「こいつです!」とジョー・チャンドラーは勝ち誇ったように言った。「ところで、ミス・デイジー」――彼はいたずらっぽく彼女のほうを振りむいたが、その率直な、陽気な声にはおかしな震えがほんのちょっぴり含まれていた――「この人相書きにぴったりのすてきな、前途有望そうな若者をごぞんじじゃないですか――通報したら五百ポンドの報酬を受け取ることができるんですよ」
「五百ポンド!」デイジーと父親は同時に叫び声をあげた。
「そう。ロンドン市長からきのう提示されたんです。誰か個人が出したみたいですよ。公のお金じゃなくて。でも警視庁のぼくらはその賞金を受け取る資格がないんだからついてないや。どのみち苦労するのはぼくらなんだけど」
「その紙を見せてくれないか」とバンティングが言った。「ようくおぼえておかないとな」
チャンドラーは薄い紙を渡した。
しばらくしてバンティングは顔をあげ、紙を返した。「うむ、ずいぶん特徴をはっきり書いてあるね」
「ええ。でもね、そんな特徴を持った若者なら何百人、いや何千人といますよ」チャンドラーは皮肉っぽく言った。「同僚が今朝言ってました。『これが出たあと、新聞の包みを持って歩くやつなんていないぜ』って。いやしからぬ人品骨柄もこれからは要注意です」
デイジーが陽気な笑い声をあげた。ミスタ・チャンドラーの冗談がおかしくて仕方なかったのだ。
「犯人を見た人は、どうして捕まえようとしなかったんだろう」バンティングがふと尋ねた。
ミセス・バンティングも声をひそめて口をはさんだ。「そうよ、ジョー、変だと思わない?」
ジョー・チャンドラーは咳払いした。「こういうことなんです。事の一部始終を見た人は一人もいないんです。この人相書きは犯人を見たっていう二人の人の証言をもとに作っただけなんです。ほら、この殺人は――ええと、そうだな――この前のはたぶん二時くらいに犯行がありました。二時っていうのが肝心なんですよ。そんな時間に出歩く人はあまりいませんからね。特に霧の出ている晩ともなれば。で、一人の女が現場から若者が歩き去るのを見たと言い、もう一人の女が、復讐者が自分の横を通ったって言っているんです。といっても、時間はだいぶあとなんですけど。ここに書いてあるのはほとんど彼女が言っていることなんです。それからこの手の仕事を担当しているボスがほかの人の証言――つまりほかの殺人が行われたときに得た証言ですけど――それを調べて、この手配書を作ったんです」
「じゃあ、復讐者がこれとぜんぜんちがう人相をしているってこともありうるんだね」とバンティングはゆっくりと、失望したように言った。
「もちろん、ありえますよ。でも、ぼくはこの人相書きは、やつの特徴をおさえていると思うな」とチャンドラーは言ったが、しかし自信のある口調ではなかった。
「さっき凶器が見つかったって言ったね、ジョー」バンティングが探りをいれるように言った。
彼はエレンがこの話を続けさせてくれるのがうれしかった。それどころか彼女自身、この一件に興味を抱いているようだった。彼女は話の輪に加わり、すっかりいつもの落ち着いた様子を取り戻していた。
「ええ。凶行に使われた武器が見つかったみたいです」とチャンドラーは言った。「とにかく、死体のあった狭くて暗い抜け道から――抜け道の両端にそれぞれ一体ずつ死体があったんですけど――あそこから百ヤードと離れていないところで今朝、とても変わった形のナイフが発見されたんです。『カミソリみたいに鋭くて、短剣みたいに先が尖っている』。これはボスが説明したときに使った言葉そのままなんですけど、ボスはほかのどの手がかりよりもこれが重要だと考えているみたいです。つまり新聞の包みを持って足早に立ち去る男を見たっていう目撃者が語った犯人の人相よりも重要だって。でもおかげでぼくらは大変な仕事を仰せつかってしまいました。今言ったようなナイフを売ったか、もしくは売ったかもしれない店を虱潰しに調査しなければならないんですよ!イースト・エンドの食堂もぜんぶ含めて」
「食堂なんて、何のために?」とデイジーが訊いた。
「そりゃ、そんなナイフをいつか見たことのある人はいないか、もしも見たとしたら、誰のものだったかを調べるためですよ。でもね、ミスタ・バンティング」――チャンドラーは声色を変えた。仕事をしているときのような、固い口調になったのだ――「今のナイフの話は極秘なんです――新聞には出ません――あしたまではね。だから誰にも言っちゃいけませんよ。犯人を怯えさせたくないんです。ナイフが発見されたことを知ったら――姿を消すかもしれませんからね。それはまずい!さっき言ったみたいなナイフが、たとえば一ケ月前に売られていることがわかり、買った人の足取りがつかめれば、そのときは――」
「そのときは?」ミセス・バンティングが身を乗り出した。
「そのときは新聞にナイフの話はのりません」チャンドラーはすまして言った。「このことを一般の人に知らせるのは、何も見つからなかったときだけです――つまり、店とかを調べて何もわからなかったときだけ。店がダメなら、個人を探さなきゃなりません――犯人のナイフを見たことのある人を。そこでこの賞金が役に立ってくるんです、五百ポンドが」
「まあ、わたし、何とかしてそのナイフを見たいわ!」デイジーは両手を打ち鳴らして叫んだ。
「この娘ったら、何てむごたらしい、血生臭いことを!」まま母が激しく怒った。
そこにいる全員が驚いて彼女のほうを見た。
「おい、おい、エレン!」バンティングが咎めるように言った。
