「さっそくわたしが訪ねてきた目的について話そう。君にとっては素晴らしいニュースだ。しかしその前に……」
「決行のときが来たのか?」ドミニーは怪訝そうに訊いた。「しかし、君も知っての通り、わたしはここでまだ足場も固めちゃいないんだよ」
シーマンは冷淡な口調で説明した。「その足場固めについて一言言っておく。ケープタウンで出会ってから、われわれはずいぶんお互いを見てきた。君はわたしがどんな情熱と目的を持って生きているか知っている。息抜きいうのは、身体がひからびてぼろぼろにならない限り、人間には必要なものだが、その息抜きにうち興じているわたしの姿も多少は見ている。だから分っていると思うが、仕事の必要を離れたときのわたしは実は感傷的な男なんだよ」
「それは認めるよ」ドミニーはぼんやりと言った。
「君は大事業に乗り出した。君が本部から指令を受け取ったちょうどそのときに、ドミニーというイギリス人が君のキャンプにやってきた。これはまさしく天の配剤だった。君が練りあげた計画はわれわれ全員の賛成を得た。君は君の最終的な目的を達成するために、実にユニークな立場に置かれることになる。さて、わたしの言うことをよく聞いて、誤解しないようにしてくれ。計画を進める上で肝心なのは情け容赦のなさだ。目的達成に一歩でも近づくことができるなら、ありとあらゆるためらいも慎みも踏みにじる価値がある。しかし目的にとって役に立たない行為は醜いだけだ。わたしは幻滅を感じる」
「いったい何の話だ?」
「わたしは寝ているあいだも片耳だけはそば立てているんだよ」
「それで?」
「今朝早く、君が部屋を出るのを見た。ドミニー夫人を抱えて」
ドミニーの日焼けした顔にかすかな青みがさし、目がぎらりと金属のように光った。一度か二度、急いで呼吸を整えてようやく声を出すことができた。
「それが君と何の関わりがあるのだろう?」
シーマンは相手の腕をつかんだ。
「いいかね、われわれは固く結ばれている。ブラフは通用しない。わたしは君が他人になりすますのを手伝うためにここにいる。財産、地位、人柄といった点に関して。ちなみに君は今、それらを順調に回復しつつある。さらに君がありきたりの色恋にふけることに、わたしは少しも干渉しない。だが、これだけははっきり言っておく。いくら美しいからといって、心を病んでいる夫人を騙したり、かりそめの夫の地位につけこんだりするのは、国家にとってよほど利益になるという場合を除いて、プロシアの貴族が取るべき行いでは断じてない」
ドミニーの怒りは表面にあらわれることなく燃えつきてしまったようだった。彼は相手の言葉にほんのわずかの憤りさえ示さなかった。
「心配しなくていい、シーマン。微妙な立場だが、わたしは名誉を重んじる人間としてふるまう」
「それを聞いてほっとしたよ。今朝のことは、わたしを不安に陥れようとしてわざとやったのだな」
「君の率直な忠告は尊重する。実は昨日の晩、ドミニー夫人が嵐を怖がって、わたしの部屋に入ってきたのだ。安心してくれ。わたしは立場をわきまえ、尊敬と同情を持って彼女に接した」
「ドミニー夫人は奇妙な具合に予定を狂わせるかもしれない」シーマンは考えこむように言った。
「どんなふうにかね?」
「近所の人が共通して彼女に持っている印象があるね。彼女がただ一つのことに取り憑かれているということ、つまり君を憎んでいるということだ。彼女は君がこの家で再び一晩を過ごすことがあれば、君を殺すと誓いを立てた。君は大胆な男だから、当然、そんなことは無視した。しかし次の日の朝、寝間着に血がついていたそうじゃないか」
ドミニーはゆっくり眉毛をつりあげた。
「ずいぶん召使いたちに歓迎されているんだな」思わず嫌味を言った。
「われわれのためにも、君のためにも必要なことだ」そっけない返事が返ってきた。「話をつづけると、正気を失った人というのは、一度思いこむと、実に執念深いものなのだよ。昨日の晩の彼女には少しも君を殺そうという様子がなかった。彼女の愛想のよすぎる態度はわれわれの計画をあやうくしかねない。分かるかね」
「どういうふうに?」
「君の正体が疑われたとする。いや、その可能性が日ごとなくなってきていることは認めるが、もしも疑われるようなことがあれば、ドミニー夫人があっさり敵意をなくしてしまったことは、君が、君の主張する人物とは違うという強力な推定証拠になるだろう」
「なるほどね。その可能性は大いにある。しかし君のニュースとやらはそんなことじゃないだろう」
「そうだ。よろしい、聞きたまえ。またとないチャンスが君に訪れたのだ」
「聞かせてくれ」
「説明しよう。この二、三日ではっきり悟っただろうが、君の背後には金を湯水のように使う組織がある。戦争においても外交においても、ドイツは目的を達成するためなら金に糸目をつけない。昨日は抵当の返済のために、九万ポンドが君の預金口座に振りこまれた。何ヶ月後か何年後か知らないが、遺産を受け継ぐドミニー家の遠い親戚がその恩恵に浴するわけだ。金は回収しない。そんなものは日常的な出費の一項目に過ぎないんだ」
「わたしの立場を固めるためとはいえ、実に気前のいいやり方だ」とドミニーは認めた。
