ボードレールはアホウドリについて感動的な詩を書いていて、これはあなた

も気に入ると思う――詩人の魂はその自由な青空においてこそ優美だが――俗

な大地を歩む姿は無力で、屈辱的で、醜く、不器用――いや、そこは大地では

なく、実際には刻みたばこのパイプで水夫にいじめられる甲板なのだが、云々。

日の暮れるのが早くなり、ここでわたしが棚に囲まれ、どんな夜を過ごして

いるか想像がつくでしょう! もちろん十時に店を閉めるまで、絶えず邪魔が

はいります――この手紙を書いている最中も同様です。一度は「叔父さん征

伐」を売り、一度は「レディング獄舎の唄」を売るといった具合で、わたしの

お客さんの趣味が多種多様だということがわかりますね! しかしこのあと夫

婦で夜のココアを飲み、ヘレンが寝てしまうと、わたしは店をうろつき、あっ

ちの本やらこっちの本をのぞき込み、思索の美酒に酔いしれるのです。夜更け

になると精神は、どれほど澄んだ輝く流れとなってあふれだすことか! 昼間

の沈殿物や浮遊するごみがすっかり消えています。ときにはこれこそまさに美

か真実の岸辺ではないかと思えるところを進み、そのきらきらした砂浜に砕け

る波の音が聞こえるような気がします。ところがつぎの瞬間には沖合から倦怠

と偏見の風が吹き、ふたたびわたしを運び去ってしまう。アンドレーエフの

「偉大な日々のあいだに語られた卑小なる男の告白」を読んだことがあります

か? 先の戦争から生まれた誠実な本のひとつです。卑小なる男は告白をこん

なふうに締めくくっています――

わたしのなかから怒りが去って、悲しみがもどり、また涙が流れる。わたし

はだれを呪うことができるだろう、だれを裁くことができるだろう、わたした

ちすべてがおなじように不幸だというのに。苦痛はあらゆるところにある。お

互いに手を伸ばし合い、その手が触れあうとき――大いなる解決が訪れるだろ

う。わたしの心は燃え立つように輝き、わたしは手を差し伸べ、こう叫ぶ。

「さあ、手をつなぎ合おう! わたしはあなたたちを愛しているのだ、愛して

いるのだ!」

そしてもちろんそんな気持ちになった途端、他のだれかにポケットの金をすら

れてしまうわけですが――まあ、すられたって平気な顔をしていられるくらい

の気位を教育すべきでしょうね!

世界はじつは本によって支配されている、などと考えたことがありますか?

