親愛なるカールトン・ホテルのお嬢さま。

Produced by Kiyotoshi Hayashi

Produced by Kiyotoshi Hayashi

Title: 苦悶の欄(Kumon no ran)

Author: Earl Derr Biggers

Translator: 林清俊(Kiyotoshi Hayashi)

苦悶の欄

アール・デア・ビガーズ

第一章

二年前の七月、ロンドンの猛暑はほとんど我慢の限界をこえていた。いまか

ら思えば当時の焼けつく大都市は、拷問部屋へつうじる控えの間のごとき役割

をはたしていたのかもしれない。つまり世界大戦という地獄のおとずれにむけ

て不充分ながら下準備をととのえていたわけである。セシル・ホテルのそばに

たつ、ドラッグストアのソーダ水売り場には大ぜいのアメリカ人観光客がたむ

ろし、母国で売られているのとおなじソーダやアイスクリームにほっと息をつ

いていた。ピカデリーの喫茶店のあけはなたれた窓からは、イギリス人が涼を

もとめて何クォートもの熱いお茶を飲んでいる姿が垣間見られたかもしれない。

これは彼らがかたく信じるパラドキシカルな消夏法なのである。

一九一四年、あの忘れもしない年の七月二十四日、金曜日朝九時頃、ジェフ

リー・ウエストはアデルフィ・テラスのアパートを出て、朝食を食べにカール

トン・ホテルヘむかった。彼は、その堂々たるホテルの朝食室がロンドンでも

っともすずしく、さらになんの奇跡か、季節はずれというのにまだイチゴが食

べられることを見出したのだ。質実なイギリスの汗を浮かべる質実なイギリス

人の顔にとりかこまれて、混雑するストランド街を歩いているとき、彼はニュ

ーヨークのワシントンスクエアにある自分の部屋をしきりに恋しく思った。と

いうのもウエストはジェフリーというイギリス風の名前にもかかわらず、生ま

れ故郷のカンサスとおなじくらい生粋のアメリカ産で、そのときはさしせまっ

た用事のためにイギリスに滞在していただけなのだ。はるかなるがゆえに妖し

くもばら色にかがやく祖国から、遠くはなれたイギリスに。

カールトン・ホテルの新聞売り場でウエストは朝刊を二つ買った。タイムズ

は勉強用、デーリー・メールは娯楽用である。それからレストランへ入った。

ウエストよりもあざやかな金髪の、背の高い、きりりとしたプロイセン人ウエ

イターが彼を見ると、機械仕掛けみたいなドイツ的笑みを浮かべて一つうなず

き、このアメリカ人がまずほしがることを知っているイチゴの皿を取りにいっ

た。ウエストはいつものテーブルにつくとデーリー・メールを開き、お気に入

りの欄を探した。そこに載っている最初の記事を読むと彼はうれしそうににっ

こりと笑った。

「わたしをいとしい人と申した方は不誠実な方。手紙もくださらないなんて」

すこしでもイギリスの新聞につうじた人ならウエストがどんな内容に興味を

ひかれたか、たちどころに理解するだろう。ロンドンに滞在した三週間のあい

だ、彼は日ごとデーリー・メールに載る私事広告を、胸をときめかせながら追

いつづけたのだ。この一連の個人的メッセージは俗に「苦悶の欄」という名で

知られ、長きにわたってイギリスの新聞の名物とされてきた。シャーロック・

ホームズが活躍したころはタイムズ紙上でこれが大人気となり、多くの犯罪者

がそこになにやら心をそそる奇怪なメッセージを載せては捕まえられた。その

後、テレグラフ紙がこの投稿欄をもうけたが、半ペニーで買える大衆紙の登場

とともに、庶民はこぞってデーリー・メールに鞍がえした。

苦悶の欄には悲劇と喜劇が混在している。あやまちを犯した者には許すから

帰れという勧告が、望まれぬ求婚者には「父は令状を用意したわ。逃げて、あ

なた!」という警告が出される。その熱烈さにアベラールとエロイーズも赤面

するような愛も、一語十セントであさらさまに披露され、町のみんなの微笑を

誘うのである。茶色のダービー・シューズをはいていた紳士から、シェパーズ

・ブッシュにて電車を降りた金髪の家庭教師に、情熱をこめて申し上げます、

あなたに心を奪われました。お話しする機会を与えてもらえませんか? お答

えは本欄まで。三週間のあいだ、ウエストはこの手のものを夢中になって読み

つづけた。なによりもよかったのは、これらの伝言がどれもこれもあけっぴろ

げで無邪気なことだった。最悪の場合、それはたんに世間のならわしをかいく

ぐろうとする努力でしかなかったが、こういう開放的なところはイギリス人に

はあまりにもまれにしか見られぬ傾向で、もっともっと奨励されてしかるべき

ではないかと彼は感じた。おまけにウエストは謎とロマンスに目がなかった。

そしてこの魅惑的な双子はいつもこの投稿欄の上をウロウロしていたのである。

そういうわけで、イチゴを待っているあいだ、彼は「いとしい人」と呼んで

くれた男の誠実さを疑うにいたった若い女性の、文法を無視した激しい憤りに

にっこりしていたのである。彼はその日の朝の二つ目の記事にうつった。心を

完全に征服されし者より。

「わが愛しき人は眠り給う。豊かな漆黒の髪のご婦人。ビクトリア駅から乗

車し、隅の席に。水曜日の夜。手には演目表。お尋ねに答えた紳士、お近づき

を望みます。お返事はこの欄へ。……フランスの王」

ウエストは豊かな漆黒の髪の返事は要注意だと思った。次のメッセージは、

いまやほとんど連日、この欄の目玉となっているアイの抒情詩だった。

「最愛の人よ。大好きなあなたへ優しい愛の祈りを送る。私の願いはただ、

今もこれからも、ずっとあなたと一緒にいることだけ。私の目にはあなたほど

魅力的な人はいない。あなたの名前は音楽だ。命よりもあなたは大切。私の美

しい人、私の誇り、喜び、すべてである恋人よ! 誰を見ても恋敵に見える。

あなたのかわいい手を私と思って口づけをしてくれ。あなただけを愛している。

永遠にあなたの……アイ」

アイは気前がいいなとウエストは思った。一語十セントなのに。それはさら

に先のほうに載っているけちな愛人のメッセージとはきわだった対照をなして

いた。

「心から愛してる。会いたい。切ない。恋しい」

しかしこのきわめて個人的な伝言は、愛にまつわるものばかりではない。そ

こには謎もあった。とりわけ次の水生動物たちの言葉には。

「ふてぶてしい人魚よ。俺のものではない。鰐がおまえに噛みつくぞ。楽し

みだ。……最初の魚」

そしてなにやら血なまぐさい警告。

「デュ・ボックス。第一ラウンドで歯をへし折ってやる。終局。忘れられな

い経験になるぜ」

この時、ウエストのイチゴが届いた。さすがに苦悶の欄も彼の興味をひきと

めることはできなかった。赤いイチゴを食べおわると彼はふたたび読みはじめ

た。

「ウオータールー。水曜日十一時五十三分の汽車。タクシーで去りぎわに手

を振ったお嬢さん、灰色のコートの男性に興味ある? ……まじめな男」

もうすこし品のある申し込みもその先に出ていた。

「グレート・セントラル。九日月曜日の朝グレート・セントラル・ホテルの

エレベーター内にいらしたボンネットのご婦人、ご紹介を得る機会を切に所望

致します」

その日の苦悶の欄のお楽しみはそれでおしまいだった。ウエストはまじめな

市民にふさわしくタイムズ紙を取り上げ、朝のニュースに目を通した。ダリッ

ジ・カレッジの新学長任命に多くの紙面がさかれていた。あの魅惑的なガブリ

エル・レイが当事者となった離婚騷動もおなじように注意を引いた。そして重

要ではない紙面の片隅に、いかにも重要ではないという感じで、オーストリア

がセルビアに対して最後通牒を送ったという記事が押しこまれていた。ウエス

トはこのつまらないニュースを途中まで読みかけたのだが、突然一大警世紙も

その記事もどうでもよいインクの染みと化した。

一人の女性がカールトン・ホテルの朝食室の入り口に立っていた。

そう、彼はウィーン発の特電記事にじっくり思いをめぐらせるべきだった。

しかしなんとすばらしい女性だろう! 髪はにぶい金色で、目はすみれ色、な

どといっても説明にはならない。おなじような恵みを受けた女はいくらでもい

る。それは彼女の物腰だった。すみれ色の目で大ぜいのボーイ長ときらびやか

な支配人たちを見る、その優雅な態度。そしてここカールトンであれ、運命が

みちびくほかのどんな場所であれ、変わることのないくつろいだ様子。疑いも

なく彼女はこの国の人ではなく、アメリカ合衆国の人間だった。

彼女はつかつかとレストランの中を歩いてきた。そして彼女の背景の一部と

して、政治家がよく着る黒服をまとった中年紳士も視野に入ってきた。彼もま

たまぎれもなくアメリカ人というレッテルをしょっていた。彼女はますますウ

エストに近づいて来る。見るとその手にはデーリー・メールがにぎられていた。

ウエストについているウエイターは、自分が椅子をひいて待っているその席

以外は、部屋の中に座るにあたいするテーブルはないということを、それとな

く示す天才的な技の持ち主だった。こうして彼は女性とその連れをウエストの

席から五フィートとはなれていない場所に誘いこんだ。そして注文控えをさっ

と取り出し、アメリカの劇に出てくる新聞記者のように立ったまま鉛筆をかま

えた。

「イチゴがおいしゅうございますよ」と彼は愛想よく言った。

男がどうする? といった目で女性を見た。

「私はけっこうよ、お父さん」と彼女。「イチゴは大きらい。グレープフル

ーツをくださいな」

急いでそばを通りすぎるウエイターをウエストが呼びとめた。彼は大きな声

を出し挑戦的な口調で言った。

「イチゴをもう一皿くれたまえ。今日はいつにもましてうまい」

一瞬、まるで風景でも見るかのように、あのすみれ色の目が彼の目に何気な

い無感情な視線を送った。それからその目の持ち主は、ゆっくりと、手にした

デーリー・メールをひろげた。

「どんなニュースが出てるかね?」グラスの水を一口グイと飲みながら政治

家がたずねた。

「知らないわ」と女性は顔をあげずに答えた。「ニュースより面白いものを

見つけたの。知ってる? イギリスの新聞にはおかしな投稿欄があるのよ。苦

悶の欄っていうの。その伝言がすごいの」彼女はテーブルに身を乗り出して、

「これ、聞いて。『最愛の人よ。大好きなあなたへ優しい愛の祈りを送る。私

の願いはただ、今もこれからも、ずっとあなたと一緒にいることだけ。私の目

にはあなたほど魅力的な人はいない』」

男は落ちつかなげにあたりを見まわした。「やめなさい」彼は頼むように言

った。「みっともないじゃないか」

「みっともないですって!」女性が声をあげた。「あら、わたしはとっても

すてきだと思う。気持ちいいくらい開放的で堂々としてるわ。『あなたの名前

は音楽だ。命よりもあなたは大切……』」

「今日はなにを見るのかね」と父親が急いで口をはさんだ。

「シティに行ってテンプル法学院を見るの。サッカレーが住んでいたところ

よ。それからオリヴァー・ゴールドスミスが……」

「よしよし、テンプル法学院と」

「それからロンドン塔ね。とってもロマンチックなイメージがいっぱい詰ま

ってる。とくにかわいそうな王子たちが殺された血の塔。わくわくしない?」

「おまえがそう言うならな」

「お父さんたら! テキサスに帰ってもお父さんが王様とかそんなものに興

味を示したなんて言わないわ。約束する。今ちょっと興味を示してくれたらね。

さもないと国王ジョージ五世が横を通るとき帽子を取ったって、ひどい噂をば

らまいちゃうわよ」

政治家は笑った。関係のないウエストも思わず一緒ににんまりした。

ウエイターがグレープフルーツとウエストの注文であるイチゴを持って戻っ

てきた。女性はウエストにはもう一瞥もくれず、新聞を置いて朝ご飯を食べは

じめた。しかしウエストは勇気のかぎりをつくしてちらちらと彼女のほうをの

ぞき見た。愛国的な誇りを感じながら彼はこう思った。「ヨーロッパに来て六

