しかし六段も登ると暗闇は薄れていく。まず夜明け前の薄明かりが見え、やがて階段の上に達し、張り出しに足を踏み入れると柔らかな光があふれてくる。そこで何よりも目を惹くものが二つあった――一つは南袖廊の入り口に架かる、巨大なノルマン様式のアーチで、その表面には雅やかで繊細な刳り形が施されていた。もう一つはその背後にあるブランダマー・ウィンドウの上端で、複雑きわまりない狭間飾りの中心に、海緑色と銀色の雲形紋章が光り輝いている。それから彼は延々とつづく身廊の天井を見上げたり、ノルマン様式の穹窿天井を山形模様のリブが交差し、斜め十字を形作りながら柱間を区切っている様子を眺めたり、中央塔のランタンに目をやり、ヴィニコウム修道院長の垂直様式の羽目板が軽やかな線を描いて上昇し、はるか頭上の窓のところで消えているのを眼で追ったりするのである。
張り出しにはありあまるほどの空間があった。ゆったりした線に囲われ、演奏者の席の横には椅子を一、二脚置く余裕があった。側面には楽譜を納めた背の低い本棚が並んでいる。この棚にあったのはボイの偉大な二つ折り版、クロフト、アーノルド、ペイジ、グリーン、バティシル、クロッチ――どれもこれも裕福だったその昔、「カラン大聖堂主任司祭兼創設委員」が惜しみなく金を出して購入した本である。しかしこれらは後の世に生まれた子供たちにすぎない。そのまわりには年上の兄弟たちが控えていた。カラン大聖堂には今も十七世紀の楽譜が残されていたのだ。それらは有名な楽譜集で、百冊以上あり、古い黒光りする子牛革の装丁に、大きな金の丸い浮き彫り模様が施され、どの表紙の中央にも「南側聖歌隊席テノール」とか「北側聖歌隊席コントラテノール」とか「バス」とか「ソプラノ」などという字が刻印されていた。中を開くと赤い線で縁取られた羊皮紙があらわれ、実に黒々とした太い活字で礼拝名や「ヴァース・アンセム」、「フル・アンセム」と書かれている。次に目次が何ページもつづく――ミスタ・バテンにミスタ・ギボンズ、ミスタ・マンディにミスタ・トムキンス、ブル博士にジャイルズ博士、すべてがきれいに整理されページ番号を打たれていた。ミスタ・バードは、とうに墓場の土と化した歌い手たちを鼓舞して「太鼓を打て、快いハープを、ビオールを鳴らせ」と歌わせ、六つの声部と赤い大文字を使ってもう一度「快いハープを、ビオールを鳴らせ」と繰り返させた(註 バードのアンセム「神にむかいて喜びもて歌え」から)。
オルガンのある張り出しは埃だらけだった――舞い落ちる埃、舞い上がる埃、虫に喰われた木の埃、ぼろぼろになった革の埃、蛾に喰われてずたずたになったカーテンの埃、古い緑のベーズの埃。しかしミスタ・シャーノールはこの埃を四十年間吸いつづけ、他のどこよりもここにいると気持ちが落ち着くのだった。ここがロビンソン・クルーソーの島だとしたら、彼こそはクルーソー、見渡すものすべての上に立つ支配者だった。
「ほら、この鍵をあげるよ」彼はある日ウエストレイに言った。「階段の入り口の鍵だ。しかし来るときはあらかじめ知らせるか、階段を登るときに音を立ててくれ。びっくりさせられるのは嫌なんだ。入ったらドアを閉めること。鍵はかってにかかる。わたしはいつもドアに鍵をかけるよう注意しているんだ。さもないと、どんなやつがここに上がって来ようとするか分からないから。まったく不意を襲われるのはたまったものじゃない」そう言って彼は目に奇妙な色を浮かべ、後ろをちらりと振り返った。
主教がやってくる数日前、ウエストレイはミスタ・シャーノールとともにオルガンのある張り出しにいた。彼は礼拝が行われているあいだ、ほとんどずっと隅の椅子に座って、明かり層の窓と交差リブが織りなす光と影の不思議なダイヤモンド模様を見ていた。野外にいた者は白い雲の島々が青い空を渡っていくのを目にしただろう。その一つ一つの雲が通り過ぎるとき、刳り形を施された重量感あふれる内部のリブは交差する線をくっきりと際立たせ、ニコラス・ヴィニコウムがリブの交点に飾りとして加えさせた「ブドウの葉の輪に梳き櫛」という判じ絵紋をあざやかに浮上がらせた。
建築家はのしかかる天井に、ほとんどいわれのない畏怖を抱くようになっていた。しかもその日は不思議な効果に見とれて、ミスタ・シャーノールに話しかけられるまで、礼拝が終わったことすら分らなかった。
「きみはわたしの変ニ長調のサーヴィスを聴きたいといっていたね。『シャーノール変ニ長調』を。聴きたいなら、これから弾いてあげよう。もちろん合唱なしだから、だいたいの感じしかつかめないよ。もっともここの聖歌隊の声じゃ、まともに曲を鑑賞できるか怪しいがね」
ミスタ・シャーノールが色あせた手書きの楽譜を見ながらサーヴィスを演奏しはじめると、ウエストレイは夢心地から覚めて注意を集中する姿勢になった。
「ほら」彼は曲の終りに近づいたとき言った。「聴いてごらん。ここがいちばん盛り上がるんだ――フーガ風のグローリアで、ペダル音で終わるんだ。ほら、ここだよ――主音のペダル音だ、この変ニ音、新しい足鍵盤の端っこの突き出たペダル、これを最後まで押さえておくんだ」そう言って彼はペダルに左足を載せた。「マニフィカトをこういうふうに終えるのはどうかね」演奏を終えて彼は言った。ウエストレイはすぐにありきたりの賞賛のことばを浴びせた。「悪くないだろう?しかしこの作品の聴きどころはグローリアだよ――本物のフーガじゃないんだが、フーガ風の曲で、ペダル音を使っている。さっきのペダル音の効果は分ったかい。あの音だけちょっと響かせてみるよ。そうすればはっきり識別できるから。それからもう一度グローリアを弾こう」
彼が変ニ音のペダルを押さえると開管の鳴り響く音が長い身廊のアーケードを抜け、トリフォリウムの奥の暗がりにこもり、のしかかるような穹窿天井の下を通って、わななきながらランタンの中を昇っていった。最後のほうになると、それは瀕死の巨人のうめき声のように聞えた。