たとえばこの国が戦争に突入した道筋はウィルソンがものを考えはじめたと

きから読んだ本によって大筋決められていたのです! 戦争がはじまってから

彼が読んだおもな本のリストが手に入ったら、これは面白いでしょう。

ここにお客さんに考えてもらおうと思って掲示板用に今写している詩があり

ます。一九一五年にフランスで戦死した若いイギリス人、チャールズ・ソー

リーの書いたものです。彼はまだ二十歳でした――

ドイツへ

きみはぼくらのように目が見えない きみは意図して人を傷つけたのではな

かった

そしてだれもきみの国土を征服しようとしたのではなかった

しかしいずれも狭隘な思想という戦場を手探りし

ぼくらはつまずき 互いを理解しない

きみが見ていたのは きみの大いなる未来だけ

ぼくらが見たのは 先に行くほど細くなるぼくらの心の道だった

ぼくらは互いに相手の大切な道に立ちふさがり

非難し 憎み合う そして盲人が盲人にうちかかる

平和がきたときに ぼくらはもう一度

新たな目でお互いの本当の姿を見直し

不思議に思うかも知れない もっと慈愛と思いやりを学んだとき

ぼくらはしっかり手を握り合い 過去の苦しみを笑い飛ばす

平和がきたときに しかし平和がくるまでは嵐

暗闇 いかずち 雨

気高い響きがあるでしょう? わたしがへどもどしながらいおうとしているこ

とがわかりますか――戦争は人類を浄化したのだと(後生の人に)思えるよう

な、そんな戦争のとらえ方です。悪臭を放つ灰や、苦しむ肉体、原型を失うま

で弾丸を撃ち込まれ、血と汚水の泥沼のなかに横たわる人間といった単なる暗

黒のイメージではなくて。そんな口にすることもはばかられるような荒廃から、

人間は、隣人としての国家という新しい概念にかならずや目覚めなければなり

ません。ドイツをいくら罰してもその罪は充分にあがなえないといった不安の

声がたくさん聞こえてきます。しかしあのような広範囲の悲しみにたいしてど

んな罰を考え出し、押しつけられるというのでしょう。ドイツはすでに自分を

手ひどく罰しているし、これからもそれはつづくと考えます。わたしたちの経

験が生命の――人間だけでなく動物も含むすべての生命の――威厳にたいする

なにか新しい自覚を世界にもたらすことになれば、と祈っています。動物園に

行くと生命力のとてつもない奇怪な多様性に驚き、謙虚な気持ちになりません

か?

どんな生命の形のなかにも見いだせるものはなんでしょう? ある種の欲望

――ほんのちっぽけな虫をすらその奇態な旅へと駆り立てる説明しがたい原動

力のようなものです。あなたもきっと垣根の横木をせわしなく動きまわってい

る、ものすごく小さな赤い蜘蛛を見たことがあると思います――いったいなぜ

そんなことをするのでしょうか、そしてどこへ行こうとしているのでしょうか?

だれにもわかりません。人間ともなれば、どれほど混沌とした欲望と衝動が、

彼らをそのおかしな仕事の繰り返しにおもむかせていることやら! それにど

の人間の心にもなんらかの悲しみ、挫折、苦しみがひそんでいます。わたしは

よくラフカディオ・ハーンが書いている日本人の料理人の話を思い出します。

ハーンは感情を顔に出さない日本人の習性について語っていました。彼が雇っ

ていた料理人は、いつもにこにこしている、機嫌のいい、健康な、人当たりの

よさそうな若者でした。ところがハーンはある日、偶然にも、壁の穴からひと

りぼっちの料理人を見たのです。彼の顔はいつもの顔ではありませんでした。

痩せて引きつって、過去の苦労や辛酸によってできた奇怪なしわを浮かべてい

ました。ハーンは「死人のような表情だ」と思いました。彼は台所に入ってい

きました。すると途端に料理人はふたたび若々しく、しあわせそうな顔に様変

わりしたのです。それから二度とハーンは悩みを抱えた顔を見ることはありま

せんでした。しかし彼は男がひとりのときはそんな顔をしていることを知って

いました。

これは人類全体にあてはまる寓話のようなものだと思いませんか? だれか

に出会って、その人が世間からどんな輝かしい悲しみを隠しているのだろう、

とか、どんな理想と現実の差に苦しめられているのだろう、とか、思わずにい

られたことがありますか? 微笑みを見せるどの仮面の背後にも、苦痛にゆが

む謎めいた顔がないでしょうか? ヘンリー・アダムスが簡潔にそれを表現し

ています。人間の心は未知の、想像もできない虚空から突然、不可解な形であ

らわれると。人間の心はその生の半分を眠りという精神的混乱のなかで過ごし

ます。目覚めているときさえ、それは適応能力の欠如、病気、加齢、外からの

暗示、生理的欲望の犠牲者です。己の感覚を疑い、道具ばかりを頼り、平均値

しか信用しない。ますます大きな驚きを味わいながら六十年ほどしてふと気が

つくと、心はなにもない死の空間を呆然とのぞき込んでいる。そして、アダム

スがいうように、そんな人生に満足だと公言することが、最高の教育に望みう

るすべてなのです。精神が満足するといっても、それは自分が白痴のような存

在であることを証明するだけです!

