ただ一人出席したミス・ジョウリフはカランに戻るとさっそくベルヴュー・ロッジで何度かお披露目の会を開いた。その席では結婚式とそれに付随する出来事ばかりが話題にされた。彼女はその場に合わせて新しいコーヒー色の絹のドレスを着、ミスタ・シャーノールの部屋では湯沸かしがしゅーしゅー音を立て、マフィンやトーストや砂糖たっぷりのケーキが並び、家のなかは大混雑、三十年前に神の手から最後の大型四輪馬車が走り去って以来の賑やかさとなった。集まった人々は非常に礼儀正しく、好意的ですらあり、その場の雰囲気に浮き立ったミス・ジョウリフはほんの数週間前、ドルカス会の集まりでのけ者にされたり、冷たい目で見られ、悲しい思いをしたことなどすっかり忘れた。
この集まりで多くの重要な点がつまびらかにされた。結婚式は花嫁から特に希望があって、早朝に行われることになった。出席したのはハワード先生とミス・ユーフィミアだけだった。アンスティスは教会から駅へ直行できるように濃い緑色の旅行服を着ていた。「それでね、皆さん」と彼女は全員を包みこむような慈愛のまなざしをむけていった。「あの子ったら、すっかり若い貴婦人みたいでしたわ」
思いやりに溢れた理解ある聴衆は、過去六週間のあいだ、アナスタシアに青天の霹靂の事件が起きて、その勝利の奪い去られることを期待していたのだが、結婚式がついに挙行されたと知って愕然とし、冷笑を浮かべることすらできなかった。嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントだけが鼻を鳴らすだけの勇気を持っていて、偽装結婚ってこともあるからね、などと隣の人に囁いた。
新婚旅行はずいぶん長引いた。ブランダマー夫妻はまずイタリアの湖水地方へ行き、そこからミュンヘン、ニュルンベルグ、ライン川を旅して帰国の途につくはずだったが、休みながらゆっくり進んだために、パリに着いたときにはもう秋が訪れていた。そこで冬を過ごし、春にはブランダマー家の全財産を受け継ぐ跡取り息子が生まれた。この知らせは地元の人々を大いに喜ばせ、家族がカランに帰ってくるという一報が伝わると、聖セパルカ大聖堂の塔からピールを鳴らしてお祝いをしようということになった。これは参事会員パーキンの発案だった。
「修復費用をほぼ全額寄付していただいている貴人にふさわしい敬意のあらわし方だと思うがね。どれだけ塔が補強されたか見せてさしあげなければならん。どうだい、ミスタ・ウエストレイ。カリスベリの鐘突き男を呼んでカランの人に鳴らし方を教えてもらおうじゃないか。塔が倒れるまでサー・ジョージへの支払いが延びるとしたら、今の様子じゃこれまで以上に料金の受け取りをお待ちいただくことになるだろう。ええ、どうかね」
「まあ、わたし、古い習慣が大好き」と妻が同意した。「にぎやかなピールって、心がうきうきするわ。古きよき習慣はいつまでもつづけていかなくちゃね」もてなしにかかる費用の安さがとりわけ彼女の気に入った。「でも、あなた」と彼女はためらいながら問題点を指摘した。「カリスベリから鐘突き男を呼ぶ必要はあるかしら。あの人たちは始末に負えない酒飲みよ。こんな機会ですもの、喜んで鐘を鳴らそうっていう若者はカランにも大勢いると思うわ」
しかしウエストレイは大反対だった。確かに引っ張り鉄を取りつけたから、その分だけ塔の強度は増したが、南東の大基柱をちゃんと補強するまで鐘を鳴らすことには賛成できない、と彼は言った。
この抗議はあまり歓迎されなかった。ブランダマー卿は不愉快に思うだろう。もちろん、ブランダマー夫人がどう思おうと関係はない。実際、下宿の女主人の姪のために聖堂の鐘を鳴らすなど、考えただけでも馬鹿げている。しかしブランダマー卿はきっと気を悪くするだろう。
「あの現場監督、若いくせにうぬぼれていて鼻持ちならないわ」とミセス・パーキンは夫に言った。「あんな気取り屋に我慢してちゃだめ。二度とつけいらせてはいけません。人がよすぎて甘やかすから、『みんな』つけこんでくるのよ」
こんな具合にはっぱをかけられた彼は、とうとう、自分は人の指図を受けるような男ではない、鐘は鳴らさせるし、サー・ジョージに自分の意見を裏付けてもらうと、やけに豪胆なところを見せて彼女を納得させた。陽気な短い手紙を書くことで知られるサー・ジョージは平凡な洒落と古典風の比喩を適度に織り交ぜて、次のように書いてよこした。「感謝」が神殿の階《きざはし》を上がり、「婚姻」の祭壇に捧げものをしようとするとき、「思慮」は階の下で静かに彼女が降りてくるのを待たなければならない。
サー・ジョージは医者になるべきだったと、友人たちは言った。いつも愛想がよくて安心感を与えるからである。彼はこのようにうまい文句をひねり出すと、緊急を要する大仕事に追われていたので、聖セパルカ大聖堂の塔のことなど頭から追い払い、主任司祭と鐘突き男たちには好きなようにさせることにした。
こうしてある秋の日の午後、住人の中にも聞いた者がほとんどいないという鐘の音がカランに響き渡った。小さな町の人々は仕事の手を休め、イングランド西部でいちばん美しいピールに聞き入った。銀を鳴らすような甘美な高音鐘ベアータ・マリアから、三百年前|仕立て屋《テイラー》同業組合が寄進した低音鐘テイラー・ジョンまで、大小の鐘が一斉に揺れ、鳴り、歌い、無数の小鳥がさえずるような美しい音が空中に満ちた。人々は窓を開け放ち、あるいは店の入り口に立って耳を澄ませた。メロディーは塩沢地の上を越え、ロブスターの罠籠を引き上げていた漁師たちは聞き慣れぬ音楽にただもう呆気にとられて動きを止めた。
鐘自身も長い休息から解放されて喜んでいるようだった。彼らは夜明けの星のように共に歌い、神の子のように共に歓喜に叫んだ。彼らは往事のことを思い出した。ハーピンドン修道院長に枢機卿の赤帽子が授与されたときに鳴らされ、ヘンリー国王が修道院を解体して信仰を守ったときにも鳴らされ、メアリ女王がミサを復活して信仰を守ったときにも鳴らされ、エリザベス女王がフォーディングにむかう途中、市場を通り、刺繍の入った手袋を贈られたときも鳴らされた。足もとに広がる赤い屋根屋根の下で長きにわたって生と死がせめぎ合ったことを思い出し、数え切れないほどの誕生と結婚と葬式があったことを思い出した。彼らは夜明けの星のように共に歌い、神の子のように共に歓喜に叫び、喜びの声をあげた。
結局カリスベリから鐘突き男たちがやってきたのだが、ミセス・パーキンは彼らが来ることに前ほど懸念を抱いていなかった。ブランダマー卿が自分のためにどんな礼がつくされたのかを聞き知れば、以前カランの貧民収容施設や老人や学校の子供たちに金を寄付したように、すぐさま鐘突き男たちにも手当をたっぷりはずむだろうと思ったからである。鐘綱も鐘枠も、軸も輪も念入りに点検された。そして当日、鐘突き男たちは男らしく仕事に励み、二時間五十九分をかけてグランドサイア・トリプルズのフル・ピールを鳴らし終えたのだった。
