手紙は二十年以上前、祖父と口論した、別の陰鬱な一日の記憶をたどらせた。オクスフォードに入学して二年目、学生として全世界に秩序を与えるのが自分の義務だとはじめて感じたときのことだった。フォーディングの地所のまずい管理運営に対しては、強い批判を抱いていた。学問を積み、広く世間を見てきた人間として、そのことを言わずにいることは怯懦であると考えた。森林は放置され、間引きも植樹も行われなかった。昔ながらの農家は修理されることなく荒廃し、しみったれたひさしのない建物に取って代わられた。庭園での放牧もずさんで、ダマジカやアカシカが羊や卑しい雑種の牛にこづき回されている。牛の問題には腹を据えかね、思わず祖父に激しく抗議した。二人のあいだに愛情などなかったが、それにしてもそのとき若者は、老人が奇妙なくらい改善を求める意見に反発することに気がついた。
「礼を言うよ」と老ブランダマー卿は言った。「言いたいことはみんな聞いてやったぞ。これでおまえも気が楽になって、心おきなくオクスフォードに戻れるだろう。わしは四十年間フォーディングを切り盛りしてきたし、これからさらに四十年間、誰の助けも借りずに切り盛りしていく自信がある。おまえが何を心配しているのやら、さっぱり分からん。余計なことに首を突っこむな」
「僕の心配が分からないですって」改革者はかっとなって言った。「余計なことに首を突っこむなですって。いいですか、今被っている被害を回復するには一生の時間がかかるんですよ」
後継者と仲が悪くなれば、道を譲る気などなくなってしまうものだ。老人は晩年になってからいっそうはなはだしくなったいつものかんしゃくを起こした。
「出しゃばるな」と彼は言った。「フォーディングのことで悩むことはない。わしのまずい切り盛りの被害者を気取ることもないぞ。この地所をおまえに任すとは決まっていないのだからな」
今度は若者が怒る番だった。「脅しても無駄ですよ」と彼は鋭く言った。「もう子供じゃないんですから、呶鳴ったって怖じ気づいたりしません。その脅しは他の人のためにとって置いたらいいでしょう。財産を爵位から切り離したりしたら、あなたは一族に恥をかかせ、自分自身に恥をかかせることになりますよ」
「それなら安心しろ」と相手は言った。「財産は爵位を持つものに渡す。出て行け。もうごちゃごちゃぬかすな。さもないと財産も爵位も失うことになるぞ」
こともなげに発せられたことばだった。恐らく若造に咎めだてられ、いささかむっとしたのか、あるいは痛風のいらだたしい不快感に襲われ、思わず口をついて出て来たのだろう。しかしそこには苦い響きがあり、若者の心に深く突き刺さる何かがあった。他にも跡継ぎがいるのだ、などと脅されたのははじめてだったが、そのことをまったく知らなかったわけではない。これに類したことを以前聞いたような気がした。どこでだったかは覚えていないが、物心がついてから、爵位が本当に自分のものになるのだろうかという漠然としたとらえどころのない疑惑がフォーディングにはずっと漂っていたように思えた。
ブランダマー卿はウエストレイの手紙を胸ポケットに入れて、馬にブナの葉のあいだを歩ませながら、こうしたことを事細かに思い出していた。祖父にそんなことを言われ悲しい顔をして出て行ったこと。祖母が彼の心中を見抜いたこと。どうして祖母には分かったのだろう。もしかするとあの手の脅しをそれまでに何度も聞かされていたので、原因をすぐ突き止められたのかも知れない。しかし祖母は無理矢理彼に何があったのか白状させたものの、彼にかけてやるべき慰めのことばを知らなかった。
今でも彼女の姿を瞼に浮かべることができた。冷たい青い目をした、威厳のある女性で、六十近いというのに容貌は衰えていなかった。
「この際ですから」と彼女はぞっとするような落ち着きを見せて言った。「何もかも話してしまいましょう。知っていることをみんな教えてあげる。といっても大した話ではないけれど。あなたのお祖父さんはずいぶん前に、今さっきあなたを脅したのと同じように、わたしを脅したことがありました。あのことは今でも忘れていないし許してもいません」彼女は椅子に座り直し、頬をわずかに紅潮させた。「あなたのお父さんが生まれた頃のことです。それまでもわたしたちは喧嘩することがありましたけど、深刻な喧嘩はあれが最初で最後でした。あなたのお父さんはわたしとも、あなたとも、気性が違っていたわね。