このことに関してあなたがどんなふうに思っていらっしゃるか、お手紙をい

ただければうれしく思います。わたしは今まさにすばらしいことが起きようと

しているような感じがしています。ずっと以前、本はただ一つ変わることのな

い心の慰めだと思っていました。本は人類が生み出した、文句のつけようのな

い完璧な作品です。何千冊もの本を未読のまま死んでいかなければならないこ

とを考えると悲しくなります。それらは崇高な、満ち足りた喜びを与えたはず

なのですから。一つ秘密をお話ししましょう。わたしは「リア王」を読んだこ

とがありません。わざと読まないようにしているのです。もしも重い病気にか

かったら、わたしは自分にこういえばいいのです。「まだ死ぬわけにはいかな

いぞ。『リア』を読んでいないのだからな」そう思えばわたしは病気から回復

するでしょう。きっと回復しますとも。

本はわたしたちが困惑したときの答えです! ヘンリー・アダムズは宇宙が

理解できないと歯ぎしりします。彼にできるのはせいぜい「加速の法則」を提

案するくらいです。それはどうやら自然がますます勢いをつけて人間をせき立

て、その結果人間は問題をことごとく解決するか、その努力の最中に熱病にか

かって死ぬか、いずれかになるだろうということらしい。しかしアダムスが遠

慮なくあからさまに描き出していますが、精神が絶望的なまでに謎に取り組む

様子は狂喜乱舞するようなおもしろさで、その描写の的確さに、奮闘の虚しさ

など忘れてしまうぐらいです。人間は自分の無力すら気晴らしの種にしてしま

うのですから、まったくいい根性をしています。どうやら人間の信条は、「神

がわたしを殺すとしても、わたしは神を笑ってやろう!」というものらしい。

ええ、本は人間の最高の勝利です。本はそれ以外のすべての勝利をかき集め、

後生に伝えるのですから。ウオルター・デ・ラ・メアが書いているように「天

使が、小説に夢中のあわれな人間を見たらどれほど不可解な思いでほほえむこ

とだろう。どっかと椅子に腰をおろして身じろぎもせず、鼻の頭にめがねをの

せ、二本の足を人魚の尻尾みたいにぴったりくっつけ、珍妙な目だけが年を刻

んだ顔のなかで動いている」

さてさて、わたしは駄文を弄して近況報告をなにもしていませんでした。ヘ

レンはボストンでおおいに羽を伸ばし、先日もどってきました。今晩彼女は、

わたしたちの若い門弟、ミス・ティタニア・チャップマンと映画に出かけてい

ます。ミス・チャップマンは本屋の見習いとしてうちが受け入れた魅力的な娘

さんです。うちのような店に若い娘さんが見習いに来るなんて、なんとも妙な

話ですが、これは彼女の父親、どこにでも広告が出ているチャップマン・デイ

ンティビッツの経営者から、頼まれてしていることなのです。彼は大の本好き

で、その情熱を娘にも受け継がせようと、とても熱心なのです。本についてこ

んこんと説くことができる新しい帰依者を迎え、わたしがどれくらい喜んでい

るか想像ができるでしょう! また、彼女のおかげでわたしは今までよりもい

くぶんか店を離れて活動することができます。今日の午後、フィラデルフィア

から電話があり、蔵書を売りに出すので、来週の月曜日、こっちにきて見積も

りを出してくれないかと頼まれました。どうしてわたしの名前を知ったのか知

りませんが、ちょっとくすぐったい気がしました。

長々と、脈絡もないことを書きつづってしまい申し訳ありません。「エレホ

ン」はいかがでしたか? もうすぐ閉店の時間です。本日の儲けに感謝の祈り

を唱えなければなりません。

頓首再拝

ロジャー・ミフリン

第十章 ロジャー、冷蔵庫をあさる

ちょうどロジャーがカーライルの「クロムウェル伝」を歴史アルコーヴのあ

るべき場所にもどしたとき、ヘレンとティタニアが映画から帰ってきた。ボッ

クは主人の椅子の下でうたた寝していたのだが、礼儀正しく起きあがると敬意

をあらわすように尻尾を振った。

「ボックってしぐさにとっても愛嬌があるわ」とティタニアがいった。

「そうね」とヘレンが応えた。「あれだけ尻尾を振っても筋肉がぜんぜんす

り切れないんだから、ほんとうに驚いちゃうわね」

「それはそうと」とロジャーはいった。「楽しかったかい?」

「とっても!」ティタニアがあまりにも顔を輝かせ、きらめく声でそういっ

