ていた。白いモスリンのカーテンが窓から外にはみ出し、旗のようになびいて
いた。オーブリーは時計を見て叫んだ。急に今までの信頼を裏切ったような気
がした。道のむこうで起きていたこと、あれはなんだったのだろう?
彼は本屋を望み見た。ギッシング通りは昼前のさわやかな静けさに包まれ明
るく慎みぶかく見えた。ミフリンの家にはだれもいないようだ。最後に見たと
きと変わらなかったが、ただ正面の大窓の内側にいかつい緑の日よけがおろさ
れ、本でいっぱいのアルコーブをのぞくことができなかった。
オーブリーは部屋着のかわりに外套を着て、シャワーを探しに部屋の外に出
た。おなじ階にある浴室には鍵がかかっていて、なかからたっぷり水を撥ね散
らかす音が聞こえた。「いまいましいミセス・J・F・スミスめ」と彼はいっ
た。裸足とパジャマのすねを恥ずかしく思いながら下の階に行こうとしたとこ
ろ、手すり越しにミセス・シラーと宝探し《トレジャー》犬がなにやら家事に
いそしんでいるのが見えた。パグは彼のパジャマの足を見つけてきゃんきゃん
と吠えはじめた。オーブリーは冷たいシャワーを邪魔されていらいらと後じ
さった。彼は手早く髭を剃り服を着た。
下におりる途中でミセス・シラーと出会った。非難がましい目つきだなと彼
は思った。
「昨日の晩、男の方が面会にいらっしゃったんですよ」と彼女はいった。
「お会いできなくて残念だとおっしゃっていました」
「帰るのが遅かったものですから」とオーブリーはいった。「名前をいいま
したか?」
「いいえ、また来るとだけ。階段でひっくり返って下宿のものがみんな起き
ちゃいましたの」彼女は苦々しくつけ加えた。
彼は本屋から見られないように急いで下宿を離れた。なにごともなかったこ
とを確かめたくて仕方がなかったが、通りのまむかいに下宿していることはミ
フリン夫妻に知られたくなかった。道路を斜めに横切りながら、昨夜食事をし
たミルウオーキー・ランチが開いているのに気がついた。なかに入ってグレー
プフルーツ、ハムエッグ、コーヒー、そしてドーナッツで朝食を済ませた。彼
はパイプに火をつけ、さてつぎはどうしようと考えながら窓際に座っていた。
「まったく困ったことになった」と彼は思った。「どう出たところでうまくい
かない。なにもしなければ、あの娘の身になにかが起きる。首を突っ込むのが
早すぎると、彼女のご機嫌を損ねてしまう。ワイントラウブとあのシェフがな
にを企んでいるのか、それさえわかればいいんだが」
軽食堂はがら空きに等しかった。彼のそばで店主と店員が椅子に座って話を
していた。オーブリーは突然彼らの話にぎくりとした。
「なあ、あの本屋のおやじ、一山当てたにちがいないぞ」
「だれです、ミフリンですか?」
「そうさ。今朝、店の前に止まっていた車を見たか?」
「いいえ」
「すげえ大型車だぜ」
「きっと借りたんじゃないですか? どこに行くつもりだったのかな?」
「さあね。とにかくでっかい車が入り口の前に止まっていたぜ」
「ほら、あいつが雇ったべっぴんさんを見ました?」
「もちろん。今頃なにをやっているのやら。彼女とドライブとしけ込んでる
のかな」
「でしょうね。ぼくだって行きたいですよ――」
オーブリーはなにも聞かなかったかのように立ち上がり食堂を出た。あの娘
は彼が寝過ごしているあいだに誘拐されたのだろうか? 武者修行の旅がとん
だ失敗に終わったことを思うと彼は恥ずかしくて顔が赤くなった。最初に考え
たことはワイントラウブの髭をつかんで、本屋との関係を白状させることだっ
た。つぎに考えたのはミスタ・チャップマンに電話をして今までの経過を報告
し注意をうながすことだった。しかし実際になにが起きたのかを確かめるまで
はどちらの行動もむだに終わりそうだ。彼は本丸の本屋に乗り込み、得体の知
れない秘密をあばいてやろうと心に決めた。
彼は裏の路地に急いでまわり、住居として使っている部屋を見まわした。二
階の窓が二つ、わずかにあいていたが、人がいる気配はない。裏門はあいかわ
らず鍵がかかっていなかった。彼は大胆に裏庭へ入っていった。
柵に囲まれた狭い庭は、冬の弱々しい日差しを浴びて落ち着いて見えた。一
方の側には低木と多年草が生い茂っていて、その根本は藁に覆われていた。芝
地は平坦でなく、草は黄褐色にしおれ、霜を浴びて葉に斑が入っていた。台所
のドア――登り段をあがったところにあった――の下には、葡萄をはわせた小
さな格子と丸太のベンチがあった。ロジャーが夏の夕方パイプをふかす場所で
ある。この格子の後ろに地下室へのドアがあった。オーブリーが取っ手に手を
かけると、鍵がかかっていた。
些細なことにこだわるような気分ではなかった。本屋の謎をあばこうという
彼の決意は固かった。ドアの右、煉瓦の舗石の位置に低い窓があった。埃まみ
れの窓ガラスを通してみると、内側には留め金が一つしかないようだ。彼は窓
ガラスをかかとで蹴りつけた。ガラスが地下室の床に散らばる音とともに、低
いうなり声が聞こえた。留め金をはずし、ガラスの割れた窓を押し上げ、なか
をのぞいた。ボックがとまどったように首をかしげ、低いうなり声をあげてい
た。無意識に身体のなかからでてくるようなうなり声である。
オーブリーはやれやれと思ったが、しかしにこやかにこういった。「やあ、
ボック! いい子だ! ようし、おとなしくしてろよ!」驚いたことにボック
は彼を友達と認めて尻尾をかすかに振った。けれどもうなり声はつづいている。
「形にこだわるばかりが能じゃないってことを、犬もわかってほしいな」と
オーブリーは思った。「正面の入り口から入れば、ボックはなにもいわないん
だ。こんなところから入ろうとするからとまどっているだけで。とにかく、い
ちかばちかやるしかない」
彼は三角形の鋭いガラスの破片がのこる窓を慎重に持ちあげて足からなかに
入ろうとした。ボックが突き出された足にどれほど食いつきたいと思ったかは
わからない。しかし彼は老犬であり、永年受けてきた人間のやさしさが戦闘本
能を鈍らせていた。さらに彼はオーブリーをちゃんと覚えていて、そのズボン
のにおいになんら敵意を感じなかった。そういうわけで彼は小さく抗議のうな
り声をあげるだけで我慢したのである。彼はアイリッシュ・テリヤだが、シン
フェイン党とは無縁だった。
オーブリーは床に飛び降りると犬を撫でて、自分の幸運に感謝した。彼は地
下室を見まわした。怪物でも潜んでやしないかと思っているような目つきだっ
たが、ビール瓶の箱以上にぞっとするものはなにもなかった。彼は静かに地下
室の階段をのぼりはじめた。ボックは当然興味津々といった様子で後ろからつ
いて行った。
「まいったな」オーブリーは思った。「家のなかをどこまでもついてこられ
ちゃたまらない。なにかに触っただけで、すねの肉にかじりつかれるかもしれ
ないし」
彼が裏庭へ通じるドアをあけると、ボックは屋外を好むアイリッシュ・テリ
ヤの本能にしたがって外に走り出た。オーブリーは急いでまたドアを閉めた。
ボックの顔が割れた窓のところにあらわれ、憤慨と驚きの入りまじった奇妙な
表情を浮かべてのぞき込んだので、オーブリーは声をあげて笑いそうになった。
「よしよし。どうもしやしないよ。ちょいと見てまわるだけだから」
階段をのぼるとそこは台所だった。あたりはしんと静まりかえっていた。目
覚まし時計がつまずいて転びそうになるくらい大急ぎで時を刻んでいた。ゼラ
ニウムの鉢が窓辺に飾ってある。調理用レンジは蓋が取られ、注意深く火が絶
えないようにしてあり、おだやかな暖かさをまわりにまき散らしていた。暗い
小さな食器室を通ると食事室だった。ここも異常はないようだ。白いヒースの
鉢がテーブルの上にあり、コーンパイプが食器棚に置いてあった。「こんなに
犯罪っ気のない誘拐犯の部屋など聞いたことがない。映画監督がこれよりまし
なセットを組むことができなかったら屈辱ものだな」
その瞬間、頭の上から足音が聞こえた。不思議なくらいやわらかな、かすか