「やめてください」とウエストレイは言った。「ずんずん響く音は我慢ならない」
「分かった。じゃあ、グローリアを弾くから聴いていたまえ。いや、もう一回サーヴィス全体を弾いたほうがいいな。そのほうが自然に曲の最後に入っていける」
彼はサーヴィスを再度演奏しはじめた。独創的な音楽家が自作を演奏するとき、こめずにはいられない細やかな注意と感情をこめて。同時に彼は嬉しい驚きを味わってもいた。何年も顧みず、半ば忘れかけていた作品が、想像以上の出来栄えで力強いことに気づいたのである。衣装ダンスから古いドレスを出してみたら、色褪せもせず、いまだに値打ちがあると分かってびっくりするようなものだ。
ウエストレイは張り出しの隅の壇の上に立っていた。そこからだとカーテン越しに聖堂内が見渡せた。音楽を聴きながら彼の眼は建物の中をさまよった。しかしだからといってその分、音楽をおざなりに聴いていたわけではない。いや、それどころか、かえって真剣に耳を傾けていたのである。何人かの文人が気づいているように、文学的感受性と表現能力は音楽の刺激を受けて活気づくのだ。大聖堂はがらんとしていた。ジャナウエイは午後のお茶を飲みに帰っていた。扉には鍵がかけられ、部外者は誰も入って来られない。オルガンのパイプの声を除けば、いかなる音も、いかなるささやきも、いかなる声も聞えなかった。ウエストレイは耳を澄ました。いや、待てよ。他には何の声も聞こえないだろうか。聞こえるものは何もないだろうか――彼の心の中で何かが語ってはいないだろうか。はじめのうち、それは「何か」としか意識されなかった――彼の注意を音楽から逸らそうとする「何か」としか。しかし注意を妨げるこの力は、そのとき、いまひとつの声に変わった。かすかな声だが、「シャーノール変ニ長調」が流れる中でもはっきりと聞こえた。「アーチは決して眠らない」とその静かな不吉な声が言った。「アーチは決して眠らない。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」。彼は塔の下の交差部のアーチに目をむけた。そこ、南袖廊のアーチの上には巨大なひび割れが黒々と、稲妻のようなねじくれた姿を見せていた。それは過去百年間見せていた姿と少しも変わっていないように思えた。普通の観察者なら何ら異変を認めなかっただろう。しかし建築家は違った。彼は一瞬割れ目を凝視し、ミスタ・シャーノールのことも音楽のことも忘れて、張り出しを降り、石工たちが天井下まで組み上げた木の足場へむかった。
ミスタ・シャーノールは彼が下に降りたことすら知らないまま、陶酔したようにグローリアへと突き進んだ。「フル・グレイトにしてくれ」と後ろにいるはずの建築家に呼びかけた。「第一鍵盤の音栓をリード以外全部入れるんだ」しかし返事がないので彼は自分で音栓を引っ張り出した。「今度のほうがうまくいったよ――ぜんぜんいい」最後の音が鳴り止んだとき、ウエストレイに感想を聞こうとして振り返った。しかし張り出しには誰もいない。彼は一人だった。
「あいつめ!」と彼は言った。「出るなら出ると、少なくとも一言断るべきだ。ふん、確かにつまらん曲だ」彼はその厳しい批評とは反対に別れを惜しむような愛情のこもった手つきで手書きの譜面を閉じた。「駄作だな。どうして聴いてくれる人がいるなどと思ったのだろう」
ウエストレイがベルヴュー・ロッジのオルガン奏者の部屋に飛びこんできたのは二時間も後のことだった。
「申し訳ありませんでした、シャーノール。挨拶もせず立ち去ったりして。音楽の分らない無礼なやつだと思ったでしょうね。でも本当はびっくりしすぎて、思わず理由を言わずに出て行ってしまったのです。演奏の最中にたまたま南袖廊のアーチの上の大きな割れ目を見上げたのですけれど、そうしたらごく最近動いたような跡があったのです。すぐ足場に登って、それからずっとそこにいたのです。まずいですよ。割れ目が大きく広がっているみたいです。深刻な事態になるかも知れないので、今晩、最終列車でロンドンに行くことにしました。すぐサー・ジョージ・ファークワーの意見を聞かなければなりません」
オルガン奏者は唸った。繊細な心が受けた傷は深くうずいたが、憤りはすでに優しく慰められていた。ウエストレイには一言文句を言うつもりだったが、説明を聞くと至極もっともで、彼はその機会が奪われたことを残念に思った。
「謝るなんてよしてくれ。きみが出て行ったとは気づかなかったよ。いたことすらすっかり忘れていた」
ウエストレイは自分の発見に気を取られ、相手の不快感を感じ取ることができなかった。彼は慌てることを機敏と勘違いする興奮しやすい人間の一人だった。
「そういうわけで、半時間後にロンドンへ発ちます。今回ばかりはいい加減に放って置くわけにいきません。アーチに支柱をかうまでオルガンの演奏を中止するとか、聖堂の使用を全面的に禁止するなんてことにもなりかねませんよ。もう荷物をまとめなくては」
こうして英雄のごとき迅速と決断を持って彼は最終列車に飛び乗り、沿線の各駅で停車を繰り返しながら夜の大部分を過ごした。手紙を一本出すか、翌日の朝、カラン街道駅から急行に乗っても同じように目的を達することができたのであるが。
第十三章
オルガンが沈黙させられることも、礼拝が一時中止されることもなかった。サー・ジョージはカランまで来てアーチを点検し、部下の不安をからかった。その不安には根拠がないと判断したのだ。そうだな。アーチの上の壁は確かに少し動いたが、今やっている穹窿天井の修理で動くと想定される範囲内だ。古い壁が落ち着くべき場所に落ち着いただけさ――実際動かなかったとしたら、そのほうが驚きだ。今のほうがずっと安全だよ。