鐘楼の床の吹き抜け穴から魔術師の腕が取り出したみたいに、ブルティールの店の輝く十ペンス小樽があらわれた。教会事務員ジャナウエイは酒をやらないにもかかわらず、自分も飲みたそうにしながら、泡立つビールの大コップを仕事を終えた男たちに配った。
「今度はピールが中断されんかったなあ。この古鐘もこれ以上いい突き手が下にいたことはなかったろうし、賭けてもいいが、これ以上いい鐘があんたらの頭の上にあったこともあるまいよ。ええ、どうだい、おまえさんたち。カリスベリの塔で鐘が鳴るのを何度も聞いたし、女王様が即位なさったときも聞いたが、ここの古鐘ほど深くてまろやかな音はせんかった。しばらく休んだおかげでいちだんと音色がまろやかになったのかも知れん。ブランダマー・アームズの地下室にあるポートワインみたいになあ。けれどもエニファー先生の話じゃ、中にはシェリーみたいになっちまって見分けがつかなくなったのもあるらしいよ」
ウエストレイは主任の裁定に対して忠実な部下らしくひれ伏した。鐘を鳴らしても安全であるというサー・ジョージの決定は若者の肩から責任の重みを取り去ったが、心の中から不安を消すことはなかった。ピールが鳴らされているあいだ、彼は聖堂を離れなかった。最初は釣り鐘室に入って鐘枠の梁にしがみつき、大きな口を開けた鐘が天をむいたり、勢いよく回転して下の暗闇のほうをむくのを見ていた。轟音に耳をつんざかれ、彼は鐘楼まで階段を下り、窓枠に腰かけて鐘突き男たちが上下動する様を見ていた。金属のかたまりが往復運動し、その負荷が塔にかかって落ち着きなく揺れるのは感じたが、その動きには何ら異常はなかった。漆喰がはげ落ちることも、特に注意をひくような何事も起こらなかった。そのあと聖堂まで降りて、再びオルガンのある張り出しへと階段を登った。そこからは後期ノルマン様式のアーチが巨大な曲線を描いて南袖廊の上に架かっているのが見えた。
アーチの上からランタンまで、彼を大いに不安にさせたあの古い割れ目が、不吉な稲妻のようにジグザグ状に走っていた。その日は曇っていて、空一面に漂う重い雲のかたまりが聖堂内を暗くしていた。中でもいちばん暗い影が落ちていたのは、ランタンの内側を巡る石の通路の下側で、そこに最近塔の補強に使われた重い引っ張り鉄の一つを見て取ることができた。引っ張り鉄がそこにあるのだと思うとウエストレイは嬉しくなった。鳴鐘が塔にかける負担をそれらがことごとく吸収してくれればいいと願った。サー・ジョージの判断が正しく、彼、ウエストレイが間違っていればいいと願った。それでも彼は割れ目に一枚の紙を貼り付け、危険な動きが見られた場合は裂けて警告を発するよう事前に細工をしておいたのだった。
張り出しの仕切りに寄りかかりながら、アーチが動いているしるしをはじめて見た午後のこと、オルガン奏者が「シャーノール変ニ長調」を弾いてくれた、あの午後のことを思い出した。あれからどれほど多くのことが起きただろう!彼はまさしくこの張り出しで起きた事件、シャーノールの死、悲しい人生に終止符を打った嵐の夜の奇怪な事故のことを考えた。あれはまったくおかしな事故だった。ハンマーを持った男につけられているなどと、気が触れたような想像に取り憑かれ、まさにこの張り出しで足鍵盤に致命傷を負わされたところを発見されたのだ!何ていろいろなことが起きたのだろう――アナスタシアへの求婚と拒絶、そして今そのために鐘が鳴らされている出来事!人生は何と変転きわまりないことか!何世代も時代を超えて、我慢強く、変わることなく立ちつづけてきた、頑として動かぬこの壁に比べれば、自分は、いや、人間というものはなんと短命な生き物だろう。しかし石でできた永遠の現実が、実はことごとくはかない人間によって造られたものであり、またはかない人間である彼が、石でできた永遠の現実を、粉々に崩れ落ちないように、今も忙しく支えようとしているのだと思うとふと笑みがこぼれてきた。
聖堂の中では鐘の音がやや弱く遠ざかって聞こえた。重い石の屋根を通して届くため、荒々しさが和らげられ、いっそう耳に心地よかった。穹窿天井という弱音器がピールの音を抑えているのだ。低音を響かせるテイラー・ジョンがトレブル・ボブ・トリプルズの複雑な打順に従って奏鳴する仲間たちのあいだを移動していくのが聞こえたが、ウエストレイの耳には低音を響かせる低音鐘のうなり声よりはっきり聞こえる別の声があった。それは塔のアーチの叫び声、カランに来てからというもの耳について離れない小さな静かな声だった。「アーチは決して眠らない」とその声はいった。「アーチは決して眠らない。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」
突き手たちはピールの終わりに近づいていた。ほぼ三時間をかけて五千四十の転調鳴鐘を打ち終わろうとしていた。ウエストレイが張り出しから下におり、聖堂の中を歩いているとき、最後の転調鳴鐘が打ち鳴らされた。鐘の音の余韻がまだ残り、真赤な顔をした突き手たちが鐘楼でジョッキのビールをがぶ飲みしているあいだに、建築家は足場へむかい、ジグザグ状の割れ目の前に立った。医者が傷を調べるように、彼はそこを注意深く観察し、トマスのように暗い割れ目に手を突っこんだ(註 使徒行伝から)。変わったところは何もない。紙切れは破れておらず、引っ張り鉄は見事にその責務を果たした。やはりサー・ジョージの判断が正しかったのだ。
彼が調べているとき、ごくかすかな音が聞こえた――囁くような、呟くような声。あまりにも弱々しくて聞き逃してしまいそうな音だった。しかし建築家の耳には雷鳴のように鳴り響いた。彼は正確にその正体を、その出所を知っていた。割れ目を見ると大きな紙切れが半分に裂けていた。それは些細な出来事だった。紙切れは完全に二つに裂けたのではなく、中程まで破れたに過ぎない。ウエストレイはそれから半時間あまり目を離さずにいたが、それ以上は何の変化も起きなかった。鐘突き男たちは塔を出て、小さな町はいつもの活動に戻った。教会事務員ジャナウエイが聖堂の反対側からやって来て、建築家が南袖廊のアーチの下、足場の高いところの横棒から身を乗り出しているのを見つけた。
「鍵をかけて廻っているんですがね」と彼は大声で話しかけた。「ご自分の鍵はお持ちでしょうな、旦那」
ウエストレイはほとんど分からぬくらい小さく頷いた。
