午後になるとそわそわした気分はいちだんと烈しくなり、ぼんやりと町の通りや狭い路地をうろつき、気がつくと、黄昏の迫るカル川の岸辺、オルガン奏者が人生最後の晩に足を止めたあの場所に来ていた。鉄柵に寄りかかり、ミスタ・シャーノールと同じように汚れた川を眺めた。女の髪の毛のような暗緑色の浮き草が浅瀬の小さな渦に巻かれて揺れていた。底には毀れたがらくたが汚らしく沈んでいる。じっと見ていると、闇がそれらを一つ一つ隠していき、割れ皿の白さだけが水底でちらちらと光った。
彼は重罪犯人のように元気なく部屋に戻り、早めに床に就いたのだが、夜が明けはじめるころまで眠りは訪れなかった。空が白みはじめるとともに不安な眠りにつき、大勢の傍聴人が見守るなか、証人席に着いている自分の夢を見た。被告人席には貴族の衣装をまとい、コロネットを頭にいただいたブランダマー卿が立っていた。全員の視線が彼、ウエストレイに注がれていた。激しい敵意と軽蔑をこめた視線だった。しかも峻厳な顔の裁判官によって中傷と誣告の罪を宣されているのはウエストレイのほうだった。傍聴席の人々は足をならし、彼に怒号を浴びせた。はっと目を覚ますと、彼の眠りを破ったのは、郵便屋が入り口のドアをノックする大きな音であることに気がついた。
下に降りると恐れていた手紙がテーブルの上に載っていた。封を開けることには強い抵抗感があった。はたして筆跡は今でも同じだろうか、と彼はそんなことまで考えかけた。文字が震えているのではないか、インク自体も血のような赤ではないか、彼はまるでそんなことを恐れているかのようだった。ブランダマー卿はウエストレイの手紙に対して感謝を述べていた。もちろん絵と、あなたがおっしゃっていた当家に関わる書類を拝見させていただきたい。厚かましいお願いだが、フォーディングまで絵を持ってきてもらえないだろうか。お手数をかけて申し訳ないのだが、フォーディングの陳列室にはもう一枚絵があり、今回発見されたものと興味深い比較ができるであろうから。何時の汽車で来られるにしても、それに合わせて馬車をお出しする。ご都合さえよければフォーディングで一泊していっていただきたい。
文面には驚きや好奇心、憤慨や恐れを示すものは何もなかった。実のところ、鄭重きわまりないことば遣いで、いつもよりやや疎遠な感じはしたものの、極端にそうというわけでもなかった。
ブランダマー卿の返答にいかなる意図があるのか、ウエストレイには想像もつかなかった。いろいろな可能性は考えていた。詐欺師は逃げ出すかも知れないし、口を封じるために気前よく金を使うかも知れない。慈悲を求めて情熱的に懇願するかも知れないし、嘲笑・憤慨しながら否定するかも知れない。しかしさんざん想像を巡らしたにもかかわらず、こんな態度に出られるとは思ってもいなかった。手紙を出してから、はたしてそれが賢明な措置であっただろうかと、彼は疑問に思っていた。しかしそれ以外によさそうなやり方は考えつかなかった。犯罪者に警告を発するなど、おそよ馬鹿げた振る舞いであることは分かっていたが、しかしブランダマー卿には、自分に不利な証拠として使われる前に、自分の家族の肖像や書類を見るなにがしかの権利があるように思えたのだ。その機会を与えたことを後悔はしていない。もっともブランダマー卿が誘いにのってこなければいいがと、切望していたことも事実だったけれど。
だが、フォーディングに行くことはできない。どんなに正々堂々と戦うにしろそれは無理だ。その点だけははっきりしていた。すぐに断りの返事を書こうと紙を一枚取り出した。自分の家の番地、通りの名前、カラン、そして今度も「御前様」という格式張った呼びかけを使った。そこまではすらすらと運んだ。しかしその後は?何といって断ればいいのだろう。支障になりそうな仕事の約束とか大切な用事があるわけではない。自分の口から一週間は身体があいているから、面会の日取りはブランダマー卿が好きなように決めていいと言ったのだ。彼のほうから面会を申し出ておきながら、今更それを引っこめるのは自分勝手、卑劣の極みである。確かにこの面会のことは、考えれば考えるほど、尻ごみしたくなった。しかしもう避けることはできない。何だかんだ言っても、自分に課した任務のなかで一番容易な部分なのである。これは彼が最後まで演じなければならない悲劇の序幕に過ぎないのだ。ブランダマー卿が、彼の上に降りかかるべき、ありとあらゆる災いに値することは間違いないが、しかしそうはいっても彼、ウエストレイは、おのれの手中にある男の、このささやかな望みを拒否することができなかった。
そこで彼はおずおずと、しかし別の確固たる目的を心に秘めて、翌日フォーディングへ絵を持っていく旨、手紙に書いた。駅まで出迎えに来る必要はありません。午後到着しますが、夕方にはロンドンに行く用事があるのでせいぜい一時間しかそちらにはいられないのです、と。
午前中はすばらしい秋晴れだった。朝もやがすっかり消えると、驚くほど暖かい日差しがさして、庭多きカランの、露に濡れた芝生を乾かした。お昼近くになってウエストレイは下宿から駅へむかった。軽く木摺で梱包した絵を脇に抱え、額縁から落ちた例の書類をポケットに入れていた。彼は裏通りを選んで足早に進んだが、地元で銃と釣り竿作りをしているクワドリルの店を通るとき、ふとある考えが浮かんだ。彼は店に立ち寄った。
「おはよう」と彼は勘定台の後ろに立っている鉄砲鍛冶に言った。「拳銃はあるかい。ポケットに入るくらいの小ささで、おもちゃよりは威力のあるのが欲しいんだ」
ミスタ・クワドリルは眼鏡を外した。
「分かりました」彼は瞑想にふけるように眼鏡で勘定台を叩いた。「そうですね。おや、ミスタ・ウエストレイじゃありませんか、聖堂を修復している建築家さんの」
「そうです」とウエストレイは答えた。「ちょっと実験したいことがあって、拳銃がいるんです。そこそこ重い弾丸が飛ばせるものがいいんですが」
「なるほどね」と男は安心したように言った。ウエストレイの落ち着いた様子を見て、自殺を図ろうとしているのではないと確信できたのだ。「なるほど、分かりましたよ、実験ですね。それでしたら、素早く銃弾を装填できる特別仕様のやつは必要ないですね。そうでなければこういうのをおすすめするところなんですが」彼は台の上から武器を一つ取り上げた。「こいつはアメリカから輸入した最新式ですよ。回転式拳銃を呼ばれています。四発、お好きなだけ素早く発射できます」彼はどれだけ軽快に動くか、拳銃をカチカチと鳴らして見せた。
ウエストレイは拳銃に触れ、銃身を見た。
「うん」と彼は言った。「これは僕の目的にぴったりだ。ポケットに入れて歩くにはちょっと大きいけど」
「ああ、ポケットに入れるんですか」鉄砲鍛冶はあらためて驚いたように言った。
「ええ、そう言ったでしょう。持ち歩く必要があるかも知れないから。でも、これでもいいかな。今、弾をこめてもらえます?」
「大丈夫ですかね」と鉄砲鍛冶は言った。
「それはきみにこそ聞きたいね」ウエストレイは笑いながら答えた。「まさかポケットの中で暴発しやしないだろうね」
「とんでもない。その点は大丈夫」と鉄砲鍛冶は言った。「引き金を引かないかぎり発射しません」彼は火薬を注意深く計量し、詰め綿を押しこんで弾を四発装填した。「もっと弾薬がいるようになるでしょうね」
「だろうね」と建築家は答えた。「でもそれはあとで買うよ」
