ミスタ・スルースの呼び鈴がふたたび鳴った。

朝食の仕度はすっかりできていたけれど、ミセス・バンティングは彼が下宿人になってからはじめて呼び出しにすぐに応じなかった。しかしもう避けられない二回目の鈴の音がしたときは――その古風な家に電気のベルは取り付けられていなかった――決心して二階へあがった。

台所の階段から玄関広間へ出ると、居間の椅子にゆったりと腰かけていたバンティングが食事を満載したお盆を持つ妻の重い足音を聞きつけた。

「待て待て、手伝うよ、エレン」と彼は叫び、部屋から出てきてお盆を受け取った。

彼女は何も言わず、いっしょに客間の階にあがっていった。

階段をあがりきると、彼女は夫を制止した。「ほら」彼女は早口にささやいた。「それを渡して、バンティング。下宿人はあなたがなかに入るのを好まないから」彼が言われた通り、また下に降りようとすると、彼女はいささかとげとげしい口調でこう付け加えた。「ドアくらい開けてくれてもいいじゃない!こんなに重いお盆を持ってどうやって開けろというのよ」

彼女が妙に興奮した声を出すので、バンティングは驚き――幾分腹が立った。エレンはいわゆる陽気で愉快な女ではないが、今のように物事がうまくいっているときは概して非常に落ち着いているのだ。まだ根に持っているのだろうか、チャンドラー青年や、復讐者の新たな殺人について言い争ったことを、と彼は思った。

しかし彼はどんなときも争い事を好まない。というわけで彼は客間のドアを開けてやり、ミセス・バンティングは彼が下に降りはじめると、さっそく部屋のなかに入っていった。

たちまち奇妙な安堵感が彼女を襲い、気が軽くなるのを感じた。

下宿人はいつも通り例の場所に座って聖書を読んでいる。

どういうものか――理由は求められても説明できなかっただろうし、心のなかで考えるのもいやだったろうが――彼女は別人のようなミスタ・スルースを目にするのではないかと思っていたのである。しかし、そんなことはなかった。彼はまったく変わっていない。それどころか彼が目をあげたとき、いつも以上に感じのいい笑顔がほっそりした、青白い顔を輝かしたのである。

「ああ、ミセス・バンティング」彼は愛想よく言った。「今朝は寝過ごしてしまいました。でもおかげで気分がいい」

「それはようございました、旦那様」と彼女は低い声で答えた。「以前お仕えしておりました奥様がよくおっしゃっておりました、休息は古い治療法だけれど、いちばん効果があるって」

ミスタ・スルースは邪魔にならないよう聖書とクルーデンのコンコーダンスをテーブルからどけ、立ちあがって女主人がテーブルクロスを広げるのを見ていた。

突然彼はまた話しかけた。朝はあまり口数の多いほうではないのだけれど。「ミセス・バンティング、たった今、ドアの外に誰かがいたんじゃありませんか」

「さようでございます、旦那様。バンティングがお盆を持つのを手伝ってくれまして」

「だいぶご迷惑をかけているようですね」と彼は口ごもるように言った。

しかし彼女の返事はすばやかった。「とんでもございません、旦那様!つい昨日ですけど、旦那様のように手のかからない下宿人ははじめてだと話していたんです」

「それはよかった。自分の習慣が人と変わっていることは分かっているんですが」

彼はじっと彼女を見た。まるでこの発言に対して彼女から否定の言葉を期待しているように。しかしミセス・バンティングは真面目な、正直な女だ。相手の言葉に異議を唱えるなど思いも寄らないことだった。ミスタ・スルースの習慣はいささか変わっている。真夜中の外出ひとつをとってもそうではないか。そう思って彼女は黙っていた。

下宿人の朝食をテーブルに置いて、彼女は出ていこうとした。「お出かけになるまでお部屋の片づけはしないほうがよろしゅうございますか、旦那様」

ミスタ・スルースは鋭く彼女を見あげた。「ええ、しないでください」と彼は言った。「聖書の研究をしているときは部屋の片付けをしてほしくありません、ミセス・バンティング。しかし今日は出かけません。少々手のこんだ実験をするつもりです――上の階で。出かけるとしても」彼はちょっと躊躇し、またもや彼女をじっと見つめた。「――夜になるでしょうね」それから元の話題に戻って急いでこう言い足した。「そうですね、わたしが上に行ったら片付けをしてもいいですよ。五時くらいですが。時間の都合はどうです、それで」

「ええ、旦那様、結構でございます」

ミセス・バンティングは下に降り、降りながら自分に無言の、仮借ない非難を浴びせかけた。しかし彼女はどうしても――心の内奥においてさえ――彼女をあれほど震えあがらせた奇怪な戦慄を直視することができなかった。彼女はただ何度も何度も心のなかで「混乱したのよ――それだけのことよ」と思った。それから声に出して「今度外出したとき、薬屋でお薬をもらわなくっちゃ。必ず」と言った。

彼女が「必ず」とささやいたとき、玄関からノックする音が大きく二回響いてきた。

たかが郵便屋のノックなのだが、しかしこの家に郵便屋が来ることはまれだった。ミセス・バンティングは思わずぎょっとなった。わたし、神経質になっている、いやだわ――彼女は怒ったように独りごちた。あれはミスタ・スルース宛の手紙にちがいない。この世のどこかに親戚か知り合いがいるに決まっている。家柄のよい人々はみんなそう。しかし玄関の床から小さな封筒を拾いあげたとき、それが夫の娘、デイジーから来たものであることを知った。

