上に震えたように見えた。しかしシーマンの態度にはひどく思いやりがこもっていて、少しも不快感を与えなかった。
「他の女なら、君が今の立場を利用して何をしようと、わたしは肩をすくめて傍観している。しかしたわけ者のイギリス人が妻にした女性、いや、未亡人は、心を病んでいる。いまだに精神に異常をきたしている。きみに深い思いを抱いているのと同時にね。さっき君と廊下を歩いているのを見た。彼女は冷たい雨が長くつづいたあと太陽を求める花のように君に愛を求めている。フォン・ラガシュタイン、君は名誉を尊ぶ男だ。難しいかもしれないが、この場はなんとかうまく切り抜けてくれ」
ドミニーは心を乱す最初の波からすでに回復していた。相手の言葉に少しも腹を立てていなかった。それどころか今まで以上に思いやりをこめて相手を見ている自分に気がついた。
「君はわたしが板挟みになっていることを理解してくれているんだね。たしかに悩ましいことこの上ない。もう一つ、板挟みになっていることがあるんだ。アイダーシュトルム王女が皇帝から署名入りの手紙を持ってきた。彼女との結婚を命令する手紙だ」
シーマンは苦り切った顔で言った。「深刻な側面を無視して、上っ面だけ見れば、こいつはパレロアイヤルの笑劇にうってつけの状況だな。しかしひとまず君は下に行かなければならんね。わたしは言いたくてうずうずしていたことを言ってしまったし」
彼らはちょうどよいときに下に降りた。近隣から招いた客が帰宅の準備をしていたのだ。ドミニーは別れの挨拶に間に合った。彼らは口をそろえて、ドミニー夫人によろしく伝えてほしいと言った。またすぐ夫人を訪ねてまいります、健康を回復してお戻りになったと聞き喜んでおります。最後の車が行ってしまったとき、キャロラインが主人の腕を取って、奥の間へ引きこみ、大きな薪が燃える暖炉わきの椅子に座らせた。
「エヴェラード、あなたって本当にひどい人」
「どうしてですか?」
「わたしたち女性を深く愛してくれるのは嬉しいんだけど、みんなを相手にするっていうのは行き過ぎじゃないかしら。あなたがイギリスに戻ってきて、起るはずのないことが起きたわ。つまり、奥さんが正気に戻ったってこと。気性の激しいハンガリーの王女様は、あなたを追いかけてここまで来たというのに、今さっき、あなたが奥さんを迎えにしばらくそばを離れたものだから、すっかりおかんむりの体で部屋に入ってしまった。それからわたしとの悲しいささやかなアバンチュール。ああ、わたし、袖にされ、捨てられちゃったのね!エヴェラード、あなたって本当に悪い人」
「ひどい言われようだなあ。でも波瀾万丈の夜のあと、こうしていられるのはほっとしますね。ゼウスみたいに稲妻を投げつけてこない人が話し相手なんだから。ウイスキー・ソーダを飲んでもかまいませんか?」
「わたしにも一杯お願い。飲んだら、予定と違って、話の調子が全然狂っちゃうかもしれないけど、喉が渇いたわ。それからトルコ煙草もひとつかみ。何も気にせず、わたしのお相手をしてくれたらいいのよ。あなたのいちばん大切なお客さまは、大好きな仕事を見つけたようよ。ビリヤードルームの隅でヘンリーをつかまえて、あの人の信念を彼に植えつけようとしているわ。ドイツはイギリスに対してごく平和的な意図しか抱いていない、ですって。判事様はお休みになり、エディ・ペラムはミスタ・マンガンとビリヤード。みんな楽しくやっているわ。あなたはわたしの傷ついた虚栄心をなぐさめることに専念してくれたらいいの。もちろん失恋に痛む胸も忘れないで」
「いつもからかうんですからねえ」
「いつもじゃないわ」彼女はふと目をあげ、静かに言った。「あの恐ろしい悲劇が起こる前、あなたが最後にダンラッターに泊まっていたとき、あのときはからかったりしなかった」
「あのときのあなたは、今と違って、優しさそのものでした」
彼女は思い出にふけるようにため息をついた。
「素晴らしい一ヶ月だったわ。あのとき、初めてあなたのなかに、今のあなたになる可能性を見たんだと思う」
「つまりわたしは変わったということですか?」
彼女は相手をじっと見つめた。
「ときどき信じられなくなる、あなたが同じ人だなんて」
彼は顔を背けてウイスキー・ソーダに手を伸ばした。
「好奇心から訊くんですけど、その理由は何ですか?」