な足音だった。とたんに彼は警戒して身がまえた。最悪の事態になりそうだっ
た。
二階の窓が勢いよくあいた。「ボック、裏庭でなにをしているの?」声が聞
こえてきた――ひどく澄んだ、命令するような声で、なんとはなしに豪華なガ
ラスのタンブラーを叩いたときの、か細い響きを思い出させた。ティタニア
だった。
彼は驚いて立ちつくした。するとドアがあいて階段をおりてくる音が聞こえ
た。どうしよう、こんなところを見つかったらおしまいだ。彼女はなんと思う
だろう? 彼は食器室に飛ぶようにもどり、身体をちぢめて隅に隠れた。足音
が階段の下に達したのがわかった。中央のホールからは直接台所に通じるドア
がある。だから彼女が食器室を通る必要はない、と彼は思った。彼女が台所に
入る音が聞こえた。
不安のあまり彼は洗面台の下にしゃがみ込んだのだが、曲げた足が壁により
かかっていた大きなブリキのお盆に触れてしまった。それはすさまじい音を立
てて床にずり落ちた。
「ボック!」ティタニアが鋭くいった。「なにをしているの?」
オーブリーは惨めな気持ちで犬の吠え声をまねるべきだろうかと思ったが、
すでに遅かった。食器室のドアがあいてティタニアがなかをのぞいた。
二人はどちらも恐怖の目つきで数秒間相手を見つめた。面目を失って隅っこ
の棚の下にしゃがんでいても、オーブリーの麻痺した感覚は、これほど美しい
女性の姿は見たことがない、と彼に語りかけていた。ティタニアは青い化粧着
と、訳のわからぬ奇妙なひらひらしたレースのボンネットをかぶっていた。彼
女の輝く黒髪は太い二本のおさげに編まれて両肩に垂れていた。その青い目は
驚きと警戒の色をありありと浮かべていたが、それはすぐさま怒りに変わった。
「ミスタ・ギルバート!」彼女は叫んだ。彼は一瞬、彼女が笑い出すのでは
ないかと思った。その時、新たな表情が彼女の顔に浮かんだ。彼女はなにもい
わず背をむけると走り去った。二階に駆けあがる音が聞こえた。ドアがばたん
と鳴り、鍵がかかった。窓が急いで閉められた。ふたたび静寂が訪れた。
あまりの無念さにまともにものも考えられぬまま、彼は窮屈な体勢から立ち
上がった。いったいどうしたらいいのだろう? どうしたらわかってもらえる
だろう? 彼は痛々しいまでに悩みながら食器室の洗面台のそばに立っていた。
こっそり家から出ていくべきだろうか? いや、説明もしないでそんなことは
できない。それに彼は得体の知れない危険がこの家に迫っていると、いまだに
確信していた。どんなにばつの悪い思いをすることになろうと、ティタニアに
注意をうながさなければならない。彼女が化粧着を着てさえなければ――こと
はずっと簡単だったのだが。
彼はホールに出てきて、自信を失いそうな自分を励ましながら階段の下に
立った。しばらくじっと待ってから、彼は咳払いして呼びかけた。
「ミス・チャップマン!」
答えはなかったが、頭の上で軽く、すばやく動く音が聞こえた。
「ミス・チャップマン!」彼はもう一度呼んだ。
ドアのあく音が聞こえ、冷ややかな調子の澄んだ声が一階に投げかけられた。
今度は氷を入れた細めのタンブラーのような響きだった。
「ミスタ・ギルバート!」
「なんです?」彼は情けない声でいった。
「タクシーを呼んでくださる?」
落ち着いた、命令的な口調がなんとはなしに彼をいらだたせた。もちろんい
ろいろ問題はあっただろうが、しかし彼の行動はまったくの善意から出たもの
なのだ。
「喜んで」と彼はいった。「でもその前にお話ししたいことがあります。と
ても重要なことなんです。怖がらせてしまったことはお詫びのしようがありま
せんが、ほんとうに緊急を要するんです」
短い沈黙があった。それから彼女がいった。
「ブルックリンておかしな場所ね。ちょっと待ってちょうだい」
オーブリーは壁紙の模様を指でたどりながらぼんやりと立っていた。急にパ
イプを吸いたくてたまらなくなったが、こんな時にたばこをふかすのはエチ
ケットに反するような気がした。
ほどなくティタニアはいつもの服装で階段の上にあらわれた。彼女は踊り場
に座り込んだ。なにもかも最悪だとオーブリーは感じた。彼女の顔が見られた
ならば、決まりの悪さも多少は報われるというものだ。しかし光が彼女の後ろ
の階段の窓から差し込み、顔が影になっていた。彼女は膝に腕をまわし、手を
組んで座った。光は階段を斜めに横切り、彼女のくるぶしだけが光って見えた。
彼の心は自分でも気がつかないうちに歩き慣れた道を進んだ。「シルクストッ
キングの広告にうってつけのすてきなポーズだ!」と彼は思った。「目も覚め
るような全面広告ができるぞ。アンクルシマー社に話を持ちかけなければなら
ないな」
「それで?」彼女はいった。彼女は笑いをこらえることができなかった。彼
の姿があまりにも哀れだったのである。彼女は吹き出し、鳥がさえずるような
愛らしい笑い声をあげた。「どうしてパイプをおつけにならないの? ドイツ
の皇帝みたいに悲しそうだわ」
「ミス・チャップマン。もしや――あなたがどうお考えになっているかわか
りませんが、しかし今朝ここに入り込んだのは、わたしが――その、ここがあ
なたにとって安全な場所ではないと考えるからなんです」
「そのようね。だからタクシーを呼んでとお願いしたの」
「この店のまわりでおかしなことが起きています。こんなふうに独りでいる
のはよくありません。あなたの身になにかがあったのではないかと不安になっ
たんです。もちろんわたしは知らなかったんです、あなたが――あなたが―
―」
彼女の頬にほのかな巴旦杏の花が咲いた。「本を読んでいたのよ」と彼女は
いった。「ミスタ・ミフリンがあんまり寝床で読書する話をするから、ためし
てみようと思ったの。お二人は今日いっしょに外出しようって誘ってくれたん
だけど、わたしは断ったの。だって本屋さんになるんですもの、文学にすこし
でも追いついておかなければならないわ。読まなければならない本がたまる一
方なのよ。お二人が出て行ったあと、わたし――わたし――つまりベッドで本
を読むのがみんながいうようなものかどうか、ためしてみたかったのよ」
「ミフリンはどこに行ったんです? いったいなんだってあなたをここに置
いてきぼりにしたんです?」
「わたしにはボックがいるわ。いったいなによ、日曜の朝のブルックリンが
そんなに危険とは思えないわ。お知りになりたければいいますけど、彼とミセ
ス・ミフリンはお父さんのところへ一日遊びに出かけたんです。わたしも行く
ことになっていたんだけど、断ったの。それがあなたとなんの関係があって?
あなたって『箱ちがい』のモリス・フィンズベリーとおなじくらい悪者ね。
犬の吠え声が聞こえたとき、ちょうどその本を読んでいたのよ」
オーブリーはだんだんいらいらしてきた。「わたしが余計な真似をしたと
思っているようですが、一つ、二ついわせてください」彼は金曜日の晩に店を
出てから起きたことを手短に語ったが、道のまむかいに下宿していることは省
いた。
「なにかひどく感心できないことが起きているんです。はじめミフリンは被
害者なのかと思っていました。この店から貴重な本をかっぱらう陰謀があるん
じゃないかと思ったんです。でもワイントラウブが自分の鍵でここに入るのを
見て、気がつきました。やつとミフリンはぐるなんです。そういうことなんで
すよ。やつらがなにを企んでいるのかはわかりませんが、わたしはどうも気に
入らない。ミフリンはお父さんに会いに行ったといいましたね。きっとあなた
をだますための口実に過ぎないはずです。わたしならミスタ・チャップマンに
電話して、あなたをここから連れ出すべきだといいますね」
「ミスタ・ミフリンの悪口はやめてちょうだい」ティタニアが怒っていった。
「彼はお父さんの古い友達のひとりよ。あなたがこの家に押し入って、わたし
を死ぬほど怖がらせたことをミスタ・ミフリンが知ったら、なんていうかしら?
