「今晩外国からいらっしゃったお客様をお捜しですか?」
「ああ。鍵をかけて閉じこもったのかな?」
「お客様はお屋敷をお出になりました、旦那様」
「出ていった!もう戻ってこないということか?」
「そのようです、旦那様。言葉がよく分からなかったのですが、どうも、こちらでの待遇がお気に召さなかったようです。駅まで夕刊を取りに行く車がありましたので、それに便乗して最終列車にお乗りになりました」
シーマンはしばらく黙っていた。この知らせは彼にショックを与えた。
「君はここで何をしているのかね?」
「わたしはレノルズと申します、旦那様。ミスタ・ペラムの召使いをしております」
「屋敷を出たのに、ここのドアが閉まっているのはなぜだ?」
「ミスタ・パーキンスが出かける前に鍵をかけたのです。彼はお客様と――たしかミスタ・ミラーとおっしゃったと思いますが――一緒に駅までついて行かれました」
シーマンはまだ納得がいかないようだった。
「部屋にはいつもこんなふうに鍵をかけるのか?」
「ミスタ・パーキンスはいつもそうなさいます、旦那様。なかには葉巻の箱が保管されていますし、ワイン貯蔵庫の鍵や食器棚の鍵もあります。ほかの召使いはミスタ・パーキンスの許可がないとこの部屋を使うことができません」
「なるほど」シーマンは向きを変えながら言った。「いろいろ教えてくれてありがとう、レノルズ。あとでミスタ・パーキンスから話を聞くよ」
「お伝えしておきます、旦那様」
「おやすみ、レノルズ!」
「お休みなさいませ、旦那様!」
シーマンは混雑する広間とビリヤードルームをまたもや通り抜け、あちらこちらで短い会話を交わしたあと、南の階段をあがって西翼に向かった。ステファニーはためらいもなく彼を部屋のなかに入れた。寝室につながる私室で、暖炉を前にして椅子に座り小説を読んでいた。
「王女」シーマンは頭を低くさげて言った。「お発ちになると聞き、一同がっかりしております」
彼女は本を下に置いた。
「わたしはこの屋敷で侮辱されたのです。明日出ていきます」
シーマンは咎めるように頭を振った。
「王女、差し出がましい口をきくつもりはまったくありません。わたしは一介のドイツ商人に過ぎませんし、名士の方々とおつき合いさせていただいているのも、わが国の利益につながるからという理由があるだけです。しかし今回の件、王女を落胆させた件については、たまたま真実を知っているのです。ご決心を改めていただくことはできないでしょうか。わたしたちの親友は不必要と思われるくらい自分を厳しく律しています。それだけ終わったときの報いも大きくなるからです。それだけあなたの前に膝をつくときの喜びが大きくなるからです」
「あなたはわたしを説き伏せるために寄こされたの?」
「直接そうしろと言われたわけではありません。しかしわたしはこの計画において彼の家令のようなものです。わたしが彼をアフリカから連れてきたのです。最初から彼を監督してきたのです。一人より二人のほうが良い知恵も浮かびます。わたしは彼が間違いを犯さないように忠告し、危険な道と安全な道を指摘してやるのです」
「サー・エヴェラードはあなたを重宝しているようね」彼女は静かに言った。
「そうだといいのですが」
「彼がイギリスの生活や習慣に見事にとけこんだことは、もちろん気づいていらっしゃいますわね?」
「彼がこの国で教育を受けたことを忘れないでください。しかし彼の適応力はたしかに見事です」
「不自然と言っていいくらいだわ。教えてちょうだい、ミスタ・シーマン。あなたは彼を完璧にサー・エヴェラードに仕立てあげることに成功したみたいだけど、あなたにとって彼の本当の価値は何なの?彼はどんな仕事をするの?」
「彼は大仕事のためにとってあるのです。王女は最近皇帝陛下にお会いになりましたか?」彼はためらいがちに訊いた。
「あなたのいいたいことは分かっています。ええ、わたしは夏の終わりまでに荷造りして、急いでこの国から逃げなければならない。そのことは承知しています」
シーマンがおごそかに言った。「そのときなんですよ、サー・エヴェラード・ドミニー、その愛国心を微塵も疑われていない典型的なイギリスの郷紳が役に立つのは。今、われわれに協力している人はほとんどが疑惑の目を向けられることになるでしょう。われわれスパイ組織の要員は水面下でしか行動できません。変化するイギリス人の心理をあらゆる方面にわたって日々報告できる内通者がいればどれだけ有利な立場に立てるか、王女もお分かりになるでしょう。ほかの情報は充分に提供されています。船の設計図、飛行場と港、護衛船の航行力、兵士の召集、こうしたことはスパイ活動の基本です。われわれの友人には何も尋ねることはありません。しかしバークレイ・スクエアの町屋敷からは、時々刻々と変化するイギリスの息づかいがわれわれに伝えられるのです。そこの主人役は政府の閣僚や軍人やこの国の最高の頭脳を接待するのですから」
「そういうことをこの屋敷の主人に期待しているというの?」
「そうです。そして必ずそれを手に入れるつもりです。わたしは毎日彼を見ていますが、ますます彼を信頼するようになりました」
ステファニーは黙っていた。彼女は暖炉のなかを見つめて座っていた。いつものように目ざといシーマンは彼女の変化に気がついていた。そして今までとまるでちがうよそよそしい態度に腑に落ちないものを感じていた。
「王女、わたしがここに来たのは、心の奥底であなたを愛している男の弁護をするためではないのです。そのときが来たら、彼は自分で理由を説明し、許しを乞うでしょう。わたしはご辛抱いただくようお願いに来たのです。性急なお振る舞いはなさらないよう、こちらでの彼の立場を決して危険にさらさないよう、折り入って頼みに来たのです。わたしはあなたがた女性が与えてくれる楽園のような世界とは縁のない人間です。そこで起きていることの善し悪しなど、とても判断できません。しかしあなたの胸の内に苦々しい思いがわだかまっているように感じられます。心を寄せていた男が、祖国を第一に選んだのですから。わたしはご辛抱をお願いしたいのです、王女。どうかわたしを信じてください。わたしにはよく分かっているのです。レオポルド・フォン・ラガシュタインの意固地な態度は、一歩も引くことを知らない義務感から出ているものなのです」
「わたしが何をすると心配しているの?」彼女は不思議そうに訊いた。
「何も心配していません――直接的には」
「じゃあ、間接的に何かするということ?答えてちょうだい」
彼は正直に言った。「わたしが心配なのは、この国ではないにしても、どこか世界の片隅で、あなたがあざけりや怒りの言葉を吐き、その結果、たかがノーフォークの男爵にどんなうらみを抱いているのだろうと人々に不審がられることです。あなたがあなたの過去を知っている人の前でそのようなことを口にし、かつまたサー・エヴェラード・ドミニーとレオポルド・フォン・ラガシュタイン男爵が驚くほど似ていることに気づかれてしまう、そういうことを避けたいのです」
「分かりました」ステファニーはかすかに唇を開いてほほえんだ。「ミスタ・シーマン、ご心配には及びません。胸の内に秘めてここから持ち去るものを、あなたにも他の誰にも打ち明ける気はありません。二、三日後、わたしはこの国を出ます」