たものだから、かびくさい常連客二人が「随筆」と「神学」のアルコーヴから

頭を突き出し、びっくりしたように彼女を見たくらいである。そのうちの一人

は三人に近づいて驚いた目を満足させようと、むさぼるように読んでいた

リー・ハントの「ウィッシング・キャップ新聞」をわざわざ買い求めた。ミ

ス・チャップマンが本を受け取り包装したとき、彼の驚きは頂点に達した。

自分が売り上げを伸ばすのに一役買っているとも知らずに、ティタニアは話

をつづけた。

「途中であなたのお友達のミスタ・ギルバートに会ったんですよ。それで一

緒に映画に行ったんです。月曜日にお店に来て、あなたが留守のあいだに、か

まどを修理するとかいっていました」

「それはそれは。広告代理店というのはじつに商売熱心だねえ。ちょっとで

も広告業務を請け負う可能性があれば、従業員を送り込んでかまどの面倒まで

見させるんだから」

「静かな夜が過ごせた?」ヘレンがいった。

「ずっとアンドリューに手紙を書いていたんだ。でも面白いことが一つあっ

たよ。例の『フィリップ・ドルー』が売れたんだ」

「まさか!」ヘレンが大声を出した。

「ほんとうだよ。客が本を見ていたんで、作者はハウス大佐(註 外交官で

ウィルソン大統領の腹心)らしいといったんだ。ぜひ売ってくれといわれたよ。

しかし読み出したらえらくがっかりするだろうなあ!」

「ハウス大佐が書いたんですか?」ティタニアが訊いた。

「さあね」ロジャーがいった。「そうじゃないことを願うよ。わたしはミス

タ・ハウスは有能な人物だとひそかに信じている。もしもあれを書いたのだと

したら、パリの講和会議の場で外国政治家にその事実がばれないことを切に願

う」

ヘレンとティタニアが外套を脱いでいるあいだに、ロジャーは忙しく店を閉

めていた。彼はボックと通りの角まで行って手紙を投函した。居間にもどって

くると、ヘレンが大きなポットにココアを用意していた。彼らは暖炉のそばに

座りそれを味わった。

「チェスタートンがココアをこっぴどく非難する詩を書いている」とロ

ジャーがいった。「『さまよえる居酒屋』に出てくるんだが、しかしわたしは

理想的な夜の飲み物だと思うよ。ゆったり心を鎮めてくれて、眠りに誘ってく

れる。とびきり激しい哲学的苦悩もミセス・ミフリンのココアが三杯あれば癒

される。ショーペンハウエルだってスプーン一杯のココアとコンデンスミルク

の缶があれば一晩じゅう読んでいられるというものだ。もちろんコンデンスミ

ルクを入れなければいかんよ。そういうものだと決まっているんだ」

「こんなにおいしいものとは知らなかったわ」ティタニアがいった。「たし

かにお父さんは工場の一つでコンデンスミルクを作っていますけど、自分がい

ただこうなんて夢にも思いませんでした。探検家だけが食べるものと思ってい

たんですもの、北極に行く人とかが」

「うっかりしていた!」ロジャーが叫んだ。「きみに話すのをすっかり忘れ

ていた! 夕方二人が出かけたあと、すぐにお父さんから電話があって、調子

はどうだと尋ねていたよ」

「あら。はじめてのお仕事なのに、二日目にもう映画に出かけたと聞いて、

お父さん、きっとあきれていたでしょうね! 『まったくあの娘は』なんて

いったんじゃないかしら」

「わたしがミセス・ミフリンと出かけるように勧めたんだと説明しておいた

よ。気分転換が必要だと思ったんだってね」

「お願いですから、お父さんがいうことなんか真に受けないでくださいね。

お父さんたら、わたしの見かけがうわついているから、心も浮ついていると

思っているの。でもわたし、ここでいい仕事をしたいと思ってやる気満々なん

ですよ。午後はずっと包装の練習をして、紐を切らずに上手に結び目が作れる

ようにしました。先に紐を切ってしまうと、短すぎて縛れなかったり、長すぎ

てちょっぴりむだになったりするんですね。それから包装紙でカフスを作って

袖を汚さないようにすることも覚えました」

「おいおい、わたしの話はまだ終わってないよ」とロジャーがつづけた。

「お父さんは明日わたしたちみんなを家に招待するというんだ。買ったばかり

の本を見てもらいたいんだそうだよ。それにきみがホームシックにかかってい

るんじゃないかと思っているらしい」

「なんですって。こんなにすてきな本があるっていうのに? ばかばかしい!

