当然ながらバンティングはそれ以後、絶えずうずくような恐怖と緊張にさらされつづけた。

この不幸な男は悶々と悩んだ。いったいどうしたらいいのだろう。そのときどきの気分と心理状態によって彼は大きく異なる行動方針のあいだを揺れ動いた。

彼は何度もそわそわとこう考えた。いちばん困ることは確信が持てないことだ。確信が持てさえすれば、取るべき道は決まるのに。

しかしそう自分に言い聞かせながら、彼は自分を偽っていたのだし、その事実にぼんやりと気がついてもいた。一家のあるじであれば、たいていの人は警察に行くことを唯一の対応策だと考えるだろう。しかしバンティングはそれ以外のやり方があるなら、ほとんどどんな対応策でもかまわなかったのである。バンティングの階級に属するロンドン子は法律に対して不安と恐れを抱いている。そんな恐ろしいものに巻き込まれたことがみんなに知られたら、彼もエレンも破滅することになるだろう。法律にかかわる人間は誰も彼らのことや、彼らの未来を心配してはくれない。それどころか死ぬ日まで彼らを追い回すだろう。そして何よりも彼らが落ち着いた生活に戻ることを不可能にするだろう。落ち着いた生活こそが、まさに今、バンティングが心ひそかにこいねがうものだったのだけれども。

そう、警察に行くのではなくて、別の手立てを見つけなければならない。彼はそれを考え出すために、さんざん鈍い頭をひねった。

何よりつらいのは、一時間おきに行動の方針がよりいっそう困難なものに、よりいっそうやっかいなものになることだ。それは良心にのしかかる重圧をますます大きくしていった。

真実が分かってさえいたら!絶対まちがいないと思うことができさえしたら!しかし結局のところ、判断の材料はほとんどないのだと彼は自分に言い聞かせた。あるのはただ疑惑だけ――疑惑と、自分の疑惑が正しいというひそかな、恐るべき確信だけだった。

そういうわけで、とうとうバンティングはどう見ても言い訳の立たないある解決法を望むようになった。つまり下宿人がある晩、ふたたび恐るべき用事のために外へ行き、逮捕されることを――現行犯で逮捕されることを心の奥底で期待するようになったのだ。

ところがミスタ・スルースは、恐るべき用事も何も、まったく外に出なくなってしまった。彼は二階にこもり、しかもしばしば一日のほとんどをベッドのなかで静かに過ごした。彼はミセス・バンティングに、いまだに体調が回復しないのだと言った。帰宅の途中で主人と会ったあの寒い晩、彼は風邪をひき、それがずっと治らないのである、と。

ジョー・チャンドラーもデイジーの父親にとってはやっかいな問題になってしまった。刑事は非番のときはバンティング家に入り浸っていた。一時は好意をしめし歓迎していたバンティングも今では彼が死ぬほど恐かった。

この青年が話すのはほとんど復讐者のことばかりで、ある晩などはウエートレスにソヴリン金貨を与えた風変わりな紳士について詳細に語り、それがミスタ・スルースとあまりにも合致するものだからバンティングもミセス・バンティングも聞きながらそれぞれひそかに暗澹たる思いにとらわれていた。しかし若者は下宿人には少しも関心を示さなかった。

ある朝、バンティングとチャンドラーはとうとう復讐者についておかしな会話をかわすことになってしまった。若者はいつもより早く家にやってきた。彼が着いたときミセス・バンティングとデイジーはちょうど買い物に出かけるところだった。娘は家に残りたがったのだが、しかしまま母は勝手な真似は許さないとひどく嫌な顔をし、デイジーは愛らしい顔を真っ赤にしてぷんぷんしながら出かけることになったのだった。

チャンドラー青年が居間に入ってきたとき、バンティングはふとその表情がいつもとちがうことに気がついた。実をいえば、元執事を不安にさせるくらい、チャンドラーの態度には何やら威嚇的なところがあった。

「お話があります、ミスタ・バンティング」と彼は唐突に、ためらうように話しはじめた。「ミセス・バンティングとミス・デイジーがお出かけになっているので、この機会に」

バンティングははげしい非難の言葉を待ち受け、身構えた――殺人者を、世界が追い求めている怪物を、あなたは一つ屋根の下にかくまっていた、という非難だ。そのとき彼は恐るべき法律用語を思い出した。「事後共犯」。そうだ、おれは事後共犯なんだ。まちがいない!