「まず第一に、言葉遣いが堅苦しくなった。昔はくだけた言い方もときどきしていたけど」
「他には?」
「昔は語末のgをはしょっていたわ」
「あきれた癖ですね。アフリカの奥地で朗読の練習をして直したんですよ。それから何があります?」
「動作がしゃちほこばっている。ときどき軍服を着ていないことに気づいてびっくりしているみたい」
「それはみんな些細なことですね。大きな変化はありますか?」
「大きな変化はとてもいい変化よ。以前はウイスキー・ソーダを四六時中あおって、晩餐の時はワインをがぶ飲みしていたわ。今はほとんど飲まないのね。如才なく主人役をこなすのに」
「ご婦人方がいないときに、どれだけポートワインを飲んでいるか見せたいですね。他にもいい変化がありますか?」
「あなたのいいところがみんな表に出てきたみたい。帰国して過去を清算しようとしているのは立派というしかないわ。ねえ、あの男の死体が発見されたら、あなたは殺人で起訴されるの?」
彼は頭を振った。「そうはならないでしょうね、キャロライン」
「エヴェラード」
「何です?」
「ロジャー・アンサンクを殺したの?」
燃えている薪の一部が暖炉のなかで崩れた。そして沈黙が訪れた。隣の部屋から玉突きの音が聞こえてきた。ドミニーはかがんで、小さな火箸を使い、燃えている薪をかき集めた。彼は突然手をつかまれた。
「エヴェラード。ごめんなさい。今晩は疲れているのに、わたしの相手をしてくれたんでしょう?同情してあげるべきなのに、わたしったらとんでもないことを訊いちゃった。どうか忘れてね。昔みたいに話してちょうだい。ロザモンドのお帰りのこととか。本当に治ったと思う?」
「ちょっと会っただけなのですが、間違いなく回復に向かっているようです。毎週、療養所からくる報告で、病状がぐんとよくなったことは知っていました。身体はひどく弱っていて、目はまだ落ち着きがないんですが、話すことは首尾一貫しています」
「あの嫌らしい女はどうなったの?」
「ミセス・アンサンクには年金を与えて辞めてもらいました。驚いたことに、今でも村に住んでいるそうです」
「幽霊のことは?」
「ロザモンドがいないときは叫び声一つたてません」
「もう一つ訊きたいことがあるの」キャロラインは言いにくそうに話し出した。
その「もう一つのこと」は永遠に口にされることはなかった。奇妙な、劇的といってもいい邪魔が入ったのである。広間の静寂を破って、正面ドアの巨大なベルが鳴り響いた。ドミニーはぎょっとして時計を見た。
「真夜中じゃないか。いったいこんな時間に誰が来たんだろう」
本能的に二人は立ちあがった。男の召使いが大きな鍵を回し、かんぬきを引き抜いて、苦労しながらドアを開けた。雪と冷たい風が玄関に吹きこみ、それにつづいて頭からつま先まで雪に覆われ、髪の毛を風に乱され、吹雪との闘いで誰とも見分けのつかなくなった男の姿があらわれた。
「ハリソン先生!」ドミニーは急いで一歩前に踏み出した。「こんな時間にどうなさったんです?」
医師はしばらく杖に寄りかかっていた。息が切れ、溶けた雪が服からオーク材の床にしたたっていた。彼らはコートを脱がせ、火の方に彼を誘った。
「こんな時間に申し訳ない」彼はドミニーが持たせてくれたタンブラーを握った。「ついさっきドミニー夫人の電報を受け取ったんだ。君に会わなければならなかったんだよ――すぐに」
第十八章
医師はいつもの傍若無人な口ぶりで、この時ならぬ訪問が内密の話をするためのものだと言った。キャロラインはさっそく席をはずし、二人の男は大広間に取り残された。ビリヤードルームと客間の灯りは消えていた。数人の召使いを除いて、屋敷のなかの人間はみな部屋に引っこんでいた。
「サー・エヴェラード。今回のドミニー夫人のお帰りにはまったく驚いた。明日の朝、君と話をするつもりでいたんだが」
「先生の報告を今か今かと待っていたんですよ」
「いい報告だよ」自信にあふれた返答だった。「知らせを受けていたら、こんなに急に療養所を離れることは許さなかっただろうが、しかしあそこに留め置く理由もない。ドミニー夫人は精神的にも肉体的にも申し分のない健康状態だ。ただ、一つだけ妄想を抱いているが」
「その妄想というのは?」
「君が夫じゃないと思っているんだよ」