「バンティング!」彼女は鋭く呼びかけた。「手紙よ」

彼女は居間のドアを開けてなかを覗きこんだ。ああ、ここにいる。安楽椅子に気持ちよさそうにもたれかかり、新聞を読んでいる。その広い、やや丸まった背中を見ていると、ミセス・バンティングは突然、強いいらだちを感じた。あの人ったら、何にもしないで――いや、何もしないどころか、あのいやらしい犯罪の記事ばかり読んで時間をむだにしているんだわ。

彼女は知らず知らずのうちに長いため息をついていた。バンティングは怠け者になりつつある。彼の歳の男にとってかんばしからぬ道に踏み込もうとしている。でもどうやったらそれが防げるだろう。二人が知り合った頃は、とても活動的で良心的な男だったのに……。

彼女もカンバーランド・テラス九十番地の食事室で、二人がはじめて出会ったときのことをおぼえている。しかもバンティングより鮮明に。そこで奥様のグラスにポートワインを注いでいるとき、彼女は仕事に集中しているふりをしながら、実は目の隅から窓際に立つ、きりりとした身なりの、堂々たる男を見ていたのだ。彼の姿は前任者よりどれほど立派に見えたことだろう!そのときすでに彼女は、この人が執事を引き継いでくれればいいのに、と思っていたのだ。

今日はいつもの調子でないせいか、昔のことがやけに生き生きと眼の前に浮び、胸に熱いものがこみあげてくる。

夫宛の手紙をテーブルに置き、そっとドアを閉めると台所へ降りていった。自分たちのディナーを作るだけでなく、いろいろと片づけたり掃除しなければならない。台所にいるあいだはずっと、バンティングとバンティングの問題について執拗に、徹底的に考えつづけた。夫をふたたび正しい道に引き戻すにはどうしたらいいのだろう、と。

ミスタ・スルースのおかげで、今や将来の見通しはそこそこ明るいものになった。一週間前は何もかもが絶望の淵にあった。破滅という穴に真っ逆さまに落ちるしかないと思われていたのだ。それが今、状況は一変した!

ベーカー通りに行って職業紹介所の新しい所長に会ったほうがいいかもしれない。あそこは最近、所有者が代わったから。バンティングは臨時の仕事でもかまわないから働きに出たほうがいい――いや、今ならほとんど常雇いみたいな給仕の仕事だってできるはず。ミセス・バンティングは男がいったん怠け出すと、更生させるのは容易でないことを知っていた。

ようやく上に戻ったとき、彼女はそれまで自分が考えていたことを恥ずかしく思った。バンティングはテーブルにテーブルクロスをきれいにかけ、椅子を二脚、引き寄せておいてくれたのだ。

「エレン?」彼はいそいそと言った。「いい知らせがあるんだ!デイジーがあした来るんだよ!むこうの家の人が猩紅熱にかかってね。|伯母さん《オールド・アーント》が、しばらく家を出ていたほうがいいだろうって言うんだ。それで誕生日はこっちで過ごすことになった。十八だよ、十九日が来たら。おれも歳を取ったなあ、まったく!」

ミセス・バンティングはお盆を置いた。「今うちにあの娘を置くわけにはいかないわ」と彼女はすぐに言った。「わたしは手一杯よ。あの下宿人のお世話はあなたが思っている以上に大変なんだから」

「何言ってるんだ!」と彼は強く言い返した。「下宿人のお世話ならおれも手伝うさ。手伝ってくれってどうして言わなかったんだい。もちろんデイジーはここに来なきゃならんよ。ほかに行き場所なんかないんだから」

バンティングは好戦的な気分だった――はしゃぎまわりたいくらい上機嫌だった。しかし妻の顔を見ると、満足感は消えてなくなった。今日のエレンはげっそりやつれて見える。具合が悪そうだ。具合が悪いだけじゃなく、恐ろしく疲れてもいるようだ。そういう顔をされると無性に腹が立った――ちょうど仲直りしはじめたところだというのに。

「それに」と彼は突然言った。「デイジーはおまえの仕事を手伝ってくれるぞ、エレン。彼女が来たらうちも少しは活気が出るさ」

ミセス・バンティングは返事をしなかった。彼女は重苦しくテーブルにむかって座ったままだった。それから気だるい感じでこう言った。「あの娘の手紙を見せて」

彼はテーブル越しに手紙を渡した。彼女はゆっくりと読んでいった。

お父さん(とそれははじまっていた)。

元気にしてる?ミセス・パドルの末っ子が猩紅熱にかかったの。|伯母さん《オールド・アーント》は、すぐにお父さんのところに行って、しばらくご厄介になりなさいですって。エレンには、ご迷惑をかけませんって言っておいてちょうだいね。特に返事がなかったら十時に出発するつもり。

お父さんを愛する娘から

「そうね。泊めてあげるしかないわね」ミセス・バンティングはゆっくりと言った。「一度くらい仕事をするのもいい経験になるでしょう」

好意的とはとても言えない言い回しだったが、バンティングはともかく許可が出たことに満足しなければならなかった。

******

いろいろなことが起きた一日はそのあと静かに過ぎていった。夕闇が迫る頃、ミスタ・スルースの女主人は彼が階段をあがっていちばん上の階に行く音を聞いた。彼女はそれが部屋を掃除する合図であることを思い出した。

下宿人はきれい好きな男だった。多くの殿方たちとちがい、彼は服を部屋じゅうに散らかしたりしなかった。それどころかすべてを几帳面なくらいに整理整頓していた。服だけではない。最初の二日間にミセス・バンティングに買い入れてもらったいろいろな品物も、タンスの引き出しのなかに注意深く納められていた。彼は最近ブーツを一足購入した。ここに来たとき履いていたのはおかしな格好の、底にゴムを張ったなめし革の靴だった。彼は最初の日に女主人にむかって、この靴は持っていかないでくれ、きれいにする必要はないから、と言ったのだった。