カ月経つが、そこで目にしたいちばん美しいものが祖国から来た人だとは!」

二十分後、彼がしぶしぶ席を立ったとき、二人の同国人は依然テーブルでそ

の日の予定を話し合っていた。そういう場合の常として、女が段取りを決め、

男が同意した。

彼女のほうを最後に一目見て、ウエストはヘイマーケット街の熱せられた舗

道の上に出た。

彼はゆっくりと自分の部屋へ歩いて帰った。仕事が彼を待っていた。しかし

彼は仕事に取りかかるかわりに、書斎のバルコニーに座り、そのアパートを選

んだ最大の理由である中庭をみつめたのだった。この都会のど真ん中にささや

かな田舎が運びこまれていた。きれいに刈りこまれ、手入れの行き届いた緑の

田舎。それはイギリスでもっとも彼に満ち足りた気分を与えるものである。ツ

タが壁を高くよじ登り、花盛りの花壇のあいだを小径がはしっている。そして

窓のむかい側にはめったに開けられることのない、はなはだロマンチックな門。

座って下を見ていると、真下にあのカールトン・ホテルの女性が見えるような

気がした。彼女は丸太のベンチに座ったかと思えば、彼女の美しさに嫉妬する

花の上にかがみこみ、次の瞬間には灼熱のせわしない都会にむかってその扉を

開く、門のところに立っているのだった。

彼女が決して入ることはないその庭に彼女の姿を見ながら、もう二度と会う

ことはないだろうと惨めに思ったとき、その考えが浮かんだのだった。

はじめは馬鹿くさい、とんでもないアイデアだと思って頭を振った。上品だ

があまりにも濫用された言葉を使えば、彼女は「レディ」であり、彼はすくな

くとも建前としては「ジェントルマン」なのである。彼らのような人間はそん

な下品なことはしない。こんな誘惑に屈したら、彼女は驚き、怒り、どこかで、

いつの日か、ふたたび出会うことがあっても、その千載一遇の好機を生かすこ

とはできないだろう。

でも、しかし、彼女も苦悶の欄をおもしろがり、しかも「とってもすてき」

だと思っている。彼女の目にはロマンスが大好きであることを示す輝きがあっ

た。彼女は人間的で、楽しいことが好きで、なにより心に青春の喜びを持って

いる。

馬鹿げている! ウエストは部屋の中に入り、うろうろ歩き回った。そんな

ことは非常識だ。しかしそれでも……と彼はにやりとしながら考えた……この

アイデアには愉快な可能性がいっぱいあるぞ。それを永遠に棄ててしまって、

このくだらない仕事に取りかからなければならないなんて、あんまりじゃない

か! 永遠に棄ててしまう? ううむ……

次の日の土曜日の朝、ウエストはカールトン・ホテルで朝食を取らなかった。

が、例の女性はそこへ食事にやってきた。彼女と父親が席につくと、父親は「

いつものデーリー・メールだな、持っているのは」と言った。

「もちろんよ!」と彼女は答えた。「これなしでは生きていけないないわ。

グレープフルーツをお願い」

彼女は読みはじめた。まもなくすると頬が紅く染まり、彼女は新聞を置いた。

「どうかしたかね」とテキサスの政治家が聞いた。

「今日は」と彼女は厳しい口調で答えた。「大英博物館に行くのよ。延期す

るのはもうたくさん」

父親はため息をついた。ありがたいことに彼はデーリー・メールを見せろと

は言わなかった。もしもそうしていたら、私事広告欄の上から四分の一ほどい

ったあたりで激怒していただろう。あるいはもしかすると困惑するだけだった

かもしれないが。

「カールトン・ホテルのレストラン。金曜日の朝九時。失礼ながら、イチゴ

を二皿食べた男性から、イチゴよりグレープフルーツを好むお嬢さまへ。私た

ち、共通の友人がいるのでは? それを突き止めるまで夜も眠れません。また

お会いしてこの投稿欄を読みながら楽しくお話ししたいと思います」

イチゴ好きの男性が怖気づいてあの朝カールトン・ホテルにいなかったのは

幸いだった! 彼はグレープフルーツをみつめる女性の美しい顔に厳しい断固

とした表情が浮かぶのを見て落胆しただろうから。あまりの落胆に、ただちに

レストランを出たかもしれない。かくしてやがて女性の顔にいたずらそうな微

笑が浮かぶのを、そして彼女がふたたび新聞を取り上げ、その笑みを浮かべた

まま最後まで投稿欄を読むのを、見ることはなかっただろう。

第二章

次の日は日曜日で、デーリー・メールは休刊である。その日はのろのろと足

を引きずるように過ぎた。月曜日、ジェフリー・ウエストはとてつもなく早起

きをし、通りに出て、お気に入りの新聞を捜した。それを見つけると苦悶の欄

……それだけを見た。火曜日も希望をすてずにまた早起きした。しかしそこで

希望はついえた。カールトン・ホテルの女性は快く返事をくれなかったのだ。

失敗というわけか、と彼は思った。すべてを賭して大ばくちに出たが、見事

にしくじった。彼女が彼のことを考えるとしても、せいぜい取るに足らぬ道化

者、タブロイド紙の回し者と決めつけるくらいのものだ。彼は十分に彼女の侮

蔑にあたいした。

水曜日は遅くまで寝ていた。デーリー・メールを急いでのぞこうとはしなか

った。前日の失望があまりにも大きかったのだ。ひげを剃りはじめてからよう

やくアパートの管理人ウオルタースを呼びだし、朝刊を調達してきてもらった。

ウオルタースは高価な宝物を抱えて帰ってきた。というのはその日の苦悶の

欄を、ウエストは白いシャボンを顔につけたまま、喜びにあふれて読んだから

である。

「イチゴ男さんへ。お返事を決心したのは、ただグレープフルーツの女性が

優しい心の持ち主で謎とロマンスが大好きだからです。イチゴ狂いさんには七

日のあいだ、毎日一通ずつ手紙を書くことを許します。あなたが面白くて、お

友達にふさわしい人であることを証明してちょうだい。その後のことは……様

子を見てから。宛先はカールトン・ホテル、セイディ・ヘイト気付M.A.L

.まで」

ウエストは終日足が地につかなかった。が、夕闇の訪れとともに、手紙の問

題が彼を悩ませはじめた。自分の未来の幸せがまるごとそれにかかっていると

彼は感じた。夕食から帰ってくると、すばらしい中庭を望む、窓ぎわの机にむ

かった。日中はいまだ焼けるように暑かったが、夜になるとそよ風がロンドン

の熱した頬をあおぐように吹いてきた。風はやさしくカーテンをゆすり、机の

上の紙をかさかさと鳴らした。

彼はじっくりと考えた。すぐさま自分が地位のある立派な人間であり、イヤ

になるくらい著名な人たちと懇意にしていることを打ち明けるべきだろうか。

とんでもない! そんなことをしたら、泡がはじけるように、たちまち謎とロ

マンスが永遠に消えてしまう。グレープフルーツの女性は一切の興味を失い、

二度と彼の言うことに耳を貸さないだろう。彼はさらさらゆれるカーテンに厳

粛な口調で語りかけた。

「だめだ。謎とロマンスがぜひとも必要なんだ。しかし、どこに……どこに

そんなものが?」

上の階から軍靴の硬いどしんどしんという音が聞こえてきた。近所付き合い

をしている英国インド陸軍第十二騎馬隊のスティーブン・フレイザー=フリー

ア大尉である。海のむこうの植民地から賜暇帰国中であった。まさにその頭上

の部屋からのちほどロマンスと謎が豊かにあふれ出すことになろうとは、その

時のジェフリー・ウエストには思いも寄らなかった。なにを話そうと迷ってい

るうちに、ふと霊感が訪れ、彼はカールトン・ホテルの女性に宛てた、七通の

手紙のうちの最初の一通を書きあげた。真夜中に投函した手紙は次のようなも

のだった。

親愛なるグレープフルーツのお嬢さま。

あなたはとても優しい方です。また賢くもいらっしゃる。賢いと言うのは、

私のぎこちないささやかな個人広告、あそこに書かれていたことをすべて読み

取ってくださったからです。あなたはたちどころにその意味するところを理解

なさったでしょう。つまり内気な男がおずおずと、ためらいながら、そばを通

り過ぎるロマンスの裾をつかもうとしているのだと。どうぞ信じてください。

あのメッセージを書いたとき、保守主義という老人が私につきまとっていまし

た。彼ははげしく抵抗しました。彼はもがき苦しみ、悲鳴をあげ、抗議の声を

あげながら、郵便ポストまで私を追いかけてきました。しかし私は奴を鞭打ち

ました。どうだ! とばかりに。私は彼をやっつけたのです。

青春は一度きりだ、と私は彼に言いました。それを過ぎてからロマンスに合

図を送ってもなにになる? すくなくともこの女性なら理解してくれる、私は

そう言いました。彼はそれを聞いてあざ笑いました。おろかな白髪頭を振りま

した。彼のせいで私が不安を感じたことは認めます。しかし今、あなたのおか

げで、あなたに対する私の信念が正しかったことが証明されました。感謝の言

葉を百万回申し上げます。

三週間というもの、アメリカへの思いを募らせながら、私はこの巨大で、ぶ

ざまで、冷淡な都市にいました。三週間というもの、苦悶の欄だけが私の気晴

らしでした。そこにカールトン・ホテルのレストランのドアを通って、あなた

があらわれたのです。

自分のことを書かなければなりませんね。分かっています。それでは私の心

の中にあるもの……私が持っているあなたの写真のこと……はお話ししないこ

とにします。そんなものはあなたにとってなんの意味もないことでしょうから。

きっと幾人ものテキサスの伊達男があなたにおなじことを言ったでしょう、月

が頭の上にかがやく晩に、そよ風がやわらかくささやくなか、あの木の枝を…

…あの木……えっと、あの木の名前は……

ああ、面白くないなあ。私は知らないんですよ! テキサスに行ったことが

ありませんからね。これはすぐ直さなければいけない私の悪い癖です。一日中、

私は百科辞典でテキサスを調べようと思っていたのです。しかし一日中、私は

雲の上にいました。そして雲の上に辞典はないんです。

今、私は地上に降りて、静かな自分の書斎にいます。目の前にはペンとイン

クと紙があります。私は自分がお付き合いするにふさわしい人物であることを

証明しなければなりません。

部屋を見れば、そこに住む人のいろいろなことがわかる、と言いますね。と

ころが、なんということでしょう、アデルフィ・テラスの……何番地かは申し

ませんが……この落ち着いた部屋は家具つきの転貸用物件なのです。ですから

今、私がいるところをご覧になるとすれば、アンソニー・バーソロミューとい

う人が残して行った所持品で私を判断することになるでしょう。それらの上に

は埃がたくさん積もっています。そんなものでアンソニーも私も判断なさらな

いでください。むしろ白髪まじりの奥さんと地下室にすんでいる管理人のウオ

ルタースを判断すべきでしょう。ウオルタースはかつては庭師でした。そして

私の部屋のバルコニーが見下ろす中庭に、彼の人生のすべてが詰めこまれてい

るのです。彼がそこで時間を過ごしているあいだに、上の方では隅に埃がたま

るというわけです。

こんな様子にはがっかりですか? ではあなたは中庭をご覧になるべきです

! そうしたらウオルタースを非難なさったりはしないでしょう。この中庭は

我々の身近に残された天国の見本なのですから。生垣とおなじくらいイギリス

的で、こぎれいで、美しいのです。ロンドンはそのむこうのどこかにある喧騒

です。私たちの中庭と大都市の間には、永遠に閉ざされた魔法の門があります。

私がこの部屋を借りることに決めたのは中庭のせいなのです。

あなたは謎をお好みですから、私がここに来るにいたった一連の奇妙な事情

についてお話ししましょう。

その発端からお話しするには、まずインターラーケンにまで戻らなければな

りません。あちらにいらっしゃったことがおありですか。あのユングフラウの

高峰を後ろにひかえ、きらきら輝く二つの湖の間に美しく横たわる、静かな小

さな町です。とある幸運なホテルの食堂からは、夕食のとき、雪をいただくユ

ングフラウに、灰紫色の残光が燦めくのを見ることができます。それを見れば、