「気前がいいのは、長い目で見れば、それがいちばん安全だからだよ。一文無しで帰国していたら、君に親切な手を差し伸べる人なんか、誰もいなかっただろう。今でこそ完全に消えてしまったが、へたをすれば君への疑いが生まれていたかもしれないのだ。さらに、そのどちらよりも深刻なのは、君が社交界に出られなくなることだ。社交界への進出はわれわれの計画を推し進める上で、絶対必要なことなのだ」
「そろそろわたしが何をするべきか、もう少しはっきりさせる時じゃないか?」
「今朝、その話をするつもりだったんだ、このニュースがなければね。しかし、話のついでに言えば、これだけは約束できる。君はそんじょそこらのスパイのような、あざとい仕事をさせられることはない。われわれは別の目的のために君を必要としている」
「それでニュースというのは?」
「君の念願が聞き入れられたんだよ。皇帝が君との会見を望んでおられる。じきじきに指示を下したいとのことだ」
ドミニーはテラスの上で急に足を止めた。彼は相手と組んでいた腕をはずし、呆然と彼を見つめた。
「皇帝が?わたしはドイツに行くのか?」
「さっそく出発しよう。個人的には、こういうやり方は賢明だとも必要だとも思わない。しかしわたしに相談することなく決められてしまったのだ」
「わたしに言わせれば、これは自殺行為だよ。よりによってドイツに行くだなんて、理由をどう説明するんだ?こっちに、まだ、腰も落ち着けちゃいないのに」
「口実はなんとかなるさ。君の名義で株を買い取った鉱山は、ドイツの資本で運営されているものが多い。そのうちの一つが経営難に陥ったと言っても、誰も不思議には思わない。株主投票が必要な事態をでっちあげるよ。君は悩むことはない。それより、素晴らしいことじゃないか!一日とはいえ、追放の命令が解除されるんだ。もう一度、祖国の空気が吸えるんだぞ」
「それは素晴らしいな」ドミニーは低く言った。
「君には未来を予感させる息吹になるだろう。さあ、行動だ。わたしは行動するのが大好きなんだ!時刻表と運転手の用意をしたまえ」
二人は朝のうちに車でノリッジに向かい、そこからハリッジに行くことになった。ドミニーは旅の服装に着替えてミセス・アンサンクを呼んだ。間もなく彼女が書斎にあらわれた。彼は椅子を差し出したが、彼女は座ろうとしなかった。
「ミセス・アンサンク、どうして十年間も妻の付き添いで満足してきたのか、理由を教えてくれませんか」
ミセス・アンサンクはこの唐突な質問に驚いた。
しばらく間をおいて彼女は答えた。「ドミニー夫人がわたしを必要となさったからです」
「あなたは自分が妻にとって最上の付き添いであると考えますか?」
「他の人は誰も受け入れようとなさいませんでした」
「妻に心をこめて尽くしていますか?」
ミセス・アンサンクは見るからに頑固な、気性の激しい女だったが、明らかにドミニーの一連の質問に当惑させられているようだった。
「そうでなければこんなに長くお屋敷にいるでしょうか」
「わたしには妻があなたを必要とする理由が見いだせない。さらにあなたは、わたしのことを、息子を殺した犯人だと固く信じている人間の一人だ。妻に仕えているのは、キリスト教徒としての振る舞いですか。つまり悪に対して善をもって報いるということですか?」
「いったい何がおっしゃりたいのです、サー・エヴェラード」彼女は荒々しく訊いた。
「こういうことです。わたしは妻に健康を回復させてやるつもりです。そのために専門家をここに呼びます。そして何よりしばらく転地療養させようと思う。あなたがそばにいないほうがはるかに妻の回復に期待が持てる、わたしはそう思うのですよ」
「まさかわたしを追い出そうというのですか?」
「そうです。まだドミニー夫人には話していませんが、いずれ遠からず妻もわたしの意向に同意してくれるでしょう。あなたの経済的な将来は保証します。毎年三百ポンドの金を支給しましょう」
女は初めて気弱な態度を示し、震えはじめた。その目に奇妙な怯えが浮かんだ。
「ここを離れるわけにはいかないのです、サー・エヴェラード。ここにいなければならないのです!」
「なぜです?」
「ドミニー夫人はわたしなしではやっていけません」彼女はむっつりといった。
「それは妻が決めることです。聞くところによると、あなたは妻に、息子さんの幽霊が出るという、くだらない噂を積極的に吹きこんでいる。それにわたしに対する理不尽な憎しみをあおり立ててきた」
「理不尽ですって?」女は叫んだ。「あなたにそんなことが言えるのですか?両手を血に染めて帰ってきたくせに。あなたさえ邪魔しなければ奥様が愛していたはずの男の血に。それをよくも理不尽だなどと」
「言うべきことは以上です、ミセス・アンサンク。大事な用があって、二、三日ここを離れなければなりません。帰り次第、今言った方向で改めていきます」女の顔の奇妙な変化を見つめながら彼は言い添えた。「そのあいだのことですが、今朝ハリソン先生に手紙を書きました。午後からこちらに来てもらい、わたしが戻るまでドミニー夫人を直接お世話いただくことになっています」
彼女は相手を見ながらじっと立ちつくしていた。それから少しだけ近づくと、彼の顔を覗きこむように身を乗り出した。
「十一年あれば人は変わるもの。でも弱虫が治ったというのは聞いたことがない」
「これ以上話はありません。これからすぐ妻に会いに行きます」
