「お邪魔してごめんなさいね、旦那様」と彼女は言った。「ミスタ・シャーノールのことがちょっと気にかかって。お茶の時間にいらっしゃらなかったし、そのあとも戻ってないんですよ。もしかしたらどこにいるかご存じじゃないかと思って。こんなに遅くまで外出するなんて、何年もなかったことですから」
「あの人の居場所なんて見当もつきません」ウエストレイはやや突っ慳貪に言った。一日中働きずくめで疲れていたのだ。「夕ご飯を食べに外に出たんでしょう」
「ミスタ・シャーノールを誘う人なんていませんわ。夕食のために外に行ったとは思えないんです」
「まあ、そのうちあらわれるでしょう。戻ってきたらお休みになる前に知らせてください」彼はもう一杯お茶を注いだ。彼は淡泊な、婆さんじみた人間の一人で、お茶には他の飲み物にはない特別の効用があるとまで考えていた。なぜみんなお茶を飲まないのか理解できないと彼は言った。他の飲み物よりもずっと元気が回復するし――お茶を飲んだ後は仕事もはかどるのに。
彼は引っ張り鉄の断面図の計算をまたやりはじめた。サー・ジョージ・ファークワーは引っ張り鉄で塔の南側を補強することにとうとう同意したのだ。彼は時間の経つのを忘れたが、そのとき再びいらだたしいノックが聞こえ、女主人がまたあらわれた。
「もうすぐ十二時ですわ」と彼女は言った。「なのにミスタ・シャーノールは影も形も見えません。わたし、とても心配なんですよ!お邪魔して本当に申し訳ないんですけど、ミスタ・ウエストレイ、でも姪もわたしも心配でたまらないんです」
「わたしにどうしろと言うんです」ウエストレイは顔を上げて言った。「ブランダマー卿と外出したってことは考えられませんか。ブランダマー卿が彼をフォーデングに招待したってことは」
「ブランダマー卿は今日の午後こちらにいらっしゃいました」ミス・ジョウリフは答えた。「でもミスタ・シャーノールにはお会いになりませんでした。ミスタ・シャーノールがいなかったものですから」
「へえ、ブランダマー卿が来たんですか」ウエストレイが訊いた。「わたしに言付けでもありませんでしたか」
「あなたがいらっしゃるかとはお尋ねになりましたが、言付けはありませんでした。わたしたちと一緒にお茶をお飲みになったんです。ただの友達づきあいでいらっしゃったんじゃないかしら」
ミス・ジョウリフはちょっともったいぶって言った。「わたしとお茶を飲もうとしてお出でになったのだと思います。残念ながらわたしはドルカス会に出てたんですけど、わたしが戻ると一緒にお茶を飲んでくださいましたの」
「変ですね。卿はいつも土曜の午後に来るみたいですね」とウエストレイは言った。「土曜の午後は必ずドルカス会に行くんですか」
「ええ」とミス・ジョウリフは言った。「土曜日の午後は必ず会に出席します」
一分間ほど沈黙があった――ウエストレイもミス・ジョウリフも考えこんでいた。
「まあ、何にせよ」とウエストレイが言った。「わたしはもう少し仕事していますから、ミスタ・シャーノールが帰ってきたら中に入れてやりますよ。でもフォーディングで一泊するように招待されたような気がしますがね。ともかく安心して寝てください、ミス・ジョウリフ。いつもの就寝時間をとっくに過ぎているじゃないですか」
ミス・ユーフィミアは床に就き、ウエストレイは一人残された。数分後十五分置きに鳴る四つの鐘が鳴り、それから低音鐘が十二時を打ち、次に全部の鐘が夜も昼も三時間ごとに奏でる曲を鳴らしはじめた。聖セパルカ大聖堂の近隣に住む人々は鐘の音など聞きはしない。耳が慣れてしまい、十五分置き、一時間置きの鐘の音は、人々に意識されることなく鳴った。もしもよそ者が大聖堂の近くに泊まったなら、その騒音は最初の晩こそ彼らの眠りを破るが、その後は何も聞こえなくなる。ウエストレイも夜な夜な遅くまで仕事をしていたが、鐘が鳴ったかどうか分からなかった。鐘が聞こえるのは注意力が目覚めているようなときのみである。しかしこの夜は鐘が聞こえ、「エフライム山」の穏やかなメロディに聴き入っていた。