いったい何を考えているのかしら――それに真夜中すぎに散歩に行くなんて変わった習慣だわ。寒くて、霧が出ていて、ほかの人なら外になんか出ないでベッドのなかでぬくぬくしていたいと思うのに。でもミスタ・スルースは自分でも認めていた、自分は一風変わった人間だって。

寝室を片づけたあと、女主人は客間に入って丁寧に掃除した。この部屋は彼女が満足するほど掃除が行き届いていなかった。ミセス・バンティングは客間を一度徹底的にきれいにしたいと思っていたのだが、ミスタ・スルースは寝室にいるとき、客間でばたばたされることを好まなかった。それに起きているときは、ほとんどずっと客間に座っている。いちばん上の部屋がお気に召したようだけれど、使うのは怪しげな実験をするときだけで、日中そこに行くことは一度もない。

この日の午後、彼女は紫檀の飾り棚を物欲しそうに見つめ――このきれいな調度を軽く揺さぶりさえした。鍵のかかった古い食器棚の引き出しがときどき飛び出すことがあるように、しっかり閉めた棚の扉も勢いよく開いてくれたら彼女はどんなに喜び、どんなに気が楽になっただろう!

しかし飾り棚がその秘密をさらけ出すことはなかった。

******

同じ日の夜八時頃、ジョー・チャンドラーが少しだけおしゃべりをしようと彼らのところへやってきた。もう朝の動揺から回復していたが、興奮で神経がたかぶっていた。ミセス・バンティングは彼とバンティングの話に思わず引き込まれ静かに聞き入った。

「ええ、おかげさまですっかり元気になりました!ゆっくり休みましたからね――午後はずっと寝ていたんです。警視庁は今晩何かが起きると考えています。やつはいつも二日つづけて動いてるんです」

「なるほどそうだ」とバンティングは驚いたように叫んだ。「なるほどそうだねえ!そいつは気がつかなかった。じゃあ、ジョー、君はあの怪物が今晩も犯行に及ぶと思ってるんだね」

チャンドラーは頷いた。「ええ。それに逮捕する絶好のチャンスでもあると思いますね――」

「今晩は見張りが大勢出るんだろう?」

「もちろんです!今晩は何人が見張りにつくと思います、ミスタ・バンティング?」

バンティングは頭を振った。「分からんね」彼は見当もつかないといった調子で言った。

「臨時にかりだされる連中の数ですけど」とチャンドラーは答えをうながすように言った。

「千人かい?」とバンティングは思いきって言ってみた。

「五千人ですよ、ミスタ・バンティング」

「まさか!」バンティングはあきれて大声を出した。

ミセス・バンティングでさえ信じられなそうに「まさか!」と同じ言葉を繰り返した。

「ところが本当なんです。警視総監がおかんむりなんですよ!」チャンドラーはたたんだ新聞をコートのポケットから取り出した。「これを聞いてください。

『凶悪犯罪の犯人たちを逮捕する手がかりはまだ何も見つかっていない。警察はしぶしぶながらそう認めざるを得なかった。ロンドン警視庁警視総監に国民の非難が集中するのは当然であろう。大抗議集会開催の噂まであるのだ』

どう思います?総監もこんなの読まされちゃ、とさかに来ますよ、ちがいます?」

「だがね、警察に捕まえられんとは、妙な話じゃないか?」とバンティングは反論した。

「ちっとも妙じゃありませんよ」とチャンドラー青年は不機嫌に言った。「これを聞いてください。めずらしく新聞に本当のことが書いてある」彼はゆっくりと読みあげた。

「『ロンドンの犯罪捜査は目隠し遊びに似ている。刑事たちは手を縛られ、目隠しをされ、殺人犯を捕まえるためにそのまま大都市の貧民街に放り出されるのだ』」

「いったい何なんだ、それは」とバンティングは言った。「君の手は縛られちゃいないぞ。目隠しだってしてないじゃないか、ジョー」

「こりゃ、もののたとえってやつですよ、ミスタ・バンティング。ぼくらの捜査方法ときたら、フランスのデカみたいに――いやあ、連中の四分の一だって恵まれていないんです」

そのときはじめてミセス・バンティングが口を出した。「ジョー、さっき『犯人たち』って言った?最初に読んだ記事だけど」

「ええ、そうです」彼は勢いよく彼女のほうを振りむいた。

「それじゃ犯人は二人以上ってことなの?」彼女はやせた顔に安堵の色を浮かべた。

「警察のなかにはギャングの仕業だと考えるのもいますよ」とチャンドラーが言った。「一人の犯行とは考えられないってね」

「あなたはどう思う、ジョー」

「そうだなあ、ぼくは分からないな、ミセス・バンティング。お手あげってところです」

彼は立ちあがった。「お見送りは結構ですよ。玄関のドアはちゃんと閉めますから。それじゃ!あした、またお会いしましょう」先日の晩もそうしたように、バンティング夫婦の訪問者はドアのところで立ち止った。「ミス・デイジーはお変わりないですか?」彼は何気ないふうを装って訊いた。

「ああ、あした来るよ」と父親が言った。「むこうの家で猩紅熱が出たんだ。それで、|伯母さん《オールド・アーント》は娘を避難させるつもりなのさ」

夫婦はその晩早々に寝床に入ったのだが、ミセス・バンティングは眠れそうになかった。目が冴えたまま、近くの古い教会の鐘楼が一時間おき、三十分おき、十五分おきに鳴らす鐘の音を聞いていた。

そしてちょうどうとうとしかけたとき――一時頃だったにちがいない――なかば無意識のうちに期待していた音を耳にした。それは下宿人が彼女の部屋の真ん前の階段をこっそりと降りる足音だった。