車の警笛が鳴りはじめるころ、ようやくドミニーは妻の部屋に入ることを許された。彼女は暖かい紅色のゆるやかなガウンをまとい、彼が来るのを今か今かと待っていたようだった。強い憎しみは白い顔からも、異様なほど穏やかな瞳の奥からも消えていた。彼女は彼に向かって手を差し伸べ、軽く眉をひそめた。子供のような失望が彼女の態度にうかがわれた。
「お出かけになるの?」
「すぐ出かけなければならないんだ。君に会うため一時間待ったよ」
彼女は顔をしかめた。
「ミセス・アンサンクのせいよ。わざとわたしの持ち物を隠したのだと思うわ。会いたくてたまらなかったのに」
「ミセス・アンサンクのことで話がある。彼女に出ていってもらって、誰かもっと若い、親切な人に付き添ってもらうというのは嫌かい?」
それは彼女には考えることもできないことのようだった。
「ミセス・アンサンクは決して出ていかないわ。彼女はあの声を聞くためにここにいるのよ。一晩中耳をすませて待っていることもあるわ。声が聞こえると、ほっとするの」
「君は?」
「わたしは怖い。だってそんなに強くないもの」
「ミセス・アンサンクは好きじゃないんだね」彼は心配そうに尋ねた。
「ええ」困惑しながら彼女は答えた。「彼女は怖くてたまらない。でも、そんなことしても無駄よ、エヴェラード。絶対出ていこうとしないわ」
「わたしが戻ってきたら分かるさ」
彼女は相手の腕を取って、自分の両手を握り合わせた。
「あなたが行ってしまうなんて、残念だわ。早く戻ってきてね。そうしてくれるでしょう――あなた?」
ドミニーの爪が、握り締めた手の肉に食いこんだ。
「三日以内に戻ってくる」彼は約束した。
「あのね」彼女はこっそり秘密をささやくように言った。「最近、わたし、気持ちが変わったの。昨日そのことを話したけど、理由は教えなかったわね。もうわたしのことを怖がらないで。わたし、分かったのよ」
「何が分かったんだい?」彼はかすれた声で尋ねた。
彼女は声をひそめ、耳打ちするように言った。「わたし、わかったの。あなたの首に短剣を突きつけて、急に殺す気がなくなったあの瞬間に。あなたはときどきあの人そっくりだわ。でもあなたはエヴェラードじゃない。わたしの夫じゃないのよ。別人なのね」
ドミニーははっと息をのんだ。二人は連れだってドアの方へ歩いた。ミセス・アンサンクがやせ細った、酷薄な顔を、勝ち誇ったように輝かせ、目をぎらぎらさせながら立っていた。彼女の唇はまるでひとりでに動くかのように、女主人の言葉をくり返していた。
「別人!」
第十四章
二人のあわただしい旅の最中に、シーマンは連れの様子を見て考え込んでしまうことが幾度かあった。ドミニーはそれこそ極端に無口になった。過去という網に絡め取られ、心を奪われ、そのあまり夢のなかにでもさまよいこんだようだった。必要なときしか喋らず、外界が一切の意味を失ってしまったようだった。旅も終わりに近づいたとき、暖房の効きすぎた簡素なコンパートメントのなかで、シーマンは席から身を乗り出した。
「里帰りだというのに憂鬱そうだな、フォン・ラガシュタイン」
「ドイツには二度と帰らないとずっと思っていたからね」
「いまも過去が忘れられないか」
「忘れたことなんかないさ」
列車はどこまでも続く葡萄の丘を走り抜け、平地に出たかと思うと、今度は松林に入った。そのなかほどの地点に開けた空間が広がっていて、窓を閉め切っていても、朽ち木が発する樹脂の匂いがコンパートメントに染み込んでくるようだった。やがて列車の速度が落ちた。シーマンは時計を見て立ちあがった。
「支度をしたまえ。もうすぐ下車する」
ドミニーは窓外を見た。
「しかし、ここはどこなんだ?」
「目的地から五分以内のところだ」
「でも家一軒見えないじゃないか」ドミニーは意外そうに言った。
「皇帝の専用列車が君を待っている。皇帝は今、幕僚たちと軍隊視察に回っていらっしゃる。われわれは光栄にもベルギー国境まで帰路を同伴することを許されたのだ」
列車はもう停まっていた。髭を生やした制服の鉄道職員がコンパートメントのドアを開け、彼らは切り出したばかりの松材で、最近建てたらしい小さな駅の、狭いプラットフォームに降り立った。列車は彼らが降りるとすぐさま走り去った。彼らの旅は終わったのだ。
シーマンと鉄道職員のあいだで短い会話が交わされるあいだ、ドミニーは興味深そうにあたりを見回した。駅の周りには、木立や灌木の陰に見え隠れしながら、兵士たちが隙なく非常線を張っていた。彼らは待避線に停まっている列車から、つい先ほど出てきたのだろう。その真ん中に一両だけ、黒地に金の派手な装飾を施し、中央にドイツ王家の紋章をあしらった特別優等客車があった。シーマンは会話がすむと、ドミニーの腕を取って、線路を越え、そちらの方へ彼を導いた。士官がデッキで彼らを迎え、ドミニーに堅苦しい礼をした。ドミニーはそれを面白そうに眺めた。
「皇帝は今すぐあなたにお会いになります。どうぞこちらへ」
彼らは列車に乗りこみ、贅沢なカーペット敷きの通路を進んだ。案内役が立ち止まり、小さな休憩室を指さした。そこには数人の男が椅子に腰掛けていた。
「ヘア・シーマンのお友達がこちらにいらっしゃいます。皇帝陛下はしばらくあとであなたにお会いになります。フォン・ラガシュタイン男爵はこちらへ」