「なんだね」と彼は言った。「どうした、ジョー」この不幸な男は椅子に座った。「なんだね」彼は不安そうにもう一度言った。チャンドラー青年はテーブルに近寄り、バンティングを凝視していたのだ――それを見て相手はおどかされているように感じた。「さあ、言いたまえ、ジョー!気を持たせるんじゃないよ」

するとかすかな微笑が若者の顔に広がった。「ぼくの話は別に驚くようなことじゃありませんよ、ミスタ・バンティング」

バンティングは頭を振ったが、それは肯定とも否定とも、どちらにでも取れるような仕草だった。

二人の男は見つめ合い、年上のほうの男にはそれがいつまでも、いつまでも、つづくように思えた。それからジョー・チャンドラーが思いきってこう言った。「ぼくが話したいことはもうご存じだと思います。ミセス・バンティングもご存じのはずです。最近、二回ほど、ぼくのほうを意味ありげに見ていたから。お嬢さんのことなんですよ――ミス・デイジーのことなんです」

バンティングはむせび泣きとも笑い声ともつかない叫び声をあげた。「娘のことかね」と彼は大声で言った。「なんだい、ジョー!きみが話したいのはそんなことかね。ああ、ギクリとさせやがって――ほんとうに、もう!」

一気に緊張感から解放されて、彼は部屋がぐるぐると回転するような気がした。そのあいだ彼は娘の恋人を見ていた。彼にとっては今や恐怖の対象たる法の体現者でもある娘の恋人を。彼はいささか間の抜けた笑顔を訪問者にむけた。チャンドラーはその穏和な心のなかに激しいいらだちというか、焦燥感が波のように湧き起こるのを感じた。デイジーの父親は、まったく察しの悪いおいぼれなのだ。

バンティングの表情が改まった。部屋は回転するのを止めた。「わたしは」と彼はぐっとおごそかに言った。そこにはかすかな威厳すら感じられた。「きみを祝福するつもりだよ、ジョー。きみは有望な青年だし、きみのお父さんは心から尊敬している」

「ありがとうございます、ミスタ・バンティング。でも、彼女はどうなんでしょう――本人の気持ちは」

バンティングは相手をじっと見つめた。エレンがいつもほのめかしていたことはまちがいで、デイジーがすっかり気を許したわけではないことを知り、彼は機嫌がよかった。

「わたしからデイジーのことはなんとも言えない」と彼は重々しく言った。「それは自分で訊かなければならないね――きみ以外、誰にもできないことだ」

「機会がないんですよ。二人っきりで会うことができないんです」とチャンドラーはいささか興奮したように言った。「お分かりにならないようですね、ミスタ・バンティング、ぼくはミス・デイジーと二人だけで会う機会がないんですよ」と彼は繰り返した。「彼女は月曜日に出て行くそうじゃないですか。でも今までいっしょに出かけたことが一回あっただけです。ミセス・バンティングが口やかましいんですよ、ミスタ・バンティング、頭が固いとまでは言いませんが――」

「それは困ったことだが、正しいことでもあるんだよ――若い女の子に対してはね」とバンティングは考えながら言った。

チャンドラーは頷いた。ほかの若い男に対してはミセス・バンティングはいくら厳しくても厳しすぎることはない、と彼も納得した。

「レディとして育てられてきたからな、うちのデイジーは」とバンティングがいささか得意そうにつづけた。「|伯母さん《オールド・アーント》は彼女から目を離さないし」

「今、その|伯母さん《オールド・アーント》のことで質問しようと思っていたんです」とチャンドラーは憂鬱そうに言った。「ミセス・バンティングの話だと、デイジーは、あのご婦人が死ぬまでおそばについていなきゃならないみたいなんですが――それってほんとうですか。それが訊きたかったんですよ、ミスタ・バンティング――あれは本気で言っているんですか」