彼は廊下を忍び足で通り、静かに、静かに外へ出た。

ミセス・バンティングは目を開けていようとしたのだが、彼が戻ってくる音を聞くことはなかった。そのあとすぐにぐっすり眠ってしまったのだ。

奇妙なことに、次の日の朝、二人のうちで最初に起きたのは彼女のほうだった。さらに奇妙なことに、ベッドを跳ね起き、廊下に飛び出し、郵便受けから押しこまれたばかりの新聞を手に取ったのはバンティングではなく、彼女だったのだ。

しかし新聞を手にとってもミセス・バンティングはすぐ寝室に戻らなかった。そのかわりに廊下のガス灯に火をつけ、壁により掛かって自分を支えると――寒気と疲労のために身体が震えていたのだ――新聞を開いた。

彼女の探していた見出しがあった。

「復讐者の殺人」

しかしそのあとにつづく言葉を読んで彼女は胸をなで下ろした。

「ロンドンのみならず文明世界をことごとく震撼・動顛させ、おそらくは女嫌いの狂信的禁酒主義者の仕業と思われる前代未聞の連続殺人事件は、本紙が印刷所に回される時間になっても、特に新たな進展を見せていない。昨日の早朝、最後の卑劣な殺人が行われてから、犯人あるいは犯人達につながる信頼すべき手がかりは一切見つかっていない。もっとも昨日のうちに数名の人間が逮捕されているが、どの人にも十分なアリバイのあることが確認された」

その少し下にはこう書かれていた。

「動揺はますます広がっている。ロンドンを訪れた旅行者でさえ、何か異様な雰囲気があたりを覆っていることに気がつくと言っても過言ではないだろう。昨晩の殺人現場は――」

「昨晩ですって!」ミセス・バンティングはぎくりとしながら思った。だが、この文脈だと「昨晩」というのは一昨日の晩を意味することに気づいた。

彼女は記事を読みつづけた。

「昨晩の殺人現場は夜が更けても相変わらず何百という野次馬に阻まれまったく近づくことができない。だが事件の痕跡がもう何も残っていないことは勿論である」

ゆっくりと注意深くミセス・バンティングは新聞を元通りにたたみ直し、屈んで玄関マットの上に、見つけたときと同じように、置いた。ガスを消し、ベッドのなかにもぐり込み、まだ寝ている夫のそばに横たわった。

「どうしたんだ」バンティングがうめき、落ち着かなげに身じろぎした。「何かあったのか、エレン」

彼女はささやき返した。不思議な喜びにわくわくしながら。「いいえ、何でもないわ、バンティング。何でもないのよ!もう一度寝なさいな、あなた」

彼らはどちらも幸せな、ほがらかな気分で、一時間後に起きた。バンティングは娘が来ると思うと胸が躍ったし、デイジーのまま母でさえ若い娘が家の仕事をいくらかでも手伝ってくれるというのは悪くないと考えた。

十時頃、バンティングは買い物をしに出かけた。彼はデイジーのディナー用においしそうな豚肉とミンス・パイを三つ買ってきた。アップルソース用のリンゴも忘れずに買ってきたのだった。

第七章

ちょうど時計が十二時を打っているとき、四輪馬車が門の前に停まった。

デイジーを乗せてきたのだ――頬を染め、興奮し、眼元が笑っているデイジーを。その姿を見ればどんな父親も思わず相好を崩しただろう。

「|伯母さん《オールド・アーント》がね、天気が悪かったら馬車で行きなさいって言ったの」彼女は嬉しそうにはしゃいだ。

馬車代をめぐってちょっとしたやりとりが繰り広げられた。誰でも知っているように、キングズ・クロスからメリルボーン通りまではたったの二マイルしかない。しかし御者は大声で一シリング六ペンスを要求したのである。彼は、若い娘を無事に連れてきてやったんだ、と脅すように言うのだった。

御者とバンティングが押し問答をしているあいだ、デイジーは二人を残して板石敷きの小径を通り、まま母が待っている玄関へむかった。

二人は形だけのキスを交わした。特にミセス・バンティングのキスは軽く触れただけだった。そのとき静かな冷たい空気を破って突然大きな声が響き渡り、人々をぎくりとさせた。長く尾をひく叫び声は高く低く、はるかエッジウエア通りの往来のざわめきのむこうから聞こえてきた。

「何だ、ありゃ」バンティングが不思議そうに言った。「いったい何があったんだ」

御者は声をひそめた。「キングズ・クロスで恐ろしい事件があったって叫んでるんだよ。今度は二人まとめてやりやがった!だから料金をはずんでくれって言ってんだ。こんな話、お嬢ちゃんの前じゃできなかったけどよ、でも、かれこれこの五六時間のあいだにロンドンじゅうから人が集まってきてるんだ。立派な格好の紳士もいたぜ。もっとも、見るものなんてもう何もないんだけどな」

「何だと。昨日の晩、また女が殺されたのか」

バンティングはぞくぞくするほど興奮を感じた。こんな凶悪な犯罪を防げないなんて、何のために五千人の警官を配置したんだ?