ドミニーは貴賓車に連れて行かれた。案内役は入り口のところで待つように手で彼を押し止め、自分は数歩前進して、椅子に座っている人物の前で立ち止まり敬礼した。彼は地図の上に身をかがめていた。その地図は将軍の軍服を着た、いかめしい顔の男が広げたものだった。皇帝は足音を聞いて視線をあげ、将軍の耳に何事かをささやいた。将軍はカチリと軍靴のかかとを合わせ、引きさがった。皇帝はドミニーに進み出るよう手招きした。
「フォン・ラガシュタイン男爵をお連れしました、陛下」若い士官が言った。
ドミニーはさっと不動の姿勢を取り、ぎこちなく一礼した。皇帝はにっこりと笑った。
「ドイツ軍人が軍服を脱いでもじもじしているというのも、面白い見物だな。伯爵、行ってよろしい。フォン・ラガシュタイン男爵、座りたまえ」
「失礼いたします、陛下」ドミニーは威厳に満ちた主人の指さす椅子に腰をおろした。
「万事遺漏なく進展しているようだな。楽にしたまえ。アフリカでは立派な働きをしてくれたと報告を受けている」
「陛下のご意志を実現するために全力を尽くしました」
「君の仕事ぶりがあまりに素晴らしかったので、顧問官が異口同音に進言してきたのだ、間もなくわれわれにとって重大な関心事となる計画に引き戻すように、とな。指令を受けて君はさっそく行動に移ったようだ。イギリスの男爵になりすますことに成功したと聞いているが?」
「今までのところ順調に進んでいます」
「アフリカでの仕事も大切だったが、今の任務はそれよりはるかに重要だ。これからしばらく腹蔵なく君と話がしたい。しかしその前にまず乾杯しようじゃないか」
皇帝は脇にあるマホガニー製の小テーブルから首の長いモーゼルワインの瓶を取り出し、美しいグラスを二つ満たすと、一方を相手に渡し、他方を高く掲げた。
「祖国のために!」と彼は言った。
「祖国のために!」ドミニーは唱和した。
二人は空のグラスを置いた。皇帝は羽織っていた灰色の軍用マントを後ろに押しやった。幾つもの勲章と飾りがあらわれた。皇帝の指はまだワイングラスの脚をもてあそんでいる。しばらく物思いにふけっているような様子だった。厳格で、どこか冷酷な口元は、固く引き締められ、額にはかすかにしわが寄っていた。座っていても背筋は伸び、安楽椅子のクッションに寄りかかることはない。目はややつりあがり、顔の表情がいっそう重々しさを増した。たっぷりと五分は完全な沈黙がつづいた。重大な用件をひとまず横に置いて、全神経をドミニーの計画に集中しているかのようだった。
「フォン・ラガシュタイン」皇帝はようやく切り出した。「君を呼んだのは君のイギリス滞留について話があったからだ。任務の内容を、わたしから直接聞いてもらおうと思ったのだ」
「光栄に存じます」
「君はわがスパイ組織の制限、権威、義務から完全に切り離されていると考えてもらいたい。君に期待しているのは別のことだからだ。なりすます相手になりきってもらいたい。典型的なイギリスの地方郷紳として労働問題やアイルランド問題、国民兵役計画の進展、そしてそのうち連絡が行くだろうが、その他の社会運動について研究してもらいたいのだ。どうやらイギリスはわが国に疑いの目を向けはじめているようだが、論評や小説の形で、そうした疑惑をあおり立てている物書きたちのリストを作ってもらいたい。これはどれも君の本来の任務からすると周辺的なものに過ぎない。そのことはわれわれの畏友シーマンからすでに聞いているだろう。これはターニロフ王子と友情を結ぶためのもの、いや、できれば親交を深めるためのものだ」
皇帝はいったん言葉を切って、再び窓の外に広がる風景に目を転じた。彼の目は明らかに夢想家の目ではない。しかしそのときは思い悩むような色に満ちていた。
「大使はわたしをあたたかく歓迎してくれました」
「ターニロフは平和の鳩だ。オリーブの小枝を口にくわえて運んでいく。わが政治家と顧問官なら、もっと断固とした資質の大使をロンドンに送っただろう。しかしわたしは不賛成だった。ターニロフは愚か者を騙すにはうってつけの男だ。なぜなら彼自身が愚か者だからだよ。自国よりも強大で、文化も進み、よりすぐれた指導者をいただく国家が日一日と忍び寄って来るというのに、海の守りも陸の守りも固めようとしない国にはぴったりの大使だ」
「イギリスは海軍に全幅の信頼を置いているようです、陛下」ドミニーはためらいがちにそう言った。
相手の目が光った。唇が嘲るように歪んだ。
「たわけた連中だ!一旦この剣が鞘を離れ、カレーとブローニュ沿岸の町を押さえ、わが大砲がドーバー海峡を制したら、彼らの海軍など何になろう!島国が威張りくさっていた日々は終わったのだ。イギリスの傲慢な海上制覇が終わったのと同じくらい確実に」
皇帝は自分のグラスとドミニーのグラスを再び満たした。
「フォン・ラガシュタイン、数ヶ月後には、なぜターニロフの仲間になれと命令されたか、その理由が分かるだろう。今よりももう少しはっきり君は任務を理解する。その真の狙いは時期を待って明らかにされるだろう。君はどんな時でもシーマンを信じたまえ」
ドミニーは一礼し、黙っていた。皇帝はまたもやひとしきり思い悩んだあと、こうつづけた。