彼は立ち上がり、窓を開け、外を眺めた。嵐は去っていた。数時間後に満月となる月が蒼い天空に清らかに昇り、その下には白いまだら模様の雲が長々とたなびいていた。雲の縁が虹のような琥珀色に輝いていた。ウエストレイはびっしり並ぶ町の屋根や煙突を見渡した。市場から立ち昇る光は、目で確認することはできないけれども、ランプがまだ灯されていることを示していた。その後光は次第に弱くなり、ついには消えてしまった。真夜中を過ぎたので明かりが消されたのだろう。月の光はまだ濡れている屋根屋根の上で輝き、そのすべてを見下ろすように聖セパルカ大聖堂の中央塔が真黒いかたまりとなって聳えていた。
建築家は奇妙に身体が緊張するのを感じた。興奮しているのだが、その理由は分からなかった。床に就いてもこれでは眠れないだろう。シャーノールが帰ってこないのは確かにおかしい。シャーノールはフォーディングに行ったに違いない。はっきり聞いたわけではないが、フォーディングに招待されたというようなことをしゃべっていた。しかしそうだとしたら一泊するために用意をして行ったはずだ。だのに、何も持ち出していない。持ち出していればミス・ユーフィミアがそう言っただろう。待てよ、シャーノールの部屋に降りていって、荷物を持ち出した跡がないか、調べてみようか。ひょっとしたら不在の理由を説明する書き置きでも残されているかも知れない。彼は蝋燭に火をつけ、足もとで石の踏み段がこだまする巨大な井戸のような階段を下りた。てっぺんの天窓から一条の月明かりが射しこみ、屋根裏部屋から聞こえる物音はミス・ジョウリフがまだ寝ていないことを彼に告げた。オルガン奏者の部屋には、彼の不在を説明するようなものは何もなかった。蝋燭の光がピアノの側面に反射し、数週間前に友人と交わした会話や、ハンマーを持った男が後ろからつけてくるというミスタ・シャーノールの奇妙な妄想を思い出し、ウエストレイは思わず身震いした。もしや友人は病気になって今まで人事不省のままじっと寝ていたのではないかとふと不安を覚え、寝室をのぞきこんだが誰もいない――ベッドは乱れていなかった。そこで彼は上の自分の部屋に戻ったのだが、夜はしんしんと冷え、もう窓を開けていられなかった。閉める前に窓枠に手をついて、中央塔が町全体を威圧し、圧倒している様を眺めた。この岩のようなかたまりがぐらつくなど、まったくあり得ない話だ。このようなよろめく巨人を支えるには、自分が今その断面図を描いている引っ張り鉄など、あまりにも弱々しく不十分だ。彼はオルガンのある張り出しから見た南袖廊のアーチの上の亀裂を頭に浮かべ、その発見のために「シャーノール変ニ長調」を途中までしか聴かなかったことを思い出した。そうだ、ミスタ・シャーノールは聖堂にいるのかも知れない。練習に行って閉じこめられたのではないか。鍵が折れたかして、出られなくなったのだ。彼はどうしてもっと前に聖堂のことを考えなかったのだろうと思った。
さっそく聖堂に行くことにした。駐在建築家である彼はどこのドアでも開けることのできるマスターキーを持っていた。寝る前に行方不明のオルガン奏者を探してこよう。彼は人気のない通りを足早に進んだ。街灯のランプはみな消えていた。カランでは満月のときはガスを節約するのである。動いているものは何もなく、足音が歩道に響き、壁と壁のあいだをこだました。波止場のそばの近道を通り、数分後には旧保税倉庫までやってきた。
壁を支えるため波止場の方向に突き出した煉瓦造りの控え壁のあいだには黒いビロードのような影が落ちていた。オルガン奏者が神経を昂ぶらせ、暗い壁のへこみに誰かが潜んでいるとか、建物と人間の運命のあいだには何かしらつながりがあると妄想したりしたことを思い出し、一人微笑んだ。しかしその微笑みが無理に作られたものであることは自分にも分かっていた。孤独感や半ば廃墟と化した建物のわびしさやごぼごぼという川の囁きに終始押しつぶされそうな気分だった。彼は本能的に足を速めた。そこを通り抜けたときはほっとして、その晩二度目であったが、後ろを振り返った。すると光と闇の不思議な効果が最後の控え壁の暗がりに誰かが立っているような印象を生み出していた。長い緩やかなケープを風にはためかせている男の姿が錯覚とは思えないくらいはっきり見えるような気がした。
