「お宅のワイン貯蔵庫には心から祝福の言葉を申しあげます、サー・エヴェラード」その晩、客はポートワインを口にしながらそう言った。「これほどの七十年代ものは実に久しぶりです。しかも、わたしがロンドンから寄こした新しい雇い人――パーキンスですが――彼によると、これがまだたっぷり残っているそうですよ」

「じっくり寝かしてあったからね」

「夕食の前に貯蔵庫のリストを調べてみました。すると四十七年ものと四十八年もの、さらにそれより古いビンテージワインも数本お持ちじゃないですか。放っておく手はありませんよ」

「明日の晩、一本飲んでみよう。暇があれば、半時間くらい一緒に貯蔵庫を見て回るのもいいかもしれない」

「そしてもう半時間はミセス・アンサンクとの面談に費やしたいですな」ミスタ・マンガンは憂慮するように言った。「とにかく、ドミニー夫人のお世話係として彼女が適任とは到底思えません。ここに到着したらすぐ、この件についてお話しようと決めていたんですよ、サー・エヴェラード」

「ミセス・アンサンクはミスタ・フェルブリッグの家政婦で、妻の子どもの頃の乳母だったんだよ。どのような欠点があるにせよ、ドミニー夫人には献身的につくすと思う」

「奥様には献身的かも知れませんが、あなたにとっては敵だと思います。このまま何事もなく済むとは思えません。ミセス・アンサンクは、それがフェアな闘いだったかどうかは別にして、あなたが息子を殺したと思いこんでいる。ドミニー夫人もそう信じている。そして争いのあとのあなたを見て、正気を失ってしまった。ドミニー夫人には、不幸な過去と何のつながりもない人をあてがったほうがずっといい」

「明日、ハリソン先生に相談しよう。君が一緒に来てくれて本当に助かるよ、マンガン」彼はほんの少しためらってから話をつづけた。「昔の雰囲気にもう一度馴染むことはなかなか難しい。それどころか」彼はテーブル越しにちらりと妙な視線を投げかけた。「わたしがあの頃と同じ人間だということさえ信じられない」

「わたしはあなた以上に信じられない思いを何度も味わいましたよ」

「ずばりどういうところが変わったと思うのか、教えてくれないか」ドミニーは熱心に尋ねた。

「柔軟性とでもいいますか、あるいは性格的なだらしなさとでもいうべきかもしれませんが、それがなくなったようですね。昔を振り返ると、今のあなたからはほとんど想像もできないことが幾つもあるんです。些細な例ですが」彼はうっすらと笑みを浮かべて、主人の口をつけていないグラスのほうに頭をかしげた。「わたしが知っているドミニー家の方と違って、あなたはポートワインをお飲みにならない」

「ポートワインはもとから好みじゃないよ」

弁護士は眉をつりあげて彼を見た。

「ポートワインはもとから好みじゃない」彼は呆然として相手の言葉をくり返した。

「好みじゃなくなったと言うべきだったね」ドミニーは急いで説明した。「ジャングルではとにかく怖ろしいほどアルコールを飲んだ。するとワインに対する嗜好が萎えてしまうんだ」

弁護士は主人の見事な褐色の顔色と澄み切った目をうらやましそうに見た。

「お酒なんか一度も飲んだことがないような顔をなさっていますよ、サー・エヴェラード」彼は正直に言った。「十年か十五年前の噂が信じられません」

「ドミニー一族の体質なんだろう」

新しい執事が音もなく部屋のなかに入ってきて、主人の椅子に近づいた。

「書斎にコーヒーを用意いたしました、旦那様。猟場管理人のミスタ・ミドルトンがつい先ほどおいでになり、お休み前に旦那様と一言お話したいとのことです。たいそう落ち着きのない、心配そうな様子でした」

「すぐ書斎に来させたまえ。君もコーヒーにするかね、マンガン」

「もちろんですとも」弁護士は立ちあがりながら同意した。「素晴らしいご馳走でしたよ、あのワインは。ロンドンのレストランには望むべくもない一品ですな。ポートワインは寝かしてある場所から運び出してはいけないんですよ」

二人は実に豪華だが、暖房不足で壁が少しいたんでいる広間を通って書斎に入り、赤々と燃える薪を前にして安楽椅子に座った。パーキンスは音をたてずにブランデー入りのコーヒーを差し出した。彼が部屋を出るや、とたんにためらいがちなノックの音がし、ミドルトンのどことなくおどおどした姿があらわれた。

「なかに入ってドアを閉めたまえ。どんな用事だい、ミドルトン。パーキンスから話があると聞いているが」

男は躊躇しながら前に進んだ。見るからに困ったようなそわそわした様子で、話が切り出せないでいるようだった。顔には雨粒が光り、綿ビロードのコートにも長く尾を引くような雨の跡がついていた。白髪は風にあおられて乱れていた。

「今晩は荒れ模様だね」ドミニーが言った。

「ここに来たのは、これ以上荒れた夜にならないようにするためなんで、旦那様」老人はしわがれた声を出した。「お頼みしたいことがあるんですよ。旦那様のためにも。今晩、カシの間でお休みじゃないでしょうね?」

「そうしてはいけないかい?」

「奥様の部屋の隣じゃありませんか」

「だから?」

老人はいかにも動揺していたが、主人はわざとのように、助け船を出さなかった。彼はマンガンのほうを見て、ぶつぶつと独り言を言った。

「遠慮せずに言いたいことを言いたまえ、ミドルトン」ドミニーが促した。「ミスタ・マンガンは三代にわたってこの屋敷の事務弁護士を勤めてこられた。わたしの一族の歴史はすべてご存じだ」

「打ち解けられないのは、旦那様のほうなんですよ、まったくの話」ミドルトンはどうにでもなれといわんばかりに話しつづけた。「一回り大きくおなりになって、お声も厳しくなったような気がするんです。思っていることを言いたいんですが、なんだか気後れしちまって」

「辛い経験をしたからね、ミドルトン。変わっても不思議はないさ!気にしないで男同士で話をしよう」

「旦那様があの晩、ふらふらしながら家に戻ってきたとき、最初に出っくわしたのがわたしでした。片腕をだらんと垂らし、血がお顔とお召し物を伝い、目に赤い炎がともっていましたよ――人殺しの炎ってやつでさ。奥様がヒステリーを起こすのが聞こえました。狂ったように笑ったり泣いたり。それからは、ああ神様!ずっとそのままでいらっしゃる」

二人の男は黙っていた。ミドルトンは激しく興奮し、大きな声を出していた。一呼吸間をおいたのは、明らかにただ息を継ぐためだった。話はつづいた。

「奥様がナイフをつかんで、あなたに向かってきたとき、わたしはおそばにおりました。覚えていらっしゃるでしょうが、奥様を背中から取り押さえて、あの晩、二つめの悲劇が起きるのを防いだのはわたしなんで。それから奥様が夜中に旦那様の部屋に忍びこんで、一センチ差で喉を刺しそこね、次の朝、お医者様を呼びに行ったのもわたしでした。奥様が旦那様に向かって声を振り絞り、脅かすのが聞こえました。あれは狂った女の脅しでしたよ、旦那様。奥様は今も気が触れてます。奥様がナイフをお持ちになったら、この屋敷のなかにゃ旦那様が安全でいられるところはありません」

