「分かっているのかね?七時にアイダーシュトルム王女のお宅に伺う予定だってことは」
「そうだってね」とシーマンは答えた。「しかし心配することはないさ。王女は分別もあるし、政治に対して見識のある女性だ。すっかり気を許すことはお勧めできないが、つかず離れず慎重に立ち回ることはできるだろう」
「何を言っているんだ!王女はレオポルド・フォン・ラガシュタインとしてのわたしとわたしの自由を断固要求しているんだぞ。下手をすればエヴェラード・ドミニーの将来をめちゃくちゃにするかもしれないんだ」
シーマンは帽子と手袋と杖をサイドボードの上に整然と並べた。隣の寝室を覗いてからしっかりと扉を閉ざし、安楽椅子に座って手足を伸ばした。
「わたしの向かいに座りたまえ。話をしよう」
ドミニーはやや不機嫌そうに従ったが、相手は彼の顔色を無視した。
「さて、君」彼は一方の掌を他方の人差し指で叩きながら言った。「わたしは商売人だから割り切った話し方をするよ。われわれの立場を確認しようじゃないか。今からちょうど三ヶ月前に、われわれはケープタウンのあるホテルで約束の面会を果たした」
「まだ三ヶ月か」ドミニーはつぶやいた。
「お互い相手のことは何も知らなかった。わたしが聞いていたのはフォン・ラガシュタイン男爵が献身的なドイツ市民で愛国者だということ、そしてハンガリーで不幸な事件を起こしたが、皇帝の特別な計らいにより、東アフリカで重要な任務に就いているということだけだった」
「決闘で人を殺したんだよ」ドミニーは相手から視線をそらさずゆっくりと言った。「しかし一方的にわたしが悪いわけではない」
「決闘はいくらでもある。二人の若者が同じ身分の若い女性の名誉のため、あるいはその人を伴侶にするため闘うことは、決してわが宮廷のしきたりに反することではない。しかしハンガリーきっての名門貴族の令室を愛人にし、さらに彼女をわがものにせんと夫を殺す。夫が自分の名誉を守るためには避けられなかった決闘で。こうなると話は全然違ってくる」
「王子を殺すつもりはなかった。だいたい顔をつきあわすことだって望んでいなかった。王子は狂ったように向かってきた。猛然と襲いかかろうとして足を滑らせ、わたしが動かさずに構えていた剣の切っ先に突っこんだ」
「そのことは問題にしないことにしよう。わたしは君のような身分の人間じゃないから、そうした作法を十分理解していない。わたしはただ皇帝陛下の目に映ったとおり、君を犯罪人として見ている。皇帝が君に個人的な犠牲をしいるのは当然だと思う」
「よかったら教えてくれないか。皇帝はこのうえ何を望んでいるんだ?わたしは神もいない、熱病に取り憑かれた国でうんざりするような歳月を過ごし、わが国の兵力になるよう、現地人の大部隊を育てた。他にも植民地で政治的任務をこなし、それもいつかは実を結ぶ日が来るだろう。わたしはわたしのためにもともと計画されていた仕事をするはずだった。その仕事のためにわたしはイギリスで教育を受けたのだ。ケープタウンで君と協議したあと、なりすますことになった人物になってイギリスに来る。そしてこの国の人にできるだけ好ましい印象を与えるようにする、という段取りだった。しかしわたしは君と会うまで待たなかった。絶好の機会が訪れたから、利用することにしたのだ。イギリスの郷士に変身し、今までのところはけちのつけようがないくらい順調に進展している。それは君も認めるだろう」
「まったく君のいう通りだよ。君は別人になりすましてわたしとケープタウンで会った。確かに見事な変身だと思ったよ。君のおかげで怖ろしく出費が重なったが、われわれはお金のことで不平は言わない」
「帰国しても貧乏じゃどうしようもないじゃないか。イギリスの社交界に出て行きようがない。君がわたしの味方になることを望んでいる人々だって、喜んで迎えてくれなかっただろう」
「その点も不満はない。金はうなるほどある。糸目はつけんよ。同時に忠誠心も出し惜しみしてはならない」彼は厳粛な口調で言った。
「この場合は忠誠心が問題なのじゃない。エヴェラード・ドミニーはヨーロッパでもっとも情熱的な女性の一人、アイダーシュトロム王女の足下に身を投げ出すわけにはいかないのだ。彼女とレオポルド・フォン・ラガシュタインの情事はまだ人々の記憶に残っている。忘れないでくれ、われわれがそっくりだということがいつ問題になるか分からないんだよ。われわれはここイギリスで、パブリック・スクールと大学を通じて、ずっと友人だった。われわれがよく似ていたことを覚えている人はまだたくさんいる。どんなに完璧な演技をしても、ときには疑惑を抱かれるかもしれない。王女の馬車の車輪にくくりつけられ引っ張り回されたら疑惑どころではなくなる」
シーマンはしばらく黙っていた。
「君のいうことにも一理ある」ほどなくして彼は認めた。「たった数ヶ月のことなんだが。君はどうすればいいと思う?」
「すぐにわたしの代わりに王女に会ってくれないか」ドミニーは強く言った。「わたしはしばらく政治的な理由で世間に対しても彼女に対してもエヴェラード・ドミニーでなければならないのだと教えてやるんだよ。わたしはサー・エヴェラード・ドミニーとして、今日はじめて出会った佳人に、良識の範囲内で友情と賛嘆の念を捧げよう。それで満足するように説得するのだ。わたしは全身全霊で彼女に尽くすよ。しかしたとえ彼女の部屋で二人きりになろうが、客間で会ったときと同じように、わたしは任務が終わるまでエヴェラード・ドミニーなんだということを、忘れてもらっては困るのだ。たぶん君は余計な心配をしているように思うかもしれないが、わたしはそうは思わない。わたしは王女を知っているし、自分を知っている」
シーマンは時計を見た。「約束は何時だい?」
「約束じゃないよ。あれは命令だった。七時にベルグレイブ・スクエアに来るように言われたんだ」
「王女の理解を取りつけてこよう」シーマンは帽子を取りあげながら約束した。「八時に戻ってきたら下で食事をつきあってくれ」
ドミニーが一時間後、下に降りていくと、友人のシーマンはとっくにレストランの片隅にある小さな離れたテーブルに着いていた。ドミニーは軽い手振りで迎えられ、すぐにカクテルが注文された。
「君の使い走りをしてきたよ。行ってみて、なるほど、君の不安が少しだけ分かった」
「王女に会ったことはなかったんだろう?」
「なかったよ。恐ろしく気性の激しい女性だな」シーマンは唇の端をにやりと歪めてつづけた。「来年の八月頃は、君、王女のお相手で目が回るほど忙しくなるぞ」
「そのときになれば、何とかなるさ」彼は落ち着き払って言った。
「さしあたり王女は状況を理解してくれたし、感銘も受けていたようだ。とにかく無分別な真似はしないだろう。今から数時間後に君と彼女は会うことになっている。しかし、道理をわきまえてのつき合いだ。さてさて!王女との会見を終えてここに戻るとき、そろそろ君がここに来たいちばんの理由である人物に会うときが来たと思ったのだが」
「ターニロフか?」
「その通り!君は……」ウエイターがカクテルを運んできて、もう一人のウエイターが晩餐の注文を聞いた。その短いあいだ、シーマンは話を中断した。「ロンドン到着後直ちに伝えられることになっていた次の指示のことを、君は今まで慎重に、しかも賢明にも一言も尋ねたことがなかったね。指示は文書で渡されることはない。今、口頭で伝える」
シーマンは額に手を当て、残りの酒を飲み干した。
「わたしが受けた命令は、君を絶対的に信頼すべし、大事変が起きるまで、なりかわった男として自然な生活をするよう大いに努めるべし、というものだ」
「そうだ」シーマンは同意した。
彼はまるで客筋でも確かめるように、しばらくレストランのなかを見回し、ようやく盗み聞きされる恐れはないと確信して話をつづけた。