ドミニーはしばらく黙っていた。それからどことなくわざとらしい笑い声をあげた。
「まったくの正気といえるのでしょうか、周りのすべてから現実性を奪うような妄想に取り憑かれているのに」
「ドミニー夫人は完全に正気だ」医師はぶっきらぼうに言った。「その妄想を追い払うことができるかどうかは、君次第だ」
「何か助言はありませんか?」
「あるとも。率直に言うよ。まず、君は幾つかの点で目に見えて変貌した。それがドミニー夫人の妄想を誘発したとしても無理はない。例えば君がイギリスに戻ってきて八ヶ月あまりが経つが、そのあいだ君はまったく人が変わったように振るまいつづけている。悪い癖をことごとく克服したかのようだ。紳士らしく適度にお酒を飲み、荒っぽい気性を押さえ、自分の人柄を唯一の武器に名士や実力者たちを自分のまわりに集めている。十年以上も前にイギリスをすたこら逃げ出したエヴェラード・ドミニーからは考えられんことだ」
「妻の病状を弁護なさっているみたいですね」
「奥様に弁護なんか必要ない」医者はぞんざいに返事した。「彼女は我慢強い、貞節な女性だ。残酷な病に苦しんでいるが、それは、うんと思いやりのある言い方をすれば、君のいい加減さ、無思慮によって引き起こされたものだ。善良な女性はみんなそうだが、寛容は彼女の第二の天性だ。今、彼女は人生において自分が収まるべき場所に収まりたいと願っているのだ」
「しかし妄想があるかぎり、つまり、わたしが夫ではないのだと真剣に思っている限り、そんなことは無理でしょう?」
「それこそ君とわたしが直面しなければならない問題だよ」医師は厳しく言った。「まだ妄想に取り憑かれている奥様が、君のところに喜んで戻ってきたという事実は、わたしには説明もつかないし理解もできない。しかし今晩ここに来たのは、君に一つの責任を与えるためなのだ。完全な回復に至るには、奥様にはあと一歩が必要なのだということを忘れてはいけない。その一歩が踏み出されるまで、君には恐ろしく困難な、しかし避けられない務めがある」
ドミニーはしばらく歯をきつく食いしばっていた。膝に手を当てて、身体を乗り出したとき、医師の鋭い灰色の目が毛むくじゃらの眉の下で光った。
ドミニーは静かに言った。「ということは、妄想が消えない限り、帰国以来つづいているわたしたちの状況はまったく変わらないということですね」
「そうだ。ややこしいことになったが、われわれは、というより、君はそれに対応していかなければならない。他の妄想はことごとく消えてなくなった。それは約束できる。ロジャー・アンサンクの幽霊や、夜中に聞こえる叫び声や、彼の謎に満ちた死のこと。それらは彼女にとって痛ましい過去の一部であるにすぎない。君の命を奪おうとしたこともちゃんと意識しており、ひどく後悔している。しかし今度の症状こそ本当に危険なのだ。君に対して情熱的な愛情を捧げているようだが、その実、君を夫と信じてはいないのだからな」
ドミニーは熱気を避けるように、椅子を暖炉から遠ざけた。彼の目は医師の目に釘づけになっているようだった。
医師は重々しく話をつづけた。「どうしてそんな妄想が生じたのか、分からない。しかしわたしの義務として警告しておくよ、サー・エヴェラード。君に愛情を注ぐことで彼女は大いに回復に向かうだろう。ドミニー夫人はもともと非常に愛情深い女性だ。肉体的健康を取り戻し、人間的な思いやりを十分に受けたことが、おそらくそうした性向を目覚めさせたのだろう。しかも彼女はますます君が好きになりつつあるし、君は夫として立派に振る舞っている。彼女の性向がはぐくまれるのはまったく当然だよ。いいかね、サー・エヴェラード、君の立場はとてつもなく困難な立場だ。しかし困難ではあっても、とにかくやらなければならない義務がある。できるだけ奥さんの愛情をはぐくみつづけたまえ。しかし妄想が残っているあいだ、その愛情はある一定の限度を超えてはならない。ドミニー夫人は善良な優しい女性だ。ある朝彼女が目を覚まし、妄想は残ったまま、しかも良心のとがめに苦しむというようなことになれば、今まで何ヶ月もわれわれが苦労してやってきたことは、みんな無駄になるかもしれない。彼女自身、精神病院で一生を終える可能性も大いにある」
「先生、ご忠告の一言一言が身に染みました。任せてください」ドミニーは力強くいった。