「凶器を持たせないように注意しなければならないね」ドミニーは静かに言った。

「無駄なことですよ」ミドルトンはあざ笑うように言った。「おそばにアンサンクがいるんですから!奥様はあの晩の恐ろしさに頭が変におなりになったが、アンサンクは憎しみのあまり変になっているんです。それにですよ」老人は声をひそめ、目をぎらぎらさせた。「ロジャー・アンサンクの幽霊があの二人の窓の下にやってきて、一週間に一度はかならず旦那様の血を求めてうなり声をあげるんです。今晩ここにお泊まりになるなら、旦那様、屋敷の反対側に小部屋が用意してありますから、そちらでお休みくださいまし」

ミスタ・マンガンは夕食後の落ち着いた表情を失っていた。顔は歪み、コーヒーは冷たくなりかけていた。今の話は、ときどき彼のもとに届く曖昧な手紙や噂とはずいぶん異なっていた。彼は物質主義者として、そうしたものをとことん軽蔑し無視してきたのだが。

「警告してくれてありがとう、ミドルトン。しかしドアには鍵がかかるだろう?」

「カシの間に鍵をかける?」話にならないといった調子だった。「そんなことして何の役に立つんです?あの部屋の壁は三方が二重になっていることはよく知っていらっしゃるでしょう。このわたしですら知らない秘密の入り口があるんですよ。今晩、カシの間にだけは泊まっちゃいけません、旦那様。あの二人が静かにしているのは、あの部屋で旦那様をしとめようとしているからです」

「どういうことなんだい、ミドルトン」弁護士が訊いた。彼は無関心を装うとしたが、失敗していた。「ロジャー・アンサンクの幽霊の叫び声を聞いたっていうのは」

老人は辛抱強く振り返った。

「そのままの意味ですよ、先生。ほとんど毎週、家の周りをうろつくんで。ミセス・アンサンクを除けば、たまにわたしが泊まるくらいで、もう何年も屋敷に寝泊まりする召使いはいません。女中のなかには村から来ているのもいますが、しかし彼らは夜になる前に帰りますんで。それから朝まで、生きている人間は一人もここに来やしません――百ポンドやると言っても断られます」

「叫び声と言ったね?」ミスタ・マンガンが訊いた。

「怪我をした犬の鳴き声によく似てます」ミドルトンは平然と説明した。「犬みたいといっても、わしらが聞いた感じではちょっぴり人間ぽいところがあるんですがね。先生も、たぶん、今晩か明日の晩あたりお聞きになるでしょう」

「じゃあ、君は聞いたことがあるんだね、ミドルトン」主人が尋ねた。

「そりゃ、もちろんですよ、旦那様」老人は驚いたように答えた。「この十年間、ほとんど毎週ですよ」

「起き出して正体を確かめたことはないのかい?」

老人は頭を振った。

「あれが何かくらいちゃんと分かってまさあ、旦那様。わたしは幽霊なんか探しに行きたくはありませんや。誰でも知ってるように、幽霊のなかにはこの世をうろつくやつらもいますからね。ロジャー・アンサンクの幽霊は毎週ブラック・ウッドとあの窓のあいだを行き来しているんです。でも幽霊なんか見たくもありませんや。縁起でもねえ。ベッドのなかで寝返り打って、耳を押さえます。ブラインドだってあげたことはありません」

「ミドルトン、ドミニー夫人は、この――何ていうか――霊の出没を怖がっているんだろうか?」ドミニーが訊いた。

「そいつはわたしには分かりません。奥様はいつも愛らしくて、お優しいし、誰にも分けへだてなく親切なお言葉をかけてくださります。しかし奥様の目には今でも浮かんでいるんです、旦那様がよろよろとお屋敷に戻ってきたあの晩にともった恐怖が。その恐怖はまだすっかり消えてはいないようです。奥様は恐怖を抱いていらっしゃる。でもそれがあなたと再会することへの恐怖なのか、ロジャー・アンサンクの幽霊に対する恐怖なのか、そこのところは分かりません」

ドミニーは急にこの話題を切りあげてしまいたいという、おかしな衝動にかられたようだった。彼は優しい言葉で、しかしやや唐突に、老人を引き取らせることにし、使用人部屋に通じる廊下まで、ずっとキジ狩りの話をしながら老人を送った。戻ると、客は二杯目のブランデーを飲み干し、こっそり額の汗をぬぐっているところだった。

「あれこそ長生きしすぎた使用人の逸品ですな。わたしが中世のドミニー家の者なら、やつの首に石を結びつけて、うんと深い井戸に放りこんでやります。それがいちばんいいあしらい方だろうと思いますよ。まったくこっちまでぞっとしてしまった」

「気がついていたよ」ドミニーは軽く笑いながらいった。「わたしにとっても確かに楽しい会話じゃなかったね」

「お化けの話は幾つか聞いたことがありますが、十年間も毎週やってきて叫び声をあげるというのは、そうあるもんじゃない」

ドミニーはしっかりした手つきでブランデーを注いだ。

「怠慢だぞ、マンガン。この家から悪霊を祓い清めておくべきだったのに。君とわたしとで、まず悪魔祓いをしなければ、せっかく集めてくれた聡明な女中たちが明日にはいなくなってしまう」

ミスタ・マンガンはしだいに人心地がついてきた。ブランデーと燃えさかる薪の暖かさが身体のなかに染みこんできた。

「ところでサー・エヴェラード」彼は少ししてから尋ねた。「今夜はどこで寝るつもりです?」

ドミニーは悠然と手足を伸ばした。

「どう考えても一カ所しかないじゃないか。誰も失望させるわけにはいかない。カシの間で寝るよ」

第十章

悪夢がゆっくりと現実の恐怖に変わっていった。その最初のもつれた瞬間に、ドミニーはアフリカに戻って、敵に喉元を押さえつけられている自分を見ていた。それから目覚めた記憶がどっとばかりに押し寄せてきた――広大な屋敷の静けさ、自分の身体が横たわる、黒い樫材の四柱式寝台、そのまわりで謎めいた衣擦れの音をたてる重い垂れ布、そして喉を軽く突き刺す命に関わる何か――そうしたものが非現実のカーテンを押しのけてきた。彼はほとんど呆然とするしかない自らの状況を鋭く、痛いほど理解した。彼は目を開けた。物怖じしない、冷ややかな心の男だったが、恐怖に動きを封じられ、麻痺したようにじっと横たわっていた。火を灯されたばかりの蝋燭の明かりが、喉元に突きつけられた千枚通しのような短剣を照らし出している。彼はぎらぎらする細い鋼鉄を魅入られたように見つめた。すでに皮膚は破れ、血が数滴パジャマの襟にしたたっていた。命を奪う凶器を持つ手――小さくて細い、ひどく女性的な手が、ベッドの垂れ幕の背後から湾曲しながらのびている――姿の見えない何者かの手。彼は枕の上に身体をずらそうとした。手は彼のあとを追い、柔らかな白い袖口がかいま見えた。彼はそのままの体勢で横たわっていた。右腕の筋肉が、その残忍な手に飛びかかろうと、緊張していた。すると声がした――ゆっくりした、女らしい、実に不思議な声だった。