錬鉄製の門をくぐり、墓地までやって来たとき、彼ははじめて柔らかく低い単調な連続音が周囲の空気を満たしていることに気がついた。束の間足を止めて聞き耳を立てた。あれは何だ?どこから聞こえてくるのだろう。敷石の小道を北の扉口へ歩いていくと、音はいっそうはっきりと聞こえてきた。間違いない。聖堂の中から聞こえてくる。いったい何の音だろう。夜中のこんな時間に聖堂で何をしているのだろう。
北のポーチに着いたとき、音の正体が分かった。オルガンの低音――ペダル音の一つだ。オルガン奏者がひどく誇らしげに説明してくれた、あのペダル音に違いないと彼はほぼ確信した。この音はミスタ・シャーノールが無事であること――聖堂で練習していることを保証するものだった。何か突拍子もない気まぐれから、こんな遅くに演奏をしているだけなのだ。あのサーヴィス「シャーノール変ニ長調」を練習しているのだ。
くぐり戸を開けようと鍵を取り出したが、すでに開いていることに気づき驚いた。オルガン奏者は中に入ると鍵をかける癖があることを知っていたからだ。聖堂の中に入る。奇妙なことに音楽は聞こえなかった。誰も演奏していない。ただたった一つのペダル音が絶えがたいほど単調な音を轟かせ、ときどきウオーター・エンジンが空になったふいごに空気を満たそうと、思い出したように動いては、かすかなどすんという音を立てるだけだった。
「シャーノール!」彼は叫んだ――「シャーノール、何をしているんです。何時だと思っているんですか」
彼は一呼吸置いた。最初、誰かが返事をしたような気がした――聖歌隊席で人々が囁き交わすのを聞いたような気がした。しかしそれは自分の声のこだまでしかなかった。自分の声が柱から柱、アーチからアーチへと投げ渡され、弱ってゆき、ランタンで「シャーノール!シャーノール!」というむせび泣きに変わったにすぎない。
夜中の聖堂ははじめてだった。身廊の円柱が月の光を浴び、経帷子を着た巨人のように列をなして白く立っている様を凝視しながら、しばらくその神秘に圧倒されて立ちつくしていた。もう一度ミスタ・シャーノールの名を呼んだが、またしても返事はなかった。そこで彼は身廊を抜け、例の小さなドアにむかった。オルガンのある張り出しに通じる、階段のドアである。
このドアも開いていたので、ミスタ・シャーノールはきっと張り出しにいないだろうと思われた。いるなら必ず鍵がかかっているはずだからだ。ペダル音は自鳴しているだけなのだろう。さもなければ、たぶん本のようなものがその上に落ちてペダルを押さえつけているのだ。張り出しに行く必要はないだろう。行くのは止めよう。振動する低音は前回の時と同じように彼を不快にさせた。彼は自分に何でもないと言い聞かせようとしたが、しかし何かがおかしい、それもひどくおかしいという不安な気持ちがますます強くなった。夜は更け、あらゆる生きとし生けるものから隔絶され、幽霊のような月明かりが暗闇をいちだんと暗くしている――完全な静寂にペダル音の陰鬱な響きが組み合わされて、彼はほとんど恐慌状態に陥った。幽霊が蠢いているような、聖セパルカ大聖堂の僧侶たちが墓石の下から蘇ったような、ほかにも不吉な顔があらわれ、じっと悪の所行を待ち受けているような、そんな気がした。彼は怯えに取り憑かれる前に、それを押し殺した。何が出て来ようとかまうものか。張り出しに行こう。彼は身廊から上へ行く階段に飛びこんだ。