「ベルリンにお戻りですか――それともハンガリー?」
彼女は首を振り、女中に合図してドアを開けさせた。それから面会が終わったことのしるしとして手を差し出した。
「海を渡るつもりです。アフリカへ」
次の日は小さな驚きが畳み掛けるように襲いかかる日だった。エディ・ペラムの席が朝食時間の終わりになっても空席のままだったことがまず人々の好奇心をかきたてた。
「真っ白、真っピンクのしゃれ男はどこだ?」判事が尋ねた。「毎朝あいつがどうやってネクタイを結ぶのか不思議に思っていたんだが」
「帰ってしまいましたよ」ドミニーがサイドボードから振り返って言った。
「帰った?」全員が鸚鵡返しに言った。
「こんなことは今までになかったと思いますね。町から呼び出しがかかったんですよ」
「エディが呼び出されるなんて、まともな用事とは思えないけど!」キャロラインがつぶやいた。
「奇特な人もいるものだ、真夜中に彼をベッドから引きずり出し、ノリッジから朝食つき列車で町に帰ってこいと言うなんて!」と主人がつづけた。「彼が紫の部屋着を着て、そのことを知らせに来たときは、新手の幽霊でもあらわれたのかと思いましたよ」
「誰があいつを呼んだんだ?」公爵が訊いた。「仕立屋か?」
「大切なビジネスがあると言っていましたが」ドミニーが答えた。
陽気な笑い声がさざ波のように広がった。
「エディが生計のために働いているなんて」キャロラインがあくびをしながら言った。
マンガンが言った。「ミスタ・ペラムはチェルシー自動車工場の取締役です。昨年のことですが、ささやかな遺産を受け取られましてね。最初にそのことを知ったのは彼のお気に入りのタクシー運転手だったとか」
「その関係でエディが帰ったって言うの?」
「それはまずあり得ません。このあいだわたしに、工場がどこにあるか知っているか、と聞いたくらいですから」マンガンが言った。
「彼がいないと寂しいわ。猟のあとの彼の服装を見るのがいつも楽しみだったんだけど」
「ブリッジの腕も悪くはなかったよ」と公爵が言った。
「この二日間は弾もよく当たっていましたね」マンガンが言った。
「それに今日は茶色を着るんだって、こっそり教えてくれたのよ。考えてみたら茶色はエディに似合うと思うわ」最後にキャロラインが言った。
いなくなった若者への哀歌は地元紙の朝刊が届いたために打ち切られた。やがてドミニーは立ちあがって部屋を出た。いつになく物静かだったシーマンが彼のあとを追った。
「君、聞いているかどうか知らないが、昨日の晩、この屋敷で奇怪な失踪があったんだよ」
「誰の失踪だね?」ドミニーは煙草を選ぶために立ち止まった。
「われらが友人ミラー、またの名をヴォルフ、ドクター・シュミットの伝令だよ」
「消えた?どこかをうろうろしているんだろう」
「細かい調査は君に任せる。わたしは昨日の晩、彼ともう一度話し合い、いやに秘密めかした行動の理由を探ろうとしたのだ。君の執事の部屋には鍵がかかっていて、ひどく丁重な男――ミスタ・ペラムのそば仕えだったのだが――彼が教えてくれたんだよ、やつは夕刊を買いにいく車に便乗して出て行ったと」
「調べてみよう」ドミニーは一瞬当惑したように考えこんでからそう決めた。
「頼むよ。胸騒ぎがするんだ。何がどうなっているのか分からない。理解できないことが起きると、わたしは不安になるんだ」
ドミニーは下の階に消え、半時間ほどロザモンドのそばにいた。落ち着きを失った客とまた顔を合わせたのは、最初の森の猟場に歩いていく途中でだった。ドミニーが撃ち場を指し示したあと、二人だけで話す機会が訪れた。
「どうだった?」シーマンが尋ねた。
「どうやらわたしたちの友人は急に気が変わって帰ることにしたようだね。一階の執事の部屋の隣に小部屋があって、そこにベッドの用意ができていた――というか、いつでもそこで寝ることができるんだ。パーキンスと運転手が駅に行く支度をするのを見るまで、彼は帰るなんてひと言も言わなかったそうだ。それが執事と同行したいと言い出し、ノリッジ行きの列車があると分かると、さっさと二人にお別れをしたそうだ。君にもわたしにも伝言はなかった」
シーマンは考えこんだ。
「彼の出発が、われわれに対するある種の不審をあらわしていることは間違いない。彼は何かを突き止めようとしてここに来た。そしてそれを見つけたんだと思う。そんなに落ち着いていられるとはうらやましいな、君。火山の火口に立っているというのに、君はキジ撃ちかね」
「気分を変えてウズラを撃ってみよう」ドミニーが身体を回転させた。ちょうど一羽の山ウズラが低い羽音とともに後ろの生け垣を飛び越そうとしていたのだが、少し離れたところに、くしゃりと羽毛の塊となって墜落した。
「見事だ」微かに嫌味をこめてシーマンが言った。「その神経の図太さはうらやましいかぎりだ」
「別に大したこととは思えないんだがね。あの男はまったく無害だと思うよ」
「わたしは別のことでも心配がある」
「他にも問題が起こりそうなのかい?」
「午後、屋敷に帰ったら、お客さんがまた一人減っているだろう」
「王女のことか?」
「王女だ。昨日の晩、一生懸命説得したのだが、どうも様子がおかしかった。しかしとりあえず王女のことは心配しなくていい。彼女は海を渡るらしい」
「どこへ?」
「アフリカだとさ!」
ドミニーは銃に弾をこめる手を止めた。ゆっくりと振り返り、相手の無表情な顔を覗きこんだ。
「なんだってそんなところへ?」
「分からない。どうしてヨハン・ヴォルフがここに送りこまれ、探りをいれようとしたのか、分からないのと同じだよ。こっちの首尾は上々だというのに。ひどく胸騒ぎがする。納得のいくことなら、どんなに危険だろうと、怖くはない。しかし納得のいかないことは、わたしを不安にするんだ」
ドミニーは静かに笑った。
「深刻になるような危険なんて何もないさ。王女はご立腹だが、われわれのことを人にもらす恐れはない。ヴォルフという男はわれわれのどちらに対しても不利な報告はできないだろう。仕事はちゃんとやっているし、しかも順調にはかどっている。良心に恥じることはしていないと、自分たちを慰めようじゃないか」
「それはいいが、しかしわたしは心配だ。これ以上ここにいるわけにはいかないな。君とわたしがあまり親しそうにつきあっているのは賢明ではない」
「そうだな。わたしは一人でも大丈夫だ」
「王女のことを別にすれば、君の行動はあらゆる点で慎重をきわめていた」
「王女のことを別にすれば、か」ドミニーは苛立たしそうにくり返した。「いったい君はこの件をどう見ているのかね。こんな仕事の最中にこっそり新婚旅行ができるとでも思っているのか!」
「なんとか折り合いをつけることはできるはずだよ。他のことは如才なくこなしているんだから」
「君は王女のことが分かっていないんだ」
ロザモンドがステファニーの突然の出発のニュースを持って昼食に加わった。全員に宛てたメモやらメッセージも持ってきた。キャロラインは主人に向かって軽く渋面を作って見せた。
「あなた、大変なことになったわね」と彼女は耳元でささやいた。「でもこれでよかったのよ。ステファニーは好きだけど、危険すぎるわ」