半年は家に帰る気がしないわ!」

「いやとはいわせないつもりだよ。明日の朝いちばんにエドワードを迎えに

寄こすようだ」

「おもしろそうね!」ヘレンがいった。「楽しみだわ」

「とんでもないです。このすてきな本屋さんを離れてラーチモントで日曜を

過ごすなんて。でも、いいわ、うっかり置いてきたジョーゼットのブラウスが

取りに行けるから」

「何時に車が迎えに来るの?」ヘレンが訊いた。

「ミスタ・チャップマンは九時ごろだといっていたがね。できるだけ早くに

出るようにといわれたよ。一日本を見てほしいそうだ」

彼らがしだいに消えていく石炭の火を囲んで座っているとき、ロジャーは自

分の蔵書の棚を見まわしはじめた。「ギッシングは読んだことがあるかい?」

と彼はいった。

ティタニアはミセス・ミフリンにむかって悲しげな仕草をした。「そういう

ことを訊かれるとすごく困っちゃう! いいえ、聞いたこともありません」

「そうか。家の前の通りは彼にちなんで名前がつけられているので、知って

おくべきだと思うな」彼は「蜘蛛の巣の家」を引っ張り出した。「これからわ

たしが知るいちばん素晴らしい短編小説の一つを読んであげよう。題名は『ゆ

かしい家族』だ」

「だめよ、ロジャー」ミセス・ミフリンが断固としていった。「今晩はいけ

ないわ。十一時だし、ティタニアは疲れているじゃない。ボックだって犬小屋

に引っ込んだのよ。あなたよりよっぽど常識があるわ」

「よしよし」書店主は素直にいった。「ミス・チャップマン、よかったら本

を持っていって寝床のなかで読みなさい。きみは閨房閲覧者《リブロキュビ

キュラリスト》かい?」

ティタニアは目を白黒させた。

「驚くことはないわよ」ヘレンがいった。「ベッドで本を読むのが好きかっ

て訊いているだけ。あの単語が出てくるのを、わたし、いまかいまかと待って

いたの。うまく使えたので、彼はご機嫌よ」

「ベッドで読書ですか? 変わっていますね! そんなことする人がいるん

でしょうか? 考えたこともなかったわ。ベッドに入ったら眠たくて眠たくて、

そんなことをしようなんて思う暇もないわ」

「それじゃ、お二人ともお休みなさい」とロジャーがいった。「美容のため

に寝たほうがいい。わたしもすぐ寝るよ」

そう話したときはそのつもりだったのだが、店の奥の机にもどると彼はバー

トンがいうところの「不安を鎮める」本を納めた自分の蔵書の棚の上に視線を

落とした。この棚には「天路歴程」、シェイクスピア、「憂鬱の解剖」、「家

庭版詞華集」、「ジョージ・ハーバート詩集」、サミュエル・バトラーの

「ノートブックス」、「草の葉」が並んでいた。彼は「憂鬱の解剖」を取り出

した。真夜中に拾い読みをするならこれ以上におもしろい本はない。お気に入

りの一節「心に安らぎを与える脱線 数々の不満を癒す方法」をめくっている

と、本にひきこまれて、時計のかちかちと時を刻む音すら耳につかなくなる。

唯一身体に残った意識はときどきパイプの灰を捨て、詰め直し、火をつけるの

に必要な動作をするだけだった。毎日退屈な仕事のあれやこれやに追われる人

間にとって、ひとりの時間は貴重な宝石である。ロジャーは貪るように真夜中

の黙想にふけった。ロバート・バートンやジョージ・ハーバートのような信頼

できる伴侶とはいつも打ち解けたつきあいをしてきた。孤独なオックスフォー