あなたもイチゴのことを「大きらい」などとは言わないでしょう。いや、他の

どんな言葉も失ってしまうでしょう。

一ト月前、私はインターラーケンにいました。ある晩、夕食を終えて、大通

りをぶらぶら散歩していました。ホテルと店が一つ残らず通りに整列して、す

ばらしい山を前に気をつけの姿勢で立っていました。私はある店の店先にステ

ッキがまとめて置いてあるのを見つけました。登山用に一本必要でしたので、

ひとつ見ておこうと立ち止まりました。すると品定めをはじめたとたん、一人

の若いイギリス人が店にあがってきて、やはりステッキを吟味しはじめたので

す。

たくさんある中から一つを選び、店主を探そうと後ろを振りむいたとき、そ

のイギリス人が話しかけてきました。細身で、とても若いにもかかわらず気品

があり、お風呂で身体をぴかぴかにみがいているような様子をしていました。

私はそれこそイギリス人がエジプトやインドのような植民地で威勢を張ること

を可能にしている大きな要因だと確信しています。エジプト人やインド人はそ

れほどきちんとお風呂に入りませんからね。

「やあ、失礼だが、君」と彼は言いました。「その杖はやめたほうがいい。

気を悪くしないでくれたまえ。それじゃ山登りには頼りないな。僕が薦めるな

ら……」

私は驚いたなんてものではありません。イギリス人を多少ともご存知なら、

彼らには、ぎりぎり差し迫った状況でも、他人に話しかける習慣がないことを

知っていらっしゃるでしょう。ところがその傲慢な種族の中には、なんと一人

だけ私のステッキの選択にいちゃもんをつける人間がいたのです。私は結局、

彼が選んだステッキを買うことになりました。そして彼は私のホテルの方向へ

一緒に歩き出しました。そのあいだ、彼のお喋りたるや、全然イギリス人らし

くないのです。

私たちは遊園地に立ち寄り、音楽に耳を傾け、酒を一杯やり、子馬の背中に

何フランか金を投げてやりました。彼はホテルの玄関先の回廊までついて来て

くれました。彼が立ち去る時、私を旧知の間柄のように扱うのには驚きました。

彼は次の日の朝、私を訪ねてくると言いました。

アーチボルド・エンライトというのが彼が教えてくれた名前なのですが、彼

はきっと落ちぶれた山師で、のっぴきならない事情から、なんとか金の工面を

しなければならず、それでイギリス的な排他的態度を捨てることにしたのだろ

うと私は決めこみました。そして次の日、金の無心をされるだろうと覚悟して

いたのです。

しかし私の予想ははずれました。エンライトは金はたっぷりあるようでした。

最初の晩、私は近々ロンドンに行く予定になっていると言ったのですが、話の

途中、彼はしばしばそのことを話題にしました。インターラーケンを離れる時

が近づくと、彼は私にむかって、イギリスにいる彼の友人に会うようにほのめ

かしはじめました。これまた聞いたことがない、前例のないことです。

彼は私がいとまごいを告げたとき、彼の従兄弟、英国インド陸軍第十二騎兵

隊スティーブン・フレイザー=フリーア大尉への紹介状を私に手渡したのでし

た。大尉なら喜んでロンドン滞在中に便宜を図ってくれるよ、ちょうど今、賜

暇休暇の最中だろう、そうじゃないとしても君がそこに着く頃には休暇に入っ

ているさ、と言うのです。

「スティーブンはいい奴だ」とエンライトは言いました。「喜んでいろいろ

なことを教えてくれる。君、よろしく言っといてくれたまえ」

もちろん私は手紙を受け取りました。しかしこの一件には大いに頭を悩ませ

ました。いったいアーチーはなぜ、こうも突然、私に強い親近感を抱いたのか。

また従兄弟はインドでの二年間の滞在の後、帰国して、さだめし多忙を極めて

いるだろうに、なぜ私に会わせようとするのか。アーチーに執拗に口説かれ、

私は紹介状を見せるという約束をしたのですが、それにもかかわらず、私は見

せないことにしたのです。それまで多くのイギリス紳士に会いましたが、アー

チーは例外としても、彼らはたかが一通の紹介状くらいで放浪の旅をするアメ

リカ人を温かく迎えてくれるような連中ではないと感じていたのです。

私はゆっくり旅をつづけながらロンドンに着きました。ここで私は、船で帰

国の途につこうとしている友人に出会いました。彼は紹介状を持っていった時

の悲しい経験をいくつか話してくれました。紹介状を見せた相手の「おい、こ

んなもので面倒をかけさせるなよ」という冷たい、うさん臭い目つきとか。み

んな思いやりのある人なんだが、よそ者は毛ぎらいする、と彼は言いました。

イギリス人の変ることのない習性ですね。もちろんアーチーはこのかぎりでは

ないのですが。

というわけで、フレイザー=フリーア大尉への紹介状は忘れることにしまし

た。ここロンドンには仕事上の知人と数人のイギリス人の友達がいます。彼ら

はいつもと変わらぬ、親切で魅力ある人々でした。でも、できるだけ多くの人

に会うことは、私にとっても有益です。ですから一週間くらい転々と移動を繰

り返したある日の午後、私は大尉に会いに行くことにしたのです。私は自分に

こう言い聞かせました。ひょっとするとインドの巨大なかまどの中でちょっと

は柔らかくなったんじゃないだろうか。当てがはずれても別に困ることはない

んだし、と。

アデルフィ・テラスのこのアパートに来たのは、そのときが最初でした。ア

ーチーがくれた住所というのがここだったのです。ウオルタースが中に入れて

くれ、私は彼からフレイザー=フリーア大尉がまだインドから帰っていないこ

とを教えられました。部屋は準備されていました。こちらでの習慣のようです

が、大尉は不在の間も部屋をそのまま取っていたのです。そして、もうすぐこ

ちらに来ることになっていました。たぶん妻が日にちを覚えているでしょう、

とウオルタースが言いました。彼は一階の玄関の広間に私を置いて、奥さんの

ところへ訊きに行きました。

待っているあいだ、私はぶらぶらと広間の奥へ入って行きました。そして夏

を室内へ招き入れるため開け放たれた窓から、私は初めてあの中庭を、ロンド

ンで私がとても気に入っているあの中庭を見たのです。ツタの這うレンガの古

壁、花咲き匂う花壇をめぐるきれいな小径、丸木の椅子、魔法の門。そのすぐ

外側に世界最大の都市がその貧困と富、悲しみと喜び、騒音と喧騒とともに横

たわっているとは、とても信じられませんでした。こここそはジェーン・オー

スチンが貴婦人や洗練された紳士を住まわせた庭です。こここそ夢を見、崇め、

慈しむべき庭なのです。

ウオルタースが戻ってきて、奥さんも大尉が戻る日をはっきりとは知らない

と言ったとき、私は中庭を口をきわめてほめました。すぐに私たちは友達にな

りました。私はホテルから離れた静かな下宿を探していたので、二階の、ちょ

うど大尉の部屋の真下に、転貸用のスイートルームがあることを知ったときは、

大喜びしました。

ウオルタースから不動産業者の住所を聞き、社長の娘に結婚を申し込んだと

しても、これほどではあるまいと思える厳しい審査を受けた後、私はここに住

むことを許可されました。庭は私のものになったのです!

大尉ですか? ここに来て三日後、はじめて上の方から軍靴の音が聞こえて

きました。するとまた勇気がくじけてきたのです。アーチーの紹介状は机にし

まっておいて、隣人とは、上のほうで彼が歩く音を聞くだけの付き合いにした

い。彼とおなじアパートに移ってきたのは、ひょっとすると礼を失した行為で

はなかったかと感じました。しかしウオルタースには大尉の知り合いであると

言ってありましたので、彼はすぐさま「お友達」が無事お帰りですよ、と教え

に来たのでした。

そういうわけで一週間前のある晩、度胸を決めて大尉の部屋に行ったのです。

ノックすると、入るように言われ、私は書斎で彼と対面しました。背の高い金

髪の美男子で、口ひげを生やしていました。まさしく、お嬢さん、女学生の頃

のあなたが夢見るような人物でした。態度のほうは残念ながら好意的とは言え

なかったのですが。

「大尉」と私は話しはじめました。「無理やり押しかけてきて申し訳ありま

せん」もちろんそんなことを言うつもりはなかったのですが、私は落ち着きを

失っていました。「しかし私は、たまたまあなたの隣人でして、それにここに

あなたの従兄弟でいらっしゃるアーチボルド・エンライト氏の紹介状も持って

います。インターラーケンでお会いして、とても仲のよい友達になったのです」

「ほう、ほんとうかね」と大尉。

彼は軍法会議の証拠品を受け取るように、紹介状に手を伸ばしました。私は

来なければよかったと思いながら、それを手渡しました。彼は手紙を最後まで

読みました。紹介状にしては、長い手紙でした。彼の机のそばに立って待って

いるあいだ……というのは彼は座れとは言わなかったからなのですが……私は

部屋の中を見まわしました。私の書斎と大差ありませんが、ただ私の部屋より

も少し埃っぽいなと思いました。三階にあるので庭からはさらに離れています。

それ故ウオルタースはそこまでめったにやって来ないのです。

大尉はこちらを振り返ると、また手紙を読みはじめました。これは決定的に

私を当惑させました。私は下をむきました。すると偶然、彼の机の上に、イン

ドから持ちかえったと思われる奇妙なナイフを見つけたのです。物騒なほど鋭

利な刃は鋼鉄製で、柄は金、なにか異教的な模様が彫られていました。

そのとき大尉はアーチーの手紙から顔をあげ、冷たい視線をまともに私の上

にそそぎました。

「君」と大尉は言いました。「私の知るかぎり、アーチボルド・エンライト

などという従兄弟はいないんだがね」

ああ、涙が出るほどすてきな成行きではありませんか! 相手のお母さんか

ら紹介状を持ってきたというのも十分間の悪い話ですが、私はこのイギリス人

の部屋で、存在しない従兄弟からもらった、あたたかい推薦状とやらを、目の

前でずうずうしくもひけらかしてみせたのです!

「それは失礼いたしました」と私は言いました。彼とおなじように横柄にか

まえようとしたのですが、十年早いというところでした。「しかし決してふざ

けて手紙をお持ちしたのではないのです」

「もちろんそうでしょうな」と大尉は答えました。

「どうやらペテン師がなにかを企んでそんなものを私によこしたみたいです

ね」私はつづけました。「なにを企んでいたのかは皆目見当もつきませんが」

「まったくもってお気の毒です」と彼は言いました。しかしそれをロンドン

的な抑揚をつけて言ったのです。その抑揚がはっきりほのめかしていたのは「

ちっともそうは思ってないね」ということでした。

痛々しい沈黙。大尉は手紙を返すべきだと私は思いましたが、そんなそぶり

は見えません。それに、もちろん、わたしも返してくれとは言いませんでした。

「あの、では、失礼します」と言って私は急いで出て行こうとしました。

「おやすみなさい」と彼は答え、私はアーチーのいまいましい手紙を手にし

て立っている大尉のもとを去ったのです。

私がアデルフィ・テラスに来たのは、以上のようなわけがあったのです。そ

こに謎が含まれていることは認めて下さいますね。あの気まずい訪問の後、一

度か二度、階段で大尉とすれ違いましたが、廊下が非常に暗いのはもっけの幸

いでした。上からは彼のたてる物音がしばしば聞こえてきます。実はこれを書

いている最中も聞こえているのですよ。

アーチーとは誰か? なにをもくろんでいたのか?

とにかく、私は庭を手に入れました。その点はお喋りのアーチーのおかげで

す。今はほとんど真夜中です。ロンドンのざわめきは次第に静まり、今はぶつ

ぶつという不平のつぶやきになりました。そしてこの焼けつく都市のかなたか

ら、そよ風が吹いてきました。そのささやきが緑の草の上、壁を這うツタのあ

いだ、カーテンの柔らかく薄暗いひだの中から聞こえてきます。どんなことを

ささやいているのでしょうか?