「もし君が自分はスパイだと考えているなら、まずその考え方を捨てなければならない。君はスパイなんかじゃない。わが国の見事なまでに完璧な諜報活動とは少しも関係がない。何を言おうが、何をしようが、完全に自由な個人だ。ドイツを信じてもいいし、恐れてもいい。お好きにどうぞというわけだ。君の伯父の国民兵役推進運動に加わるのもいいし、両国市民の友情と親愛を深めるわたしの努力に協力してくれてもいい。われわれはまったく気にかけないよ。自分で役柄を選びたまえ。サー・エヴェラード・ドミニー、ノーフォク州ドミニー邸の男爵になりきって生活しろ。サー・エヴェラードが進みそうな道を進むのだ」
「ずいぶん寛大だね」
「常識で考えてみたまえ」すぐに相手は答えた。「君がどんなに力を尽くしたところで、半年ではどちらの方向にも目につくほどの進展はあり得ないだろう。だから君には一つの任務、それだけに全精力を傾けてもらうことにした。ここでの君の任務にスパイ行為が含まれているとしても、君が注意を向けるべきはイギリスでもイギリス人でもない。全神経をターニロフに向けるのだ」
ドミニーはぎくりとした。
「ターニロフ?わたしは彼と組んで仕事をするものだと思っていたのだが――」
「先入観を捨て去るのだ。ターニロフに対する君の任務は状況が進展するにつれ次第に分かってくるだろう」
「しかしまだ顔見知りにもなっていない」
「さっき話そうとしていたのだが、今晩十一時に大使館で会う約束を取りつけておいた。君はその時間に彼に会いに行くんだ。いいかい、忘れるなよ、君は何も知らず、指示を待っているのだからな。もっぱら彼に話をさせろ。特に気をつけなければならないのは、これから何が起きるのか、知っているようなそぶりを一つも見せないこと。彼は現状に満足しきっている。何ら不満を抱いていない。彼を動揺させないよう注意しろ。彼は平和の使節なんだ。君と同じようにね」
「分かりかけてきたよ」ドミニーは考え込むように言った。
「君の出番が来たとき全てが分かるだろう。熱心さのあまり忘れないでくれ、われわれの大いなる目的にとって君が有用なのは、イギリス人紳士として君が立場を確立し維持できるかどうかにかかっているということを。ここまではいいか?」
「わたしのほうは完全に理解した。しかしそちらもしっかりやってくれなければ困る。ベルリンはわたしの失踪のことで東アフリカから半狂乱の連絡を受け取るだろう。腹心の部下にもこの秘密は知らせていなかったから」
「了解している。シュミットとかいう健気な医者が狂ったように電報を打って政府の金をやたらと浪費している。ずいぶん慕われていたんだな」
「彼は忠実きわまりない部下だった」
「それが厄介きわまりない友人になったよ。どうやら現地人が、藪の中で死んだ同名の男を君と勘違いしたらしい。そしてシュミットは君がケープタウンから連絡するはずだったとさかんに強調している。しかしこれはうまく処理した。唯一、本当の危険はこちらイギリスのほうにある。君はその最大の危険との出会いをもうすませてしまったようだね」
「とにかくわたしはいちばん近い親戚に受け入れられたよ。しかも偶然だが、われわれの未来を見通しているイギリス人を一人見つけた」
シーマンは一瞬、不安そうな様子をした。
「誰のことかね?」
「ウースター公爵、わたしの従姉妹の旦那だよ。今君が話していた男だ」
小男の顔から緊張が消えた。
「彼はカピトリウムの神殿を救ったガチョウたちを思い起こさせるよ。頭の悪い、一つの考えに取り憑かれた男だ。こういう狂信者がしばしば真実を発見するのだから妙なものだ。そういえば」彼はチョッキのポケットからメモ帳を取りだしページをめくりながら言った。「公爵様は今晩ホルボーン市庁舎で会合を開くことになっている。いつものように邪魔をしに行ってやるつもりだ」
「たいした支持者もいないのに、どうして放っておかないんだ?」ドミニーは訊いた。
「彼とつながりを持っている連中のなかには侮れない人物もいる。それに邪魔しに行けば、わたしのささやかな趣味の宣伝にもなる」落ち着き払った答えが返ってきた。
「彼ら――われわれイギリス人は変わり者なんだ」ドミニーは考えるように一呼吸を置いたあと、部屋を見回しながら言った。「われわれは桁外れの富を持っていると吹聴し自慢するが、それを守るために自己犠牲を払うことが全くできない。哲学者、歴史家たちが、争う余地のない厳密な演繹法を用い、有無を言わさぬ言葉遣いで、未来に警告を発していてもよさそうなものなのだが」
「代名詞の使い方が見事だ」シーマンは軽くお辞儀をしながら言った。「今の発言についていうと、イギリス人は――失礼、君の同国人だが――決して不愉快なことには気づこうとしない連中だよ。嫌なことが起きても駝鳥みたいに砂のなかに頭を隠してぬくぬくしているほうが好きなのだ。しかし一般論はさておき、ノーフォークにはいつ行くつもりだ?」
「二、三日中に」
「あそこに君が無事収まることができたら、わたしももっと自由に息ができるだろう。街だけでなく田舎でも、君がサー・エヴェラード・ドミニーとして完全に受け入れられて初めて大計画が可能になるのだ。君の、何と言えばいいのかな、家庭における立場はあらゆる点に渡って把握しているんだろうね?」
「必要なことは全部把握している」彼の答えはどこかぎこちなかった。
「必要なことだけじゃ充分じゃないんだ」シーマンは苛々と言った。「あの酔っぱらいのイギリス人から話という話をみんな引き出したと思っていたのだが」
「たいがいのことは話したよ。ただ一つか二つ、どう質問しても答えてくれない点が残った」
シーマンは怒ったように顔をしかめた。
「要するに、君は紳士であろうとしたということだな、ドイツ人ではなく」
「ある階級のイギリス人は、仮に堕落していても、一種の頑固さを失わないんだ。そしてある特定の事柄に関しては決して口を割らない。われわれはあの最後の晩に夜通し語り合った。ワインとブランデーを飲みながら。わたしは辛い思いをしながら自分の追放の話をし、彼の目の前にさらけ出した。しかし聞きながら彼は何かを隠しているとずっと思っていたし、今もそう思う」
しばらく沈黙があった。わずか数分の間に、二人のあいだにある種の緊張感が漂いだしていた。それとともに二人の個性も際だってくるようだった。ドミニーは今まで以上に貴族の風格をあらわし、シーマンはふてぶてしく貪欲に目的を実現しようとするさもしい陰謀家に見えてきた。やがて彼はテーブル越しに軽く身を乗り出した。細められた目は鋼鉄のように光り、いつもより歯をむき出している。
「君はあいつの喉元から情報を引っ張り出すべきだった。君の義務は女々し感傷に浸ることではない。君は偉大な大義に身も心も捧げたのだ。君がこの国においてドミニー邸のエヴェラード・ドミニーでありつづけることが、来るべき一大事変のあと、どれほど重要な意味を持つか、とても言葉では表現できない。プロシア貴族が世界で誰よりも個人の名誉を大切にすることはよく知っている。しかし君の階級に属する人間で国家のために嘘をついたり騙したりする覚悟のない者は一人もいない。君もそれに従わなければならないよ。もう一度言おう。君がエヴェラード・ドミニーと認められることがわれわれにとって重要なのはターニロフの一件だけではないのだ。そのあとの計画にも関係しているのだ――いや、この話はもうやめよう。君には分かっていると思うんだ。むきになりすぎたね。十一時までどう過ごすつもりだい?君は世捨て人になってイギリスを離れたわけじゃないからね、サー・エヴェラード。気晴らしの趣味を持たなければならないよ。ミュージック・ホールなんてどうだい?」
「考えることが一杯でそれどころじゃない」ドミニーは言い返した。