決して喧嘩をしない人で、この話も知らなかった。わたしは黙っているのが自分の責任だと思っていました。そうするのがいちばん賢明だったのよ」話しながら彼女の顔は見たことがないくらい険しくなった。「それ以上のことはなにも見聞きしていません。お祖父さんの意向は心配しないでいいと思う。あの人は名声にこだわりを持っているから、全財産をあなたに残すでしょう。あなたにはあらゆる相続の権利があるもの。その、法的な問題がなければだけど。もう一つ前から気になっていることがあるの。お父さんが生まれてすぐに、陳列室からお祖父さんの肖像画が盗まれたことは聞いていますか。特に誰かが疑われたわけじゃありません。まあ、後の祭りなんだけれど、そのあと戸締まりが厳重になってね、しばらくはフォーディングに夜間警備員がいたのよ。でもほとんど騒ぎにはならなかったわ。お祖父さんは警察の手に委ねようともしなかった。悪質ないたずらだ、誰がやったのか知らないが、わざわざ肖像画を取り戻そうと手間をかけるほどのことはない、自分の肖像画だったから、また描かせればいい、などと言っていました。
どうやって絵を盗んだのか知りませんが、お祖父さんはきっとその行方についてなにか知っていたのだと思います。あの絵は今でもあるのかしら。あれは盗みだったのかしら。それともあの人が盗まれないように隠してしまったのかしら。盗んだ人たちがどういう連中なのか、皆目見当がつかないわ。なにせ誰にでも家のなかを見せていますからね」彼女は背筋を伸ばして両手を膝の上にそろえた。白い指に大きな指輪が光っているのが見えた。「わたしが知っているのはそれだけよ」と彼女は話しを終えた。「わたしたちのどちらかが新しい発見でもしないかぎり、もうこの話はしないことにしましょう。相続権の要求なんて、とっくに失効してるか、示談になっているか、もともとなかったか、分かりゃしませんよ。とにかくお祖父さんが生きているあいだはなにも起きないものと考えていいのじゃないかしら。わたしの忠告は、あの人と喧嘩しないこと。長期休暇がきたら、フォーディングを遠く離れたところで過ごしなさい。オクスフォードを卒業したら旅行に出たらいいわ」
こういうわけで若者はフォーディングを離れ、イスラエル人が荒野をさまよった、その半分ほどの期間をさまよい歩いたのである。家に帰るとしてもごくたまに、束の間、滞在するだけだった。しかし手紙は祖母が生きているあいだ定期的に送りつづけた。たった一度だけ、それも最後に受け取った手紙の中で、彼女は昔の不愉快な話題について言及していた。「今までのところなにも新しいことは見つかっていません。事実無根であったという期待はまだ捨てなくてもいいようです」
家族の名誉を守るために、国外追放に耐えているのだ、雲形紋章に泥を塗るような誘惑から祖父を遠ざけるために家を離れているのだ、と長いあいだ彼は考え、自分を慰めていた。家門を盲目的に尊ぶのはブランダマー家の伝統であり、青春の夢とともに旅に出た跡継ぎはテンプル騎士団員のように「仕え、守る」ことを誓い、雲形紋章に命を捧げたのである。
年老いた卿はついに他界した。相続権を奪うという脅しは実行されず、遺言を残さず亡くなったために、孫がその継ぐべき地位を継いだ。戻ってきた新しいブランダマー卿はもはや若くなかった。命知らずの旅を幾年もつづけて顔つきは険しくなり、他人に頼らぬ強固な意志を備えていた。しかし出て行ったときと同じように、戻ってきたときも、彼のまわりにはロマンスが漂っていた。自然の女神は男でも女でも、いったんその人にロマンスを授けることにしたら、その人が一生を終えて死ぬまで、ふんだんにロマンスを与えるものである。病気だろうと健康だろうと、貧しかろうと豊かだろうと、中年だろうと老年だろうと、髪が抜け歯がなくなろうと、顔にしわが寄り手足が痛風に悩まされようと、烏の足跡ができ、二重顎になろうと、はたまた少しもロマンチックではない、人生でもっとも浅ましい境遇に陥ろうと、ロマンスは最後までつづくのだ。その価値はなにものにも代え難い。それは持てる者からなくなることはなく、持たざる者はいくら金を積んでも、どれほど必死の努力をしても、手に入れることができない――いや、それどころか、ロマンスというものをごくおぼろげに理解することすらできないのである。