「エレンには一言言っておくよ。心配しなくてもいい」とバンティングはぼんやりとして言った。

彼の心はデイジーや眼のまえの好青年のことを離れて、今や絶えず彼に取り憑いている不安な思いに移ってしまっていた。「明日来たまえ」と彼は言った。「デイジーと外出できるように取りはからってあげよう。年寄り抜きで、二人きりで話したいというのはもっともだ。そうしなけりゃ、娘もきみが好きかどうか告白できないからな!しかしね、きみはまだ娘がどんな人間か分かっちゃいないよ、ジョー――」彼は若者をじっと見つめた。

チャンドラーはいらいらと頭を振った。「知りたいだけのことはちゃんと知ってますよ」と彼は言った。「はじめてあったとき、ぼくは彼女と結婚しようと心に決めたんです、ミスタ・バンティング」

「まさか!ほんとうかね」とバンティングは言った。「そういや、娘の母親と会ったときのおれもそうだった。それから何年もあとだが、エレンのときも。しかしきみは二人目が欲しいなんて思うようなことにならなきゃいいがな、チャンドラー」

「変なことを言わないでください!」若い男は声をひそめて言った。それからややじれったそうにこう尋ねた。「二人はまだ帰らないんでしょうか、ミスタ・バンティング」

バンティングはもてなしの心を忘れていたことに気がついた。「さあ、座りたまえ」彼は急いで言った。「長くはかからないと思うよ。たいしたものを買うわけじゃないから」

それからふと調子を変えて、よく響く、心配そうな声でこう訊いた。「仕事のほうはどうなんだね、ジョー。新しい展開は何もないのかい。また事件が起きるのを待っているんだろう?」

「ええ、そんなところです」チャンドラーの声も陰気な、とげとげしい調子に変わった。「ぼくらはうんざりしています――いったいいつ終るんだろうと思って!」

「犯人がどんなやつか想像したことはあるかい?」とバンティングは訊いた。なぜかそれを訊かずにはいられなかった。

「ええ」ジョーはゆっくりと言った。「ぼくが思い浮かべるのは――残忍で、たけだけしい顔つきの悪魔。犯人はそんなやつにちがいないですよ。人相書きのせいでぼくらはまちがった方向を捜査しているんです。霧のなかで女とすれちがった男は関係ないとぼくは思います。あれは犯人なんかじゃないです。でも、迷いますね。犯人像をはっきりこうだとは言えません。ときには船乗りじゃないかと思うこともあるし――ほら、噂に出てくる外国人ですよ。事件と事件のあいだ、八日か九日くらいはオランダとか、フランスに行っている外国人。別のときはセントラル・マーケットあたりの肉屋じゃないかと思うこともあります。誰であるにしろ、殺しに慣れた男ですね。それは絶対まちがいない」

「それじゃ、きみの意見じゃ、あれは正しくないと言うんだね――」(バンティングは立ちあがって窓のほうに寄った)「つまり、その、新聞が書いているようなことは信じてないんだね、あの男が」――彼は躊躇してから必死になって言葉を吐き出した――「紳士だなんて」

チャンドラーはびっくりしたように彼を見た。「思いませんね」と彼は落ち着いて言った。「それはぜんぜんまちがっているな。もっとも、警察のなかにはお偉いさんも含めて、ウエートレスにソヴリン金貨をやった男が犯人だと確信している人もいます。でも、ミスタ・バンティング、もしもそれが事実だとしたら――そいつは施設を逃げ出した精神異常者と考えるべきでしょう。脱走した精神異常者なら、付添人がいるはずです。そして彼はどこに行ったと、大騒ぎするでしょう。ちがいます?」

「きみは」とバンティングは声を落してつづけた。「やつが、たとえば下宿なんかしているとは考えないんだね」

「復讐者がウエスト・エンドのホテルに泊まっている上流人だってことですか、ミスタ・バンティング?そんなことはないだろうなあ」彼は考えるのもおかしいといったようにほほえんだ。