おそらく、この最初の手紙とともにあなたに届ける夢を。それは私でさえ、

まだささやく勇気がない夢です。

それでは、おやすみなさい。

イチゴ男

第三章

テキサスの政治家の娘は、興味津々の笑みを浮かべて、木曜日の朝、カール

トン・ホテルの自室でその手紙を読んだ。イチゴ狂からの手紙が彼女の心をと

らえ、ひきつけたことは確かだった。その日一日、無理やり父親をひっぱって

美術館めぐりをしながら、彼女は次の日の朝をわくわくしながら熱心に待ち望

んでいる自分に気がついた。

しかし翌朝、この奇妙な文通を取り次いでいる女中のセイディ・へイトは一

通も手紙を持ってこなかった。テキサスの娘は少々がっかりした。昼になると

彼女はお昼ご飯を食べにホテルに戻ろうと言い張った。父親が言うとおり、そ

のとき彼らはカールトン・ホテルからずいぶん離れたところにいたのだけれど。

彼女の大移動は報われた。第二の手紙が待っていたのだ。読みながら彼女は息

を呑んだ。

親愛なるカールトン・ホテルのお嬢さま。

私は午前三時にこの手紙を書いています。庭のむこうのロンドンは墓場のよ

うに静かです。こんな遅くに手紙に取り掛かるというのは、昨日ずっとあなた

のことを考えていなかったということでも、昨夜の七時に机にむかって手紙を

書こうとしなかったということでもないのです。信じてください。私を妨害で

きるとしたら、それはなにかとてつもなく驚くべき、ぞっとするような事件く

らいなものです。

そして、そのとてつもなく驚くべき、ぞっとする事件が起きたのでした。

このニュースを強烈な恐ろしい一文で一気にあなたにぶつけてみたい。書こ

うと思えば書けるのですよ。でもそれはあとのためにとっておきましょう。ロ

ンドンの霧のように深い謎につつまれた悲劇がアデルフィ・テラスのこの静か

な、小さなアパートに降りかかりました。地下の部屋ではウオルタースの家族

が打ちひしがれ、まんじりともせず、黙って座っています。部屋の外の暗い階

段からは時折、不吉な使命を帯びた男たちの足音が聞こえてきます……

いや、やはりいちばんはじめから話さなければなりません。

昨日の晩はストランド街のシンプソンズで、早めの夕ご飯を食べました。あ

まりに早かったので、私のほかに客はほとんど誰もいませんでした。あなたへ

の手紙で頭がいっぱいでしたので、急いで食事を済ませ、部屋に帰りました。

鍵を取り出そうとアパート前の通りに立ち、ポケットを探っていたとき、国会

議事堂の大時計が七時を打ったことをはっきりと覚えています。大きな鐘の音

が平和な大通りに、声高の、親しげな挨拶のように響き渡りました。

書斎にたどり着くと、わたしはさっそく机にむかって手紙を書きはじめまし

た。頭の上ではフレイザー=フリーア大尉の動き回る音が聞こえました。夕食

に出かけるための身支度でも整えているのでしょう。一階下の粗野なアメリカ

人が六時というとんでもない時間に夕ご飯を食べたと知ったら、どんなにショ

ックを受けるだろうかとニヤニヤしながら考えていたのですが、そのとき、突

然、上の部屋から客らしい人物の荒々しく断固とした声が聞こえたのです。そ

れにつづく大尉の答は落ち着いていて、もっと毅然としていました。この会話

はしばらくつづき、ますます興奮したものになっていきました。なにを言って

いるのか、一語も聞き取れませんでしたが、私は口論がかわされているのじゃ

ないかと不安な気持ちになりました。そしてあなたへの手紙を書くという、私

にとって最も大切な仕事を、こんなふうに邪魔されることに不愉快を感じたこ

とを覚えています。

五分ほど議論がつづいたあげく、今度は上から争うような、どすんどすんと

いう重い音が聞こえてきました。私は大学時代、上の階の血気盛んな連中が若

げの至りで取っ組み合いをする音を聞きましたが、それを思い出しました。し

かしこれはもっと凄みと緊張感があって、わたしは胸騒ぎがしました。しかし

私に関係したことではないのだからと考え直し、気持ちを手紙に集中しようと

したのです。

争いはこの古アパートを土台から揺るがすような、とてつもなく重いどさっ

という音とともに終わりました。私は座ったまま、なぜかとても憂鬱な気持ち

で聞き耳を立てていました。なにも聞こえませんでした。外はたそがれが長く

つづき、完全な闇にはなってはいません。廊下に出ると、倹約家のウオルター

スはまだ明かりを灯していませんでした。誰かが階段を忍び足で降りてきまし

た。しかしきしむ音でわかるのです。私は背後のドアの隙間から漏れる一条の

光の中を、彼が通りすぎるのを待ちました。その時です、運命がそよ風となっ

て窓から介入してきたのは。ドアはばたんとしまり、大男は暗闇の中、私の脇

を一目散に駈け抜けて階段を下りました。彼が大男だと分かったのは、通路が

狭く、彼が横を通るとき、私を押しのけなければならなかったからです。彼が

声をひそめて毒づくのが聞こえました。

私は急いで廊下の突き当たりの、通りに面した窓から外を見ました。しかし

正面玄関は開きません。誰も出てこなかったのです。一瞬わけがわかりません

でしたが、私はすぐ部屋に戻り、バルコニーへ飛び出しました。薄暗い男の影

が裏庭を……私が何度も話したあの庭を……走って行くのが見えました。男は

門を開けようともせず、よじ登って越え、路地に消えました。

私はちょっとのあいだ、考えこみました。確かになんだか変なことが起きた。

しかしここで私がしゃしゃり出ていくのはどんなものだろう。紹介状を差し出

したときのフレイザー=フリーア大尉の冷たい視線は忘れられません。彼があ

の陰気な書斎に、彫像のような愛想笑いを浮かべて、身じろぎもせず立ってい

る姿が目に浮かびました。今、ノコノコ入って行っても、こころよく迎えてく

れるだろうか。

結局、私は、どう思われようとかまうものかと、ウオルタースを探しに下へ

行くことにしました。彼は奥さんと地下室で夕食を食べていました。私はなに

が起きたかを話しました。彼は大尉に面会に来た人など通さなかったと言い、

私の心配に対してイギリス流の冷ややかな態度を取ろうとするのでした。しか

し私は彼を説きつけて大尉の部屋まで一緒に行ってもらったのです。

大尉の部屋のドアは開いていました。イギリスでは侵入者は厳しく処罰され

ることを思い出し、私はウオルタースを先に行かせました。古いシャンデリア

のガスの火が弱々しく明滅する部屋の中に、彼は足を踏み入れました。

「大変ですよ、旦那様!」ウオルタースはこんな場面でもまだ召使いの言葉

づかいを忘れないのです。

さて、とうとうあの一文を書くときです。英国インド陸軍フレイザー=フリ

ーア大尉はその端正なイギリス的な顔に、ほとんどあざ笑うような笑みを浮か

べて、床の上で死んでいたのです!

今、私は大尉が死んでいた部屋とそっくりの自分の部屋で、静かな夜明けを

迎えているのですが、あの時の恐怖は今も強烈に残っています。彼はちょうど

心臓の上から刺殺されたのでした。最初に私の頭に浮かんだのは、机の上にあ

った例の奇妙なインドのナイフでした。私は急いで振り返って探そうとしまし

たが、ナイフはなくなっていました。そして机を見たとき、この埃っぽい部屋

の中には指紋が、たくさんの指紋があるに違いないことに気がついたのです。

部屋の中は、あの闘争の音のわりには、乱れていませんでした。一つ二つお

かしなものが目にとまりました。机の上にはボンド・ストリートの花屋から送

られて来た箱が置いてありました。ふたは開けられていて、中に白いシナギク

がたくさん入っているのが見えました。箱の横にはエメラルドでできたコガネ

ムシ形のネクタイピンがありました。さらに大尉の死体からさほど離れていな

いところには、それが作られているドイツの都市の名をとった、ホンブルグ帽

が転がっていました。

私はこんな場合は現場を乱さないことが大切だということを思い出し、ウオ

ルタースのほうを振りむきました。彼の顔色は、今、私が字を書いている、こ

の紙のようでした。膝が震えていました。

「ウオルタース。警察が来るまで、ここはそのままにしておくんだ。スコッ

トランドヤードに連絡するからついておいで」

「わかりました、旦那様」とウオルタース。

私たちは一階の玄関の電話口へ行き、私がスコットランドヤードに電話をか

けました。警部をすぐむかわせると言われ、私は部屋に戻って待機することに

しました。

待っているときの私の気持ちはご想像いただけるでしょうね。この謎が解け

るまでのあいだ、危険はないでしょうが、かなり厄介な面倒に巻きこまれるで

あろうことが予想されました。ウオルタースは私が最初、大尉の知り合いだと

いって、ここに来たことを覚えているでしょう。私の感じでは、彼は大尉がイ

ンドから帰ってくるや、私たちが親密な間柄じゃないことに気がついたに違い

ないのです。彼は私がフレイザー=フリーアとおなじところに下宿することを

強く望んだと、必ず証言するでしょう。さらにアーチーからの紹介状の一件が

あります。あれは秘密にしておかなければならない、私はそう確信しました。

最後に、大尉の死の前の喧嘩や、庭を通って逃げた男のことで、私の話を裏付

けてくれる人は一人もいないのです。

えらいことになった、と私は思いました。どんなに愚かな警察官でも、私を

疑惑の目で見ない者はいないでしょう!