「動いたら命はありません。じっとしていなさい」

ドミニーは完全に意識を取り戻し、脳は活発に動きはじめた。死を逃れようとする熟練ハンターのように狡智を振り絞って、彼は可能性を探った。しぶしぶ彼は観念せざるを得なかった。どれほどすばやく動こうとも、隠れた敵がその言葉通りのことをするなら、細い短剣が首に突き刺さることは避けられない。彼はおとなしく横になっていた。

「どうしてわたしを殺そうとするのだ?」緊張した声で彼は尋ねた。

返事はなかった。しかしなぜか相手がじっと見つめていることは分かった。腕の突き出た垂れ布のあたりが、ほんのわずか開いた。隙間を通して誰かが彼のほうを見ていた。助けを呼ぼうと思ったが、またもや見えない敵に心を読まれた。

「静かになさい」と声は言った――子どもが発したとしか思えないような声だった。「ささやき声より大きな声を出したら、命はないわ。顔を見せてちょうだい」

裂け目がさらに少しだけ広がった。彼は希望を感じはじめた。短剣を持つ手は震えだし、垂れ布の背後から荒い息づかいが聞こえた――驚いたか、あるいは恐怖したときの女の息づかいだった――そして次の瞬間、残酷な凶器を握った手は垂れ布の陰に引っこみ、女は笑い声をあげはじめた。あまりにも突然のことで、彼は動くことも、その状況を利用することもできなかった。最初は静かな笑い声だったが、やがて場違いな陽気な調子に、ややヒステリックな嗚咽が混じりだした。

彼は催眠術にでもかけられたようにベッドに寝ていた。初めのうちは、悪い夢を見て金縛りにあったかのように手足が言うことをきかなかった。笑い声が絶え、壁をこするような音がし、蝋燭が不意に消された。それから彼の神経は元に戻りはじめ、手足が動かせるようになった。彼は垂れ布から離れるようにベッドの反対側へにじり寄り、拳銃と懐中電灯を置いた小テーブルの方へそっと移動した。それらをひっつかむと、右手に銃を構え、大きな部屋の暗闇に向かって電灯の小さな円い光りを当てた。再び恐怖のようなものが彼をつかんだ。ベッドの脇に立っていた人影は消えていた。見たところどこにも隠れる場所はない。強力な電灯が部屋の隅々を照らし出したが、彼以外、部屋には誰もいなかった。そのことに気がつくや、背筋がぞっとし、平静さを失った。しかし喉の傷のかすかな痛みは、この訪問が少しも超自然的なものではないことを示す、説得力のある証拠だった。部屋のあちこちに置かれた六つあまりの蝋燭に火をつけ、懐中電灯を置いた。彼は額から汗がしたたっていることを恥じた。

「秘密の通路だ、言うまでもない」彼はしばらく身をかがめて隣室と彼の部屋を隔てる鍵のかかった折りたたみ戸を調べた。「考え直してみると、不必要に危険を冒したのかもしれないな」

ドミニーが窓辺に立ち、北海の灰色のうねりを眺めていると、パーキンスが朝のお湯とお茶を持ってきた。彼はスリッパをつっかけ、部屋着に腕を通した。

「いちばん近いバスルームを探して風呂の用意をしてくれ、パーキンス。部屋の配置をすっかり忘れてしまったよ」

「かしこまりました、旦那様」

彼は主人のパジャマについた血を見て、一瞬動きを止めた。ドミニーは目を下に向け、部屋着をかき合わせて首を隠した。

「今朝ちょっとした事件が起きたんだ」彼は何気なく言った。「夜中に幽霊は出たかい?」

「何も聞いておりません、旦那様。ロンドンから来た若い女中ですが、わたしがこちらに来て最初の晩に聞いたものを彼らも聞いたなら、引き留めるのは難しいと思います」

「身の毛もよだつってやつかい?」ドミニーは笑いながらいった。

パーキンスは表情を変えなかった。しかしその口調は主人の不真面目を暗黙のうちに非難していた。

「あの叫び声くらい恐ろしいものは聞いたことがありません。わたしは神経質ではないのですが、あれにはひどく動揺させられました」

「人間かね、それとも動物?」

「両方が混じり合ったような声でした」

「アフリカの森のはずれで一夜を明かしてごらん。野生動物の交響楽だよ。どれも血が凍りそうな声だ」

「わたしはボーア戦争で南アフリカに行きました。そのあと、主人について猛獣狩りにも行きました。アフリカにもいないと思いますよ、一昨日の晩、わたしが聞いたような不気味な叫び声を出す動物は」

「調べる必要があるな」

「廊下の突き当たりのバスルームに、もうお風呂の用意ができています。よろしければご案内します」

一時間後、下に降りると、小さい方の食事室で弁護士が彼を待ち受けていた。その部屋は東向きで、海に面しており、天井が高く、大きな窓があった。壁のところどころに手入れの行き届いていないタペストリーが掛けられ、部屋のなかに色あせた栄光の面影を漂わせていた。ミスタ・マンガンは予想に反してぐっすり眠ったらしく、上機嫌だった。サイドボードに並ぶ銀皿の列が彼をいっそう朗らかな気持ちにさせた。

「昨晩は幽霊はお出ましにならなかったんですな?」そう言いながら彼はテーブルについた。「ロンドンに住んでいると、この水を打ったような静けさがすばらしく感じらられますね。実を言うと、枕に頭を載せてから、ついさっき目が覚めるまで物音一つ聞こえませんでした」

ドミニーは大盛りの皿を持ってサイドボードから戻ってきた。

「わたしもたっぷり休んだよ」

マンガンは片眼鏡をはめて、主人の喉元を見つめた。

「切ったのですか?」

「カミソリを持つ手が滑ったんだ。アフリカにいるあいだに使い方が下手になった」

「えらい傷になってますよ」ミスタ・マンガンは不思議そうに訊いた。

「パーキンスが新しい安全カミソリを持ってきてくれる。さて、今日の予定なんだが、君のほうで構わなければ、午後の二時半に出かけようと思って車の用意をしておいた。朝のうちは静かに屋敷のなかを見て回ろう。ミスタ・ジョンソンは近くの農家に泊まっている。途中で彼を拾っていこう。それから土地管理人のリーズに一緒に来るよう伝えておいた」

マンガンは頷いて賛意を示した。

「いや、まったく、修理やら何やら、彼らの要求をまじめに聞いてやれるのは嬉しいですな。ジョンソンのところがいちばんひどかったんですよ、可哀想に。ロンドンのわたしの事務所まで来てうるさく責め立てるのも一人二人いました」