「そうでしょうか」
「たいていの殿方はそう思うと思うわ。彼女は一度素敵な情事を体験しているのよ。知っていると思うけど、その結果旦那さんは決闘で殺され、愛人は国外追放になった。でも彼女は愛人が追い出されたからといって、あきらめるような女じゃない。ここにいるあいだ、あなたを愛人の代わりにしようとする様子がありありと見えたわ」
「せっかくのハウスパーティが葉枯れ病にやられたような気分ですよ」ドミニーは何気なく話題を変えた。「最初にエディ、それからミスタ・ルードヴィッヒ・ミラー、今度はステファニーだ」
「結局ミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーって誰だったの?」
「太った、亜麻色の髪をしたドイツ人で、アフリカの古い友人から言伝を持ってきてくれたんです。荷物を持たずに杖一本だけで来たんですよ。昨日の晩、下男たちが怒ってました。ベッドを用意させておきながら、消えてしまったので」
「銀のお皿でも持ち逃げしたの?」
「なくなったものは何もありません。パーキンスが必死になって半時間ほど全部の数を数えたんです。ミスタ・ルードヴィッヒは不完全な世界を構成する解き得ない謎の一つみたいですね」
「わたしたちは楽しかったわ」キャロラインは思い出しながら言った。「明日、ヘンリーとわたしは帰る。他の人も帰ると思う。いろいろあったけど、やっぱりここに来てよかったわ」
「そう言っていただけて幸いです」
「もうちょっとあなたとお話をしたかったんですけどね」彼女はわざとそう言った。「でも失望の埋め合わせはたっぷりしてもらったわ。あなたの奥さんは大切にしてあげるだけの価値があると思う、エヴェラード。とっても可愛らしいし、物腰もすごく魅力的だわ」
「そんなふうに思ってもらえて嬉しいですよ」彼は心からそう言った。
彼女は目をそらした。
「エヴェラード」と彼女はため息をついた。「あなた、奥さんを愛しているのね」
それに答えた彼の顔には奇妙な、ほとんど怖ろしいといっていいくらい、さまざまな表情が交錯した。恐れるような、慈しむような、絶望してあきらめかけたような表情だった。普段はゆったり落ち着いた声も、急にこみあげてきた感情に震えた。話し相手はあっけにとられた。
「わたしもそう思います。自分でも怖いのですよ、彼女を思う気持ちが。それが別の悲劇を起こしそうな気がして」
「くだらないことを言わないでちょうだい。どんな悲劇が起こるというの?あなたはまっとうな人間に返ったのよ。強くて、頼りがいがあって、ロザモンドみたいな可愛いチャーミングな人を守るのにぴったりの人だわ。それを悲劇だなんて!奥さんを連れて南フランスに行きなさいな、エヴェラード。新婚旅行をやり直すの。どう?」
「今はまだできません」
彼女は不思議そうに彼を見つめた。ときどき彼のことがさっぱり分からなくなるときがあった。
「まだアンサンクの事件が心配なの?」
彼はわずかにためらった。
「あの問題の余波がまだ残っています。わたしたちにのしかかる雲のように。そのうち片をつけるつもりですが――それより先に他の面倒が起きるかも知れません」
「あなたは真面目すぎるのよ、エヴェラード」彼女は当惑した顔つきで彼を見た。「あなたの人生には、人には絶対見せられない、とっても重要な裏面があるみたい。どうしてあの変な小男のシーマンといつも一緒なの?まさかゆすられているとか?」
「それどころかシーマンはわたしの財産を最初に築いてくれたんですよ」
彼女は肩をすくめた。
「わたしも株式取引所で一回か二回か小金を稼いだけど、そのあと仲買人をポケットに入れて持ち歩いたりはしなかったわ」
「シーマンは気のいい男ですよ。人づき合いが好きなんです。そのうちふらふらとどこかへ行って、何年も姿を見せなくなるでしょう」
「ヘンリーはね、あなたが英独同盟派として議会に出馬する気なんだろうかって考えはじめたわ」彼女は最後にそんなことを何気なく言った。
彼らは農夫用の台所でこそこそと話をしていたのだが、入口からミドルトンが非難がましい視線を向けているのに気がつくと、ドミニーは笑い声をあげた。彼は相手を促すように立ちあがった。
「議会のことは多少考えています。しかし――まあ、ヘンリーが心配することはありません」
第二十四章
次の日の朝、ドミニーが苦心して編成した狩猟隊は解散することになった。王子は車に荷物を積みこむあいだ、主人の腕を取って脇に引き寄せ、しばらく話をした。型通りの感謝の言葉を述べたあと、ぐっとくだけた調子で話しはじめた。
「フォン・ラガシュタイン、先日の話をもう一度思い出してほしいんだが」
ドミニーは頭を振って後ろをちらりと振り返った。
「ここでのわたしの名前は一つだけです、王子」
「じゃあ、ドミニーと呼ぼう。君はすっかり役になりきっているな。わたしは生まれてからずっとイギリス紳士を見ているが、君の演技は実に堂に入ったものだ。しかし聞きたまえ。君を中心とするこの計画に、わたしが賛成していないことは話したね」
「承知しております」
「それはわたしの個人的な見解だ。しかしこれから言うのは公務上のことだ。昨晩ベルリンから公文書が急送されてきた。君に関係した内容だ」
ドミニーの身体がほんの少しこわばった。
「どんなことでしょう」
「こういうことだ。わたしがあり得ないと考えている例の破局、あれが生じたときのみ、君は事実上存在が認められる。こうもはっきり書いてあった。いかなる時であれ、君の正体が暴露された場合、君の偽装は君一人が企てたことであり、本国の政治的活動とは一切関係がないとみなされる」
「そこまでは今までと何の変わりもありませんね」
「さらに君は戦争の際、極秘のうちにわたしの仕事を継ぐことになっており、そのつもりで君を待遇せよとのことだ。君とは親密に交際し、全幅の信頼を寄せ、不幸な結果が訪れた場合は、未完了の仕事のうち内密につづけられるものをすべて君の手にゆだねるようにと言われた。わたしの言い方はちょっと分かりにくかったかな」
「よく分かりました。当局はわたしに対する最初の方針を変えたんですね。わたしに一切疑惑がかからないようにし、戦争の際は、イギリス上流階級と親しく交わる、熱烈な愛国的ドイツ人という、たぐいまれな立場に置こうというわけですね。これは忙しくなりそうだ」
「お互い納得がいったようだね。そういうわけだから、このあとすぐロンドンに来て、わたしの屋敷カールトン・ハウス・ガーデンズで君を歓待する機会を与えてほしいと思う」
「ご親切にありがとうございます、王子。わたしは、こちらで足場をしっかり築いたら――これはもう大丈夫と思うのですが――さっそくロンドンに赴き、命令を待つよう、指示を受けています。何よりもまず、先日お話に出た回想録を読ませていただければと思います」
「もちろんだ。そうしてくれればわたしも大いに嬉しい。この国の大臣たちと会見したり、協議したことがありのままに記録されている。平和を望み、平和をめざす気持ちにあふれていて、君を驚かせると思う。さて、次は少々微妙な問題なんだがね」彼はテラスを逆戻りしはじめたとき、急に話題を変えた。「ドミニー夫人も一緒に来るんだろうね?」