参事会員パーキンは上機嫌だった。差し出がましい、こしゃくな若い現場監督が、身の程を知らされるのを見て大喜びしたのである。サー・ジョージは司祭館で昼食を取った。塔が倒れるまで支払いを待ってくれという、例の冗談が繰り返されたが、ブランダマー卿がすべての支払いを引き受けることになった今、それは新たな意味を帯びることになった。この冗談に伴う「はっはっはっ」には、ものに動じないサー・ジョージもさすがに辟易とし、ポートワインを飲み過ぎた参事会員が図に乗って肋骨をつついたときは顔をしかめた。
「まあまあ、司祭さん」と彼は言った。「若い肩に老人の頭は載せられません。ミスタ・ウエストレイがわたしに報告したのは当然です。見た目はいかにもひどいですからな。こういうことは経験を積まないと見極めが難しいのです」そう言って彼はカラーを引っ張りネクタイを直した。
ウエストレイが主任の決定を甘んじて受け入れたのは忠誠心の故であって、心から納得したからではない。黒い稲妻は心の網膜に焼き付けられ、アーチの絶え間ない叫びは常に耳朶に響いた。それを聞かずに交差廊を渡ることはめったになかった。しかし彼は模範的な忍従をもって主任の叱責に耐えた――その頃ブランダマー卿が彼を訪ねてくるようになり、そちらのほうがはるかに彼の関心事だったから、あまり気にならなかったということもあるけれど。ブランダマー卿は一度ならず夜中にベルヴュー・ロッジを訪れ、ときには夜の九時という遅い時間にやってきた。そしてウエストレイと一緒に二時間あまり見取り図をひっくり返したり、修復のやり方を議論した。建築家は卿の態度に魅了され、その建築学的知識と批評眼の鋭さに絶えず驚かされた。ときどきミスタ・シャーノールが短い時間仲間に加わることもあったが、ブランダマー卿はオルガン奏者がいるときはどことなく落ち着かない様子を見せた。ミスタ・シャーノールは時に機転が利かず、ぶしつけですらあると、ウエストレイは思わざるを得なかった。なにしろブランダマー卿のご恩のおかげで新しい鍵盤と新しい送風器とウオーター・エンジンを手に入れ、さらにこれからオルガンをすっかり修理してもらえる可能性もあったのだから。
「わたしは、きみのすかした言い方を借りれば、あいつの『ご恩にあずかっている』わけだが、それはしょうがないじゃないか」ミスタ・シャーノールはある晩ブランダマー卿が帰ったときに言った。「新しい送風器や新しい足鍵盤をやるというのを、わたしがとめるわけにもいかんだろう。実際新しい鍵盤と追加のパイプが必要なんだし。今のままじゃドイツの音楽が演奏できないんだ。バッハの作品なんかほとんど弾けない。オルガンを直したいという人に誰がやめろと言うものか。しかしわたしは誰にもこびへつらう気はない。特にあいつにはな。あいつが卿だからといってはいつくばれと言うのかね。ちゃんちゃらおかしい!われわれはみんなあいつみたいに卿になれるのさ。あと一週間マーチンの書類を調べさせてくれ。そうしたらあっと言わせてやるよ。ふん、そうやって好きなだけじろじろわたしを見つめたり、鼻先でせせら笑うがいい。必ずきみをあっと言わせてやる。『光は東方より』――光が差してくるのはそこなんだよ、マーチンの書類からなんだ。今度の堅礼式が終わったら分かるさ。それまでは書類をじっくり読むことができない。しかし何のために男の子や女の子に堅礼させようというのかねえ。健全な子供たちを偽善者に仕立て上げるだけじゃないか。どうもいけ好かない。信仰を告白させるなら二十五になったときさせればいい。そのくらいになれば自分が何をしようとしているのか、少しは理解できるだろうから」
主教来訪の日が来た。主教はみずから足を運んでベルヴュー・ロッジの玄関に入り、心得て御使を舎《やど》す(註 ヘブル人への書から)ミス・ユーフィミア・ジョウリフに迎えられた。ミスタ・シャーノールの部屋で昼食を取り、冷めたラム肉とスティルトン・チーズ、さらにリンゴ酒までもいただき、健康で心根の優しい、主人役思いの主教にふさわしい健啖ぶりを発揮した。
「オクスフォードの昼の定番料理か」と彼は言った。「きみのところの女主人は立派なしきたりに育てられたんだね」彼は供されたものがこの下宿のいつもの食事であり、ミスタ・シャーノールが毎日このようなご馳走を味わっているのだと信じてにっこりした。この食事が晩餐を演出する劇の小道具にも等しく、冷めたラム肉とスティルトン・チーズとリンゴ酒が、しばしば缶詰肉の残りと――一ジル(註 四分の一パイント)の安ウイスキーによって取って代わられることを知らなかった。
「オクスフォードの昼の定番料理」。そのあと彼らは昔話にふけり、主教はミスタ・シャーノールを「ニック」と呼び、ミスタ・シャーノールはカリスベリ主教を「ジョン」と呼んだ。彼らは部屋の中を歩き回って大学の同好会や対ケンブリッジ大学学寮対抗ボートレースの写真を見た。主教はかつてミスタ・シャーノールが大学の中庭を描いた小さな水彩画を懐かしそうにじっと眺め、そこに自分たちの昔の部屋や何人かの知り合いの部屋を認めた。
話をするうちにミスタ・シャーノールは機嫌がよくなっていった。楽しい気分が刻々と募ってきた。彼は主教に対して傲岸に、他人行儀に接してやろうと思っていた――思い切りもったいぶり、冷たいくらいに堅苦しく振る舞おうと。よしやジョン・ウイリスがゲイター(註 主教のはく靴下)を穿こうとも、ニコラス・シャーノールの不屈の独立心はびくとも揺るがず、おべっかを使うつもりもなければ、精神的にも誰かの下風に立つつもりはなかった。堅礼式や音楽軽視の風潮や主任司祭どもを手厳しく非難し、できればついでに聖職者議員団そのものもやりこめてやろうと思っていた。なのに彼はそんなことは何一つしなかった。ジョン・ウイリスと一緒にいると、傲岸も他人行儀も自己主張も不可能だからである。彼はただおいしい昼ご飯を食べ、優しい、心の広い紳士と長々おしゃべりをして、ひからびた心をぬくもらせ、人生はまだ捨てたものじゃないなと思っていたのである。