御者は驚いて彼を見つめた。「二人だぜ――数ヤードと離れてないところでな。胆の――胆のすわった野郎だ――けど、殺された女は酔ってたんだ。酒に恨みがあるんじゃねえか!」

「警察は犯人を捕まえたのかい」バンティングは一応訊いてみた。

「まさか!警察に捕まえられるかよ!何時間も前にやられたんだろう――石みたいに冷たくなってたから。今は使われてない抜け道の両端でやられたんだ。だから発見が遅れたのさ」

しわがれた叫び声がだんだん近づいてきた。二人の新聞売り子が互いに負けじと怒鳴りあっている。

「キングズ・クロスで恐るべき犯行!」彼らは勝ち誇ったように叫んだ。「またもや復讐者の仕業!」

バンティングは娘の大きなわら色の旅行鞄を持ったまま道路に走り出て、無頓着にも半ペニー新聞に一ペニーを支払ったのだった。

彼はひどく興奮し落ち着いていられなかった。ジョー・チャンドラーの知り合いというだけで、なんだか自分までこの殺人事件に個人的関わりを持っているように思えたのである。彼は昨日の朝みたいにチャンドラーがさっそく家にやってきて、事件の一部始終を話してくれたらいいのにと思った。あのときは残念なことにバンティングは外出していたのだけれど。

小さな玄関広間に戻ったとき、デイジーの甲高くて、弾むような早口が聞こえた。彼女は猩紅熱のことや、|伯母さん《オールド・アーント》の隣人がはじめのうち、猩紅熱ではなくてただの蕁麻疹ではないかと思ったことなど、長々とまま母におしゃべりしていた。

しかしバンティングが居間のドアを押し開けたとき、娘の声ははっと驚くような調子に変わって、こう叫んだ。「あら、エレン、どうしたの?顔色が悪いわ!」そして妻の押し殺したような返事。「窓を開けて――お願い」

「キングズ・クロスの近くで恐るべき犯行!ついに手がかりが見つかる!」新聞売りが高らかに叫んだ。

そのときミセス・バンティングは自制心を失ったように笑い出した。笑って、笑って、笑って、まるで愉快でたまらないとでもいうように身体を前後に揺らすのだった。

「お父さん、いったいどうしちゃったの?」

デイジーはあっけにとられているようだった。

「ヒステリーだな――きっとそうだ」と彼は短く言った。「水差しを持ってくるよ。ちょっと待っていろ」

バンティングはひどくいらだった。とんでもないやつだな、まったく。こうも簡単に取り乱すとは。

下宿人の呼び鈴が急に静かな家のなかに鳴り渡った。その音のせいなのか、水差しという脅しのせいなのか、いずれにせよミセス・バンティングに魔法のような効果があらわれた。全身の震えはまだ止まらなかったが、冷静を取りもどし、立ちあがったのだ。

「上に行ってくるわ」彼女は多少苦しそうに息をしながら言った。「あなたは台所に行きなさい、デイジー。オーブンで豚肉を焼いているの。ソースを作るからリンゴの皮をむいておいて」

階段をあがるとき、ミセス・バンティングは両足が綿でできているような気がした。震える手で手すりをつかみ、身体を支える。しかし必死になって身体に力をこめていくと、じきに足元がしっかりしてきた。階段をあがったところでしばらく立ち止まり、客間のドアをノックした。

ミスタ・スルースの声が寝室から聞こえてきた。「具合が悪いんです」と彼は気むずかしい声で呼びかけた。「風邪をひいたみたいです。お茶を一杯持ってきていただけませんか。ドアの前に置いておいてください、ミセス・バンティング」

「かしこまりました、旦那様」

ミセス・バンティングは振り返って下に降りた。依然として調子がおかしくめまいがしたので、台所に行くかわりに居間のガスコンロで下宿人のお茶を淹れることにした。

お昼のディナーの最中に夫婦はデイジーの寝場所をどこにしようかとしばらく話し合った。そのときは最上階の裏部屋にベッドの用意をしようと決まったのだが、ミセス・バンティングはこれを変更したほうがよいと考えた。「デイジーはわたしといっしょに寝るから、バンティング、あなたは上で寝なさい」

バンティングはいささか驚き、それが表情にも出たのだけれど、おとなしく提案に従った。たぶんエレンが正しいのだろう。上に行くのは寂しいだろうし、結局のところ下宿人がどんな人間なのかあまり分かってはいないのだ。もちろん立派な紳士のように見えるのだけれども。

デイジーは気立てのよい娘だった。彼女はロンドンが好きで、まま母の手伝いがしたかった。「洗い物はわたしがする。わざわざ下に行かなくてもよくってよ」彼女はほがらかに言った。

バンティングは部屋のなかを行ったり来たりしはじめた。妻はこっそりそれを見つめながら、夫は何を考えているのだろうといぶかしんでいた。

「新聞を買わなかったの?」とうとう彼女が言った。

「もちろん買ったよ」彼は急いで答えた。「でも片づけたんだ。おまえが見たくないだろうと思って。神経質になっているようだから」

彼女はもう一度すばやく、こっそりと視線を投げかけた。しかし彼はいつもと変わらぬ様子で――明らかに彼の言葉にはそれ以上の意味もそれ以下の意味もないようだった。

「通りで何か叫んでいたんじゃないの――わたしがおかしくなる前に」

今度はバンティングが妻をすばやく盗み見る番だった。錯乱というかヒステリーというか――呼び名はどうでもいいが――それに突然襲われたのは外から聞こえた叫び声のせいだと彼は確信していた。ロンドンで復讐者の殺人に神経質になっている女は彼女だけではない。朝刊によると、相当な数の女性が一人で外出することを恐れているという。先ほど彼女が取り乱したのは外の叫び声や興奮と無関係なはずがない。

「何て叫んでいたのかおぼえてないのかい?」彼はゆっくりと訊いた。

ミセス・バンティングはテーブル越しに夫を見た。彼女は思いきってやろうとすれば嘘もつけるし、あのおぞましい叫び声の意味を知らないふりもできただろう。しかしいざとなると、やっぱり嘘はつけなかった。