頭を殴られたことはお気の毒に思いますわ。だってそこがお弱いようなんで
すもの。おあいにくですが、自分の身は自分で守ります。映画と勘ちがいしな
いでちょうだい」
「それじゃ、あのワイントラウブの行動をどう説明するんです? 夜中にだ
れかが店のなかに出たり入ったりして本を盗んでもいいんですか?」
「そんなこと、お答えする義務はありません。説明する義務はあなたにある
と思います。ワイントラウブさんはもの静かなおじさんよ。おいしいチョコ
レートを五番街の半値で売っているのよ。ミスタ・ミフリンが教えてくれたけ
ど、彼はうちのお得意さまなの。きっと仕事のせいで昼間は本が読めなくて、
夜中にここに来て本を借りるのよ。たぶんベッドで本を読むんでしょうね」
「夜中に裏の路地でドイツ語を話すようなやつがもの静かなおじさんとは思
えませんね。いいですか、あなたの幽霊書店はトマス・カーライルよりもっと
たちの悪いなにかに取り憑かれているんですよ。これを見てください」彼はポ
ケットから例の本の表紙を取りだし、そこに書き込まれた符号を指さした。
「それはミフリンさんの筆跡ね」ティタニアは上の列の数字を指さしていっ
た。「好きな本にはそういう印をつけるのよ。面白い一節を見つけたページを
あらわしているの」
「そうです。そしてこっちはワイントラウブの筆跡です」オーブリーはすみ
れ色のインクで書かれた番号をさしていった。「これがやつらの共謀の証拠
じゃないなら、いったいなんだというんです。クロムウェルの本がここにある
なら、見せてくれませんか」
二人は店舗に移動した。ティタニアが先に立ってかびくさい通路を進んで
いった。オーブリーは確信に満ちた頑固な彼女の小さな肩を見て腹が立った。
彼は彼女をつかんで揺さぶってやりたいという激しい気持ちに襲われた。彼女
の輝かしい、なにも知らない青春が、薄汚れた本の納骨所にあるということが
彼には不愉快だった。「彼女はこんな店にはふさわしくないんだ――『リベレ
イター』(註 1918年発刊の社会主義雑誌)に載ったパッカードの広告み
たいなものだ」と彼は思った。
二人は歴史のアルコーヴに立っていた。「ここにあるわ」と彼女はいった。
「ううん、ちがう――これは『フリードリヒ大王の生涯』だわ」
棚には二インチの隙間があった。クロムウェルは消えていた。
「たぶんミスタ・ミフリンがどこかに持っていったんだと思う。昨日の晩は
ここにあったもの」
「それはちがう」とオーブリーはいった。「いいですか、あれはワイントラ
ウブが持って行ったんです。この目で見たんだ。はっきりいいましょう。戦争
はけっして終わっていないんです。ワイントラウブはドイツ人。カーライルは
ドイツびいき――それくらいは大学で習いました。あなたの友達のミフリンも、
話を聞いたかぎりでは、ドイツびいきだと思います!」
ティタニアは頬を赤く燃え立たせて彼とむかい合った。
「いいかげんにして!」彼女は叫んだ。「つぎはわたしのお父さんも、つい
でにわたしもドイツびいきだっていうんでしょうね! ミスタ・ミフリンに直
接いってもらいたいものだわ」
「そのつもりですよ、ご心配なく」オーブリーは顔をゆがめていった。彼は
絶望的なまでにティタニアのご機嫌を損ねたことを理解したが、自分の信念を
曲げようとはしなかった。沈む心で彼は彼女の顔を見た。それは色あせた装丁
の並ぶ棚の前にくっきりと浮かんでいた。彼女の目は深い、燃えるような青に
輝き、あごは怒りに震えていた。
「いいこと」彼女はつよい口調でいった。「わたしかあなたか、どっちかが
ここを出て行くのよ。あなたがまだいるつもりなら、わたしのためにタクシー
を呼んでちょうだい」
オーブリーも彼女とおなじくらいむかっ腹をたてていた。
「帰りますよ。でもフェアに振る舞ってもらわなくちゃ困ります。ミフリン
とワイントラウブの二人はなにかを企んでいる。これは誓っていいます。これ
から証拠をつかんであなたにお見せします。でもわたしが彼らを見張っている
ことは教えてはいけません。そんなことされたら、もちろんあいつらは計画を
中止するでしょう。あなたがわたしをどう思おうとかまいません。でもそのこ
とだけは約束してください」
「なにも約束なんかできません。二度とあなたと口をきかないこと以外は。
男の人は何人も見ているけど――あなたみたいな人ははじめてよ」
「あいつらに警告しないと約束するまでここを出て行くことはできない」彼
はいい返した。「いまのことはあなたを信じて打ち明けたのです。やつらはも
うわたしの下宿先を知っている。これが冗談だと思いますか? 二度もわたし
を消そうとしたんですよ。あなたがこのことをミフリンにもらせば、彼はほか
の二人に警告するでしょう」
「あなたは店に押し入ったことをミスタ・ミフリンに知られるのが怖いの
ね」彼女は嘲るようにいった。
「そう考えるのはあなたの自由です」
「なにも約束しませんからね!」彼女は突然あらあらしくそういった。それ
から顔色が変わった。挑戦的な小さな口元がゆがみ、その痛ましい曲線の両端
から力が抜け落ちていくようだった。「いいわ、約束する」と彼女はいった。
「それがフェアだと思うわ。どっちにしろミスタ・ミフリンには話せない。あ
なたにおびえたことなんか恥ずかしくて話せない。にくたらしい人。ここでた
のしみながら仕事をしようと思っていたのに、あなたのおかげで台なしだ
わ!」
一瞬、彼女が泣き出すのではないかという恐ろしい思いが頭をよぎった。し
かし彼は映画のなかでヒロインが泣く場面を思い出し、手近にテーブルと椅子
がなければそういうことにはならないはずだと思った。
「ミス・チャップマン」と彼はいった。「申し訳なくて言葉もありません。
でも誓っていいますが、わたしがしたことは真心から出たものです。まちがっ
ていたなら、二度とわたしに話しかける必要はありません。まちがっていたな
ら、お父さんに――グレイ・マター社との広告契約をやめるようにいえばいい。
それ以上はなにもいえません」
その言葉の通り、彼は口がきけなくなった。彼女のためなら自分を犠牲にし
ても平気なつもりだった。
彼女はなにもいわず彼を正面のドアから送り出した。
第十二章 オーブリーは他人とはちがうサービスを決意する
若者がその日曜日のオーブリーくらいみじめな午後を過ごすことは、そう多
くはないだろう。ただ一つの慰めは、彼が本屋を出てから二十分後にタクシー
がやってきて(彼はそのとき寝室の窓辺に座ってふさぎ込んでいた)ティタニ
アが乗り込み、走り去ったことである。ラーチモントの一行に合流するのだと
思い、彼女が「交戦地帯」と彼が呼んでいるところから抜け出したことを知っ
て喜んだ。オー・ヘンリーははじめて彼に慰めを与えなかった。パイプは苦く
てまずかった。ワイントラウブがなにをしているのか知りたくてたまらなかっ
たが、昼日中にさぐりを入れる勇気はなかった。暗くなるまで待とうと彼は考
えた。安息日の通りの静けさと、サッカレー大通にむかう乳母車の行列を見な
がら、彼はたんなる想像上の疑惑が、彼女との友情をぶち壊しにしてしまった
のだろうかと、もう一度思った。
とうとう彼は狭苦しい寝室に我慢ができなくなった。下の階でだれかが悲し
げにフルートを吹いていた。胸の張り裂けそうな思いをしている者にはひどく
残酷な拷問である。下宿人が教会に行っているあいだ、疲れを知らないミセ
ス・シラーは軽く家の掃除をしていた。隣の部屋でじゅうたん掃除機が行った
り来たりしながら単調な摩擦音を立てていた。彼はいらいらと階段をきしませ
て下におりたが、浴室からはいつもの水を撥ね散らかす音が聞こえた。玄関の
鏡の枠には鉛筆書きのメモがあった。「ミセス・スミス、ターキントン
1565にご連絡を」と書いてある。理由もなく腹を立てた彼はノートから紙
を引きちぎりこう書いた。「ミセス・スミス、バース4200にご連絡を(註
温泉都市バースは浴室のバスとおなじ綴り)」彼は二階に上がって浴室のド
アをノックした。「入ってこないで!」あわてた女の声が叫んだ。彼はメモを
ドアの下から差し込むと下宿を出た。
風の強いプロスペクト公園の小径を歩きながら、彼は容赦なく自分を責めた。