リチェット駅を出ると大型の有蓋馬車が待っていた。リチェット駅はフォーディングに行く人がときどき使う街道沿いの小さな駅だ。ここから屋敷まで七マイルほど馬車に揺られるのだが、彼はじっと考え事をしていたため、公園の入り口に馬車が停まるまで、まわりのことを何も意識しなかった。門番がかんぬきをはずすあいだ、彼はしばらく足止めされたのだが、そのとき自分が手のこんだ鉄細工や巨大な門の上の雲形紋章を見ていたことは後になって気がついた。彼はいま長い並木道を進んでいた。この道がもっと長ければいいのに、つきることがなければいいのに、と思ったとき、馬車がまたもや停まり、窓のむこう側から馬に乗ったブランダマー卿が話しかけてきた。
一瞬の沈黙があり、二人の男はまっすぐ相手の目をのぞきこむことになった。そのまなざしによってどちらの側も、もしや自分の思い過ごしではないかという疑いを捨てた。ウエストレイは裸の真実と顔をつきあわせたかのように強烈な衝撃を受け、ブランダマー卿はウエストレイの心を読み取り、相手がどこまで事実をつかんだのかを悟ったのである。
ブランダマー卿が最初に話しかけた。
「またお会いできてうれしいです」あくまで礼儀正しかった。「わざわざ絵をお持ちいただいて感謝します」彼はウエストレイがむかいの席に載せ、手で押さえている木枠を一瞥した。「リチェット駅にお迎えの馬車を送りたかったのですが、お断りになったのは残念です」
「ありがとうございます」と建築家は言った。「今回は一切お世話になりたくなかったのです」そのことばは冷たかった。また冷たく響くよう意図されたものだった。しかし悲しげな表情が一種の魅力を添えている重々しい顔と、穏やかな態度を見ると、自分の発言をいくらか和らげずにはいられなかった。「その、列車が遅れるかも知れないと思って」
「わたしは芝生を横切って帰ります」とブランダマー卿は言った。「でも、わたしのほうが先に屋敷に着くでしょう」彼は馬を疾駆させ、ウエストレイはその乗馬術の実に巧みなことを認めた。
わざとこんなふうに出会いを仕組んだのだな、会見が息苦しくはじまり、決まり悪い思いをすることがないように、と彼は推測した。以前のような友情がもはや維持できないことは明らかだった。このまま会っていたら握手を交わすことなど不可能だったろう。ブランダマー卿にはそのことがきっと分かっていたのだ。
ウエストレイがイニゴウ・ジョーンズの手になるイオニア式ポーチに足を踏み入れると、ブランダマー卿が横の出入り口からあらわれた。
「長い馬車旅で身体が冷えているでしょう。ビスケットとワインはいかがです?」
ウエストレイは召使いが差し出した飲み物を身振りで断った。
「いいえ、結構です」と彼は言った。「何もいりません」この屋敷で飲み食いすることはできなかった。しかしやはりこう言い添えて語調を和らげた。「途中で食べてきましたから」
建築家の拒否をブランダマー卿は受け入れた。受け取られないことは話す前から分かっていた。
「一晩お泊まりいただきたいのですが、ご都合が悪いようですね」と彼は言った。ウエストレイはそれに対する返事を用意していた。
「ええ、リチェット駅から七時五分の汽車に乗ります。馬車に待っているよう命じておきました」
彼が言ったのはロンドンにむかう最後の汽車だった。ブランダマー卿は訪問者が何もかも事前に用意をととのえていて、会見が一時間以上はつづかないことを知った。
「カラン街道駅から夜行郵便列車に乗ることもできますよ」と彼は言った。「馬車でかなりの道のりを行かなければなりませんが、わたしはときどきあれでロンドンへ行きます」
そのことばでウエストレイは突然思い出した。霧をすかしてカラン街道駅の灯をぼんやり見ながら夜中に徒歩旅行したこと、シャーノールがなくなった晩にブランダマー卿が郵便列車に乗りこんだと駅長が話していたこと。彼は何も言わなかったが、決意がいっそうかたくなるのを感じた。
「絵の梱包を解くには陳列室が一番便利でしょう」とブランダマー卿は言い、ウエストレイは相手の様子から、そこが邪魔される恐れのない場所なのだろうと判断し、即座に同意した。
彼らは絵を運ぶ召使いに先導されながら幅が広くて段の低い階段を登った。
「下がっていい」ブランダマー卿は召使いに言った。「荷を解くのはわれわれだけで十分だ」
包みと取り除くと、彼らは棚になった陳列室の羽目板の上に絵を載せた。画布からは先代のブランダマー卿が、眼光鋭い灰色の目で二人を見ていた。その前に立つ孫の目とまったく同じ目だった。
ブランダマー卿は一歩下がって男の顔をじっと眺めた。子供の頃の彼を怯えさせ、その後の人生を翳らせ、いま墓から蘇り彼を破滅させようとしている男。この男自身も窮地に追い詰められたことを理解しているのだろうか。今こそ最後の抵抗を試みなければならない。今はまだ彼とウエストレイだけの問題なのだから。他には秘密を知るものは誰もいない。彼はウエストレイの突拍子もない道義心をよく知っていたし、密かにそれを当てにもしていた。ウエストレイは次の月曜日まで「さらなる一歩を踏み出さない」と書いたのだから、その日まで秘密が漏れることはないだろうし、実際、秘密を聞いた者はまだ誰もいないとブランダマー卿は確信していた。ウエストレイを黙らせることができればすべてが保たれ、ウエストレイが喋ればすべてが失われる。武器や腕力が問題なら、戦いがいずれの勝利に帰するかは火を見るよりも明らかだった。ウエストレイはようやくこのことに気がついて外套の内側の胸ポケットをふくらませている拳銃を心から恥じた。襲いかかるつもりだったのなら、そんな武器を使う時間や余裕はまったくなかっただろうと彼はいま悟った。
ブランダマー卿は北と南、東と西を旅してきた。世にも奇妙なことを目にし、おこない、生存者はたった一人という戦いに命を賭したこともある。しかし今は血と肉が問題となっているのではない――立ちむかわなければならない相手は原理原則、もしかしたら執行猶予を与えてくれるのではないかと彼が期待をかける原理原則そのものだった。彼は説得も賄賂も受け付けないウエストレイの節義とむかい合わなければならないのだ。見たことがなかったその絵を、彼はしばらくじっと眺めていたのだが、しかしそのあいだも彼の注意はずっと横に立つ男に集中していた。これが最後のチャンスだ――間違いは許されない。彼の魂、あるいは呼び名はともかく疑いもなく肉体ではないものが、相手を支配しようと、ウエストレイの魂に必死の闘争を挑んでいた。
ウエストレイははじめて絵を見るわけではなかったので、一目見るなり、あとは傍観者のように立っていた。会見は予想していた以上に苦痛に満ちていた。ブランダマー卿の顔を見ないようにしていたが、やがてふとした動きに振り向くと相手と目がかち合った。
「ええ、これは祖父ですよ」
どうということのないことばだったが、ウエストレイはある恐るべき告白が自分の意に反して押しつけられたような気がした。まるでブランダマー卿が欺くことを止め、自分に対する告発をすべて暗黙のうちに認めたかのようだった。建築家は今や自分が個人的な敵と見なされているような気がした。それまでそんなふうに考えたことは一度もなかったのだが。絵と書類を偶然手に入れたことは事実だが、彼の行動はいずれも義務感に突き動かされてのものだと思っていた。
「書類も見せていただける約束でしたね」
ウエストレイはひどくつらそうに書類を渡した。中身を知っているだけに、わざと相手を侮辱しているようだった。こんな会見の約束などしなければよかったと痛切に思った。その筋にすべてを委ね、報いの降りかかるに任せておくべきだった。こんな会見をしても、後味の悪い思いをするだけだ。おかげで今、彼、ウエストレイは、ここ、ブランダマー卿の屋敷で、卿の父親が非嫡出子で、卿にはこの屋敷を――いや、それ以外の何物をも――継ぐ権利がないことを示す証拠を差し出しているのだ。