「分かりません」ドミニーは慎重に答えた。「失礼ながら、王子、あなたが彼女のことを深く思いやっていらっしゃることは分かっています。ご安心ください。わたしの立場は微妙なものですが、彼女がエヴェラード・ドミニーの妻だということは決して忘れません」
ターニロフは心のこもった握手をした。
「それが聞きたかったのだ。君は他の男とは違うと直感していたよ。しかしわが民族の男のなかにも、情欲や政略のためなら、女性を犠牲にして一顧だにしないという手合いも大勢いるからね。ドミニー夫人は魅力的な方だと思うよ」
「彼女はわたしが必ず守ります」ドミニーは断言した。
さらに別れの挨拶があり、そのすぐあとに車が短い列をなして走り去った。ロザモンドもみずからテラスに出て客たち全員に別れを告げた。彼女がドミニーの腕にしがみついたのは、二人ががらんとした広間に戻ったときだった。
「なんていい人たちなのかしら、エヴェラード!もっと会う機会があればいいのに。公爵夫人はとてもやさしかったわ。それにターニロフ王子みたいに素敵な人は見たことがない。あなたもあの人たちがいないと寂しいでしょう?」
「ちっともさ。これから猟銃を抱えて牧草地を抜け、荒れ地を歩いてこようかと思っているんだ。一緒に来るかい?それともきれいなガウンを着て、下でお昼ご飯のお相手をしてくれるかい?二人だけで食事をするのは久しぶりだね」
彼女はどこか悲しそうに首を振った。
「一緒に食事なんて、したことがないわ。知ってるくせに、エヴェラード。わたしには分かっているの。でもわたしたち、お芝居をつづけていくのよね」
彼は彼女の手を取りキスをした。
「好きなだけ芝居をすればいいんだよ、ロザモンド。君の望むことはわたしの望むことなんだから。ほらほら、泣かないで」彼女が背を向けたとき、彼は急いでこうつけ加えた。「忘れないでほしい。今の君には幸せしかない。わたしが誰であろうと、君の幸せだけがわたしの人生の目的なんだ」
彼女は彼の手を強く握り、それでは足りないと思ったのか、突然両腕を首に回しキスをした。
「わたしも行くわ。あなたをはなしたくないんですもの。おとなしくしている。十分だけ待ってちょうだい」
「もちろん」
彼は銃器室に行き、しばらく暖炉の側に立っていたが、ふと中庭に出た。ミドルトンと二人の勢子が犬を従えて待っていた。しかし彼らのほうに一歩踏み出そうとして彼はぎくりと立ち止まった。驚いたことにシーマンがいた。脇に寄るようにして立ち、召使いたちの部屋の窓をじっと見上げている。
「やあ、君か!サーズフォードから朝の汽車で帰ったんじゃなかったのかい」
「二分差で乗り遅れたんだ」シーマンは勢子を一瞥しながら言った。「十一時発のは満員だろうから、午後まで待つことにしたよ」
「今までどこにいたんだね」
シーマンは傍らに寄り添い、他の者に話を聞かれないよう場所を移動した。
「昨日の晩、ヨハン・ヴォルフが急に出発した謎を解こうと思ってね。並木道をちょっと散歩しよう」
「じゃあ、本当にちょっとだけだよ。ドミニー夫人を待っているんでね」
二人は細い鉄の門を抜け、屋敷の裏口に通じる道の一つを歩いた。
「軽率と思わないでくれよ。誰にも知られないように戻ってきて、みんなが出発するまで隠れていたんだから。前にも言っただろう、理解できないことが起きると、わたしは不安になるんだ。しかし、見たまえ、わたしは午前中に、ヴォルフの突然の出発がますます怪しいという証拠をつかんだ」
「つづけてくれ」
「今朝、偶然に分ったことがある。ペラムの召使いは勘違いしたか、わざとわたしに嘘を言ったのだ。ヴォルフは君の執事と一緒に駅に行ったりしなかった」
「どうやってそんなことを探り当てたんだ」
「そんなことはどうでもいい。肝心なのは、この屋敷の召使いたちが、どういうふうにヴォルフがここから出ていったのか、隠そうとしているということだ。いやいや、黙って聞いてくれ。もう溶けてしまったが、今朝早く雪が降ったのだ。例の鍵が掛かった部屋の窓の外には足跡と小型の車のわだちが残っていた」
「そこから何を推理したのだ?」
「この近所にヴォルフの仲間がいる。さもなければ――」
「うむ」
「これは突拍子もない仮定だよ。しかし、何もかも理解できないことだらけなのでつい言いかけたのだが――彼は力ずくでさらわれたんじゃないか」
ドミニーが静かに笑った。
「ヴォルフはそう簡単に拉致されるような男じゃない。そう考えるべき、どんなにまことしやかな理由があったしてもね!実を言うと、シーマン」彼はロザモンドが並木道に立っているのを見て、急にその場でくるりと向きを変えた。「ヨハン・ヴォルフの一件は重要視するに及ばないと思う。彼がスパイだとしても放っておけばいい。こっちはこっちで落ち度もなく、立派に仕事をしているんだ。君もわたしも上層部に隠さなければならないような秘密はこれっぽっちもない」
「ある意味でそれは正しいな」とシーマンは認めた。
「じゃあ、元気を出したまえ。一緒に散歩をしよう。パーキンスが昼食用にあの年代物のバーガンディーを見つけておいてくれるかもしれない。どうかね」
「散歩はごめんこうむるよ。君が戻るまでここにいるほうがいい」
「あの男の失踪に興味を示しすぎると、召使いたちが噂をはじめ、かえってまずいことになる」
「気をつけよう。しかし自分を抑えられないこともあるのだ。わたしはいつも直感に従う。わたしの直感ははずれたことがないんだ。もう君の召使いを問いただしたりはしないが、しかしヨハン・ヴォルフが突然出発した背景には何か謎がある」
一時頃に戻ってきたドミニーとロザモンドはシーマンの置き手紙を見つけた。ドミニーはロザモンドが火の前で足を暖めているあいだに封を切った。たった数行の手紙だった。
思いついたことがあり、ロンドンに行く。二、三日したらあちらで会おう。 S
「本当に帰ったの?」
「ロンドンに行ったようだ」
彼女は幸せそうに笑った。「それじゃ、結局二人きりでお昼がいただけるのね。嬉しいわ。願いがかなった!」
ドミニーの顔はみるみる紅潮したが、それは即座に抑えつけられた。
「わたしの願いがかなう日は来るのだろうか」そう言う彼の声は奇妙に引きつっていた。
第二十五章
六ヶ月後のある朝、ターニロフとドミニーはゴルフコースを一周したあと、冷たい飲み物を手に、ラネラ・ガーデンズのニレの大木の下でのんびりとくつろいでいた。同じ頃、数百万のイギリス人は汗をかきながら昼の新聞の大見出しを呆然と見ていた。
大使はけだるく満足そうに椅子にもたれた。「ローマが燃えているのに、わたしは竪琴を弾いていると、非難されそうだな」
「確かにあなたほど事態を楽観視している人はいませんね」ドミニーは静かに答えた。
「わたしくらい状況を把握している人間はいないからね」
ドミニーはしばらく黙って飲み物に口をつけていた。
「ロシアの動員令について最新のニュースを聞きましたか。今朝、街ではとんでもない数字が飛び交っていましたが」
王子はくだらないとでも言うように手を振った。
