母国からいらした親愛なるお嬢さん

こんな風にあなたをお呼びするのは、この暑いロンドンの午後、私にとって

母国という言葉くらい心地よい響きを持つ言葉はないからです。真昼のブロー

ドウェー。ハイカラな服を着た上流階級の人々は休暇に出かけていないけれど、

それでも陽気ではつらつとした五番街。木陰は涼しく、ブルックリンやクイー

ンズなど南側の区域に住む外国人の姿が至る所に見られるけれど、それにもか

かわらず美しくて素晴らしいワシントンスクエア。目を閉じればこんなものが

浮かんできます。私は母国に帰りたくて、居ても立ってもいられません。ロン

ドンがこれほど残忍で、絶望的で、重苦しく思えたことはありませんでした。

というのも、この手紙を書いている私の傍らには巡査が座っていて、彼と私は

間もなくスコットランドヤードへむかうことになっているのです。私はフレイ

ザー=フリーア大尉殺害容疑で逮捕されたのです!

昨晩、私は、今日が事件の最大の山場になるだろうと予想しました。また自

分がこのドラマの中でしぶしぶですが一役務めなければならないことも分かっ

ていました。しかし朝とともに起きた一連の思いがけない出来事は、まったく

想像を越えていました。恐れていた疑惑の網が、今日、私を包みこむとは夢に

も思いませんでした。ブレイ警部が私を拘留するのは仕方がないと思います。

理解できないのはなぜヒューズ大佐が……。

いや、あなたはもちろんすべてをはじめからお聞きになりたいでしょう。だ

から最初から話します。今朝の十一時に一人の巡査が私の部屋にきました。そ

して、警部からの要請で、私はすぐにスコットランドヤードへ出頭しなければ

ならない、と言うのす。

私たち、つまり巡査と私は、ニュースコットランドヤードの裏のどこかにあ

る狭い階段を上って、警部の部屋に行きました。ブレイが私たちを待っていま

した。彼は微笑を浮かべ、自信に満ちあふれていました。私は、くだらない些

細なことなんですが、彼が白いバラをボタン穴につけていたことを覚えていま

す。彼はいつもより愛想よく私に挨拶しました。彼はまず、警察は大尉殺害の

容疑者を逮捕したと言いました。

「一つ確認したいことがあるのだ。君は上の階から争う音が聞こえたのは、

七時を少し回ったころだと言った。あの時の君は、少々興奮気味だった。ああ

した状況に置かれたら、人は間違いを犯すものだ。あれから考え直してみたか

ね。時間を間違った可能性はないかね」

私は警部を満足させてやれと言うヒューズの忠告を思い出し、考え直した結

果、なんだか自信がなくなってきた、と言いました。七時より前だったかもし

れません……六時半とか。

「そうだろう」とブレイは言いました。彼は気をよくしたようでした。「あ

あした場合は緊張して当然だな……分かるよ。ウィルキンソン、在監者を連れ

て来い」

命令を受けた巡査は回れ右をして部屋を出、すぐノーマン・フレイザー=フ

リーア中佐と戻ってきました。青年は青ざめていました。一目で彼が何日も寝

ていないことが分かりました。

「中尉」ブレイは語気も鋭く言いました。「あなたのお兄さん、亡くなった

大尉が一年ほど前にあなたに大金を貸し付けたというのはほんとうですかな」

「ほんとうです」中尉は小さい声で答えました。

「あなたとお兄さんは、あなたが使ったお金の額について喧嘩をしましたな」

「はい」

「お兄さんが死んだことで、あなたは将軍であられるお父様のただ一人の相

続人になった。高利貸したちとの関係もがらりと変った。正しいですかな」

「そうだと思います」

「先週の木曜日、あなたはアーミー・アンド・ネイビー百貨店へ行き、回転

式連発拳銃を買った。あなたは軍用の銃を持っていたが、そんなもので人を殺

せば、警察の殺人捜査は、ばかばかしいほど簡単になりますからな」

青年はなにも答えません。

「こう考えてみようか」とブレイはつづけました。「先週の木曜日の夕方六

時半に、あなたはアデルフィ・テラスのお兄さんの部屋を訪ねる。金をめぐっ

て口論が持ちあがる。あなたは逆上する。お兄さんさえいなければ、欲しくて

たまらない財産はあなたのものだ。そして……ただ想像しているだけだがね…

…あなたは机の上にお兄さんがインドから持ちかえった奇妙なナイフを見つけ

る。拳銃よりも音がしないから安全だ。あなたはそれを引っつかみ……」

「なぜ想像なんですか」と青年が話をさえぎりました。「僕はなにも隠そう

としていませんよ。あなたの言うとおり、僕がやったのです! 僕が兄を殺し

ました! さっさとこの事件を片づけてしまいましょう」

その瞬間、ブレイ警部の顔にある表情が浮かびました。それは次々と事件が

起きる今日一日の緊張と波瀾のなかにおいてさえ、ずっと私を悩まし、繰り返

し繰り返し心に浮かんでくる表情なのです。この告白に彼がショックを受けた

ことはあまりにも明白でした。こんなにあっけない勝利は、彼には虚しく感じ

られるのだろうと私は思いました。彼は青年が戦いを挑むことを望んでいたの

でしょう。たぶん警察官というのは、そういう人種なのです。

「君」と彼は言いました。「気の毒だが、仕方がない。部下と一緒に来てく

れれば……」

その時でした、警部の部屋のドアが開いて、落ち着き払った笑顔のヒューズ

大佐が入ってきたのです。ブレイは軍人の姿を見て得意げに含み笑いをしまし

た。

「大佐」と彼は言いました。「いいところにきた。今朝、あなたと大尉殺し

の共同捜査をするという名誉な話を聞いたとき、あなたはおろかしくもささや

かな賭けを申し出ましたな……」

「覚えていますよ」ヒューズが答えました。「あなたが勝てばコガネムシの

ネクタイピンを、わたしが勝てばホンブルグ帽をもらう。そういう取り決めで

したね」

「そのとおり」とブレイ。「あなたは、私じゃなくて、あなたが犯人を見つ

けることに賭けた。さて、大佐、コガネムシをいただかねばなりませんな。ノ

ーマン・フレイザー=フリーア中尉はたった今、兄殺しを告白した。洗いざら

い告白させ、調書をとるところだったんだよ」

「それはそれは!」ヒューズの声は落ち着いていました。「面白い……実に

面白い。しかし賭けに負けたと言う前に、そしてあなたが中尉にむりやり一部

始終を告白させる前に、一つ言いたいことがあるのです」

「話したまえ」ブレイはにやりと笑いました。

「今朝あなたが親切にも部下を二人貸してくださったとき、私はある女性の

逮捕を考えていると申しました。その女性をスコットランドヤードに連れてま

いりました」彼はドアに歩み寄り、手招きをしました。背の高い、金髪の、目

鼻立ちの整った三十五歳くらいの女性が入ってきました。途端にあのライラッ

クの強い匂いが私の鼻をうったのです。「警部、ご紹介します。以前ベルリン、