ブランダマー卿にとってもそのような情報が年若い男に握られていることを知ったのは苦々しい瞬間であったはずだ。しかし普段より顔に赤みがさしていたとはいえ、自制心は試練に耐えて憤りを押さえつけた。意味のないことを言う時間も、する時間もないのだ。感情にとらわれている暇はない。あらゆる注意を目の前の男に集中させなければならない。彼は身じろぎもせず書類をじっくりと調べているようだった。実際、何回にもわたる慎重な調査も突き止めることのできなかった名前と場所と日付を読んでいた。しかしそのあいだも一心に次に打つ手を模索し、ウエストレイに考え、感じる時間を与えていたのだ。顔を上げるとまた二人の目が合った。今度はウエストレイが赤くなる番だった。
「この証明書が本物であることは確認なさったのですね」ブランダマー卿はごく静かに尋ねた。
「ええ」とウエストレイは言った。ブランダマー卿は一言も言わずそれらを返すと、陳列室の中を反対側にむかって歩き出した。
ウエストレイは拳銃でほぼ一杯のポケットに書類をくしゃくしゃにして突っこんだ。書類を見えないところに片付けたとき、彼はほっとした。もうそんな物を手に持っていたくはなかったのだ。まるで敗北した戦士が武器を捨てたかのようだった。この書類を見てブランダマー卿は所有するものすべて、土地も命も家門の名誉も敵の手に明け渡したように思えた。弁解も否定も抵抗もせず、まして嘆願などするわけがなかった。ウエストレイはその場の支配を任され、彼がよかれと思うことを何でもやらなければならなかった。この事実は今までにもまして彼の目にはっきりと映った。秘密を握っているのは彼だけなのだ。それを公開する責任は彼にある。彼は呆けたように絵の前に立ち、絵の中からは先代のブランダマー卿が鋭く射抜くような目で彼を見返した。何も言うことができなかった。ブランダマー卿の後を追うことはできなかった。これで会見は本当に終わったのだろうかと思い、次に踏み出さなければならない一歩のことを考えて、嫌な気分になった。
数ヤード離れたところでブランダマー卿は立ち止まり振り返った。それをウエストレイはついてくるように、という誘いか命令であると理解した。彼らは貴婦人の肖像画の前に立ち止まったが、ブランダマー卿が手を置いて注意をむけさせたのは額縁のほうだった。
「これは祖母です」と彼は言った。「二つ一組の絵なんですよ。同じ大きさ、額縁の刳形も同じ細紐の交差模様、紋章も同じ位置に描かれています。お分かりになるでしょう?」ウエストレイが黙ったままなので彼はそう付け加えた。
ウエストレイはもう一度視線を合わせざるを得なかった。
「分かりますよ」と彼は渋々言った。ミス・ジョウリフの家にかかっていた絵の、一風変わった刳形と大きさを見て、目の前の男がとうの昔にその正体を見破っていたことを彼は知った。彼のもとを訪れ、聖堂の見取り図を調べたり、議論しているあいだも、ずっとブランダマー卿は花の下に隠されているものを、そして身をくねらせる緑の毛虫が雲形紋章の横棒の一つに過ぎないことを、知っていたに違いない。忘れることも、他人に漏らすこともできない告白がウエストレイに押しつけられた。彼は「後生だから、そんなことを言うのは止めてくれ、こんなふうに自分に不利な証拠を差し出すのは止めてくれ」と叫びたかった。
また短い沈黙があり、ブランダマー卿がくるりとむきを変えた。彼はウエストレイも同じようにむきを変えるだろうと予想していたようだった。耳に聞こえてきそうな静寂の中、彼らは陳列室の柔らかい絨毯を踏みしめ、来た道を戻っていった。空気は運命の予感に満ち溢れ、ウエストレイは息が詰まりそうだった。心は制御を失い、思考は恐るべき混乱の中に呑みこまれていた。ただ一つ残っていたのは頑固な責任感だった。その責任とは義務のように証拠という長いくさりに輪をつなぎ足していくことではない。事件はいま動きを止めており、それを再び動き出させることが彼の唯一なすべきことであり、彼一人にしかできないことだった。耳の中で何週間か前の日曜日にカラン大聖堂で聞いた一節が繰り返されていた。「我神ならんや、爭《いかで》か殺すことをなし生すことをなしえん」。しかし義務は彼に進むことを命じ、結果は分かりきっていたが、彼は進まなければならなかった。彼は死刑執行人の役を演じるのだ。
彼がその運命を決する相手は一歩一歩静かに彼と歩調を合わせた。一人きりになれる時間がほんの少しあれば、乱れる心を整理することができるかも知れない。彼は他の絵の前に立ち止まり、見つめるふりをしたが、ブランダマー卿も立ち止まって彼を見た。ブランダマー卿に見られていることは知っていたが、視線を返そうとはしなかった。ブランダマー卿としてはただ客に失礼にならぬよう立ち止まっただけのようだった。ミスタ・ウエストレイは絵の中の何枚かに格別の興味を抱くかも知れず、もしも説明が必要ならすぐそれを提供できるよう気を配るのがもてなす者の役割である。ウエストレイはさらに一度か二度立ち止まったが、いつも結果は同じだった。自分の見ているのが肖像画なのか風景画なのか、それすら分からなかった。ただ、陳列室の途中の床に未完成の絵があって、表を壁にむけて立てかけてあることはぼんやりと意識した。
ウエストレイが立ち止まるとき以外、ブランダマー卿は右も左も見ずに、背中に回した両手を軽く組んだまま歩きつづけた。目を床にむけ、物思いを断ち切ろうとするそぶりも見せなかった。相手が何を考えているのか、理解することも推測することも、とうていできなかったが、その平静で決然とした態度には不本意ながらも感心せずにはいられなかった。ウエストレイは巨人の横にいる子供のような気分だった。しかし、それでも自分の義務を果たすということについては少しの疑問も抱いていなかった。だが何と難しい仕事だろう!なぜ愚かにもこんな絵と関わりを持ってしまったのだろう。なぜ自分のものでもない書類を読んだりしたのだろう。とりわけ分からないのは、疑惑を確かめるためにフォーディングにのりこんで来たことだ。関係もないのに、何だってこんな事を詮索しようとするのか?彼はまじめな人間なら探偵を演じることに対して感じる、口にできないような嫌悪感で一杯だった。他人に宛てた手紙の筆跡や消印を調べても構わないとする、けちで卑劣な考え方にさえ最大限の軽蔑を感じた。しかし彼は知ってしまった。しかも彼だけが知っている。この恐ろしい知識を捨て去ることはできない。
陳列室の端にたどり着き、彼らはそろってむきを変え、ゆっくり黙っていま来た道を引き返した。時間はたちまち過ぎていった。ウエストレイはフォーディングに来る前に決断を下したのだから、いまさら思い悩むわけにはいかなかった。彼はやり遂げなければならなかった。ブランダマー卿と同じように彼にも逃れる道はないのだ。約束を守ろう。手紙に示した通り、月曜日に何もかもぶちまけるのだ。口火を切れば事件は彼の手を離れる。しかし、そのことを、横で静かに判決を待ちながら歩く男に、どう伝えたらよいのだろう。彼を不安なまま残すわけにはいかない。そんなことは臆病であり残酷だ。自分の意図をはっきり示さなければならない。しかしどのように?どんなことば遣いで?考える時間はなかった。彼らはまた表を壁にむけて立てかけてある絵のそばを通り過ぎた。