「おぼえているわ」彼女は力なく答えた。「一言二言聞こえたの。また殺人があったんでしょう?」

「さらに二人殺されたよ」夫は重々しく言った。

「二人?余計にひどいじゃない!」彼女の顔は青ざめ――緑がかった土色になり――バンティングは彼女がまたもやヒステリーを起こすのではないかと思った。

「エレン?」彼は警告するように言った。「エレン、気をしっかり持て!殺人のことでどうしておまえがうろたえるのか知らんが、とにかくあんなものは忘れろ!別にわしらが話題にするようなことじゃない――いや、まあ、しょっちゅう話すことじゃ――」

「わたしは話したいのよ」とミセス・バンティングがヒステリックに叫んだ。

夫と妻はテーブルを挟んで立っていた。夫は煖炉に背をむけ、妻はドアに背をむけていた。

バンティングは妻を見つめながらひどく混乱し動揺していた。彼女は本当に具合が悪そうだ。やせ細った身体がさらに縮こまったように見える。彼はエレンがはじめて年相応の見かけになってきたと悲しく思った。その細い手――荒仕事をしたことがない、きれいな、柔らかい、白い手――は、痙攣するような動きとともにテーブルの端をつかんだ。

バンティングは妻の顔色を見て不安になった。「大変なことになったぞ」と彼は思った。「また気分が悪くならなきゃいいんだが。でないと大騒ぎになる」

「話してちょうだい」彼女は低い声で要求した。「ほら、聞かせてくれるのを待ってるのよ。さ、早く、バンティング!」

「話すことなんて、たいしてないんだ」彼はいやいやそう言った。「だいたい新聞にはちょっとしか出てなかったし。だがデイジーを乗せてきた御者が――」

「何て言ったの?」

「今、おれが言ったようなことを教えてくれたんだ。今度は二人やられた。どっちもしたたか酔っていたそうだよ、かわいそうに」

「まえにも人が殺されたところで?」彼女は恐れるように夫を見た。

「いや」彼はぎこちなく言った。「いや、ちがうよ、エレン。あそこからずっと西のほうさ――実はここからそう遠くないところだ。キングズ・クロスの近く――それで御者は事件のことを知ったんだ。使われていない抜け道でやられたらしい」そのとき妻の目つきに異変を感知した彼は急いでこう付け足した。「さあ、今はこれでやめておこう!もうすぐジョー・チャンドラーから詳しい話が聞ける。今日きっと訪ねてくるよ」

「じゃ、五千人の警官は何の役にも立たなかったのね」とミセス・バンティングはゆっくりと言った。

彼女はテーブルを握っていた手をゆるめ、さっきよりも真っ直ぐに立っていた。

「ぜんぜんさ」バンティングは短く言った。「狡猾なやつだよ、まったく。しかし待てよ――」彼は振り返って椅子の上に片づけておいた新聞を取りあげた。「そうそう、手がかりが見つかったって言っていたな」

「手がかりですって、バンティング?」ミセス・バンティングは低く弱々しい消え入るような声で言った。そしてふたたびやや前のめりになってテーブルの端をつかんだ。

しかし夫はもう彼女を見ていなかった。彼は新聞に目を近づけ、いたって満足そうな声で記事を読みあげた。

「『喜ばしいことに警察はついに犯人逮捕につながる手がかりをつかんだ――』」そこまで読んでバンティングは新聞を落とし、慌ててテーブルを回った。

妻が奇妙な、ため息のようなうめき声をあげ、テーブルクロスをずるずると引きずりながら床にくずおれたのである。彼女は失神して横たわっているように見えた。バンティングは震えあがって狂ったようにドアを開け叫んだ。「デイジー!デイジー!来てくれ。エレンがまたおかしくなった」

デイジーは飛びこんでくると、あわてふためく優しい父親が思わず感嘆するような沈着と冷静を示した。

「スポンジを濡らして持ってきて、お父さん――急いで!」と彼女は叫んだ。「スポンジと――ブランデーがあれば、それも少し。わたしがみているから!」彼が小さな薬瓶を持ってくると、デイジーは不思議そうに「どこが悪いのかしら」と言った。「わたしが家のなかに入ってきたときは何ともなかったのよ。わたしの話に面白そうに聞き入っていたのに、それが急に――お父さんも発作を起こすところは見ていたでしょう?エレンらしくないわ。そう思わない?」

「まったくだ」と彼はささやいた。「まったくだよ。だがね、わたしらは生活がえらく苦しかったからね――おまえには言えなかったが、苦労が絶えなかったんだよ。その影響が今出てきたんだな――きっとそうだ。彼女は文句ひとつ言わなかった。エレンは気丈な性質だから。だけど今になってあの苦労がこたえてきたんだよ――今になってね!」

そのときミセス・バンティングは上体を起こしながら少しずつ目を開けた。彼女は本能的に頭をさわって髪の毛が乱れていないか確かめた。

彼女は完全に気を失ったわけではなかった。もっとも完全に気を失ったほうがよかっただろうけれども。彼女はひどい虚脱感に襲われ、もう立っていられない――いや、倒れなければならないような気がしただけなのだ。バンティングの言葉は哀れな女の滅多に触れられない琴線に触れた。目を開けると涙が一杯に溜まっていた。ひもじい思いをしながらじっと待ち続けたあの時期に、彼女がどれだけ堪え忍んでいたかをまさか夫が知っているとは思っていなかったのだ。

しかし彼女は感情をあらわすことを病的なほど嫌った。彼女にとってそれは「馬鹿げたこと」でしかなく、それゆえ次のようなことしか言わなかった。「大騒ぎしないでちょうだい!ちょっと具合が悪くなっただけ。気を失ってなんかいませんよ、デイジー」