デリー、ラングーンにお住まいで、現在はバターシー・パーク街リートリム・

グローブ十七番地にお住まいのソフィー・ド・グラフ伯爵夫人です」

女性はブレイとむかい合いました。その目には怯え、やつれた色が浮かんで

いました。

「あなたが警部さんですか」彼女は尋ねました。

「そうだが」とブレイ。

「しかも人間らしい心をお持ちとお見受けしました」彼女は怒りのこもった

目でヒューズを見ながらつづけました。「お願いですから、この……この悪魔

の残忍な質問から私を守ってくださいまし」

「伯爵夫人、お言葉が過ぎますよ」とヒューズは微笑みました。「でも、さ

きほど私に話してくださったことを警部にもしていただければ、喜んでお許し

しましょう」

女性は唇を固く閉ざし、長いことブレイ警部の目をじっとみつめていました。

「この人に」と彼女はヒューズ大佐のほうを顎で示しながら、ようやく言い

ました。「私、この人に白状させられましたの……どうして白状したのか、自

分でも分かりませんわ」

「なにを白状したって言うんだ?」ブレイは小さな目をぱちぱちさせました。

「先週の木曜日の夕方、六時半に」と女性が言いました。「私はアデルフィ

・テラスの大尉の部屋に行きました。口論になり、私は机の上にあったインド

の短剣をつかみ……彼の心臓の真上に突き立てたのです!」

スコットランドヤードのその部屋に緊張した沈黙が訪れました。私たちは、

初めて、警部の机の上の小さな時計に気がつきました。というのもそれが突然、

ぎくっとするほど大きな音を立てて、時を刻みはじめたからです。私はまわり

の人々の顔を見ました。ブレイはつかの間、驚いた表情をあらわしましたが、

すぐまた仮面をかぶってしまいました。フレイザー=フリーア中尉はただただ

呆然という様子。ヒューズ大佐の顔には、あからさまなせせら笑いのようなも

のが浮かんでいました。

「話をつづけてください、伯爵夫人」彼はにやにや笑っていました。

女性は肩をすくめ、軽蔑するように彼に背中をむけました。彼女の目はじっ

とブレイだけをみつめていました。

「お話といっても、とても短いものです」彼女は急いで言いました。それは

私にはほとんど謝罪するかのように聞こえました。「私はラングーンで大尉と

知り合いました。夫がそこで仕事をしていたのです。米の輸出を。フレイザー

=フリーア大尉はよく私たちのうちへ来ました。私たち……魅力的な方でした

わ、大尉は……」

「どうぞその先を」とヒューズは促しました。

「私たちは我を忘れるほど愛し合うようになりました」伯爵夫人は言いまし

た。「たしか賜暇休暇をもらったということでしたが、あの人がイギリスに帰

るとき、彼はもう二度とラングーンには戻らないだろうと言ったのです。彼は

エジプトに転属されるだろうと思っていました。だから私は夫を捨て、次の船

で彼の後を追う用意を整えたのです。私は大尉を信じて、ほんとうに私を愛し

ているのだと思って、そうしました。私は彼のためにすべてを捨てたのです。

なのに……」

声が途切れ、彼女はハンカチを取り出しました。またあのライラックの匂い

が部屋の中に満ちました。

「ロンドンに来てから、しばらくのあいだ、私はよく大尉に会っていました。

そしてある変化に気がつき出したのです。おなじイギリス人の中に戻って、イ

ンドでの孤独な日々は単なる思い出になったのでしょうか、彼はもはや……私

を好きではなくなったようなのです。そして先週の木曜日の朝、彼は私を訪ね

てきて、私たちの関係はこれまでだ、もう私に会いたくはない……実はずっと

待ってくれていたイギリス人の女と、結婚する予定なのだと言うのです……」

女性は哀れな様子で私たちを見回しました。

「私は絶望しました」彼女は熱をこめて言いました。「私は人生のすべてを

捨てたのです……今や私を冷たく見すえ、他の女との結婚を口にするような男

のために。私がその日の夕方、彼の部屋に行き……訴え……膝もつかんばかり

に懇願したのは不思議なことでしょうか。しかし無駄なことでした。関係は終

わったのだ、彼は何度も何度もそう言いました。私は理性を失い、怒りと絶望

にかられ、机からナイフをつかみ上げると、彼の心臓に突き立てました。私は

すぐに後悔の念で一杯になりました。私は……」

「ちょっとお待ちください」とヒューズが割りこんできました。「その後の

行動の詳細は、後ほどうかがいましょう。すばらしいですな、伯爵夫人。回を

重ねるごとにお話が上手になる」

彼はブレイのほうに歩み寄り、顔を突き合わせました。私は彼の声にはっき

りと敵意の響きを聞き取りました。

「警部、王手ですよ」彼は言いました。

ブレイはなにも言いません。彼は椅子に座り、大佐を見上げました。その顔

は石のようでした。

「コガネムシのネクタイピンは」とヒューズはつづけました。「まだ手に入

りませんぞ。勝負は引き分けです。あなたは自白を手に入れた。しかし私もお

なじように自白を手に入れた」

「信じられん」ブレイが怒ったように言いました。

「私にとってもいささか信じがたい事態です」と大佐が答えました。「ここ

に先週の木曜日の夕方六時半にフレイザー=フリーア大尉を部屋に訪ねて殺害

したと信じてもらいたがっている方が、二人もいらっしゃる」

彼は窓のほうへ歩いて行ったかと思うと、芝居がかった身のこなしでくるり

と振り返りました。

「なかでもいちばん奇怪なのは」と彼はつづけました「木曜日の夕方六時半、

ソーホーの人目につかないレストラン・フリガッチで、この二人が一緒にお茶

を飲んでいたということです!」

大佐が落ち着き払ってこの情報を差し出したとき、私たちが巻きこまれた謎

が終りなき迷宮であることに気づき、私は急に全身から力が抜けてしまったこ

とを認めなければなりません。女性は小さく叫び、フレイザー=フリーア中尉

は飛びあがりました。

「どうしてそんなことを知っているんだ」彼は大声をあげました。

「知っているのですよ」とヒューズ大佐。「私の部下の一人が、たまたま近

くのテーブルでお茶を飲んでいたのです。たまたま部下がそこでお茶を飲んで

いたのはですね、こちらの女性がロンドンに到着してからというもの、インド

の……なんですよ……友達から依頼がありましてね、私は彼女の動きを逐一追

っていたのです。あなたのお兄さん、お亡くなりになった大尉を見張っていた

のとおなじようにね」

フレイザー=フリーア中尉は、なにも言わず椅子に沈みこみ両手で顔を覆い

ました。

「ご同情いたします」ヒューズは言いました。「心から同情しますよ。あな

たは自分を犠牲にして事実を隠そうとした。立派な男らしい努力でした。しか

し陸軍省はあなたよりずっと前から知っていたのです、あなたのお兄さんが、

こちらの女性の誘惑に屈し、祖国イギリスのために働くのではなく、彼女とド