「それならわたしと一緒にホルボーンに来たらいい。憂さ晴らしになるだろう。入り口で別れて、君は見られないようにホールの後ろに座るんだ。義理の従兄弟の感銘深い熱弁が聞けるよ。偉大にして強欲なドイツが将来脅威となって待ちかまえているだろうと、イギリスの一般人に説いているところをね。どうだい?」
「行こう」ドミニーは気のない返事をした。「とにかくミュージック・ホールよりはましだ。シーマン、ここでの任務でいちばん難しいのは、やりたくもないのに楽しみごとにふけらなければならないってことじゃないかな」
相手は握り締めた拳で軽く、しかし苛立たしげにテーブルを叩いた。
「おい、君は若いんだぞ!まるでわたしら年寄りみたいな言いぐさだな。君の人生は君の手のなかにある。過去の悲しみをぐずぐず引きずってはだめだ。そんな記憶は水に流し去れ。陰気な心持ちくらい人間を狭くするものはない。過去の幽霊がときどきやってきてとりつくのだろうが、しかし忘れるな。その罪の責任を全面的に君が引き受ける必要はないんだ。それに君が望むならいつだって度を過ぎない程度に償いをはじめることができる。そのことは充分話したじゃないか。偉業と快楽は共存する。そうら!わたしはプロパガンダの教授になる前は哲学者だったのさ。よしよし!笑顔になったね。少しはしゃべった甲斐があった。それじゃあタクシーでホルボーンに行こう。とびきり面白いものを見せてあげる」
市庁舎の玄関に着くと、シーマンの指示で二人は二手に分かれ、別々のドアからなかへ入った。ドミニーは張り出し席の下の奥まったところに座った。そこなら演壇から見られることはなさそうだった。一方シーマンは人目につきやすい前列の長椅子の端に座った。集会は少しも混み過ぎてはおらず、熱狂的過ぎることもなく、極端にどうということは何もなかった。誰も座っていない幾列もの長椅子、荒れ模様の夜空から雨宿りに入ってきたらしい多くの若い男女、集会に参加することは社会的地位のある人間にはふさわしい振る舞いだと考えているらしい、逞しく立派な身なりの商人たち。真剣な関心を持つ者も何人かいたし、そこここには、明らかに少数派ではあったが、熱烈な支持者がいた。演壇には公爵がいて、両側には町のお偉方が並んでいる。著名な軍人、下院議員、誰とも知れぬ近所の住人、そしてバートラム大尉である。ドミニーが隅に席を占めたとき会合はちょうどはじまるところだった。
まず公爵が立ちあがり、陳腐ながらも熱のこもった言葉で若い友人バートラム大尉を紹介した。話の途中でさっそく立ちあがった大尉は落ちつかない様子で、少なからず厳しい表情を浮かべていた。彼は将校を辞職したので思っていることを自由に話せると説明した。そしてドイツにおける大規模な軍備と国中に拡がる緊張感について話をした。この準備は誰に対するものなのか。疑問の余地はない、ドイツ最大の敵対国に対してだ。しかるにそこにいる何百万もの若者は、この危機に際してさえ土曜日の午後にサッカーやらクリケットにうち興じ、あるいは観戦し、自らの義務を自覚しようとしない。まとまりは悪いがひたむきな演説だった。しかしその結論は夕刊売りの少年の闖入によって中断され、年若い聴衆はほんのいっとき会合を忘れて満足そうにサッカー優勝戦の結果を確かめた。それから下院議員の雄弁が議会演説の名調子でつむじ風のように彼らを襲った。彼は嵐の前の黒雲と冷たい風について語った。歴史をひもとき、偉大な国家も自己防衛を怠たれば崩壊することを指摘した。彼は全国の若者に向かって、女と家庭と神聖な祖国の土を守るために立ちあがれと檄を飛ばしたのだが、ちょうどそのとき眠そうにしていた聴衆の一人がふと目を覚ましたらしく、朗々たる声を張りあげて話に割りこんできた。
「海軍は何やってんです、先生?」
演説者は彼一流の壇上での身のこなしを見せ、さっと妨害者のほうを振り向いた。海軍はいかなる時でも期待に違わずその義務を果たすだろう、と彼は断言した。しかし海軍は陸地では戦えない。今、話を遮った若者は自分の義務を果たすために今晩、軍事教練と国民兵役に志願するつもりはないだろうか、云々。有名な軍人は風邪をひいていたため、拍手に合わせてがらがら声を何度か張りあげただけだった。集会の掉尾を飾ったのは公爵だった。彼は有名な軍人を除いた誰よりも真摯で、聴衆のみんなから尊敬のこもった注目を浴びた。二、三の歴史的事例を引用し、男たちには真剣な気構えと市民としての義務感をいっそう育むことを求め、女たちにすらより強い責任感を持つことの重要性を説き、ちょっとした熱狂的喝采がわき起こるなか、彼は座席に着いた。議長に対する感謝決議が提案されようとしたとき、ミスタ・シーマンがその場に立ちあがり、議長に向かって短い発言の許可を訴えた。ミスタ・シーマンとは何度か顔をつきあわせたことのある公爵は厳しい目で彼を見たが、ミスタ・シーマンが聴衆を見回すその笑顔は気さくで愛嬌があったので、彼は許可を与えるほかなかった。シーマンは階段をあがって壇上に立つと、申し訳なさそうに咳払いをしてから公爵にお辞儀をし、満座の視線を一身に浴びた。一言、二言、議長に対するお世辞を述べてから、彼は本題に入った。わたしはドイツ市民です――つまり血に飢えた民族の一人です。(笑い)わたしがここに立っているのは、皆さんよくご存じでしょうが、わたしが英独実業家友好促進同盟の設立者であり幹事でもあるからです。今晩聞かせていただいた発言のなかにはわたしを深く傷つけるものがありました。仕事の関係でわたしはよくドイツに行きます。わたしはドイツ人としての義務を果たすべく、次のことを言いたい。平均的なドイツ人はイギリス人を兄弟のように愛しています。わたしの人生の目的はイギリス人と親交を深めることであり、ドイツはまさにこの瞬間も、北海の向こうから血縁者たちに手を差し伸べ、いっそうの同情と理解を求めているのです。(聴衆から拍手、壇上からは不同意のつぶやき)またこちらの方々がさんざん耳になさったという軍備のことですが(と、バートラム大佐に厳しい視線を向ける)、しばしドイツの国境に目を転じてください。東からは強大な力を持つ宿敵が絶えず圧力をかけてくる。過去三十年間ドイツがどのような政治的困難に直面してきたか、いちいちお話して時間を無駄にする必要はないでしょう。ただ揺るがしがたい事実のみを申しあげます――ドイツが軍備を増強せざるを得ないのは、ロシアという敵があるからなのです。軍事力を行使するとすれば、それはロシアに対してであり、ロシアの挑発に対してです。わたしは微力ながらもわたしを生んだ愛する祖国と、わたしを養子に取ってくれた同じように愛する国の関係改善のために努力しているのです。このような集会は不当で許し難い疑惑を広めるだけであり、わたしの活動を阻害する最大の問題の一つです。壇上に居並ぶ方々が愛国の士であることは疑いをいれません。しかしこの偏見と悪意に満ちた宣伝活動をやめ、わたしの主催する会の後援者になっていただければ、ご自分に対しても国家に対してももっと有益な形で愛国の心を示すことができるでしょう。
シーマンが議長に向かってした会釈は気さくで、おおらかで、どことなく憂いを帯びていた。公爵はドイツの宣伝活動家がイギリスの愛国集会に侵入するとは憤慨を禁じ得ないと前置きして短く一席ぶったのだが、この望ましからざる外国人が与えた一撃はもう取り返しがつかなかった。集会が解散したとき、国民兵役に賛同した人が一人でもいたかどうか、疑わしかった。公爵はかんかんになって家路につき、シーマンは心から楽しそうに笑いながら、街角でドミニーがつかまえたタクシーに乗りこんだ。
「約束通り、面白いものを見せてあげただろう?」
ドミニーは謎めいた微笑を浮かべた。「確かに善意のお偉方を見事にからかってみせてくれたね」