「わたしの信念は外面的な出来事にもとづいているのではない。ロシアが動員令を出すとしたら、それは防衛のためだ。ドイツを攻撃しようと夢想する国は世界のどこにもないし、世界に冠たる国家たろうとするドイツが軍事行動などという手荒な方法でその地位を危うくする真似などするわけがない。セルビアは当然罰せられなければならないが、それに関してはヨーロッパの全国家が原則として一致している。オーストリアが度を超した報復をすることは、われわれが許さない」
「あなたの意見は少なくとも終始一貫していますね、王子」
ターニロフはにこりとした。
「それは舞台裏を知っているからだよ。大使の特権として各指導者たちの心の内をのぞかせてもらったからだ。君は青春を軍隊で過ごしたね。君たち軍人は、自分たちこそドイツで一番重要な人間だと思っている。実はそうじゃないのだ。皇帝が望んでいるのは軍事力とは別物なんだよ。ところで昨日、ステファニーからびっくりするような電報が届いた」
ドミニーはヒナギクの上で無造作に振り回していたパターを止め、話を聞こうと振り向いた。
「彼女は帰国の途上ですか」
「もうすぐサザンプトンに着くだろう。着いたらさっそく会いたいので、どこに行けばいいか教えてくれと言っていた。ひどく重要な情報があるそうだ」
「アフリカに行った理由を言いましたか」
「それがさっぱり教えてくれないのだ。考えられることといえば、君の過去に関する情報を集めに行った、ということくらいなのだが」
「彼女はシーマンにもそう説明したそうですが、そんなことをしても得るものはありませんよ。どれだけ徹底的に調査していただいても、わたしはアフリカで、やましいことなど何一つしていませんから」
「全くばかばかしいかぎりだ。だが、それにしても君の判断は賢明だったのだろうか。君の役割は分かっているが、皇帝の命令には従ってもよかったのじゃないか。わたしの知るかぎり、仲間内で浮気をし、恋のあだ花を咲かせるのは、この国の社交界では珍しいことではないのだから」
「みんなが同じようにすねに傷をもっているなら、それもいいでしょう。しかしドミニー夫人に対するわたしの態度はひどすぎました。妻をそっちのけに別の女とつき合ったりしたら、これはもう弁解の余地がない。それにわたしが遂行すべき任務にも影響が出たかも知れません」
「何度も議論したことだね」大使はため息をついた。「蒸し返すのは止めておこう。おや、見たまえ!ご婦人方だよ!」
ロザモンドと王女が屋敷からあらわれ、二人の男は急いで出迎えに行った。王女はにこやかな表情を浮かべ、贅をこらした衣装をまとい、堂々と振る舞った。その横に立つロザモンドは、同じように衣装に贅をこらしていたが、より若々しいいでたちで、ほとんどまだ未成年者のように見えた。昼食室にはいると、名士や著名人が小さなグループを作ってあふれかえっていた。社交界きっての人気の会合場所にふさわしく、給仕の赤いお仕着せやら、おびただしい花やら、何ともいいようのない優雅さに輝いていた。ご婦人方は席に着くと、その日、大勢のイギリス人が口にした質問を発した。
「新しいニュースがございます?」
ターニロフは多くの人から刺すような、不安な視線を投げかけられるのを感じた。彼は軽やかに微笑んで答えた。
「何も。ニュースがあるとしたら、きっといいニュースですよ。ついさっきまでサー・エヴェラードと死力を尽くして一騎打ちをしていたんです」
「戦争か平和かという問題の次に大事なことを教えてちょうだい……結果はどうでしたの?」と王女が訊いた。
「実力以上の力を出したんだがね。もちろん普通の人間がゴルフでドミニーに勝てるわけがないさ。彼の腕前は誇り高きドイ…」
大使は言葉を切ってマヨネーズに手を伸ばした。
「どんなに誇り高きドイツ人も彼にはかなわないよ」彼はそう言って言葉を結んだ。
お昼は非常に楽しい食事になった。多くの人が快活で美しいドミニー夫人に注目した。ちょうど彼女の写真が新聞にあらわれはじめた頃だった。食後は芝生に出て、ニレの木の下で音楽を聴いたり、ロンドンを脱出できたことを互いに祝福してコーヒーを飲んだり、酒を味わったりした。華やかに着飾った女性や、フラノを纏った男たちが刻々と変化する風景を織りなし、その単調さを打ち破るようにモーニングを隙なく着こなした外交官やフランス人がそこここを歩いていた。そのなかには見知った顔もたくさんあった。キャロラインとその友人たちはテラスから彼らに向かって手を振った。エディ・ペラムは染み一つない白ずくめの格好に、紺青の縁取りをした長めのテニス・コートを羽織っていた。彼は中庭へ行く途中、彼らのところに立ち寄った。
「自動車商売のほうはどうだい、エディ」ドミニーは目をきらりと光らせて尋ねた。
「まあまあだね。今は以前ほど熱を入れてやっていないんだ。実を言うとね」彼はあたりを見回し、声を潜め、とっておきの情報を誰にも聞かれないようにして打ち明けた。「僕はついてるよ。先日、ニューマーケットのジア・ムーアの競走馬に出資することができたんだ。額は少ないけど。今は自動車の仕組みのことよりお馬さんのことのほうがちょっぴり詳しくなった気がする」
「なるほど君ならきっとそうだろう」とドミニーは応じた。若い男は身振りで別れを告げると向こうへ行った。
ターニロフは不思議そうに彼を見送った。
「ああいう若者だよ、理解できないのは。戦争になったらどうするんだ?招集されて、たとえば祖国のために戦地に赴くことになったり、国家的な大切な仕事を任されたりしたときは」
「そのときはそのときで仕事をするんでしょう。勇敢に、一生懸命に、お粗末な仕事をね。イギリス上流階級の若者にありがちなタイプです。極端に脳天気で、全く規律がない。連中も連中の国家も、いざというときは勇気が訓練の代りになると思っているんです」
ジェラルド・ワトソン判事が階段のところでイタリア大使夫人と話をしていた。やがて彼女が立ち去ると、彼は両手を背中に回し、ゴルフ場の向こうを望み見るようにして芝生を歩いてきた。
「あの男」とターニロフが呟いた。「最近人が変わったように思う。初めてここに来たときは率直にものをしゃべってくれたのに。今でも独英両国の友好を心から望んでいると信じているが、何かがわれわれのあいだに割って入ってきたようだ。何かは分からない。どういう性質のものかも分からない。けれどもわたしは他人がわたしをどう思っているか、敏感に感じ取れるのだよ。おまけにイギリス人は感情を隠すのが世界一へたな民族だ。ワトソンは君の親戚のウースター公爵にそそのかされたのかな。ノーフォークでは君にもわたしにもとても友好的な態度だったが」
ご婦人方はそのとき、少し離れた知り合いたちのほうへ移動し話をしていた。二人のすぐ側を通りかかったミスタ・ワトソンはドミニーの挨拶を受けて立ち止まった。しばらくとりとめのない会話が交わされた。
「相変わらず良いニュースがつづいていますか?」と大使は言った。ありきたりの会話から転換するきっかけは、礼儀から言って自分のほうから差し出さなければならないと考えたのだ。
「いささかご期待には添えないようです」相手は一瞬ためらってからそう答えた。「六時にダウニング・ストリートに呼ばれているのですよ」
「わたしが今朝打った急送電報にたいする返事はもう首相にお見せしましたが」とターニロフは言った。