イツのためにスパイを働いていたことをね」

フレイザー=フリーアは頭をあげました。彼が話すその声には、先ほどの途

方もない告白をしたときより、はるかに誠実な調子がありました。

「万事休すですね」と彼は言いました。「ぼくは自分にできることをすべて

やりました。父にとっては大打撃でしょう。僕たちは名誉ある一族なのです、

大佐。ご存知でしょうが……何代にもわたる軍人の家系で、祖国への忠誠はか

つて一度も疑われたことがありません。僕が告白しさえすれば、このいやな事

件にけりをつけられる、捜査を終らせ、彼……兄のいまわしい所業を永遠に隠

してしまえると思ったのです」

ヒューズ大佐は青年の肩に手をかけました。青年は話をつづけました。

「僕の耳にも人づてに届いていました……スティーブンに対するおそろしい、

遠まわしな中傷は。ですから兄がインドから帰ってきたとき、見張っていよう

と決心したのです。兄はこの女の家にしばしば行きました。僕は彼女がラング

ーンから届いた噂の女と同一人物であることを確かめました。そして変名を使

って、なんとか彼女と会う約束を取り付けたのです。僕は、僕自身も忠誠心と

は縁がない人間であることをそれとなくにおわせました。全面的に信用された

わけではありませんが、ある程度は彼女の信頼を得ることができました。僕は

しだいに、兄が国家にも、一族の名声にも、僕たちみんなに対してもほんとう

に裏切りを働いていることを確信するようになりました。僕がとうとう決意し

たのは、あなたがおっしゃったお茶の席でのことです。僕はすでに拳銃を買っ

ていました。それをポケットに入れて、夕ご飯を食べにサボイ・ホテルへ行っ

たのです」

彼は立ち上がり部屋の中をゆっくり行ったり来たりしました。

「僕はサボイ・ホテルを早めに出て、スティーブンの部屋に行きました。議

論して決着をつけようと、事実を遠慮なく兄に突きつけてやろうと、心に決め

ていたのです。そしてもしも説明がなかったなら、僕はその時、その場で、兄

を殺すつもりでした。お分かりでしょう、僕は現実に罪は犯していませんが、

罪を犯そうとする意志はあったのです。僕は兄の書斎に入りました。そこは見

知らぬ人々で一杯でした。ソファには兄のスティーブンが横たわっていて……

心臓をひと突きされて……死んでいました」一瞬、沈黙がありました。「それ

がすべてです」とフレイザー=フリーア中尉が言いました。

「私が思いますに」とヒューズが優しく言いました。「中尉の取り調べはこ

れで終ったのじゃありませんか。どうです、警部」

「ああ」ブレイはぶっきらぼうに言いました。「君は帰ってもよろしい」

「ありがとうございます」と青年は答えました。出て行くとき、彼はヒュー

ズにむかって途切れ途切れに「お父さんを……さがさなくちゃ」と言いました。

ブレイは椅子に座って、怒ったように顎を突き出しながら、前方を厳しく睨

んでいました。突然、彼はヒューズのほうにむきを変えました。

「フェアな戦い方じゃないな」と彼は言いました。「陸軍省が大尉を見張っ

ていたなんて知らなかった。なにもかもいま初めて聞いた」

「分かりました」ヒューズは笑って言いました。「お望みなら賭けは取りや

めにしましょう」

「とんでもない!」ブレイは大声で言いました。「賭けはまだ有効だ。しか

も俺が勝って見せる。自分じゃなかなかの仕事をしたと思ってるだろうが、し

かし、われわれは真犯人の発見に少しでも近づいたのかな。どうだね」

「少なくとも幾分かはね」ヒューズが穏やかに答えました。「こちらのご婦

人は、もちろん拘留されるんでしょうね」

「そうだ、そのとおりだ」と警部は答え、「女を連れて行け!」と命じまし

た。

巡査が伯爵夫人の前に進み出て、ヒューズ大佐が慇懃にドアを開けました。

「ソフィー」と彼は言いました。「別の話をでっち上げるいい機会だ。君は

頭がいい。それくらい朝飯前だろう」

彼女はむっとした目つきで彼をみつめ、出て行きました。ブレイは机から立

ち上がり、ヒューズ大佐とテーブル越しにむかい合いました。両者のあいだに

は永遠に相容れないものがある、彼らの様子を見て私はそんなふうに感じまし

た。

「ほんの少しは近づいただと?」ブレイがせせら笑いました。

「我々が見落としていた可能性が一つあります」ヒューズは答えました。彼

は私のほうをむき、私はその目の冷酷さにぎょっとしました。「ご存知ですか、

警部。このアメリカ人が大尉宛ての紹介状をたずさえて、ロンドンにやって来

たことを。大尉の従兄弟、アーチボルド・エンライトが書いた手紙なんですが

ね。さらに言えば、フレイザー=フリーアにはそんな名前の従兄弟はいなかっ

たんですよ」

「なんだと!」とブレイ。

「嘘じゃありません」とヒューズ。「このアメリカ人がそう私に告白したの

ですから」

「そういうことなら」とブレイが私にむかって言いました。ぱちぱちとしば

たたく小さな目は、狭量で疑い深い視線を、私に送るのです。私は背筋が寒く

なりました。「お前を逮捕する。今までアメリカ領事館の知り合いに免じて特

別扱いをしてきたが、それもこれで終わりだ」

私は仰天しました。そして大尉のほうをむきました。彼は味方が必要なら自

分を当てにしてくれと言ったのです。このような不測の事態から助けてくれる

ものと、頼みにしていた人物です。しかし彼の目はまったく無表情で同情のか

けらもありません。

「そのとおりです、警部」と彼は言いました。「この男は監禁すべきだ!」

私が抗議しはじめると、彼は私のすぐそばを通って、そっとささやきました。

「なにも言うな。待て」

私は部屋に帰って、友達と連絡をとったり、領事館や大使館を訪れる許可を

与えてくれと頼みました。大佐の助言もあって、ブレイはこのやや異例の取り

扱いに同意しました。そういうわけで今日の午後、私は巡査に付き添われて外

に出ました。そして、この長い手紙を書いているあいだ、巡査は私の安楽椅子

でそわそわしていたのです。今、彼はもう待てない、すぐ出なければならない、

と言っています。

あれこれ考える時間はありません。これからどうなるのかとか、私に対する

大佐の突然の変節や、耳元でささやいた彼の約束について考える時間はないの

です。今晩、私が夜を過ごす場所は、間違いなく、観光案内があなたにスコッ

トランドヤードですと言って指さした、あのいまわしい不気味な壁の背後でし

ょう。そして私がふたたびペンを手にして、最後の手紙に思いのたけを……

巡査は待ってくれません。彼は子供のようにいらだっています。一時間も待

たされたなどと言っていますが、まったくの嘘です。

お嬢さん、私がどこにいこうと、この奇怪なこみ入った謎の結末がどうなろ

うと、あなたへの思いは……

ええい、いまいましい!