既に述べたように、これは中心の小柱のまわりをぐるぐると回りながら登る螺旋階段で、長くはないが明るい昼間でも相当暗かった。しかし夜になるとインクで塗りつぶしたような闇に包まれ、ウエストレイはかなりの時間手探りで進み、ようやく月明かりが見えるところまでたどり着いた。それからついに張り出しに足を踏み入れたのだが、オルガン椅子には誰も座っていなかった。真正面には南袖廊の端にある大きな窓が光っていた。夜ではなく、昼ではないかと思われた――そのくらい窓の光は彼が後にした暗闇に比べて強烈だった。ステンドグラスが半透明に輝く狭間飾りは、鈍い光を放っている――紫水晶、黄玉、玉髄、碧玉と、神の都の土台のような十以上もの宝石たち。そしてその真ん中、中央の窓仕切りの上部で、みずからの内に秘めた光で他の何よりも輝いていたのがブランダマー家の紋章、海緑色と銀色の雲形紋章だった。
ウエストレイが張り出しに一歩踏みこむと、足が何かにぶつかり転びそうになった。ぶつかったのは柔らかくたわむ何か、触れただけで恐ろしい予感に満たされてしまう何かだった。身体をかがめて確認しようとすると白いものが目に飛びこんできた。白い顔が穹窿天井を見上げていた。彼はミスタ・シャーノールの身体につまずいたのだった。床に倒れ、後頭部を足鍵盤に載せていた。ウエストレイはかがみこんでオルガン奏者の目をのぞいたが、それらはじっと動かず生気がなかった。
死体の顔を照らす月明かりは、中央の窓仕切りの上部、いちばん明るいところから射してくるようだった。床にじっと横たわる男からまさしくその命を奪ったものは、まるで雲形紋章であるかのように思われた。
第十五章
検死審問ではウエストレイと医者の証言以外に重要な証拠は提出されなかった。しかし実のところ、それ以外の証拠は必要なかったのだ。ドクタ・エニファーが死体を解剖し、直接の死因が頭部への打撲であることを突き止めた。しかし内臓は飲酒癖の痕跡を示し、心臓に疾患のあることは明らかだった。おそらくミスタ・シャーノールはオルガン椅子から立ち上がったとき失神し、後ろむきに倒れて足鍵盤に頭をぶつけたのではないか。きっと勢いよく倒れたせいで、鈍器で殴られたような重い傷がついたのだ。
検死審問がほぼ終わろうとするとき、まるで本能に促されたように、突然ウエストレイが質問を発した。
「つまり傷はハンマーのようなものによってつけられたのですね」
医者は驚いた様子をし、陪審員と数少ない傍聴人たちは目をむいたが、ウエストレイの質問にいちばん驚いていたのはウエストレイ本人だった。
「あなたに提訴権はないのですよ」と検死官が厳しく言った。「このような質問は通常許されていません。医師に返答を許可するのは特別の計らいと心得てください」
「そうですな」とドクタ・エニファーはもったいぶって言った。その口調には、愚かな人々が聴きたがるどうでもいい質問にいちいち答えるためにここにいるわけではない、という気持ちがこめられていた。「そうですな。ハンマー、あるいは他の鈍器で暴力的につけられたような傷です」
「重い杖ということもあり得ますか」ウエストレイが示唆した。
医者は威厳のある沈黙を守り、検死官は口をはさんだ。
「あなたは時間を無駄にしていると言わざるを得ませんね、ミスタ・ウエストレイ。もっともな疑問であれば決して無視したりしませんが、しかしこの事件に疑問の余地はないのです。この気の毒な男は勢いよく転倒し、木製の足鍵盤に頭をしたたか打ちつけて死んだ、それに間違いないんです」
「本当に間違いありませんか」ウエストレイは訊いた。「ドクタ・エニファーはあの傷が転んだだけでできたと確信を持ってお考えですか。わたしはドクタ・エニファーが確信しているのかどうかを知りたいだけです」
検死官は無用の手間ばかり取らせて申し訳ないという陳謝と、こんな質問は権威ある一言でけりをつけていただけるとありがたいといった期待をこめた目で医者を見た。
「ええ、確信を持っていますよ」と医者は返答した。「さよう」――彼はほんの一瞬躊躇した――「さよう、転倒によってあのような傷がつき得るという点は間違いありません」
「ただですね」とウエストレイ。「彼がその上に倒れた鍵盤はある程度へこみますよね。忘れちゃいけないのは、あれがへこむってことですよ、はじめてぶつかったときは」