ドの学者バートンがみずからの憂鬱を「癒す」ためにあの膨大な本を書いたの

だと思うと彼は愉快な気持ちになったものだ。

かびくさい古いページをめくっていくうちに、やがて「眠り」に関するつぎ

のような一節にぶつかった――

夕ご飯を食べて二、三時間後が最適である。その頃には食べ物が胃袋の底に落

ち着いているからだ。まず右の脇腹を下にして寝るのがよい。その位置だと肝

臓が下になるので、胃は圧迫されず、火の上に置かれたやかんのように暖めら

れるからである。寝入りばなに左側を下にすると食べ物がいっそう降下する。

時にはうつぶせもいいが、仰向けは絶対いけない。睡眠時間は憂鬱症の人間に

は七、八時間がちょうどよい――

そうだとすれば、わたしも寝る時間だな、とロジャーは考えた。時計を見る

と十二時半だった。明かりを消してかまどの火を見に台所にもどった。

作者としては家庭内のいざこざに触れることはためらわれるのだが、ここは

思い切ってロジャーが夜の見まわりの最後に必ず冷蔵庫にむかうことを申し上

げねばならない。冷蔵庫のものを盗み食いすることについては二つの説があり、

一つは夫の立場からの説、もう一つは妻の立場からの説である。夫は(単純な

ものだから)冷蔵庫内のごちそうをどれも少量ずついただいて、食べ物への略

奪を分散させれば、全体として荒らされた跡はほとんど残らないと考えがちだ。

しかるに妻に言わせれば(そしてミセス・ミフリンもロジャーにしばしばいっ

て聞かせるのだが)、どれもこれもをすこしずつ食べるのではなく、一つの品

を全部平らげられた方がはるかに都合がいいのだ。というのは前者の場合はど

の品も残り物として有用な量を切ってしまうことになりやすいからである。し

かしロジャーはよき夫ならだれもが持つ頑固な意地の悪さがあり、しかも冷た

くひえた食べ物のうまさを知っていた。プルーンの煮込み、サヤエンドウ、味

つけしてない冷たいゆでじゃがいも、チキンレッグ、アップルパイの残り半分、

ライスプディング一口分、そうしたものが何度も何度も真夜中の宴で消えて

いったのである。彼はどの皿も平らげてしまわず、衰えることのない食欲で次

から次へとつまみ食いすることを信条としていた。戦争のあいだはきっぱりと

この習慣を絶っていたが、ミセス・ミフリンは休戦成立以来、それが獰猛な食

欲とともに再開されたことを知っていた。この習慣のせいで家庭の主婦はつぎ

の日の朝、無惨な食べ残しが集積する悲劇的光景を目撃することになる。小さ

なお茶碗にビートが二切れ、一インチ幅の細長いアップルパイのかけら、わず

かにシロップを帯びてつつましく身を寄せ合うプルーンが三粒、黄色いボール

にいっぱい作ってあったのに、今や大さじ一杯分しか残っていないルバーブの

煮込み――どれほど有能な料理人でもこんな半端物でなにができるというのだ

ろう? こういうたちの悪い習慣はいくら激しく非難してもしすぎることはな

い。

しかしわたしたちの性根は変わるものではないし、しかもロジャーは普通の

人以上に頑固だった。「憂鬱の解剖」を読むといつも彼は腹がへり、こっそり

とご馳走の皿をいろいろ漁るのである。ボックもほんの一口、そのお裾分けに

あずかるのだが、この秘密の夕餉にむける茶色い懇願の目は、それが恥ずべき、