「借地人にはもう不自由な思いはさせないつもりだ」

ミスタ・マンガンはおかわりをしようとサイドボードのほうへ向かった。

「ノーフォークの借地人を満足させることは不可能ですよ。でも、最近は、文句が出るのも当然というケースがあることは認めなければなりません。ウェルズの近くに八百エーカー近い土地を耕している男がいるんですが――」

話は中断した。ノックの音がしたのだ。普通のノックの音ではなく、規則的な、ゆっくりとしたノックで、それが三回くり返された。

「入りたまえ」ドミニーが大きな声で呼びかけた。

ミセス・アンサンクが入ってきた。朝の硬い光りのなかで前よりさらに峻厳な、人を寄せつけない姿に見えた。彼女はテーブルの端に来て、座っているドミニーに向かい合った。

「おはよう、ミセス・アンサンク」

彼女は挨拶を無視した。

「伝言がございます」

「聞かせてくれ」

「奥様が、今すぐお部屋に来ていただけないかとおっしゃっています」

ドミニーは椅子の背に凭れ、あからさまに敵意をむき出す女の顔にじっと視線を注いだ。彼女は長く伸びた朝の光のなかに立っていた。顔の皺、引き締められた口、冷たい、鋼鉄のような目が、どれもはっきりと浮かんで見えた。

彼は相手の反応を試すつもりでこう言った。「どんなものかな。今妻に会うことが望ましいとはとても思えないのだが」

使いの者を動揺させようとしてそう言ったのなら、結果は期待はずれだった。

彼女は軽蔑をこめた口調でこう言った。「心配はご無用と、奥様から特に強く申しあげるように言われました」

ドミニーは負けを認め、コーヒーをもう少し注いだ。他の二人は、どちらも彼の指が震えていることに気がつかなかった。

「それは優しい心遣いをいただいた。君の後からすぐ行くとお伝えしてくれ」

ドミニーはさっそく呼び出しに応じ、地味ながらも趣味の良い大部屋に招じ入れられた。色あせた白と山吹色の壁、つやつやと輝くシャンデリア、みすぼらしいが値のつけられないほど貴重なルイーズ・カーンズの家具。驚いたことに、ミセス・アンサンクはいつの間にか姿を消していた。彼は会いにきた女性と初めから二人きりにされたのだった。

彼女は長椅子に座って、彼が近づくのを見ていた。女?どう見てもまだ子どもだった。青白い頬、大きな不安そうな目、額から後ろに流した髪。自分は強い人間ではなかったのか、大いなる大義にこの身を捧げたのではなかったか。喉元におかしな感情がこみあげ、靄がかかったように目の前がぼやけた。彼女はあまりに脆く、どこまでも愛らしく、痛ましかった。一度見たら忘れられないその目には常に不思議な光りが宿っていた。いや、それともそれは光りの欠如だろうか。彼の口から挨拶の言葉は出てこなかった。

「わたしに会いにいらしたのね、エヴェラード」彼女は途切れ途切れに言った。「とても勇敢なのね」

彼は彼女の手を取った。数時間前には短剣を握りしめ、彼の首に突きつけていた手である。それから蝋のようなその指に口づけをした。それは命なきもののように彼女の脇にだらりと落ちた。彼女は手を持ちあげ、彼の唇が触れたあたりを軽くこすりはじめた。

「言いつけに従って来たよ。心を弾ませてね」

「心を弾ませて!」彼女はぞっとするような薄笑いを浮かべた。「言葉遣いが上手になったようね、エヴェラード。この屋敷でお休みになったのに、まだ生きていらっしゃる。わたしは約束を破りました。どうしてからしら?」

「あなたに命を狙われるほどの価値はない人間だから」

「おかしなことを言うわね」彼女は記憶を探った。「聖書のどこかになかったかしら。『命には命を』とか。あなたはロジャー・アンサンクを殺したわ」

「あれ以来、自分を守るために何人も人を殺したよ。殺すか殺されるか。ときどき男はそんな状況に追いこまれる。あれはロジャー・アンサンクが――」

「あの人のことはもう話したくありません」彼女はごく静かに断言した。「一昨日の晩、彼の霊が窓の下からわたしに語りかけたの。地獄に来い、そして一緒に暮らそうと。考えただけでもぞっとする」

「さあさあ、別の話をしよう。どんな贈り物を買ってあげたらいいのか、教えてほしいな。お金持ちになってアフリカから帰ってきたんだから」

「贈り物?」

彼女の顔はほんの一瞬、おもちゃを与えられた子どものように輝いた。期待を秘めた笑顔は愛くるしく、あの妙にうつろな表情が目から消えた。しかし彼が次の言葉を発する間もなく、すべてが元に戻ってしまった。

「聞いて。大事なことなの。あなたを呼んだのは、どうしてか分からないけど、昨日の晩、急にあなたを殺したいと思わなくなったからなの。あんなにかたく決心していたのに。今はその気持ちがすっかり消えてしまった。もう自分が何を考えているのか分からない。椅子をもっと引き寄せなさいな。いえ、わたしの隣に来たらいいわ。ほら、長椅子のこっち側へ」

彼女はスカートを寄せて、場所を空けた。座ると彼は手足におかしな震えが走るのを感じた。

「たぶん誓いを守ることはないわ。もう破ってしまったんですもの。あなた、お顔を見せて。変な気持ちだわ。あんなに長い月日が経ったのにまだ――夫がいるなんて」

ドミニーは毒々しいまでに甘く澱んだ空気を吸いこんでいるような気がした。何もかもが現実離れした感触を持っていた――部屋も、この子どものような女も、彼女の美しさも、ゆっくりとつかえながら話すさまも、彼女が語る異様なことどもも。

「わたしは変わったかな?」

「びっくりするくらい変わったわ。前より力があふれているし、ハンサムになったかもしれない。でも、お顔から何かがなくなっている。なくならないと思っていたものが」

「君はずっときれいになったよ、ロザモンド」彼は用心深く言った。

彼女は寂しそうに笑った。

「きれいになっても何の意味もなかったわ、エヴェラード、あなたがわたしの粗末な家に来て、わたしを愛し、わたしにあたなを愛させ、陰気なロジャーからわたしを奪ってからは。学校の生徒たちがあの人のことを陰気なロジャーって綽名していたことを覚えている?でもそんなことはどうでもいい。エヴェラード、あなたがわたしを置き去りにしてから、わたし、お庭の外に出たことがないのよ。知ってる?」

「これからは違うよ、君が望むなら」ドミニーは急いで言った。「行きたいところに行けるようになるんだ。車を買って、町に別邸だって建ててあげる。うんと有能な医者を連れてきて、君をもう一度丈夫にしてもらう」

彼女は大きな目をあげて、哀れみを乞うように彼を見つめた。

「でもどうしてここを離れられるというの?」彼女は悲しそうに尋ねた。「毎週一回、ときによるとそれ以上、彼がわたしに呼びかけてくるというのに。わたしが行ってしまったら、彼の霊がここを飛び出して、わたしを追いかけてくる。わたしはここにいて、手を振ってやらなければならないの。そうしたら彼は向こうへ行ってしまうから」