カラン大聖堂で礼拝が行われるときは、四十五分前に何度か鐘が鳴らされる。これはバージェス・ベルと呼ばれ――遠くに住む市民《バージェス》に教会へ出かける時間だと知らせるところからその名がついたという人もあれば、「バージェス」とはラテン語の「エクスペルギスケレ」――「起きよ、起きよ!」――のつづまった形で、寝ている人に起きて祈りを唱えよという合図だ、と考える人もある。バージェス・ベルは午後の静かな空気をふるわせ、主教はいとまを告げようとして立ち上がった。
この訪問の当初、そわそわしていたのがカランのオルガン奏者だとしたら、その終わりになってまごまごし出したのはカリスベリの主教だった。彼はある明確な目的を持ってミスタ・シャーノールに昼食をご馳走してほしいと申しこんだのだが、その目的達成のためにまだ何もしていなかった。彼は知っていたのだ、昔の友人がおちぶれたうえに悪の道に陥ったことを――オクスフォードの学歴を台無しにした悪癖が、老年になって再び新たに火を噴き、ニコラス・シャーノールが飲んだくれという審判を受けかねない危機にあるということを。
オルガン奏者の人生には明るく澄んだ中休みの期間もあって、悪疫は何年も活動を止めているのだが、発症するとそれまでの積み重ねをことごとくご破算にした。それはまるで双六のようなもので、小さな銅の馬が着実に前進していくかと思えば、とうとうサイコロが致命的な目を出し、一度順番をとばされたり、六つも目を戻ったり、最悪の場合は振り出しからやり直さなければならない。主教がベルヴュー・ロッジに来たのは一人の男をほんの少しでも転落の人生から救い出したいという虚しい望みを抱いてのことだった。時を得た、有益な忠告を与えたかった。しかしまだ何も言っていない。給料を上げてくれと店主に面会を求めてきた事務員が、思い切って用件を切り出せず、他の用事でやって来たようなふりをするようなものだ、と彼は感じた。進退窮まって父親と相談したがっている息子、あるいは大きな借金を告白する機会を待ち受ける浪費家の妻のような気分だった。
「二時十五分だ」と主教は言った。「もう行かなければならない。昔を思い出してとても楽しかったよ。また近いうちに会いたいね。でも今度はきみがわたしのところに来る番だからね。カリスベリはそんなに遠くないから是非来てくれ。きみのためにベッドはいつも用意しておくよ。一緒に歩いていくだろう?わたしは司祭館に行かなければならないし、きみも聖堂に行くつもりなんだろう?」
「ああ」とミスタ・シャーノールは答えた。「ちょっと待ってくれたら一緒に行くよ。悪いが出かける前に一杯やりたいんだ。疲れているし、礼拝は長いからね。きみはもちろん飲むわけないよなあ」彼はそう言って棚のほうにむかった。
主教の待ちかまえていた機会がやってきた。
「止めたまえ、シャーノール、止めるんだ、ニック」と彼は言った。「それは飲んじゃいけない。率直に話すが許してくれ。時間がないのでね。わたしは自分の職務とか信仰の観点からこんなことを言うんじゃない。ただ一人の人間として、友人として言うんだ。いつまでもこんな状態がつづくのを黙って見ているわけにはいかない。怒らないでくれ、ニック」彼は相手の顔色が変化したのを見てこう言った。「わたしたちの古い友情を思えば、わたしには忠告の権利がある。きみの顔に刻まれた物語を読めば、わたしにはきみを諭す権利がある。止めたまえ。やり直す時間はまだある。止めたまえ。わたしに手助けさせてくれないか。わたしにできることはないかね」
ミスタ・シャーノールの顔をよぎった怒りは悲しみに変わった。
「そりゃ、きみにとっちゃ簡単だろうさ」と彼は言った。「きみは今までにあらゆることをやってきて、後ろにはきみの歩みを示す里程標が長々と立ち並んでいる。わたしは何もやっていない。後ろむきに進んだだけで、目の前にはわたしの失敗を示す里程標があるばかりだ。わたしを責めるのは簡単だよ。きみは欲しいものをすべて持っているのだから――地位、名声、富、それにふさわしい強い信仰も。わたしはろくでなしで、みじめなほど貧乏で、友達もなく、教会で語られることの半分も信じちゃいない。わたしはどうすればいいんだね。誰もわたしのことなど気にかけない。何のためにわたしは生きるのだ?酒だけが人生のささやかな楽しみを味わわせてくれるんだよ。のけ者という恐ろしい意識をしばらくのあいだ忘れさせてくれる。昔の楽しかった日々の記憶をほんの一時忘れさせてくれる。あれがわたしを一番苦しめるんだ、ウイリス。酒を飲むからといって責めないでくれ。パラケルススにとってと同様、わたしにとっても不老不死の霊薬なんだ」そう言って彼は棚の取っ手を回した。
「止めたまえ」主教はもう一度言い、オルガン奏者の腕に手を置いた。「飲むんじゃない。触れちゃいかん。人生は成功なんて尺度じゃ測れない。『出世』の話なんかよしてくれ。人間はどれだけ出世したかで判断されるものじゃない。さあ、行こう。昔のような決断力、意志の力を見せてくれ」
「そんな力は持っちゃおらん」ミスタ・シャーノールは言った。「どうにもならんのだよ」しかし彼の手は棚の扉から離れた。
「じゃあ、わたしに手伝わせてくれ」と主教は言った。彼は棚を開け、半分空になったウイスキー瓶を見つけると、コルクをしっかり押しこみ、コートの垂れひだ中に差し入れ脇の下に抱えた。「行こう」
こうしてカリスベリ主教は左の脇の下にウイスキー瓶を抱えながらカランの本通りを歩いたのである。しかしコートの下に隠れていたので誰にもそれを見られることはなかった。人々はただ彼が右腕をミスタ・シャーノールの腕にからませているのを見たばかりである。ある人はこれをキリスト教的な謙虚のあらわれと考え、ある人は昔のほうが良かったと言った。彼らは主教がみずからの地位を貶めていると言い、いかにも下等な連中と人目もはばからず付き合うなど、教会の権威も地に落ちたものだ、と嘆じた。