「おまえが馬鹿なことをしたおかげで彼女とは二度と会えなくなったんだぞ」
彼はうめいた。「なにかを証明しないかぎりは」本棚の前に立つティタニアの
顔が狂おしいまでに心に浮かんできた。「たのしみながら仕事をしようと思っ
ていたのに、あなたのおかげで台なしだわ!」つぎの彼女の言葉には、どれだ
け怒りに満ちた確信がこもっていただろう。「男の人は何人も見ているけど―
―あなたみたいな人ははじめてよ!」
心は千々に乱れていても使い慣れた業界の言葉づかいが自然と口をついて出
た。「すくなくとも『他人とはちがう』ことを認めてくれたわけだ」彼は悲し
げにいった。彼はグレイ・マター社社訓集の第一条を思い出した。それは雇い
主が販売員の参考のために出した気のきいた小冊子だった。
「ビジネスは『信頼』のうえに築かれる。グレイ・マター社のサービスをク
ライアントに売り込む前に、自分自身を売り込まなければならない」
「どうやって彼女にぼくを売り込むか?」彼は考え込んだ。「とにかくやれ
ることをやるしかない。他人とはちがうサービスをするしかないんだ。ここで
くじけたら、彼女は二度とぼくに話しかけてくれないぞ。それだけじゃなくて、
会社は父親のひいきを失ってしまう。考えられない話だ」
考えられないとはいいつつも、彼はそのことをさんざん考えた。長々とつづ
く広告板のそばを歩いていたので(彼はフラットブッシュの郊外にむかってい
た)、ときどき広告のアイデアが頭に浮かんできた。彼は広告板にチャップマ
ン・プルーンを宣伝する色鮮やかなリトグラフが張られているさまを想像した。
「アダムとイブは新婚旅行でプルーンを食べた」という標語が頭にひらめき、
この文句にすばらしい絵が添えられているところを思い描いた。このように男
というものはだれでも苦悩の時間にみずからが選んだ専門分野に慰めを求める
のだ。運命に打ちのめされた詩人は精妙な脚韻で傷を癒す。禁酒法支持者はほ
かの人が禁酒に苦しむ様子を思い描いて、憂鬱のどん底を切り抜ける。デトロ
イト市民はどれほどつらい目にあっても修理する自動車があるかぎり自分の手
で命を断つことはない。
何マイルも歩くうちに、オーブリーの絶望的な気分は徐々に風に吹き飛ばさ
れて消えていった。ゼウスの陽気な双子の息子、オリソン・スウェット・マー
デン(註 実業家。楽観主義を基底にしたビジネス書で有名)とラルフ・ウォ
ルド・トライン(註 ヘンリー・フォードにも影響を与えた新思想の主導者)
の朗らかな精神が彼に寄り添っていて、不可能なことなどなにもないことを思
い出させてくれたようだった。とある小さなレストランにはソーセージとシ
ロップのかかったホットケーキがあった。ギッシング通りにもどるとあたりは
暗くなっていた。彼はさらなる奮闘にむけて気を引き締めた。
九時頃、彼は裏の路地を歩いていた。彼はミセス・シラーの下宿の部屋に外
套とクロムウェルの表紙を置いてきていた――しかし書き込みは用心してポ
ケットのメモ用紙に写してあった。本屋の裏の明かりを見て、ミフリン夫妻と
雇い人が無事家に着いたことを知った。ワイントラウブの薬局の裏に来たとき
は、建物の外郭を注意して調べた。
薬屋は前にも説明したようにギッシング通りとワーズワース・アヴェニュー
の交差する角に建っていた。ちょうど高架鉄道が長いカーブを描いてまわり込
んできている場所である。このカーブを支えるために高架道の足場が建物の裏
の屋根から突き出していて、オーブリーは前の日、その事実をしっかりと観察
し目に焼きつけていた。薬局の正面は三階建てだったが、後ろの方はがくんと
落ち込んで二階建てになっており、平らな屋根がのっかっていた。この屋根か
ら窓が二つのぞいていた。ワイントラウブの裏庭は路地に面していたが、門は
閉まっていた。柵をよじ登るのはむずしくなかったものの、そこまで露骨な手
段に訴えることはためらわれた。
彼は最寄りの階段をつかって高架鉄道の駅にあがった。五セントを払って回
転ゲートを抜け、プラットフォームに出る。列車が走り去るのを待ち、風が吹
きすさぶ長い厚板のプラットフォームにだれもいないことを確かめると、線路
脇を走る細い歩道に飛びおりた。帯電している第三レールのすぐそばだったの
で、用心ぶかく歩かなければならなかったが、外側に張りつくようにしてなに
ごともなく進むことができた。十五フィートほどの間隔を置いて大梁がレール
と直角に交わるようにわたされ、下の通りから垂直に延びる支柱に支えられて
いた。四つ目の大梁はワイントラウブの家の裏の隅に突きだしていて、彼はそ
れに沿ってそろりそろりと這うように進んだ。下の舗道には通行人がいるので、
見つかりはしないかとびくびくしなければならなかったが、しかし梁の先端ま
で無事たどり着くことができた。ここから十二フィートほどの高さを飛びおり
ればワイントラウブ薬局の裏側の屋根にいける。一瞬彼は、そこにおりてしま
えばおなじ経路でもどることはできないのだと思った。しかしその危険は承知
でやらなければならない。梁の上にまたがって脚をぶらぶらさせている彼の姿
は人目を引く危険性がおおいにあった。
彼はそのとき外套を持ってこなかったことを後悔した。というのは外套を先
に落としてその上に飛びおりれば着地したときに音が響かないだろうからだ。
彼は上着を脱ぎ、屋根の片隅に慎重に落とした。それから手でぶら下がるよう
にしてできるだけ身体を低い位置に持っていき、列車が頭上を通り、その轟音
でほかのすべての音を消す瞬間を抜け目なくねらって手を放した。
数分間、彼はブリキの屋根の上にうつむけに横たわっていた。そのあいだに
いくつもの苦々しい思いが頭に浮かんできた。本気でワイントラウブの家に忍
び込むつもりなら、なぜもっと綿密な計画を練らなかったのか? たとえば、
なぜ家のなかに人が何人いるのか確かめなかったのか? なぜ友達のひとりと
時間をしめし合わせてワイントラウブに電話をかけてもらい、家に侵入しても
気づかれないよう、より確実な手立てを工夫しなかったのか? それに家に
入ったらなにを見、なにをしようというつもりなのか? 彼はこうした質問に
まったく答えることができなかった。
外はやけに寒く、上着を着直したときはほっとした。小型拳銃はまだ尻ポ
ケットのなかだ。べつの考えが浮かんできた――それはテニスシューズを履い
てくるべきだったということだった。しかし彼が履いているゴムヒールの靴は
アメリカ全土で宣伝されているブランドなのだと思うとなんとなく安心できた。
彼は一つの窓の下枠まで静かに這っていった。窓は閉まっていて、部屋の内部
は暗かった。ブラインドがほとんど下までさがっていたが四インチほどの隙間
が空いていた。用心しながら下枠からのぞき込むと、奥のほうに明るい光を浴
びたドアと通路が見えた。
「一つだけ気をつけなければならないのは、子供たちだな。きっと二人以上
いるだろう――子供のいないドイツ人なんて聞いたことがない。起こしたりし
たら、泣きわめかれる。この部屋は南東をむいているから、たぶん子供部屋だ
ろう。それに窓ががっちり閉まっている。たぶんドイツ人は寝室の通気にはこ
れがいいと思っているんだ」
彼の推測はそう的はずれでもなかったようだ。というのは目が薄暗がりに慣
れると、子供用ベッドが二つ見えたような気がしたからだ。それからべつの窓
の方へ這っていった。こちらはブラインドが窓枠の下まできっちり下りていた。
慎重に窓を持ち上げてみると鍵がかかっている。どうしたらいいのかわからな
かったので、最初の窓にもどり、腹ばいになってのぞき込んだ。窓枠は屋根よ
りわずかに高い位置にあり、なかを見るには手を突いて身体をすこしだけ浮か
す必要があったが、これはなかなかにつらい姿勢だった。しかもブリキ板の屋
根は動くと騒々しくつぶれやすい。しばらく寒さに震え、パイプを吸っても大
丈夫だろうかと思いながらはいつくばっていた。
「もう一つ気をつけるべきことがあるぞ」と彼は思った。「それは犬だ。
ダックスフントを飼っていないドイツ人なんて聞いたことがないからな」
明かりに照らし出されたドアを長いこと見つめていたがなにも起きず、これ
では時間のむだだと思いはじめたとき、恰幅のいい、人の良さそうな女が廊下