約二十分後、三人の男がスコットランドヤードからやってきました。そのこ

ろには私は落ち着きを失ってひどく神経質になっていました。ウオルタースが

彼らを中に入れるのが聞こえました。彼らが階段を上り、上の部屋を歩き回る

音も。すぐウオルタースが私のドアをたたき、ブレイ警部が私と話したがって

いると言いました。先に立って階段を上っているとき、私がウオルタースに対

して感じていたのは、被告の殺人者が、証言一つで彼を死刑にできる証人に対

して抱くに違いない感情でした。

ブレイは活動的な巨漢でした。髪は、多くのイギリス人がそうであるように

金髪。動きの一つ一つがその敏腕を物語っていました。私は巻き添えを食った

だけの男のように何気ない様子を装いながら……しかし惨めなほど失敗してい

たと危惧するのですが……二人の男の声が聞え、闘争があり、大きな男が廊下

で私のそばをすり抜け、ついで門をよじ登ったことを話しました。相手はなに

も言わず聞いていましたが、いちばん最後に、

「君は大尉と面識があるのかね?」と言いました。

「面識といえるほどのものではありません」と私。アーチーの手紙のことが

しきりに頭に浮かんできて、私はおびえていました。「わたしたちは会ったば

かりでした。彼の友達の紹介です。アーチボルド・エンライトという名前なん

ですが」

「エンライトはロンドンにいて君の証人になってくれるのかな」

「残念ですが、できません。インターラーケンで消息を聞いたのが最後です

から」

「そうか。このアパートの部屋を借りることになったいきさつは?」

「初めて大尉を訪問したとき、まだインドからお帰りじゃなかったんです。

ちょうど下宿を探していましてね。それにここの庭がとても好きになったんで

す」

こんな言い方をすると、まるでたあいのない言い訳ですね。警部が小馬鹿に

したような色を浮かべて私を見ても驚きませんでした。でもあの目つきはひど

すぎる。

ブレイは私を無視して部屋の中を歩きはじめました。

「白いシナギク、コガネムシのネクタイピン、ホンブルグ帽」と彼は奇妙な

陳列物が並ぶ机の前に立ち止まって、一つ一つを列挙しました。

巡査が新聞を持って進み出てきました。

「なんだ、それは」ブレイが聞きました。

「デーリー・メールです、警部」と巡査。「七月二十七、二十八、二十九、

そして三十日の分です」

ブレイは新聞を手に取り眺めていましたが、蔑むようにそれらを屑箱に放り

込んでしまいました。そしてウオルタースにむき直りました。

「大尉の家族に連絡したかね?」

「すみません、旦那様」とウオルタースが言いました。「めんくらってしま

ったもんで。こんなことは、初めてなもんで。すぐひとっ走りして……」

「いや、かまわん」とブレイは鋭く答えました。「気にしなくていい。こっ

ちでやるよ」

ドアをノックする音が聞こえました。ブレイが「入れ!」と言うと、華奢な

感じの、しかし挙動は軍人らしい、ほっそりした青年が入ってきました。

「やあ、ウオルタース!」と彼はにこにこしながら言いました。「なにかあ

ったのかい? 僕は……」

彼はフレイザー=フリーアが横たわっている長椅子を見ると突然立ち止まり

ました。次の瞬間、彼は死者の脇にいました。

「おい、スティーブン!」彼は悲痛な叫び声をあげました。

「君は誰だ?」と警部は詰問しましたが、私にはその態度がややぶしつけに

思われました。

「大尉の弟さんでして」とウオルタースが口をはさみました。「英国フュー

ジリア連隊ノーマン・フレイザー=フリーア中尉でして」

沈黙が訪れました。

「とんでもないことになってしまいましたよ、旦那様」とウオルタースは青

年に話しかけはじめました。

私は若きフレイザー=フリーアくらい打ちのめされた人間を見たことがあり

ません。彼を見ていると、長椅子の男との間には美しい兄弟愛があったに違い

ないと思われました。とうとう彼は兄から目をそらしました。ウオルタースは

なにが起こったのかを説明しようとしました。

「失礼いたしました、皆さん」と中尉。「ひどくショックを受けましたので。

もちろんこんなことは夢にも……僕は兄……兄とちょっと話をしに立ち寄った

だけなんですが。それが今は……」

私たちはなにも言いませんでした。彼が真のイギリス人らしく、人前で取り

乱したことを詫びるがままにしておきました。

「お気の毒です」視線をなおも部屋のあちこちにさまよわせながら、ブレイ

警部はすぐそう言いました。「とりわけイギリスは間もなく、大尉のような方

を大いに必要とするでしょうからな。ところで皆さん、私からお話ししておき

たいことがあります。私はスコットランドヤード公安課の課長ですが、これは

普通の殺人ではありません。今は言えない理由があって……付け加えれば大英

帝国の利益のためにも……大尉の悲劇的な死は当分のあいだ、新聞から隠して

おかねばなりません。もちろん死亡の状況については伏せるということです。

死亡告知を出すだけにしてください、よろしいですか、自然死だと思わせるよ

うに」

「分かりました」と中尉は言いました。彼はその語るところ以上に事情に通

じているのです。

「ありがたい」とブレイ警部。「ご家族への連絡は、あなたにお任せしまし

ょう。ご遺体もお引取りください。他の方ですが、このことを外部に漏らすこ

とは厳禁ですぞ」

ブレイ警部は立ったまま、おやっという様子で私を見ました。

「君はアメリカ人かね」と彼は言いました。私は彼がアメリカ人を好まない

のだなと思いました。

「そうです」

「領事館に知り合いはいるかね?」

ありがたい、いるぞ! そこにワトソンという次官がいるのです。彼は大学

の同期でした。私はブレイに彼のことを言いました。

「結構」と警部。「君は行ってもよろしい。しかし自分がこの事件の重要な

証人であることを理解してくれたまえ。もしロンドンを離れようとすれば、刑

務所に監禁だ」

こうして私は、好きでもない謎にひどくからめとられて、部屋に戻ってきた

のです。何度も何度も謎に思いをめぐらしながら、今までしばらく書斎に座っ

ていました。階段からたくさんの足音が、玄関からはたくさんの声が聞こえて

きます。

ここで夜明けを待っているうちに、冷たい端正な顔の大尉がひどく気の毒に

思えてきました。やはり彼も人の子だったのだ、もう二度と聞けない、頭上を

歩く彼の足音が、そう私に語りかけました。

この事件にはどういう意味があるのでしょうか。廊下の男、大声で言い争っ

ていたあの男、奇妙なインドのナイフで的確な一撃を与えた男は誰なのか。

そしてとりわけ白いシナギクはなにを意味するのか。またコガネムシのネク

タイピンは? あの妙ちきりんなホンブルグ帽は?

カールトン・ホテルのお嬢さん、あなたは謎をほしがっていましたね。最初

の手紙を出したとき、私はこんなにも早く、奇々怪々な謎をたっぷりと差し上

げられるとは夢にも思いませんでした。

そして……どうか私の言葉を信じてください……この事件が起きているあい

だ、ずっとあなたの顔が私の目の前に浮かんでいたのです……あの輝かしい朝、

ホテルの朝食室で見たあなたの顔が。私があなたにお付き合いを求めたとき、

あなたはその無作法をお許しくださった。私はあなたの目を見たとき、強く、

とても強く、心が動くのを感じたのです。

今、夜明けが庭にも訪れ、ロンドンは動き出そうとしています。というわけ

で、今回は……おはようございます、お嬢さん。

イチゴ男

第四章

この手紙が受取人の若い女性をいささかぎょっとさせたことは言うまでもな

い。その日はロンドンのあまたの名所も、ほとんど彼女の興味をひかなかった。

実際、あまりにもつまらないので、汗だくの父親のほうは最愛のテキサスをま

ぼろしに見はじめるほどであった。そして一度だけ、期待をこめて、帰国を早

めるのはどうかと打診したのだが、その提案に対する冷ややかな態度は明らか

にそれが間違った期待であったことを示していた。彼はため息をつき、慰めを

求めてバーにむかった。

その晩、テキサスから来た二人はヒズ・マジェスティーズ劇場へ出かけた。

バーナード・ショーの新作がかかっていたのである。が、才気あふれるアイル

ランド人の作者も、うわのそらで台詞を聞いている一人の若くて美しいアメリ

カ人女性にはいらいらしただろう。そのアメリカ人は次の日の朝を熱心に待ち

望みながら真夜中に床についた。

期待は裏切られなかった。なんの感情もあらわさないイギリス人の女中が、

土曜日の朝早く、手紙を手にして枕もとに現れた。それを彼女は鼻を上にむけ

て手渡した。お手伝いはしますが、感心しませんね、とでも言うように。若い

女は急いで封を切った。

親愛なるテキサスのお嬢さん

午後遅くこの手紙を書いています。陽があたる庭の芝生に長くて黒い影がの

びています。そして世界があまりにも明るくたんたんとしているため、私が過

ごしたあの悲劇の一夜が現実にに起きたことなのか、自分でもわからなくなる

くらいです。

新聞を見ると、すべてが夢ではなかったかと思えてきます。一行どころか一

語も触れられていないのですから。アメリカのことを考えてください。むこう

でこんなことが起きたなら、今ごろ新聞記者がこのアパートじゅうに群れてい

たでしょう。それを思えば、なおさら驚かざるを得ません。しかし私はイギリ

スの新聞というものを知っています。あの偉大なジョー・チェンバレンが先日、

夜の十時に亡くなりましたが、それを報じた新聞は、ようやく次の日のお昼に

出たのでした。特種だ! と大声で叫んで。そりゃたしかに特種なんですけど

……。国が違えば流儀も違うと言うわけでしょう。

ブレイ警部が事件をジャーナリストたちから隠すのは、恐らく難しいことで

はなかったはずです。そういうわけでイギリスの偉大にしてお粗末な新聞は、

アデルフィ・テラスの大事件をなにも知らずに売られているのです。本物のニ

ュースに飢えた新聞は、地平線に見える巨大な戦雲についてそれとなく報じは

じめました。よろめくオーストリアがちびのセルビアに宣戦布告し、皇帝が今

日ベルリンへ急遽帰還するという、彼になしうる最高の劇的展開があったもの

ですから、だれもかれも全ヨーロッパがまもなく血の海になると思っているの

です。炎熱の昼と、寝つかれぬ夜が生んだ悪夢です!