「その通りです」と医者。「そのことも考慮しましたし、あれだけ重い傷がついたというのはちょっと驚きであるということも認めます。しかしもちろんあの傷はそういうふうにしてついたのです。なぜなら他に説明のしようがないから。まさか殺人をほのめかしているわけではないでしょうね。確かに事故でなければ殺人と言うことになりますが」
「いえいえ、わたしは何もほのめかしてなんかいません」
検死官は眉をつり上げた。彼は疲れていて、このような時間の無駄遣いを理解できなかった。しかしおかしなことに、医者は前よりも中断を大目に見るような態度に変わってきていた。
「傷跡の検査には慎重を期しました」と彼は言った。「そして熟考の末、木の鍵盤によって生じたに違いないと結論したのです。さらに健康状態が悪化していたために打撲の効果が増幅されただろうという点も忘れてはいけません。故人の思い出を汚したり、お友達だったあなたに、ミスタ・ウエストレイ、苦痛を与えるようなことは言いたくないのですが、しかし、検死の結果、慢性的なアルコール中毒の痕跡が見つかったのです。わたしたちはそれを考慮しなければなりません」
「この男は常習的な飲んだくれだった」と検死官は言った。彼はカリスベリに住んでいて、カランもそこの住人のことも知らなかったから、平気で露骨なしゃべり方をした。おまけに建築家の差し出口にいらいらしていた。「あなたが言うのは、この男が常習的な飲んだくれだったということでしょう」と彼は繰り返した。
「そんなこと、ありませんよ」ウエストレイはかっとなって言った。「限度を超えた飲み方をしなかった、とは言いませんが、決していつも飲んだくれていたわけじゃない」
「あなたの意見など聞いていません」と検死官は言い返した。「われわれは素人の憶測なんか聞きたくはない。どう思います、ミスタ・エニファー」
今度は外科医がむっとした。いつも使われるドクタという肩書きで呼ばれなかったからだが、法的にはその肩書きを使う権利がないことを知っていただけにかえって腹立ちも大きかった(註 英国では内科医はドクタと呼ばれるが、外科医はミスタ、ミズで呼ばれる)。現在かかっている患者、またこれからかかるかも知れない患者の前で「ミスタ」と呼ばれることは、彼の名誉を傷つけるものである。医者はさっそく反発するように言った。
「いいえ、誤解なさってますよ、検死官。わたしはわれわれの気の毒な友人が常習的な飲酒家だったと言ったわけではありません。実際、酒で乱れたところは見たことがありません」
「それではどういう意味だったのですか。死体にはアルコール中毒の痕跡があったと言いながら、飲酒家じゃなかったというのは」
「亡くなった晩のミスタ・シャーノールの状態について何か証言はないのですか」と陪審員の一人が尋ねた。公平な立場から肝心な問題点を指摘したと思って内心にんまりしながら。
「ええ、重要な証言があります」と検死官が言った。「チャールズ・ホワイトを呼べ」
赤ら顔の小男が目をしばたたかせながら進み出た。名前はチャールズ・ホワイトといい、酒場メリーマウスの主人だった。故人は問題の晩にわたしの店にやってきました。故人とは顔見知りじゃありませんでしたが、あとで誰か知りました。天気の悪い晩で、故人はずぶ濡れでした。それでお酒を召し上がったんです。かなり飲みましたよ。でも紳士としてのたしなみを忘れるほどじゃありませんでした。お帰りになるときは、酔っておいでじゃありませんでした。
「トップコートを忘れるくらい酔っていたんじゃないのかね」と検死官は訊いた。「彼が帰ったあと、このコートを見つけたんじゃないのかね」彼は主人をなくした哀れな外套を指さした。椅子の背に引っかけられたそれは、今までにもまして汚い緑色をし、ぼろぼろにいたんで見えた。
「ええ、確かに故人はコートを置いていきましたが、酔ってはいませんでした」