「今度は塔が倒れませんでしたなあ」教会事務員は話しつづけた。しかしウエストレイは返事をせず、じっと半分だけ裂けた紙片を見ていた。他のことは何も考えられなかった。一分後、老人も足場にあがって彼のそばに立った。梯子を登って息を切らしていた。「今度はピールが中断されませんでしたなあ。とうとう雲形紋章をやっつけましたよ。ブランダマー卿はお戻りになる。跡継ぎが生まれて一族は御安泰。雲形紋章からちょいと毒気がぬけちまったような気がしませんかい」しかしウエストレイは不機嫌で何も言わなかった。「おや、どうなすったんです。お加減が悪いんじゃないでしょうね」
「ほっといてくれませんか」建築家は突っ慳貪に言った。「ピールは中断されればよかったんだ。鐘なんか鳴らさなければよかったんだ。見てください」――彼は紙切れを指さした。
教会事務員は割れ目に近づき、物言わぬ証人をまじまじと見つめた。「へっ!これがなんだっていうんですかい」と彼は言った。「鐘が揺れてこうなっただけでさあ。たかが紙切れですぜ、上でテイラー・ジョンが揺れているってときに、金床みたいにびくともしねえってわけにはいかねえでしょう」
「いいですか」ウエストレイは言った。「あなたは今朝聖堂にいましたよね。日課で読まれた話を覚えていますか。予言者が召使いを丘の上に送り出し、海の様子を調べさせたというやつですよ。召使いは何度も何度も丘に上がるけれど何も見えない。彼が最後に見たのは海から湧き上がる人の手の形をした小さな雲でした。ところがそのあと天は暗くなり、嵐が吹き荒れたのです。この破れた紙がこの塔にとって人の手でないとは言い切れませんよ」
「気にするこたあ、ありませんや」と教会事務員が答えた。「人の手は雨が来ることを知らせただけで、しかも雨こそまさしく人々が待ち望んでいたものなんですぜ。どうして一般人は聖書をひねくり回して人の手を悪いものに変えちまうんでしょうなあ。ありゃ、いいしるしなんです。だから安心しておうちに帰り、食事でもなさることです。いくらにらんだって、その紙は元に戻りませんて」
ウエストレイは彼の言うことを無視し、老人は少々むっとしながらお休みと別れの挨拶をした。「それじゃ」梯子を下りながら彼は言った。「失礼しますよ。暗くなる前に庭に行かないとならないんでね。来週のネギの品評会に備えて、今晩葉っぱを包むんでさあ。去年は孫に一等をとられて、おじいちゃんのわたしは十一位に甘んじましたが、しかし今年はカランで採れたどんなネギにも負けねえやつが六本ほどできましてね」
次の日の朝までに紙片は完全に破れてしまった。ウエストレイはサー・ジョージに手紙を送ったが、歴史はただ繰り返しただけだった。主任はこの一件を軽く見て、モグラの穴を山と勘違いしてはおらんかね、やけに神経質になっているが、きみは与えられた指示を実行しさえすればいいのだよ、とかなりいらだたしげに言ってよこした。割れ目の上にもう一枚紙を貼ったのだが、これは無傷のままだった。塔は再び動きを止めたようだった。しかし今度ばかりはウエストレイの不安は容易に静まらず、彼は大急ぎで南東の基柱の補強工事を進めることにした。
第二十章
ウエストレイはアナスタシアにひかれ、あるいは好意を抱き、一時はその感情を愛だと思いこもうとしたが、それも消えてなくなった。心の平静を完全に回復し、結婚の申しこみを拒否された恥辱については、申しこんだときにすでに娘の心は決まっていたのだ、と割り引いて考えることにしていた。いずれにしろブランダマー卿がとてつもない競争相手であることは認めるにやぶさかでないが、同じスタート地点から競争を始めていたなら、彼にも勝ち目は十分あったと思っていた。ライバルには社会的地位と富があるが、こっちには疑いもなく若さと安定した人生と専門的な技術がある。しかしすでに他の男のものである心を自分のものにしようとするのは、水車にむかって槍を繰り出すようなものだ。こんなふうに不快な思いを次第に鎮め、仕事に集中して打ちこむようになった。
冬の日暮れが訪れる頃、彼は南袖廊の端にある巨大な窓の紋章を解明するという、性にあった暇つぶしを見つけた。そこに輝くさまざまな紋章をスケッチし、郷土史とドクタ・エニファーが貸してくれた小冊子を頼りに紋章の各部分に示される姻戚関係をほとんど突き止めることに成功した。すべてがブランダマー家の結婚に関係していた。ガラス画家ヴァン・リンジは第三代ブランダマー卿までの家系を窓いっぱいにガラスで描き、海緑色と銀色の雲形紋章は窓の上部に大きく出ているだけでなく、何度も繰り返し用いられていたのである。この調査に当たってマーチン・ジョウリフの書類が手元にあったのはありがたかった。建築家の調べ物に関連した情報が満載されていたのだ。なにしろマーチンは出版されたブランダマー家の家系図を入手し、手をつくして結婚と傍系親族のことを調べ上げ、それに補足訂正を施していたのである。
マーチンの妄想の話を聞き、少年たちに「雲形じいさん」と呼ばれていた、もうろくした老人というイメージがウエストレイの頭の中にでき上がっていたため、はじめて書類をひっくり返したとき、そこにあるのはせいぜい狂人のたわごとでしかないだろうと思っていた。しかしその多くがどれほど連関性のないばらばらのものに見えても、マーチンのメモは極めて興味深く、多かれ少なかれ一つの目的によって貫かれた一貫性のあるものであることが次第に判明してきたのである。果てしなくつづく家系図と、本から書き抜いた一族の歴史の断片、その他にマーチンが旅をしながら得たありとあらゆる個人的印象と経験も記録されていた。しかしこのすべての調査探索はたった一つの目的しか持っていない、と彼は明言している――つまり父の名を突き止めることだ。もっともどんな記録を見つけようとしていたのか、どこで、どんなふうに見つけようとしていたのか、文書、戸籍簿、銘刻、いずれの形で見つかると考えていたのかはどこにも書かれていないけれども。
自分こそフォーディングの正当な所有者であるという持論はオクスフォード時代に思いついて以来、彼に取り憑き、その後どんな目に遭おうとも払いのけることができなかったのは明らかだった。二親の片一方ははっきりと分かっている。母親は小地主のジョウリフと結婚し、有名な花と毛虫の絵を描き、そのほかいろいろ名誉になるとはいえないことをやらかしたソフィア・フラネリイだ。しかし父親は不透明なヴェールをかぶっていて、マーチンは生涯をかけてそれを引きはがそうとしたのだ。ウエストレイはこんな話を教会事務員のジャナウエイから十回以上も聞いていた。小地主のジョウリフがソフィアと教会に行ったとき、彼女は前の結婚でできた四歳の男の子を連れていた。前の「結婚」で、という点をマーチンはいつもそれが義務であるかのように強調した。それ以外の事情を考えることは自分自身の名誉を傷つけることだった。母親の名誉はどうでもいい。だいたい兵士や馬喰とくっついて自分の評判を無惨におとしめた母親の思い出など、守ったところで何になるというのだ?マーチンが必死になって事実関係を突き止めようとしたのは、この「前の結婚」だった。他の人々が頭を振って、そんな結婚は見つからない、ソフィアは妻でも未亡人でもなかったのだというものだから、なおさら必死だった。