緊張感、計り知れない沈黙がウエストレイの神経に重くのしかかった。もう一度考えをまとめようとしたが、ブランダマー卿のことばかり考えてしまう。手を背中で組み、指一本動かさない彼がどれほど落ち着いて見えることか。一体彼はどうするつもりなのだろう――高飛びするのか、自殺するのか、一歩も引かず最後のチャンスを賭けて裁判に出るのか。世間をわかす裁判になるだろう。おぞましいが避けることのできないいろいろなことがウエストレイの想像の中に浮かんできた。夢に見た、傍聴人でいっぱいの奇妙な法廷、被告人席に座っているブランダマー卿。この最後の光景は彼を嫌な気持ちにさせた。彼自身は証人席にいるだろう。忘れてしまいたい出来事が呼び起こされ、論じられ、長々と説明される。彼は記憶をたどり、陳述し、宣誓しなければならないだろう。しかしそれだけではない。まさに今日の午後起きたことも話さなければならないのだ。伏せておくことはできない。この屋敷の召使いたちはことごとく彼が絵を抱えてフォーディングに来たことを知っているだろう。「このまことに驚くべき会見」について反対尋問される声が聞こえるようだった。どう説明したらよいのだろう。どう説明しようと信頼を甚だしく裏切ることになる。それでも説明しなければならず、しかも被告人席のブランダマー卿に見守られながら証言することになるのだ。ブランダマー卿が被告人席から見守っている。そんなことは耐えられない。できることじゃない。そんなことをするくらいなら彼のほうが高飛びしたいくらいだ。彼はポケットをふくらませている拳銃でみずからの命を絶つことを考えた。
ブランダマー卿はウエストレイがまるで逃げ場を求めるように右を見たり左を見たり、神経質な仕草を繰り返すことに気がついていた。歩き回りながら相手が手を握りしめ、苦しそうな表情を浮かべているのを見た。絵の前で立ち止まるのは自分を振り切ろうとしているのだと知っていたが、離れようとはしなかった。ウエストレイはじわじわと締め付けてくる力を感じ、一瞬たりとも息をする余裕がないに違いなかった。正確に一分また一分と時の過ぎるのが分かった。彼は意識して耳を澄まし、遠くで時計塔の鐘が十五分刻みに鳴る音を聞いていた。彼らは陳列室の端に戻って来ていた。もう一度歩き回る時間はない。汽車に乗るなら今出なければならない。
彼らは先代のブランダマー卿の肖像画にむかい合うように立ち止まった。カラン街道駅まで足を運んだあの晩、白い霧が彼を取り囲んだように、沈黙がウエストレイを取り囲んだ。話そうとしたが頭が混乱し、喉はからからだった。自分の声を聞くのが怖かった。
ブランダマー卿は時計を取り出した。
「せかすつもりはありませんが、ミスタ・ウエストレイ」と彼は言った。「しかしあと一時間ほどでリチェット駅から汽車が出ますよ。馬車で駅まで行くのにもそれくらいかかります。絵を包み直すお手伝いをしましょうか」
その声は彼らがベルヴュー・ロッジではじめて出会ったときのように、澄んでいて、穏やかで、礼儀正しかった。沈黙は破られ、ウエストレイは気がつくと早口にこう答えていた。
「お屋敷に一泊するようお誘いをいただきましたよね。気が変わったので、よろしければお招きに預かりたいと思います」彼は束の間ためらって、こうつづけた。「この絵と書類は、どうぞ、取っておいてください。わたしにはもう用がないことが分かりましたから」
彼はくしゃくしゃになった紙をポケットから取り出し、顔を上げずに差し出した。
また二人の上に沈黙が訪れ、ウエストレイの心臓は鼓動を止めた。その状態は、永遠とも思える一瞬の後、ブランダマー卿が短く「ありがとう」と言って書類を受け取り、少し離れた陳列室の隅に行くまでつづいた。たまたま窓の前に立っていた建築家は、横の壁にもたれかかり、何を見るともなく外に目をやった。やがてブランダマー卿が召使いに、ミスタ・ウエストレイがお泊まりになる、ワインを陳列室に持ってくるように、と指示する声が聞こえた。しばらくして召使いは盆にデカンターを載せて戻り、ブランダマー卿がウエストレイと自分のグラスに酒を満たした。おそらく彼は、どちらもそうした飲み物を必要としているのではないかと考えたのだろう。実のところ、その必要は自分よりも相手にとってもっと切実だった。ウエストレイは一時間前にこの屋根の下で飲み食いすることを拒否したことを思い出した。一時間前――何と短い時間のあいだに気持ちが変わってしまったことか。義務も原理原則もかなぐり捨てて!きっとこのグラスの赤ワインは悪魔の聖体に他ならず、これを飲むことで不正の片棒を担ぐことになるのだ。
グラスを持ち上げ口につけたとき、窓から陽の光が斜めに差しこみ、ワインを血のような赤色に輝かせた。二人はグラスを持つ手を止め、庭園の木々の後ろに沈む真っ赤な太陽を見た。そのとき先代のブランダマー卿の絵に夕日があたり、雲形紋章の緑の横棒がウエストレイの眼前に踊るように照り映えた。まるで命を帯び、再び三匹ののたうつ毛虫になったかのようだった。そしてこの最後の場面の上演ぶりをじっと見つめるように、あの鋭い灰色の目が画布の中から覗いていた。ブランダマー卿はなみなみと注いだ杯にかけて誓いのことばを発し、ウエストレイも躊躇することなくそれに唱和した。忠誠を誓ってしまった彼は、後戻りしないことを示すためには毒すらあおるつもりだった。
ブランダマー夫人は約束があってその晩は帰りが遅かった。ブランダマー卿は彼女に付き添って外出するつもりでいたが、あとになってから、ミスタ・ウエストレイが重要な用件でやってくると言い、彼女は一人で出かけたのだった。ブランダマー卿とウエストレイは二人だけで夕食の席に着き、建築家は相手の微妙な態度の変化から、知り合って以来はじめて主人が彼を同等の人間として扱っていることに気がついた。ブランダマー卿は気楽な興味深い会話をよどみなくつづけたが、建築の話題には決して近づこうとせず、それを避けていることすら気取られぬように振る舞った。夕食の後はウエストレイを書斎に連れて行き、古い本を見せたり、話術のかぎりをつくして彼をもてなし、くつろがせようとした。ウエストレイはその態度にしばし落ち着きを取り戻し、相手の礼儀に一生懸命応じようとしたのだが、しかし何をやっても味気なかった。彼には分かっていたのだ、真っ黒な「不安」がひたすら彼が一人になるのを待っていて、彼の存在をもう一度支配しようとしていることを。
日没後に出はじめた風は寝る時間が近づく頃には異常な激しさを伴って吹き荒れた。突風が書斎の窓を打って、またもやがたがたという音がし、暖炉からは何度も煙がふっと部屋の中に吐き出された。
「わたしは起きてブランダマー夫人を待っています」と主人が言った。「でもあなたは床に就いたほうがいいでしょう」ウエストレイが時計を見るとあと十分で夜中の十二時を指すところだった。広間に入って階段を上がるとき、冷たく吹きつのる風がいっそう強く身体に感じられた。
「嵐の夜になりましたね」気圧計の前に一瞬立ち止まりながらブランダマー卿が言った。「でもこれからもっと荒れるでしょう。気圧計がとんでもない下がり方をしている。カラン大聖堂の塔には万全の処置をほどこしておかれたでしょうね。この風は弱い部分に容赦なく襲いかかりますよ」
「このくらいでは聖セパルカ大聖堂はびくともしないと思います」ウエストレイは半ば無意識にそう答えた。仕事のことすら集中して考えることができないようだった。
大きな寝室には明々と火がともっていたが、肌寒かった。ドアに鍵をかけ、炉端に安楽椅子を引き寄せ、考え事をしながら長いこと座っていた。自覚的に信念に背いて行動したのは生まれてはじめてのことで、そうした場合につきものの反動と後悔が彼を襲った。