「もっと会う機会を増やさないとならないね」主教は店々の前のアーケードを歩きながら言った。「きみはどうにかして今の泥沼から抜け出さないといけないよ。いっぺんには無理だろうが、しかしきっかけを作らなければ。わたしはきみを惑わす悪魔をコートの下に隠してしまった。きみはこの瞬間から努力を始めるんだ。今、約束してくれ。六日後、もう一度カランに来ることになっている。きみに会いに来るよ。その六日間のあいだ、一滴も口にしないと約束してくれ。そしてわたしが帰るとき、きみもカリスベリに来るんだ。約束してくれないか、ニック。時間が迫っている。お別れしなければならないが、でもそのことをまず約束してくれ」
オルガン奏者はしばらくためらっていたが、主教は彼の腕をつかんだ。
「約束してくれ。約束するまでは行かないよ」
「分かった。約束する」
そこを通りかかった嘘つきで争いの種をばらまくミセス・フリントがあとになってこんなことを言った。主教はどうすれば一番うまく典礼尊重主義を大聖堂に導入できるか、ミスタ・シャーノールと議論しているのが聞えたわ、そしてオルガン奏者は、礼拝の音楽に関するかぎり最善の努力をすると約束したの。
堅礼式はつつがなく終了した。もっともグラマー・スクールの生徒二人が作法を外れたやたらと明るい青ねずみ色の手袋をはめてきて、みんなの前で先生から当然のお叱りを受け、それを見ていた末娘のミス・ブルティールがげらげらと笑いの発作を起こし、母親に聖堂から連れ出されて、魂の特典を授かるのは翌年ということになってしまったけれども。
ミスタ・シャーノールは執行猶予の期間を雄々しく耐えた。三日経っても彼は誓いを破らなかった――一口も、一滴も酒を飲まなかったのだ。そのあいだは好天に恵まれ、青い空と心浮き立つ空気が支配する、輝くような秋晴れがつづいた。それはミスタ・シャーノールにとって明るい希望の日々だった。彼自身心が浮き立ち、血管の中を新しい生命が駆けめぐるのを感じた。主教のことばは彼に元気を与え、そのことに彼は心から感謝した。酒を止めたからといって不都合があるわけではない。節制のおかげで、かえって調子がいいくらいだ。憂鬱になることなどまったくなかった。それどころか、ここ何年もなかったくらい朗らかな気分になった。あの会話で目から鱗が落ちたのだ。真に自分がなすべきことをもう一度自覚し、人生の真実が見えてきた。どれだけ時間を無駄にしてきたことだろう。どうしてあんなにへそ曲がりだったのだろう。どうして不機嫌をかこってばかりいたのだろう。どうして人生をあのようなねじけた目で見ていたのだろう。これからは嫉妬を捨て、敵対するのをやめるのだ。心を広く持ち――そうだ、心をうんと広く持つのだ。人類すべてを受け入れよう――うむ、参事会員パーキンさえも。一番大事なのは、自分がもう老人であることを認めること。もっと沈着に考え、子供じみた真似をやめ、アナスタシアへの馬鹿げた恋心を断固絶たなければならない。笑止千万ではないか――気むずかしい六十代の爺さんが若い娘に恋をするなんて!これから彼女はわたしにとって何者でもない――完全に赤の他人だ。いや、それはおかしいな。一切の友情を絶ってしまうなんて彼女に対して不公平だ。彼女には父親のような愛情を感じることはできるだろう――それは家族に対するような愛情であって、それ以上のものではない。愚かな過ちすべてに別れを告げよう。しかし、わたしの人生がその分だけ空虚になるのでは困る。空いた分はいろいろな趣味で埋め合わすのだ――ありとあらゆる趣味で。音楽はその第一のものとならなければならない。長年想を練ってきたあのオラトリオ「アブサロム」にもう一度取り組んで完成させてみよう。いくつかの曲はもうでき上がっている。バスのソロが歌う「アブサロムよ、わが子、わが子」と、それにつづく二重合唱「そなえよ、力強きもの、立ちて剣を抜け!」を書き上げるのだ。
こんなふうに彼は楽しげに自分の心と対話し、みずからの内部に生まれた大きな突然の変化に計り知れない高揚を覚えた。しかし彼は、雨を降らせた雲はまた戻って来ること、人間が習慣を変えるのは豹が斑紋の色を変えるのと同じくらい困難であることを忘れていたのだ。五十五歳、四十五歳、あるいは三十五歳で習慣を変えたり、川に坂を登らせたり、原因と結果の仮借なき順序をひっくり返したり――そんなことがいったいどれだけ可能だろう。ネーモ・レペンテ、すなわち人が突然善人になったことはない。一瞬の精神的苦痛が本能を鈍らせ、われわれに巣くう悪を麻痺させることがあるかも知れない――ほんのしばらく、ちょうどクロロフォルムが肉体の感覚を鈍麻させるように。しかし突然の心変わりがいつまでもつづくことはないのだ。生きているときも死んでからも、同じように突然の悔悛などあり得ないのである。
のどかな三日間が過ぎたあと、あの暗くどんよりした朝がやってきた。虚しい人生がいっそう虚しく感じられ、沈んだ自然の状態があまりにも的確に人間の神経に反映される朝である。健康な若者は天候などに少しも影響を受けることはない。頑健な中年は、たとえそれを感じたとしても「そのうち過ぎ去るさ、何もかも」と、しっかりした足取りで着実にわが道を歩みつづけるだろう。しかし身体の弱い、衰えゆく者には、いらだたしさと落胆がずしりとのしかかる。ミスタ・シャーノールの場合がまさにそうだった。
昼食の頃には、ひどくそわそわした気分になっていた。海から真黒な濃い霧が巨大なかたまりとなってカラン・フラットに押し寄せ、ついにその先端が街の外縁をとらえた。そのあとは通りに居座り、とりわけベルヴュー・ロッジをその本陣と定めた。おかげでミス・ユーフィミアは咳が止まらず、イペカック薬用ドロップを二錠も飲み、ミスタ・シャーノールは呼び鈴を鳴らしてランプを持ってきてもらわなければ食事が見えないという有様だった。ウエストレイの部屋まで上がっていって、夕食を上で食べても構わないかと尋ねようとしたが、建築家はロンドンに行っており、晩の汽車まで帰らないということだった。彼は一人で何とかしなければならなかった。