不当に逮捕された男

苦悶の欄の若い男から五番目の手紙がカールトン・ホテルに届いたのは、読

者も覚えておられるように、八月一日の月曜の朝だった。それはテキサスの娘

に、アデルフィ・テラス殺人事件の興奮のクライマックスを伝えるものであっ

た。面識はないが、感じのいい若い男友達が、事件の容疑者として逮捕された

というニュースは、避けられない進展として予想されていたにもかかわらず、

彼女に深刻な衝撃を与えた。彼女は彼を助けるために自分にできることはない

だろうかと考えた。みずからスコットランドヤードへのりこみ、父親がテキサ

ス州選出の下院議員であることを盾にとって、イチゴ男の即時釈放を求めよう

かとすら思った。しかしテキサス州選出の下院議員などロンドンの警察からは

洟もひっかけられはしないと、分別のある判断をくだしたのだった。さらにそ

の下院議員にたいして、新聞にもまだ出ていない犯罪を彼女が知悉している理

由を説明するのは、容易なことではなかっただろう。

彼女は五番目の手紙の後半を読みなおした。そこには彼女のヒーローが、不

名誉にもスコットランドヤードへとむかう姿が描かれている。彼女は心配そう

に小さいため息をひとつついて、父親と合流するために下へ降りて行った。

第七章

その日の朝、彼女は殺人に関する国際法上の微妙な点について、父親に訳あ

りげな質問をいくつかした。父親がほかのことに気を取られ、はなはだしく興

奮していなければ、恐らくこの質問の奇妙さに気がついていただろう。

「いいか、帰らなきゃたいへんなことになるぞ!」彼は憂鬱そうにそう告げ

た。「ドイツ軍はエクス・ラ・シャペルでリエージュ攻撃に備えている。そう、

あいつらはベルギーに襲いかかるつもりだ! それがどういうことか分かるか

? イギリス参戦だよ。労働問題や女性参政権問題やアイルランド内乱なんぞ、

去年の冬、テキサスに降った雪みたいにあっという間に消えてなくなるだろう。

連中は参戦するぞ。しなけりゃ国家的自殺行為だ」

娘は大きく目を見開いて父親を見た。彼女は、父がカールトン・ホテルの靴

磨きの受け売りをしていることを知らなかった。そして思っていたよりも父は

外交問題に通じているのではないかと考えはじめた。

「そうとも」彼はつづけた。「我々は帰国しなければならん、急いでな。ド

ンパチがはじまればここは非戦闘員には安全な場所じゃなくなる。わしは帰る

ぞ、定期船を買収してでも」

「とんでもないわ!」と娘が言った。「これこそ一生に一度の好機よ。あた

し、なにもわかってないお父さんにだまされて、絶好の機会を逃したくないわ。

ほら、ここであたしたちは歴史とむかい合っているのよ!」

「アメリカの歴史だけでたくさんだよ」彼は手も足も放り出した。「なんだ、

その目つきは?」

「骨の髄まで田舎者なんだから」彼女の言葉には思いやりがこもっていた。

「お父さん……あたし、お父さんが大好きよ。アメリカの政治家の中には理解

できない事態を前にしてほうけたような顔をしている人もいるでしょうね。お

父さんがそんなふうにならなければいいと思うわ」

「無駄口はもういい!」彼は大声を出した。「わしは今日、汽船会社の事務

室に行って掛け合ってくる。選挙のときより激しくな」

父が固く決心していることが、娘には分かった。長い経験から得た知恵で、

彼女は思いとどまらせようとはしなかった。

その暑い月曜日のロンドンは、警戒体制に入った都市、恐れおののく人々の

都市であった。ある新聞の号外に載った噂は次の号外で否定され、その次の号

外で再び肯定された。先見の明ある人間は幸せからはほど遠い表情を浮かべて

通りを歩いた。不安が町を支配した。そしてスコットランドヤードの威圧的な

壁のむこうで「不当監禁」されている苦悶の欄の友人を思いやるテキサス娘の

胸にも、その不安はこだましていた。

午後、父親は勝利者のようなにこやかな笑みを浮かべて現れた。三日後に汽

船サロニア号で出航予定だった男から、途方もない額で切符を買い取ったらし

い。

「連絡列車は木曜日の朝十時に出る」と彼は言った。「最後のヨーロッパ見

学と帰る準備をしておきなさい」

たった三日間! 娘は聞きながら気持ちが沈んだ。三日のうちにあの不思議

な謎の結末を聞くことができるだろうか。公共の刊行物を使って、型破りな声

のかけ方をしてきた男の最後の命運を見極めることができるだろうか。そうだ

わ、あの人、三日経ってもまだスコットランドヤードにいるかもしれない、囚

人として! ほんとうにそうなったとしたら、立ち去ることはできない。とて

もできるものじゃない。彼女はもう少しで父親に洗いざらい話をするところだ

った。父の怒りを静め、その協力を取り付ける自信があったのである。が、彼

女は次の朝まで待つことにした。そしてもし手紙が来なければ、その時は……

しかし火曜日の朝、手紙が来た。その最初のほうには喜ばしい知らせが書か

れていた。最初のほうには……そのとおり、喜ばしい知らせが。ところが最後

のほうには! これがその手紙である。

安否を気遣う親愛なるお嬢さま

英国インド陸軍大尉を殺害したかどで監禁され、わたしに有利な証拠はなに

もなし、希望はまことにかぼそい、小さな声で語りかけるだけ、そんなありさ

まをご存知のお嬢さまが、私の安否を気遣っているだろうと考えるのはうぬぼ

れでしょうか。

お嬢さん、ご心配はもう無用です。先週の木曜以来、私の運命であった驚く

べき日々の中で、もっとも驚くべき一日が経過したばかりなのです。そして今、

私は自由の身となって夕闇に包まれた自分の部屋に腰かけ、先ほど経験したば

かりの思いも寄らぬ冒険のあと、思う存分、平和と静寂を味わいながら、あな

たへの手紙を書いているのです。

私への疑惑は晴れ、巡査たちの見張りも、もうありません。スコットランド

ヤードは私にたいしてひとかけらの興味すら抱いていないのです。なぜならフ

レイザー=フリーア大尉の殺人者がとうとうつかまったからです!