にあらわれた。彼女は彼が観察していた部屋に入ってドアを閉めた。電気をつ
け、恐ろしいことに服を脱ぎはじめた。まったく予想もしていなかったことな
ので、彼は急いで退却した。こんなところにいてもなにも得るものがないこと
は明らかだった。びくびくしながら屋根の一方の端に座り込んで、つぎにどう
しようかと考えた。
そうするうちに、ほぼちょうど真下にある裏口のドアがあき、ドアの前の階
段脇に置いてあるゴミ入れがガチャンと鳴った。ドアはおそらく三十秒ほどあ
いていただろう。男の声――ワイントラウブの声だ、と彼は思った――がドイ
ツ語を話していた。生まれてはじめて大学のドイツ語講師がここにいたら助か
るのに、と思い――その場とはまったく関係のないことだが――あの講師は今
どうやって生計を立てているのだろうとちらりと思った。末尾の動詞がおもお
もしく響く、長々しくて、いかつい文だったが、彼は重要と思われる一節を聞
き取った。「ナッハ・フィラデルフィア・ゲーエン」――「フィラデルフィア
に行く」
ミフリンのことだろうか? と彼は思った。
ドアがまた閉まった。雨樋越しに身を乗り出してみると、台所の明かりが消
えた。すぐ足下の窓の上部からなかをのぞこうとしたのだが、身を乗り出しす
ぎて、手にしたブリキの樋がぐにゃりと曲がった。どうやったのか自分でもわ
からないが、彼は壁に沿ってすべり落ち、足が窓枠をとらえた。手は頭の上の
ブリキの雨樋をつかんだままだった。急いでその姿勢から下におりると、裏口
のドアが目の前にあった。念入りに計画を練ったとしてもこれ以上静かにはお
りられなかっただろう。しかし彼はひどくあたふたして、勘づかれたのではな
かろうかと、庭の端に身を隠した。
数分待っても恐れていたことは起きなかったので、彼は勇気を出した。家の
奥のほう――ワーズワース・アヴェニューから離れたほう――には舗装した小
径がついていて、その先には屋外から地下室に通じる、斜めにかしいだ旧式の
ドアがあった。彼はそれを油断なく見つめた。路地に面した窓の一つから明る
い光がさしていた。彼は四つんばいになってその窓の下へ這っていったが、の
ぞき込む前にもうすこしあたりを調べることにした。地下室に通じるドアの、
片方の扉が開いていたので、隙間に鼻を突っ込んでみた。下は真っ暗だったが、
塗料と薬品の強い湿ったにおいが立ちのぼってきた。用心しながらくんくんと
においをかいでみた。「この下に薬をしまっているんだな」と彼は思った。
注意しながら四つんばいのまま明かりのともる窓のほうへ這ってもどった。
一度に数インチずつ頭をあげ、とうとう窓枠より上に目を持っていった。残念
なことに窓の下半分はすりガラスだった。壁に取りつけられたパイプから突然
液体が噴き出し、地面についていた膝にかかった。においを嗅ぐと、またして
も強烈な酸のにおいだ。細心の注意を払って、煉瓦の壁にもたれながら立ち上
がり、窓の上半分からなかを盗み見た。
薬を調合する部屋のようだった。人がいなかったので、急いでなかを見わた
した。壁に沿ってさまざまな瓶が並んでいる。秤が載っている背の高いカウン
ター、机、流し。奥には店舗のほうから見えた竹のカーテンがかかっていた。
どこもかしこもひどく散らかっていた。すり鉢、ビーカー、タイプライター、
分類棚、フックで留めた古い埃だらけの処方箋の束、錠剤とカプセルの紙袋、
それらすべてが乱雑に置かれていた。三脚台に載せられたガラスの器のなかで
なにかの混合液が青いガスの炎に熱せられていた。とりわけオーブリーの注意
を引いたのは、カウンターの一方の端に無造作に積まれた、高さ数フィートに
もなろうとする古本の山だった。
さらにもっと気をつけてみると、調剤台の上にある、鏡と思われたものは、
じつは店のなかをのぞくのぞき穴だった。そこを通してワイントラウブが葉巻
のケースの後ろに立ち、夜おそく訪れた客にたいしていつもの商売用の愛想を
振りまいているのが見えた。客が立ち去るとワイントラウブはドアに鍵をかけ、
ブラインドをおろした。そのあと調剤室にもどってきたので、オーブリーは見
つからないように頭を引っ込めた。
ほどなく危険を承知でもう一度なかをのぞくと、そこには奇妙な光景があっ
た。薬屋はカウンターの上にかがみこんでなにかの液体をガラス容器に注いで
いた。彼の顔はぶら下がっている電灯の真下にあり、オーブリーはその変貌ぶ
りに驚いた。葉巻とソーダ水を売る、一見にこやかな薬屋の表情は消え、その
かわりに重苦しい、残忍な、顎の大きな顔があった。まぶたが目の上に垂れか
かり、巨大な顎の先は四角く突き出、脂肪のついた頬は油ぎって光っている。
その顎が強い感情を抑えるかのようにかすかに震えた。男は仕事に完全にのめ
り込んでいた。肉の厚い下唇が上唇をなめた。頬骨の上には深くて赤い傷痕が
あった。オーブリーはその忌まわしいほど残忍な仮面が持つ荒々しい迫力に、
身がすくむような驚きを感じた。
「これがもの静かなおじさんの正体か!」
ちょうどその時、竹のカーテンがひらいて二階で見た女があらわれた。オー
ブリーは我を忘れてじっと見つめた。彼女は色あせた部屋着を着て、これから
寝ようとしているかのように髪の毛を編んでいた。彼女は怯えているようだっ
た。唇が動くのが見えたから、なにかしゃべったにちがいない。男は液体の最
後の一滴を注ぐまでカウンターにかがみつづけた。口をきっと引き締めると急
に身体を起こし、腕を伸ばして命令するように指さしながら、彼女のほうに一
歩近づいた。オーブリーは彼の顔がはっきりと見えた。そこには獣以上の獰猛
さがあった。女の顔はおどおどした、懇願するような表情を浮かべて語りかけ
るのだが、荒々しい仕草の前にはなすすべがなかった。彼女はくるりとむきを
変え姿を消した。オーブリーは薬屋のさし示す指が震えているのを見た。彼は
ふたたび頭を引っ込めた。「人ごみのなかで見たらさびしそうに見えるような
顔なんだがな」と彼は思った。「それに映画で見る表情はなんでも誇張されて
いるものと思っていたが。ふむ、あいつはセダ・バラ(註 妖婦役で有名な俳
優)の相手役を演じるべきだ」
彼は舗装した小径に張りつくように身を伏せた。もうちょっと探りを入れる
ことができれば、大きな手がかりがつかめそうな気がした。上の窓の明かりが
消えたので、彼は必要ならすばやく動くことができるように身がまえた。もし
かすると男は地下室のドアを閉めに外に出てくるかもしれない――
そう思ったときに小径のむこう、彼と台所のあいだに、光るものが見えた。
光は地面に接した小さな格子窓からさしていた。どうやら薬屋は地下室におり
ていったようだ。オーブリーは音を立てずに這ってそちらにむかった。明かり
のともる窓ガラスに近づき、壁に張りついてなかをのぞいた。
窓があまりに汚れていてはっきりとは見えなかったが、どうやら化学実験室
と機械の修理工場を組み合わせたような場所だった。長い作業台が数個の電灯
に照らされている。その上には妙な形のガラス瓶と雑多な道具がのっていた。
ブリキの板、いくつもの銅管、ガスバーナー、万力、シリンダーのついた煮沸
器、色つきの液体が入った大きな広口瓶。にぶいうなるような音も聞こえたが、
それはモーターとベルトでつながれた、回転する機械から聞こえてくるようだ。
もっとはっきり見えないものかと目をこらしているうちに、ガラスの汚れと
思っていたものが、じつは内側から白色塗料を塗りつけたものだとわかった。
それが一ケ所だけ剥げ落ちてのぞき穴になっていたのである。いちばん彼を驚
かしたのは作業台のまわりに散らかっている多くの本の表紙だった。そのうち
の一つは「クロムウェル伝」だと断言できた。あかるい青の表紙布はもうおな
じみだった。
その晩二度目であったが、オーブリーはかつての彼の先生がその場にいたら
助かるのに、と思った。「化学の教授がここにいてくれさえしたら。いったい
なにを企んでいるんだろう。あいつが調剤した薬を飲むのはごめんだな」
長い時間夜気にさらされ、歯がかちかちと鳴った。しかも身体を伏せていた
溝には、調剤室の流しから排水が流れてくるらしく、ずぶ濡れになってしまっ
た。薬屋は彼に背中をむけていたため、地下室でなにをしているのかわからな