医師が彼を見た。
「信じているよ」そう言って医師は安堵のため息をついた。「それを聞いてうれしいよ」
「もう一つだけ教えてください」ドミニーは間をおいて言った。「もしもこの妄想がなくなったとしたらどうなりますか。急にわたしが夫であると確信したら?」
医師の答えに熱がこもった。「その場合はまったく逆を行うことになるだろう。彼女が夫に捧げる愛情を押しとどめないことが大切だ。逆の場合はそれを受け入れないことが大切なようにね。彼女が今の心の状態を維持したまま、君が法的に結ばれた正当な夫であると自覚したとしたら、そのときこそ彼女の新しい人生のはじまりだよ」
どちらもは語るべきことはすべて語ったという気がした。短い沈黙のあと、医師は最後の一杯を飲みほし、パイプに煙草を詰めて、立ちあがった。ドミニーが車庫から出すように命じてあった車は、もうドアの前に停まっていた。奇妙なことに、彼らはどちらも今まで話していたことに、間接的にも触れたくない気分だった。
「送ってくれるとはありがたい」医師がしわがれた声で言った。「家を出たときはよかったが、沼地を歩くのは憂鬱だった」
「来ていただいてとても感謝しています」ドミニーの言葉には明らかに誠意がこもっていた。「一両日中に患者を診に来ていただけますね?」
「この屋敷に泊まっている連中を追っ払ってくれたら、すぐに来るよ。おやすみ!」
二人は別れた。なぜだか分からないが、ドミニーはこのぎこちない別れの挨拶で、出遭ったときから彼らのあいだにわだかまっていた反感が葬り去られたような気がした。一人になった彼は薄明かりの灯る大広間をしばらくうろつき回った。奇妙にそわそわした気分が彼に取りついたようだった。消えかけている火のそばにしばらく立ちつくし、白っぽい灰が、煙突から吹き込む風に、落ち着きなく揺さぶられるさまを見つめた。それから広間の別の場所へ行き、新しく取りつけた電灯のスイッチを一つずつ入れ、壁に掛かっているくすんだ油絵を照らし出した。今はなきドミニー家の祖先の顔を見ながら、その生涯について耳にしたことを思い出そうとした。いちばん長く眺めていたのはスチュアート朝時代のしゃれ男の肖像画で、その悪行の数々は、当時の恋愛事件について書き残している人々に格好の材料を与えたのだった。眠そうな召使いが後ろをうろついていたので、とうとう階段を登らざるを得なかったが、それでもちょっとのあいだ廊下をぶらついた。寝室のドアの取っ手を回したときも、指はいやいや動いているようだった。なかに人がいるのに気がついて、彼の心臓は飛びあがった。つかの間、入り口に立ちつくし、それから自分の馬鹿げた想像をふっとあざ笑った。召使いが主人の帰りを辛抱強く待っていただけだった。
「もう寝たまえ、ディケンズ。今晩はもう用はないよ。明日の朝は狩りに行く」
召使いは黙って去り、ドミニーは床に就く用意をはじめた。しかし寝る気にならず、シャツとズボンをはいたまま、部屋着をまとい、読書灯を脇に引き寄せると、本を手にして安楽椅子に沈みこんだ。しばらくのあいだ本がさかさまであることに気がつかなかった。持ち直しても文字は彼に何の意味も伝えはしなかった。そのあいだ、女性の顔の不思議な行列がずっと目の前を通り過ぎていった。どこか浮ついた、骨の髄まで感傷的な女友達キャロライン。肉感的な身体と情熱的に光る目を持つステファニー。そしてこの二人の女性のイメージを頭と記憶のなかから完全に消してしまうロザモンド。その真剣な面立ちからはありとあらゆる人生の喜びが輝き出している。彼女はこの前、彼に近づいてきたときと同じように、おののく唇に言葉にならない微かな叫びをのせ、やわらかな瞳には忘れることができない哀訴の表情を浮かべていた。他の記憶は、初めから存在しなかったかのように、ことごとくかすんでしまった。アフリカでの鬱々とした追放の歳月も、危険な人生に伴う日々の緊張も、すっかり忘れさられた。彼は思いも寄らぬ天佑の訪れをしきりに待ち望んでいた。誇りにしていた己の力よりもずっと強い無力感が、蜘蛛の巣のように彼を絡め取るのを感じていた。そのとき、突然、恐れていた狂気が本当に彼を襲ってきたのかと思った。それは彼がもっとも望み、もっとも恐れていたものだった。小さなかちりという音が聞こえ、二つの白い手が羽目板を後ろに開いた。ロザモンドがそこに立っていた。彼女は神秘的な、不思議な光をたたえた眼で彼を見た。唇は感じのよい微笑みに軽く開かれていた。そこには子供のような、いたずらな微笑みが一抹含まれている。彼女は後ろを振り返って羽目板を閉めると、指を一本あげ彼に近づいてきた。