日曜日の夜を、私は不名誉にもスコットランドヤードの独房で過ごしました。

私は眠れませんでした。いろいろなことを考えたのです……たとえばあなたの

ことを。そしてその合間に、身動きも取れないくらいまわりに張り巡らされた

罠から逃れる手立てのことを。領事館の友人ワトソンが夜遅く訪ねてきて、と

ても気を遣ってくれました。しかし彼の声にはなにかが欠けているのです。彼

が帰った後、恐ろしいことですが、結局、彼も私の有罪を信じているのだと確

信を抱きました。

一夜が過ぎ、今日という日も、詩人風に言えば「歩みも遅々と」大部分が過

ぎて行きました。私は日射しを受けて黄色くみえるロンドンを思い、カールト

ン・ホテルを思いました。今はもうイチゴはないでしょうね。私のウエイター、

あの背筋をぴんと伸ばしたプロシア人は、今ごろ、祖国ドイツで連隊行進に加

わっているでしょう。そして私はあなたのことを考えました。

今日の午後三時に私はブレイ警部の部屋に連れ戻されました。しかし私が部

屋に入ったとき、警部はそこにいませんでした。ただヒューズ大佐のみが、い

つものとおり身だしなみよく、冷静な態度で、窓からわびしい石畳の中庭を眺

めていました。私が入ると、彼は振り返りました。私は見るも痛ましい姿をし

ていたのに違いありません。後悔の表情が彼の顔を横切ったのですから。

「いや、まことに申し訳ない! 昨日の晩、釈放させようと思っていたので

すが、あまりにも忙しかったのです」

私は黙っていました。なにが言えるでしょうか。忙しかったなど、随分ふざ

けた言い訳だと思いました。しかしすぐにも法の網を逃れることができるのか

と思うと、胸がどきどきしはじめました。

「許していただけないかも知れませんね、昨日、あなたをあんなふうに見捨

てたりして。ただ、あれはどうしても必要だったのです。間もなくご理解いた

だけると思うのですが」

私は態度を少し軟化させました。なにしろ彼の声と態度には疑いようのない

誠意があったのです。

「いまブレイ警部を待っているんですよ。この事件の決着を見届けたいと思

っていらっしゃるでしょう?」

「最後まですべてを」と私は答えました。

「当然です。警部は昨日の会見の後、すぐ呼び出しを受けました。どうも大

陸のほうで仕事があるようです。しかし幸いにも、ドーヴァーに着いたとき、

彼と連絡が取れまして、ロンドンに戻ってきてもらいました。彼が必要なので

すよ。フレイザー=フリーア大尉殺害の犯人が見つかったのですから」

私はそれを聞いてわくわくしました。私にとって、それこそ熱烈に望んでい

た結末なのです。大佐は話すのを止めてしまいました。数分後、ドアが開いて

ブレイが入ってきました。まるで昨夜は服を着たまま寝たような様子で、その

小さな目は血走っていました。しかしそこには忘れることができない火のよう

なきらめきがありました。ヒューズはお辞儀をしました。

「こんにちは、警部」彼は言いました。「仕事の邪魔をして、ほんとうに申

し訳ありません。しかしあなたが私にホンブルグ帽の借りがあることを、どう

してもお伝えしたかったものですから」彼は警部に歩み寄りました。「いいで

すか、賭けに勝ったのは私です。フレイザー=フリーア大尉を殺した男を見つ

けました」

奇妙なことにブレイはなにも言いませんでした。彼は机に座ると、そこに積

まれた郵便の山をぼんやりと眺めました。ようやく彼は顔を上げると、疲れた

ような口調で言いました。

「あんたは切れ者だな、ヒューズ大佐」

「いいえ、そんなことはありません」とヒューズは答えました。「運がよか

ったのです――最初から。この事件にたずさわることができて、ほんとうによ

かったと思います。私が捜査に参加していなかったら、きっと無実の人間が憂

き目を見ることになったでしょう」

ブレイの大きく丸々とした手は、机の上の手紙をもてあそびつづけました。

ヒューズはつづけます。

「有能な警部としてあなたも、私がホンブルグ帽を勝ち取るに至った一連の

事情に興味がおありではないですかな。もうお聞きでしょうが、私が捕まえた

男はフォン・デア・ヘルツ。十年前はドイツ政府のために働いていたいちばん

優秀な秘密諜報員でした。ところがここ数年は不可解にも我々の前から姿を消

していました。我々陸軍省はずっといぶかしく思っていました」

大佐は椅子に腰を下ろし、ブレイにむかい合いました。

「フォン・デア・ヘルツはもちろんご存知ですよね」彼は何気なく言いまし

た。

「当然だ」ブレイはやはり疲労困憊した声で言うのです。

「奴はイギリスにいるスパイどもの首領格です」ヒューズはつづけました。

「彼を捕まえたことは、ちょっとした自慢の種になりますな。いや、うぬぼれ

るのはよしましょう。私が捕まえてなくても、かわいそうなフレイザー=フリ

ーアが捕まえていたでしょうから。ただフォン・デア・ヘルツは運よく先に大

尉を殺すことができたというだけです」

ブレイは目を上げました。

「あんたが話すといってたのは……」彼は言いかけました。

「これから話しますよ」とヒューズ。「フレイザー=フリーア大尉はインド

で不祥事をおこし、昇進の機会を失いました。彼は軍務に不満を抱いている、

嫌気がさしていると疑われました。そしてソフィー・ド・グラフ伯爵夫人がそ

の魅力で彼を誘惑し、大尉の忠誠心を殺し、仲間にひきこもうとしはじめたの

です。

彼女はそれに成功したように思われました。ドイツの外務省はそう思いまし

た。我々、陸軍省もそう思いました。彼がインドにいるあいだは。