「うん、まあ、そんなところなんだが」とバンティングはつぶやいた。

「もしもその予想が当っていたら、ミスタ・バンティング――」

「おれがそう思っているってわけじゃないんだ」とバンティングはあわてて言った。

「まあ、それが正しいとすればですね、ぼくらの仕事は今まで以上にむずかしくなります。だって、干し草畑のなかから針を捜し出すようなものですもの!でも、その可能性はまずないと思います――少なくともぼくはないと思うな」彼はためらった。「仲間のなかには」――彼は声をひそめた――「やつが――復讐者が――がどこかへ行ってしまえばいいと思っているのもいます――別の大都市、たとえばマンチェスターとかエジンバラとかにね。そこならやつもたくさんやることがあるだろうから」そう言ってチャンドラーは自分のブラックユーモアにクスクスと笑った。

そのときミセス・バンティングの鍵が鍵穴に差し込まれる音が聞えてきて、どちらの男も内心ほっとしたのだった。バンティングは復讐者とその犯罪に関するこの議論がひどく恐くなってきたところだった。

デイジーはチャンドラー青年がまだそこにいることを知り、うれしさに頬を赤く染めた。とっくに帰ってしまったものと思っていたのだ。エレンがまるでわざとのように何だかんだとつまらぬ買い物をぐずぐずつづけるものだからなおさら不安がつのったのだった。

「ジョーはデイジーと外出したいんだそうだ」とバンティングはだしぬけに口走った。

「母があなたをお茶に招待したがっているんですよ、リッチモンドのほうへ」とチャンドラーはぎこちなく言った。「ご都合はどうかと思って来たんです、ミス・デイジー」デイジーは訴えるようにまま母を見た。

「今日これから?」とミセス・バンティングは辛辣に言った。

「いやいや、もちろんそうじゃない」バンティングが急いで割り込んできた。「なんだってそんなことを言うんだい、エレン!」

「お母様はいつが都合がいいとおっしゃったの?」ミセス・バンティングは皮肉な目で若者を見ながら訊いた。

チャンドラーは口ごもった。母親は特に何日とは指定していなかった――それどころかデイジーに会うことに驚くほど無関心だった。しかし彼は何とか母親を丸めこんだのだ。

「土曜日はどうだ?」とバンティングが提案した。「デイジーの誕生日だよ。リッチモンドに行くのは誕生日の記念になるだろう。月曜には|伯母さん《オールド・アーント》のところへ帰るんだから」

「土曜はぼくが行けません」とチャンドラーは悲しそうに言った。「土曜日は勤務があります」

「よし、それじゃ日曜日だ」とバンティングは断固として言った。妻はびっくりして彼を見た。自分のいるまえで彼が自己主張することはめったになかった。

「それでいいですか、ミス・デイジー」とチャンドラーは言った。

「日曜ならちょうどいいわ」とデイジーはとりすまして言った。若者が帽子を取りあげたとき、まま母が動こうとしなかったので、デイジーは思いきって玄関まで彼を送ることにした。

チャンドラーが居間のドアを閉めたので、二人はミセス・バンティングのささやきを聞かずにすんだ。彼女はこう言ったのだった。「わたしが若かったころは、日曜日にぶらぶら遊びに出る人はなかった。お付き合いをしている人はいっしょに教会に行ったものよ、真面目にね――」

第二十五章

デイジーの十八回目の誕生日は何ごともなく朝を迎えた。父親は十八歳になったらプレゼントしようといつも約束していたものを与えた――時計である。かわいらしい小さな銀時計で、彼が幸せだった最後の日に中古で買ったものだ。それも今思うとずいぶん昔のような気がした。

ミセス・バンティングは銀時計など贅沢すぎるプレゼントだと思ったが、なにしろあまりにも気分が落ち込み、あまりにも自分のことしか考えられなかったから、いちいち口出しはしなかった。それに夫と娘のあいだで行われることに関しては良識をはたらかせ、たいていの場合は横からとやかく言わないことにしていた。

誕生日の午前中にバンティングはタバコを買い足しに出かけた。おそらく仕事を辞めてからの一週間をのぞけば、この四日間くらいタバコを吸いまくったことはなかっただろう。あの当時、パイプを吹かすことはえもいわれぬ快楽だった。それは禁断の実を食べるような快楽なのだそうである。