食が進まず、食べ終わる頃には憂鬱が彼を圧倒し、ふと気がつくとなじみ深い棚の前に立っているのだった。三日間の禁酒が身体にこたえ、いつもの慰めへと彼を駆り立てたのかも知れない。棚のほうへむかったのは本能だった。戸棚を手で開けるまで自分が何をしているのか意識すらしなかった。しかしその時ふと断酒の決意が心によみがえった。棚の中が空っぽであることを思い出したせいもあるだろう(ウイスキーは主教に取り上げられていた)。彼はぴしゃりと戸を閉めた。もう約束を忘れてしまっただなんて――これまでの希望に満ちた日々、清明な中休みのあと、またもやあやうく泥沼に落ちこむところだった。彼は机にむかい、バージェス・ベルが午後の礼拝を予告するまでマーチン・ジョウリフの書類に没頭した。
薄暗闇と霧はしだいに小糠雨に変わり、小糠雨は午後が進むにつれ間断ない土砂降りに変わった。雨脚があまりに強いものだから、何百万もの雨粒が長い鉛葺きの屋根の上で不明瞭に呟やき、ランタンや北袖廊の窓に当たって騒々しく飛び散る音がミスタ・シャーノールの耳にも聞えるくらいだった。張り出しから下りてきた彼は不機嫌だった。少年たちの歌は眠そうで気が抜けていたし、ジェイクイーズはそのつぶれたしわがれ声でテナーソロを殺してしまった。ジャナウエイは、ミスタ・シャーノールが腹を立てて側廊を通り抜けるとき、さよならも言わなかったことをあとになって思い出した。
ベルヴュー・ロッジに戻っても事態は変わらなかった。雨に濡れて寒気がしたが、暖炉に火はなかった。そんな贅沢をするにはまだ時期的に早かったのである。台所へ行ってお茶でも飲もうか。土曜の午後だ。ミス・ジョウリフはドルカス会に出席しているだろうが、アナスタシアは家にいるはずだ。暗くどんよりしたひとときに一条の陽の光が射し込むように、その考えが頭に浮かんだ。アナスタシアは家にいるだろう、一人で。暖炉のそばに腰かけて熱いお茶を飲もう。そのあいだアナスタシアが話しかけてきて楽しませてくれるはずだ。台所のドアを軽くノックした。開けると、湿った空気がどっとばかりに顔を打った。部屋には誰もいなかった。半開きの窓から雨が吹きこみ、窓辺の樅のテーブルの上を黒く濡らしていた。火はくすぶっている灰にすぎない。考えこみながら無意識に窓を閉めた。アナスタシアはどこに行ったのだ?台所を出てから相当時間が経っているにちがいない。さもなければあんなに火が落ちていることはないだろうし、雨が吹きこむのも見たはずだ。きっと上の階にいるのだろう。ウエストレイの留守を利用して部屋を片付けているのだ。上に行ってみよう。もしかしたらウエストレイの部屋には火が入っているかも知れない。
彼は神の手を底からてっぺんまで広い井戸のように貫く石の螺旋階段を登った。石の踏み段、玄関ホールの石床、化粧漆喰の壁、一番高いところに天窓がある漆喰造りの折り上げ天井。これらが寒々とした階段をささやきの回廊に変え、ミスタ・シャーノールは半分も登らないうちに複数の声を聞いた。
それらは会話をしている声だった。アナスタシアに話し相手がいる。次の瞬間、一つの声は男の声だと分った。何の権利があってウエストレイの部屋にあがりこんでいるんだ?厚かましくもアナスタシアと話しをしているのはどこのどいつだ?突拍子もない疑惑が心をよぎった――まさか、そんなことはあるまい。わたしは盗み聞きをしたり、こっそり近寄って聞き耳を立てたりはしないぞ。しかしそう思いながらも一段か二段さらに階段を登った。声がいっそうはっきりと聞こえた。アナスタシアが話し終え、男がまたしゃべり出した。そうでなければいいという期待と、そうではないかという恐れが、一瞬均衡して、ミスタ・シャーノールの心を宙づり状態にした。そして疑惑は消えた。彼はその声がブランダマー卿の声であることを知ったのだ。
オルガン奏者は階段を二段か三段、素早く駆け上がった。すぐ彼らの所へ行こう――すぐウエストレイの部屋の中へ。それから――そこで彼は立ち止まった。それから、どうするのだ?だいたい何の権利があって中に入るのだ?彼らが何をしようと自分とは関係がないではないか。誰かが口出しする筋合いのものではない。彼は立ち止り、むきを変えて、また下に降りていった。なんて馬鹿なのだろうと自分に言いながら――モグラ塚を山と勘違いして騒ぎ立てるようなものだ。しかも実際はモグラ塚すら存在しないというのに。だが彼はそう思うあいだもずっと生身の心臓をつかまれ押しつぶされるような、むかむかした気持ちに襲われていたのである。戻ると自分の部屋は今まで以上に陰気に思えた。しかし今となってはそんなことはどうでもいい。ここにいる気はないのだから。ほんのしばらく足を止めたのは、ただ事務机の垂れ板の上に乱雑に積まれたマーチン・ジョウリフの書類をごそっと引き出しに放りこむためだった。書類を入れて鍵をかけるとき、ぞっとするような笑みが顔に浮かんだ。「報いを受ける日の必ずや来たらん」。この書類がすべての不当な仕打ちに対する復讐を果してくれるはずだ。
重く濡れそぼった外套を玄関の掛け釘からはずした。これなら悪天候でも台なしになることはないな、なにしろとっくにすり切れて緑色になっているし、次の四半期の給料が出たらさっそく買い換えなければならないような代物なのだから。そう考えて彼は心の中でにやりとした。雨はまだ土砂降りだったが、出て行かずにはいられなかった。四つの壁は彼のいらだちを納めておくには狭すぎたし、外の自然の悲しさは彼の憂鬱な気分にぴったり合った。通りに面したドアをそっと閉め、神の手正面の半円形の階段を降りた。アナスタシアがはじめてブランダマー卿を見た、あの歴史的な夕方に、卿が降りていったのとまったく同じように。そのとき卿が振り返ったように、彼も家のほうを振り返ったが、光り輝く前者と違って彼には運がなかった。ウエストレイの部屋の窓は固く閉ざされ、誰の姿も見えなかったからだ。