かった。彼はもう充分に一晩分のスリルを味わったように感じた。這うように
して裏庭にもどり、散らかったからの箱のあいだを注意しながら歩いた。頭の
上で高架鉄道の列車が轟音を立て、明るく電気に輝く車両がカーブを回って通
り過ぎた。列車の音が鳴り響いているあいだに柵を乗り越え、路地に飛びおり
た。
「さてさて。あのボルシェビキ総司令本部でなにが起きているのか教えてく
れる人がいたら、ベン・フランクリンが創刊した雑誌の好きな場所に全面広告
をのせてやってもいいぞ。なんだかオクタゴン・ホテルを地図の上から消す準
備をしているみたいだ」
ワーズワース・アヴェニューに出ると、まだあいている菓子屋があったので、
身体をあたためるために熱いチョコレートを一杯飲みに入った。「この仕事の
必要経費は少々高くつきそうだ」と彼はひとり思った。「これはデインティ
ビッツに請求しなければならないな。まさしくグレイ・マター社はほかとはち
がうサービスを提供する! わが社はチャップマンの製品を大衆に宣伝するだ
けじゃなく、ブルックリンを襲う恐怖にたちむかい、彼の家族を犯罪から守る
のだ。それにしても本屋がつきあっているあの相手は気に入らない。もしも
『フィラデルフィアに《ナッハ・フィラデルフィア》』が合図なら、ひとつ跡
をつけてやろう。朝になったらフィラデルフィアに出発だ!」
第十三章 ラドロー通りの戦い
オーブリーは意志の力と意識下にひそむ時間感覚だけをたよりに、つぎの日
の朝六時に起床した。魅力的な若い娘にこれくらい心のこもった行為が捧げら
れることは、そう滅多にあることではない。若者は真剣に、原始人のように一
心に眠った。それは彼にとってほとんど宗教的な儀式だった。ある二流の詩人
が言ったように、彼は「眠りを生涯の仕事とした」のだ。
しかしロジャーがどの列車に乗るのかわからなかった彼は、絶対にその跡を
見失うわけにはいかなかったのである。六時十五分には彼はミルウォーキー・
ランチでコーヒーとコーンビーフのハヤシ料理を食べていた(この店に閉店時
間はない――「当店は『最後の審判の日』まで営業します。女性専用テーブル
あり」と看板には書かれている)。慣れない早起きにはつきものの軽い憂鬱感
にひたりながら、彼は近くて遠いティタニアのことを慈しむように考えた。彼
には好きなだけ空想にふける時間があった。地下鉄へ急ぐロジャーがあらわれ
たのは七時十分過ぎだったからである。オーブリーは見つからないように慎重
に距離を置いて跡をつけた。
書店主と追跡者はともにペンシルベニア駅で八時の汽車に乗ったが、二人の
気分には雲泥の差があった。ロジャーにとってこの遠出は単純に心浮きたつ遊
山の旅だった。店に縛られていた期間があまりにも長かったため、一日じゅう
外に出ていられるなど夢のような話だった。葉巻を二本買い――めったにない
贅沢だ――列車がハッケンサックの沼沢地をがたごとと通り過ぎるあいだ、朝
刊を膝の上に置きっぱなしにしていた。彼はオールダム蔵書の鑑定に呼ばれた
ことをたいへんな誇りに感じていた。ミスタ・オールダムはきわめて著名な蒐
集家で、裕福なフィラデルフィアの商売人だった。ジョンソン、ラム、キーツ、
ブレイクのえり抜かれた蒐集本は世界じゅうの好事家の羨望の的である。ロ
ジャーは自分よりも名の知られた業者がたくさんいて、彼らがこのコレクショ
ンを調べて鑑定料を手にする機会に飛びつくであろうことをよく知っていた。
長距離電話で聞いたところによると、ミスタ・オールダムはコレクションを売
ることになり、オークションに出す前に今の市場でどれくらいの値がつくもの
か、専門家の意見をあおぎたいということだった。ロジャーは稀覯本や手書き
原稿の今の相場にはあまり通じていなかったので、旅のほとんどは注釈つきの
カタログで最近売買された本を見ながら過ごした。その本はミスタ・チャップ
マンが貸してくれたものだった。「今回の招待は、いつもわたしがいっていた
ことの証明だな。どんな分野であろうと、芸術家はたんなる商売人以上のもの
としていつかは認められるのだ。どこで聞きつけたのか、ミスタ・オールダム
はわたしが古書の販売をやっているだけでなく、その愛好家でもあることを
知ったのだろう。彼は宝物の鑑定人として、本を蝋燭のようにあきなう連中で
はなく、わたしを選んだというわけだ」
オーブリーの気分は書店主のしあわせな気分とはまったくの正反対だった。
まず第一にロジャーは喫煙車に座っていたが、オーブリーは見つかるのを恐れ
ておなじ車両には入らず、パイプなしで我慢しなければならなかった。彼は二
両目の最前列に陣取り、ときどきガラスのドアを通して、安物のハバナの煙に
包まれた、獲物のはげた後頭部に視線を飛ばした。第二にワイントラウブがお
なじ列車に乗るものと期待して、改札口を最後の瞬間まで見張ったのだが、ド
イツ人はあらわれなかった。ワイントラウブの昨夜の言葉から、薬屋と本屋が
いっしょに任務に当たるものと決めつけていたのだ。あきらかに彼の勘ちがい
だった。彼は爪をかみ、飛ぶように流れる風景をにらみつけ、ちくちくと痛む
胸のなかでさまざまな心配事に思いをめぐらせた。気がかりの一つはニュー
ヨークにもどるだけの充分な持ち合わせがなく、フィラデルフィアでだれかに
借金するか、事務所に電報して送金を頼まなければならないことだった。この
冒険に乗り出したとき、出費がこれほどかさむとは思ってもいなかった。
列車は十時にブロードストリート駅に着き、オーブリーは終着駅の人ごみを
縫い、市庁舎プラザをまわって書店主の跡をつけた。ミフリンは道を知ってい
るようだったが、グレイ・マター社の注文取りはそれほどフィラデルフィアの
地理にくわしくなかった。彼はサウス・ブロード通りの立派な眺めにすっかり
驚き、たった今ニューヨークから来たばかりだというのに、舗道をにぎわす人
びとに傍若無人にもみくちゃにされ、くやしく思った。
ロジャーはブロード通りの巨大なオフィスビルに入り、急行エレベータに
乗った。オーブリーはおなじエレベータに乗る勇気はなかったので、ロビーで
待つことにした。彼はエレベータの操縦係から建物の反対側にべつのエレベー
タがあることを知った。そこで操縦係に二十五セント銀貨を一枚わたして見張
りの役を頼み、見逃すことがないようミフリンの容貌を正確に教えた。そのと
きにはオーブリーはすっかり不機嫌になっていて、エレベーターの位置をあら
わす表示器をめぐって操縦係に口論をふっかけるありさまだった。この建物の
表示器はガラスチューブでできていて、色のついた液体が上下してエレベータ
の動きを表示するのだが、それを見てオーブリーはいらただしげに、こんな旧
式の仕掛けはニューヨークではとうの昔に使われなくなっているといったのだ。
操縦係は、ここがいやならニューヨークに帰ったらどうです? 二時間しか離
れてないんですから、といい返した。このいい争いのおかげで時間が早く過ぎ
た。
一方、ロジャーは町の外から来た著名人として歓待されることを期待してう
きうきしながらミスタ・オールダムの贅沢なスイートに足を踏み入れた。ブラ
ウスがやや透けすぎの、きれいな若い女性が、なんのご用でしょうと、彼にた
ずねた。
「ミスタ・オールダムに会いたいのですが」
「どちらさまでしょう?」
「ミフリン――ブルックリンのミフリンです」
「お約束ですか?」
「そうです」
ロジャーは期待に胸を躍らせて待った。そこにあったのはぴかぴかに光るマ
ホガニー製のオフィス家具、きらめく緑の水差し、音を立てずてきぱきと動き
まわる若い女性たちの姿だった。「フィラデルフィアの女の子はびっくりする
ほど美人だな」と彼は思った。「しかしミス・ティタニアとは比べものになら
ないが」
さきほどの若い女性がいささか困惑した様子で専用事務室からもどってきた。
「ミスタ・オールダムとお約束がございましたか? 覚えていないとのこと
なんですが」
「ええ、まちがいありませんよ」とロジャーはいった。「土曜日の午後、電
話で決めたんです。ミスタ・オールダムの秘書から連絡がありました」
「お名前をもう一度伺ってもよろしいでしょうか?」彼女はそういって Mr.