「奇跡はそれだけに留まらないよ。今晩は、ささやかながら、民主主義の途方もない馬鹿さ加減を示す格好の夜となったのだ。イギリスは有り余る自由によってじわじわと首を絞められ窒息させられつつある。ジャムをたっぷり与えられた子供みたいなものだ。想像できるかね、われわれの愛する祖国でイギリス人が演壇にあがり、ドイツの利益に反するイギリス寄りの宣伝を邪魔されずにとうとうとまくしたてることが許されるなんて。いわゆるイギリス人の自由というのは、よその国の政治的信条を育てるカッコウみたいなものだな。国家は統治されなければならない。連中には自らを統治することはできん。戦争が来たらそういうことがみんな証明されるだろう」
「しかし国家の歴史において一大危機が訪れたときは、どんな場合であれ、いろいろな意見のあったほうがいいのじゃないかね?」
「いろいろな意見を言う奴はいつでもいるだろう。イギリスでもドイツでも。この国の問題はそれがことごとくおおっぴらに新聞雑誌を通して表現されることだよ。それぞれの見解に信奉者がいて、政府は分裂している。ドイツでは国家の運命の根幹は秘密裏に決められる。意見を言う連中もいるよ、真面目な頭のいい連中がね。でも彼らのさまざまな意見など誰も知らない。知らされるのは皇帝の口を通してきっぱり語られる結果だけだ」
ドミニーは珍しく相手の話に興味を示していた。目は輝き、普段は感情をあらさない顔が表情豊かになり、緊張しているようだった。彼はシーマンの腕に手を置いた。
「聞いてくれ。ここはロンドン、タクシーのなかで二人きりだから、盗み聞きされる恐れはない。君は皇帝に率いられた国家の強みを説くが、皇帝にこの先の仕事をやりこなすだけの力があると本当に思っているのかね?」
シーマンの細い目が光った。彼は満足そうに相手を見た。額にしわが寄り、絶えず浮かんでいた笑顔が消えた。彼は狡猾な男になった。
「アフリカの倦怠から回復しつつあるようだな!君は頭を使いはじめた。君が訊くからわたしも答えよう。皇帝はうぬぼれた、口先だけの夢想家だ。性格の破綻した、いつでも目立ちたがろうとする史上最大のエゴイストだ。しかし国民を支配する天才でもある。つまりこういうことだ。皇帝は助言者たちの知力を表現する素晴らしい媒体なのだ。助言者の言葉が皇帝の個性を通じて発せられ、皇帝はそれを自分の言葉と勘違いする。それだけじゃない。それは自分自身の言葉のような響きすらある。彼は自分が輝く鎧に身を包む騎士だと錯覚するだろう。自分をシーザーだと思いこんでいる男の前に全ヨーロッパが腰をかがめる。それがロバの頭なんだと気がついているのは、皇帝の後ろにいるわれわれだけさ。偉大な祖国をそれにふさわしい運命に導くにあたり、彼ほど都合のいい人間はこの世で見たことがないな。都合がつくなら、明日、このことをもう一度話し合おう。今晩、君は他に考えることがある。君はわたしなどにはとうてい入ることを許されない、高貴なお方のお宅に行くことになっているんだ。まだ一時間、着替えと準備の時間がある。十一時にはフォン・ターニロフ王子が君をお待ちかねになっているからね」
第七章
カールトン・ハウス・テラスの大使官邸では晩餐会に引き続き小さな歓迎会が催された。大使のターニロフ王子は最後の客である妻の従姉妹アイダーシュトルム王女に別れを告げていた。彼女は王子を脇に引き寄せた。
「大使、今晩ずっとお話したいと思っていたのです」
「わたしもです、ステファニー。まだ時間は早い。ちょっと座りましょうか」
彼は長椅子に彼女を導こうとしたが、彼女は頭を振った。
「十一時半に約束がおありですわね。邪魔をしたくありませんわ」
「じゃあ、ご存じなんですね」
「今日、カールトンのレストランでお昼をいただいたとき、応接間でレオポルド・フォン・ラガシュタインと鉢合わせしました」
大使は何も言わなかった。まず相手の言いたいことをみんな聞いてやろうとしているようだった。しばらく間をおいて彼女はつづけた。
「話しかけたら、人違いだと言ったのですよ。よりによってわたしに向かって!わたしの人生で最悪の瞬間でした。あんなに苦しい思いをしたことはない。あんな苦しみはもう二度といや」
「さぞつらかったでしょうね」王子は同情をこめてつぶやいた。
「今晩、ある男がわたしを訪ねてきました。最初はドイツの卑しい中産階級の一人だと思ったのですが、あとで正体が分かりました。その男の説明によると、レオポルドはこの国で諜報活動に携わっているのだそうです。今の名前は彼が教えてくれた通りサー・エヴェラード・ドミニー、アフリカで長いこと行方不明になっていたイギリス人男爵になりすましているのだと言うのです。あなたはこのことをご存じ?」
「今晩サー・エヴェラード・ドミニーが訪ねてくることは知っています」
「彼はあなたのもとで働くことになっているのね?」
「とんでもない」と王子は憤慨して言った。「わたしはこのスパイ組織を好ましく思ってはいないのです。わたしを育てた外交術の流派は、そんな浅ましい手段を用いたりしません」
「とにかくレオポルドは今晩ここに表敬訪問にくるのね」
「今、書斎でわたしを待っていますよ」
「彼に一言伝えてほしいの。先ほどのシーマンという男は、今わたしとレオポルドが親交を結ぶことは、それがどういう形であろうと賢明ではないと言いました。わたしは彼の言い分を全部聞きました。そのときは、わたしは態度を明らかにしませんでしたが、今は考え直しました。必要に対しては妥協しましょう。サー・エヴェラード・ドミニーとのおつき合い、それで満足しましょう。でも必ずおつき合いはさせていただくわ」
「わたしはフォン・ラガシュタインがどんな任務をおびてこちらに来ているのかさえ知りません。しかし、彼の正体を完全に隠すために、あなたとのおつき合いは望ましくないと政府が考えているなら――」
彼女は彼の腕に指をのせた。
「お黙りなさい」命令だった。「わたしは政府の人間ではありません。ドイツ人でもない。オーストリア人ですらないのです。わたしはハンガリア人、あなたたちの利益を図るのにやぶさかではないけれど、それをわたしの人生に優先させるつもりはありません。協定は結びますが、屈服はしません。協定の内容はレオポルドと話し合います。ああ、後生だから、わたしの願いを聞いて!」声の調子が急に変わった。「お昼のあの短いひとときからわたしはずっと夢のなかだった。わたしの心を鎮めることができるのはたった一つ。彼と話をしなければならない。これからどうするか彼と決めなければならない。助けてくれるわね?」
「あなたとサー・エヴェラード・ドミニーがおつき合いなさるのは、もちろん、少しもおかしなことではありません」
「わたしを見て」彼女は懇願した。
彼は振り返って彼女の顔を覗きこんだ。美しい瞳の下には黒い隈があり、弧を描く口はどこか痛々しかった。彼女は一晩中、その第二の天性ともいうべき威厳を崩さずにいたが、にもかかわらず彼は彼女の容貌に対して一度ならず同情的な声を聞いたことを思い出した。
「苦しんでいらっしゃるのですね」彼は優しく言った。
「わたしの眼は焼けるように熱い。身体の中では火が燃えさかっています。なにがあろうとレオポルドと話をしなければなりません。フレーダがわたしに、まだ帰らないで一時間ほどおしゃべりをしようと誘ってくれました。車は待たせてあります。彼にわたしを家まで送るようおっしゃって。ああ、わたしだってごく普通の女なのよ。それにわたしを木や石みたいに扱っても何の得にもならないわ。今晩なら人に見られず彼に会える。お断りになるなら、別の手段に訴えます。わたしは何一つ約束はしません。通りで遇ったら、面と向かって嘘つき呼ばわりしたり、偽者呼ばわりしないとも限らない。レオポルド・フォン・ラガシュタインと呼びかけて――」
「どうかお静かに!」彼は懇願した。「ステファニー、あなたは興奮していらっしゃる。わたしはまだあなたのお願いに対して返事をしていませんよ」