ところが大尉と女がロンドンに来たとき、我々は大尉を不当に評価していた

ことに気がついたのです。彼は最初の機会が訪れたとき、我々に、名誉挽回の

努力をしていること、危険なスパイどもを、自分もその一人のふりをして、一

網打尽にしようと考えていることを伝えてきたのです。彼は、ロンドンでフォ

ン・デア・ヘルツ、つまりスパイの中でもいちばんの大物に会うのが自分の使

命だと語りました。そしてこの男の居場所がわかったら、また連絡するとも言

いました。それから数週間、私は伯爵夫人を見張りつづけました。また大尉も、

一応ですが、監視していました。というのは、恥ずかしながら、私は彼を完全

に信頼していなかったのです」

大佐は立ちあがって窓のほうへ行きました。そして振り返ると、話をつづけ

ました。

「フレイザー=フリーアとフォン・デア・ヘルツはお互いのことをまったく

知りませんでした。手紙を連絡手段として使うことは禁じられていました。し

かしフレイザー=フリーアはなんらかの方法でスパイの首領から連絡がくるこ

とを知っていたのです。しかもデーリー・メールの私事広告欄を注意して見ろ

と言う示唆も受けていました。今や我々は、あの四つの奇妙なメッセージを説

明できます。あの欄を見てラングーンから来た男は白いシナギクをボタン穴に

さし、ネクタイにはコガネムシのピンをし、ホンブルグ帽をかぶって、先週の

木曜日の晩十時にリージェント通りのイ・オールド・ガンブリヌス・レストラ

ンでフォン・デア・ヘルツと会わなければならないことを知ったのです。我々

も知っているように、彼はこれらの指示にしたがって準備をしました。その他

にも彼がしたことがあります。彼がスコットランドヤードに来るのは論外です

から、巧妙な手を使って一人の警部とホテル・セシルで落ち合うことにしたの

です。その時に、フォン・デア・ヘルツが木曜日の晩、大尉に正体を明かした

ら、その場で逮捕するという手はずがととのえられたのでした」

ヒューズは話を中断しました。ブレイは手紙の山をもてあそびつづけ、大佐

はそんな彼をいかめしい顏つきでみつめていました。

「かわいそうなフレイザー=フリーア!」ヒューズはつづけます。「彼にと

って不運だったのは、フォン・デア・ヘルツが自分を罠にかける計画を、警部

とほとんど同時に知ったことでした。スパイに残された道はただ一つしかあり

ませんでした。彼は大佐の下宿先を突き止め、あの晩の七時にそこへ行き、忠

節で勇敢なイギリス人を殺害したのです」

緊迫した静寂が部屋を満たしました。私は椅子から身を乗り出して、いった

いこの絡み合った謎が解けた先に、なにがあるのだろう考えていました。

「私が持っていた手がかりは実にわずかでした」ヒューズは話を進めます。

「しかし私に有利なこともありました。つまりスパイは警察だけが殺人犯を追

っていると思っていたのです。彼は私をまこうともしませんでした。なぜなら

私が捜査に当たっていると思っていなかったからです。それまで何週間ものあ

いだ、私の部下は伯爵夫人を見張っていました。私は監視をつづけさせました。

遅かれ早かれ、フォン・デア・ヘルツは彼女に接触するだろうと考えていたの

です。私の考えは当たりました。そしてついに自分の目で、まがうかたなきフ

ォン・デア・ヘルツその人を見たとき、私は愕然としましたよ、警部、圧倒さ

れるような思いでしたよ」

「そうかね」とブレイ。

「その後、私は、彼がアデルフィ・テラスのあの事件とどう結びついている

のか、鋭意調査に取り掛かったのです。大尉の書斎にあった指紋は、なぜかこ

とごとく拭き取られていました。しかし私は屋外で犯人の指紋を見つけました。

それは庭から外へ通じる、めったに使われない門の埃についていたものです。

私は疑いをかけていた男から、その右手の親指の指紋をこっそりと採取しまし

た。両者の類似は驚くほどでした。次に私はフリート街の新聞社へ行き、幸運

にもデーリー・メールに送られたあの四つのメッセージのタイプ用紙を手に入

れたのです。それを見ると小文字のaが文字列を外れていることに気がつきま

した。私は容疑者の所有しているタイプライターで書かれた手紙を手に入れま

した。aが列をはみ出していました。そのころアーチボルド・エンライトとい

う、我々のあいだでは売国奴としてよく知られている裏切り者のろくでなしが、

イギリスにやって来たのです。容疑者と彼はイ・オールド・ガンブリヌスで落

ち合いました。そして最後に、私がフォン・デア・ヘルツに間違いないと確信

する男の下宿を訪ねたとき、私はベッドのマットレスの下からこのナイフを発

見したのです」

ヒューズ大佐は警部の机の上に、私がフレイザー=フリーア大尉の書斎で最

後に見たインドのナイフを放り出しました。

「昨日の朝、この部屋にいたとき、私はこうした証拠をみんなつかんでいた

のですよ。それでもそれらが示す答えはあまりにも信じがたく、あまりにも驚

くべきものなので、私は確信が持てませんでした。さらに強力な証拠がほしか

ったのです。それで私はここにいるアメリカ人の友達に疑惑がかかるようにし

むけました。私は待っていました。フォン・デア・ヘルツもさすがに危険を察

知するだろう、機会さえあれば、イギリスから出て行こうとするはずだ、と考

えていました。彼がどんなにずる賢いとは言え、そうなればクロであることの

証拠は決定的になります。予想は的中し、彼はその日の午後、伯爵夫人を釈放