新しい卿はすばらしい決意を胸にいっぱい秘めてフォーディングに帰ってきた。放浪には飽き、結婚してこの地に住み着き、財産を享受しようと思っていた。人々のためになることをし、自分が持つ広大な地所を地主たちの模範にしてやろうと思っていた。ところが三週間も経たぬうちに、王位を狙う者がいること、カランには自分こそがブランダマー卿であると主張する夢想家がいることを知った。彼は一度だけこの負け犬の姿を通りで教えてもらったことがある――ブランダマー家の紋章を泥のなかをはいずり回ってまで追い回し、子供たちから雲形じいさんと呼ばれている老いぼれだった。あんな男と土地や屋敷や爵位など、すべてをかけて戦うことになるのか。しかし戦いが現実のものとなる可能性はあった。まもなくこの男が、祖母の生涯と自分の生涯につきまとう実体のない影、つまり本当の跡継ぎであることを知ったのだ。しかもマーチンは欠けている証拠をいつ掴むとも分からない。そのとき死がマーチンの希望に終止符を打ち、ブランダマー卿は再び自由になった。
しかしそれも長くはつづかなかった。しばらくするとオルガン弾きの老人がマーチンの役を引き継いだと聞いたのだ――面倒のために面倒を起こして、漁夫の利を得ようとする干渉好きな出しゃばりめ。そんな卑しむべき人間に土地や爵位や紋章など何の関係があるのか。しかしこの男はカランでこっそり犯罪だとか、手がかりだとか、やがて訪れる天の報いについて話をしている。ところがそのとき死がシャーノールのおしゃべりに終止符を打ち、ブランダマー卿はまたもや自由になったのだった。
前よりも長くつづく自由、いや、ついに永遠の自由を手にしたはずだった。彼は結婚し、結婚は彼の安全を保証した。跡継ぎが生まれ、雲形紋章は安泰だった。ところが今、彼を邪魔する新たな異議申し立て者があらわれた。自分はうようよ群がる龍の子供たちと戦っているのだろうか。新たな敵があらわれ出る場所は――比喩をもてあそぶような気分ではなかったので、彼は考えるのを止めた。この若い建築家、その食べ物も、カランでの給料も、彼、ブランダマー卿が大聖堂の工事に必要と思って出した金の中から支払われているこの男が、本当に「復讐者」なのだろうか。みずからが作りだした者に裏切られ、切り裂かれるのか。彼は皮肉なことの成り行きに微笑し、過去のことをくよくよ考えるのを止めた。後悔のかけらがあったとしても、それを圧し殺してしまった。現在を見つめ、状況をはっきりと見極めるつもりだった。
ブランダマー卿は夕暮れ時にフォーディングに戻り、夕食の前に一時間ほど書斎に引きこもった。後回しにできない仕事上の手紙を何通か書いたが、夕食のあとは妻に本を読んで聞かせた。耳に快いよく訓練された声で、最近雑誌に掲載されはじめた「インゴルビーの逸話集」を朗読し、ブランダマー夫人を楽しませた。
彼が本を読むあいだアナスタシアは前のブランダマー夫人がやり残した壁掛けの制作に取り組んだ。先代の卿の妻はほとんど外出せず、庭の手入れや凝った刺繍をしてほとんどの時間を潰した。何年もかけてスチュアート王朝期に作られた、虫の食ったつづれ織りの断片を複製していたのだが、彼女の死によってそれらは未完成のまま残っていたのである。女中頭がこのやりかけの作品を見せて、それがどういうものか説明すると、アナスタシアはブランダマー卿に自分が制作をつづけてもよいだろうかと尋ねた。この思いつきは彼も気に入り、彼女は毎晩、心をこめてゆっくりと仕事を進め、ときどき最後のときが訪れるまで同じ手仕事にいそしんだ寂しい老婦人のことを思った。夫の祖母は、彼が親しく付き合った唯一の身内だったらしく、アナスタシアは画家のロレンスによって描かれ、細長い陳列室に飾られている娘時代の彼女の肖像画に強く興味をひかれた。この老婦人がもう一度仕事場に来ることがあるとしたら、きっと彼女はその後継者に満足しただろう。膝の上に着色した絹糸のかせを載せ、高い額の上に暗褐色の髪を波打たせたアナスタシアは凜とした姿で作業台に座っていたのである。深い山吹色のビロードのドレスは、ブランダマー家の昔の貴婦人が肖像画の額縁を抜け出してきたかのような印象を与えた。
その晩、夫が自制心を働かせたにもかかわらず、彼女は何かがおかしいと直感した。馬丁たちか狩猟場管理人たちか召使いたちのあいだに、何かひどく面倒なことが起きたに違いない。馬に乗って出かけたのはその問題を解決するためだったのだろう。きっと自分には話せないような性質の問題だったのだろう。
第二十二章