ドミニーはまたもや例の奇妙な、予想もしていなかった感情がこみあげてくるのを意識した。もう自分の気持ちすら分からなくなっていた。今まで胸がこんなふうにときめいたことはなかった。眼までかっと熱くなった。彼は新奇なものを探して世界中を旅したが、結局この異様な、色あせた部屋のなかで、心を病む女と並んで座っているときにそれを見いだしたに過ぎなかった。それでも彼は静かにこう言った。

「もっと親切な人がいる、楽しいところへ君を送らなければならないな。きっと音楽や美しい絵を見るのは好きだろうね。君が考えこまないように気をつけないといけないな」

彼女は途方に暮れたようにため息をついた。

「あなたを殺したいなんていう気持ちが、血のなかから消えてしまえばいい。そうしたらすぐにでもあなたに受け入れてもらえるのに。他の夫婦は憎み合いながらも一緒に暮らしている。どうしてわたしたちもそうできないの?わたしたち、もしかしたら憎むことすら忘れてしまうかもしれない」

ドミニーはふらつく足で立ちあがり、窓のほうへ歩み寄って、それを開け放ち、しばらく外に身を乗り出していた。新たにつけ加わったこの要素は彼にショックを与えた。そのあいだ、彼女は平然と彼を見ていた。

「どうなの?」彼女は得体のしれない薄笑いを浮かべた。「おっしゃって。昨日の晩、あなたを震えあがらせた手を、妻の手として握ってくださる?」

彼女は柔らかな温かい手を差し出した。彼が指に力をこめると、彼女の指も力がこもった。彼女は楽しそうに彼を見、彼は再び見知らぬ国にさまよいこんで、方角が分からくなった男のように感じた。

「君にはうんと幸せになってほしい」彼の声はかすれていた。「でもまだ身体が丈夫になってないね、ロザモンド。焦って決めることはないさ」

「わたしがあなたに優しくしようとするから驚いているのね。でもそうしちゃいけない理由がある?急に心変わりしたわけは分からないでしょうけど――でも変わったのよ。この短い時間のあいだに、本当のことが見えたの。あなたを殺しちゃいけない理由があるの、エヴェラード」

「どんな理由だい?」

彼女は秘密を隠している子どものように、嬉しそうに頭を振った。

「あなたは頭がいいから、自分で考えてご覧なさい。どきどきしてきたわ。しばらく座をはずしてくれないかしら。ミセス・アンサンクを呼んでちょうだい」

解放されることになって、彼は不思議な安堵を感じた。しかし、さらに不思議なことに、そこには残念に思う気持ちも含まれていた。彼は彼女の手を放さずにいた。

「今晩も寝ながら歩き回るつもりなら、短剣は置いてきてほしいな」

「言ったじゃない」彼女は驚いたように言った。「わたしは気が変わったの。あなたは殺さない。寝ながら歩き回ったとしても――ときどき夜がとても長いことがあるわ――わたしが求めるのはあなたの死ではないのよ」

第十一章

ドミニーは夢のなかをさまようように部屋を出た。階段を降りて自室に戻ると、帽子と杖をつかみ、見る間に庭を覆いつくさんとする海霧のなかへ踏み出した。氷のように冷たい蒸気の雲には、北極の寒気がありったけ詰めこまれている。しかしそれにもかかわらず彼の額は熱く、脈は燃えるようだった。壁に囲まれた庭の裏門を抜けると、広々とした沼地があった。あちらこちらに水路が走り、潮が満ちると海水が舐めるように舌を伸ばしてくる。彼はおぼつかない足取りで海のほうへ進み、舗装していない石だらけの道に出た。そこでしばらくためらい、周りを見回していたが、直角の方向に向きを変えた。やがて小さな村に着いた。乾燥した赤煉瓦造りの古い家々、こぎれいな狭い庭、背の高い楡の木に囲まれた教会、そして道が交差するところには三角形の芝地があった。一方の側には、低い、わらぶき屋根の建物が見えた。ドミニー・アームズという居酒屋である。反対側には古ぼけた四角い石の家があり、真鍮の表札がかかっていた。近づいて名前を読み、ベルを鳴らすと、応対に出たやせた女中に医者との面会を求めた。しばらくすると若々しい見かけの中年男が診療所にあらわれ、一礼した。ドミニーは一瞬あっけにとられた。

「ハリソン先生にお目にかかりたいのですが」

「先生は数年前に引退なさいました」丁寧な答えが返ってきた。「わたしは先生の甥です。スティルウェルと申します」

「先生はまだこの近所にお住まいだろうと思っていたのですが。わたしはドミニーです。サー・エヴェラード・ドミニー」

「そうじゃないかと思っていました。伯父はわたしとここに住んでいます。実を言いますと、伯父はあなたを待っていたのですよ。伯父は一人の患者さんだけを引き続き診ているんです」スティルウェル医師は重々しくつけ加えた。「誰のことかはお分かりでしょう」

訪問者は礼をした。「妻のことですね」

若い医師はドアを開け、客に先に入るように身振りで勧めた。

「この家の裏に伯父の小部屋があります。ご案内しましょう」

彼らは気持ちのいい、白い石の廊下を通って、小さな部屋のなかに入っていった。フランス窓からは石畳のテラスとテニス用の芝生コートが望めた。肩幅が広く、日焼けしていくぶん深刻な表情を浮かべた白髪の老人が窓のほうから後ろを振り返った。彼はそれまで窓に向って毛鉤の箱を調べていたのだった。

「叔父さん、古いお友達をお連れしました」

医師は、待ちわびていたという目でドミニーを見やり、挨拶するように前に進み出たが、ぴたりと立ち止まると、疑わしそうに頭を振った。

「確かに古い友人とよく似ているが、どうやらあなたは別人のようだ。お目にかかったことはまだないと思うが」

束の間、やや緊張した沈黙が流れた。ドミニーはぎこちなく前へ進み出ると手を差し出した。

「どうしたんです、先生。そんなに変わっているはずありませんよ。確かに試練の月日が続きましたが――」

「まさか今話している相手がエヴェラード・ドミニーだというんじゃないだろうね」医師が口を挟んだ。

「まぎれもなくわたしです!」

医師は冷ややかに握手を交わした。長年かかりつけの医者を勤めてきたにしては、名門一族のあるじに対して気持ちのこもっていない歓迎の仕方だった。

「名乗ってくれなければ、君だとは分からなかった」

「しかし、ここにいるのは間違いなくわたしです。相変わらず趣味に打ちこんでいるようですね、先生」

「毛鉤釣りをはじめたのは、狩りを止めてからだよ」

またもや気まずい沈黙が流れた。若いほうの男がその隙間を埋めようとした。

「釣りと猟とゴルフ。暇つぶしがなかったら、わたしたちみたいな哀れな田舎医者はいったいどうしたらいいのでしょう」

「それならあとでお誘いをさしあげましょう。狩りといえばドミニー家の人間が今でも得意とするところですから」

「楽しみに待っていますよ」即座に返事が返ってきた。

再び毛鉤の箱の上にかがみこんでいた伯父は不意に振り返った。

「アーサー、回診に行きなさい。サー・エヴェラードはわたしと二人きりで話をしたいだろうから」

「たしかにお話があるのですが、しかし専門家としての意見をお聞きしたいのです。別に――」

「とっくに出かける時間なんです。それじゃわたしは失礼します。ところでサー・エヴェラード」彼は声をひそめて、相手を軽くドアのほうに引っぱっていった。「伯父が少々無愛想だとしても大目に見てやってください。伯父はドミニー夫人に献身的に尽くしています。ときどき心配しすぎじゃないかと思うのですが」