「こんな家、二度と見たくないわい」彼は半ば真剣に、半ば冷笑的な気持ちでそう思った。もっとも人がそんな冷笑的なことばを吐くのは、よもや運命の女神がそれを字義通りに受け取りはしまいと思うからなのだが。
一時間以上、当てもなくうろつき、夜になって気がつくと町の西の外れに来ていた。そこの小さな革なめし工場は、形だけはカランで商業活動が行われていることを示す最後のものだった。カル川は何マイルも柳と榛《はん》の木の下を流れ、黄金色の金鳳花《きんぽうげ》や、香り高い下野草《しもつけそう》が茂る広い牧草地を抜け、種付花やサラセニア、菖蒲や揺れる葭を通り過ぎるのだが、ここで昔ながらのよき風景は途切れて、どこにでもよくある町の人工水路となり、波止場のあたりで水深を深め、泥まじりの激しい潮流と出会うのである。ミスタ・シャーノールは疲れを覚え、道路と水の流れをへだてる鉄の杭垣に寄りかかった。立ち止まってはじめて自分がどれほど歩き疲れているかを知り、また、頭を少しかしげて古帽子のつばから滝のような水が落ちたとき、はじめて自分がどれほど雨に打たれたかを知った。
彼が見たのは侘びしい気の滅入るような川の流れだった。背の低い木造の革工場は一部が水面に突き出していて、鉄の支柱に支えられていた。そこに水にさらされ白くなった皮と、胸の悪くなるような内臓がしがみつき、水の流れに従って右に左にゆっくりと揺れていた。このあたりは水深が三フィート程度で、汚れた水の下には砂底が見え、水草のかたまりがあちこちに生えていた。排水に汚れた濃緑色のこのかたまりは、暮れていく光の中でほとんど真黒にしか見えず、ミスタ・シャーノールには水死体の髪の束のように思われた。水の流れに揺らめき、とうとう流されていってしまうのを見ながら、彼は一人それらにまつわる物語を心の中で織り上げた。
彼はぼんやりと観察とつづけたが、心に大きな懸念があるとき、肉体はときどきそんな姿勢を取ったままじっとしているものだ。ごくつまらぬ小さなものまで目についた。彼は汚れた水の下の、汚れた川底に横たわるものを、一つ一つ数えていった。底に穴の開いたブリキのバケツ、注ぎ口のない茶色のティーポット、頑丈すぎて毀れない、陶器製の靴墨の瓶、他にもガラスの欠片や瀬戸物の破片があった。つばだけ残ったシルクハットがあり、つま先のない長靴が一足ならずあった。振り返って道の先にある町を見た。ランプが灯りはじめ、その光が泥道に付けられた幾筋もの交差する白い線を照らし出した。轍《わだち》の跡に水が溜まっていたのである。黒々とした馬車が道をこちらにやって来て、泥の中に新しい跡を付け、二本のかすかに光る線をあとに残した。近づいてきたとき、彼は少々ぎくりとした。救貧院の生活保護者用に棺桶を送り届ける葬儀屋の馬車だった。
彼はぎくりとして身震いした。雨が外套を通して染みこんでいた。腕が濡れているのを感じ、冷たく張り付くような湿気が膝を襲った。長いこと立っていたので身体がこわばり、背中を伸ばそうとするとリュウーマチの痛みにうっと身体の動きが止まった。急ぎ足をして身体を温めよう――すぐ家へ帰るんだ。家へ――しかし家なんかどこにあるというのか。あの大きな陰鬱な神の手。あの建物も、その壁の中にあるすべてのものも厭わしかった。あんなものは家ではない。しかし早足でむかったのはそちらの方向だった。他にどこにも行く場所がなかった。
みすぼらしい小路を通り、五分も経たぬうちに目的地に着くというとき、歌声が聞こえてきた。ウエストレイが到着した最初の晩に通った、同じ小さな酒場の前を通り過ぎようとしていた。ウエストレイが来た晩に歌っていたのと同じ声が中で歌っていた。ウエストレイが不愉快を連れてきやがった。ウエストレイがブランダマー卿を連れてきたのだ。あれから何もかも変わってしまった。ウエストレイなんか来なければよかったのに。わたしの望みは――ああ、わたしの心からの望みは――すべてが昔に戻ること――一世代前のようにすべてが静かに進んでいくことだ。確かにいい声をしている、あの女は。どんな人なのか、一目見る価値はあるだろう。部屋の中が覗ければいいのだが。いや、中を見る言い訳なら簡単だ。軽くお湯割りのウイスキーを注文しよう。こんなに濡れてしまったのだから一杯やったほうがいい。風邪を防ぐことができるだろう。もちろんほんのちょっとだけ、薬代わりに。それならちっとも差し支えはない――ただ健康のため用心をするだけなのだから。
帽子を脱いで雨を振り払い、音楽の演奏の邪魔にならないよう、音楽家らしい配慮を示しながらドアの取っ手をそっと回し中に入った。
彼は一度窓から見たことのある、床が砂でざらざらしている部屋にいた。奥行きがあって天井が低く、屋根には重い梁が渡されている。向こう端には暖炉があり、くすぶる火の上に薬罐がつるされていた。一方の隅にはフィドルを弾く老人が腰かけ、その旁らにあのクレオールの女が立って歌っていた。部屋の中にはテーブルが数台置かれ、後ろの長椅子には十人ほどの男が座っていた。若い者は一人もなく、ほとんどはとうに人生の盛りを過ぎている。顔は日焼けしてマホガニー色になっていた。ある者は耳飾りをし、白髪の揉み上げを奇妙な具合にカールさせていた。彼らはまるで何年もそこに座りつづけているかのようだった――まるで永遠に酒場に集う至福境を与えられた昔の沈没船の乗組員といった風情だった。誰もミスタ・シャーノールに注意を払わなかった。音楽が人を恍惚とさせる力を発揮し、彼らは心ここにあらずという状態だったのだ。ある者は昔のカランの捕鯨船や、銛や浮氷塊とともにあった。ある者は船首の四角い木材運搬用ブリッグや、バルト海とメーメル産の白い木材、荒れ狂う海上の夜と、それ以上に荒れ狂った上陸地の夜を夢見ていた。またある者はマンゴーの木立を通して見た菫色の空と月明かりを思い出し、クレオールの女を見ながら、その衰えた容色の中に一昔前、若い情熱に火を付けた甘い、浅黒い顔を呼び起こそうとした。