これほど深い憂鬱がまたとあるだろうか。はじめて経験するこの魂の日食ほど暗い夜があるだろうか。正義の本能を黙らせる、このはじめての抑圧ほど暗い夜が。彼は真実を隠すことに手を貸し、もう一人の男の悪事に協力した。その結果、節義という足がかりを失い、誇りを失い、自信を失ったのだ。ここまで来たら、かりに可能だとしても、決心を翻そうとは思わない。しかし、一生背負っていかなければならない罪の秘密が彼の身体にずしりとのしかかってきた。この重さを軽減するために何かをしなければならない。心の苦しみを和らげるために行動を取らなければならない。彼はうちひしがれた。中世であれば修道院がその救済手段になっていただろう。彼は罪を清めるためにすぐにでも犠牲を捧げ、大切なものを投げだす必要を感じた。そのとき何を犠牲にしなければならないのか、彼は悟った。カランでの仕事を辞めなければならない。自分にそう告げるだけの良心がまだ残っていたことに彼は感謝した。あの男の金で行われる仕事には、もはや従事することはできない。会社から解雇されることになろうとも、生計の道が断たれることになろうとも、カランでの仕事を辞めるのだ。彼はイングランドといえども彼とブランダマー卿を包みこむほど広くはないような気がした。罪の共謀者とはもはや会うわけにはいかない。目を合わせると相手の意志が彼の意志をさらなる悪へと強制するように思われ怖かった。明日さっそく辞職願いを書こう。これなら積極的な犠牲、痛々しいけれども更正へむけての確かな折り返し地点、ここから出発すればいつかは自尊心と心の平安をある程度は取り戻せると期待のできる転換点になるだろう。明日さっそくカランの仕事を辞任しよう。そう思ったときいちだんと激しい風が彼の部屋の窓を叩き、彼は聖セパルカ大聖堂の塔のまわりに組んだ足場を思い出した。ひどい夜だ。アーチの細い曲線は巨大な塔がその上で揺れているこんな夜でも持ちこたえてくれるだろうか。いや、明日辞任するわけにはいかない。それは職務から逃げ出すことだ。塔が安全になるまではそばにいなければならない。それこそが彼の第一の義務だ。それが済んだらすぐに辞任しよう。
しばらくして彼は床に就いたが、眠ることができず、理性の支配していない夢うつつの状態は、外の風よりもっと狂おしい考えを彼の頭に浮かびあがらせた。彼はブランダマー卿の保証人となり、その罪の重荷を肩代わりしたのである。カインの刻印を押されたのは彼のほうであり、それを誰にも知られないよう口を閉ざして隠していなければならないのだ。彼はカランを逃げ出し、荒野にただ一匹放たれた贖罪の山羊として、重荷を背負い、残りの人生を過ごさなければならない。
眠りの中で「幽暗《くらき》にあゆむ疫病《えやみ》」(註 詩篇から)は重く彼にのしかかった。彼は聖セパルカ大聖堂にいた。そしてオルガンのある張り出しから血が彼の上にしたたり落ちた。どこから落ちてくるのかと顔を上げると、彼を粉みじんに潰さんと、四つのアーチが崩れ落ちてくるのだった。彼はベッドの上に跳ね起きると、灯りをつけて身体に赤い染みがないことを確認した。夜明けとともに彼は次第に平静になった。狂おしい幻想は消えたが、冷酷な事実は変わらなかった。彼は自分を辱めたのだ。自分とは関係のない悪の秘密にむりやり自分を関わらせ、今や永遠にその秘密を守らなければならないのだ。
いや、違う。僕は本当に自尊心を失ったのか。本当にそれほど罪深い秘密が存在するのか。すべては僕の頭が生み出したまぼろしではないのか。
ウエストレイは居間でブランダマー夫人に出会った。ブランダマー卿は前の晩、彼女の帰りを広間で迎えた。顔は青ざめていたものの、彼女は夫が二言三言話しかけてくるよりも先に、それまでの数日間、彼の心に重く垂れこめていた心配の雲が、今はすっかり吹き払われてしまったことを見て取った。ミスタ・ウエストレイは用事のためこちらに来られたのだが、嵐が荒れ狂っているので一晩泊まっていくよう説得したのだ、彼はそう事情を説明した。建築家は偶然手に入れた絵を持ってきてくれた、先代のブランダマー卿の肖像画で何年も前にフォーディングから紛失したものだ、取り戻すことができたのは実に喜ばしい、ミスタ・ウエストレイのご尽力には大いに感謝しなければならない。
その日までいろいろな事件に取り紛れてウエストレイはブランダマー夫人の存在を忘れかけていた。絵の発見以来、かりに彼女のことを思い浮かべることがあったとしても、それは深く傷つき苦しむ女の姿だった。しかし今朝、彼女は驚くほど輝かしい満足の表情を浮かべてあらわれ、つい昨日、彼はもう少しで彼女を絶望の淵にたたき落とすところだったのだと思い身震いした。結婚してから一年間、栄養に気を配った食事をしてきたせいだろう、顔も身体もふっくらしていたが、それまでずっと彼女の特徴だった優雅さは損なわれていなかった。彼女はそのあるべき地位に就いたのだと彼は思い、彼女の振る舞いの気高さを見て、どうしてその出生の真実にもっと早く気がつかなかったのだろうと不思議な気がした。彼女は再会を喜んでいる様子で、握手したときも以前の関係を忘れていないといったようにほほえみ、少しも当惑を見せなかった。彼女が彼のために食事を運んだり、手紙を持ってきたのだとは、とても信じられなかった。
彼女は、興味深い家族の肖像を取り戻してくれたそうですね、と丁寧に話しかけたのだが、思いもかけず相手がうろたえたので、自分の肖像画をどう思いますか、と質問して話題を切り替えた。
「昨日ご覧になったと思いますわ」何のことか分からない様子だったので彼女はそうつづけた。「家に届いたばかりで、細長い陳列室の床に立てかけてあるんです」
ブランダマー卿は建築家のほうを見て、彼の代わりに、ミスタ・ウエストレイはまだご覧じゃないのだ、と言った。それから部屋の中をしんとさせるような落ち着いた声で説明した。
「表を壁にむけてたてかけてあったのです。額縁もなく、壁にかけていない状態でお見せするわけにはいきません。さっそく額縁を作らせ、かける場所を決めなければ。陳列室の絵を何枚かずらす必要があるでしょうね」
彼はスネイデルス(註 フランドルの画家)やワウウェルマン(註 オランダの画家)のことを語り、ウエストレイは申し訳ばかりの関心を示したが、実のところ昨日の恐るべき会見の際、時間を計るのに役立った、床に置かれた額なしの絵のことしか考えられなかった。彼はこう推測した。ブランダマー卿はみずから絵の表を壁にむけたのだろう、そうすることで闘争を有利に進めることができるかも知れない武器を意図的に放棄したのだ。ブランダマー卿はアナスタシアの肖像が敵の心に過去の記憶を呼びさまし、自分を援護することをわざと拒否したのだ。「このような加勢も、そのような守り手も必要なときではない」(註 ウェルギリウス「アエネーイス」から)といわんばかりに。
ウエストレイの憔悴した様子を主人は見逃さなかった。建築家はまるで幽霊の出る部屋で一夜を明かしたようなありさまで、ブランダマー卿は彼が感じている良心の呵責が容易に消えるようなものではないことや、それが墓の中でじっと静かに横たわっていそうにないことを知っていたから驚きはしなかった。彼はウエストレイの出発まで残されたわずかな時間を屋外で過ごすのがよいだろと思い、庭を散歩しましょう、と提案した。庭師の報告によると、昨夜の大風で植木にかなりの被害が出たようです、と彼は言った。南の芝地に生えていたヒマラヤ杉の梢が折れてしまったとか。ブランダマー夫人は、ぜひお供させてください、と言った。彼らがテラスの階段を下りているとき、乳母が赤ん坊の跡継ぎを彼女のところに抱いて連れてきた。