ドミニーは頷いて、部屋に戻り、医師を見た。流行遅れのズボンを穿いた医者はポケットに両手を突っこみ、つくづくと彼のほうを見ていた。

「とても信じられんな、あんたが本当にエヴェラード・ドミニーだなんて」彼の話し方はいささかぞんざいだった。

「でも、残念ですが、本物と認めざるを得ないでしょう」

老人は品定めするように彼を見ていた。「今の君とわたしが記憶している数年前の君は全然一致しない。酒に溺れて見る影もないと聞いていたが」

「世間は嘘つきだらけです。少なくともそのうちの一人とお会いになったようですね」ドミニーは穏やかに答えた。

「不摂生の跡さえない」

「わたしの一族は頑健にできているんです。ワインを二本、平気で空けるような人間が代々名を連ねていますから」訪問者は無頓着に言った。

「イギリスを逃げ出してから肝も据わったらしいな。昨日の晩は屋敷に泊まったのかね?」

「他にどこで寝たらいいんです?ついでに言うと、自分の寝室で寝たんですが、その報いを受けましたよ」ドミニーは顎をあげて喉元の傷を見せた。「別にどうということはないんですが」

「当然だよ。わたしに相談もせずに屋敷へ行くなんて、そんな権利は君にない。あんなことが起きたあとだ、奥様に会う権利だってあるものか」

「わたしの家庭問題に厳しい意見をお持ちのようだ」

「君の過去を知っているからだよ」彼はそっけなく答えた。

ドミニーは勧められもしないのに、安楽椅子に腰掛けた。

「先生はいつもわたしに厳しかった。ですが、今は純粋に専門家としてお話していただけませんか」

「わたしが厳しかったのは、君がいつも自分勝手なけだものだったからだ。この世でいちばん優しい女性と結婚しておきながら、悪い癖を直そうともしなかった。そして別の男の血に手を染め、ふらふらと家に帰り、彼女を怖がらせ、正気を失わせた。それから自分の罪を償おうともせず、十年以上も家を離れていた」

「それはちょっと一方的すぎる見方じゃないでしょうか。もう一度お願いします。余計な話はさておいて、専門家としての見解をお聞かせ願えませんか」

「ここはわたしの家だ。それに君のほうがわたしに会いに来たんだ。わたしは好きなことを言うよ。それが嫌なら出ていくがいい。ドミニー夫人のためでなければ、ここの敷居をまたぐことだって許さなかっただろう」

ドミニーは口調を和らげた。「それでは妻のために、わたしに対するその徹底した非難の気持ちを忘れてもらえませんか。わたしがここに来た目的はただ一つ。妻の健康を回復するために、あなたと一緒にできることがないか、教えてもらうためなのです」

「君とわたしが協力するなんてとんでもない」

「お手伝いいただけないのですか?」

「わたしが手伝っても何の役にも立たん。奥様の身体はあらゆる手段を尽くして治療した。今はすっかり健康を回復している。あとは君次第だ。君一人にかかっている。あまり期待はしていないがね」

「わたしにかかっている?」ドミニーは驚いて相手の言葉をくり返した。

「貞節はあらゆる善良な女の第二の天性だ。ドミニー夫人も善良な女であり、その例に漏れない。彼女の頭が枯渇しているのは、心が愛を必死に求めているからだよ。もしも彼女に君の後悔と改心を信じさせることができたら、もしも過去の償いが可能で、十分にそれがなされたなら、その場合はどうなるか分からない。君は金持ちになったそうじゃないか。昔のだらしない、勝手な君から考えると奇跡みたいな話だ。有名な医者を呼んでくることもできるだろう。治すことはできないかもしれないが、彼らに数百ギニーを払えば、君の良心は安らぐかも知れん」

「その人たちに会ってくれますか。誰を呼んだらいいのか教えてください」ドミニーは嘆願した。

「馬鹿なことを!わたしは現役を退いたんだ」にべもない返事だった。「わたしは誰にも会わないよ。もう医者じゃないんだ。一村人になったんだ。ドミニー夫人には古い友人として会いにいくんだ」

「どうしたらいいのか教えてください。専門家を呼んでもだめなのですか?」

「今のところ何の意味もないな」

「あのいとわしいミセス・アンサンクのことはどうです?」

「本気でやるつもりなら、あの女の処分は君の仕事の一部だ。彼女は奥様から太陽を隠すように立ちはだかっている」

「じゃあ、どうして今まで彼女を放っておいたんです?」

「一つには、他に代わる人がいなかった。それにドミニー夫人は、君こそ彼女の息子の殺人犯だと信じこみ、一種の罪の償いとして彼女を保護してやるべきだと、とんでもない考えに取り憑かれたからだよ」

「二人のあいだに情愛はかよってないとお考えですか?」

「これっぽっちもありはせん。ただドミニー夫人が優しくておとなしすぎるものだから――」

医者はふと言葉を切った。訪問者の指が首を撫でていたからだ。

「それは別だ」医師は荒々しく言った。「まさしくそこに彼女の心の病が残っているんだ。わたしの見るところ、ミセス・アンサンクはそこにつけこんでいる。そう言えば、ドミニー家に臆病者はいなかったな。君が勇敢さを取り戻したのなら、ミセス・アンサンクを追い出し、ドアを開け放って寝たまえ。一晩でもいい、ドミニー夫人がナイフを持って君の部屋に入ることなく過ごすことができれば、彼女は、いつかは、あの狂気から解放されるだろう。できるかね?」

ドミニーが躊躇していることは手に取るように分かった――そして動揺していることも。医師はあざ笑った。

「やっぱり怖いか!」

「先生がご想像なさっているのとは別の意味でね。妻はもうわたしの命を狙ったりしないと約束してくれたのです」

「じゃあ、君さえその気になれば、彼女を治してやることができる。それができれば、君は、人もうらやむ素晴らしい人生の伴侶を得ることになる。しかし君が楽しみにしていたこと、たとえば、町に別邸を建てたり、競馬やヨットに打ち興じたり、スコットランドでライチョウ狩りをしたり、そういうことは全部、あきらめろ。少なくともしばらくのあいだは、すべての時間を奥様に捧げなければならない」

ドミニーは椅子のなかでそわそわした。

「これから数ヶ月は無理です」

「無理だと!」

医師は鸚鵡返しに言った。まるで感嘆と軽蔑をこめて、その言葉を口のなかで転がしたかのようだった。

「わたしはもう以前のような怠け者ではないのです」ドミニーは顔をしかめて言い訳した。「今は、お金儲けには、いろいろな責任が伴ってくるんですよ。これから数ヶ月のうちに、ドミニー家の地所を担保にして借りていた金をみんな返す予定なのです」