「皆さん、酔っぱらいの基準にもさまざまあるものですな」検死官は本物の裁判官の説得力に満ちた口調を一生懸命おもしろおかしく真似して言った。「どうやらメリーマウスの基準は他のところより進んでいるようだ。わたしは」――彼はあざけるようにウエストレイを見た――「わたしはこのような質問をつづける必要があるとは思いません。ここに酒飲みがいます。ミスタ・エニファーが言うように常習的な飲酒家ではないにしろ、完全に病的な状態に陥るほど酒を飲みつづけていた。この男が安酒場に一晩居座って深酒し、帰るころにはへべれけになり外套を忘れていってしまう。外は大雨が降っていたというのに外套を置いていったのです。彼は酔っぱらってオルガンのある張り出しに行き、椅子に座ろうとして足を滑らせ、激しく後頭部を木片にぶつけた。そして、数時間後、慎重にして疑う余地なき証人により」――ここで彼は軽くフンと鼻を鳴らした――「死体として発見される。この木片の上に頭を載せたままね。この点に注意してください――彼が発見されたとき、頭は致命傷を与えたまさにそのペダルの上にあったのです。皆さん、これ以上の証拠は何も必要ないでしょう。皆さんがなさるべきことは実に明白です」
確かにすべては実に明白だった。事故死という全員一致の評決がミスタ・シャーノールの哀しい人生に奥付を付し、彼の人生を荒廃させた、まさにその弱点が、とうとう彼に飲んだくれとしての死をもたらしたのだと裁定された。
ウエストレイは寂しげなおんぼろトップコートを腕に抱えて神の手に歩いて帰った。検死官はもっともらしいことを言って外套を彼に押しつけたのだ。どうやらきみは故人と親しかったようだから衣類の始末を引き受けてくれないか。建築家は気を取られていて、この発言に伴う嘲笑に憤る余裕はなかった。彼は悲しみと不吉な予感に胸をふさがれその場を去った。
こうした変死というものはカランでは殺人の次に酒場での話の種となる。一時代前に木材商のミスタ・レヴェリットがブランダマー・アームズの女給を撃ち殺して以来、カランを舞台にこれほど劇的な事件が起きたことはなかった。浮浪者たちは市場の角で歩道に唾を吐き捨てるとき、ありとあらゆる形でその事件をののしりことばの中に取り入れた。ローズ・アンド・ストーリー一般服地店の売り場監督ミスタ・スマイルズは、枝編み細工の高椅子に腰かけるご婦人方と、カウンター越しに上品な口調でその事件を噂した。
ドクタ・エニファーはひげをあたってもらっている最中に迂闊にもくだらない会話に巻きこまれ、顎を切ってしまった。ミスタ・ジョウリフはソーセージ一ポンドにつき無料で教訓的意見を一包み添え、かわいそうな友人をあまりにも突然に連れ去ってしまった飲酒の罪に白目をむいてみせた。大勢の人が棺桶の後ろからその最後の安らぎの場所までついていった。悲劇の翌日の日曜日の朝、聖堂はいつになく人であふれかえった。人々は参事会員パーキンが説教壇からこの事件について何ごとかを語るだろうと思ったのだ。さらにそれに付随して葬送行進曲の演奏という出し物もあったし、素人オルガン奏者がアンセムの途中で立ち往生する可能性もあった。
こういう不純な動機から教会へ行った者は当然ながら失望を味わわされた。参事会員パーキンは煽情主義におもねるつもりはないと言い、説教の中で事件のことには一切触れず、またこのようにまことに不愉快な状況のもとでは葬送行進曲などまともに演奏できないと考えた。新しいオルガン奏者によるサーヴィスの演奏は最後まで腹が立つほど退屈・凡庸で、会衆は権利をだまし取られた人々のようにがっかりして聖セパルカ大聖堂から出て来たのだった。
人の噂も七十五日で、ミスタ・シャーノールは中流階級の死者が沈んでいく大いなる忘却のかなたに消えていった。後任はすぐには任命されなかった。参事会員パーキンは音楽に造詣が深い、ミスタ・シャーノールの弟子、国民学校副校長を代替要員としてまわしてもらえるよう手配した。敬虔なエリザベス女王は主教の席が空になるとそのまま放っておいてその管区の歳入をせしめ、国王手元金を補充したが、それと同じように主任司祭はカラン大聖堂のオルガン奏者の地位を利用して私腹を肥やしたのである。おかげでこの役職にかかる卑しむべき報酬は大幅に削減され、一年経ったときには五ポンドが彼のポケットに入っていた。