「フォン・ラガシュタイン、わたしが君に追放を宣告したのは、公正な処置だった。国民の風紀を正すことは、彼らのためにより強大な帝国を築くという誓いと同じく、わたしの神聖な役目だ。君は第一に、同盟国のもっとも有力な貴族の妻を誘惑し、第二に、そのあとの決闘で彼を殺してしまった」
「あれは事故だったのです、陛下。王子を傷つける気はさらさらなかったのです」
皇帝は顔をしかめた。彼は言い訳を一切嫌っていた。
「逆の形で事故が起きればよかったのだ」と皇帝は鋭く言った。わたしはかけがえのない部下を失うべきだったのだ。しかし現実には君が生き延び、罰を受けた。それでも君のアフリカでの活躍はめざましく、落ち度もなかったという。わたしはこの一回だけ、君に名誉を回復するチャンスをやろうと思う。イギリスでの任務を見事にこなせば、今君が服している追放宣告を撤回しよう」
「ありがたいお言葉です。報われる希望がなかったとしても、この任務はそれだけで全力を尽くすに値します」
「よくぞ言った。わが帝国の息子たちは、すべからくその意気で未来を見つめなければならない。思うに彼らも、そしてとりわけ側近の者たちも、わたしに伝えられた神の言葉をそれなりに感じ取っているようだ。長年、わたしは国民のために平和の構築をめざしてきた。しかし天がわたしに示したもう一つの義務を果す時が近づいたのだ。忠誠なるドイツ人は必ずや、みな、わが剣を包む雷光にひれ伏し、それを振るう鉄の意志を共有するに違いない。さがってよいぞ、フォン・ラガシュタイン男爵。休憩室に供回りの者がいるから、そちらへ行たまえ。数分後に出発し、君らをベルギー国境に置いていくことになっている」
ドミニーは立ちあがり、強ばった一礼をしたあと、カーペット敷きの通路を引きさがった。皇帝はすでに地図の上に身をかがめていた。休憩室のドアの前に立っていたシーマンは、彼をなかに招き入れ、随行員たちを紹介した。一人、片眼鏡をはめ、顔に傷痕のある、操り人形のように奇妙な動きをする若者が、不思議そうに彼をみつめた。
「数年前にミュンヘンでお会いしましたね、男爵」
「この国の方とは誰ともお会いしたことがございません」ドミニーはきっぱりと言った。「わたしは皇帝のご命令に従い、過去の記憶と思い出を一切頭のなかから消し去ったのです」
若者の顔から疑わしげな表情が消えた。そばにいたシーマンはじっと眉をひそめていたのだが、彼を思いやるように頷いた。
「たいした役者ですね、男爵。ドイツ語まで何となくイギリス人訛りになっていますよ。座って一緒にビールを飲みましょう。もうすぐ昼食が出ます。汽車を降りるまでもう皇帝の御前に呼び出されることはありません」
ドミニーは慇懃に礼をして、他の人々に加わった。列車はすでに動き出していた。ドミニーは物思いにふけるように窓の外を眺めていた。謁見に呼び出されるのを待っていたシーマンは彼の腕を軽く叩いた。
「気持ちは分かる。ベルリンから離れていくんだもの、辛いだろうね。でも忘れてはいけない、追放の宣告が取り消される日は遠くないのだ。君は罪の償いにつとめてきた。いいかい、わたしは君の友人や同輩と肩を並べるような人間じゃないが、でも彼らのなかに皇帝と同じ意見の人は一人もいない」
黒地に白い縁取りをした制服の給仕が笑顔であらわれた。背の高いグラスにビールを注いで運んできたのだ。ドミニーの向かいに座っていた上級士官がグラスをあげて一礼した。
「フォン・ラガシュタイン男爵に乾杯しよう。もっと早くお知り合いになれなかったことが残念です。近い将来、戦友として、偉業に取り組む同志として、ご帰還のお祝いができることをお祈りします!万歳!」
第十五章
ノーフォーク狩猟の会のいちばん新しい、いちばん人気のある会員、サー・エヴェラード・ドミニー男爵は、ドイツから戻って数ヶ月後のある午後、裏の小山の頂きから屋敷の菜園まで長々と続く森の一角に立っていた。彼の左手には適当な距離を置いて四人の狩猟隊のメンバーが並んでいた。彼の隣にはミドルトンがトネリコの杖をついて立っていて、勢子の近づいてくる音を聞いていた。反対側の隣にはダークグレーのスーツに山高帽という妙に場違いな格好のシーマンが立っていた。年老いた狩猟場管理人は、時が経つとともに心配事などすっかり吹き飛んだのか、低い声でいたって満足そうにおしゃべりをつづけた。
「このあたりはドミニーの旦那様でないとだめなようですなあ」彼は空高く飛んでいたキジが頭上から落ちてくるのを見ながら言った。「先代の旦那様の時のことでした。あるとき、この場所をウェンダミア卿にお任せになったのです。卿はキジを撃たせたらイギリスじゃ指折りの名手でした。ですが、椋鳥の群れみたいに頭の上を飛んでいるっていうのに、午前中かかっても獲物は数羽、弾がかすって落ちたのだけだったんです」
「飛び出して急に右よりに身体をひねるんだろう?」再び見事な腕前で鳥を撃ち落としたドミニーは言った。
「その通りですよ、旦那様。しとめるこつを知っているのは、ドミニー家の方だけですな。あの外国の王子様とかいうお方は、鳥のこたあ随分知っていなさるそうだが、さすがにこのへんは任せられません」
老人は数歩丘をあがって、高いところから森を抜ける勢子の進み具合を観察した。シーマンが振り返り、いかにも感に堪えないような口調で言った。