「君が時間をどう使おうと、わたしの知ったことではない。わたしが言いたいのは、ただ、奥さんが治るとすれば、それは君のやる気にかかっているということだ。さあ、こっちへ来てごらん。窓の明かりの差すところへ。君の顔を見せてくれ」

ドミニーは軽く肩をすくめて求めに応じた。太陽は出ていなかったが、白い北極光が揺れ動いていた。それは赤茶けた髪にちらほら白髪が混じっていることや、きれいに刈りこまれた口ひげにも同じものがほんのわずか混じっていることを示した。しかし落ち着き払った目にも、引き締まった男らしい日焼けした顔にも、どことなく傲慢な唇にも、衰えは全く見られなかった。医師は鉤針の箱を再び取りあげ、ドアのほうを顎でしゃくった。

「君は奇跡だ。しかしわたしは奇跡が嫌いだ。一両日中にドミニー夫人を訪ねるよ」

第十二章

ドミニーは不思議なほど穏やかな午後を過ごした。彼と接触した人々にとってもこの上なく満ち足りた午後だった。愛想よくお世辞を並べるミスタ・マンガン。地主は満足し、借地人は大喜びというめったに見られぬ光景に、思わず心を弾ませる代理人のミスタ・ジョンソン。この二人を左右に従え、彼はドミニー家の地所をほぼぐるりと一回りしてきたのだった。帰宅した時間は遅かった。しかしドミニーは別世界の住人のように見えて、客に対するもてなしをおろそかにしなかった。ミスタ・ジョンソンと管理人のリースはワインのマグナム瓶が開けられるのを生まれて初めて見たようだった。ミスタ・ジョンソンは咳払いをして、グラスを掲げた。

「サー・エヴェラード、借地人を代表してあなたの健康に乾杯を唱えたいと思います。借地人のなかには苦労の絶えなかった者もいます。しかし白人らしく耐えてきました。彼らとわたしの気持ちをこめて乾杯させてください。これからもお元気な姿を見せてくださいますように」

ミスタ・リースもそれに和し、グラスはたちどころに乾され、また満たされた。

「ご承知でしょうが、サー・エヴェラード、今日お約束なさったことには一万から一万五千ポンドの費用がかかりますよ」と代理人が言った。

ドミニーは頷いた。

「今晩寝る前に、ウェルズにある君の銀行の不動産口座に二万ポンドの小切手を送る。そのための金はもう用意してあるのだ。そうだ、君に持って行ってもらおうか」

代理人と管理人は半時間後、大きな葉巻をくわえ、心地よいさざ波のような暖かさが血管を駆けめぐるのを感じながら、車の後部座席に寄りかかっていた。二人ともおとぎの国へでもさまよいこんだような気分だった。全く信じられないようなことが起きた、と彼らは思った。

「奇跡だね」ミスタ・リースは言った。

「現代の夢物語だよ」小説好きのミスタ・ジョンソンはつぶやいた。「おや、屋敷に客が来たようだね」一台の車が彼らの横を走り抜けたとき、彼はそうつけ加えた。

「しかも裕福そうな紳士だ」とミスタ・リースが言った。

「裕福そうな紳士」とはオットー・シーマンだった。彼は小さな旅行かばんを手にして大いに恐縮しながら屋敷にあらわれた。

「ノリッジに行っていたんだよ、サー・エヴェラード。そこでずっと商売をやっているんだが、お客さんの一人に対応する必要ができてね。早く片づいたし、ここが三十マイルしか離れていないことが分かると、居ても立ってもいられなくなった。泊まっちゃ都合が悪いというなら、遠慮無く――」

「とんでもない。部屋はいくらでも空いている。火を起こして、昔ながらのあんかを入れればいいだけさ。ミスタ・マンガンは覚えているかい?」

二人は握手し、シーマンは遠出で渇いた喉を潤すために飲み物を受け取った。晩餐前のベルが鳴っても、彼はしばらくその場に残っていた。

「彼はいつ帰る予定だ?」

「明日の朝、九時」

「じゃあ、それまで黙っていよう。あまり君につきまとっているように見られてもいけない――本当は来たくなかったのだが――緊急の用件があってね」

「マンガンには早めに寝てもらうか」

「わたし自身、早起き鳥なんだよ。昨日は徹夜したし。話は明日でいい」彼は疲れたように答えた。

その日の晩餐は楽しくなごやかなものになった。ミスタ・マンガンはとりわけ上機嫌だった。過去十五年間、ドミニー家に関係した話はことごとく貧窮の匂いを放っていた。実際、帳尻を合わせるために彼は一方ならぬ苦労をしいられたのである。怒鳴りこんできた借地人との不愉快な話し合い、不満を抱く抵当債権者との公式会見、そんな嫌な仕事をこなしても、歳の終わりに得る利益は目を剥くほど少なかった。新しい事態は至福境といってもいいくらいだ。そこに仕上げの一筆を加えたのが、パーキンスだった。彼はデカンターを二つテーブルに置きながらこんなふうに祝賀の言葉をささやいた。

「旦那様、五十一年もののコックバーンの大箱がありました」彼は弁護士にも聞こえるようにそっと耳打ちした。「味見なさりたいのではないかと思い、二本ほどお持ちしました。ミスタ・マンガンはなかなかの通でいらっしゃるようですし。コルクは申し分のない状態のようです」

「これからはペルメル街の堅苦しい高級クラブには行けなくなるな」ミスタ・マンガンはため息をついた。

シーマンはその晩、まだ宵のうちだというのに、ひどく眠いといって部屋に引き取り、屋敷の主人とマンガンが二人きりでポートワインを飲むことになった。ドミニーは主人役としてよく気のつくほうだったが、そのときはどことなくぼんやりした様子だった。観察力の鋭くないミスタ・マンガンでさえ、主人からある種の厳しさ、ほとんど傲慢といってもいい話し方や態度が、一時的に消えてしまったことに気づいた。

彼は一杯目のワインを飲みながら言った。「サー・エヴェラード、由緒ある一族が、いわば再興を遂げることになり、わたしがどれだけ嬉しく思っているか、とても言葉にできません。しかしこう言っては何ですが、最後の締めくくりに一つだけやることが残っていますな」

「何だい、それは?」ドミニーはぼんやりした声で尋ねた。

「ドミニー夫人の健康を回復することです。覚えておいででしょうか。わたしはあなたが結婚なさったとき、奥様とお近づきになる特権を得た、数少ない人間の一人なんですよ」

「今朝、結婚以来、ずっと彼女を診ている医者に会ってきたよ。彼もわたしと同意見で、妻が完全に治る見こみがないわけじゃないと話していた」

「では、勝手ながら、その希望に乾杯させてください、サー・エヴェラード」

二つのグラスはきれいに乾されてテーブルに置かれた。ただドミニーのグラスは脚が二つに折れてしまった。ミスタ・マンガンは気遣いを示して残念そうに言った。

「こういう古いグラスは非常にもろくなりますな」彼は感心しながら自分のグラスを見つめていた。

ドミニーは返事をしなかった。脳裏に奇妙な幻が浮かんでいたのだ。彼は部屋の陰からステファニー・アイダーシュトルムが両腕を伸し、昔の誓いを果たすように呼びかけているのが見えたような気がした。そしてその後ろには――