「だって、そんな恐ろしいこと!」と妻がむっつりと言った。「人間を五百ポンドで売るなんて」
しかしデイジーはぷりぷり怒っていた。「いいえ、わたしは見たいわ!」彼女は突っかかるように言った。「わたし、賞金のことなんて、何も言ってない。それはミスタ・チャンドラーが言ったのよ!わたしはナイフを見たいと言っただけ」
チャンドラーはなだめるように彼女を見た。「ああ、そのうち見ることができますよ」と彼はゆっくりと言った。
そのとき素晴らしいアイデアが頭にひらめいた。
「嘘ばっかり!どうして見られるのよ?」
「やつが捕まったら、いっしょに警視庁の黒博物館に行きましょう。そこでちゃんとナイフが見られますよ、ミス・デイジー。そういうものはみんなあそこに保管されているんです。この凶器が復讐者を有罪にする決め手になれば――そうすりゃ、きっとナイフはあそこに置かれるし、見ることができますよ!」
「黒博物館?まあ、警視庁にどうして博物館があるの?」デイジーは不思議そうに訊いた。「わたし、博物館なんて大英博物館だけだと思っていたけど――」
これにはバンティングとチャンドラーだけではなく、ミセス・バンティングも大声で笑ってしまった。
「まったくおまえってやつは!」と父親は可愛くて仕方がないといった調子で言った。「ロンドンにはたくさん博物館があるんだよ。この町は博物館でいっぱいなんだ。エレンに聞いてごらん。わしらが結婚前に付き合っていたころは博物館に行ったものだよ――天気が悪けりゃな」
「でもミス・デイジーが関心を持っているのはうちの博物館なんですよ」チャンドラーが熱心な口調で父親をさえぎった。「あれこそ本物の恐怖の部屋ですからね!」
「ジョー、あそこのことは今まで話してくれたことがなかったね」バンティングが興奮して言った。「犯罪に使われたものを集めて保管する博物館があるって本当なのかい?凶器に使われたナイフみたいなものとか」
「ナイフですって?」ジョーは注目を浴びて有頂天になった。デイジーもその青い目で彼をじっと見つめ、ミセス・バンティングまで期待するように彼を見ている。「ナイフだけじゃありませんよ、ミスタ・バンティング!人を殺すのに使われた本物の毒の小瓶だってあるんですから」
「そこはいつでも好きなときに行けるの?」デイジーが驚いたように訊いた。ロンドン警視庁の刑事に、こんなものすごい、面白い特典がついてくるとは思ってもいなかった。
「そうだなあ、ぼくは行けるけど――」ジョーはにこりと笑った。「友達を連れて行く許可もちゃんと取れますよ」彼は意味ありげにデイジーを見、デイジーも真剣な目つきで彼を見返した。
でもエレンはミスタ・チャンドラーと外出することを許してくれるかしら。エレンは生真面目で――いらいらするほど融通がきかないから。あら、でも、お父さん、何を言っているのかしら。「本当かね、ジョー?」
「ええ、もちろんですよ!」
「そういうことなら、ちょっと聞いてくれ!もしも無理な頼みでなければ、わたしもいつかぜひいっしょに行きたいんだ。復讐者が捕まるまで待てないな」――バンティングは顔をほころばせた。「今、博物館にあるもので十分さ。エレンは」――彼はテーブル越しに妻を見た――「そういうものに対してわたしとちがう意見を持っているけどね、でもわたしは血生臭い人間じゃないよ!ただ、ああしたものにひどく興味があるだけなんだよ、昔からずっと。バラム事件(註 一八七六年ロンドンのバラムで起きた毒殺事件)の執事はうらやましくてたまらなかったものさ!」
デイジーと青年のあいだでふたたび視線が交わされた――それはいろいろな意味を含んで二人のあいだを行き来した――「いやあ、君のお父さんがあんなところに行きたがるなんて、妙なことになったなあ。でも、行きたいというならしょうがない。二人だけならもっといいけど、今回は我慢してお父さんもいっしょに連れていこう」デイジーの視線はそれに対してあっさりとこう答えた。もっとも彼女が彼の意味を明瞭に理解したのに対して、ジョーは彼女の視線の意味をそれほどはっきりとは読み取れなかったけれど。「ほんと、いやね。でもお父さんに悪気はないのよ。それにお父さんがついてきたって、博物館に行くのはやっぱり楽しいわ」
「じゃ、あさってはどうです、ミスタ・バンティング?お迎えに来ますよ――そうだな、二時半頃はどうです?――あなたとミス・デイジーを警視庁にご案内します。そんなに時間はかかりません。ずっとバスでウエストミンスター・ブリッジまで行きます」彼は振り返って女主人を見た。「いっしょにいかがですか、ミセス・バンティング?本当に面白いところですよ」
しかし女主人は断固として首を横にふった。「気分が悪くなるわ」と彼女は言った。「気の毒な人を殺した毒の瓶なんか見たら!それにナイフなんか――!」紛れもない恐怖、身のすくむような戦慄の表情が青ざめた顔をよぎった。
「ほら、ほら!」バンティングが慌てて言った。「いつも言ってるだろう――人は人、自分は自分。エレンはこの見学に行きたくないのさ。家で猫の心配をしていたらいい――いやいや、失礼、下宿人の心配をしていたらいいさ!」
「ミスタ・スルースを冗談のネタにしないでちょうだい」ミセス・バンティングが険悪な声で言った。「でも、ジョー、あなったって本当にいい人ね、バンティングとデイジーにそんな珍しいものを見せてくれるなんて」――彼女はいやみを込めて言ったのだが、それを聞いた三人は一人としてその皮肉を理解しなかった。