メモの終わりのほうになると、まるで手がかりが見つかったような――何かの手がかりが見つかったか、見つかったと思っているような書き方になった。このスリッパ探し(註 隠されたスリッパを探し出す子供の遊び)のゲームで彼は目的のものにどんどん近づいていると思っていたのだが、土壇場で死が彼の裏をかいたのだった。ウエストレイは、もう少しで謎が解けるというときにマーチンに最後が訪れてしまった、とミスタ・シャーノールが一度ならず語っていたことを思い出した。シャーノールもあと少しで幻の正体を突き止めることができたのに、あの嵐の晩、運命に足をすくわれたのではなかったか。書類をめくりながらウエストレイの心に様々な思いが浮かび、彼よりも前にこれをめくった人々のことをいろいろ考えた。この書類を書くために無駄な日々を費やし、家庭も家族もなおざりにした、頭はいいけれどろくでなしのマーチン。興奮した手で書類を握り、驚くべき秘密を暴いて自分の人生という暗い舞台に華々しい光を当てようとした老オルガン奏者。読み進むにつれてウエストレイはますます興味をそそられ、もともとブランダマー・ウインドウの紋章を研究するため始めたことなのに、すっかりこちらの調査にのめりこんでしまった。彼はマーチンに取り憑き、オルガン奏者をあれほど興奮させた幻を理解しはじめた。長い間、彼らが求めていた秘密を暴くのは自分の役目であり、自らの手の中にこそ、この奇怪極まりない物語の鍵が握られているのだと考えはじめた。
ある晩、図面を手にし、マーチンの書類を脇テーブルの上に散らかしたまま椅子に座って暖炉にあたっていると、ドアをノックする音がして、ミス・ジョウリフが入ってきた。ベルヴュー・ロッジを出たにもかかわらず、二人は今でも親しい友達だった。下宿人を失ったことは残念で仕方なかったが、彼の取った行動は正しいし、そうするのが義務ですらあると彼女は思った。こうした場合の作法を守ってくれたことはありがたかった。あのまま下宿に住みつづけることは普通の感覚の持ち主には不可能だっただろう。アナスタシアの手を取ろうとして拒絶されたことは彼にとって精神的打撃だったが、彼女はそれにすっかり同情をしてしまい、犠牲者に対してなにくれとなく配慮を見せようとした。アンスティスがミスタ・ウエストレイを拒絶したことはきっと天がよかれと定めたもうたことに違いないが、ミス・ジョウリフは彼の結婚の申しこみに好感を抱いていたから、それが不首尾に終わったことを当時は悲しんでいたのである。そういうわけで二人のあいだには不思議な気持ちのつながり、拒否された恋人と、彼の申しこみを一所懸命に応援した女性とのあいだによく存在するような気持ちのつながりがあった。以来二人はかなり頻繁に会い、一年がたつとウエストレイの失望も鈍磨し、冷静にその話ができるようになった。彼はあのような不可解な拒絶の理由をミス・ジョウリフと議論したり、申しこむのがもう少し早いか、別のやり方をしていたなら受け入れられただろうか、などと考えることにもの悲しい喜びを感じていた。彼女にとってもそれは不快な話題ではなかった。どこをとっても不足のない最初の申しこみを断り、そのあとで桁違いに好条件の申しこみを受け取った姪を持ち、自分まで栄光に包まれたような気がしていた。
「申し訳ございません、旦那様《サー》――ごめんなさいね、ミスタ・ウエストレイ」彼女は二人の関係がもはや下宿の女主人と下宿人のそれではないことを思い出して、そう訂正した。「こんなに遅くお邪魔して相済みません。でも日中はなかなかお会いできませんから。最近ずっと気になっていたんですけど、ミスタ・シャーノールと一緒に買い取ってくれた花の絵をまだ持ちだしていらっしゃいませんでしたね。新居に落ち着くまでお待ちしていたんですけど、もう何もかも片付いただろうと思って、今晩お持ちしましたの」
彼女の服はもう擦り切れてはいなかったが、それでもごく質素な黒だった。以前は日曜日にしかつけなかった苔瑪瑙のブローチを毎日つけるようになっても、優しくて衝動的なところは少しも変わらぬミス・ジョウリフだった。
「座ってください」椅子を差し出しながら彼は言った。「絵を持ってきたとおっしゃいましたか」彼はまるで絵が彼女のポケットから取り出されるのを期待しているかのように相手を見つめた。
「ええ」と彼女は言った。「女中が今、上に運んできます」――「女中」ということばを使うときに、ほんのかすかな躊躇があった。人にかしずかれるという贅沢にまだ慣れていないことのあらわれだった。
ベルヴュー・ロッジに住みつづけ、召使いを一人雇えるようにと、アナスタシアが差し出す生活費を、彼女はさんざん説得されたあげく、渋々受け取ることにしたのだった。ブランダマー卿が婚約から一週間以内にマーチンの借金をきれいに支払ってくれたときは、どれほど安堵したか分からないが、同時にこのような寛大さは彼女の心をいくつもの心配で満たすことになった。ブランダマー卿は一緒にフォーデングの屋敷に住むことを望んでいたが、思いやりがあり、よく気のつく彼は、そのような変化を彼女が好まないことを見て取るや、無理に勧めることを止めた。そういうわけで彼女はカランにとどまり、今ようやくその存在に気づいた無数の友人たちの訪問を厳かに受け、また聖堂での礼拝や集会、教区の仕事や他の特権を心ゆくまで楽しみながら日々を送っていた。
「ご親切にありがとう、ミス・ジョウリフ」とウエストレイは言った。「絵のことを覚えていてくださるとは。でも」彼は絵のことを鮮明すぎるくらいはっきり思い出した。「あなたはいつもあの絵を大切になさっていましたね。それをベルヴュー・ロッジから奪ってしまうなんて、わたしにはできませんよ。共同所有者だったミスタ・シャーノールは亡くなって、わたしには半分しか権利がないんですけど、あれは贈り物としてあなたに差し上げます。いろいろ親切にしていただいた、ささやかなお礼のしるしです。実際、ひとかたならずお世話になりましたからね」彼はため息をついたが、それは結婚の申しこみの一件で、ミス・ジョウリフが好意を示してくれたことや、自分が悲しみにかきくれたことを相手に思い出させるためのものだった。
ミス・ジョウリフはとっさにその暗示を理解した。彼女の声は同情に満ちていた。「まあ、ミスタ・ウエストレイ、ご存じでしょうけど、わたしもあなたが望んだとおりに事が運べばいいのにって心から思っていましたのよ。でもこういうことは天の定めを理解するように努め、悲しみに耐えなければなりません。あの絵のことは、今回だけは、わたしの言う通りにしてくださいな。わたしたちが取り決めたように、そのうち遠からず絵をあなたから買い戻せる日が来ますわ。そのときは絵を返してくださると信じています。けど今はあなたのところになければなりません。それに、もし、わたしに何かがあったら、あれはあなたにしっかり保管しておいてほしいのです」