こそ泥じみた性質のものだと彼が自覚していることを滑稽にもあらわしていた。

ボックはロジャーに冷蔵庫を荒らす権利がないことをちゃんと知っていた。犬

は、どんな家庭であっても従うべき社会的な決まり事を、大枠において明確に

理解している。しかしボックの顔はびくびくしながらも罪悪に身を投じたがっ

ていることを示していた。ロジャーは黙って非難がましく横で見つめられるよ

りはましだと、冷えたじゃがいもはほとんど彼に与えたものだ。犬に見とがめ

られて耐えられる人間はいない。しかしバートンではないが、わたしの話も本

筋からそれてしまったようだ。

冷蔵庫のあとは、地下室である。自分の家を持つ者はだれでもそうだが、ロ

ジャーも地下室に強い愛着を持っていた。ややかびくさいにおいはしたが、そ

こには酒がたっぷり詰まった箱があった。そしてコンクリートの床の上で桜色

の輝きを放つかまどの口は、書店主にとって大きな喜びだった。火室の真っ赤

な石炭の上で、小さな青い炎が飛び跳ねる様子はじつに目に快かった――それ

はスミレの花のように青い、かすかな、ふんわりとした小さな炎で、上昇する

ガスにゆすられて伸びたり縮んだりするのだった。石炭をくべて火が隠れてし

まう前に、彼はブッシュミルズ・ウイスキーの木箱を引っ張り出して、頭の上

の電灯を消し、そこに腰をおろして、火床のバラ色の輝きを見ながら最後の一

服を吸う。タバコの煙は熱い火によってかまどに吸いこまれ、黄金色の光のな

かで灰色に乾いて見えた。ボックは彼について階段をおり、地下室をあちらこ

ちら嗅ぎまわったり詮索して歩いた。ロジャーは不滅のたばこについてバート

ンが語ったことばを思い出していた。

たばこ、神から授けられた、貴重な、このうえないたばこ、それはいかなる

不老長寿の薬、王水に溶けた金、賢者の石にも勝る至高の万能薬――無闇に吸

うのではなく、適度に服用し、薬として使用するなら効き目のめざましい薬草

である。しかし一般的には鋳掛け屋がエールを飲むように濫用されているため、

疫病、害悪と化し、財産や土地や健康をひどく損ない、地獄の悪魔のように呪

われ、精神と肉体を荒廃させ滅ぼすものとなっている――

ボックは後ろ足で立って地下室の正面の壁を見あげていた。そこには鉄格子

のはまった小窓が二つあり、店の正面入り口脇のくぼんだところに面していた。

彼は低いうなり声をあげ、落ち着かなげに見えた。

「どうした、ボック?」ロジャーはパイプを吸い終えておだやかな口調で

いった。

ボックは短く、鋭く、一声吠えたが、そこには抗議するような奇妙な響きが

あった。しかしロジャーの心はまだバートンとともにあった。

「ネズミかい?」彼はいった。「さもありなん! ここはラティスボンだか

らな、おまえさん、吠えちゃいかんよ。『フランスキャンプの出来事』(註

ロバート・ブラウニングの詩)にはこうある。『微笑みながら、ねずみは斃れ

た』(註 ブラウニングの詩の最終行は「微笑みながら、少年は斃れた」)」

ボックは冗談に取り合わず、妙に興奮して上を見ながら地下室の正面のほう

へ忍び足で進んだ。彼はまた低くうなった。

「シーッ」ロジャーがやさしくいった。「ねずみなんか気にするな、ボック。

ほら、石炭をくべてベッドに行くぞ。おやおや、一時じゃないか」