第九章
大きなアーチ型の入り口をくぐり抜け、巧妙化した犯罪に戦いを挑む偉大な組織、ニュー・スコットランド・ヤードの心臓部に入り込んだとき、デイジー・バンティングはロマンスの王国に自由に出入りできるようになったのだと思った。三人を乗せてあっという間に上の階に連れていってしまうエレベーターも彼女にとっては新しい、胸のときめく体験だった。デイジーは今までずっと|伯母さん《オールド・アーント》が住む小さな田舎町で単調な、活気のない生活を送ってきた。エレベーターなどというものに遭遇したのはこれがはじめてだった。
この巨大な建物にいささか得意の鼻をうごめかしながら、ジョー・チャンドラーは友達を引き連れ、広々とした廊下を進んだ。
デイジーはあまりの幸運にちょっとだけぼんやりとし、ちょっとだけ気圧されて父親の腕にしがみついた。そのほがらかなういういしい声は押し黙ったままだった。自分がいる、この驚くべき建造物に圧倒されたということもあるし、大きな部屋にいっぱいの人々が忙しそうに、無駄口をたたかず、犯罪の解明のために――と、彼女には思えた――立ち働いている様子がちらちらと見えたからである。
彼らが半開きのドアを通り抜けたとき、チャンドラーが急に立ち止った。「ほら、見てください」彼は低い声で娘よりも父親のほうにむかって言った。「あそこが指紋の鑑識をする部屋です。二十万人分の男女の指紋を集めているんですよ!ごぞんじでしょう、ミスタ・バンティング、警察が五本指の指紋を入手したら、その人は捕まったも同然なんですよ――いや、その、また犯罪を犯したりすればですけど。そのささいな情報を登録されたら、もうわれわれから逃れることはできないんです――どんなにあがいてもね。二十五万人近い人の記録があるんですが、ある人に犯罪歴があるかどうかは、そうですね、半時間もかからずに分かるんです。たいしたものでしょう?」
「すごいね!」とバンティングは深く息を呑んだ。しかしふとその鈍感な顔が曇った。「たいしたものだが、指紋をとられたやつは生きた心地がしないだろうな、ジョー」
ジョーは笑った。「同感です!」と彼は言った。「頭のいいやつはよく分かっているはずです。そういや、先だってこんなことがありました。指紋の記録がここにあることを知っているある男が、指の表面をめちゃくちゃに切り刻んだんですよ。指紋がはっきり採れないように――言っていること、分かります?でも六週間たったら、また皮膚が生えてきて、まるっきり元と同じシワ模様ができたんです!」
「あわれなやつだ!」バンティングは声をひそめて言った。デイジーの明るい元気な顔にさえ影がさした。
彼らは今度は狭い廊下を進み、ふたたび半開きのドアの前に来た。それは指紋鑑定室よりずっと小さな部屋に通じていた。
「なかをのぞいてみてください」とジョーは短く言った。「指先から身元の割れた人とでも言うのかな、そういう人の全情報がここにあります。その人の前歴とか、前科とかがここに保管されているんです。指先の記録はさっきの部屋、犯人個人の記録はこっちの部屋――番号で関連づけられています」
「すごいな!」バンティングは息を呑んだ。しかしデイジーは先に進みたくてしようがなかった。早く黒博物館に行きたかったのである。ジョーと父親が話していることは、彼女にとって現実味がまったくなかった。いや、わざわざ理解しようと努力するまでもない、ささいなことだった。しかし長く待たされることはなかった。
ジョー・チャンドラーの親友とおぼしき、肩幅の広い、にこにこした青年が突然前に進み出ると、何の変哲もないドアの鍵を開け、彼ら三人の小グループを黒博物館へと導き入れたのだ。
その瞬間、強い失望と驚きがデイジーの心を襲った。この大きな明るい部屋が何よりも思い起こさせたのは、彼女と|伯母さん《オールド・アーント》が住む町の公共図書館にある「サイエンス・ルーム」と呼ばれる部屋だった。ここも、そこと同じで、部屋の中央にはガラスのケースが見やすい高さにしつらえてある。
彼女はドアからいちばん近いケースにむかって進み、なかをのぞいた。展示されていたのは、ほとんどがみすぼらしい小物だった。取り散らかした家の、古いガラクタ置き場から出てきそうなものが並んでいたのだ。古い薬瓶、汚れたハンカチ、壊れたおもちゃの提灯、さらには薬箱まで……。
壁はおかしな品物で埋め尽くされている。古い鉄のかけら、木と革でできた見慣れぬ形の物体などだ。
実際、期待はずれもいいところである。
しかしそのあとデイジー・バンティングはだんだんと気がついてきた。この大きな部屋を影ひとつなく光で満たしている最初の大窓のすぐ下に棚があって、そこには実物大の白い石膏の頭が一列に並んでいるのだ。どれもかすかに右に傾いている。それが十二個ほどあり、ひどく眼を剥き、無力感の漂う、異様な、生々しい表情を見せているのだ。
「いったいこれは何だね?」バンティングが低い声で尋ねた。
デイジーは心持ち父親の腕に身を引き寄せた。彼女にもこの奇怪な、痛ましい、眼を剥いた顔がデスマスクであることが分かったのだ。殺人者は死をもってその罪を贖うべしという、恐るべき法の命令に従った男女のデスマスクだ。
「みんな絞首刑になった連中です!」と黒博物館の管理者は言った。「死んだあとで型を取ったんです」
バンティングは神経質にほほえんだ。「なんだか死んでるようには見えないね。聞き耳を立てているみたいだ」