「聞き入れてくれる?」
「いいでしょう。この話が終わったら、若者をフレーダの部屋に連れて行って紹介します。あなたはそこにいてください。彼もあなたを家まで送り届けると申し出ることができるでしょう」
彼女は不意に身をかがめると彼の手にキスをした。計りしれない安堵が彼女の顔にあらわれた。
「これ以上は引き留めません。フレーダが待っている」
大使は物思いにふけりながら官邸の裏手にある書斎に入っていった。ドミニーが彼を待っていた。
「お会いできて嬉しいよ」大使は手を差し伸べながら言った。「最初の五分間はあなた本人に向かって話をしたい。そのあとはあなたの新しい人格を尊重しよう、イギリスにいるあいだは」
ドミニーは無言のまま一礼した。主人はサイドボードを指さした。
「さあ、あなたの横に葉巻と煙草がある。サイドボードにはウイスキーとソーダが。そちらの椅子に掛けて楽にしたまえ。アフリカに行っても、ちっとも変わらないね。初めて会ったときのことを覚えているかい、ザクセンで?」
「よく覚えております、大使」
「あの頃の皇帝は宮廷でおもてなしするのがお上手だった。イギリスの田舎のパーティーに出ているような気分になったよ。しかし昔話はやめておこう。あなたは、もちろん、知っているだろうね、あなたがいま、こちらでしていることを、わたしは少しもこころよく思っていないことを」
「そのようにうかがっています、大使」
「お互い遠慮なく意見を交換しようじゃないか」王子はそう言って葉巻に火をつけた。「あなたがこの国に張りめぐらされた諜報網の一部であることはよく知っている。もっともわたしはそんなものの必要を露ほども認めていない。これは目的を達成する方法の問題にすぎないがね。わたしはあなたがわたしと同じ目的でこちらに来たものと確信している。つまり皇帝がご自身の口から、御本心として話してくださった目的、ドイツとイギリスのあいだに友好の絆を築くという目的だ」
「それが可能だとお考えですか?」
「必ず可能だと信じている」真剣な答えだった。「こちらでの仕事がどのような性格のものになるのか知らないが、しかしわたしの信念を披露する機会が持てたのはよかった。思うに、ドイツ政府はこちらの有力政治家の何人かを誤解し、不正確な情報に基づいて判断している。わたしの周囲にいるのは平和を熱心に、真摯に求める人ばかりだ。この国にはドイツとの戦争を望むような政治家は一人としていない、わたしはそう確信するようになった」
ドミニーはじっと耳を傾けていた。思いがけないことを聞かされたような様子だった。
「ですが、大使、わが国の立場から見るとどうでしょう。あなたもわたしも知っての通り、ドイツでは大勢の人が、イギリスとの戦争は避けられないと考えています。誰もがドイツこそ世界最大の帝国にならなければならないと信じています。わたしたちの友人の一人がかつて言ったように、ドイツはイギリスという獅子の首に足をかけて、その地位に昇りつめなければならないのです」
「それは時代遅れの考え方だよ」大使が熱をこめて言った。「あなたがどうしてこちらに送られてきたのか、その理由がやっと分かった。そういう時代は過ぎ去ったのだ。この世界には大英帝国とドイツが共存できるだけの充分な余裕がある。近い将来、ロシアが瓦解するのは間違いないだろう。領土拡大を図るなら東に目を向けなければならない」
「それは確定済みの方針ですか?」
「当然だよ!それがここでのわたしの任務の核心なのだ。わたしが受けた命令は平和の命令だ。イギリスの政治家を観察し、イギリスの見解を理解すればするほど、自分の努力が成功するという自信があふれてくる。だからこそシーマンが大きく関与している諜報活動は、わたしにはときどき賢明でもないし不必要だと思われるのだ」
「わたしの任務もですか?」
「それがどういうものなのか、まだ明らかにされていない。しかし、もしわたしが考えるように、わたしの任務と密接に関連しているなら、きっとその内容は平和をめざすものになるだろう」
ドミニーはいとまごいをしようとして立ちあがった。
「そのうち分かるときが来るでしょう」彼は低く言った。
「もう一つだけ、少々個人的なことで話がある」ターニロフの口調が変わった。「アイダーシュトロム王女が今、二階にいらっしゃるのだ」
「この官邸にですか?」
「あなたと話をしようと待っている。わたしたちの友人シーマンが今晩、王女を訪ねていった。王女は現状を受け入れるつもりらしい。しかし一つだけ条件をおっしゃたのだ」
「条件とは?」
「わたしにサー・エヴェラード・ドミニーを紹介してほしいというのだよ」
ドミニーは動揺を隠そうともしなかった。
「大使、申しあげるまでもないでしょうが、どのような形であれ、王女とわたしが交渉を持つことは、こちらでのわたしの立場を非常に困難なものにする危険があります」
大使はため息をついた。
「よく分かっている。シーマンもわたしも説得しようとした。しかし、あなたもたぶん知っての通り、王女はたいそう意志の強いお方だ。またこちらで大変な影響力を持っていらっしゃる。それにベルリンの王宮がうるさく要求してくるのだよ、ハンガリーの貴族である彼女を手を尽くしてなだめろと。もちろん、わたしが政治的な観点からしかしゃべっていないことことは理解してくれ。あなたがお亡くなりになった王子と不幸な関係にあったという事実を無視はできないが、しかし現状に鑑みれば、あなたもより大局的な立場に立つことを忘れはしないと思うのだ」
訪問者はしばらく黙っていた。
「王女はこちらで待っているのですね?」
「妻と一緒にいるよ。あなたに家まで送ってほしいとのことだ。妻もあなたと旧交を暖めることを望んでいる」
「この件については大使のご判断に従います」ドミニーは決心した。
ターニロフ王女は国際的な教養を持つ芸術家だったが、しかしそれでいて素晴らしく魅力的な女性だった。彼女は夫が連れてきた訪問者をひどく愛らしい小部屋で迎えた。ごく簡素なノルマン王朝風の部屋だった。彼女はどことなく気まずいその場の雰囲気を和らげようと一生懸命だった。
「ロンドンにお迎えすることができて、こんなに嬉しいことはありませんわ、サー・エヴェラード・ドミニー」と彼女は握手しながら言った。「これからはちょくちょくいらしてくださいね。わたしの従姉妹を紹介しましょう。あなたに興味を持っていますのよ。包み隠さず申しあげますとね、あなたが彼女の親しい友達によく似ていらっしゃるからなの。ステファニー、こちらはサー・エヴェラード・ドミニー。こちらはアイダーシュトルム王女」
ステファニーは従姉妹が立ちあがった椅子に座ったままドミニーに手を差し出した。ドミニーは深く、慇懃な一礼を返した。彼女が着ていたのはなんの飾りもない黒一色のガウンだった。見事なダイヤモンドが首の回りに輝き、ハンガリー風のティアラがやや額にかぶさるようにつけられていた。彼女の態度と声には、まだ幾分、このような状況に対する憤懣がこもっていた。
「今朝、間違ったことをしつこく申しあげたこと、許してくださいね」と彼女は言った。「人違いとは、とても信じられなかったものですから」
「他の人からも似ていると言われます。自分がノーフォークの男爵でしかないことが悔やまれますね」
「以前、ヨーロッパの王室に出入りなさったことは?」
「一度もありません」
「旅行なさらないわりにドイツ語が素晴らしくお上手ね」
「外国語だけは、ろくに勉強しなかった学生時代から得意でした」
「ノーフォークに埋もれて人生を送るつもりじゃないでしょうね、サー・エヴェラード?」ターニロフ王女が尋ねた。
「最近はノーフォークとロンドンの距離がとても近くなりました。それにここ数年、孤独はもう充分すぎるほど味わってきました。時にはこちらへ来ようと考えております」