し、二人そろって大陸へむかったのです。彼をドーヴァーで捕まえることがで

きたのは幸運でした。そして喜んで夫人のほうはそのまま見逃したのです」

私は驚くべき真相にそのときようやく気がつき、はっとしました。ヒューズ

がその獲物を見下ろして、微笑んでいました。

「ブレイ警部」と彼は言いました。「あるいはフォン・デア・ヘルツ、あな

たを二つの犯罪で逮捕します。一つはイギリスに潜入したドイツのスパイ組織

の首領として、二つ目はフレイザー=フリーア大尉殺害の犯人として。それか

ら差し出がましいようですが、あなたの有能さには敬意を表したいと思います」

ブレイはしばらく返事をしませんでした。私は麻痺したように椅子に座って

いました。やっと警部が顔を上げました。彼は驚いたことに笑顔を浮かべよう

としていました。

「帽子はあんたのものだ」彼は言いました。「が、ホンブルグまで買いに行

かなければならんぞ。喜んで費用は全額払うが」

「恐れ入ります」ヒューズが答えました。「遠からずあなたのお国を訪問し

たいと思います。しかし、帽子選びにうつつを抜かすわけにはいかないでしょ

うね。もう一度賞賛の言葉を差し上げましょう。あなたは少々注意が足りなか

った。しかしあなたの地位を考えればそれも当然でした。スパイ狩りを専門に

するスコットランドヤードの一部局の指揮者なのですから、警戒の必要などな

いと思っていらっしゃったのでしょう。フレイザー=フリーアは実に運が悪か

った。あなたのところへ行って、あなた自身の逮捕の手はずをととのえたのだ

から! 私はその情報をホテル・セシルのフロント係から聞きました。あなた

の立場からすれば、彼を殺すのは当然です。しかも、さっきも言ったように、

多少危険を犯しても大丈夫でした。あなたは、大尉殺害の知らせがスコットラ

ンドヤードに届いたら、自分が捜査を指揮できるよう、前もって手配していま

した。巧妙に仕組みましたな」

「あの時はそう思えた」とブレイが認めました。そのとき初めて、私は彼の

声に苦い響きを聞き取りました。

「たいへん残念なことですが」とヒューズ。「今日か、遅くとも明日にはイ

ギリスは戦争に加わるでしょう。それがどういうことか分かっていますね、フ

ォン・デア・ヘルツ。ロンドン塔、そして銃殺刑執行隊!」

彼はゆっくりと警部のそばを離れ、窓にむかい合うように立ちました。フォ

ン・デア・ヘルツは机の上のインドのナイフをぼんやりひねくり回していまし

たが、ふと怯えたような目つきで部屋の中をすばやくみまわすと、その手を振

り上げたのです。そして私が止めようと前に飛び出すよりも先に、ナイフを自

分の心臓に突き立てました。

ヒューズ大佐は私の叫びを聞いて振り返りました。しかし目の前の光景を見

ても、あのイギリス人は動じませんでした。

「惜しい」と彼は言いました。「実に惜しい人物だった。勇気があって、し

かもすぐれた頭脳の持ち主でしたよ、疑いもなく。しかし……これは彼の優し

い気遣いですな。いろいろな面倒を省いてくれたのですから」

大佐は私をすぐ釈放してくれました。スコットランドヤードの冷え冷えとし

た壁を経験した後には、とても心地よく感じられる明るい日射しを浴びて、彼

と私はともにホワイトホールの通りを歩きました。彼は前日、私に疑惑の目を

むけさせたことをもう一度詫びましたが、私はなんの恨みも抱いていないと言

って彼を安心させました。

「分からないことが一つ二つあるのですが」と私が言いました。「インター

ラーケンから私が持ってきたあの手紙は……」

「簡単なことです」と彼は答えました。「エンライトは……今はロンドン塔

の牢獄ですがね……フレイザー=フリーアと連絡をとろうとしました。奴は大

佐を忠実なスパイ団の一員と思っていたのです。郵便で手紙を送るのは危険だ

と思われました。そこで、あなたの親切な協力によって、大尉に自分の居場所

と、目前に迫ったロンドン到着の日付を教えたわけです。フレイザー=フリー

アは、あなたが計画にまきこまれることを望まず、あなたを遠ざけるために従

兄弟の存在を否定したのです。もちろんそれは真実でしたが」

「なぜ伯爵夫人は私に証言を変えるよう要求したのですか」

「ブレイがやらせたのですよ。彼はフレイザー=フリーアの机を捜してエン

ライトの手紙を手に入れました。彼は若い中尉に罪を押しつけようとやっきに

なっていました。あなたと、あなたの犯行時刻に関する証言が邪魔だったので

す。彼はあなたを脅迫し……」

「でも……」

「分かりますよ、伯爵夫人がなぜ次の日、私に告白したのか不思議に思って

いるのですね。私は少々脅してやったのですよ。矢継ぎ早の質問の網にひっか

かって、身動きができなくなったんですな。彼女は何週間も見張られていたこ

とや、フォン・デア・ヘルツも思っていたほど安全ではないことを悟り、急に

怖くなったんでしょう。頃合いを見計らって、私は、彼女をブレイ警部のとこ

ろへ連れて行かねばならないだろうと言いました。これが彼女にアイデアを与

えたのですね。彼女は嘘の告白をでっちあげ、彼のもとに行きました。そこで

彼女は、彼が危険であることを知らせ、二人で逃げたと言うわけです」

私たちは少しのあいだ黙って歩きつづけました。まわりでは毒々しい見出し

をつけた午後の号外が、来るべき恐怖をこれ見よがしに報じていました。大佐

は厳粛な面持ちでした。

「フォン・デア・ヘルツはどのぐらいスコットランドヤードにいたのですか」

私は聞きました。

「ほぼ五年です」ヒューズが答えました。