「ジャック・ケッチ(註 十七世紀の悪名高い死刑執行人)のせいですよ」と男はおどけて言った。「あいつの思いつきでね――患者のネクタイを左耳の下で結ぶんです!たった一回だけお仕えする紳士には、誰彼かまわずそうしてあげるんです。すると顔が少し片方に傾くんです。ここ、見えます――?」
デイジーと父親は少しだけ近寄った。話し手はそれぞれの首の左側にある小さなへこみを指さした。へこんだ部分からぐるりと奇妙な浅い筋が走っている。その上端にははっきりとした畝の模様が浮きあがり、絞首刑執行人のネクタイが永遠の門を急いで通り抜ける着用者の首を、どれほどかたく引き締めたかが分かるのだった。
「間抜けに見えるね。恐怖とか――苦痛を感じているというより」バンティングは驚いたように言った。
彼はこの物言わぬ、眼を剥いた顔に、ひとかたならず胸を打たれ、心をひきつけられた。
しかしチャンドラー青年は陽気な平然とした声で言った。「まあね。こんなとき、人間は馬鹿みたいな顔になるものですよ。計画はみんな水の泡、しかも生きられるのはあと一秒ってわけですからね」
「ああ、そうだろうね」バンティングはゆっくりとそう言った。
デイジーは顔が少し青ざめていた。この場所の不吉でよどんだ空気に圧倒されかけていた。そばのガラスケースに収められたみすぼらしい小物は、いずれもが一連の証拠を構成した鎖の一つ一つであり、ほとんどすべての事件において、犯罪者である男女を死刑台送りにした物品なのである。
「先日、皮膚の黄色い紳士がいらっしゃったんですよ」管理人は急に話し出した。「バラモンとかいうものの一人だそうです。いやあ、異教徒の考え方には実に驚かされます!彼はこう言ったんです――何て言葉だったけな、彼が使ったのは」彼はチャンドラーのほうを見た。
「ここにあるものは、石膏の型を除いて――不思議なことに、石膏の型だけ別なんだそうです――悪を浸出させている、と言ったんです。そう、『浸出』って言葉を使っていました。なかから染み出すってことですよ。ここにいると気分が悪くなると言いましてね。まあ、それが嘘じゃないんです。黄色い皮膚の下が完全な緑色になっちゃって、ぼくらは急いで彼を外に出したんです。廊下のむこう端に行くまで回復しなかったんですよ!」
「へえっ。そいつは妙な話だな」とバンティングが言った。「その男、きっと良心にやましいものがあったんじゃないかね」
「じゃ、ぼくは行くよ」とジョーの気さくな友人が言った。「君が案内したらいい、チャンドラー。ぼくと同じくらいこの場所のことは詳しいものな」
彼はジョーが連れてきた訪問者たちに別れの挨拶代わりの笑顔をむけた。しかし結局、彼は離れることができないらしい。
「そうだ」と彼はバンティングに言った。「この小さなケースにはチャールズ・ピース(註 十九世紀英国の強盗殺人犯)の使った道具が入っているんです。やつの名前は聞いたことがあるでしょう?」
「あるとも!」バンティングは勢い込んで言った。
「大勢のお客さんが、このケースがいちばん興味深いって考えています。ピースはすばらしい男でしたからね!まちがった道を歩かなかったら、偉大な発明家になっていたかもしれないって言われてます。ほら、これがやつの梯子です。たたむとすごく小さくなって、あの当時のロンドンなら誰でも運んでいそうな古い木ぎれの束みたいになるんです。これなら人目をひきません。たぶん、これを持っているおかげで、なんども真面目な労働者に見まちがわれたんでしょう。逮捕されたとき、この梯子はいつだっておおっぴらに抱えて歩いていた、と真剣な顔つきで言ったそうですから」
「ずぶとい野郎だ!」とバンティングが叫んだ。
「ええ。この梯子は伸ばすと地面から三階まで届くんです。どんなに古いお屋敷でもね。そうそう!やつは実に利口な男でしたよ!節になってるところをひとつ開くと、ほかの節も自動的に全部開くんです。だからピースは地面に立ったままこいつを狙った窓まで静かに伸ばすことができたんですよ。で、仕事が終ったら、ただの古い木ぎれの束を小脇に抱え、また立ち去るってわけです!いや、悪賢いですね!ピースが指を一本なくしたときの話は知っていますか。指の一本ない男を探せ、という指令が警官のあいだに行き渡っているだろうと考えた彼はどうしたと思います?」
「義指をはめたんだろう」とバンティングは言った。
「ちがうんです!ピースは手をなくすことにしたんです。ほら、これが手のない義腕です。木でできているんですけど――木と黒のフェルトかな?うまい具合に手が収まるようにできていましてね。これはうちの博物館のなかでもいちばん巧妙に作られた発明品のひとつだと思います」
一方、デイジーはとっくに父親の腕を放していた。喜び勇むチャンドラーに付き添われながら、彼女は大きな部屋の反対端に移動し、今は別のガラスケースの上に身を乗り出していた。「この小瓶はいったい何に使うの?」彼女は不思議そうに訊いた。
五つの小型のガラス瓶に、それぞれいろいろな分量の濁った液体が入っている。
「これには毒が詰まってるんです、ミス・デイジー。あんな少量のブランデーのなかにあなたとぼくを殺してしまえるくらいのヒ素が含まれているんです――ついでにお父さんだって殺せるでしょう」
「それなら薬剤師はそんなもの売っちゃいけないと思うわ」デイジーは笑いながら言った。毒と縁のない彼女は、これらの小瓶を見てもただわくわくするだけだった。