「ここに来る前に拝見しました」ためらいがちな返事だった。
「真剣に平和を望んでいる口調だということはお分かりになったでしょう?」ターニロフが心配そうに尋ねた。
相手は一礼して、身体をまっすぐに起こした。ここ数日の緊張が身体にこたえているのは明らかだった。口のまわりに皺が寄り、目は眠られない夜がつづいたことを物語っていた。
「こんな時に言葉をもてあそぶのは無意味ですよ。しかし、王子、今ここであえて一言だけ申しあげましょう。あなたの国が望まない限り、戦争は決して起こりません」
ターニロフの顔は束の間、異様なまでに青ざめた。それは記録に残されていない歴史の一場面だった。彼は立って帽子を持ちあげた。
「戦争は起こりません」彼はおごそかに言った。
閣僚は前よりも軽い足取りでその場を去った。ドミニーは、信義に厚く忠実ではあるけれども底抜けにおめでたいターニロフのような人物が、なぜこの重要な地位につけられたのか、その人事の背後にある深謀遠慮を今までにもまして明瞭に理解した。彼は唇の端にかすかな笑みを浮かべて閣僚の後ろ姿を見送った。
「今のような時局においてこそ」と彼は意味ありげに言った。「わが国の偉大な作家――確かベルンハルディじゃなかったでしょうか――が、島国には外交官という種族は生まれないといった理由が分かってきます」
「この島を取り巻く海はね」と大使は考え深げに言った。「イギリスに大いなる繁栄をもたらしたが、同時に禍をもたらすかもしれない。機敏すぎる外交官の頭脳は、彼がその利益を守っている国民の心と同じように不誠実なものだよ。わたしはイギリスの政治家の誠意を信じている。その信念は、もうすぐ君に見せるささやかな回想録に書きつけておいた。しかし、こんな話は夏の午後には深刻すぎるな。政治情勢に対するわれわれの意見を世間に表明するため、もう一度九ホール回ろうじゃないか」
ドミニーは喜んで立ち上がり、二人は最初のティーグラウンドへ歩き出した。
「ところで、あのにぎやかな友人シーマンはどうしている?きっと忙しくしているだろうが」
「どういうわけか、今晩ドイツから帰ってくるのですよ。バークレイの屋敷で会うことになっています。まっすぐわたしの所にくるようです」
第二十六章
当時の日々はすべてのロンドン子に生々しい印象と、強烈な記憶を残した。そののちも、まるで日常から切り離された、異次元に属する日々ででもあるかのように、奇怪な非現実感を伴って心によみがえった。ドミニーもその日の夜のことを長く記憶していた。すなわち、バークレイ・スクエアにある町屋敷の、趣味の良い家具を備えた、くすんだ色の食堂で食事を取った夜のことを。ドミニー邸の壮麗な晩餐室ほど大きくはないが、それでもジョージ王朝風の家具が並んだ立派な一室だった。壁には高名な絵が掛かり、天井も暖炉も見事な造りだった。ドミニーとロザモンドは二人きりで食事をした。テーブルは最小の大きさにまで縮められていたが、それでも二人のあいだには広い空間が広がっていた。パーキンスがおごそかにポートワインを置くと、ロザモンドは立ちあがり、部屋を出て行く代わりに、召使いに向かって、ドミニーのそばに彼女の椅子を移動させるよう命じた。
「あなたの男友達のまねをするわ、エヴェラード。女性たちが出て行くと、みんなあなたのそばに寄るわね。それからどうするの?お話?わたし、とっても聞き上手なのよ」
「まずこのポートワインを半分飲むんだ」そう言って彼は彼女のグラスを満たした。「それから桃をむいてくれないか。半分こしよう。そのあとは耳を澄ましてベルが鳴るのを待つ。今晩、お客さんが来るんだ」
「お客さん?」
「社交的な訪問じゃないよ。仕事の関係さ。残念だけど、そのせいで今夜は君の相手ができない。客が来るまでせいぜい楽しもう」
彼女は桃をむきはじめ、やや真面目くさった口調で終始話しつづけた。優雅でひどく魅力的な女性の、絵のように愛らしい姿がそこにあった。華奢な身体つきと芸術的な繊細さがくすんだ背景のせいでいっそうくっきりと浮かびあがった。
「知ってるかしら、エヴェラード。わたし、ロンドンであなたとこうして一緒にいるのがとても幸せなの。いつも力が湧いてきて、元気になった気分。以前は活字の迷路に見えた本も、今は読んで理解できる。絵の鑑賞もできるし、音楽の感動も分かるわ。前は、どういうわけか、脈絡がなくて耳障りでしかなかったんだけれど。わたしの言うこと、分かる?」
「もちろんさ」彼は真剣に答えた。
「ハリソン先生が患者としてわたしのことを誇りに思うのも当然だわ。でも心に鈍い痛みを感じることがよくあるの。だって、誰が何と言ったって、わたしはまだ完全に直っていないんですもの」
「そんなことはないよ、ロザモンド」と彼は反論した。
「あら、でも最後まで言わせて」彼女は彼の桃を皿に載せた。「あなたという問題が常にあるのに、わたしが直るわけがないわ。相変わらず解決策は見つからないし。あなたのこと、結婚したエヴェラードと比べることがよくあるの」
「わたしはそんなに彼より出来が悪いかな」
「ぜんぜん逆」彼女は涙をためた目で相手を見つめた。「そりゃあ彼のほうがもっとずっと優しかった」彼女は短い沈黙ののちにこうつづけた。「あの人のキスはあなたのキスとは違っていた。それに一緒の時間をもっと大切にしていたわ。でもその反面、いてほしいと思うときにいないことがよくあった。気がふれたみたいに、めちゃくちゃなことをして、わたしなんかすっかり忘れてしまったみたいだった。それがとても怖かったわ。そのせいで精神状態が不安定になったの。血まみれで、ふらふらになって帰ってきた、あの身の毛もよだつような瞬間だって、神経がぼろぼろになっていなければ耐えられたと思う。ほら、あの晩、ロジャー・アンサンクを殺したのよ。だから、あの人、戻ってこられないの」
「今夜に限ってどうしてそんな話をするんだい、ロザモンド」
「話さずにいられないの」彼女は自分の指を彼の手に載せ、不思議そうに見つめた。「話さずにいられないのよ。あなたを苦しめると分かっていても。あなたがこんなに気を遣ってくれるなんて素晴らしいわ、エヴェラード。本当よ。だから大好きなの」
「気を遣っている?」彼は唸った。「気を遣っているか!」
「あなたは彼とよく似ているけど、すごくちがうところもあるわ」彼女は思いに沈みこむように言った。「ワインはぜんぜんといっていいくらい飲まないし、いつも冷静で真面目な顔をしている。あなたはほかの人が知らない人生を隠し持っているみたいに生きている。わたしが覚えているエヴェラードは行政官や議員なんかにちっとも興味を持っていなかった。競馬やヨット、狩りや射撃、気の向くままに時間をつぶしていた。でも――」
「でも、なんだい」ドミニーの声はかすれていた。
「彼はあなたよりわたしを愛してくれたわ」彼女はひどく悲しそうだった。
「どうして?」
「分からない」彼女は自分の皿に目をやりながら答えた。「でもそんな気がするの」
ドミニーは急に窓のところへ行き、外に身を乗り出した。額に汗が浮かび、新鮮な空気が無性に吸いたかった。戻ってきたときも、彼女は依然下を向いたまま、同じところに座っていた。