さあ、おまえたち、グロッグ酒だ――グロッグ酒を持ってこい
とクレオールは歌った。
ふち一杯に注ぐんだ
ネルソン提督の思い出が褪せないように
その栄光の星の光が衰えないように
どのテーブルにも大酒杯が並び、ときどき酒飲み仲間の一人が中に角砂糖を入れてマドラーで砕き、あるいは目の前で湯気を立てている茶色の大きなコップ酒をぐいとあおった。ミスタ・シャーノールに話しかける者はなく、ただ店の主人が注文も聞かずに、他の客が飲んでいるのと同じ熱い酒をコップに満たして前に置いた。
もしかしたらもっと不本意な顔をするべきだったのかも知れないが、オルガン奏者はあっさり運命を受け入れ、数分後には他の人と同じように酒を飲み、煙草を吸っていた。酒は好みに合っていたし、すぐに暖かい部屋とアルコールが効き目をあらわし元気が戻ってきた。外套を掛け釘にかけると、雨水がしたたり落ちるほどずぶ濡れで、しかも水が服の中まで浸みていたので、主人が空のグラスのかわりに、二杯目を持ってきたときは、ためらうことなく当然のようにそれを受け取った。大酒杯は次から次へと取り替えられ、クレオールの女は相変わらず合間合間に歌い、一同は煙草を吸い酒を飲みつづけた。
ミスタ・シャーノールも酒を飲んだが、部屋の中がさらに暑くなり、煙草の煙にくもり出すと、次第にものがはっきり見えなくなった。ふと気がつくとクレオールの女が目の前にいて、貝殻形の器を差し出し、投げ銭を求めていた。ポケットには硬貨が一枚――二週間分の小遣いになるはずの半クラウン硬貨が一枚しかなかった。しかし気が高ぶっていた彼は躊躇しなかった。
「ほら」まるで王国を与えるかのように彼は言った。「ほら、受け取りたまえ、あんたの歌にはこれくらいの値打ちがある。だが以前あんたが歌っていた歌を聴かせてくれないか。うねる海がどうとかこうとかいうやつだが」
彼女はわかったと頷き、金集めが終わると盲目の男に金を渡し、伴奏を頼んだ。
何連もある長いバラッドで、次のようなリフレーンがついていた。
どうかわたしを連れてって 愛する人がいる場所へ
彼らをここに連れてきて それがだめというのなら
荒れた海のむこうまで
さまよう気力はとてもない
歌い終わると彼女は戻ってきて、ミスタ・シャーノールの隣に座った。
「何か飲み物をおごってくれない?」彼女は実に見事な英語でそう言った。「みんな飲んでいるんだもの。わたしが飲んでいけないことはないでしょう?」
彼は主人を手招きして彼女にコップを持ってくるように言った。彼女はオルガン奏者の健康を祝してそれを飲んだ。
「歌がうまいね」と彼は言った。「少し訓練したら本当にすばらしい歌い手になる。どうしてこんなところに来たのかね。もっといい仕事に就くべきだよ。わたしだったらこんな連中の前で歌ったりしないね」
彼女は怒って彼を見た。
「どうしてわたしがこんなところに来たかですって。あなたこそ、どうしてこんなところに来たの?そりゃあ、少し訓練を受けたら、もっとうまく歌えるでしょうよ。もしもあなたと同じ訓練を受けていたら、ミスタ・シャーノール」――彼女はあざけるように彼の名前を強調した――「こんなところで飲んだくれてなんかいないわ」
彼女は立ち上がって老いたフィドル弾きのほうへ戻っていった。しかし彼女のことばはオルガン奏者の酔いを醒まし、胸に鋭く突き刺さった。結局、良き決心はことごとく無駄に終わったのだ。彼は主教との約束を破ってしまった。主教は月曜日にまたやってきて、相変わらず悪習に染まった彼を――今まで以上に悪習に染まった彼を見いだすだろう。悪魔が戻ってきて飾られたる家(註 ルカ伝から)で大騒ぎをしているのだ。彼は勘定を払おうとして振り返ったが、半クラウン硬貨は既にクレオールに渡っていた。金のない彼は店の主人に言い訳をし、恥をかき、名前と住所を言わされた。相手はぶつぶつと苦情を言った。楽しい仲間とお酒を飲む紳士は、紳士らしく勘定の用意をなさっておくものです。ずいぶんお飲みになりましたから、これがお支払いいただけないとなると、わたしみたいな貧乏人にとってはえらいことなんですよ。お客さんのおっしゃることは嘘じゃないんでしょうが、オルガン弾きともあろう方がメリーマウスへ酒を飲みに来てポケットに一文もなしというのは変じゃありませんか。雨は止みましたからね、誠意のしるしとして外套をかたに置いていってください。後で取りに来たらいいですよ。そういうわけでミスタ・シャーノールは着衣の一部を置いて行かざるを得ず、長年つきあってきたおんぼろ外套と別れさせられたのだった。彼は開いたドアのところで振り返り、寂しそうに笑みを浮かべて、掛け釘にひっかかって水をしたたらせている外套を見た。競売に付されたとしても、はたして酒代になるほどの値がつくだろうか。
確かに雨は止んでいた。空はまだ曇っていたが、雲の背後に広がる明かりは月が出ていることを示していた。どこへ行こうか。どこにむかえばいいのだろう。神の手には戻れない。そこにはわたしを厭がる人間がいる――わたしも会いたくない人間が。ウエストレイは帰っていないだろうし、帰っていたらいたで、酒を飲んでいたことがばれてしまう。またもや酒におぼれたことを、みんなに知られるのは耐えられなかった。
そのとき、別の考えが頭に浮かんだ。聖堂に行こう。ウオーター・エンジンが風を送ってくれる。酔いがさめるまで演奏するんだ。いや待てよ、聖堂に――聖セパルカ大聖堂に一人で行くのか?あそこにいるのはわたし一人だろうか。一人になれるのならずっと安心だ。しかし他に誰かが、あるいは何かがいやしないだろうか。彼は小さく身震いしたが、酒は血管を駆けめぐっていた。酔っぱらいらしく威勢よく笑い、小道に沿って中央塔にむかった。塔は雲に隠れた月の、霧のようにしっとりした白い光の中に、黒々とした姿を浮かび上がらせていた。
第十四章