「もう売ってませんよ。これははえ取り紙から集めたものなんです。犯人の女は色を白くするための化粧品がほしかったと言ったんですが、でも本当にほしかったのは夫を殺すためのはえ取り紙だったんです。ちょっぴり旦那にあきちゃったんでしょう」
「きっとひどい男で、殺されても当然だったのよ」とデイジーが言った。その思いつきがあまりに滑稽だったので、二人は声を合わせて大笑いした。
「ミセス・パースって人の犯罪については聞いたことがありますか」チャンドラーは急に真顔になって訊いた。
「ええ、知っているわ」デイジーは軽く身震いした。「かわいい赤ちゃんとそのお母さんを殺した卑劣な女よね。彼女の像がマダム・タッソーの蝋人形館にあるわ。でもエレンがあそこの恐怖の部屋に行かせてくれないの。この前ロンドンに来たときも、お父さんにあそこに行くのはだめって言ったのよ。なんて冷たい人だろうと思ったんだけど、でもなんだか今は前ほど行きたくなくなったわ。ここに来たから!」
「実はね」とチャンドラーがおもむろに言った。「ここにはミセス・パースの遺品がいっぱい詰まったケースがあるんです。もっとも死体が発見された乳母車、あれはマダム・タッソーのところだそうです――少なくともむこうはあると言ってるけど。でもあれと同じくらい興味深くて、それほど恐ろしくないものがあるんです。あそこに男物のジャケットがあるでしょう?」
「ええ」デイジーはたじろいだように言った。次第に重苦しい、薄気味悪い気分になってきたのだ。インド人がおかしくなったのも当たり前のように思えてきた。
「強盗が邪魔になった男を撃ち殺し、うっかりあのジャケットを忘れていったんです。警察はボタンのひとつが半分に欠けていることに気づきました。そんなもの、たいした手がかりにならないと思うでしょう、ミス・デイジー。でも、あそこにあるもう半分が見つかって、それで犯人を絞首刑送りにできたんですよ。信じられます?三つあるボタンがみんなちがっていたんだから、ますますすごいことですよ!」
デイジーは犯人を絞首刑にしたという小さなボタンの片割れを驚いたように見つめた。「じゃ、あれはなに?」彼女は汚い布きれを指さした。
「いやあ」チャンドラーはしゃべりたくなさそうだった。「あれは忌まわしい品ですよ、本当に。女といっしょに埋められていたシャツの切れ端です――その、地面に埋められていたんですよ――亭主に死体をばらばらにされ、焼かれたあとに。あのシャツの切れ端のおかげで亭主を死刑にすることができたんです」
「なんておぞましい場所なのかしら、この博物館!」デイジーはすねたようにそう言って横をむいた。
彼女はまた廊下に出て行きたかった。この明るく照らされた、気持ちのよい、不吉な部屋を離れたかった。
しかし父親のほうはさまざまな時限爆弾を収めたケースに夢中になっていた。「このいくつかはすばらしい芸術品ですよ」と案内役が熱をこめて言い、バンティングも同意せざるを得なかった。
「行きましょうよ――ねえ、お父さん!」デイジーは早口に言った。「もう充分見たわ。これ以上ここにいたら恐くて鳥肌が立って来ちゃう。今晩、悪い夢なんか見たくないわ。世のなかにこんなにたくさん悪者がいるなんて、考えただけでもぞっとする。わたしたち、それとは知らずにいつ殺人鬼に出会うかもしれないってことじゃない?」
「あなたは大丈夫ですよ、ミス・デイジー」チャンドラーがにっこりしながら言った。「けちなペテン師にだって会うことはないと思います。まして殺人犯なんか。百万に一つもそんな可能性はありません。だって、ぼくだってまともな殺人事件に関わったことがないんですから!」
しかしバンティングは急がなかった。そこにいる一瞬一瞬を心ゆくまで楽しんでいた。そのときは黒博物館の壁にかかるいろいろな写真をじっくり見ていたところだった。とりわけ彼を喜ばせたのは、先ごろ世間を大いに騒がせ、いまだに謎が残っているスコットランドの事件に関係したものだ。しかも死亡した男の召使いが重要な役割を――事件の解明にではなく、謎を深めるという意味で――果したのだった。
「殺人犯で捕まらないのも多いんだろうね」と彼はもの思いに耽るように言った。
ジョー・チャンドラーの友人は頷いた。「でしょうね!」と彼は大声で言った。「イギリスに正義なんてものはありません。いつも殺人犯に有利なんです。まともに裁きが下るのは――つまり絞首台に行くのは――十人に一人もいないでしょう」
「今起きている事件をどう思うかね。例の復讐者の殺人事件だが」
バンティングは声をひそめた。しかしデイジーとチャンドラーはすでにドアのほうへ行きかけていた。
「捕まることはないと思いますよ」相手はこっそりと答えた。「これは、ある意味、狂人をとっつかまえるようなものですからね、普通の犯罪者を捜し出すっていうんじゃなくて。もちろん――少なくともぼくの考えでは――復讐者は狂人ですよ。狡賢い、おとなしいタイプの。手紙のことは聞きました?」急に彼は声を落とした。
「いいや」バンティングは真剣な眼で彼を見た。「何の手紙だね?」
「手紙が来たんですよ――いつかこの博物館に収められるでしょうけど――二人いっぺんに殺した事件の直前に来たんです。『復讐者』って署名がありました。やつがいつも残していく紙片の文字と同じ活字体で。まあ、必ずしも復讐者本人がここに手紙を送ったとは言えないんだけど、その可能性は相当高いですよ。ボスはものすごく重要視しています」
「投函された場所はどこだい?」とバンティングが訊いた。「ちょっとした手がかりになるかもしれないじゃないか」