ウエストレイはあくまで彼女が持っているように主張するつもりだった。けばけばしい花と緑の毛虫には、もう二度とつきまとわれたくはなかった。ところが、彼にはおかしなくらいよくあることなのだが、彼女が喋っているあいだに急に気が変わったのである。どんなことがあっても絵を手放すな、と異様なくらいしつこくミスタ・シャーノールに頼まれていたことを思い出したのだ。今ミス・ジョウリフが絵を持ってきたのも、摩訶不思議な力が働いたせいではないかと思われ、絵を突き返すのはシャーノールの信頼を裏切ることになりそうな気がした。そこで意地を張るのを止め、「じゃあ、本当にそれでいいのでしたら、しばらく預かることにしましょう。いつでも好きなときに持っていって構いませんよ」と言った。彼が話しているとき外の階段から何かに躓くような足音と重いものを落としたようなごつんという音が聞こえてきた。
「あのそそっかし屋さん、またやっているわね」とミス・ジョウリフは言った。「躓いてばかりなんだから。彼女が来て六ヶ月のあいだに割った食器は、それまで六年間に割った数より多いと思うわ」
二人はドアのほうに行った。ウエストレイがドアを開けると大きな赤ら顔をにやにやさせたアン・ジャナウエイが、花と毛虫の華麗な絵を抱えて入ってきた。
「今までなにしてたの」彼女の主人が厳しく問いただした。
「すみませんです、奥様」と女中は言ったが、その謝罪のなかには幾分憤りがこめられていた。「このでっかい絵のせいでけつまずいたんですよ。傷ついてなきゃいいんだけど」――彼女は絵を床においてテーブルに立てかけた。
ミス・ジョウリフは皿のかすかな欠けを見つけ、ティーポットの毛の筋ほどの傷をも見逃さない鍛えられた目で絵をしげしげとながめた。
「あら、たいへん!」と彼女は言った。「素敵な額縁が台無しだわ。下の枠が外れそうになっているじゃない」
「まあまあ」ウエストレイはなだめるように言いながら絵を持ち上げ、テーブルに寝かせた。「それほどたいしたことじゃありませんよ」
額縁の下枠は確かに両端が浮いて、今にもとれそうになっていたが、手で押しこむと元通りに枠にはまり、ちょっと目には毀れたことなど少しも分からなかった。
「ほらね」と彼は言った。「見た目にはほとんど問題はありません。明日、膠をつければきれいに直ってしまいます。しかし女中さん、よくまあここまで運び上げたものですね――こんなに嵩があって重いっていうのに」
実を言えばミス・ジョウリフ自身、アンを手伝って絵を運んできたのである。しかしそれは闘牛のムレータのような赤い敷物を敷いた最後の踊り場までのこと。最後のひと登りは女中一人でも心配なかろうと思ったし、絵を運びながらウエストレイの前にあらわれるのは、働かなくても暮らしていけるくらい裕福になった今、自分の新しい威厳を損なうように思われたのだ。
「そうかっかなさらないで」とウエストレイは頼むようにいった。「ほら、天井下の壁から釘が出ているでしょう。もっといい場所が見つかるまで、当座のあいだ引っかけておくにはちょうどいい。この古い紐もぴったりの長さだ」彼が椅子の上に乗って絵をまっすぐにかけ、後ろに下がってほれぼれと眺めるような様子をすると、ミス・ジョウリフもだいぶ機嫌が直った。
ウエストレイはミス・ジョウリフが帰ったあとも遅くまで仕事をつづけた。それが片付いたとき、大きな音で時を刻むマントルピースの上の時計はほとんど十二時を指していた。それからしばらく消えかけた火の前で椅子に腰かけ、ミスタ・シャーノールの思い出にふけった。絵を見て彼のことを思い出したのだが、そのうち黒くなった燃えさしが彼に寝る時間だと注意した。椅子から立ち上がろうとしたとき、後ろで何かが落ちる音し、振り返って見ると一時的に元通りはめこんであった額縁の下枠が、それ自身の重みでまた外れてしまい、床に落ちたのだった。今まで何度も思ったことだが、額縁は独特な帯状の模様が交錯している見事なものだった。こんな下手な絵が豪華な額に納まっているのは奇妙なことで、ときどき彼はソフィア・フラネリイが安売りでこの額縁を買い、あとでその中を埋めるために花の絵を塗りたくったのではないかと考えた。
冬のはじめの夜は火が消えるとさっそく寒気が押し寄せ、部屋の中は急にひえびえとしてきた。ドアの下から冷たいすきま風が吹きこみ、毀れた額縁の下に落ちていた何かをひらひらと動かした。ウエストレイが屈んで拾い上げると、それは折りたたんだ紙切れだった。
その紙に触れることは奇妙なくらいためらわれた。彼はおよそくだらないことで良心のとがめを感じることがしばしばあったが、そのときもそれに襲われたのだ。自分にはこの紙を調べる権利があるだろうか、と彼は自問した。手紙かも知れないし、どこから出て来たのかも、誰のものかも分からない。他人の手紙を開けるような罪深い真似はまっぴらである。伝説の幽霊捕鯨船フライング・ダッチマンによって手紙の束を甲板に置いて行かれた船長さながら、彼は厳粛な面持ちでそれをテーブルの上に置きさえした。しかし数分後にはその馬鹿馬鹿しさに気づき、注意しながら謎の紙を広げた。
それは古びて黄色くなった細長い紙で、一昔前から広げられぬままおかれていたため幾つもしわが寄っていた。印刷された文字もあれば手書きの文字もあった。それが結婚証明書であることは即座に分かった――法も予言者もしばしば判断の根幹にすえる、あの「結婚証明書」である(註 マタイ伝から)。印刷の細かな空白部分はことごとく書きこみで埋めつくされ、「千八百年三月十五日、セント・メダード・ウィジン教会にて、紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズの息子、独身者ホレイシオ・セバスチャン・ファインズ二十二歳は、商人ジェイムズ・フラネリイの娘、未亡人ソフィア・フラネリイ二十一歳と結婚」したことが証人たちの型通りの宣誓とともに記されていた。その下には乱れた読みにくい字で、今はもう黄色に変色したインクの書きこみがあった。「千八百一年一月二日夜十二時十分過ぎ、マーチン誕生」。彼は紙をテーブルに置き、平らに伸ばした。目の前にあるのはマーチンが一生涯かかって探し、見つけられなかった母親の最初の結婚(唯一の本当の結婚)の証明書だった。マーチンが死の直前につかみかけていた嫡出の正統性のあかし、シャーノールもやはりあと少しでつかめると思っていたのに死に襲われてしまった手がかりだった。