が、あなたがお聞きになりたいのは、きっとアデルフィ・テラスの事件につ

いてでしょう。謎をさらに計り知れぬほど深める悲劇の続編が起きたのです。

しかもそれに気がついたのは私だけ。しかし最初から話をしましょう。

私は夜明けにあなたへの手紙を投函して帰ってきました。一夜の緊張から、

くたくたになっていました。私はベッドに横たわりましたが、寝ることができ

ません。自分の置かれたひどく具合の悪い立場がますます気になってくるので

す。ブレイ警部が私を見る眼も、私がこのアパートに下宿するに至った経緯を

聞いたときの声も、私は気に入りませんでした。気の毒な大尉を殺した真犯人

がつかまるまで、安心はできないと思いました。そこで私はこの事件の数少な

い手がかり……シナギク、コガネムシのネクタイピン、ホンブルグ帽……をた

よりに謎を解こうとしはじめたのです。

その時でした。ブレイが取るに足らずと、何気なくごみ箱に捨てた四部のデ

ーリー・メールを思い出したのは。私は新聞を調べる警部の肩越しに、それが

私たちの大好きな部分「苦悶の欄」を上にして折られてあるのを見たのです。

たまたま私の机には先週のデーリー・メールがしまってありました。あなたに

はその理由がお分かりでしょう。

私は立ちあがって、新聞を見つけ、読みはじめました。先ほどほのめかした

驚くべき発見をしたのはその時です。

それに気がついてしばらくは、驚きのあまり呆然として、なにをすべきかも

すぐには頭に浮かんでこないありさまでした。さんざん考えたあげく、ブレイ

が午前中に戻ってくるのを待ち、デーリー・メールを無視したのは誤りだ、と

指摘してやることしました。

ブレイは八時ごろやって来て、その数分後、別の男が階段を上ってくるのが

聞こえました。私はその時ひげをそっていたのですが、手早くそれを終えると、

バスローブを羽織って大尉の部屋へ急ぎました。弟さんが夜中のうちに不運な

男の死体を運び出させていました。ブレイと、ほとんど同時にやってきた見知

らぬ男のほかには、眠そうな目をした巡査しかいませんでした。

ブレイの挨拶はあきらかに彼が不機嫌であることを示していました。しかし

見知らぬ男……背の高い日焼けした男でしたが……はとても丁寧に自己紹介を

しました。彼は故人の親友で、ヒューズ大佐であると言いました。言葉になら

ない驚きと悲しみを感じつつも、自分にできることがなにかありはしないかと

訪ねてきたのだそうです。

「警部さん」と私は言いました。「昨日の晩、この部屋でデーリー・メール

を四部お手になさいましたね。なんの手がかりにもならないとごみ箱に捨てて

おしまいでしたが、驚くべき事実を説明したいと思いますので、もう一度手に

取っていただけないでしょうか」ごみ箱の上に身をかがめるなど沽券にかかわ

ると、この尊大なお役人は巡査にむかってあごをしゃくりました。巡査が新聞

を持ってくると、私は一つを選び机に広げました。「七月二十七日の分です」

と私は言いました。

私は苦悶の欄の中ほどを指差しました。お嬢さんも新聞を取っておいででし

たらご自分で確かめてください。こんなことが書いてあります。

「ラングーン。カンタベリーの庭はシナギクが真っ盛りだ。とても美しい。

特に白いやつは」

ブレイはうなり、小さな目を見開きました。私は次の日二十八日の新聞を取

り上げました。

「ラングーン。我々はやむを得ず父のネクタイピンを売らねばならなかった。

父がカイロから持ちかえったコガネムシの形をしたエメラルドのやつだ」

ブレイはわたしの説明にすっかり引きこまれていました。彼は私の方に重く

のしかかってきて、鼻息も荒いのです。大いに力を得て、私は二十九日の新聞

を彼の目の前に広げました。

「ラングーン。ホンブルグ帽は川の中に吹き飛ばされ、二度と見つからない」

「そして最後に」と私は警部に言いました。「七月三十日の最後のメッセー

ジです。フレイザー=フリーアが殺される十二時間ほど前に、通りで売られて

いました。ご覧ください」

「ラングーン。今晩十時。リージェント通り。……Y.O.G.」

ブレイは黙っていました。

「警部もご存知でしょうが、フレイザー=フリーア大尉は過去二年間ラング

ーンに駐在していたのです」

それでも彼は黙ったままでした。ただ私が大嫌いになりつつある、あの狐の

ような小さい目で私をみつめるだけでした。とうとう彼は険しい声で言いまし

た。

「どうやってこのメッセージを見つけたのだ」と彼は詰問するのです。「昨

日の晩、私が出て行った後、この部屋に入ったわけじゃないだろうな?」彼は

怒って巡査のほうを振りむきました。「命令したはずだ……」

「違いますよ」私は口をはさみました。「私はこの部屋に入りませんでした。

たまたま私の部屋にはデーリー・メールが整理されてあったのです。で、まっ

たく偶然に……」

私は自分がへまをしたことに気がつきました。これらのメッセージの発見談

はあまりにもうまくできすぎています。またもや私のほうに疑いを招き寄せて

しまいました。

「いや、ありがとう」とブレイ。「これは覚えておくよ」

「領事館の私の友人には連絡なさいましたか」と私は聞きました。

「確認した。以上だ。お引取り願おうか」

私は出て行きました。

部屋に戻って二十分ほどすると、ノックの音がしました。そしてヒューズ大

佐が入ってきたのです。彼は四十代前半とおぼしきにこやかな人物で、イギリ

ス以外のどこかで日に焼けてきたのでしょう。こめかみのあたりには白髪があ

りました。

「いやはや、なんともひどい事件ですな」と彼は前口上抜きで話しはじめま

した。

「まったくです」と私は答えました。「どうぞお座りください」

「ありがとう」彼は座るとためらうことなく私の目を覗きこみ、「警察官と

いうのは」と意味ありげに付け加えました。「非常に疑い深い連中でね。理由

もないのに疑いをかけることがしばしばあります。こんな事件に巻きこまれて、

ご同情申し上げますよ。というのも、あなたは正直な方とお見受けいたしまし

たから。失礼ですが、味方が必要なのであれば、わたしが力になりましょう」

私は胸を打たれました。そしてできるかぎり丁寧に感謝しました。彼の口調

はとても同情的で親切で、しかもとりわけ誠実だったものですから、私は思わ

ず彼にすべてを話してしまいました。アーチーと紹介状のこと、庭に魅了され

たこと、アーチーという従兄弟など聞いたこともないという、大尉によってあ

かされた驚くべき事実、それに引きつづく私の面白くない立場。彼は椅子にも

たれて目を閉じました。

「思うに、封をしていない紹介状を持っていれば、誰でも中を開けてどんな

ふうに自分のことを褒めちぎっているのか見たくなる。それが人情と言うもの

でしょう。私もちょいちょいそんなことをしました。ひとつずうずうしくお聞

きしたいのですが……」

「いえ、そのとおりです」と私。「封をしてなかったので、私は中味を読ん

でしまいました。紹介状にしてはちょっと長いなという印象でした。褒め言葉

もたくさんありました。エンライトとの短い付き合いを考えれば私を高く買い

すぎているような感じでした。それから彼は自分がインターラーケンにどのぐ

らいいたかとか、八月一日頃にはロンドンに行く予定だとかも書いていました」

「八月一日か」と大佐は繰り返しました。「明日ですね。さて、ご面倒でな

ければ、昨晩いったいなにがあったのか、話していただけませんか?」

私はふたたびあの悲劇の夜の出来事をざっと振り返りました。口論、廊下で

会った大男、そして彼がまれにしか使われない門を乗り越えて逃走したこと。

「ねえ、君」ヒューズ大佐は帰ろうと立ち上がりながら言いました。「この

悲劇の糸は遠くまで伸びています。あるものはインドへ、あるものは、名前は

言えないが、別の国へとね。正直に言えば、私はこの事件に、大尉の友人とし

て以上の関心を持っています。しかし、しばらくのあいだ、このことは私たち

だけの秘密にしておいてください。警察は善意ではあるけど、ときどき馬鹿な

間違いをします。あなたはたしか、あの妙な伝言の載っているデーリー・メー

ルをお持ちだと言いましたな」

「この机の中です」私は新聞を取り出して彼に渡しました。

「よろしければ、持っていきたいのですが」と彼は言いました。「私があな

たを訪ねたことは、もちろん口外してはいけません。また会いましょう。さよ

うなら」

そして彼は去って行きました。ラングーンへの奇怪な暗号を載せた新聞とと

もに。

彼の訪問はなぜかすばらしく私を元気づけました。昨日の晩の七時以来、私

ははじめて、再び自由に息をしはじめたのです。

さて、謎が好きなお嬢さん、以上が一九一四年七月末日の午後における事件

の模様です。

私は今晩この手紙を送ります。これは三番目の手紙で、最初の手紙が運んだ

夢よりも三倍も大きな夢を運んで行きます。というのはその夢は月が庭を照ら

す夜だけでなく、明るい日の光の中でも育つからです。

ああ、私の心は今とても朗らかです。そういえば昨日の晩、シンプソンズで

食事をして以来、ウオルタースが震える手でくれた一杯のコーヒーをのぞいて

なにも食べていません。これから食事に行かなければ。まずグレープフルーツ

を食べるつもりです。私は急にグレープフルーツが好きになってしまったんで

す。

こんな言い方は月並みですが……私たちは共通の趣味が多いですね!

もとイチゴ男

「苦悶の欄」の文通相手から来た三番目の手紙は、二番目の手紙がカールト

ン・ホテルの若くて美しい女性の心に与えた興奮と緊張をさらに高めた。それ

を受け取った土曜日の朝、長いこと彼女は部屋の中でアデルフィ・テラスの謎

を解こうと頭をひねった。英国インド陸軍フレイザー=フリーア大尉が心臓を

ナイフで刺され死んだことを初めて聞いたとき、その知らせは古い親友を失っ

たときのような衝撃を彼女に与えた。彼女は熱烈に殺人犯人の逮捕を望み、白

いシナギク、コガネムシのネクタイピン、そしてホンブルグ帽から推理しうる

ことを執拗に探った。

彼女が犯人逮捕をこのように熱心に願ったのは恐らく、今だに名前も知らな

い、もちろん話したこともない、この快活な若い友達が事件に巻きこまれ危険

にさらされていたからだろう。ジェフリー・ウエストについて知りえたこと、

つまりレストランでの何気ない一瞥と、そしてなによりも手紙を通して、彼女

は彼をこの上なく好きになりつつあった。

そこへ例の帽子とネクタイピンとシナギクが、そもそも彼らの出会いを作っ

たデーリー・メールのあの欄と関係していることを告げる三番目の手紙が来た。

たまたまその週の最初の四日分の新聞が彼女の手元にもあった。彼女は自分の

居室に行って、新聞を引っ張り出し、はっと息を呑んだ。月曜日の新聞の私事

広告欄からじろりと彼女を見上げたのは、カンタベリーの庭のシナギクに関す

るラングーンへの暗号ではないか。他の三つの新聞にもイチゴ男が引用したの

とおなじメッセージが載っていた。彼女は座ったまま、一瞬、考えこんだ。い

や、実際は、朝食を一緒に食べに行こうと一階のロビーで一時間も待たされ、

腹を減らしてかんかんになった父親のノックの音が聞こえるまで座っていたの

である。

「なにをしてる! 行こう!」部屋に入ってきた父親の声が響き渡った。「

午前中ずっとここに座っている気か。お前の腹は空いてないかもしれないが、

わしはぺこぺこなんだ」

彼女は即座に詫びを言い、いっしょに下へ降りる準備をした。その日の行動

計画を立てながら、彼女はアデルフィ・テラスのことは一切考えまいと固く決

心した。彼女がどの程度それに成功したかは、その晩の夕食前の父親の言葉を

聞けば分かるかもしれない。

「マリアン、口がきけなくなったか? 新しく選任された役人みたいに打ち

解けないな。我々の遠征をもう少し活気づけてくれないなら、荷物をまとめて

帰国するぞ」

彼女はにっこり笑って父親の肩をたたき、これから気をつけることを約束し

た。しかし父親は憂鬱そうであった。

「いずれにせよ、帰るべきだと思うんだがね」と彼はつづけた。「わしの見

るところ、この戦争は燎原の火さながらに広がるだろう。皇帝は昨日ベルリン

に戻った。動員令に署名することは確実だ。この一週間というもの、ベルリン

の証券取引所ではカナディアン・パシフィックの株が下がりつづけておる。こ

れはイギリスの参戦が予想されるということだ」

彼は陰鬱に未来をみつめた。アメリカの政治家にしてはヨーロッパの政局に

対し並外れた理解を持っているように見えるかもしれないが、なんのことはな

い、彼は先ほど、カールトン・ホテルの靴磨きと話をしていたのである。

「うむ」彼は急に決心して言った。「わしは月曜日の朝一番に汽船会社の事

務所に行ってくる」

第五章

娘はその言葉を聞いて落胆した。あれほど彼女を夢中にさせた謎の解決を永

遠に手に入れることなく、リヴァプールかサウサンプトンから船出する、はな

はだ不幸な自分の姿を思い描いた。彼女は抜け目なく父親の心を食べ物のほう

にそらそうとした。食事をするならストランド街のシンプソンズがどこよりも

おいしいんですって。歩いて行ってみない? 彼女は、ちょっと遠回りしてア

デルフィ・テラスを通って行こうと言った。彼女は以前からアデルフィ・テラ

スを見たかったようであった。

静かなストランド街を通るとき、家々のいかめしくて近づきがたい門構えと、

その後ろの素敵な庭を念入りに調べながら、彼女は奇怪な謎のありかを探そう

とした。しかしどの家も皆よく似ているのである。そのうちの一軒の前にタク

シーが止まっているのを彼女は見た。

夕食のあと、父親は「お茶のカップばかり出てくる気取ったイギリスの劇」

を見るよりミュージックホールに行こうと熱心に訴えた。彼の勝ちであった。

その夜遅く、彼らがカールトン・ホテルへ帰るとき、街頭で号外が配られてい

た。ドイツが戦時体制に入った!