「いつかお食事にいらしてください」と王女が言った。「アフリカの話をしてくださいな。夫がとても聞きたがっています」
「ご親切にありがとうございます」
ステファニーがゆっくりと立ちあがり、優雅に身をかがめると、女主人の両頬にキスをし、王子に向かって手を差し出した。王子はそれに唇を当てた。それから彼女はドミニーのほうを振り向いた。
「家まで送っていただけますか?」と彼女は訊いた。「そのあとわたしの車でお好きなところへいらっしゃればいいわ」
「喜んで」ドミニーは承諾した。
彼も別れの挨拶をした。玄関で召使いから帽子とコートを受け取ると、車に乗りこみ、彼女の横に座った。発車すると彼女は電気のスイッチに触れた。車は暗闇に包まれた。
「言葉をもて遊ぶのはもうたくさん。レオポルド、やっと二人きりになれたわね!」
彼女がもたれてきたとき、宝石の燦めきと柔らかな目の輝きが彼をとらえた。彼の声は、自分の耳にも、とげとげしく不快に響いた。
「違いますよ、王女様。わたしの名前はレオポルドではありません。わたしはエヴェラード・ドミニーです」
「まあ、あなたがとても頑固なのは知っているわ」彼女は優しくいった。「とっても頭が固くて、あなたの麗しいお国のために忠義を捧げている。でもあなたにも人間の心があるでしょう、レオポルド。祖国に押しつけられた義務と同じくらい大切な、人間としての義務があることは分かっているでしょう。わたしがあなたに何を望んでいるか、あなたから何を引き出さなければならないか、お分かりでしょう。さもなければわたしは屈辱と惨めさにまみれて地獄に堕ちてしまう」
彼は急に喉がひからびたように感じた。
「いいですか、そのときが来るまで、わたしは世間に対してもあなたに対しても、二人きりでいるときも大勢といるときも、エヴェラード・ドミニーでなければならないのです。わたしに与えられた任務を果たすには、一つの方法しか、ただ一つの方法しかないのです」
彼女は突然声を殺して嗚咽した。
「待ってちょうだい。すぐ返事をするから。手を握らせて」
彼は固く握りしめていた指を開いた。彼女の熱い手が情熱的にそれを掴み、引き寄せ、もう一方の手の指もそれにからみついた。彼女はしばらくそのまま座っていた。
「レオポルド」やがて彼女は話をつづけた。「分かるわ。わたしが二人の愛をうっかり漏らしはしないか、それが心配なのね。もっともだわ。あなたも知っているように、わたしはひどく衝動的だし、感情的だから。でも自分を抑えることもできるのよ。二人きりになったときのわたしたちがお互いにとってどういう存在であるのか、世間の人に知らせることはないわ。不注意な真似はしない。誓って。他の人がいるときは、あなたの注意を惹くそぶりさえ見せない。わたしと会うことも好きなだけ避けたらいい。わたしもあなたがいいと言うときしかお招きしない。でもこんな扱いは嫌よ。戻ってきたと言って。ほんのちょっとだけ、その嫌らしい仮面を脱ぎ捨ててちょうだい」
彼女の両手は彼の手を強く引き寄せ、彼女の唇と目は彼に向かって懇願した。彼はじっと座ったままだった。
彼は断固として言った。「何があろうと、そのときが来るまで、わたしはエヴェラード・ドミニーなのです。あなたがレオポルド・フォン・ラガシュタインに対して抱いているお気持ちにつけこむわけにはいきません。彼はここにいないのです。アフリカにいるのです。たぶん、いつか、あなたのもとに戻ってきて、あなたの思いをかなえてくれると思います」
彼女は彼の手を放り投げた。彼は相手の目が炎のように自分の目に食い入るのを感じた。それは強い詮索のまなざしのようだった。
「あなたをじっくり見させてちょうだい」彼女は声を荒げた。「確かめさせてちょうだい。ただのひどい心変わりなの?それとも偽者なの?胸のなかが冷たくなっていく。あなたはわたしが今まで待ち望んでいた人なの?わたしが唇を与え、名誉を犠牲に捧げた人なの?夫を殺し、わたしを捨てた人なの?」
「わたしは追放されたんです」こみあげる感情に彼の声も震えていた。「それはご存じでしょう。この計画に関しては別ですが、わたしはまだ追放を解かれていないのです。わたしは罪の償いをしているのです」
彼女は疲れたように席にもたれ、目を閉じた。車が鉄の門扉を通り抜け、彼女の家の玄関前に停まると、とたんにドアが開いて、召使いが急ぎ足に出てきた。彼女はドミニーのほうを振り返った。
「しばらく寄っていかないこと?」
「御訪問の許可をいただければ、喜んでまた参ります」彼は堅苦しく答えた。「よろしければ、ノーフォークから帰り次第、連絡をさしあげましょう」
彼女は悲しげな微笑みを浮かべて手を差し出した。
「うちの者にあなたをお好きなところへ連れて行かせるわ。それから覚えておいて」彼女は声をひそめてつけ加えた。「わたしは負けを認めません。お話はこれが最後じゃありませんからね」
彼女はお仕着せ姿の人目を惹く家令兼召使いにかしずかれ、豪華な正面扉を堂々と通り、ロンドンでも数少ない大邸宅の一つのなかに消えた。ドミニーがカールトンに戻ると、ラウンジでは楽団が音楽を奏で、大勢の人がまだ椅子に座っていた。そのなかでもシーマンはひときわ目立つ恰好をしていた。こざっぱりしたディナー服に身を包み、新しい友人を作ろうと誘いかけるように丸ぽちゃの顔を輝かせていたのである。彼はドミニーを熱烈に迎えた。
「いや助かった」と彼は声をあげた。「独りはもうたくさんだよ!顔見知りが一人もいないんだからな。わたしの舌は運動不足でひからびてしまった。話はしたいが、相手がおらん。山奥の一軒家にでも住んでるような気分だ」
「わたしでよければ話をさせてもらうよ」ドミニーはかすかに顔をしかめてそう言うと、時計を見て急いでウイスキー・ソーダを注文した。「最初に言っておくべきことがある」彼は声をひそめた。「この計画を脅かす、いちばん危険なものを見つけた」
「何のことだ?」
「女だ。アイダーシュトルム王女」
シーマンは肌身離さず持っている葉巻に火をつけ、短い太い足を組んだ。しゃれたコートシューズを履いていた彼は、自分の小さい足先を満足そうにちらりとながめた。
「驚いたね。そのことはわたしもよく考えたが、特に問題にはならないと思う」
「じゃあ、君はわざと問題に対して目を閉ざしているに違いない。さもなければ王女の気性や性格を知らないんだ」
「どっちも分かっているつもりだよ。それでもたいした問題になるとは思わない。イギリス貴族として君には文句なくアイダーシュトルム王女と友達づきあいする権利がある」
「君は人情の機微を察する人間だと思っていたがね!」ドミニーは嘲るようにいった。「少しは人間性というものを理解していると思っていたが。ステファニー・アイダーシュトルムはハンガリー生まれのハンガリー育ちだ。あの民族に生まれついても自己抑制とは縁がない。まさか本気で思ってはいないだろうね、あれだけ長いこと苦しんできて――それも生やさしい苦しみじゃない――今頃ふぬけた友達関係で満足するだろうなんて?率直に言おう、シーマン。彼女はそんなことでは満足しないと今晩はっきり言ったのだよ」
「君ら二人の個人的な関係は――」とシーマンは言いかけた。
「そんなことじゃない!」相手は話を遮った。「王女は衝動的で、情熱的で、疑いもなく原始的で、おまけに野性味たっぷりの女だ。陰謀だの政治的必要だのと彼女に説いても、これっぽっちも意味はない」
「それにしてもだな」とシーマンが言い返した。「君が国家から重要な任務を与えられているということは、ちゃんと理解できるだろう?」
ドミニーは首を横に振った。
「彼女はドイツ人じゃない。それどころか他の多くのハンガリー人と同じように、ドイツもドイツ人も嫌っているのだと思う。彼女が関心を持っているのは、わたしとの個人的な問題だけだ。わたしは残りの人生をことごとく彼女に捧げるべきだと、そう思っているんだ」