千八百年三月十五日、ソフィア・フラネリイは結婚特別許可により紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズと結婚、千八百一年一月二日夜十二時十分にマーチンが生まれた。ホレイシオ・セバスチャン――この名前をウエストレイは何度も耳にした。この紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズの息子、ホレイシオ・セバスチャン・ファインズとは誰だろう。彼の自問は形だけのものだった。答はちゃんと分かっていたのだ。目の前のこの書類は法的な証明とはならないかも知れないが、キリスト教国の法律家が束になっても、ソフィア・フラネリイが結婚した「紳士」が三年前に八十代でなくなったブランダマー卿に他ならないという彼の確信、直感を変えることはできなかっただろう。彼の目には黄ばんだ紙に揺るぎない権威が備わっているように見えたし、下の隅にのたくるような筆跡で書き留められたマーチンの出生日は、彼が得た情報ともぴたりと一致した。彼は寒さの中、再び椅子に腰かけ、テーブルに肘をついて頭を抱え、この命題に付随するいくつかの結論を引き出した。もしも先代のブランダマー卿が千八百年三月十五日にソフィア・フラネリイと結婚していたのなら、彼の二回目の結婚は無効ということになる。なぜならソフィアはそれ以後もずっと存命だったのだし、離婚手続きは取られなかったのだから。しかし二回目の結婚が無効であるなら、カラン湾で溺れ死んだ息子のブランダマー卿は非嫡出子であり、その孫で現在フォーディングという玉座に座っているブランダマー卿も非嫡出ということだ。マーチンの夢は正しかったのだ。わがままで、浪費家で、怠け者で、子供たちに「雲形じいさん」と呼ばれていたマーチンは結局気が狂っていたのではなく、本当にブランダマー卿だったのだ。
すべてがこの紙切れに、この青天の霹靂に、どこからともなくあらわれたこのメッセージにかかっている。いったいどこから出て来たのだ?ミス・ジョウリフが落としたのだろうか。いや、そんなはずはない。マーチンの書類の錯綜した謎を解こうと、彼が何ヶ月も努力していることを知っているから、こういう情報があれば必ず彼に報告したはずなのだ。きっと絵の後ろに隠されていて、下枠が外れたときに落ちたに違いない。
彼は絵に近づいた。けばけばしい、へたくそな花を生けた花瓶、机の上をのたくる緑の毛虫、しかし下の部分には今まで見たことのなかった何かがあった。枠が毀れてとれてしまった部分に細い筋となって別の絵がのぞいていた。花の絵は別の絵の上に塗り重ねられたようだった。まるでソフィア・フラネリイは画布を取り出しもせず、額縁の端まで稚拙な絵を描きこんだように思われた。この花がもっとできのいい絵を隠していることは疑う余地がなかった。それはきっと肖像画なのだろう。底の部分には茶色いビロードの上着と、茶色いビロードの胴着の真鍮のボタンすら見て取ることができた。彼は蝋燭を近くにかざして幾分なりとも輪郭がたどれはしまいか、背後に描かれているものの形が見定められはしまいかと花の絵をじっと見た。しかし絵の具は容赦なく塗りたくられ、覆いを見透かすことは難しかった。緑の毛虫さえ彼をあざ笑っているようだった。というのはよく見ると、ソフィアは微妙に色づかいを変えて頭の部分に二つの目とにやりと笑った口を茶目っ気たっぷりに描きこんでいたのだ。
彼はもう一度、証明書が広げられたままのテーブルに座った。このマーチンの誕生日はソフィア・フラネリイが書きこんだものに違いない。浮気者で責任感がなく、みずからが描いた花のように見てくれだけで、みずからが描いた毛虫の顔のように人を小馬鹿にしたソフィア・フラネリイが。
物音一つしない静寂、真夜中過ぎの田舎を包む完全な沈黙があたりを蔽っていた。大きな音で時を刻むマントルピースの時計だけが時間の経過を告げていたが、とうとう聖セパルカ大聖堂の組み鐘が「新しき安息日」をかなで沈黙を破った。三時だった。部屋の中はすっかり冷え切っていたが、その程度の寒気は胸の中にはい上ってくる寒気に比べれば何ほどのものでもない。今こそ真相を突き止めた、と彼は思った――アナスタシアの結婚の秘密、そしてシャーノールとマーチンの死の秘密を知ったのだ。
第二十一章
南東の基柱の補強に当たっていた石工頭が次の日の九時にウエストレイに会いに来た。人夫たちが夜明け直後に塔へ行ってみると、夜のうちに新たに動いた形跡が見つかったので、建築家に急いで聖堂に来てもらおうと思ったのだ。しかしウエストレイは外出していた。朝一番の汽車でカランを離れロンドンにむかったのだ。
同じ日の午前十時頃、建築家はウエストミンスターの小さな画商の店にいた。花と毛虫の絵の画布がちょうど額縁から取り出され、勘定台の上に載せられたところだった。
「いいや」と画商が言った。「この額縁には紙もはさまっちゃいないし、何の裏張りもないね――ほら裏はただの木だよ。裏張りはめったにないんだが、しかしたまにそういうのもあることはある」――彼は弛んだ額縁のまわりをこつこつと叩いていった。「これは値の張る額だな。丁寧に作ってあるし、金めっきも上等だ。この落書きの下に立派な絵があったとしても驚かないね。たいしたことのない絵ならこんな額縁にはめることはないだろうから」
「下の絵を傷つけないで上の部分をきれいに取り去ることはできますか」
「もちろんさ」と男は言った。「これより難しいやつを何度もやってきたんだ。二日ほどうちに預けてくれれば、なんとかしてみるがね」
「もっと早くできませんか」とウエストレイが訊いた。「ちょっと急いでいるんですよ。ロンドンまで出てくるのは大変だし、それに取り除く作業を最初から見ていたいんです」
「そう心配なさることはない」と相手は言った。「わたしを信じて任せなさい。こういうことは慣れているから」
ウエストレイはまだ不満そうだった。画商は店の中を見回した。「そうだなあ」と彼は言った。「今朝は客があまり来ないようだから、それほどお急ぎとあれば、今ちょっとだけ作業してもいいよ。奥の間のテーブルに置こうかね。店に客が来ても分かるように」
「顔のあたりから始めてください」とウエストレイは言った。「誰の肖像画なのか、つきとめましょう」
「だめだめ」と画商は言った。「顔は大事を取って後回し。あまり重要でないところから試していこう。絵の具の剥げ具合を見て、重要な部分をどうするか方針を立てるのさ。そら、机の表面と毛虫から始めるよ。この毛虫はいたずら者が顔を描き加えただけじゃなく、なんだか変なところがある。わたしはどうも毛虫ってのが苦手でね。こりゃあ、なんだか、もとの絵がここからのぞいているみたいだな。もっとも毛虫がどうすりゃ肖像画に紛れこむのか、見当もつかんが」画商は人差し指の爪を軽く絵の表面に走らせた。「ここだけ引っこんでいるようだな。落書きの絵の具が縁にそって盛り上がっているのが分かる」