「君は奇跡だよ。キジ狩りの腕までドミニーをまねたみたいだな」
「覚えているだろう、ハンガリーじゃ、もっと高く飛んでいるのを撃ち落としていた」彼はこともなげに言った。
「わたしは狩りはやらない」とシーマンは言った。「狩猟のことはさっぱり分からん。しかしこれだけは言える。生まれたときからこの土地に住み着いている老人が、君の射撃をうやまうように見て、銃の持ち方まで昔と変わっちゃいないと思っている」
「鳥が身体をひねるなんて、土地の人の迷信にすぎないよ。森の端は土地が傾斜しているんだ。だから実際よりも左の方を飛んでいるように見えるだけなのさ」
シーマンは森の側面をしばらくじっと見ていた。
「公爵夫人が来る。公爵と同じでわたしを嫌っているようだ。お偉い貴婦人なものだから思ったことをずけずけとぶつけてくる。行く前に一言だけ注意しておこう。アイダーシュトルム王女が午後到着するよ」
ドミニーは顔をしかめたが、管理人の叫びに応じてくるりと振り向くと、兎を撃ち殺した。
彼は抗議するように言った。「君は王女の訪問について全部を話してくれたわけじゃなかったのだな」
シーマンは一瞬考えこむような様子だった。
「そうだね。全部は話してなかった。これから気をつけよう」
彼は隣のハンターが獲物を待ちかまえているところへぶらぶらと歩いて行った。そこではミスタ・マンガンがドミニーとはおよそ正反対の射撃の腕を披露していた。数分後、公爵夫人がドミニーの側にやってきた。
「ヘンリーに、もう見ちゃいられないって言ってやったわ。四十発撃って、兎を一匹怪我させただけなんですもの」
「ヘンリーは熱心じゃありませんものね。でも少々手厳しすぎるんじゃありませんか。ついさっき大物の雄キジを持ってくるのを見ましたよ。鳥のことは気にしなくても大丈夫。いずれはみんな獲物となって屋敷に来るんですから」
公爵夫人は革を接ぎ合わせた、ひどくあか抜けた服を着ていた。厚底の靴に脚絆を巻き、小さな帽子をかぶっていた。血色は非常によかったが、なにかむっとしているような感じだった。
「ステファニーが今日来るんですってね」
ドミニーは頷いた。彼はじりじりするくらい射程距離の外を飛んでいる一匹の鳩を見つめているらしかった。
「数日こちらでお過ごしになる予定です。死ぬほど退屈すると思いますけどね」
「どこで彼女とそんなに親しくなったの?」従姉妹が興味津々尋ねた。
「初めてあったのは、カールトンホテルのレストラン。イギリスに着いて二、三日後のことです。わたしを別人と勘違いなさいましてね、ありきたりのお詫びを言って別れたんです。その日の晩、今度はカールトン・ハウス・テラスで会いました。ターニロフの友人だったんですよ。それからはしょっちゅう会いました。町にいたのはほんのわずかな期間だったけど」
「そう」公爵夫人は考えこんだ。「それもまたあなたがあらかじめ用意していたみたいな、驚くべき話の一つね。いったいドイツの大使とどうやってあれほど親しくなったのかしら?」
ドミニーは大らかに微笑んだ。
「別にそれほど意外なことじゃないでしょう。鉱山事業の共同経営者ミスタ・シーマンが大使のところへ連れて行ってくれたんです。大使は政治家としても、狩猟家としても東アフリカにとても関心をお持ちなんです。われわれとの会話が面白かったのでしょう、ある程度親しくおつき合いするようになりました。わたしもそのことを誇りに思っています。王子に対してはこの上ない尊敬と親しみを感じていますよ」
「わたしもよ。あの方は魅力的だと思うわ。ヘンリーは馬鹿か悪党か、どっちかだって言うけれど」
「ヘンリーは偏見に目がくらんでいるんですよ」ドミニーはちょっといらいらした。「ドイツ人は悪魔としか宴を張らないと思っているんですから」
「そんなに怒らないで」彼女は彼のコートの袖に軽く手を触れて懇願した。「わたしは王子を高く評価しているのよ。ドイツ人じゃ、あの人だけだわ、この人こそ紳士だとわたしが直感したのは。あら、何をにやにや笑っているの?」
ドミニーは真剣な顔を彼女に向けた。「にやにやなんかしていませんよ」
「笑っていたわ」
「ちょっと変なことを考えただけです。あなたは油断も隙もありませんね、キャロライン」
「わたしはめったに間違わないの。ステファニーの話に戻るけど」
「何でしょう?」
「彼女がカールトンのレストランであなたを誰と見間違えたか知っている?」
「教えてください」彼ははぐらかすように答えた。
「レオポルド・フォン・ラガシュタイン男爵」キャロラインは無表情に言った。「フォン・ラガシュタインはハンガリーで彼女の愛人だったの。夫を決闘で殺してしまい、皇帝がかんかんになって、彼を東アフリカに追放してしまったのよ」
ドミニーは狩猟ステッキを拾いあげ、銃をミドルトンに渡した。勢子が森を抜けて出てきた。
「ああ、そう言えば思い出した。彼女はわたしのことをレオポルドと呼んでいた」
「どうして彼女をここに呼ぶ必要があるのか、わたしにはどうしても分からない」相手はだだっ子のように言った。「また――レオポルドなんて呼ばれるかもしれないじゃない」
「そうしたら、知らん振りしてやりますよ。でも真面目な話、彼女はターニロフ王女の従姉妹だし、二人はとっても親しい間柄なんです。王女は狩りが大嫌いだから、二人一緒にいたら退屈しないだろうと思ったんです」