「いいえ、ぜんぜん」と相手は言った。「郵便物を出すときはうんと遠くまで出かけますからね――犯罪者ってのは。当然ですよ。しかし今言ったやつはエッジウエア通りの郵便局から出されてます」
「何だと?うちの近くじゃないか」とバンティングが言った。「何てこった!気味が悪いな!」
「われわれはいつ犯人と出くわすか分かりません。復讐者は、見かけは普通の人と変わらないと思うな。というか、普通だってことを知っていますけど」
「じゃ、あいつを見たという女の言うことを信じるのかね?」バンティングはためらうように訊いた。
「警察の手配書は彼女の証言をもとに作られました」と相手は用心深く答えた。「でも、分かりませんよ!こういう事件は手探りで――終始暗闇のなかを手探りするように捜査を進めなきゃなりませんからね――あれが最終的に正しかったと分かったとしても、それはただの幸運な偶然です。もちろん、事件のおかげで警察はてんやわんや。それはまちがいない!」
「そりゃそうだろうね」とバンティングはすぐに言った。「実際、先月はあの事件のこと以外、何も考えられなかった」
デイジーはもう姿がなかった。父親が廊下で彼女と合流したとき、彼女はうつむいてジョー・チャンドラーの言うことを聞いていた。
彼は自分の実家のこと、母が住んでいるリッチモンドの家のことを話していた。小さな素敵な家で、公園の近くにあるのだ、と。彼は、いつか午後にでもそこに行くことはできないだろうか、と彼女を誘っていた。母親がお茶を出してくれるし、きっと楽しいだろうと訴えた。
「エレンがどうして行かせてくれないのか分からないわ」と娘は反抗的に言った。「でも頭が古くて、小うるさいタイプだから、エレンは――ほんと、気むずかしいんだから!それにね、ミスタ・チャンドラー、あの家に泊まっているときは、お父さんもエレンが認めないことはわたしにさせようとしないの。でも彼女はあなたがずいぶん気に入っているから、もしもあなたが頼んだら――?」彼女は彼を見、彼はよく分かっているというふうに頷いた。
「任せてください」と彼は自信ありげに言った。「ミセス・バンティングはぼくから説得しますよ。でもミス・デイジー」――彼は赤くなった――「一つ質問があるんですよ――気を悪くしないでほしいんですが――」
「なに?」デイジーは小さく胸が弾んだ。「お父さんがこっちに来るわ、ミスタ・チャンドラー。早く言って。なに?」
「今おっしゃったことですけど、誰ともお付き合いはしてないと取ってもいいんですね」
デイジーは一瞬とまどった。それからその頬にずいぶんと可愛らしいえくぼを浮かべた。「そうよ」と彼女は悲しげに言った。「そうよ、ミスタ・チャンドラー。付き合ってる人はいない」彼女は思いきって正直に付け加えた。「出会いのチャンスがなかったのよ!」
ジョー・チャンドラーはひどく嬉しそうにほほえんだ。
第十章
これこそ願ってもない幸運だった。夫とデイジーがチャンドラー青年といっしょに出かけているあいだ、ミセス・バンティングはほぼ一時間近くも一人で家にいることができたのだから。
ミスタ・スルースは昼間はほとんど外出しないのだが、この日の午後はお茶をすませて薄暗くなってきた頃に、急に新しい服が一そろいほしいと言いだした。女主人は買い物に出ると聞いて熱心に頷いた。
彼が家を出るや、彼女は急いで客間の階にあがっていった。二つの部屋を徹底的に掃除する機会がついにやってきたのだ。しかしミセス・バンティングが心の奥底でよく理解していたように、彼女がしたいと思っていたのはミスタ・スルースの客間の掃除というより――はっきり何とは自分でも分からないのだけれど――漠然とした捜し物だったのである。
使用人として働いていたとき、彼女の同僚は家族の秘密を嗅ぎ出そうという、曖昧ではなくはっきりした目的を持って、雇い主の個人的な手紙を盗み読みしたり、こっそり机の引き出しや棚のなかを覗いたものだ。それに対して、ミセス・バンティングは、言葉にこそしなかったものの、いつも深い軽蔑の念を抱いていた。
しかし今、彼女はかつて他人がするのを見て卑しんでいた行為を、ミスタ・スルースに対して自ら行おうと心を決め、勇み立っていたのである。
寝室を手はじめに、組織的な捜索が開始された。下宿人は非常に几帳面な紳士で、下着などの数少ない所持品は整然と片づけられていた。彼女は下宿人のごくわずかな洗濯物を自分やバンティングのものといっしょに洗うことにしていた。下宿人もこの手はずには大いに満足だった。幸いなことに彼が着ているシャツはソフト・シャツだった。
以前、ミセス・バンティングは毎週行うこの面倒な仕事のために女を一人雇っていたのだが、最近では自分でもすっかり要領をのみこみ、洗濯屋に任せるのはバンティングのシャツだけ。そのほかのものはすべて彼女が一人で洗った。
彼女は整理ダンスから化粧台に注意を移した。
ミスタ・スルースは外出するときお金を持ち歩かない。たいてい古い姿見の下の引き出しに置いていくのである。女主人は何気なくその小さな引き出しを開けてみた。しかしそこにあるものに手を触れようとはしなかった。ただソブリン金貨と何枚かの銀貨の山をちらりと見た。下宿人は服を買うのに必要なお金を持ち出しただけらしい。彼は彼女に服がいくらするのか尋ね、外出の理由を秘密にしようとしなかった。それが何となくミセス・バンティングを安堵させたのだった。