しかしたとえ世間がどうあろうと、ウエストレイはミスタ・シャーノールを忘れなかった。建築家は社交好きな男だった。大学には共通の関心から生まれる絆と伝統があり、それほど強くはないにせよ、同じようなものが陸軍、海軍、パブリック・スクール、さまざまな職業にも存在する。それは所属する者同士を結びつけ、それぞれの刻印を押しつけるのだが、下宿者のあいだにもこの同業組合に入っていなければ理解できないような、ある種の秘儀と資格が存在する。
下宿生活はむさ苦しく、貧乏くさく、わびしいと言うかも知れないが、それを和らげ、埋め合わせるものがないわけではない。下宿生活はほとんどの場合、若者の生活である。ミスタ・シャーノールのような老齢の下宿人は比較的まれなのだ。それは素朴な必要と素朴な趣味の生活である。下宿することは芸術と違い、過度の趣味の洗練を好まないのだ。豊かな生活ではない。豊かな生活ができるようになったとたん、人はたいてい自分の家を持つものだからである。それは働きながら明るい未来を夢見る生活、人生の闘いに備え、財産の基礎を作る段階、あるいは極貧という名の落とし穴を掘り進む段階なのだ。そのような境遇はよき友情を生み、育む。下宿したことのある者は、誠意のこもった、私心のない友情を振り返ることができる。誰もが天を前に対等で、打ち解け、人間が作り出した身分の差を知らない――誰もが声をそろえて楽しく合唱しながら人生の第一段階を旅し、本街道が分岐して、成功と失敗の分かれ道が古い仲間を遠く引き離してしまう地点にはまだ達していないのだ。ああ、なんという同志愛であり、連帯感だろう。それは家計の窮迫によって堅固にされ、強欲な、怠慢な、あるいは専制的な女主人に耐える必要によって強められ、与える者の懐は痛まないが受ける者にとっては大きな価値のある親切と思いやりによって甘美な味わいをつけられている!一階の住人が軽い病気にかかったとき(下宿で重い病気が発生することはほとんどない)、二階の住人が夕方下に降りてきて看病をしないだろうか。二階の住人は長い一日の仕事に疲れているかも知れないし、つましい食事をすましてみると、外がすてきな晩であったり、地元の劇場で優れた一座の公演があるというビラに気を引かれるかも知れない。それでも彼は惜しみなく時間をさいて一階の住人のところへ降りて行き、椅子に腰かけ、その日起こったことを話したり、もしかしたらオレンジやいわしの缶詰を持っていったりもするのである。一方、終日部屋に閉じこもっていることにうんざりし、他にすることがないからと嫌になるほど本を読んでいた一階の住人は、二階の住人を見てどれほど喜ぶことだろう。そして彼とのおしゃべりが医者の薬よりどれほど元気の回復に役立つだろう!
そののち花の展示会の日に女性が二階の住人を訪ねてきたときは、一階の住人は外出して居間を同宿人にすっかり明け渡し、食事のあと客がくつろぎ気分転換できるよう気を配らないだろうか。女性の訪問というのは恐れに満ちた喜びである。若い男に日曜日を一緒に過ごしましょうと親切に言ってくれた女性が、その上さらに親切を発揮して、いつかは男が意を決して申しこむ招待を、ありとあらゆる感謝とともに受け入れるときだ。この恐れに満ちた喜びがもてなす側に気もそぞろな準備を強いることは、国葬が紋章院総裁に強いるそれを上回る。あらゆるものがあたうかぎり最高の装いをしなければならず、実にさまざまな細部に注意を払い、実にさまざまな不足を隠さなければならない。しかしそのすべては結果によって報われるのではないか。小さな部屋とはいえ、そこには多くのものを補ってあまりある繊細さがあり、マントルピースの上の写真や銀のトディ・スプーン、さらには緑のテーブルクロスの染みを無造作に隠す「ロゼッティ詩集」と「享楽主義者マリウス」に至るまで、すべてが洗練された趣味に息づいていると若い男には思われないだろうか。そこへ親切な女性が微笑を浮かべてやって来る。