「あの大風は台風だったのでしょう」とブランダマー卿は言った。「吹きはじめたのも止んだのも突然でしたね」
朝はしんと静かで、陽の光に満ち、昨夜の混乱と比べるといっそう美しく思われた。雨後の空気は澄み切って冷たかったが、小道や芝生には折れた大枝小枝が散乱し、まだ早い落ち葉が一面を蔽っていた。
ブランダマー卿は庭の改造について、今していることや、これから予定していることを説明した。魚を入れ直すつもりの古い養魚池や、祖母が造り、死後もそのまま残されている古風なレディース・ガーデンを指さした。彼はウエストレイから受けた計り知れない恩をおろそかに思うつもりも、ないがしろにするつもりもなかった。建築家を庭に案内し、先祖が代々所有してきたこの場所を見せ、最近になってようやく固まった将来の計画を話すことで、彼はいわば感謝の意を伝えていたのであり、それはウエストレイにもよく分かっていた。
ブランダマー夫人はウエストレイのことが気がかりだった。ふさぎこみ、居心地悪そうにしているように見えたのだ。夫の心から雲が消え去った喜びのあまり、彼女は誰もが自分と同じように幸せであって欲しいと思った。そこで屋敷に戻る道すがら、優しい思いやりからカラン大聖堂のことを話しはじめた。もう一度あの古い聖堂が見たくてたまりませんの。ミスタ・ウエストレイがいつか案内してくれるならこんなにうれしいことはないのですけれど。修復工事はまだ時間がかかるのでしょうか。
彼らは三人並んで歩くには狭すぎる小道を歩いていた。ブランダマー卿は後ろに下がっていたが、二人の会話が聞こえるところにいた。
ウエストレイは口早に答えたものの、自分でも何を言おうとしているのか分かっていなかった。修復工事はどうなるかよく分かりません――その、終わるどころか、実を言うと相当時間を食いそうなんですよ。しかしわたしが監督者としてあそこに残ることはないでしょう。そのう、今の仕事を辞めるつもりなので。
彼は急に黙りこみ、ブランダマー夫人はまたもや不適切な話題を選んだことを知った。彼女はその話を止めて、今度お暇ができたらお知らせのうえ、もっと長く滞在してくださいね、と言った。
「無理だと思います」とウエストレイは言ったが、親切心から誘ってくれたのにぶっきらぼうな、不作法な返事だったと思い、彼女のほうを振りむいて真剣そのものの表情で、ファークワー・アンド・ファークワーを辞職するつもりなのだ、と説明した。この話題もつづけるわけにいかず、彼女はただ残念ですわ、とのみ言い、心からそう思っていることを目で伝えた。
ブランダマー卿は今聞いた話に胸を痛めた。ファークワー・アンド・ファークワーのことも、ウエストレイの地位や将来性のことも多少は知っていた――それなりに収入があり、会社の中では出世するだろうと思われていることも。この決断は昨日の会見の結果として突然にくだされたものに違いなかった。ウエストレイは贖罪の山羊のように他人の罪を頭に負い、荒野に放たれようとしている。建築家は若くて未熟だ。ブランダマー卿は静かに彼と話がしたかった。おそらく自分がすべての費用を醵出しているカラン大聖堂の修復工事に、ウエストレイはこれ以上携わることができないと感じたのだろう。しかしなぜ一流の会社を辞めてしまうのか。健康状態がよくないとか、神経衰弱であるとか、肉体だけでなく精神の窮状からも逃れる道を切り開く医者の命令というやつを使えばいいではないか。スペインへ考古学の旅行に行ったり、地中海でヨットを乗り回したり、エジプトで冬を過ごしたり――これらはみんなウエストレイの好みに合うはずだ。非の打ち所なき薬草ネペンテスは道ばたのどこにでも見つけることができる。楽しいことをして忘れるべきなのだ。彼はウエストレイに、いつか忘れるだろう、あるいは思い出すことに慣れてしまうだろう、と安心させてやりたかった。時間は心の傷や肉体の傷を癒すように、良心の傷をも癒す、後悔は感情の中で最も長つづきしないものなのだ、と。しかしウエストレイはまだ忘れたくないのかも知れない。自分の主義に真向から反することをしたのだ。結果に対する責任を取るため、自尊心を回復する唯一の手段として、苦行者が馬巣織りのシャツを着るように、その責任を身にまとう決意なのかも知れない。何を言っても無駄だ。自発的であろうとそうでなかろうと、ウエストレイが罪滅ぼしをするつもりなら、それがいかなるものであれ、ブランダマー卿はひたすら傍観するしかないのである。彼の目的は達せられた。ウエストレイがそれに対してあがないの必要を感じているのなら、あがなわせてやらなければならない。ブランダマー卿には問いただすことも異議を唱えることもできないのだ。彼は代償を差し出すことさえできない。なぜならどのような代償も受け入れられることはないだろうから。
一同が屋敷に近づいたとき、召使いが彼らを迎えた。
「旦那様、カランからお使いの方が」と彼は言った。「大切な用件ですぐミスタ・ウエストレイにお会いしたいとのことです」
「居間に案内してさしあげなさい。ミスタ・ウエストレイはすぐお会いになる」
ウエストレイは数分後広間でブランダマー卿に会った。
「カランから悪い知らせが届きました」建築家は急いで言った。「昨夜の強風で塔に無理がかかり、かなり揺れたそうです。ひどく危険な動きがあるようなので、すぐ戻らなければなりません」
「是非そうしてください。馬車は玄関口に停まっています。リチェット駅で汽車に乗れば、お昼にはカランに着くでしょう」
この出来事はブランダマー卿をほっとさせた。建築家の注意は明らかに塔に引き寄せられていた。もうすでに道ばたに生える「非の打ち所なき薬草」を見つけたのかも知れない。
馬車のドアには雲形紋章が描かれていた。ブランダマー夫人は、夫がウエストレイに特別の注意をむけていることに気がついていた。いつも通り礼儀正しかったが、この客への接し方は他の人の場合とは違っていた。それなのに最後の瞬間になって彼は黙りこくってしまい、一人だけよそよそしく離れて立っているように彼女には見えた。両手を後ろに組み、意味ありげな態度だった。しかしブランダマー卿は配慮を示したつもりなのである。今まで二人は握手をしていない。妻や召使いの前で手を差し出し、ウエストレイに握手を強要するような真似は決してするまいと思っていたのだ。
ブランダマー夫人は自分に理解できないことが起こっていると感じたが、ウエストレイには格別丁寧に別れの挨拶をした。絵のことは直接言及しなかったが、彼には大変世話になったといい、同意を求めるようにブランダマー卿のほうを振りむいた。彼はウエストレイを見てゆっくりと言った。
「わたしがどれだけミスタ・ウエストレイの寛大さとご親切に感謝しているか、彼はご存じだと思うよ」
一瞬の沈黙ののち、ミスタ・ウエストレイは手を差し出した。
ブランダマー卿は心のこもった握手を返し、彼らは最後の視線を交わした。
第二十三章
同じ日の午後、ブランダマー卿はみずからカランにおもむき、長年フォーデング一族の事務弁護士を務めているミスタ・マーテレットを事務所に訪ね、一時間ほど主任と私室に引きこもった。
事務弁護士が事務所として使っている建物は町外れのみすぼらしい一軒家だった。正面には今でも松明の火消しが取り付けられていて、渦巻き模様のある、摩滅した鉄製ドアの上にはランプをぶら下げるブラケットが突きだしていた。薄汚れた場所だったが、ミスタ・マーテレットはこの州の有名な素封家を顧客に持っており、噂によると重要な家庭問題はカリスベリでよりこちらのほうで扱われることが多いらしい。ブランダマー卿は薄汚れた窓を背にして座った。