第十一章 ティタニア、ベッドのなかで読書をこころみる

オーブリーはオペラグラスを手に窓際に座ったが、すぐに自分が疲れ切って

いることに気がついた。ロマンチックな英雄的行為にはやる心も疲れにはかな

わない。夢を追い求める者すべてにとって手ごわい敵である。その日は長い一

日だったし、前日は頭をかち割られそうになった。窓を押し上げ、冷たい風に

あたりながら、彼はかろうじて目を開けていた。うとうととしかけたときに、

通りのむこう側から足音が聞こえてきた。

それまでも何度か眠い目をこすり、ブルックリンの清らかな闇を、罪のない

人々がそぞろ歩くのを見ていたのだが、しかし今度こそ待ちかまえていたもの

が来たようだ。その男は慎重かつ自信のある足取りで人目をはばかるように進

んできた。オペラグラスは、本屋のそばの街灯の下に立ち止まった男の姿を、

オーブリーの目に大きくうつした。薬屋のワイントラウブだった。

本屋の正面は真っ暗闇で、舗道より下の部分がかすかに不思議な光を放って

いるだけだった。オーブリーはそれを見て変だとは思ったものの、店の入り口

にオペラグラスをむけつづけた。ワイントラウブがポケットから鍵を取り出し、

ひどく用心しながら鍵穴に差し込み、そっとドアを開けるのが見えた。ドアを

開けたままにして、薬屋は店のなかに入った。

「いったいなにをしているんだ?」オーブリーは怒りを覚えた。「あの野郎、

自分用の鍵まで持っているぞ。まちがいない。あいつとミフリンは手を組んで

いるんだ」

一瞬彼はどうしてよいかわからなかった。下に駆けおりて通りのむこうに行

くべきだろうか? 彼が躊躇しているそのとき、本屋の左の角にあわい光の筋

がさした。オペラグラスをのぞくと、おぼろに見える本棚に懐中電灯の黄色い

光の輪が映っていた。ワイントラウブが棚から一冊の本を引き抜くと光は消え

た。つぎの瞬間、男はふたたび入り口にあらわれ、音を立てないように注意し

ながらドアを閉めると、ひっそりすばやく通りをむこうへ去った。すべてが終

わるのに一分しかかからなかった。ドアの下のあたりに一、二分のあいだ黄色

い楕円形の光が二つ見えていた。オペラグラスで見るとその光の斑点は地下室

の窓だった。やがてその光も消え、すべてがおだやかな薄暗闇に包まれた。震

えるような街灯の明かりのなかに、「この店には幽霊がいます」という本屋の

看板が白く光った。

オーブリーは椅子に深く腰掛けた。「なるほど」彼はひとりごちた。「あの

店にぴったりの名前だ。いったいどういうことなのかさっぱりわからないぞ。

やっぱりただの本泥棒なのかな。あいつとワイントラウブでにせ初版本を作っ

たりとか、その手の詐欺をはたらいているのだろうか? なんとかして調べた

いものだが」

彼は窓辺で見張りをつづけたが、ギッシング通りの静けさを破るものはなに

もなかった。遠くのほうから高架鉄道がワーズワース・アヴェニューのカーブ

をきしりながら通過する音が低く聞こえてきた。通りを横切り、店のなかに飛

び込んで、何事もなかったかどうか確かめるべきだろうか。しかし健全な若者

ならだれでもそうだが、彼は物笑いの種になることを恐れていた。疲労が徐々

に彼の懸念を麻痺させていった。遠くの教会の鐘が二時を打ち、こだました。

彼は服を脱ぎ捨てベッドにもぐり込んだ。

幽霊書店 · 第 5 / 8 段