彼女は相手の些細な不安やこまごました準備のことはすっかりお見通しなのだが、しかし何も知らないふりをして、彼の部屋や、取るに足りない宝物、料理、怪しげなワインをすらをも褒めてやり、ちょっとした不都合を巧みに興味深い珍奇な出来事に変えてしまうのだ。持ち家のある人々よ、あなた方は立派な人々である。一人前の男であり、智慧は汝らとともに死ぬであろう(註 ヨブ記から)。しかし下宿に住む者をあまり哀れまないことだ。彼らの知らない重荷を担うあなたは、反対に哀れまれ、心を千々にかき乱されてしまうから。彼らはあなたにこう言うだろう。種を蒔くときは収穫の時に勝るのだ、そしてさすらいの年月は主人となって一家を営む年月に勝るのだと。哀れみすぎてはいけない。孤独が必ずしも孤独なものではないことを知りたまえ。
ウエストレイは社交的な性格で、同宿者がいなくなったことを寂しく思った。偏屈な小男で苦虫をかみつぶしたような顔をしていたが、それでもその性格の中に同情を引き出すなにがしかの力と、なにがしかの魅力を備えていたに違いない。とげとげしいことばと気むずかしさの下に隠れていたけれど、しかしそうしたものがそこにあったことは間違いない。というのはウエストレイは自分でもまさかと思うほど彼の死を痛切に受け止めたからである。この一年間、オルガン奏者と彼は一日に二三度顔を突き合わせた。二人は、共にその中で仕事をし、共にこよなく愛する大聖堂のことを語り合った。そして雲形紋章、ブランダマー家、ミス・ユーフィミアのことを噂した。彼らが取り上げなかった話題は一つだけ――ミス・アナスタシア・ジョウリフのことだ。もっとも頭の中では二人とも頻繁に彼女のことを考えていたのだけれど。
今さらそんなことをしても手遅れなのだが、それでもウエストレイは毎日、このことをミスタ・シャーノールに話そう、とか、あのことについてミスタ・シャーノールの意見を聞こうと思い、そのたびに陰府《よみ》には知識のないことを思い出すのだった(註 伝道の書から)。陰鬱な神の手は一階の下宿人を失って前より十倍も陰鬱になった。夜中に石の階段を登る足音はいっそう虚ろに響き、ミス・ジョウリフとアナスタシアは早々に床に就いた。
「上に行きましょう、あなた」ミス・ユーフィミアは十時十五分前の鐘が鳴るといつもそう言った。「夜が長くなると、とっても寂しい感じがするわね。窓にちゃんと掛け金がかかっているか確認するのよ」それから彼らは玄関ホールを急いで抜け、一緒に並んで階段を上がった。まるで一段たりとも二人の間に距離を置くまいとするかのように。ウエストレイでさえ夜遅くこの洞穴のような大きな家に帰ってくると同じ感覚に襲われた。彼は急いで暗い玄関ホールの棚の上に手を伸ばした。その大理石の天板には自分用のマッチ箱が置いてあるのだ。そして蝋燭を灯してから、ときどき本能的にミスタ・シャーノールの部屋のドアを見た。そうした折によくあったように、ドアから年老いた顔が突き出し、彼を迎えてくれるのではないかと半ば期待しながら。ミス・ジョウリフは新しい下宿人を探そうとはしなかった。「空き部屋あり」の看板が窓のところにかけられることはなかった。また、ミスタ・シャーノールが所有していた人的財産は彼が残したままに置かれてあった。ただし、一つだけ動かされたものがある――マーチン・ジョウリフの書類の束で、ウエストレイはこれを上の自分の部屋に運びこんでいたのだ。
死者のポケットから見つかった鍵を使って故人の事務机を開け、遺言か書き置きが残されていないか調べてみると、一つの引き出しの中にウエストレイ宛のメモが発見された。死の二週間前の日付があり、ごく短いものだった。
「わたしがどこかへ行って連絡が途絶えたり、もしものことがあった場合は、すぐマーチン・ジョウリフの書類を押さえろ。自分の部屋に持って行って鍵をかけ、なくさないようにするんだ。わたしが望んだことだと言えば、ミス・ジョウリフが渡してくれるだろう。火事とかで焼失しないようよく注意するんだ。じっくり読んで自分の結論を下すがいい。赤い小さな手帳にはわたしのメモが書いてある」