彼の言う通りだった。緑の毛虫は確かに下の絵の一部をなしているようだった。男は瓶を取り出し、刷毛で絵の上に溶液を塗った。「乾くまで待つんだ。泡が出て表面がちりちりに縮れるから。そいつを上から布でそっとぬぐえば下の絵が見えるってわけさ」
「この机を描いたやつ、べたべたに絵の具を塗りやがったな」と半時間後、画商は言った。「そのほうがわれわれには都合がいいんだが。それ、皮みたいに剥がれてきただろう」彼は柔らかいネルの布を使ってやさしく絵の具をぬぐった。「ほう、こりゃあ、たまげた」と彼は言った。「上の方にも毛虫がいるぞ。いや、毛虫じゃないね。しかし毛虫でないなら何だろう」
なるほど確かに別の緑の線が波うっていた。ウエストレイはそれを見るなりすぐさまその正体に気がついた。「気をつけて」と彼は言った。「それは毛虫じゃありません。紋章の一部なんです――紋章の盾に描かれている横棒みたいな線です。下の方にそれより短い線がもう一本出てくるはずです」
彼の言う通り、一分もすると雲形紋章の銀色の地と、三本の海緑色の横線が輝くようにあらわれた。その下にはブランダマー・ウインドウのいちばん上の仕切りに輝いているのと同じ座右銘「ファインズにあらざれば死」が見えてきた。ソフィアが毛虫に変えてしまったのは真ん中の横線で、単なるいたずら心から、他の部分はわざと塗りつぶしたのに、ここだけ元の絵がのぞくように残したておいたのだった。ウエストレイは興奮が抑えきれなくなった――じっとしていられなくなった。一方の足に体重を乗せたかと思うと、次の瞬間には逆の足に体重を乗せかえ、ドラムを鳴らすようにテーブルを指で叩いた。
画商は建築家の腕に手を置いた。「頼むから静かに!」と彼は言った。「興奮しなさんな。金鉱を見つけたわけじゃないんだから。これは一万ギニーのヴァンダイクじゃないよ。どういう絵なのかまだ分からんが、二十ポンドもしないことは賭けてもいい」
ウエストレイはもどかしくて仕方がなかった。ようやく肖像画の頭まで作業が進んだのは、午後も相当遅くなってからのことだった。邪魔が入ることはほとんどなく、画商は一度ならず、今は客足の少ない時期でね、などと言い訳する必要を感じたくらいだった。彼はいかにもこの仕事に興味をひかれた様子で、熱心に作業をつづけ、とうとう外は日が暮れはじめた。「大丈夫だよ」と彼は言った。「ランプを持ってくる。ここまで来たんだ、もうちょいやってしまおう」
数分後、それは正面をむいた肖像画であることが分かった。ランプを持つウエストレイは、若々しいしわのない顔があらわれてくるに従い、不思議な戦慄が身体に走るのを感じた。この広い額には見覚えがある――これはアナスタシアの額だ。その上にはアナスタシアの黒く波うつ髪がある。「ありゃ、やっぱり女か」と画商は言った。「いや、違うな。女が茶色いビロードの上着に胴着を着るわけがないからな。巻き毛の若い男だね」
ウエストレイは何も言わなかった。彼は口がきけないくらい興奮していた。それというのも、靄のなかから二つの目が彼を見つめていたからである。靄は画商の布の下で消え、目は驚くほどの輝きを放った。それは澄み切った、鋭い、明るい灰色の目で、彼を金縛りにし、心の奥底まで見通してしまった。アナスタシアは消えた。絵の中から彼を見ているのはブランダマー卿だった。
今と変わらない、謎めいた、油断のないブランダマー卿の目だったが、そこにはまだ若さの輝きがあった。顔に中年の翳りはなく、絵が中年になる数年前に描かれたものであることを示していた。今こうして蘇った顔に目を据えたまま、ウエストレイはテーブルに肘をつき、両手で頭を抱えた。目は彼を追いかけ、逃れることは不可能だった。絵の隅に配された雲形紋章を一瞥することさえできない。心の中にはまだ答の見つからない疑問が渦を巻いていた。この肖像画が手がかりになるかも知れないある謎が存在しているのだ。彼は恐るべき真相に到達しかけていた。この絵と関連のありそうな事件をことごとく思い起こしたが、それらをつなぐ糸が見つからない。この顔はブランダマー卿が若いときに描かれたものだ、それは間違いない。しかしソフィア・フラネリイがこの絵を見たなどということがありうるだろうか。ミス・ユーフィミアが思い出すかぎり、この絵は花と机と毛虫の絵でしかなかった。その期間は六十年になる。しかしブランダマー卿は四十をいくつか超えた年齢でしかない。ウエストレイは顔を見つめているうちに、若者が中年に移行したというだけでは説明できない小さな差異に幾つも気がつきはじめた。そこで彼は、これは彼の知っているブランダマー卿ではなく、先代のブランダマー卿――三年前に八十代で死に、ソフィア・フラネリイと結婚したあの紳士ホレイシオ・セバスチャン・ファインズなのだと推測した。
「一級品じゃないが」と画商は言った。「しかし悪くないですな。ローレンスの作だとしてもおかしくはない。ともかく花よりはずっとましだね。こんな立派な若者の上にあんな絵を塗りたくるとは、ひでえ野郎もあったもんだ」
次の日の晩、ウエストレイはカランに戻った。いろいろと考えることがあったものだから、つい下宿の女主人に帰ることを伝え忘れ、雑役婦が言うことをきかない火を熾そうとやっきになっているあいだ、苦虫をかみつぶしながら突っ立っていた。薪の枝は数が少なく湿っており、その下の新聞紙は濡れていて、いちばん上にはしけった石炭が重くのしかかっていた。よどんだ黄色い煙が煙突の前でたじろぎ、炉棚にかけられた梳毛糸製の房べりの下から冷え冷えとした部屋の中に渦を巻きつつ流れ出した。この不都合は、帰宅の予定を知らせなかったおのれのうかつさのせいだと思うと、ウエストレイはいっそう苛立ちをつのらせた。
「何だって火を焚いていないんだ」彼は咎めるように言った。「こんな寒い晩に火も入れず部屋にいられるわけがないじゃないか」不愉快な状況を際だたせるように、窓の合わせ目からすきま風がわびしくひゅーと音を立てた。
「あたしのせいじゃないわよ」腕の赤い、石炭で黒く汚れたお転婆娘が膝をついたまま顔を上げていった。「奥様のせいだわ。『この前、あの人、石炭代のことで文句言っていたわね。石炭入れ一杯六ペンスもするんだから、火を入れるのは止めておくわ。今晩帰るかどうかも分かりゃしないんだから』って言ったのよ」
「だがね、ちゃんと火がつくように用意をしておいてもよかっただろう」建築家は三度目のたきつけが失敗に終わったのを見ながら言った。
「一所懸命やってるわよ」彼女は哀れっぽい口調で言った。「でも何でもできるってわけじゃないですからね。他にも料理したり、掃除したり、伝言のために階段を上り下りしたり、一分おきに御前様が来るもんだから、そのたびに応対しなきゃならないのよ」
「ブランダマー卿がここに来たのかい」とウエストレイは訊いた。