「君は人を愛したことがあるかい、マンガン」

「わたしですか?さあ、どうでしょう」世間を知り尽くした男も突然の質問にいささか驚いた。「愛なんて今どき流行らないんじゃないでしょうかね」

ドミニーは思いに沈んだ。

「そうだろうね」と彼は言った。

その夜、荒涼とした灰色の海のかなたから嵐が吹き出した。その到来を告げる風がごうごうと沼地を渡り、ドミニー邸の格子窓を揺るがし、煙突のあいだや、いくつもある屋敷の角で悲鳴をあげ、泣き叫んだ。黒雲が陸地に垂れこめ、土砂降りの雨ががたつく窓枠と窓ガラスを叩いた。ドミニーは寝室の大きな蝋燭に火を灯し、部屋着をしっかりまとうと、安楽椅子に腰をおろし、横にある読書灯の向きを調節して、本を読もうとした。ほどなく本が彼の指から滑り落ちた。彼は急に緊張し、油断なく注意を払った。ベッドの左側の羽目板を一つ一つ目で数えた。聞き覚えのあるカチリという音が二回くり返された。とたんに暗い空間があらわれた。それから女が身体を低くかがめながら部屋のなかに入ってきた。蛾が蝋燭の半円形の光に惹かれるように、彼女はゆっくりと彼のほうに向かってきた。髪は少女のように後ろに垂らしている。彼女をふわりと包む白い半透明の部屋着は、ふとボンド・ストリートの一流商店街を思い起こさせた。

「怖くはないでしょう?」彼女は案じるように尋ねた。「ほら、手には何も持ってないのよ。もうあんな気持ちには二度とならないと思うわ。昨日の晩、わたしが持っていた短剣を覚えている?今日、井戸に捨てちゃったの。ミセス・アンサンクがとても怒っていたわ」

「怖くはないさ。ただ――」

「まあ、わたしを叱るつもりじゃないでしょうね。わたし、嵐が怖いの」

彼は背の低い椅子を一つ、小さな光の輪のなかに持ってきてクッションを置いた。彼女はそこに沈みこみながら、不意に彼のほうを見上げて微笑んだ。得も言われぬ愛らしい、こぼれるような笑みだった。ドミニーは一瞬、心臓をナイフでひと突きされたような気がした。

「ここで休んだらいい。何も怖がることはない」

「わたし、ちゃんとわかっている。この嵐はわたしたちの生活の一部なのね。私たちが生まれるとともにやってきて、わたしたちが死につかまるときは世界を揺さぶるんだわ。怖がってはいけない。でも、わたしはずっと悪い病気にかかっていたのよ、エヴェラード。今もエヴェラードって呼んでいいかしら?」

「もちろんだよ。どうしてそんなことを聞くんだい?」

「だってあなたは、ちっともエヴェラードらしくないんですもの。何かがなくなって、何かがつけ加わったわ。同じあなたじゃない。何なのかしら?アフリカで辛い目にあったの?向こうで人生がどういうものか、学んだのかしら?」

彼は椅子に凭れて、しばらく彼女を見ていた。椅子はわずかに暗闇のなかへ押しやられていた。彼女の髪は鮮やかな光沢を放ち、そのせいで彼女の肌は今までになく白く、きめ細かく見えた。目は輝いていたが、訴えるような、子供が傷つけられることを恐れるような表情があった。長いあいだ邪な情熱に振り回されていたとはとても思えないほど彼女はひどく幼く、ひどく華奢だった。

「向こうでいろいろなことを学んだんだ、ロザモンド」彼は静かに言った。「正しい行いと悪い行いの区別も少しは学んだ。人生の情熱は、ただ一つをのぞいて、いつかは燃えつきるということも」

彼女は部屋着の飾り帯をひとしきり指で弄んでいた。彼が今語ったことは、彼女の理解と興味の外にあるかのようだった。

「わたしのことはもう恐れることはないのよ、エヴェラード」そういう彼女はどこか哀れだった。

「ちっとも恐れてなんかいないさ」

「じゃあ、どうして椅子をもっと引き寄せて、わたしの近くに来ないの?」彼女は目をあげて尋ねた。「風の音が聞こえる?わたしたちに向かって猛り狂っている。怖いわ!」

彼は彼女の横に移動し、その手を優しく取った。指に力を入れると、彼女の指もすぐに反応した。彼が語りかけたとき、その声はほとんど自分のものとは思えなかった。かすれた、押し殺されたような声だった。

「あんな風に君を傷つけさせたりはしない。いや、他の何ものにも手を出させはしない。君を護るためにわたしは帰ってきたのだから」

彼女はため息をつき、疲れた子供のように微笑んだ。頭をクッションのなかにさらに沈めると、同時に彼女は目を閉じた。

「そのままでいてちょうだい。何かとっても新しいことがわたしに起ころうとしている。安らかだわ。今までこんなに甘い、安らかな気持は感じたことがない。どこにも行かないで、エヴェラード。手を放さないでね、このまま」

蝋燭は蝋燭立てのなかで燃えつき、風はいっそう猛々しく唸りをあげた。嵐の雲を割って朝日が差しはじめる頃、風はようやく収まった。いつの間にか青白い光りが部屋のなかに入ってきていた。女はまだ寝入っていたが、その指は相変わらず彼の指をしっかりとつかんでいるようだった。寝息は変わることなく微かで、規則正しかった。絹のような黒いまつげは白い頬の上でじっとしている。唇は――完璧な形の唇は――静かな線を描いて休らっていた。彼は、なぜか分からないが、この眠りのなかに新しいものが存在していることに気がついた。目はしょぼつき、手足は痛んだが、彼は座ったまま夜を過ごした。タペストリーで飾られた壁を小さな背景として、夢が次から次へと立ちあらわれては消えていった。彼女が目を開けて彼を見たとき、眠りについたときに見せた、あの同じ微笑みが彼女の唇をほころばせた。

「とってもくつろいだ気分。気持ちがいいわ。わたし、夢を見たのよ。素敵な夢」

火は消えていて、部屋は寒かった。

「さあ、部屋に戻らないと」

彼女はごくゆっくりと指を放し、腕を差しあげた。

「抱いていって。まだ半分眠っているの。もう一回寝たいわ」

彼は彼女を持ちあげた。彼女の指が首の回りにまといつき、彼女の頭は満足のため息とともに後ろにのけぞった。彼は折りたたみ戸を開けることができず、彼女を抱いていったん廊下に出てから、彼女の部屋に入った。そして乱れていないベッドの上に彼女を横たえた。

「寝心地はいいかい?」

「とっても」彼女は眠そうにささやいた。「キスして、エヴェラード」

彼女の手は彼の顔を引き寄せた。彼は唇を額に押しつけた。それから毛布をかけてやると、逃げるように部屋を出た。

第十三章

入れかわった男 · 第 3 / 8 段