彼女は化粧台掛けを持ちあげ、カーペットも少し捲いて下を調べたが、紙切れ一枚見つからなかった。連絡ドアを開け放ち、二つの部屋を行ったり来たりしながら、とうとう捜索をあきらめようと思いはじめたとき、彼女は下宿人の過去の生活を不安とともにあれこれ思い出した。
ミスタ・スルースは確かに変わり者である。しかし変わっているといっても、良識を逸脱することはない。その振る舞いは、だいたいにおいて、彼が属する階級のほかの人々と同じ道徳的理念に基づいている。彼は飲酒に対しては異常な反応を示す。そのことに関しては気も狂わんばかりになると言っていい。しかしそれは彼一人に限った話ではない!エレン・バンティングは酒や酔っぱらいの話となると、ちょうど彼のように、異常な態度を取る貴婦人と生活したことがある。彼女はこぎれいな客間をなんとなく不満そうに見渡した。何かが隠されているとしたら、残っている場所は一つしかない。それは小さくても、重量感のあるマホガニー製の飾り棚だった。そのとき、今まで一度も浮んだことのなかった考えがミセス・バンティングの頭に突然浮んだ。
ミスタ・スルースが思ったよりも早く戻りはしないかと、ひとしきり耳をすませたあと、彼女は飾り棚のある隅へゆき、さしてあるわけでもない力を細腕に込め、重いこの家具を前に傾けたのである。
すると奇妙なガサガサという音が聞こえた。何かが二番目の棚のなかを転がっているのだ。ミスタ・スルースの到着前にはなかったはずの何かが。ゆっくりと時間をかけて、彼女は飾り棚を前へ後へと傾けた。一回、二回、三回。彼女は満足と同時に不思議な困惑を感じた。消えてなくなり彼女を驚かせたあの鞄が所有者によってしっかり鍵を掛けられ、そこにしまいこまれていることはまちがいない。
ひどく具合の悪い考えがふとミセス・バンティングの心に浮んだ。彼女は鞄が棚のなかで動いたことをミスタ・スルースに感づかれたくはないと思った。しかし次の瞬間、ミスタ・スルースの女主人はがっくり肩を落とした。飾り棚を動かしたことは下宿人にばれてしまうにちがいない。何か黒っぽい色の液体が細い筋となって小さな棚の扉の下から流れ出していたからである。
彼女は身体を屈めてその液体に触ってみた。指についたそれは真っ赤な色をしていた。
ミセス・バンティングの顔面は蒼白になり、そしてすぐにもとに戻った。実際、あっという間に顔に赤みがさし、身体じゅうが熱くなったのである。
赤インクの瓶をひっくり返しただけ――何のことはない!それ以外のものであるわけがないのに、わたしったら何を考えていたのだろう。
まったく迂闊な話だ――彼女は自分をあざけり、非難するようにこう思った――下宿人が赤インクを使っていることを自分は知っていたではないか。クルーデンのコンコーダンスは、ページによってはミスタ・スルース独特の真っ直ぐな字で埋め尽くされていた。びっしり感想や疑問のメモが書き込まれ、余白がまったくなくなっているところもあったのだ。
ミスタ・スルースは何も考えずに赤インクの瓶を飾り棚のなかにしまったのだろう。それが彼女の可哀相な、愚かしい紳士がしたことなのだ。そして彼女の物好きな詮索のせいで――彼女が知ったところで毒にも薬にもならぬことを何とか知りたいと思ったせいで、こんな事故が起きてしまった。
彼女はぞうきんで緑の絨毯の上に落ちた数滴のインクを拭き取った。われながら救いがたいうろたえようだと、怒ったように心のなかで思いながら、彼女はもう一度裏手の部屋へ入っていった。
ミスタ・スルースが便箋を持っていないのはおかしなことだった。最初に買うものの一つだろうと彼女は思っていたのだ。紙は非常に安いのだからなおさらである。とりわけやや汚く見える例のシルリアン・グレーの紙は安い。ミセス・バンティングがかつていっしょに暮らしていたとある婦人はいつも二種類の便箋を使っていた。友人や同等の地位の人には白い紙を、彼女が「一般人」と呼んでいた人々には灰色の紙を使っていた。当時まだエレン・グリーンであった彼女はそのことにいつも憤慨していた。どうしてなのだろう、あんなことを今になって思い出すなんて。あのときお仕えしていた女性は本物の貴婦人ではなかったけれど、ミスタ・スルースは、奇癖の持ち主とはいえ、掛け値なしに本物の紳士なのだから、ますますわけが分からない。彼が便箋を買うなら安い灰色のものではなく、白地のものを買うだろう――白くて、おそらくクリーム色の簀の目の入った紙を買うだろう、とミセス・バンティングはなぜか確信していた。
彼女はもう一度古いタンスの引き出しを開け、ミスタ・スルースの肌着を何枚か持ちあげてみた。
しかし何もなかった――隠されているものは何もない。考えてみればおかしなことだ。有り金は誰でも手の届くところに置いていくのに、安いにせの革鞄とか、さらにはインクの瓶みたいな無価値なものを鍵を掛けてしまいこむのだから。
ミセス・バンティングは姿見の下の小さな引き出しを一つ一つもう一度開けてみた。そのどれもが立派な古いマホガニーを用いて美しく仕あげられていた。ミスタ・スルースは真ん中の引き出しにお金を入れていた。
鏡はたったの七シリング六ペンスしかかからなかった。しかもオークションのあとである業者が譲ってもらえないだろうかと、最初は十五シリング、次に一ギニーを提示したのだった。先ごろベーカー通りでこれとまったく同じ鏡を見たが、そのラベルには「チッペンデール。骨董品。二十一ポンド五シリング」と書いてあった。