タバコは今や彼にとって唯一の安らぎだった。それはまるで麻薬のように神経に作用して、恐怖をやわらげ、思考の手助けをしてくれる。しかしささいなことにギクリとするのはタバコの吸いすぎのせいだと彼は思っていた。何でもない外の音や、急に話しかける妻の声にさえ彼は縮みあがったのだ。

ちょうどそのときエレンとデイジーは下の台所へ行っていた。バンティングはミスタ・スルースと自分のあいだにひと続きの階段しかないことに気づいてやけに落ち着かなくなった。そこでエレンには何も言わずこっそりと外に出かけたのだった。

この四日間というもの、バンティングは行きつけの店をわざと避けて行かないようにした。とりわけ知り合いや近所の人と会うことを避けていた。彼はあることについて彼らに話しかけられるのを怖れていたのだ。そのこと以外何も考えられなかった彼は、つい口を滑らして知っていることをしゃべってしまうのではないかと不安でたまらなかった。いや、知っていることというより、それは彼のなかに巣くっている疑惑といったほうがいいだろう。

ところが今日、この不幸な男は人と話をしたい――つまり妻や娘以外の誰かと話をしたい――という奇妙な、本能的な欲求にかられたのである。

ちがう相手と話したいという、この欲求はとうとう彼をエッジウエア通りにほど近い、小さな人通りの多い街路へと連れ出した。そのときはいつもより人の行き来が多かった。あしたが日曜日であるため、近所の主婦が買いだめをしていたのである。元執事はいつもタバコを買う小さな古い店屋に入った。

バンティングはタバコ屋ととりとめのない会話をして時間を過ごした。しかしバンティングが安心しまた驚いたことに、隣近所が今でも噂するにちがいない話題について、店のあるじはちらりとすら触れることはなかった。

カウンターのそばに立っていた彼は手にしたタバコの代金をまだ払っていなかったのだが、ふと開けっ放しのドアからエレンの姿を垣間見、はっと身体が凍りついた。妻はちょうど反対側の果物屋のまえに一人で立っていた。

一言ことわりを入れて、彼は店を飛びだし道路を渡った。

「エレン!」彼はしわがれた声で言った。「まさか娘を下宿人と二人きりにして出てきたんじゃないだろうな」

ミセス・バンティングの顔は恐怖で黄色くなった。「あなた、うちにいるとばかり思っていたわ」と彼女は叫んだ。「うちにいたじゃない!どうして出てきたのよ、わたしが家にいることを確かめもしないで?」