Miflin と書いた紙切れを見せた。
「f が二つです」とロジャーがいった。「ミスタ・ロジャー・ミフリンです。
書店主をしています」
女性はひっこんで、またすぐもどってきた。
「ミスタ・オールダムは取り込んでいるのですが、すこしだけならお会いす
るとのことです」
ロジャーは専用事務室に案内された。大きな、風通しのいい、本棚の並ぶ部
屋だった。白く短い髪に、生き生きした黒目を持つ長身痩躯のミスタ・オール
ダムは礼儀正しく机から立ちあがった。
「はじめまして」と彼はいった。「申し訳ありません。ですが、約束が思い
出せないのですよ」
こりゃ相当なうっかり屋にちがいないぞ、とロジャーは思った。五十万ドル
のコレクションを売る手配をして、すっかり忘れてしまうんだからな。
「あなたにいわれてここに来たのですよ。コレクションの売買の件で」
ロジャーはミスタ・オールダムの目つきがなんとなく鋭くなった気がした。
「お買い求めになりたい、ということですか?」
「わたしがですか?」ロジャーはむっとしたようにいった。「ちがいます。
コレクションの見積もりに来たんです。あなたの秘書から土曜日に電話があり
ました」
「失礼ですが、なにかのまちがいでしょう。わたしはコレクションを売る気
は全然ありません。あなたに連絡したこともありませんよ」
ロジャーはあっけにとられた。
「なんですって」彼は声が大きくなった。「あなたの秘書が土曜日に電話し
てきて、今日の朝、ぜひともわたしに本の鑑定をしてもらいたいと、あなたが
要望しているといったのですよ。そのためにブルックリンから出てきたんで
す」
ミスタ・オールダムがブザーに触れると、中年の女性が事務室に入ってきた。
「ミス・パターソン、土曜日にミスタ・ミフリンに依頼の電話を――」
「電話してきたのは男でした」
「非常に申し訳ないんですがね、ミスタ・ミフリン」とミスタ・オールダム
がいった。「お気の毒ながら――だれかにかつがれたようですな。さきほどお
話ししたように、そしてミス・パターソンが証明してくれるはずだが、本を売
る気はまったくないし、そんなことを許可したこともありません」
ロジャーは困惑と怒りでいっぱいだった。コーンパイプ・クラブのだれかに
一杯食わされたんだ、と彼は思った。喜び勇んだ自分の単純さかげんを思い返
し、痛ましいほど顔が赤らんだ。
「どうかお気を取り直してください」ミスタ・オールダムは小男の腹立ちを
見ていった。「むだ足を踏んだとお考えになることはありません。今晩、郊外
のわたしのうちで夕ご飯を食べて蔵書を見ていきませんか?」
しかしロジャーはプライドが高すぎて、この思いやりのある慰めの言葉を受
け入れることができなかった。
「すみませんが、お招きに預かることはできません。店の仕事が忙しいです
し、緊急の用件だと思ってこちらに来ただけですから」
「それではまたべつの機会にでも」とミスタ・オールダムはいった。「そう
だ、あなたは本屋さんなんですね。あなたのお店は知らないけれども、名刺を
いただけませんか。今度ニューヨークに行ったら、立ち寄りたいと思います」
ロジャーは相手の儀礼的な誘いを断りつつ、できるだけいそいで退去した。
自分のきまりの悪い立場にひどくいらいらし、通りに出るまで自由に息をする
こともできなかった。
「ジェリー・グラッドフィストのくだらない冗談だな。絶対まちがいない」
彼はつぶやいた。「ファニー・ケリー(註 1864年スー族によって五ケ月
間囚われの身となり、その回想録で有名になった)の名にかけて、とっくりお
灸を据えてやる」
ふたたび跡をつけはじめたオーブリーでさえロジャーの怒りに気がついた。
「ご機嫌斜めだな。なにに腹を立てているんだろう」
彼らはブロード通りをわたった。それからロジャーはチェスナット通りを歩
きはじめた。オーブリーは書店主がある建物の入り口前で足を止め、パイプに
火をつけるのを見ると、自分も数ヤード手前で足を止め、市庁舎のウィリア
ム・ペンの銅像を見上げた。風の強い日で、折からの突風に彼の帽子が吹き飛
ばされ、ブロード通りをころころと転がった。彼は半ブロック走ってようやく
帽子をつかまえることができた。チェスナット通りにもどるとロジャーの姿は
なかった。彼はチェスナット通りを急いで進んだ。あせって何人もの歩行者に
ぶつかったが、十三丁目まできて、がっかりして立ち止まった。小柄な書店主
はどこにも見あたらなかった。街角に立つ警察官に話しかけてみたが、なにも
わからない。そのブロックを探しまわり、ジュニパー通りを走って行ったり来
たりしたが、結局徒労におわった。時間は十一時で、通りは混雑していた。
彼は南北両半球の書籍業を呪い、自分自身を呪い、フィラデルフィアを呪っ
た。それからたばこ屋に入って、たばこを一箱買った。
もしかしたらロジャーに出くわすかも知れないと、彼は一時間あまりチェス
ナット通りの両側を歩いてまわった。そのとき、ふとある新聞社を目の前に見
い出し、そこの編集部で古い友人が論説委員をしていることを思い出した。彼
はなかに入り、エレベータで上にあがった。
友人は汚れた小部屋のなかで書類の海に囲まれ、テーブルに足を載せたまま
パイプをふかしていた。彼らはうれしそうに挨拶をした。
「おやおや、だれかと思ったら!」おどけた新聞記者が大声でいった。「ほ
かでもないタンバレイン大王じゃないか! いったいこんな辺境の地になんの
ご用かな?」
オーブリーは大学時代の古いニックネームを使われ、にやっと笑った。
「昼飯をいっしょに食べようと思ってきたんだ。それから家に帰るためのお
金を借りようと思ってね」
「月曜日にか?」相手は叫んだ。「このあたりじゃ火曜日が給料日だってい
うのに? いやいや、左様なことはおっしゃいますな」
彼らは静かなイタリア・レストランで昼飯を食べ、オーブリーは手短に過去
数日間の冒険を物語った。新聞記者は話が終わったとき、考え込むようにパイ
プをふかしていた。
「その娘を見てみたいな」と彼はいった。「タンボよ、君の話には真《まこ
と》の響きあり。怒りと叫びにみちてはいるが、ちゃんと意味はあるようだ。
その男は古本屋なんだね」
「そうだ」
「じゃあ、彼のいる場所はわかる」
「いいかげんなことをいうなよ!」
「調べる価値はあるよ。南九丁目九番地のリアリーに行けよ。この通りの先
だ。連れて行ってやる」
「よし、行こう」オーブリーはすぐにいった。
「それだけじゃないぞ。おれの最後の五ドル札を貸してやろう。おまえのた
めじゃなくて、その娘さんのためにな。おれの名前くらい伝えてくれよ」
チェスナット通りに着いたとき彼は指さした。「この一ブロック先さ。いや、
ついていくわけにはいかない。ウィルソンが今日、議会で演説するし、大
ニュースが入電することになっているんだ。じゃあ、きみ、さようなら。結婚
式に招待してくれ!」
オーブリーはリアリーがなんの店なのか見当もつかず、居酒屋のようなもの
を想像していた。しかしそこに着いてみると、なぜ友達がそこをロジャーのう
ろつきそうな場所といったのかがわかった。女性が花嫁を見ずに結婚式のお祝
いパーティーの脇を通り過ぎることができないように、愛書家であればだれも
がこの有名な古本屋に立ち寄らずにはいられないだろう。荒涼とした日で、通
りを冷たい風が吹きすぎていったが、店頭の平台には人だかりがして、ごちゃ
ごちゃに積み上げられた本を引っかきまわしていた。なかを見ると白い書棚が
ずらりと並んでいて、色とりどりの装丁がつづれ織りのように建物のはるか奥
までつづいていた。
彼はいさんでなかに入り、あたりを見まわした。店のなかは適度な混み具合
で、大勢の人が立ち読みをしていた。彼らは後ろから見ると普通そのものだが、
目には書籍狂の興奮した、食い入るような光が宿っていた。あちらこちらに店
員が立っていて、オーブリーはその表情に古本屋らしい静かに瞑想するような
落ち着きを認めた――もっともミフリンをのぞいた古本屋という意味だが。
彼は細い通路を歩きながら、しあわせそうに掘り出し物を探す人々を眺めた。
地下の教育書部門へおり、二階の医学書を陳列した回廊に行き、さらに奥の一
段と床の高いドラマおよびペンシルベニアの歴史書コーナーにも行ってみた。
ロジャーの姿はどこにもなかった。階段下の机に、痩せた、まじめで親切そう
な書誌研究家が座っていて、巨大な目録に目を通していた。彼はふとあること
を思いついた。
「カーライルの『クロムウェル伝』はあるかい?」
相手は顔をあげた。
「残念ですが切らしています。ほんの数分前にべつのお客さまもおなじ本を
お尋ねになりましたよ」
「なんてことだ!」オーブリーは大げさにいった。「買っていったのか?」
客がこんなふうに力んでも、書店主はとくに驚かない。初版本をあさる連中
の奇癖には慣れっこなのである。
「いいえ。店に本がなかったんです。長いこと店には置いてないですね」
「その客は赤い髭を生やした、明るい青い目のはげた小男か?」オーブリー
はしわがれた声で聞いた。
「ええ――ブルックリンのミスタ・ミフリンですよ。ご存じですか?」
「知っているとも!」オーブリーは叫んだ。「どこに行ってしまったんだ?