「とんでもないわ!ステファニーはあなたを独り占めしようとするわよ。それが狙いなんだから」
「つまり、本気でわたしをそっくりさんの代用品にしようと思っているってことですか」ドミニーはわざとぎょっとして見せた。
「あら、そうだとしても不思議はないわ!それにあの人はすこぶるつきの美人ですからね。わたしは不満ではち切れそうよ、エヴェラード。もう一人、嫌らしい小男もいるじゃない。シーマン。あなたも知っているでしょう、ヘンリーがあの人を見ただけで血相を変えること。彼と一緒に食事をするなんて、うちの主人、夢にも思ってなかったと思うわ」
「それは本当に残念だなあ。でも大使はシーマンに大変興味を感じていらっしゃるんです。彼が幹事を務める友好促進同盟のせいでね。彼を招待してくれと、大使から特に希望があったんです」
「でもヘンリーにとっては気詰まりな状況だわ。ロバーツ卿を別にすれば、ヘンリーは実質的に国民兵役運動の主導者ですからね。ドイツは大嫌いだし、ドイツ人を見ると誰彼かまわず不信感を抱くのよ。なのに、こんな小さなハウスパーティーで顔をつき合わせるのがドイツ大使と、ヘンリーが一生懸命もり立てている機運を必死になって眠らせようとしている男なんですもの」
「それじゃどうしようもありませんね」ドミニーは笑った。「でもそんなヘンリーでもターニロフは好いていますよ。それに時には敵と相まみえるのもいい刺激になります」
「もちろん主人はターニロフが好きよ。彼が憎んでいるのは、ターニロフが代表しているものなの。でもそんなことはみんな許してあげるわ、ステファニーさえ来なければ。あの女、本当に癇に障りだしたわ。いつもあなた方二人の感傷的な過去を、謎かけみたいにほのめかしたりして。それもあなたが追放された愛人に似ているっていう、それだけの理由で。カールトンホテルであの日顔をつき合わすまで会ったことなんてないのに!」
「彼女のことはまったく知りませんでしたよ」
「三ヶ月のうちに過去を作りあげてしまったとしたら、手の早さにかけては、あなた、ただ者じゃないわね」キャロラインは疑わしそうに言った。「よくものこのこ来られるものね。厚かましいにもほどがある。特にここは独身同然の男の家なんだから」
彼らは次の狩猟場に着き、会話はひとまず中断された。マガモの一群が森の池から追い立てられ、しばらく誰もが忙しかった。ミドルトンは相変わらず感心しながら主人を見ていた。
「高く飛びあがったカモを撃ち落とす腕は先代に引けを取りませんな、旦那様。キジのあとにカモが出てくると、弾がなかなか当たりません。信じられないくらいすばしこいですから」
「アフリカに行く前もあんなに上手だったと思う?」キャロラインが訊いた。
ミドルトンは帽子に手をやり、後ろに立っているシーマンを振り返った。
「こちらの旦那様にも今朝早く申しあげたんですがね、あの頃よりうまくなっていますよ、公爵夫人。前より冷静で、銃の動きにぶれがありません。ですが、旦那様の射撃はどこに行ったって見分けられまさあ」
シーマンの目に感嘆の光りがともった。勢子が森から出てきて、撃ち手たちは獲物が集められるあいだ、雑談に花を咲かせた。清々しい風と狩りの喜びがターニロフの顔からいつもの青白い色を吹き払い、彼は気さくで饒舌ですらあった。彼はザクセンに広大な地所を持っていて、公爵に自分の狩りのやり方を説明していた。ミドルトンは角枠の時計に目をやった。
「まだあと一時間は充分陽がありますよ、旦那様。ウズラ狩りになさいますか、それとも林のなかをさらってみますか」
「ひとつ提案なんですが」ターニロフが遠慮がちに言った。「ほとんどのキジがあの沼の向こうの陰鬱な森に逃げこんだんですよ」
一瞬、奇妙な沈黙があった。ドミニーは振り向いて、問題の森のほうを見ていた。まるでその不気味な黒さと密度に見とれているようだった。ミドルトンは持っていた獲物を落とし、ぶつぶつと独り言をいった。
ドミニーが落ち着いて答えた。「あれはブラック・ウッドと呼ばれているんです。あそこに逃げこんだキジは、ここは禁漁区だと主張しているんじゃないでしょうか。どう思う、ミドルトン?」
老人はゆっくり頭をめぐらし、主人を見た。どういうわけか、彼の赤銅色の顔から、色という色がことごとくかき消されてしまったように見えた。目は地方の農民にありがちな、魑魅魍魎に対する漠然とした恐れに満たされていた。彼は震える声で言った。昔の恐怖がまた舞い戻ってきたのだ。
「勢子たちをあそこに送りこみはしないでしょうね、旦那様」彼は口ごもった。「行きたいやつなどおりはしませんが」
「この土地のタブーに触れてしまったのかな?」公爵が訊いた。
「旦那様がお話になるでしょうが、このあたりだけの話じゃありません、公爵様。ノーフォークにブラック・ウッドを通り抜けようという勢子は一人もいませんよ。純金をやると言ったって駄目です。やあ、お前たち」
彼は少し離れて指示を待っている勢子の方を振り向いた。勢子は十二人おり、ほとんどががっちりした体格をしていた。粗末なスモックにズボンという姿で、太い棍棒を手にしていた。