そこにミスタ・スルースのお金があった。女主人がよく知っているように、そのソブリン金貨は次第次第に彼女とバンティングのものになっていく。もちろんまっとうな稼ぎだ。しかしこの鈍く輝くソブリン金貨の現在の持ち主に出会わなければ決して手に入れられない――いや、稼ぐことのできない――金だった。
ようやく彼女は下に降り、ミスタ・スルースの帰りを待った。
玄関から鍵の音が聞こえたとき、彼女は廊下に出てきた。
「申し訳ございません、旦那様、不始末をしでかしてしまいまして」彼女は緊張して少し息が乱れた。「お出かけになっているあいだに客間にあがってお掃除をしたのでございますが、飾り棚のうしろに手を伸ばしたとき、棚が傾いてしまいまして。なかに入っていたインク瓶が割れてしまったかもしれません。ほんの数滴ですが、インクがこぼれてきたんでございます。たいしたことがなければいいのですが。飾り棚に鍵がかかっていましたので、外側だけ、できるだけきれいに拭いておきました」
ミスタ・スルースは愕然とした、ほとんど怯えたような目つきで彼女を見つめた。しかしミセス・バンティングはうろたえなかった。彼が帰ってくるまえと比べると、はるかに落ち着きを取りもどしていた。帰ってくるまえは、あまりの怖さに家を出て、通りで相談する相手を探そうと思ったくらいだった。
「あのなかにインク瓶を入れていらっしゃるとは思いも寄りませんでしたので」
彼女は弁解するようにしゃべった。下宿人の表情が明るくなった。
「旦那様がインクをお使いになることは存じておりました」とミセス・バンティングは話しつづけた。「お持ちの本に書き込みをなさっているのを見たことがございます――その、聖書といっしょにお読みになっている本でございますが。かわりの瓶を一つ買ってまいりましょうか、旦那様」
「とんでもない」とミスタ・スルースは言った。「ありがとう。でも結構ですよ。すぐに上に行って様子を見てきましょう。用があるときは呼び鈴を鳴らします」
彼はぎこちなく彼女の脇を通り抜けた。五分後に客間の呼び鈴が鳴った。
ドアのところから、扉を大きく開けた飾り棚がミセス・バンティングの目に飛びこんできた。棚のなかは空っぽで、下の棚にインク瓶が赤い水たまりのなかに転がっているだけだった。
「木に染みが残ってしまいますね、ミセス・バンティング。あそこにインクを入れておくべきではなかった」
「そんなことございませんわ、旦那様!お気になさらないで。一二滴絨毯に落ちたんですけど、隅の暗がりですから特に目立ちません。瓶を片づけましょうか。そのほうがよろしいですわね」
ミスタ・スルースはためらった。「いいえ」と彼は長い間を置いて答えた。「片づけなくてもいいですよ、ミセス・バンティング。ほんのちょっとあればいいんです。瓶に残っているインクだけで充分。少し水を加えればいいでしょう。お茶を加えればもっといいんだけれど。聖書のなかで特に興味をひいた一節はコンコーダンスに印をつけておくんです。インクはそれに使うだけですからね。コンコーダンスというのは、ミセス・バンティング、この、ええと、クルーデンという紳士が作っていなかったらわたしが喜んで編纂していた本ですよ」
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その晩のエレンはいつもよりはるかに愛想がよかった。これはバンティングだけではなくデイジーも思ったことだった。彼女は二人が語る興味深い黒博物館の話を最後まで聞き、二人のどちらをも鼻であしらうことがなかった。バンティングが絞首刑者から取った恐ろしい、容易に忘れられない、けれども間の抜けたデスマスクのことを話したときでさえ黙って聞いていたのである。
しかし数分たって夫が彼女に質問をしたとき、ミセス・バンティングは的外れな答えを返した。彼女が相手の最後の言葉を聞いていなかったことは明らかだった。
「何を考えているのかな!」と彼はおどけて言った。しかし彼女は頭を振るだけだった。
デイジーはこっそり部屋を出て、五分後に青と白の格子チェックのシルクガウンを着て戻ってきた。
「おうや!」と父親が言った。「すてきじゃないか、デイジー。その服ははじめて見たよ」
「おかしな格好ねえ!」とミセス・バンティングは嫌みな口調で言った。「そんなおめかしをするなんて、誰かを待っているということよね。お二人とも今日は充分チャンドラーに会ったんじゃないの。いったいあの人、いつ仕事をしているのかしら。本当に不思議だわ!忙しいったって、うちに来て一二時間は無駄話する余裕があるみたいなんだから」
しかしその晩エレンが言った皮肉はそれでおしまいだった。デイジーですらまま母がぼうっとしていて、いつもとはちがうことに気がついた。料理も、彼女がしなければならない細々した仕事も、いつもよりずっと静かにこなしていくのだった。
しかしその物静かな、ほとんど無愛想といってもいい態度の裏側で、どれほど不安と、暗い苦悩と、病的な緊張が嵐のように激しく吹き荒れていたことだろう。それは彼女の魂を揺さぶり、病弱な身体に襲いかかり、思わず彼女は、単純な日々の仕事さえこなせないのではないかと何度も思ったのだった。
夕食をすませたあと、バンティングは外に出て一ペニー新聞を買ってきた。しかし戻ってくるとやや沈んだ笑顔を見せた。そしてこの一二週間、小さな活字を読み過ぎて目が痛いと言うのだった。
「わたしが読んであげるわ、お父さん」とデイジーが意気込んで言った。彼は娘に新聞を渡した。
デイジーが唇を開こうとした瞬間、大きなベルとノックの音が家じゅうに鳴り響いた。
第十一章