「眠れないの。ちょっとだけお邪魔してもいいかしら」彼女は小声で言った。
「もちろんさ。ほら、座ったらいい」
彼女は安楽椅子のなかで丸くなった。
「ちょっとだけでいいの」彼女は満足そうにつぶやいた。「あなた、手を出して。まあ、冷たい!あなたも火のそばに来なくちゃだめよ」
彼は彼女の椅子の肘掛けに腰をおろし、彼女は両手で彼の頭を撫でた。
「羽目板から出てきたのを見て怖くなかった?」
「君に何をされようと怖くない」
「あの馬鹿げた気持ちは本当になくなってしまったの」彼女は熱心に話をつづけた。「ロジャーに何があったにしろ、今は彼を殺したのはあなたじゃないと思っている。今晩、幽霊の呼び声が聞こえても、わたし、怖くないわ。どうしてあなたを傷つけようと思ったのかしら、エヴェラード。ずっとあなたを愛していたのに」
彼の腕がそっと彼女を包んだ。彼女はその抱擁にためらうことなく反応した。彼女は頬を相手の肩にのせ、彼は毛裏の白い部屋着を通して彼女の腕の暖かさを感じた。
「じゃあ、どうしてわたしが君の夫じゃないと思うんだい?」彼の声はしわがれていた。
彼女はため息をついた。
「ああ、だって、違うんですもの。こんなふうに思っているのは悪いことかしら。あなたは夫にとても似ているけど、全然彼らしくないわ。夫は死んだの。アフリカで死んだの。そんなことを知っているなんて変でしょう?でも知っているのよ!」
「しかし、そうだとすると、わたしは誰なんだろう?」
彼女は哀れむように彼を見た。
「分からない。でもあなたはわたしに優しくしてくれる。あなたがそばにいると思うと幸せなの。療養所がいやになったのは、あなたに会いたかったからよ。つまりあなたが大好きっていうことなのね、きっと」
「ここにわたしと二人きりでいるのは怖くないかい?」
彼女はもう一方の腕を彼の首に回し、顔を引き寄せた。
「怖くない。わたしは幸せなの。でも、あなた、どうしたの?さっきは冷たかったのに、今は額に汗をかいて、手が燃えるみたい。わたしがここにいるのは嫌なの?」
彼女の唇が彼を求めていた。彼の唇は一瞬だけそこに触れ、それから彼女の両頬にキスをした。彼女は少し顔をしかめた。
「あなたは本気でわたしのことが好きじゃないのね」
「わたしが本物のエヴェラード、君の夫だと信じられないのかい?わたしを見てごらん。以前わたしを愛していたことを覚えてないかい?」
彼女は悲しげに頭を振った。
「いいえ、あなたはエヴェラードじゃないわ」彼女はため息をついた。そして目を輝かせてこうつけ加えた。「でもね、あなたは愛と幸せと人生をわたしに持ってきてくれた。それに――」
その直前まで、ドミニーは拷問のような彼女の甘くしつこい要求から逃れられるなら、地震でも落雷でも足下の床の崩壊でも心から歓迎したい気分だった。しかし実際に妨害にやってきたのはかつて経験したこともないような恐ろしいものだった。彼女は半ば彼の腕に抱かれて頭をそらしたまま聞き耳を立てていた。彼も恐怖のあまり一瞬身体が震えたくらいだった。彼らは夜の静けさを破るあのすさまじい叫び声、獣の口に閉じこめられた、苦しみあえぐ魂の叫び声を聞いたのだ。彼らはそのこだまが絶え果てるまで一緒に耳を澄ませていた。それから恐らくもっとも驚くべきことが起きたのだった。彼女は少しも慌てず、怖がることもなくゆっくりと頷いたのである。
「ほら、帰らなければならないわ。ここに居させたくないのよ。あなたのことをエヴェラードだと思っているに違いないわ。そうじゃないって知っているのはわたしだけなの」
彼女は椅子から滑り降りると、彼にキスをし、しっかりした足取りで床を歩き、バネに手を触れて、羽目板を抜けた。そんなときですら彼女は振り返って小さく手を振り別れを告げた。彼女の顔には恐怖を示すものは何もなかった。ただ無言の失望が微かにあるだけだった。羽目板は滑るように元に戻り、彼女の姿を見えなくした。ドミニーは気が狂ったように頭を抱えた。
第十九章