「ハリソン先生にそのことを話したのよ」と彼女はつづけたが、その声はほとんど聞き取れなかった。「あなたは見かけ以上にわたしを愛しているのかもしれないっておっしゃったわ。本物のエヴェラードがいつ帰ってくるかも分からないから、抑えているのだろうって」
「その通りだよ」彼は優しく彼女に思い出させた。「すぐにも戻ってくるかもしれない」
彼女は彼の手をつかんだ。声が強い気持ちに震えていた。彼のほうに寄りかかり、もう一方の腕を相手の首に回した。
「でも戻ってきてほしくない!」彼女は叫んだ。「あなたにいてほしいの!」
ドミニーはしばらく身じろぎもせず、石像のように座っていた。大きく開け放ち、ブラインドをおろした窓から、夏の暮れ方の静けさを破る、新聞売りの少年たちのどら声が聞こえてきた。そのとき、静けさを破るもう一つの鋭い音が聞こえた――外にタクシーの停まる音、正面玄関のベルを断固として執拗に鳴らす音。ドミニーは約束を思い出し、身体に力が戻ってきた。彼の中に燃えあがった火はとたんに鎮められた。波のように押し寄せる彼女の情熱に、彼は限りない思いやりをこめて応じた。
「ロザモンド、正面玄関のベルは重要な会見への呼び出しなんだ。もうしばらくぼくを信じてくれ。嘘は言わない。ぼくは決して冷たくしているのでも、無関心なのでもない。いつか君に言わなければならないことがある――はじめは思いもよらなかったが、今では夜も昼も心に重くのしかかりだしたことだ。ぼくを信じてくれ、ロザモンド、そして待ってくれ!」
愛らしくも痛ましい微笑みを小さく浮かべ、彼女は椅子に沈みこんだ。
「いつも待ってくれって言うのね」と彼女は不平をもらした。「わたし、じっと待つわ。でもこれだけは約束して。あなたはとても親切にしてくれる。わたしの人生を左右する人よ。だからもうちょっとだけわたしを大切にしてほしいの。お願いできる?」
彼は立ちあがろうとしていた。慈しむように彼女の手にキスをした。声にはすっかりいつもの調子が戻っていた。
「この世の誰よりも大切にするよ、ロザモンド!」
明るい灰色のスーツ、パナマ帽、白い花柄のネクタイという格好であらわれたシーマンは、数ヶ月前の落ち着いた都会人らしさを幾分失っていた。旅の疲れでくたくただったのだ。顔のしわが増え、目に奇妙な不安が宿り、目尻に小じわができはじめていた。彼はドミニーの歓迎に熱狂的といっていいような興奮を示した。それから顔つきが変わっていないかと思っていたかのように、まじまじと相手を見つめると、ようやく軽い安堵の仕草とともに安楽椅子に沈んだ。持っていた小さな茶色のアタッシュケースをカーペットの上に置いた。
「何か知らせがあるのかい」とドミニーが訊いた。
「うむ」重々しい返事だった。「知らせがある」
ドミニーは呼び鈴を鳴らした。玄関の化粧鞄とコートを見て、訪問者が駅からまっすぐここへ来たことはとうに推察していた。
「何を食べる?」
「ホック・アンド・セルツァーに、できたら氷を入れてくれないか。それからコールド・ミートも。ここに持ってきてくれ。そのあとは君のいちばん大きい葉巻。大変な知らせを持ってきたぞ。気がかりな知らせも、素晴らしい知らせも、驚くべき知らせも」
呼び出された召使いにドミニーが指示を出した。しばらく二人は他愛のない旅の話をした。注文したものがすべてそろい、ドアが閉められたとき、シーマンはもう待っていられなかった。食欲、渇き、弁舌、なにもかもが促されるように素早く活動をはじめた。
「われわれは性格的に似たもの同士だ。分かってるよ。だから、まずひどく気がかりな知らせから、いや、いささか恐ろしい知らせから伝えよう。ヨハン・ヴォルフの謎が解けた」
「南アフリカのシュミットから伝言を伝えに来た男か。忘れかけていたよ」
「わたしもだ。あの晩、われわれを訪ねてきた本当の理由は今もって不明だ。なぜわたしに対してよそよそしい態度をとったのか、その理由も分からない。実質上、同じ部局の上官だというのに。出だしからして奇怪な事件だが、しかしその結末と比べればなにほどのものでもない。ヴォルフはあの晩、この屋敷を出たあとイギリスの要塞のなかに消えたのだよ」
「信じがたいな」ドミニーはぼそっと言った。
「だが事実だ。わが諜報機関のメンバーは、その存在や所在を司令部に一ヶ月以上報告しないでいることを禁じられている。ヴォルフからは一月のあの晩以来、何の連絡もない。一方、彼はこちらで監禁されているという間接的な情報が入ってきた」
「しかしそれは違法行為だ。前代未聞だ。どんな国家もはっきりした罪状を示すことなく、また裁判にかけることもなく、他国の市民を牢に閉じこめることはできない」
シーマンは薄気味悪く笑った。
「一般人の場合は全くその通り。しかしヴォルフはもう何年もマークされていた。ドイツ外務省は、それがなにかの役に立つなら、すぐにも大騒ぎをするだろう。しかし無駄に終わるだけだ。ドイツの監獄には現在、イギリス人が一名か二名拘禁されているが、イギリス外務省は安否を問う価値すらないと考えている。わたしにとってヴォルフの失踪よりもっと気になるのは、彼が君を訪ねてきて、ほとんどその場で逮捕されているという事実だよ」
「きっとあそこまで跡をつけられていたんだ」
「そうだ。しかし連中が君の執事の部屋を火箸でこじ開け、ヨハン・ヴォルフを引きずり出し、ノリッジ城だかどこだかの監獄に連れて行ったとは考えられん。ヴォルフの一件でいちばん不安なのは、われわれの把握していないなにかが起きているという点だ。しかしそれをのぞけば気がかりはない。こっちにはヴォルフと同じくらい、いや、もっと優秀な諜報部員が大勢いる。おまけに彼らの力を必要とする時期はとっくに過ぎたのだ。今や君こそがわれわれの期待の星なのだよ、ドミニー」
「すると、ついに?」
シーマンはホック・アンド・セルツァーをゆっくりと嬉しそうに飲んだ。
「決行する」彼はおごそかに言った。「こうなることは分かっていた。ロシアが明日、動員を解除しようと、セルビアの政治家が全員首根っこにロープを巻かれ、よつんばいになってベニスに引き連れていかれようと、結果に変わりはないだろう。命令は発せられたのだ。ドイツ全土が一大軍営と化している。わが上層部が決めた日取りより、ちょうど十二ヶ月早いが、これは絶好の機会、躊躇して逃してしまうにはもったいない機会だ。八月の終わりまでに、ドイツはパリを占拠しているだろう」
「なるほど大変な知らせだ」とドミニーは呟きながら、しばらく開いた窓のそばに立っていた。
「わたしはやんごとなき人々のあいだに好意的に迎え入れられたよ。君もわたしも報奨を受ける個人リストの上のほうに名前が載っている。皇帝はアイダーシュトルム王女との結婚を許可したが、君がそれを利用しなかったことを褒めていたよ。『フォン・ラガシュタインは賢明な判断を下した』とおっしゃっていた。『今は結婚式を挙げるときでも、結婚生活に溺れているときでもない。世界がかつて経験したことのない重要なとき、大陸が形をなし、星々がこの世界を見おろすようになって以来、最強の帝国が生まれるときなのだ』皇帝はそうおっしゃった。皇帝のお考えでは、人間にとって最も大切な資質は、一途に目的を達成しようとする意志だ。わたしやターニロフの忠告にもかかわらず、君は自分の目的を追い求めた。君の評価はこれからぐんとあがるぞ」