「ああ、あんたに会いに昨日も来たし、今日も二回来たよ」と彼女は言った。「伝言を残していったわ。あれ」――彼女は炉棚の端を指さした。
ウエストレイは振りむいて黒い縁取りの封筒を見つけた。上書きの力強い大胆な筆致は見慣れていたが、今それは恐怖の戦慄にも似た何かを彼に与えた。
「もういいよ」彼は急いで小間使いに言った。「火がつかないのはきみのせいじゃない。きっともうすぐ燃え出すさ」
娘は素早く立ち上がり、火がつかず、再び真暗になった火床に呆然と目をむけ、部屋を出た。
一時間後、日が陰りはじめた頃、ウエストレイは闇に覆われていく寒い部屋の中で再び椅子に腰かけた。目の前のテーブルにはブランダマー卿の手紙が広げてあった。
親愛なるミスタ・ウエストレイ
昨日もお宅を訪問したのですが、あいにくお出かけのようでした。そこでこの伝言を残すことにします。ベルヴュー・ロッジのあなたの居間に、古い花の絵がかかっていましたが、わたしの妻があの絵に関心を示しています。彼女が愛着を覚えるのは、幼い頃の思い出があの絵に詰まっているからで、もちろん絵それ自体に価値があるからではありません。あれはミス・ジョウリフの所有物だと思っていたのですが、彼女に尋ねたところ、しばらく前にあなたに売ったため、今はあなたのものだということですね。あなたにとって特に価値のある絵とは思えませんし、慈善のおつもりでミス・ジョウリフからお買い取りになったのではないかと愚考します。もしもそうでしたら妻がこちらに飾りたいと思っていますので、引き取らせていただけるとありがたいのです。
塔がまたもや動いたと聞き、残念に思います。わたしたちの帰還を迎えてくれたピールが建物に損傷を与えたのだとしたら、わたしたちにとってこんなに悔やまれることはありません。しかしご承知の通り、すみやかに万全の補強をするためなら、いくら金がかかろうとも費用は出し惜しみしないつもりです。
誠実なるあなたの友
ブランダマー
ウエストレイは意欲的で感受性が強く、今も若者らしい高揚や失望に振り回されていた。いろいろな考えが、うろたえてしまうほどの速度で次から次へと浮かんできた。それこそ引きも切らずつながって浮かんでくるものだから、順番に整理するいとまもなかった。興奮のあまり頭がくらくらした。僕は法の代理人となることを要請されたのだろうか。神に代わって罰を下すよう選ばれてしまったのだろうか。僕の手は罪人にいかずちを投げつけねばならない手なのだろうか。謎の解決はまっすぐ僕のところへやって来た。テーブルの上に開かれたこの手紙こそ、その間接証拠でなければ何だというのか!部屋を満たす暗闇の中でもう文面はよく読み取れなくなっていたが、しかしそれは証拠を握っているものには明白な有罪のしるしだった。
フォーディングに君臨するこの男は他人の財産を享受する偽者、何も知らないアナスタシア・ジョウリフをためらいもなく娶り、そのように身を落とすことで己の詐欺的行為を隠蔽しようとする恥知らずの悪党なのだ。ブランダマー卿は存在しない。爵位などないのだ。そんなものはトランプで作った家みたいに一吹きで崩れ去る。しかしそれで何もかもおしまいなのか。他には何も残らないのか。
夜になった。ウエストレイは独り暗闇の中に座し、両肘をテーブルについて両手でじっと頭を抱えていた。暖炉に火はなく、灯りもついておらず、ただ遠くでかすかにちらつく街灯だけが暗さの感覚をもたらした。その青白く頼りない光が、別の晩のことを思い出させた。霧にぼやけた月明かりが聖セパルカ大聖堂の明かり層の窓から差しこんでいた晩のことだ。彼は再び幽霊の出そうな身廊を歩き、白い経帷子を着た巨人のような柱を通り過ぎ、塔を支える大アーチの下を進んでいくような気がした。もう一度螺旋階段の真暗闇を手探りし、もう一度オルガンのある張り出しにでて、袖廊の窓に輝く、不吉な銀と海緑色の雲形紋章を見た。張り出しの隅には悪霊たちがうごめき、シャーノールの薄い青ざめた影が両手をもみ合わせ、ハンマーを持った男に命乞いの叫びをあげた。するとそれまで彼に取り憑いていたおそろしい疑惑が事実となって暗闇から彼をじろりと見つめた。彼は寒さに震えながらはじかれたように立ち上がると蝋燭に火をつけた。
一時間、二時間、三時間が経って、ようやく彼は目の前の手紙に返事を書いた。そのあいだに彼の心には新たな変化が起こっていた。彼、ウエストレイは、復讐の道具に選ばれたのだ。手がかりは彼の手中にある。彼の口は有罪を宣告せねばならない口である。しかし卑怯な真似は一切するまい。不意を襲うような真似は決してするまい。ブランダマー卿には秘密を突き止めたことを話し、これ以上何かする前に警告を与えてやろう。そこで彼はこう書いた。
「御前様」。それから手紙が書き終わるまで、何枚もの紙が使われては捨てられた。そのうち二枚は書き慣れた「親愛なるブランダマー卿」という呼びかけが思わずウエストレイのペンから飛び出してしまったために握りつぶされた。今となってはもうこのことばは形式的な挨拶としてさえ使えない。そこで彼はこう書いた。
御前様
ミス・ジョウリフから買い上げた絵画の件に関するお手紙、ただいま落手いたしました。この絵は特別の事情がないとしても、お渡ししてよいものか確信がありません。絵そのものに価値がないことは明らかですが、わたしにとっては親友ミスタ・シャーノール、聖セパルカ大聖堂のオルガン奏者の思い出の品なのです。わたしたちは共同で絵を購入し、彼が死んだときはわたしが一人で所有することになっていました。彼が死んだ奇怪な状況はお忘れではないでしょうし、わたしも忘れてはいません。親友だったミスタ・シャーノールがこの絵に深い関心を寄せていたことは、彼を知る人のあいだでもよく知られていました。これは見かけ以上に重要なものであると信じ、わたしにむかってもその点を強調していました。確かあなたの前でも一度そう言ったことがあると思います。
早すぎる死が訪れなければ、偶然わたしが手に入れた秘密の真相を、彼もとっくの昔につかんでいたのではないでしょうか。花の絵はただ表面を覆うためのものに過ぎず、その下には紛れもなく先代のブランダマー卿の肖像画が隠されていたのです。そして画布の後ろからは彼に関する教会区記録登録証が見つかりました。それらをあなたにお渡しして、それで終わりとなればこんなに嬉しいことはありません。しかしこれらは過去の出来事を今までになかった角度から照らし出すものであり、わたしは義務としてこれらを保管し、いかなる個人にも引き渡すことができないのです。同時に絵と書類は、あなたがご覧になってみずからその重要性を判断なさりたいというのであれば、お見せしないわけにはいかないと感じます。わたしは上記の住所に住んでおり、来週の月曜日までならいつでもお会いすることができます。ただし月曜日を過ぎた場合は、この件に関しさらなる一歩を踏み出さなければならないと考えます。