「信じられませんね」私はつぶやきました。

「そうですね」と彼が答えました。「しかしそれはこの戦争が明らかにする

数多くの信じられない事実の最初の一つに過ぎません。二カ月もたてば、さら

に信じがたい新たな暴露を前に我々はこんなことは忘れてしまっているでしょ

う」彼はため息をつきました。「ここにいる人々が、我々を待ちうける恐るべ

き試練に気がついてさえいれば! 国家として統制がとれておらず、準備は不

足している。われわれが払わなければならない犠牲を思うとぞっとします。し

かもその多くは無駄な犠牲です。それでも時間がたてば、いつかは、なんとか

切りぬけられるんでしょうけど」

彼はトラファルガル広場で私に別れを告げました。そしてこれからすぐ亡く

なった大尉の父親と弟を探しだし、彼らの血族がほんとうは祖国に忠実であっ

たことを話してやらなければならないと言いました。

「彼らにとって、この知らせは暗闇にさす一筋の光になるでしょう」と彼は

言いました。「あなたにはもう一度お礼を言います」

私は彼と別れ、下宿に戻りました。謎はついに解けました。悪夢としか思え

ないような結末ではありましたが、しかし解決したことは解決したのです。私

は心安らかであるべきなのです。しかし、たった一つ私をさいなみ、休ませよ

うとしない、まがまがしい事実があるのです。お嬢さん、私はそれをお話しし

なければなりません……ですが、それが一切の終わりになりはしないかと不安

なのです。なんとかあなたのご理解がいただけたらいいのですが!

私は部屋の中を歩き、考えこみ、困惑し、迷いました。そして今、決心しま

した。他に方法はありません。あなたに真実をお話ししなければなりません。

ブレイがフォン・デア・ヘルツであったという事実にもかかわらず、彼が罪

の露見により自殺したという事実にもかかわらず、あれやこれや一切合切にも

かかわらず、ブレイはフレイザー=フリーア大尉を殺していないのです!

この前の木曜日の晩、七時すこし過ぎに私は階段をあがり、大尉の部屋に入

り、机からナイフを取りあげ、彼の心臓に突き刺したのです!

どのような挑発を私が受けたのか、どのような深刻な必要が私を動かしたの

か……このすべてを知りたければ明日までお待ちいただかなければなりません。

私は自己弁護を用意しながら、もう一日不安な日を過ごすことになるでしょう。

慈悲深い奇跡が起きて、あなたが私を許し、私にはそうする以外どうしようも

なかったのだということを理解してくれることを望みながら。

お嬢さん、事件の一部始終を知るまで結論を下さないでください。私が証拠

を洗いざらい、あなたの美しい手に差し出すまでは。

あなたの卑しきしもべ。

苦悶の欄の男から来た六番目の、そして最後から二番目の手紙は、初めのう

ち、それを読む娘の顔に安堵の笑みを浮かべさせた。彼女は友人がヴィクトリ

ア・エンバンクメントに沿った、あの灰色の壁のむこうで、もはや、やるせな

い思いをしてはいないことを知り、無条件に喜んだ。読み進むにしたがい、ま

すます興奮を覚えながら、彼女は手紙の中のヒューズ大佐がしだいに事件の核

心へと近づき、ついに椅子に座るブレイ警部を指差し、犯人と指摘するまで、

彼の一挙手一投足をじっと見守ったのである。これは十分納得のいく解決であ

り、彼女の友人を監禁した警部には、当然の報いであった。ところが手紙の最

後では、飛行船から落とされた爆弾さながらの唐突さで、イチゴ男が罪の告白

をしているのだ。実は彼こそが殺人犯だった! 彼はそれを認めている! 彼

女は自分の目が信じられなかった。

しかしぞくぞくするようなこの一週間のあいだに、すっかりおなじみとなっ

てしまった便箋には、彼女の目の色とおなじすみれ色のインキで確かにそう記

されていたのである。彼女は手紙を二回、三回と読んだ。当惑が怒りへ変わり、

彼女の頬は炎のように紅くなった。が、彼はすべての証拠を目にするまでは結

論を下さないでくれと頼んでいる。確かにそれは筋が通った要求だったし、公

正を保つためにも彼女はそれを認めてやらなければならなかった。

第八章

このようにしてテキサスの娘にとってだけでなく、ロンドンじゅうの人々に

とっても落ち着かない一日がはじまった。彼女の父親は、顧問の靴磨きから先

ほどさずけられた、新たな外交上の秘密の話ではちきれそうになっていた。後

に彼はワシントンで、海外の事情通として注目を浴びる運命にあった。靴磨き

が背後で彼を支えていたとは、誰も予想しなかったが、テキサスから来た男は、

あの有能な外交官のことを幾度も思いだし、今もご意見番として足元にいてく

れたらと思うことになるのである。

「真夜中までに戦争になるだろう、間違いない!」彼はこの運命の火曜日の

朝、そう宣言した。「いいか、マリアン、サロニア号の切符が手に入って、わ

しらは幸運だ。今日となっては五千ドルでも切符は売れん。あさって定期船に

乗りこめば、わしは万々歳だ」

あさって! 娘は考えた。とにかく手紙は届くだろう。彼女の若い友人が自

分の卑劣な行いを説明するために書いた弁護とやらを含む手紙が。彼女は最後

の手紙を首を長くして待った。

その日はのろのろと過ぎ、次の日に変わろうとする深夜になってイギリス参

戦の報がもたらされた。カールトン・ホテルの靴磨きは、あるテキサス人の心

の中で、尊敬されるべき預言者となった。次の日の朝、手紙が到着し、震える

指がその封をちぎった。手紙には次のようにあった。

苦悶の欄 · 第 2 / 3 段