ミドルトンは彼らに話しかけた。「こちらの紳士のお一人が、金貨を一人一枚出すから、ブラック・ウッドでかりたてをやるやつはいないかとおっしゃっている。――連中の顔をよく見てやってくださいよ、公爵様――どうだ、お前たち」
誰の目にも明らかだった。提案は彼らの頬から健康な日焼けを奪ってしまった。彼らは居心地悪そうに棍棒をいじくり回した。そのうちの一人が帽子に手をやり、ドミニーに語りかけた。
「わたしはあれを聞いただけじゃなくて、この目で見たんですよ。あそこに近づくくらいなら、農家をやめます」
キャロラインが突然ドミニーの腕を取った。その声にはいたたまれない気持ちがこもっていた。
「ヘンリーったら馬鹿ねえ!エヴェラード、わたしが悪かったわ。ごめんなさいね。うっかりしたの。すぐ彼の口を塞ぐべきだった。主人たら忘れっぽいのよ」
ドミニーの腕は彼女の指の圧力に一瞬、反応した。それから彼は勢子の方を向いた。
「誰もブラック・ウッドに行けなんて頼まないさ。ハントの刈り株畑の裏手に回ってくれ。キジを根本に誘いこんで、それから庭園の方に追い出すんだ。われわれは庭園の柵にそって立っている。それでどうだろう、ミドルトン?」
管理人は帽子に手を触れ、きびきびと歩き出した。
「わたしも一緒に行ってきます。フラーの曲がり角のところで、鳥どもは急に向きを変えますからな。側面から追い立てることができるかどうかやってみますよ。撃ち手の立ち位置はご存じでしょう、旦那様」
ドミニーは頷いた。勢子は誰も彼も、いつにないほど急いで目的地に移動した。彼らはブラック・ウッドに背を向けていた。ターニロフが主人に近づいてきた。
「ひょっとしてわたしがまずいことでも言ってしまったのかな?」
ドミニーは首を横に振った。
「お尋ねになって当然の質問をなさっただけですよ、王子。隠す理由もないのでお話しましょう。あの森の近くで悲劇が起きたのです。わたしがイギリスを何年も離れることになった悲劇が」
「それは申し訳なかった――」
ドミニーは王子を遮るように言った。「別にその話を避ける気はありません。わたしはあそこである晩、うらみを持つ男に襲われました。取っ組み合いの争いになり、わたしはいささか尋常じゃない格好で家に帰りました。わたしを見て妻はすっかり怯え、それ以来病気になってしまったのです。それはともかく、先ほどのような迷信が生まれ、わたしがずっと疑いの目で見られるようになったのは、わたしと争った男がそのときから行方不明になっているからなんですよ」
ターニロフはあまりにも物語に惹きつけられ、同時に、主人の語り方に謎めいたものを感じたものだから、つい謝ることを忘れてしまった。
「そのときから行方不明!」
「争いがどう決着したのか、わたしははっきり覚えていないのです。襲ってきた男が気を失って地面に倒れたのをそのまま残してきたと思うのですが」
「それではブラック・ウッドに出没するというのは彼の幽霊なのかね?」
ドミニーは忌まわしい思いを振り払うように身体をぶるっと震わせた。
彼は歩きながら、説明した。「王子、そもそもあの森は不快な場所なのです。中心部にさえ泥沼が幾つもあり、はまりこんだら、それまでです。ありとあらゆる害獣が跋扈し、藪のなかには汚らしい昆虫や鳥がいます。あの場所の性格が迷信を助長したのでしょう。今では誰もが固く信じています」
「地元の人はあそこに幽霊がいると思いこんでいるんだね?」
「それだけじゃありません。もう何年も人が入りこんだことのない森の奥には、超自然的な悪霊が住み着いていて、夜だけそこから出てきては、わたしの屋敷の窓辺で叫び声をあげるとまで言っています」
「見た人はいるのかね?」
「村の人が一人か二人。他にはいないはずです」
ターニロフは質問をつづけようとしたが、公爵が彼の肘に触れて、彼を一方の側に引き寄せた。まるで沼地からわき起こる霧に注意を引こうとしているかのようだった。
「王子、その話はドミニー夫人の狂乱とわかちがたく結びついているんですよ。お分かりいただけるでしょう」
指の先まで外交家である王子は、はっとした様子だった。しかし唇のかすかな笑みは絶やさなかった。
「自分の軽率を深く恥じます。サー・エヴェラード、アフリカで散弾銃狩りをしたときの話を聞かせてくれる約束でしたね。向こうにウズラのような鳥はいるんだろうか」
ドミニーは笑った。
「もう十分もすればミドルトンがウズラを追い立ててくるでしょうが、それが撃てるなら東アフリカのどんな鳥もしとめられますよ、おもちゃのパチンコでね。ヘンリー、もう少し左に立ったほうがいい。ターニロフは門のそば、スティルウェルは左の隅、マンガンがその次、それからエディの順だ。わたしは向こうの樫の木立のほうに立つよ。一緒に行きましょうか、キャロライン」
歩き出すとき、従姉妹は彼の腕を取り、強く握った。
「エヴェラード、お見事だったわ。あなたはちっとも取り乱さなかった。単純で、賢明な策だったわね、全部を打ち明けてしまうのは。ほとんど淡々と喋っていたじゃない。他人の話でもしているんじゃないかと思ったくらいよ」
主人は謎めいた微笑みを浮かべた。
「そんな印象をお持ちになったとは、不思議だな。実は喋りながらわたしも同じように思ったのです。ちょっとしゃがんでもらってもいいですか。合図の笛を鳴らしますから」
第十六章