やがてシーマンは食事を終え、盆は片づけられた。すぐにまた彼らは二人きりになった。シーマンは葉巻をくわえ、煙をもうもうと吐き出し、自分の言葉に彩りを添えるために、ときどき葉巻を持った手を振り回した。いつもの感嘆すべき注意深さがどこかへ行ってしまっているようだった。彼は初めて相手を本名で呼んだ。
「フォン・ラガシュタイン。われわれの祖国は偉大な国家だ。これから建設されるのは素晴らしい帝国だよ。今晩わたしは感激のあまり熱に浮かされたような気分だ。指令やいろいろな詳細を伝えなければならないが、それは後回しにしよう。われわれの未来、世界を支配する権利を勝ち取った最強の国家、ドイツの偉大な輝かしい運命について語ろう。ドイツは興奮に湧いていると思うかもしれないが、実はそんなことは少しもない。各人には仕事が割り当てられ、何をすべきか明確に伝えられている。巨大で堅牢な機械のように、われわれは戦争に向かっていく。どの連隊もその駐屯地をこころえ、どの砲兵隊司令官もその砲兵陣地をこころえ、どの将軍も戦闘隊列を正確にこころえている。配給、被服、病院、考えられるありとあらゆる集団が最後の微細な点に至るまで計算し尽くされた行動計画を与えられているのだ」
「最終的な結果も?」ドミニーが訊いた。「それも確定済みなのか」
シーマンは震える手で脇に置いてあった小型のアタッシュケースを開け、用心しながら亜麻で裏打ちされた羊皮紙を取り出した。
「君はこれを見る最初の人間の一人だよ。これは皇帝の夢を示している。未来の帝国の大枠がこれで分かるだろう」
彼はテーブルの上に地図を置いた。二人の男はその上に身を屈めた。それはヨーロッパの地図で、イギリスと縮小したフランス、スペイン、ポルトガル、イタリアが濃い青色に塗られていた。さらにハンブルグとアテナを結ぶ線、そしてフィンランドと黒海を結ぶ線、この二本の線にはさまれた地域は濃い赤に塗られ、そのあちらこちらにやや色の薄い部分があった。シーマンは地図の上に手を載せた。
「われらが未来の帝国版図だ」彼はおごそかに、重々しく言った。
「説明してくれ」
「大ざっぱに言うと、この二本の線にはさまれた地域は全て新ドイツ帝国の所領になる。ポーランド、クールラント、ルチアニア、ウクライナはある程度の自治権を持つが、実質的にそれは無に等しい。アジアはわれわれの足下にある。大英帝国はもはや世界の供給を独占することはない。ありとあらゆる原材料がわれわれのものとなるだろう。革、獣脂、小麦、石油、脂肪、木材――これらはみな、われわれの取り放題だ。財貨はといえば――インドと中国がある!これ以上何が望めるかね、君」
「息を呑むね。しかしオーストリアはどうなる」
シーマンはほとんどせせら笑うようににやりとした。
「オーストリアは忍び寄る運命の足音にとっくに気づいているだろう。中央ヨーロッパに二つの帝国が居並ぶ余裕はない。ハプスブルク家はホーエンツォレルン家の前に没落しなければならない。オーストリアは身も心もドイツ帝国の一部にならざるを得ないのだ。ほら、さらに南を見たまえ。ルーマニアは属国となるか、征服されるかのどちらかだ。ブルガリアはすでにわれわれのものだ。トルコはコンスタンチノープルを含めて忠誠を誓った。ギリシアはわれわれの側につかなければ、消し去られるだろう。セルビアは地図からなくなる。おそらくモンテネグロも。薄い赤で塗ってある国々、トルコ、ブルガリア、ギリシアは属国になり、機会があり次第、一つ一つ吸収されていく」
ドミニーの指が北のほうにそれた。
「ベルギーが消えているね」
「ベルギーは占領してドイツに隷属させる」とシーマンは答えた。「フランスへの侵攻はここを通って進められる。イギリス制圧にはフランスの港が必要だ。オランダとスカンジナビア諸国は薄い赤に塗られているだろう?ことによるとオランダ、デンマークとは一戦を交えることになるかもしれない。そうなれば併合だよ。まず恐れをなして中立を保とうとするだろうが、それでも最後の銃声が鳴りやんだとき、彼らはわれわれの属国になっている」
「ノルウェーとスエーデンは?」
シーマンは地図を見おろし笑った。
「見たまえ。彼らはわれわれのなすがままだ。ノルウェーは西に海岸があるから、イギリスからの援軍が常に問題になる。しかしスエーデンは完全にわれわれのものだ。数ある属国のなかでも、特にスエーデンを徹底的に従属させるというのが皇帝の計画なのだ。あの国のたくましい男たち、世界最強の兵士たちが、のちのち、戦争が起きた場合に必要なのだ。あの国にはわれわれが求める木材と鉱物資源もある。まあ、説明はこんなところだ。フォン・ラガシュタイン、この国でこの未来図を目にしたのは君が最初だよ」
「すばらしい計画だ」とドミニーは呟いた。「しかし何百万もの人間がいるロシアはどうするんだい。膨大な数の人間がいるというのに、どうやってあの国のいちばん豊かな土地を奪い、あの帝国の心臓部に突き進もうというのだ?」
「そこで天才的な策略を使うのだ。ロシアはこれまで十五年間、いつ革命が起きてもおかしくない状態だった。現在、わが国は各都市、田舎、軍隊の内部にスパイを送りこんでいる。われわれはロシアに自由な国家になることを教えてやるのだ」
ドミニーは嫌悪感に思わず軽く身震いした。シーマンの顔に浮かぶ、サチュロスにも似たにやにや笑いを見て、またもや虫ずが走ったのだ。
「で、わたしの仕事は?」
シーマンは自分で酒を注いだ。いつもは控え目なのだが、あわただしい食事のあと、グラスを満たすのはこれが三度目だった。
「脳みそが疲れているんだ」額に手をやりながら彼は答えた。「疲労困憊だよ。考えがまとまらない。この一週間はえらく興奮させられた。ほとんど君の一日一日の生活に至るまで、すべての計画が練られた。一両日中に説明しよう。ただこのことだけは覚えておいてくれ。イギリスに参戦させないこと、これがわれわれの大きな目標だ」
「結局ターニロフが正しかったのか!」とドミニーは叫んだ。
シーマンは軽蔑するように笑った。
「イギリスに参戦してほしくないといっても、それは友情を求めているからではない。カレー、ブローニュ、ル・アーブルを手中に収めてからのほうが、たたきつぶすのが楽だからだ。その準備は三ヶ月で完了する。そのとき、イギリスに対するわれわれの態度はちょいと変化するだろうがね。さて、帰るか」
ドミニーは渋々地図をたたんだ。相手はそんなことは無用とばかりに頭を振った。その日、彼も初めて主人役をいつもと違う名で呼んだというのは奇妙なことだった。
「フォン・ラガシュタイン男爵、この地図は六枚ある。これは君の分だよ。鍵を掛けて、この世の最高の宝物のように保管しておき給え。そして一人のときに取り出して研究するがいい。君に霊感を与え、憂いをはらし、危険に際しては勇気を与えてくれるだろう。君の心を誇りと賛嘆の念で満たしてくれる。持っていたまえ」
ドミニーはそれを注意深くたたむと、部屋の反対側の小さな金庫にしまった。
「君のいう通り、最高の宝物として保管するよ」彼は立ち去ろうとする客にそう誓った。それは自分でも驚くくらい熱のこもった言い方だった。
第二十七章