彼女はバンティングが急いで注いだ少量のブランデーのグラスを邪険に押しのけた。「そんなもの、さわりたくもないわ――死んだってさわるものですか!」と彼女は声を荒げた。

力のない手でテーブルにつかまり、彼女は立ちあがった。「もう一度台所へ行ってちょうだい、デイジー」しかしその声はむせぶように震えていた。

「きちんと食事をしてなかったからだよ、エレン――だからこうなるんだ」とバンティングは突然言った。「そういや、この二日ほどろくに食べていないじゃないか。いつも言っていただろう――昔は何度も言ったはずだよ――女は空気を食って生きるわけにゃいかないって。でもおまえはおれの言うことなんて一言も聞きゃしないものなあ!」

デイジーは立ったまま二人を見比べていた。明るい、愛らしい顔に影がさした。「そんなに生活が苦しかったなんて知らなかったわ、お父さん」彼女は胸がいっぱいだった。「どうして教えてくれなかったの。わたしから|伯母さん《オールド・アーント》にお願いしたら助けてもらえたかもしれないのに」

「そんなことはしてほしくありません」まま母はいらだたしげに言った。「でも、たしかに――そうね、まだあのときの苦労が身体から抜けきっていないのね。忘れることなんかできそうもないような気がする。あの、じっと待つだけの日々――そ、それから――」彼女は自分を抑えた。さもないと次の瞬間には「飢えに苦しんだ日々」という言葉が口をついて出ていたかもしれない。

「しかし、もう大丈夫さ」とバンティングは力をこめて言った。「ミスタ・スルースのおかげでな」

「そうね」妻は低い、奇妙な声でその言葉を繰り返した。「そうね。もう大丈夫ね。あなたの言う通りよ、バンティング。何もかもミスタ・スルースのおかげだわ」

彼女は歩いて椅子に腰かけ、「まだちょっとだけふらふらする」とつぶやいた。

デイジーは彼女を見ながら父親のほうを振りむき、小声で話しかけた。しかしそれほど低い声ではなかったためにミセス・バンティングに聞かれてしまったけれども。「お父さん、お医者様に診てもらったほうがいいんじゃない?元気を回復するお薬とか、くれるかもしれないわ」

「医者なんか結構よ!」ミセス・バンティングは急に語気を強めた。「医者なら最後のお屋敷でたくさん見たわ。奥様は十ケ月で三十八人の医者に診てもらったのよ。みんなに診てもらうんだって、奥様はかたく決心していらっしゃった。でも奥様を助けることができたかしら。いいえ。やっぱり奥様はお亡くなりになったわ。もしかしたら死期を早めたかもしれない」

「あの方は変わり者だったよ。おまえが最後にお仕えした奥様は」バンティングは非難するように話しはじめた

エレンは奥様が息を引き取るまでお屋敷を離れたくないと言い張った。それがなければ彼らは数ケ月早く結婚できたかもしれない。バンティングはそのことをいつも不満に思っていた。

妻は弱々しくほほえんだ。「そのことで言い争うのはやめましょう」彼女はいつもより優しい、柔和な声でさらにこう言った。「デイジー?あなたがもう台所に行かないのなら、わたしが行かないとならないわね」彼女がまま娘のほうを振りむくと、娘は飛ぶように部屋を出て行った。

「あの娘は日に日にきれいになっていくな」バンティングは慈しむように言った。

「美貌も皮一重ってことを人は忘れがちなものよ」と妻は言った。彼女はだんだん気分がよくなってきた。「でも、バンティング、たしかにデイジーはいい娘だわ。すすんでお手伝いもするようになったし」

「そうだ、下宿人のディナーを忘れちゃならんぞ」バンティングはそわそわしながら言った。「今日は魚料理だったね。デイジーに作ってもらって、おれが持っていこうか。まだ完全によくなっていないだろう、エレン?」

「もう平気。わたしがミスタ・スルースの午餐《ランチョン》を持っていく」と彼女はすばやく言った。夫が下宿人の食事をディナーなどというのを聞くといらいらした。彼らはお昼にディナーを食べるが、ミスタ・スルースは午餐《ランチョン》を召しあがるのだ。どんなに奇人であっても、ミセス・バンティングは下宿人が紳士であることを忘れなかった。

「あの方はわたしにお世話されるのが好きなんだもの。そうでしょう?わたしなら大丈夫。心配しないで」彼女はしばらく間を置いてからそう付け加えた。

第八章

午餐を出すのが普段よりもだいぶ遅れたためだろう、二階でおいしいカレイの蒸し焼きを食べたミスタ・スルースの食欲は、一階でおいしい豚の焼き肉を食べた女主人のそれをはるかに上回った。

「お加減はよくおなりでしょうか、旦那様」ミセス・バンティングはお盆を持っていったとき恐る恐る聞いてみたのだった。

彼は沈んだ、ぐちっぽい口調で答えた。「いえ、今日は気分があまりよくないですね、ミセス・バンティング。疲れています――とても疲れています。それにベッドに寝ていると、いろいろな雑音が聞こえるみたいです――やたらと叫んだり怒鳴ったりするのが。メリルボーン通りがうるさい大通りみたいにならなければいいんですけどね、ミセス・バンティング」

「決してそんなことは、旦那様。いつもはとても静かなのですけど」

彼女はしばらく黙っていた――あの聞き慣れない叫び声や騒音が告げる事件について話をしたかったが、どうしてもできなかった。「風邪をお召しになったのでしょう、旦那様」と彼女は突然言った。「わたくしだったら今日は外に出かけませんわ。家のなかで静かにしています。素性のよくない人も大勢うろついてますし――」どうやら彼女の単調な声にひそむ戒め、苦痛に満ちた懇願が下宿人にも伝わったのだろう、ミスタ・スルースは顔をあげ、明るい灰色の目に不安そうな、警戒するような表情を浮かべた。