テキサスの娘は、明日の朝はどんな手紙が自分を驚かしてくれるだろうと思

いつつ、床についた。次の日、こんな手紙が届いた。

親愛なる上院議員の娘さんへ

それとも下院ですか? どちらかはっきり分かりませんでした。しかしテキ

サスのおうちにいらっしゃらないときや、娘さんの目を通してヨーロッパをご

覧になっていないときは、きっといずれかの立派な組織の議員をなさっている

のでしょう。それぐらいのことは一目で分かりました。

しかしワシントンはロンドンから遠く離れています。そして私たちの最大の

関心事はロンドンなのです。もっともお父さんの選挙区民にそんなことを知ら

せてはいけませんが。いったん旅行者気分が抜ければロンドンは実にすばらし

い驚くべき都市です。私は今、七歳のときにこの都市にほれこんでしまったと

いう新聞記者が書いた、それは魅力的なエッセイを読んでいます。七歳という

のは彼にとって光り輝く都市のすべてがハイストリートの角のフィッシュ・ア

ンド・チップスに象徴されるような年頃です。私は彼と連れ立って真夜中、秘

密めいた灰色の大通りを歩きました。時にはゴミ箱にぶつかり、時にはロマン

スにぶつかりながら。いつかあなたにそんなロンドンをご紹介したい。もちろ

んゴミ箱からあなたをお守りしますよ、あなたがゴミ箱から守ってあげる必要

のある人なら。でも、考えてみたら、あなたはそんなボンヤリさんじゃありま

せんよね。

あなたが聞きたいのはアデルフィ・テラスのこと、今は亡き英国インド陸軍

大尉のことだということは分かっています。昨日は、デーリー・メールであの

メッセージを発見し、ヒューズ大佐の訪問を受けたあと、何事もなく過ぎて行

きました。晩はあなたへの三通目の手紙を出して、しばらくこの都会のぎらぎ

らした光と薄暗闇を交互に通りすぎながら、歩いて部屋に帰りました。そして

六百万の家々に住む人々が暑さにうだっているなか、私はバルコニーで煙草を

くゆらせたのでした。

なにも起きませんでした。私は少々がっかりし、少々だまされたような気が

しました。何日も立てつづけにどきどきするような劇を見たあと、初めて晩を

家で過ごしたときに感じる、だまされたような気分です。今日、八月の第一日

がはじまったのに、なにもかもがなりをひそめたように静かでした。実は、フ

レイザー=フリーア大尉の突然の死が、さらなる展開をとげて私を動揺させた

のは、今日の夕方になってからでした。それはまことに奇怪きわまる展開で、

早速そのお話をしようと思います。

私は今晩、ソーホーの小さなレストランで食事をしました。私についていた

ウエイターはイタリア人だったので、私は愚かしくも得意げに「十課で覚える

イタリア語」を使って話しかけ、面白がっていました。私たちは彼が住んでい

たフィエゾレの町について話をしました。かつて私は月明かりのなか、フィエ

ゾレから丘を下ってフローレンスまで旅したことがあります。バラの花が鮮や

かに咲き誇る、どこまでもつづく壁は忘れられません。そしてさびしい女子修

道院と門をガチャンと閉める二人の灰色の長服を着た尼僧。また、軍隊の夜営

地からさすサーチライトがアルノー川と家々の屋根をしきりに飛び跳ねる様子

も覚えています。それは、ここヨーロッパでは、閉じることのない軍神マルス

の目のようでした。そして花々が絶えず上のほうからこっくりこっくり首をた

れ、ときどきかがみこんでは私の顔をかすめるのです。私はこの先に待ってい

るのは二流ホテルではなく、天国じゃないかと思うようになりました。今だっ

てあんな旅ができるんじゃないかと思いますよ。いつの日か、いつの日か……。

私はソーホーで食事をし、暑い湯気の立つ八月のたそがれ時に、アデルフィ

・テラスに戻りました。私を巻きこんだ謎は一応、動きを止めたように思われ

ました。アパートの前に客待ちのタクシーが停まっていましたが、別にどうと

も思わず、私は暗い廊下に足を踏み入れ、のぼりなれた階段をのぼりました。

部屋のドアが開いていました。書斎は暗く、ただ外からロンドンの街の灯が

射しこんでいるだけです。入り口を入ると、かすかに甘いライラックの匂いが

しました。庭にはライラックの花はなく、あったとしても、今はその季節では

ありません。いえ、この匂いは女性によって持ちこまれたのです……机の前に

座り、私が入ると同時に頭をあげた女性によって。

「勝手に入ってごめんなさい」彼女は英語を本で覚えた人に特有の、正確で

完璧な言葉づかいをしました。「少しお話があるのです。すぐ帰りますから」

私はなにを言っていいのか分かりませんでした。ただ小学生のように口を開

けて突っ立っていました。

「私はご忠告を申しあげたいのです。忠告する人って好かれるとはかぎりま

せんわね。それでもあなたなら聞いてくれると思いますの」

その時やっと口がきけるようになりました。

「聞いていますとも」と私は間抜けのように言いました。「でも、まず明か

りを」そしてマントルピースの上のマッチに手を伸ばしました。

女はすばやく立ち上がり、私とむかい合いました。彼女はベールをかけてい

ました。厚手のベールではなく、ふわふわしたあだめいたものでしたが、しか

し顔を隠すには十分でした。

「お願いですから」と彼女は大きな声で言いました。「明かりはつけないで」

私がぐずぐず返事をしないでいると、口を尖らせるような調子でこう付け加え

ました。「大したお願いではないでしょう。どうかお断りにはならないで」

私は明かりをつけると言い張るべきだったと思います。しかし彼女の声はチ

ャーミングで、物腰は非の打ち所がなく、ライラックの匂いはずっと昔の我が

家の庭を思い出させました。

「分かりました」と私は言いました。

「よかった。感謝しますわ」と彼女は答えました。彼女の口調が変りました。

「この前の木曜日の晩、七時少し過ぎに、あなたは上の部屋から争う音を聞い

たのですね。警察に証言したのはそういう内容でしたわね」

「そうですよ」と私。

「時間は間違いありませんか」私は彼女が笑っているような気がしました。

「もっと遅かったとか、早かったのではありませんか」

「七時すこし過ぎに間違いないです」と私は答えました。「なぜかと言うと、

ちょうど夕食から帰ってきて、鍵を開けているときに国会議事堂のビッグベン

が……」

彼女は押しとどめるように手を挙げました。

「どうでもいいことです」と彼女は言いました。その声には鉄のような響き

がありました。「あなたはもうはっきりとは覚えていないのです。考え直して

みたら、争う音を聞いたのは六時半より前だったかもしれない。そう結論する

ようになったのです」

「ほう?」と私は言いました。嫌味をこめて言ってやろうとしたのですが、

私はすでに彼女の調子に気を呑まれていました。

「ええ、そういうことなんです!」と彼女。「ブレイ警部に今度会ったら、

そう言うのです。『六時半だったかもしれない』そう言うのです。『もう一度

考え直したら、はっきりしなくなった』と」

「いくらすてきな女性に頼まれても、こんな重要な事柄に関して事実を捻じ

曲げることはできません。あれは七時過ぎ……」

「私は女性のためになにかをしてほしいと言っているのではありません」と

彼女は答えました。「あなたのために、そうしてほしいと言っているのです。

お断りになればあなたにとってとても困ることが起きるかもしれませんよ」

「なんの話なのか、さっぱり……」

彼女は一瞬、黙りこみ、そしてむき直りました。私は彼女がベール越しに私

をみつめているのを感じました。

「アーチボルド・エンライトとは誰ですか」と、彼女は言いました。私は愕

然としてしまいました。彼女が手にしている武器がなにか分かったのです。「

警察は」と彼女はつづけます。「あなたが大尉のところへ持って行った紹介状

が、フレイザー=フリーアを親愛なる従兄弟と呼ぶ男によって署名されていた

ことも、それが大尉の家族のまったく知らない人であったことも、まだ知りま

せん。しかし、いったんその情報がスコットランドヤードに届けば、あなたが

逮捕を逃れる見こみは、まずありませんよ。警察はあなたと事件を結びつける

ことはできないかもしれない。でも、あなたはとても厄介な立場に追いこまれ

るでしょう。個人の自由って大切にすべきじゃありません? それに事件に決

着がつく前に、広く世間の注目を浴びてしまいます……」

「それで?」

「それであなたは争いを聞いた時間に関して記憶違いをするのです。考え直

してみると、あれは七時じゃなくて六時半だったかもしれないと。さもないと

……」

「さもないと?」

「さもないと、大尉に渡した紹介状が、匿名でブレイ警部の元に送られるで

しょう」

「手紙を持っているのか!」と私は叫びました。

「私は持っていません」彼女は答えた。「でも手紙はブレイに送られます。

あなたは嘘をついていたことがばれるでしょう。そうなったら逃げられません

よ!」

私はとても不安になりました。疑惑の網の中に追いこまれてしまったような

気分でした。しかし私はこの女の自信に満ちた声に憤慨してもいました。

「それでも証言を変えることは拒否します。真実は真実ですから……」

女はすでにドアのほうに移動していました。彼女は振り返りました。

「あしたは」彼女が答えました。「ブレイ警部に会えそうですね。先ほど言

ったとおり、私は忠告をしにここに来たのです。おとなしく従ったほうが身の

ためですよ。三十分早くても、遅くても、どうでもいいじゃないですか。しか

もその違いがあなたには監獄を意味するのです。おやすみなさいまし」

彼女は出て行きました。私は廊下まで追いかけていきました。下の通りのほ

うからタクシーががたがたと走りだす音が聞こえました。

私は部屋に戻り、座りこみました。気が動転したのです。窓の外では都会が

絶え間なく交響楽を演奏しています。バス、列車、決して止むことのない人声。

私は外をみつめました。冷ややかな煉瓦の家々がひしめき、冷ややかなイギリ

ス人どもが住んでいる、なんと広大な土地なのでしょう! 私はひどく孤独を

感じました。付け加えて言えばすこしおびえてもいました。まるでこの巨大な

都市がゆっくりと私に迫ってきたような気がして。

あの謎の女は何者なのか? フレイザー=フリーア大尉の人生に対して、そ

して恐らくその死に対してもでしょうが、どんな関係を持っているのか。なぜ

厚かましくも私の部屋に来て、とんでもない要求をつきつけるのか。

私は、安らかな生活を犠牲にしても、真実に固執すべきだと決心しました。

そして私はその決心を手放すことはなかったはずです、間もなく別の人が私を

訪ねてこなければ。この訪問は最初の訪問よりはるかに不可解で驚くべきもの

でした。

ウオルタースが私のドアをたたいて、二人の紳士が面会を望んでいると告げ

たのは、九時ぐらいのことでした。すぐさま私の書斎に入ってきたのはノーマ

ン・フレイザー=フリーア中尉と立派な老紳士で、後者は貴族の家の壁に掛か

っている色あせた肖像画のような顔をしていました。初対面の相手です。

「お邪魔ではないでしょうね」と若いフレイザー=フリーアが言いました。

私は大丈夫ですと請合いました。青年の顔はげっそりやつれていました。目

には恐ろしい受難の色がありましたが、それでも彼の身体からは、強い決意が

光輪のようにあふれているのです。

「父を紹介いたします。フレイザー=フリーア将軍、退役将校です。ここに

来たのはとても重要な用件のためでして……」

老紳士がなにかをつぶやきましたが聞き取れませんでした。私に分かったの

は、彼が長男を失いショックを受けていることでした。椅子を勧めると、将軍

はそれに応じましたが、青年は苦悩に満ちた様子で床を歩くのでした。

「長居はいたしません」と彼は言いました。「また、こういう時は、もって

まわった話し方をする気になれません。直截に申しましょう。我々はあなたに

折り入って頼みがあるのです。とても重要なお願いです。お断りになるかも知

れませんが、そうであったとしても我々はあなたを非難などできません。しか

し、あなたが、もしも……」

「一生のお願いなのです」と将軍が突然割ってはいってきました。「しかし、

おかしな話ですが、私には、願いをきいてもらったほうがいいのか、断わられ

たほうがいいのか、分からんのですよ」

「お父さん、どうか、僕が言いますから……」青年の声には思いやりがこも

っていましたが、しかし断固としていました。彼は私のほうにむき直りました。

「あなたが警察に証言なさったところによると、七時をちょっと過ぎた頃に、

上の部屋から争う音が聞えてきたんですね。その結果、わたしの兄は命……つ

まり、その……お分かりになりますね」

一時間足らず前に帰った訪問者の目的を思い合わせるなら、青年の質問は驚

くべきものでした。

「そのように証言しました」と私。「それが真実ですから」

「当然です」フレイザー=フリーア中尉が言いました。「しかし……ええと

……実は、我々がここに来たのは、あなたに証言を変えてもらえないかとお願

いするためなのです。どうか、残酷にも身内を失った私たちに免じて……一生

この恩は忘れませんが……争いのあった時間を六時半にしてはもらえないでし

ょうか」

私はあっけにとられてしまいました。

「その……理由は?」私はやっとのことで声を出し、訊くことができました。

「詳しいことはお話しできません」と青年が答えました。「ただ、これだけ

は申しあげましょう。この前の木曜日の晩七時に僕はたまたまサボイ・ホテル

で友人たちと食事をしていました。あのときのことを忘れそうにない友人たち

と」

年老いた将軍が飛びあがりました。

「ノーマン」彼は叫びました。「お前にこんなことをさせるわけにはゆかん

! 断じて……」

「お父さん、静かにしてください」青年はうんざりしたように言いました。