やつの跡を、町じゅう追い回していたんだ、あの悪党め!」
沈着な書店主は風変わりな客をたくさん見てきたのでこの質問者の激しい口
調にもびくともしなかった。
「ちょっと前にここにいらしたんですよ」彼はおだやかにいい、軽い興味を
抱いたかのように、いきり立つ若い宣伝マンを見つめた。「外で見つかるん
じゃないでしょうか、ラドロー通りで」
「それはどっちの方だ?」
背の高い男――べつに名前で呼ぶのを躊躇するいわれはないのだから、フィ
リップ・ウォーナーと呼ぼう――の説明によると、ラドロー通りはリアリーの
一方の側に面した細い裏通りで、店の後ろで直角に曲がっているという。この
狭い小路にそって店の側面には差し掛け屋根がわたされ、その下に本棚が並ん
でいた。そこはリアリーが十セントの均一本――つつましい購買者の心をひく
奇妙に黒ずんだ本――を並べている場所だった。この年季の入った棚に沿って、
多くの悩める魂がしあわせをつかもうと可能な限り接近したのだった――結局、
しあわせは(おそらく数学者が言うように)曲線上にあるのであり、わたした
ちはそれに漸近線のようにしか近づくことができないのである――この小路を
よく訪れる人びとは自分たちのことをいたずらっぽく「ラドロー通りビジネス
マン連合」と称し、毎年行う晩餐会ではメンバーがその年の最高の掘り出し物
について発表をするのだが、チャールズ・ラムやユージーン・フィールドなら
その司会役になることを名誉に思ったことだろう。
オーブリーは店を飛び出し小路を眺めた。ラドロー通りビジネスマン連合が
六人ほど棚に手を伸ばしていた。そのいちばんむこう端にロジャーがいた。小
さな顔を開いた本のあいだに突っ込んでいる。彼はずんずんと大股に近づいた。
「やあ」彼は怒った声でいった。「ここにいたな!」
ロジャーは機嫌よく本から顔をあげた。趣味に熱中して自分がどこにいるか
も忘れてしまったようだ。
「おや!」と彼はいった。「ブルックリンでなにをしているんだね? ほら、
ごらん。『トゥックのパンテオン』だよ――」
「どういうつもりなんだ?」オーブリーが大声で詰問した。「ぼくをからか
おうというのか? 貴様とワイントラウブはフィラデルフィアでなにを企んで
いる?」
ロジャーの心はラドロー通りに舞いもどってきた。彼は若者の紅潮した顔を
やや驚いたように見て、本を棚にもどし、その場所を頭のなかにメモした。今
朝の失望に終わった出来事がいらだたしさとともによみがえってきた。
「なんの話かね?」と彼はいった。「そんなこと、きみになんの関係がある
んだ?」
「おおありさ」オーブリーはそういって書店主の顔の前で拳を振った。「悪
党め、ぼくはずっと跡をつけていたんだ。貴様の企みをあばこうとしてな」
赤い点がロジャーの頬骨の上に広がった。一見するとおとなしそうだが、彼
はかっとなりやすく、手を出すのも早かった。
「チャールズ・ラムの名にかけていうがね!」と彼はいった。「お若いの、
きみは礼儀を知らないな。大型広告がお望みなら、両方の目に一つずつお見舞
いしてやろう」
オーブリーは犯罪者が縮みあがるだろうと思っていたのだが、この口答えを
聞いて自制心を失うほど怒り狂ってしまった。
「このちびのボルシェビキが。もうちょっとでかければ叩きのめしてやると
ころだ。さあ、貴様とドイツびいきの友達がなにを企んでいるのかいえ。さも
ないと警察に通報するぞ!」
ロジャーはきっとなった。髭は逆立ち、青い目は光を放った。
「厚かましい犬っころ」彼は静かにいった。「人目のないそこの角までつい
て来い。じきじきに個人指導をしてやろう」
彼は先に立って路地の角を曲がった。めくら壁にはさまれたこの狭い道筋で
二人は顔をつきあわせた。
「グーテンベルグの名前にかけて」ロジャーは守護聖人に呼びかけていった。
「どういうことか説明しなければ、一発お見舞いしてやるぞ」
「そいつはだれだ?」オーブリーはせせら笑った。「貴様の好きなドイツ野
郎の一人か?」
そのとき彼は顎に鋭い一撃を受けた。ロジャーが砂利敷きのむらのある足下
を計算に入れていたらもっと強烈だったろう。しかも自分より何インチも上背
のある敵なだけに、その一撃は充分顔に届かなかった。
オーブリーは自分より背の低い男は殴らないという自分の信条を忘れ、やは
り守護聖人――世界広告クラブ連合――に呼びかけて、猛烈な強打を書店主の
胸に放った。相手は小路の幅を半分ほどよろめき退いた。
二人とも頭に血が上ってみさかいがなくなっていた――オーブリーは過去数
日間の心配と疑惑が積もり積もっていらだっていたし、ロジャーはもともとか
んしゃく持ちなところに不当な無礼を受けて怒りを爆発させていた。この対決
は背の高さと重量に勝り、二十才も若いオーブリーのほうが有利だったが、幸
運は書店主に味方した。オーブリーの強打は相手を道の反対側の縁石の上まで
よろめかせた。そのあと一気に襲いかかり、強烈な一撃で相手を倒すつもり
だった。しかしロジャーは冷静にかまえ、地の利を利用した。縁石の上に立つ
と、彼はわずかだが高さで相手の優位に立ったのである。オーブリーがぞっと
するような憎しみを顔に浮かべて飛びかかってきたとき、ロジャーは顎に容赦
のないパンチをお見舞いした。オーブリーは足を縁石に当て、砂利の上に後ろ
むきにひっくり返ってしまった。頭を砂利に強く打ちつけ、古傷がまた開いた。
目の前がくらくらし、気持ちも動揺し、彼はその瞬間に闘う気力を失った。
「この横柄な青二才」ロジャーがあえぎながらいった。「まだやる気か?」
そのとき彼はオーブリーがほんとうに怪我をしていることに気がついた。若者
の側頭部を血がしたたり落ち、かれはぎょっとした。
「たいへんだ。殺してしまったのかもしれない!」
彼は泡を食って角を曲がり、店の外に立っていたレアリー書店の店員をつか
まえた。店の前に小さなボックスがあって、そこで店頭本の販売をしていたの
である。
「すぐ来てくれ」彼はいった。「裏に大けがをしている人がいるんだ」
彼らが走って角を曲がると、オーブリーがふらふらしながら彼らのほうに歩
いてきた。ロジャーの心のなかを大きな安堵感が駆け抜けた。
「きみ。たいへん申し訳ないことをした――大丈夫かね?」
オーブリーは真っ青な顔で彼をにらんだが、気が動転して話すこともできな
かった。うなり声を上げ、他の二人がそれぞれ両側から彼を支えた。レアリー
の店員は店のなかに飛び込み、裏にある貨物用エレベータのドアを開けた。こ
うしてぶらぶら本を見ている数人の客に見られただけで、オーブリーは古本の
包みのように店内に運び込まれた。
ミスタ・ウォーナーが店の裏で彼らを迎えた。いくぶん驚いていたようだが、
物静かな態度は変わらなかった。
「どうしたんですか?」
「ああ、『トゥックのパンテオン』を奪い合っていたんだ」ロジャーがいっ
た。
彼らはオーブリーを店の奥の小さな専用事務室に連れて行った。そこで椅子
に座らせ、血の出ている頭を冷たい水で洗った。どんなときでも手はずのいい
フィリップ・ウォーナーは外科用の絆創膏を持ってきた。ロジャーは医者に電
話をしようとした。
「やめてください」オーブリーは落ち着きを取りもどしていった。「いいで
すか、ミスタ・ミフリン、この頭の傷はあなたがつけたなんていい気になって
思わないでくださいよ。この前の晩、あなたのいまいましい店を出てからブ
ルックリン橋の上でやられたんです。しばらく二人だけになれるなら、話した
いことがあります」
第十四章 「クロムウェル伝」最後の登場