「それは残念なことですね、ミセス・バンティング。しかしご忠告には従いますよ。家で静かにしています。聖書の研究さえできれば、退屈しませんから」

「目がお疲れになりませんのですか、旦那様」とミセス・バンティングは不思議そうに訊いた。どういうものか、彼女はほっとした気分になりはじめていた。ここでミスタ・スルースと話をしているほうが、下で彼のことを案じているより、気が楽になるのだった。これまで何度か彼女の魂や肉体をも満たした恐怖が消えていくようだった。彼女といっしょにいるときのミスタ・スルースは優しくて、物わかりがよくて、とても――とても感じがいいのだ。

優しいけれど、独りぼっちでお気の毒なミスタ・スルース!こんな紳士ははえ一匹殺せやしない。まして人間なんかとても。変わり者――その点は認めなければならない。しかしミセス・バンティングは有能な女中としての長い経験のなかで、変わり者を大勢見てきた。それも男よりも女に多かった。

彼女は普段はまれに見るほど思慮深い、良識的な女性だった。だから、昔、お仕えしたお屋敷のいくつかで、人間というものは――生れも育ちもいい、物腰の柔らかい人でさえ――ときに奇矯な振る舞いに及ぶことがある、という実例を見せつけられても、さして深く考えこむことはなかった。もしもそのことが、今、病的なほど、あるいはヒステリックになるほど、気にかかるようになったのだとしたら、これはもう不幸としかいいようがない。

そこで彼女は打って変わって陽気な声でこう言った。ミスタ・スルースがはじめて彼女の家に来たころのような声だった。「それでは、旦那様、半時間後にお片付けにまたまいります。差し出がましいようですが、今日はお部屋でゆっくりお休みになってください。外はじめじめしてうっとうしゅうございますわ、本当に。何か御入用のものがございましたら、わたくしかバンティングが買ってまいりますので」

******

玄関のベルが鳴ったのはたしか四時だった。

三人はそろっておしゃべりの最中だった。デイジーは洗い物をすませ――彼女はまま母のお手伝いとして大活躍していた――そのときは|伯母さん《オールド・アーント》の俗物ぶりをおもしろおかしく年上の二人に話していた。

「いったい誰だろうね」とバンティングは顔をあげて言った。「ジョー・チャンドラーにしちゃ早すぎる」

「わたしが行ってくる」と妻が椅子から飛びあがりながら言った。「わたしが行って追っ払ってくるわ」

短い廊下を歩きながら彼女は独り言を言った。「手がかり?どんな手がかりかしら」

玄関のドアを開けたとき、彼女は思わず安堵のため息をもらした。「まあ、ジョーじゃない。あなただとは思わなかった!よく来たわね。入りなさい」

チャンドラーはハンサムで魅力的な顔にややおどおどとした表情を浮かべて入ってきた。

「もしかしたらミスタ・バンティングがお聞きになりたいかもしれないと思って……」と彼は陽気な大声で話しはじめたのだが、ミセス・バンティングが急いでそれを制した。二階の下宿人にチャンドラー青年の話を聞かれたくなかったのである。

「そんな大声出さないで」彼女は少しきびしい声を出した。「今日は下宿人の調子があまりよくないの。風邪をひいて」と彼女は急いで言い足した。「二三日外出してないのよ」

彼女は自分の無謀さ、そして――でたらめに驚いた。その瞬間、彼女の発した数語は、エレン・バンティングの人生に新時代を画したのだ。彼女がぬけぬけと、意図的な嘘をついたのははじめてだった。彼女は真実を隠すことと、嘘を言うことは、天と地ほどもちがうと考える、大勢の女性の一人だった。

しかしチャンドラーは彼女の言葉に何の注意も払わなかった。「ミス・デイジーは到着しましたか」彼は声を小さくして尋ねた。

彼女は頷いた。彼は父と娘が座っている部屋に入っていった。

「さあ」バンティングは立ちあがって言った。「さあ、ジョー。例の謎の手がかりについて話してくれ。まだ犯人逮捕とまではいかないだろうね」

「まだしばらくはそんないいニュースはありませんよ。捕まったら」とジョーは悲しそうに言った。「ぼくはここにはいないでしょうね、ミスタ・バンティング。でも警視庁はようやく人相書きを配布することになりました。それに――実は犯人の兇器を見つけたんです!」

「何だと!」バンティングは目の色を変えて叫んだ。「嘘じゃないだろうね!いったいどんなものなんだい?やつのものだってことはまちがいないのか」

「まあ、確実ってわけじゃないけど、でも恐らくそうでしょう」

ミセス・バンティングはこっそり部屋のなかに入ってくると、ドアを閉めた。しかしドアを背にしてじっと立ったまま、眼の前のひとかたまりの人々を見ていた。みんな彼女のことを忘れているようだ――彼女はそのことを神に感謝した。話と興奮に加わることなくすべてを聞くことができたのだから。

「これを聞いてくださいよ!」とジョー・チャンドラーは意気揚々と大声で言った。「これはまだ配られていないんですが――その、一般人にはね――でもぼくらには今朝の八時に全員に配られました。なかなか仕事が迅速でしょう?」彼は読みあげた。

手配書

年齢二十八歳くらいの男、やせ形で身長は約一七四センチ。色黒。顎髭、頬髭はなし。黒いあや織りのコート、ハード・フェルト・ハット、白のハイカラー、ネクタイを着用。新聞紙の包みを持ち、人品骨柄いやしからず。

下宿人 · 第 2 / 9 段