「とことん話し合ったじゃありませんか。お父さんは約束なさったんですよ…

…」

老紳士は椅子に沈みこみ、手で顔を覆いました。

「もしも証言を変えてくださる気があるなら」と若きフレイザー=フリーア

はつづけて言いました。「僕はただちに警察に行って、兄を殺したのは……僕

だったのだと告白します。警察は僕を疑っています。連中はこの前の木曜日の

午後遅く、僕が拳銃を買ったことを知っています。土壇場になってそれはナイ

フに代えられたのだと思っています。連中は僕が兄に借金をしていたことを知

っています。そして金のことで喧嘩したことも。それから兄が死ぬことで得を

するのは僕だということ、僕だけなんだということも」

彼は急に言葉を切り、私のほうにむかってきました。両腕を前に差し出し、

二度と忘れることのできない嘆願の身振りをして。

「僕のためにそうしてください」と彼は声をあげました。「僕に自白させて

ください。この恐ろしい出来事を今ここで終わらさせてください」

そんな頼みに返事をしなければならなかった人など、今までひとりもいなか

ったにちがいありません。

「どうして?」私は思わずそう言い、何度もそれを繰り返していました。「

どうして? どうして?」

中尉は私のほうを振りむきましたが、私はあのような目つきを二度と見たい

と思いません。

「兄を愛していたからです」彼は言いました。「だからです。兄の名誉のた

め、一族の名誉のため、僕はあなたにこんなお願いをするのです。信じてくだ

さい、こんなお願いはほんとうにつらい。僕からは、これ以上のことは申し上

げられません。兄とはお付き合いがありましたか」

「ほんのご近所付き合いですが」

「では、兄のために……僕の願いを聞いてください」

「しかし……殺人となると……」

「あなたは争いの音を聞いた。僕は兄と喧嘩したのだ、と言うつもりです。

そして正当防衛として兄に打ちかかったのだと言います」彼は父親のほうにむ

き直りました。「ほんの数年間、刑務所に入るだけのことです……僕は耐えま

す!」彼は叫びました。「一族の名誉のために!」

老紳士はうめき声を発しましたが、頭は上げませんでした。青年は色あせた

絨毯の上を、檻の中のライオンのように行ったり来たりしました。私はどう答

えたものだろうと迷いながら立っていました。

「なにをお考えになっているのか分かりますよ」と中尉。「ご自分の耳を信

じられないでしょうが、お聞きになったとおりなのです。すべては……あなた

方アメリカ人の言い方を借りれば……あなたにかかっているのです《アップ・

トゥー・ユー》。あなたのお国に行ったことがありましてね」彼はみじめな笑

みを浮かべました。「僕はアメリカ人を理解しているつもりです。あなた方は

悲嘆にくれた人間を、今の僕のような人間を、拒むような人たちではない」

私は彼にむけた視線を将軍のほうに移し、そしてまた彼を見ました。

「よく考えなければなりません」と私はとっさにヒューズ大佐のことを思い

出しながら答えました。「後ほど……明日にでも……結論をお伝えします」

「あした」と青年が言いました。「僕たちはブレイ警部の前に呼び出される

でしょう。その時、お答えが聞けるでしょうね。それがイエスであることを心

から望みます」

別れの挨拶もそこそこに、彼と傷心の老紳士は出て行きました。表の戸口が

閉まるや、私は急いで電話口に行き、ヒューズ大佐がくれた番号に電話をかけ

ました。電話線のかなたからふたたび彼の声が聞こえたとき、私はほっと胸を

なでおろしました。私はすぐに会う必要があると言いました。彼は、不思議な

偶然ですが、ちょうど私のところに来ようとしていたのだと言いました。

大佐が来るまでの半時間、私は夢うつつの状態で歩き回りました。彼がドア

から入ってくるや、私は二つの驚くべき訪問の話を浴びせかけはじめました。

女の訪問に関しては、彼はほとんどなにも言いませんでした。ただ、どんな様

子をしていたか教えてほしいと言い、私がライラックの香水のことを話すと、

にこりと笑いました。フレイザー=フリーア青年の荒唐無稽な願い事の話しを

すると、彼は口笛を吹いてこう言いました。

「なんと! 面白い。実に面白い。しかし驚きはしませんな。あの青年はみ

どころがありますよ」

「だけど私はどうしましょう」と私は聞きました。

ヒューズ大佐は微笑みました。

「あなたがなにをなさろうと、大勢に影響ははないのです」と彼は言いまし

た。「ノーマン・フレイザー=フリーアは兄を殺していません。それはそのう

ち証明されることです」彼はちょっと考えて「ブレイはあなたが証言を変えれ

ばきっと喜ぶでしょう。彼は事件と青年中尉を結び付けようとしてますからね。

いろいろ考え合わせた上で言えば、もし私があなたの立場だったら、明日、機

会を見計らって警部を満足させるようなことを言いますな」

「つまり……争いがあった時間はまちがっていたかもしれないと?」

「そうです。あなたがそう言ったからといって、フレイザー=フリーア青年

が永遠に罪を負わされたりしないことは保証しますよ。それに、そうしてくれ

ると、私にも都合がいいのです」

「そうですか」と私は言いました。「でも私にはなにがなんだかさっぱり分

かりません」

「そうでしょうとも。説明したいのは山々ですが、できないのです。こう言

っておきましょうか。フレイザー=フリーア大尉の死を陸軍省は極めて重大視

している。そして暗殺者を追って、全く別の捜査が二つ同時に進行している。

一つはブレイが指揮し、もう一つは私が指揮している。ブレイは私がこの事件

の捜査に当たっていることを知らないし、私はできるかぎり知られたくないと

思っている。あなたは好きなほうの捜査に協力していただいて結構です」

「私はブレイより、むしろあなたに協力します」

「よろしい!」と彼は答えました。「あなたは今までうまくやってきました

よ。もしもよければ、今晩、私の手助けをしてくれませんか。そのお願いをす

るために、電話をもらう前から、こっちへ来ようとしていたんですよ。あなた

はアーチボルド・エンライトと名乗った男、大尉宛ての紹介状を書いた男を、

まだ覚えていて確認することができますね?」

「もちろんできますとも」と私は言いました。

「では、私のために一時間ほど時間を割いてください。どうか帽子の用意を」

そう言うわけで、カールトン・ホテルのお嬢さん、私はつい先ほどライムハ

ウスへ行ってきたところなのです。ライムハウスがどこか、あなたはご存知で

はないでしょうし、これからも知ることはないと思います。そこは絵になると

同時に、吐き気を催させ、色鮮やかにして邪悪なのです。得体の知れない匂い

がまだ鼻の中に満ちています。不吉な景観が、まだ目の前に浮かんでいます。

そこ、ライムハウスはロンドンのチャイナタウンなのです。よこしまな道とむ

なしい犯罪の匂いを芬々とさせながら、ウエスト・インディア・ドック通りを

中心に、都会の残りかすの底に横たわっているのです。異教徒中国人のあの特

異な姿だけでなく、さまざまな人種とさまざまな土地のならず者が薄暗い明か

りの路地をうろつき回っています。アラブ人、インド人、マレー人、日本人、

コンゴから来た黒人、スカンジナビアから来た白人……七つの海を渡るあらゆ

る船から吐き出された連中を見ることができます。ここでは酔っ払った獣ども

が大勢、給金をポケットに、それぞれ好みの罪悪を求めるのです。阿片が好き

でたまらない連中のためには、計ったように一定の間隔をおいて阿片ランプの

看板が並んでいます。

ヒューズ大佐と私はそこに入って行きました。狭いライムハウス通りは、う

す暗い店からさす明かりでところどころ黄色く照らされていたものの、ほとん

ど真っ暗といっていいでしょう。店はよろい戸を堅く閉ざし、かすかな光の筋

しか外に洩れてこないのです。そこをさんざん歩き回って、とうとう立ち止ま

ったのがハリー・サン・リーの「レストラン」の黒い入り口の外の暗闇でした。

私たちは十分、十五分と待ちました。すると一人の男が通りをこちらへやって

来て、そのドアの前で立ち止まったのです。男の意気揚揚とした歩き方は、ど

こかで見たことがあるような気がしました。そのときランプのかすかな光が…

…それはハリー・サンのほんとうの商売を示すものなのですが……男の青白い

顔に当たって、私はこのまえ、インターラーケンの涼しい晩に、その男を見た

ことを思い出しました。ユングフラウが睨むように見下ろし、ライムハウスな

ど一瞬たりとも生きていくことができないあのインターラーケンで。

「エンライトかね」とヒューズがささやきました。

「間違いありません!」と私。

「よし!」彼は力をこめて答えました。

すると今度は別の男が通りをやって来て、大佐の前で急に直立不動の姿勢を

とりました。

「奴を見張れ」とヒューズは静かに言いました。「目を離してはいかんぞ」

「分かりました」男は敬礼すると階段を上り、黒い憂鬱なドアにむかって軽

く口笛を吹きました。

ミルウオール・ドックの時計が十一時を打ったとき、大佐と私はバスに乗り、

明るく楽しいロンドンへ戻るところでした。バスの中でヒューズはほとんど口

をききませんでした。そしてあしたはブレイ警部を満足させてやりなさいとい

う忠告を繰り返して、ストランド街に私を残し、去って行ったのです。

お嬢さん、こうして私は今、自分の書斎に座って、間もなく夜明けとともに

訪れるもっとも重要な日を待っているのです。今晩は波瀾に満ちた一晩でした。

あなたもそれは認めてくれるでしょうね。ライラックの香水をつけた女に、嘘

をつかなければとんでもない目にあうだろうと脅され、ハンサムな青年中尉か

らは、家族の名誉ためにそのおなじ嘘をついて、彼が確実に逮捕監禁されるよ

う協力してくれと頼まれる。そして今晩、私は地獄へ行き、インターラーケン

で会ったアーチボルド・エンライトが悪魔と手を結んでいるさまを見ました。

寝なければいけないのですが、寝つけないことは分かっています。あした、

大尉殺害事件が山場を迎えることは間違いありません。そしてふたたび、私は

自分の意に反して主役を勤めることになってしまいました。

この巨大な灰色の悲しい都市の交響楽は、今は単なる遠くのざわめきに過ぎ

ません。なにしろもう真夜中に近いのですから。これからこの手紙を出しにい

きます……ここはロンドンですからイギリス風に「投函する《ポスト》」とい

うべきでしょうか……その後は自分の薄暗い部屋で夜明けを待ちます。待ちな

がら私は大尉やその弟やヒューズやライムハウスやエンライトのことばかりで

なく、しばしば……いえ、何度も何度も……あなたのことを考えるでしょう。

この前の手紙で私は世界大戦なんてばかばかしいと言いました。しかし今晩

ライムハウスから帰ってくると、皇帝は動員令に署名をしたと新聞が伝えてい

ました。オーストリア参戦、セルビア参戦、ドイツ参戦、ロシアとフランス参

戦。ヒューズが言うには、イギリスも、もうすぐそれにつづくそうです。私も

それに間違いないと思います。恐ろしいことになりますよ、我々の前に立ちは

だかる未来は。私は、少なくともあなたには、幸せだけがもたらされることを

祈っています。

お嬢さん、私がお休みと書くとき、書きながら声に出して言っているのです。

そして私の声には、今はまだとてもお話しできないような気持ちがこめられて

いるのです。

苦悶の欄の男

テキサス娘のすみれ色の目ににくからず映ったのは、日曜日の朝、自室で読

んだ手紙の最後の文句であった。しかしイギリスの早期参戦を予想した一文は、

思わぬ不都合の出来《しゅったい》を彼女に思い起こさせた。昨晩、戦争を知

らせる号外が出て、お気に入りの靴磨きの予測が正しいことを確認したとき、

普段は落ち着いている父親がうろたえた様子を見せた。父親は悠長な人間では

ない。それに父親は重要と見なしていない事柄に関しては、娘の言うがままに

なるのだが、断固たる態度の必要ありと認めれば、テコでも動かなくなること

を、彼女はよく知っていた。彼にはアメリカがいつにもましてすばらしい国に

見えるらしく、即刻帰る決意をしたのである。反論はなんの効果ももたなかっ

た。

その時ドアをノックする音が聞こえ、父親が入ってきた。その真っ赤な、汗

だくの、どう見ても不満そうな顔を一目見て娘は元気づいた。

「汽船会社に行って来たんだが」と彼ははげた頭を拭きながらぜいぜい息を

した。「平日とおなじように営業していたよ。しかし休業してるも同然だった。

なにもできないのだから。どの船も予約で手すりまで一杯だ。ここを脱出する

には二週間はかかる。もしかしたらそれ以上かかるかもしれん」

「残念だわ」と娘は言った。

「いいや、そうじゃあるまい。お前は喜んでいるだろう。こんなふうに足止

めを食うのはロマンチックな小説みたいだと思っておるだろう。わしも若いこ

ろの情熱を取り戻したいものだ」彼は新聞紙で顔をばたばたとあおいだ。「幸

い昨日、至急運送便取扱所に行って金貨をいっぱいおろしておいた。攻撃がは

じまったら、この町で小切手を現金にするのはいささか難しくなるだろうから

な」

「それは賢明だったわ」

「朝ご飯に行く準備は?」

「ちゃんとできてるわよ」彼女は微笑んだ。

二人は下へ降りた。娘はレビューの小唄を口ずさみ、父親はそんな彼女を睨

んでいた。彼女はもうしばらくロンドンにいられることがうれしくてならなか

ったのである。あの謎がまだ未解決なのに、出発なんてできるものですか、と

彼女は思った。

第六章

長く辛い戦禍の日々の中で、ロンドンの人々が、あれが最後の平和な日曜日

であったのか、と思うことになるその日は、緊張と不安に包まれ過ぎて行った。

月曜日の朝早く、苦悶の欄の青年から五番目の手紙が届いた。テキサスの娘は

それを読んで、なにがあっても今ロンドンを離れることはできないと思った。

こんな内容だった。

苦悶の欄 · 第 1 / 3 段