「遺言補足書の趣旨はよく理解できました」と事務弁護士は言った。「明日にでも草案をお送りしましょう」
「いや、いや、これはごく短いものだ。今片付けてしまおう」と依頼人は言った。「思い立ったが吉日だよ。ここには連署する証人もいる。きみのところの主席書記は信頼できる人間だろう?」
「ミスタ・シンプキンは勤続三十年です」事務弁護士は謙遜するように言った。「その信頼すべき人柄は、いままで疑われたことがありません」
ブランダマー卿がミスタ・マーテレットの事務所を出たとき陽はだいぶ落ちていた。自分の長い影を前方の歩道に見ながら、彼は曲がりくねる通りを市場のほうへ歩いていった。家々の屋根の上には、夕日を受けてバラ色に輝く聖セパルカ大聖堂の巨大な塔が間近く聳えていた。カランはなんと朽ち果てた町なのだろう!通りにはなんと人影のないことか!確かに通りは奇妙なくらいがらんとしていた。こんなにさびしい様子は見たことがなかった。墓場のような沈黙があたりを支配している。彼は時計を取り出した。この小さな町の住人はお茶を飲んでいるのだろう、と彼は思い、明るい気持ちで、しかも生まれてこのかた味わったことのないような心の安らぎを感じながら歩きつづけた。
通りの角を曲がると、突然大勢の人だかりが目に飛びこんできた。群衆は彼と大聖堂が見下ろす市場のあいだを埋めつくしていた。何か事件が起きて町中から人が集まってきたものらしい。近くによると、町の住人全員がそこに集められたような混雑だった。とりわけ人目を引いたのは尊大ぶった参事会員パーキンで、その横にはミセス・パーキンと、背の高い、撫で肩のミスタ・ヌートが立っていた。よく太った非国教徒の牧師、ひょうきんな丸顔のカトリックの司祭もいた。豚肉屋のジョウリフはワイシャツにエプロンといういでたちで道の真ん中に立ち、ジョウリフの妻と娘たちも店の前の階段に群がって市場のほうに首を伸ばしていた。郵便局長と局員と二人の配達員が郵便局から出て来ていた。ローズ・アンド・ストーレイ服地店の若い店員は男も女も全員大きな光り輝くウインドウの前にたむろしていた。その中には共同経営者の一人ミスタ・ストーレイの金髪の巻き毛もきらめいていた。もう少し先の方を見ると、修復工事に雇われていた石工や人夫の一団がおり、そのそばには教会事務員ジャナウエイが杖に寄りかかって立っていた。
そこにいる多くの人々はブランダマー卿の知り合いで、ほかにも一般人が大挙して押し寄せていたのだが、誰も彼に気づく者はなかった。
群衆にはひどく奇妙な特徴があった。全員が市場のほうを見つめ、どの顔も渡り鳥の一群を見ているように上をむいていたのだ。広場に人はおらず、誰もそこに足を踏み入れようとはしなかった。いや、それどころかほとんどの人は反対の方向に逃げださんばかりに身構えている。にもかかわらず全員が魔法にかかったように聖堂が見下ろす市場のほうをむき、上を見上げているのだ。叫んだり笑ったりおしゃべりする声はなかった。ただ大勢の人が声を潜めて興奮したようにつぶやきをもらすだけだった。
たった一人動いていたのは荷馬車の御者で、馬と馬車を移動させ市場から離れようとしているのだが、我を忘れた群衆が道を空けてくれないのでなかなか前に進めないでいたのだ。ブランダマー卿は男に話しかけ、何が起きているのかと尋ねた。御者は茫然としたように一瞬目を見開き、質問者が誰か分かると、あわててこう言った。
「この先に行っちゃいけません、御前様!絶対行っちゃいけません。塔が崩れてきているんですよ」
ほかの全員を縛り付けていた魔法がブランダマー卿にも降りかかった。目は恐るべき磁力で市場を見下ろす巨大な塔に引きつけられた。幅の広い段壁を持つ控え壁、透かし彫りと垂直様式の狭間飾りが施された鐘楼の二つの窓、狭間胸壁、天を突く小尖塔の群れ、これらが夕日を受けて柔らかく淡紅色に光っていた。ヴィニコウム修道院長が完成した建物をはじめて見て、よきかなと神をたたえたあの日にも勝るとも劣らぬ美しさ、見事さだった。
しかしこの静かな秋の夕暮れ、塔はその壮麗な外見にもかかわらず、何か恐ろしい異変に見舞われていた。コクマル烏はそのことに気づき、狂ったように鳴きながら、大群をなして住み慣れた巣のまわりを旋回し、沈みかけている日の光のなかに羽をひらめかせ、群れの形を変えつづけた。市場にもっとも近い西の側面を見ると、いくつもの石の継ぎ目から白い粉が流れだし、墓地にむかって、まるでスイスの大滝の水しぶきのように降り注いでいた。それはまさに死に際の苦しみに悶える巨人の汗だった。崩壊しつつある石造建築から漆喰がすりつぶされて流れ出したのだ。ブランダマー卿にはそれが砂時計のなかを流れ落ちる砂のように見えた。
そのとき群衆は一斉にうめき声をあげた。胸壁の下の、角に取り付けられていたガーゴイルの一つ、三世紀のあいだ身体を突き出し、墓地をにやにやと見下ろしていた悪魔の彫像の一つが壁から剥がれ落ち、下の墓地に粉々に砕け散ったのである。束の間の沈黙があり、それからまた傍観者たちのささやきが始まった。誰もが短く、一息にしゃべった。まるで言い切ってしまう前に最後の崩壊が起こるのではないかと恐れているかのようだった。教区委員のジョウリフは何かを待ち受けるような沈黙を差しはさみながら「われらがただなかに下されし天罰」などとつぶやいた。主任司祭はジョウリフが黙っているあいだ、反論するかのように「シロアムの櫓たふれて、壓し殺されし十三人」(註 ルカ伝から)などと言った。ミス・ジョウリフがときどき来てもらっている家政婦の老婆は両手を握りしめ、「ああ!何ていうことでしょう!何ていうことでしょう!」と言い、カトリックの司祭は低い声で何やら祈りを唱え、その合間に十字を切った。そのそばに立っていたブランダマー卿は、「ゆけよかし」とか「百合のごとく輝ける」とか臨終の祈りのことばを二言三言聞いた。それはヴィニコウム修道院長の塔が、その影のもとに暮らす人々の胸の中に、かけがえのないものとして生きていることを示していた。
そのあいだも白い粉が絶え間なく手負いの建築物の側面から吹き出していた。砂時計の砂は急速に流れ落ちていく。
石工頭がブランダマー卿を見て、近づいてきた。
「昨日の晩の大風のせいですよ」と彼は言った。「今朝来てみたら、危ない状態になっていることが分かりましてね。ミスタ・ウエストレイは昼から塔にあがって打つ手がないかと調べていたんですが、二十分前にいきなり鐘楼に入ってきて『外に出ろ、みんな。急げ、もうだめだ』っていうんですよ。土台が弛んできているのです。ほら、外壁の基部が動いて北側の墓地の墓を押し上げているでしょう」彼は塔の土台におされてめくれあがった、ぐちゃぐちゃの芝生と墓石、そして墓地の地面を指さした。
「ミスタ・ウエストレイはどこだね」ブランダマー卿は訊いた。「ちょっと話があるといってくれ」
彼はまわりを見回し建築家を探した。群衆の中にその姿が見つからないのでおかしいと思った。まわりに立っている人々はブランダマー卿のことばを聞いていた。カランの人々はフォーディングの領主をまるで全知全能であるかのごとく見なしていた。アヤロンの谷でヨシュアが太陽の運行を止めたように、塔にむかって、動きを止めよ、倒れるな、と命令することはできなくても、きっと大惨事を回避する名案を建築家に授けることができるはずだ。建築家はどこにいるのだ?彼らはいらいらと尋ねた。ブランダマー卿が呼んでいるのにどうしておそばにいないのだ?どこに行った?次の瞬間ウエストレイの名前はすべての人の口にのぼった。