「君が明日ドミニー邸に行くのは正解だったかもしれないな。わたしが一つ策を練ろう。何とか彼女をなだめるよ」
消灯の時間だった。二人の男はややしぶしぶといった感じで立ちあがった。ドミニーは妙に寝る気がしなかったが、それと同時に友人を追い払いたくて仕方がなかった。彼らは一緒に暗くなったホテルの広間に入っていった。
「その件に関してはできるだけのことをしよう」とシーマンは約束した。「わたしの考えでは、君が最大の問題にぶつかるのは明日だよ。ドミニー邸で何を相手にしなければならないか分かっているだろう」
ドミニーの顔はこわばり、重々しくなった。
「覚悟はできている」
シーマンはそれでもためらっていた。
「覚えているかい、ケープタウンで君の計画を話し合ったとき、君は写真を――ドミニー夫人の写真を見せてくれたね」
「覚えているよ」
「もう一度見てもいいかな?」
ドミニーはかすかに震える手でコートの胸ポケットから革のケースをつまみ出し、なかからすり切れた写真を取り出した。二人の男はまだ明かりの灯っている電灯の一つの下で、肩を並べて写真を見た。その顔は少女の顔、ほとんど子どものような顔だった。大きな目には奇妙な、訴えるような光が満ちている。同じ表情が唇にも認められた。どこか頼りなげな感じ、強い存在に対して愛と庇護を求めるような表情だった。
シーマンは小さくうめいて顔を背け、こう言った。
「もしもわたしに普通の人間の、普通の感情がほんのしばらく戻ってくるとしたら、その写真の女性を相手するより、君のお姫様を一ダース相手にした方がましだと思うだろうな」
第八章
「先祖代々のお屋敷が見えてきましたよ」車が草の生えた並木道の最初のカーブを曲がり、ドミニー邸が見えてきたときミスタ・マンガンが言った。「しかも実に立派なお屋敷だ!」
相手は返事をしなかった。ほんの少し前から嵐が吹きはじめ、彼はまるで寒気がするかのように、帽子を目深にかぶり、コートの襟を耳まで立てたのだった。屋敷がはっきりと見えてきた。正面玄関の両側には大きな主室の窓がある。エリザベス朝風の古めかしい赤煉瓦造りの壁は南の大庭園に面し、石の土台に支えられ、風雨に傷んださえない裏手は沼地と海に面していた。ミスタ・マンガンは愛想良く会話をつづけた。
「建物は、どうにかこうにか、雨風が吹き込まないよう管理してきました。木はそれほど減ったようにはお感じにならないと思います。できるだけ敷地の外縁から伐採しましたから」
「ブラック・ウッドからも切ったのかい?」ドミニーが振り向きもせず訊いた。
「いいえ、一本も。そりゃそうですよ。木こりが誰一人、森に近づこうとしないんですから」
「じゃあ、あの噂はまだ消えてないんだね?」
「村人たちは信じこんでいますよ。ロジャー・アンサンクの幽霊を見たという人間が少なくとも十人はいます。神様に誓って夜中に彼の叫び声を聞いた、というのが二十人以上」
「幽霊は今でも真夜中に庭園や外のテラスをうろつくのか?」
弁護士は躊躇した。
「幽霊は森から出てきて、ドミニー夫人の窓の下のテラスにたたずむようです。もちろん根も葉もない噂ですよ。でもお屋敷のどの召使いも門番も、雇われて一ヶ月以内に辞めてしまうのです。そうでなければとっくの昔にミセス・アンサンクを解雇するよう申しあげていたんですが」
「ということは、まだドミニー夫人にお仕えしているんだね?」
「他に誰もお屋敷にいつかないという、ただそれだけの理由なんですが。奥様はお屋敷を出ることをきっぱりと拒否なさっています。ここだけの話ですが、今のままではもういけないと思うんです。差し支えなければ、晩餐の後で話し合いませんか。ほら、庭園の木はそのまま残してあります」彼は満足そうに話しつづけた。「ここは春になるときれいですよ。実は五月にこちらに参りまして、一晩泊まったのですが、あんなキンポウゲは見たことがありませんでした。牛は牧草地で膝まで草に埋もれていましたし、お屋敷の森のブルーベルが見事に花を咲かせていました。今年の春、フランクニーの絵の愛好家たちが総出でやって来て、ここに散らばっていたんですよ」
「古い壁が何カ所か崩れ落ちているね」壁に囲われた家庭菜園を見ていたドミニーは顔をしかめた。
ミスタ・マンガンは一瞬驚いた。
「あの壁は確か二十年前から崩れていましたよ」
ドミニーは頷いた。「忘れていたよ」と彼はつぶやいた。
「実を言いますと、修復費用を捻出するために絵を一枚か二枚売ってはどうだろうと手紙に書いて送ったのですが、うまい具合にあなたからお返事がなかった!どう修理するかお決まりになったら、さっそく職人をここに呼びましょう。ただ残念ですが」ちょうど鉄の門扉をくぐり、屋敷正面すぐ手前のカーブにさしかかったとき、彼はこうつけ加えた。「お出迎えする召使いのなかに見知った顔はあまりないでしょうな。庭師のラヴィボンドがいますが、ほとんど覚えていらっしゃらないでしょう。それから猟場管理人のミドルトンくらいですかね。彼は猟に関してはまったくかけがえのない男ですよ。お屋敷のなかで働いている連中は新顔ばかりです。ミセス・アンサンクを除いて」
そのとき、車は巨大なポーチの前に停まった。歓迎する人の姿はどこにもなく、ベルを鳴らして、ようやく数日前に町から派遣された召使いにドアを開けてもらった。召使いの後ろには茶色い綿ビロードのコートをはおり、コール天のズボンとすね当てを着用した初老の男が立っていた。白い頬髭を生やし、羊皮紙のように浅黒い肌を見せ、長いトネリコの杖にずしりと体重をかけていた。六人ほどいる新米女中たちが、さらにその後ろに控えていた。別の男があらわれ、荷物を手に取った。ミスタ・マンガンがその場を仕切ることになった。
「ミドルトン」と彼は老人の肩に手を置いて言った。「こちらがお戻りになったご主人だよ。サー・エヴェラードは、君がここにいると聞いてとても喜んでいらっしゃる。それから君もだ、ラヴィボンド」
老人はドミニーが伸ばした手を両手で握り締めた。
「お戻りになって、嬉しゅうございます、旦那様」彼は奇妙なくらいじろじろと相手を見つめた。「ところが、歓迎の言葉が喉に引っ掛かって、すらすらと出てこんのです」
「そんなふうに思っているとは残念だな、ミドルトン」ドミニーは快活に言った。「わたしが戻ると何が困るんだね?」
「困るなんてとんでもねえ、旦那様。お帰りになったのは、嬉しいんです――少なくともわたしらにとっては。ただ、旦那様にとってはどんなもんなんでしょうか。そこが引っ掛かるんで」
ドミニーは今まで以上に胸を張り、小集団に向かって威厳をみなぎらせた。
「一日か二日、一緒にキジ狩りにでもいけば考えも変わるだろう、ミドルトン」彼はなだめるように言った。「君はあまり変わっていないね、ラヴィボンド」彼は後ろに隠れるようにしていた男に向かって言った。晴れ着を着て、ひどく窮屈そうな、落ちつかなげな様子だった。
「おかげさまで、旦那様」彼は少しもじもじしながらそう言い、手を額に持っていった。「しかし旦那様には、お変わりないとは申せませんなあ。外国にいらして、肉がついて、お顔がきびしくおなりだ。こんなことを言っちゃあなんですが、旦那様とは分かりませんでしたよ」
「こちらはパーキンス」ミスタ・マンガンが再びしゃしゃり出てきて紹介をつづけた。「ロンドンで雇った執事です。それから――」
突然、奇妙な沈黙が訪れた。新しい主人の風貌をひそひそと噂していた女中の一団は急に口がきけなくなった。すべての目が同じ方向を向いていた。玄関ホールの片隅からいつの間にか出てきたのであろう、一人の女が不意に彼らの前に立った。痩せこけた身体、簡素な黒い服、髪をひっつめにし、首のまわりには白いカラーすらつけていない。面立ちはほっそりと長く、顔の造作は異様に大きい。目は怒りに満ちていた。話し方はごくゆっくりだったが、北部独特の抑揚がいくらか混じっていた。
「このお屋敷にあなたの居場所はありませんよ、エヴェラード・ドミニー」彼女は行く手を塞ぐかのように彼の前に立った。「昨日の晩、思いとどまるよう、手紙を書きましたが、いやに急いでお出でになりましたのね。ここは人殺しが来るようなところではありません。お引き取りください、もとの隠れ家に」
「何を言うんだね!」マンガンが喘ぐように言った。「許し難いことだ!」
「弁護士様と言い争うために来たのではありません」女が言い返した。「わたしは彼に話をしに来たのです。わたしの顔を見ることができますか、エヴェラード・ドミニー。あなたはわたしの息子を殺し、奥様を狂人に変えてしまった」
弁護士がそれに答えようとしたが、ドミニーが手を振って押しとどめた。
「ミセス・アンサンク、ただちに仕事にお戻りなさい。それからよく覚えておくことだ、ここはわたしの家なのだから、わたしが好きなときに出入りできるということを」
彼女はしばらく口がきけなかった。相手の断固とした口調にあっけにとられたのだ。
「家はあなたのものかもしれません、サー・エヴェラード・ドミニー」彼女は脅すように言った。「でも一カ所、あなたも怖くて入れない場所がある」
「何を言っているのか、分かっているのかね」彼は冷たく答えた。「さあ、すぐ妻のところへ戻って、わたしが到着したことを伝えたまえ。お部屋に伺う許可をひたすらお待ちしていると」
女は不快な、耳障りな笑い声をあげた。その目はいぶかしげにドミニーを見据えている。
「お勇ましいこと。肝が据わってお帰りになったようね。お顔を見せてくださいな」
彼女は光がよく当たっているほうへ一、二歩移動した。額にゆっくりと皺が寄っていった。見れば見るほど自信がなくなった。
「あなたの顔には何かが欠けている」彼女はつぶやいた。
ミスタ・マンガンはここぞとばかりに口を挟んだ。
「そんなことはどうでもよろしい、ミセス・アンサンク」彼は怒気をこめて言った。「一言忠告させてもらうが、ご主人には敬意をもって応対したまえ」
女はまた激高した。
「敬意!息子を殺した男にどんな敬意を抱けというのです?敬意とはね!わたしの言いつけに逆らってここに留まるつもりなら、きっと奥様から敬意の意味を思い知らされることになるでしょうよ」
彼女は踵を返して姿を消した。誰もが一斉に荷物のまわりで忙しく立ち回り、しゃべりはじめた。ミスタ・マンガンは依頼主の腕を取って玄関ホールを抜けた。
「サー・エヴェラード」と彼は心配そうに言った。「こんなことになって本当に残念です。あの女の無愛想なことは予想していましたが、これほど不埒な振る舞いに出るとは思いも寄らなかった」
「妻がそばにいることを許しているのは、今でも彼女だけなんだね?」ドミニーはため息をつきながら尋ねた。
「そのようです。しかし、明日の朝、医者のハリソン先生に相談しましょう。ここにいたいなら、態度をすっかり改めること、それをきちんと理解させなければなりません。あんな非常識な言葉は聞いたことがない。夕食のあと、わたしが直々に彼女に言っておきます――この書斎ならくつろげるでしょう、サー・エヴェラード」ミスタ・マンガンは海側の豪奢な一室のドアを開けた。「目が覚めるような眺めですよ、窓の外は。木を何本か切りましたから。パーキンスがシェリーを用意してくれたようですな。こちらではまだカクテルを飲む習慣がないので、あなたがつくっていかなければならないでしょう。一つだけわたしに感謝していただけることがあるんですよ、サー・エヴェラード。お金に困ったことは一再ならずありましたが、地下のワインは一本も売らなかったのです」
ドミニーは弁護士がついだシェリーのグラスを受け取ったが、飲もうとはしなかった。しばらくのあいだ、物思いにふけっている様子だった。
「マンガン」と彼はやや唐突に言った。「このあたりでは、みんな、わたしがロジャー・アンサンクを殺したと思っているのだろうか」
弁護士はデカンターを置いて咳払いした。
「正直に答えてくれたまえ」ドミニーが強く言った。
ミスタ・マンガンは相手に合わせることにした。依頼主のことが徐々に分かりはじめていた。
「この近辺でそう信じていない人は一人もいないと思います、サー・エヴェラード。争いが起きて、あなたが彼を打ちのめしたと」
「くどくどと質問をするようだが許してくれ。アフリカに逃亡して最初のうちは、それまでの人生のすべてを忘れ去ろうと必死になっていたんだ。本当にみんなそう信じているんだね?」
「その俗説はほぼ事実と合致してるようです」依頼主が思った以上に理性的に振る舞うのを見て、マンガンは再びデカンターを取りあげた。「不幸のはじまりとなってしまいましたが、あなたがこのお屋敷にお出でになった頃、ミス・フェルブリッグは牧師館で一人住まい同然の暮らしをしていらっしゃった。叔父様が急死なさいましたからね。一緒にいたのは家政婦のミセス・アンサンクだけでした。ロジャー・アンサンクが結婚前の奥様に夢中だったことは、近所に知れ渡っていて、ミス・フェルブリッグはたいそう迷惑に思っていました。ドミニー夫人はあの若者に気がある振りなど一度も見せなかったと思いますが」
「違う意見の人はいなかったのかい?」
「一人もいませんでした」彼は断言した。「でも、あなたがきて、ミス・フェルブリッグと恋をし、彼女をさらっていってしまったとき、誰もがこれはひともめあるぞと感じていたんです」
「ロジャー・アンサンクは頭が変だった」ドミニーは慎重にそう言った。「最初から狂人みたいに振る舞っていた」
「次第次第に狂気に陥っていく、ユージン・アラム(註 ブルワーリットンの小説の主人公)みたいな田舎教師ですね」マンガンは同意した。「そこまではみんなの意見は一致しています。謎めいてくるのは彼が休暇から帰ってきて、結婚の知らせを受け取った、そのあとのことです」
「それから起きたことは実に単純なんだよ。わたしたちはある晩、ブラック・ウッドの北の端で出くわした。彼は狂ったように襲いかかってきた。わたしのほうが少し力が勝っていたのだろうな。しかし屋敷に戻ってきたとき、腕が折れていて、血まみれで、意識を失いかけていた。残酷な運命のいたずらで、ほとんど真っ先に出遭った人間が妻だったのだ。彼女にはショックが強すぎた。彼女は気を失い――そして――」
「以来、正気を取り戻していらっしゃらない」と弁護士が話を結んだ。「おかわいそうに!」
ドミニーは窓の前に立ち、両手を後ろで組みながら言った。「なんとも辛いのは、その瞬間から妻がわたしに対して狂的な殺意を抱くようになったことだ――正当防衛以外の何物でもなかったのに。だからわたしは国を出たのだ、マンガン――ロジャー・アンサンク殺しで捕まるのが怖かったからじゃない。裁判があれば、いつでも出廷しただろう。わたしをズタズタにしたのは別のことなんだ」
「そうでしょうとも」マンガンは同情するようにつぶやいた。「実を言えば、逮捕など絶対にありえませんでしたがね。ロジャー・アンサンクの死体は今日に至るも発見されていないんですから」
「もしも発見されていたら――」
「謀殺ないし故殺罪で起訴されたでしょう」
ドミニーは窓のそばを離れ、シェリーのグラスに唇をつけた。思い出のなかの悲劇はもうどこかへ行ってしまったようだった。
「死体がなくなったから、ブラック・ウッドには今でも幽霊が出るなどという噂が生まれたんだな」
「その通りです。ご存じのように、もともと変な噂のある場所ですし。実際、暗くなってから庭園を横切って森の方に歩いていく村人はいないでしょうね」
ドミニーは時計を見て、マンガンを従え部屋を出た。
「晩餐のあとで西アフリカの迷信の話をしてあげよう。ここの噂が子供だましに思えるよ」
第九章