ちょうどそのとき塔から声が聞こえてきた。鐘楼の鎧窓から、その高みにもかかわらず、コクマル烏のやかましい鳴き声を通して、はっきりと一語一語が明瞭に聞こえてきた。ウエストレイの声だった。
「鐘楼に閉じこめられた」とそれは叫んだ。「ドアがふさがっている。頼む!金梃を持ってきてドアを壊してくれ!」
そのことばには絶望がこもっていて、聞く者に恐怖の戦慄を与えた。群衆は顔を見合わせた。石工頭は額の汗をぬぐった。彼は妻と子供のことを考えていた。するとカトリックの司祭が進み出た。
「わたしが行こう」と彼は言った。「わたしに家族はないから」
ブランダマー卿は何か他のことに気を取られていたようだったが、ふと司祭のことばを聞いて我に返った。
「何を言うんだ」と彼は言った。「わたしの方が若いし、あそこの階段を登りなれている。梃をよこしたまえ」
大工の一人がばつが悪そうに梃を渡した。ブランダマー卿はそれを受け取ると大聖堂の方へ急いで駆けていった。
石工頭がその背中に呼びかけた。
「御前様、開いてるドアは一つだけです――オルガンのそばの小さいやつです」
「ああ、知っている」ブランダマー卿は叫び、聖堂の角を曲がって姿を消した。
数分後、彼は鐘楼のドアをこじ開けた。自分の方にむかってドアを引き開け、その後ろで階段の上に立ち、ウエストレイが下に逃げられるように道を空けた。ブランダマー卿はドアの後ろに隠れていたから、二人の男は目を合わせることがなかった。ウエストレイは助けてくれた相手に礼を言いながらも、すっかり動転していた。
「全速力で走れ!まだ助かった訳じゃないぞ」ブランダマー卿が言ったのはそれだけだった。
若者は脇目もふらずに階段を駆け下りた。ブランダマー卿はドアを前に押し、急ぎもせず、慌てもせず、いつもの修復工事の視察から帰るかのように階段を下りた。
ウエストレイは聖堂の中を駆け抜けたあと、歩道に横たわる漆喰の山と石の残骸の間を縫って進まなければならなかった。南袖廊のアーチの上から壁の表面が剥がれ落ち、落下の際に床をぶち抜いて地下納骨所にめりこんでいた。頭の上では黒い稲妻に似た、あの不吉な割れ目が、洞穴のような大きさに広がっていた。聖堂は不気味な声、奇怪なうめき声、うなり声に満ち、あたかも亡くなったすべての僧侶の魂がヴィニコウム修道院長の塔の崩壊を泣き悲しんでいるかのようだった。石が砕け、木材が折れる、鈍く重々しい、うなるような物音がしたが、建築家の耳にはそれを圧するようにアーチの叫び声が聞こえていた。「アーチは決して眠らない。決して。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」
外では市場の人々が固唾をのんで見守っていた。手負いの塔は側面から相変わらず白い粉を吹き出していた。六時だった。十五分おきの鐘が鳴り、一時間おきの鐘が鳴った。最後の鐘が鳴り終わるよりも先にウエストレイが広場に走りこんできたが、人々はブランダマー卿の安全が確認されるまで歓声を上げるのを待った。鐘が「バーモンジー」を鳴らしはじめ、無数の輝かしい晴れた夕方と同じように澄んだ朗らかな音が響きわたった。
とたんにその調べは途切れた。耳障りな音が入り乱れ、テイラー・ジョンが低く唸り、ビータ・マリアが甲高い悲鳴をあげた。大砲のような轟音、地を揺るがす振動が走ったかと思うと、白い埃が濛々と立ち昇って、崩れ落ちた塔の残骸を野次馬たちの目から隠した。
エピローグ
同じ日の夕方、英国海軍エニファー中尉はコルベット艦ソウルベイ号でイギリス海峡を渡り中国海ステーションにむかった。彼はブルティール家の次女と婚約していたため、恋人が住む古い町のそばを通るとき、そちらのほうに望遠鏡をむけた。彼は航海日誌に、空気は澄み、船は沿岸から六マイルしか離れていないのにカラン大聖堂の塔が見えなかったと記した。レンズを拭き、他の士官に呼びかけて昔からの航海目標がなくなっていることを確認した。彼らは白いものが濛々と立ちこめているのを見ただけである。それは煙なのかもしれないし、土埃なのかもしれないし、町にかかる霧なのかもしれなかった。あれは霧に違いない、きっと大気の異常現象で塔が見えなくなってるのだと彼らは言った。
エニファー中尉が塔の崩壊の知らせを聞いたのはそれからほんの数ヶ月後のことだった。五年後帰還のために再びイギリス海峡を通ったとき、昔からの航海目標はもう一度くっきりと姿をあらわした。以前よりもやや白っぽく見えたが、しかし昔と変わらぬ塔であった。塔はブランダマー夫人が工事費を全額負担して再建されたのだった。地下室には人命救助の最中に塔の中でみずからの命を失ったホレイシオ・セバスチャン・ファインズ、すなわちブランダマー卿をしのぶ真鍮の銘板がかけられていた。
再建工事はミスタ・エドワード・ウエストレイに委ねられた。ブランダマー卿はその死のほんの数時間前に遺言補足書で彼をブランダマー夫人と共に、幼い跡継ぎの管財人かつ後見人に指定していた。
後記
この翻訳は The Nebuly Coat by John Meade Falkner (Steve Savage Publishers Limited) を底本にしましたが、誤植がいくつかあるため、Project Gutenberg 所収のテキストと照合しながら作業を進めました。
翻訳に当たって以下の本から訳文をお借りしたり、わたしの責任で一部字句を変えて引用しました。ここに記して感謝します。
「テニスン詩集」西前美巳編 岩波文庫
ウェルギリウス「アエネーイス」岡道男・高橋宏幸訳 京都大学学術出版会
旧新約全書 神戸 英国聖書会社
ウェルギリウス「牧歌・農耕詩」河津千代訳 未来社
「キリストにならいて」大沢章・呉茂一訳 岩波文庫
ジョン・ミルトン「失楽園」平井正穂訳 岩波文庫
「ミルトン詩集」才野重雄訳注 篠崎書林
「ホラティウス全集」鈴木一郎訳 玉川大学出版部
また訳出の際、The John Meade Falkner Society から出ているニューズレター(特に2002年5月ニューズレター9号に掲載された David Rowlands 氏の Bell-ringing in _The Nebuly Coat_ は十九章のピールの記述に誤りがあることを指摘しており、門外漢には非常に参考になります)、および Edward Wilson 氏の
Literary Echoes and Sources in John Meade Falkner's _The Nebuly Coat_ (The Review of English Studies, Feb., 1997)
を参照し、大いに教えられるところがありました。煩瑣になることを避け、本文にはできるだけ註をつけないようにしましたが、本書に関心のある方は Wilson 氏の論文を一読することをお勧めします。この論文を閲覧させてくださった札幌市立大学の図書館に感謝します。
本書は建築、音楽、宗教に関する作者の蘊蓄を傾けた本で、背景を確認するために多くの本を参考にし、いろいろの人から貴重な情報をいただきました。いちいちお名前は記しませんが、ここに厚くお礼申し上げます。しかし、それにもかかわらず不明の箇所がいくつか残ってしまったのは、ひとえにわたしの力不足のせいです。また専門用語の使い方に不自然なところや間違いがあるかも知れません。ご指摘いただければ訂正していきますので、ご教示の程お願いいたします。