バンティングは答えなかった。しかし腹を立てながら黙ってにらみ合っているとき、彼らは互いに相手があのことを知っていることに気づいたのだった。

彼らはむきを変え、混雑した通りをあわてて戻りはじめた。「走るんじゃない」と彼は唐突に言った。「早歩きで充分間に合う。ほかの人が見ている、エレン。走るんじゃない」

彼は息をきらしながらしゃべった。早歩きのせいではなく、恐怖と動揺のために息が切れたのだった。

ようやく彼らは門のところにたどり着いた。バンティングが妻の先に立ち、門を押してなかに入った。

エレンはしょせん、まま母だ。おれの気持ちなんか分かるわけがない。

彼は小径をひとっ飛びに飛び越えたようだった。そして慌てて鍵をあけた。

ドアを開け放ち「デイジー!」と彼は怒鳴った。泣き出しそうな声だった。「デイジー!どこだ?」

「こっちよ、お父さん。どうしたの?」

「大丈夫だ」バンティングは蒼白な顔を妻にむけた。「大丈夫だよ、エレン」

彼は廊下の壁にもたれてしばらくじっとしていた。「まったく驚かせやがって」と彼は言い、それから警告するように「娘を怖がらせちゃいけないぞ、エレン」と言った。

デイジーは居間の煖炉のまえに立って鏡に映った自分の姿に見とれていた。

「お父さん」と振り返りもせず、彼女は叫んだ。「わたし、下宿人を見たわよ!すてきな紳士じゃない。でも確かに変人みたいね。呼び鈴が鳴ったんだけど、わたし、上に行きたくなかったのよ。そうしたら彼が降りてきてエレンに何かを頼もうとしたの。わたしたち、ちょっとだけお話ししたのよ。今日はわたしの誕生日だって言ったら、エレンも誘って今日の午後、マダム・タッソーの蝋人形館へ行きませんかですって」彼女はやや照れたように言った。「たしかに普通の人とはちがっているわね。はじめて顔を合わせたとき、すごく変な話し方をしたもの。『誰なんです』っておどかすみたいに言ったのよ。だから、わたし、『ミスタ・バンティングの娘でございます』って言ってやったの。『それは幸運な娘さんですね』って、あの人、そう言ったのよ、エレン。『あんなに素敵なまま母がいらっしゃるのだから。だからあなたも善良で、純粋な女性に見えるんでしょうね』ですって。そのあと祈祷書から何か引用したわ。『全き人に目をそそぎなさい』って、首を振りながら言ったの。なんだか、|伯母さん《オールド・アーント》と一緒にいるみたいな気分だったわ」

「下宿人と外出するなんて許さないぞ、絶対に」

バンティングは押し殺したような、憤慨した声で言った。一方の手は額の汗をぬぐい、もう一方の手は無意識のうちにタバコの小箱を握りつぶしていた。彼は代金を払い忘れたことをはっと思い出した。

デイジーは口を尖らせた。「あら、お父さん、誕生日には好きなことをさせてくれるんじゃなかったの!土曜日は混んでいるから見学にはあまりいい日じゃないそうですよって、わたし、言ってやったのよ。そうしたら早く行って、ほかの人が昼ご飯を食べているときに見ましょう、ですって」彼女はまま母のほうをむき、嬉しそうに笑った。「あの方は、特にあなたを誘いたいらしいわ。あなたのことが大好きみたいよ、エレン。わたしがお父さんだったら、やきもち焼いちゃう!」

彼女の最後の言葉は居間のドアをノックする音によってさえぎられた。

バンティングと妻は不安そうに眼を見交わした。動揺のあまり、玄関のドアを開けっぱなしにしていたのだろうか。誰か、容赦のない法の手先が、こっそりと忍び込んでいたのだろうか。

二人はそれがミスタ・スルースにすぎないことを知ると不思議な安心感をおぼえた。ミスタ・スルースは外出する格好をしていた。はじめてそこに来たときかぶっていたシルクハットを手に持っている。しかしインバネスのかわりにコートを着ていた。

「お戻りになるのが聞えたものですから」――彼は甲高いおどおどした声でミセス・バンティングに話しかけた――「ミス・バンティングと一緒にマダム・タッソーの蝋人形館へ行くのはどうかと思いまして。わたしはまだ有名な蝋人形を見たことがないのです。名前はいつも聞いているのですが」

バンティングは平静を装って下宿人をじっと見ていた。そのとき、ある考えが胸のなかに浮んできて、たとえようもない安堵をもたらしたのだった。

こんなに穏やかで優しい紳士が、残酷で狡猾な怪物であるわけがないではないか。この恐ろしい四日間というもの、バンティングがずっと信じつづけてきたような怪物であるわけが。

彼は妻の眼をとらえようとしたがミセス・バンティングはあらぬ方向を茫然と見つめていた。彼女はもちろん買い物用のボンネットとクロークを身につけたままだった。デイジーはもう帽子をかぶりコートを着ていた。

「いかがでしょうか」とミスタ・スルースは言った。ミセス・バンティングは振りむいた。女主人には相手の眼が彼女を威嚇しているように思えた。「いかがです?」

「かしこまりました、旦那様。すぐ御一緒しますので」と彼女は力なく言った。

第二十六章

それまでマダム・タッソーの蝋人形館はミセス・バンティングにとって楽しい思い出の場所だった。彼女とバンティングが付き合っていたとき、午後のデートをよくここで過ごしたものだった。

執事は蝋人形館の職員の一人、ホプキンスという男と知り合いで、彼がときどきペアの優待券をくれたのである。しかしミセス・バンティングはこの大きな建物のすぐ隣といってもいいところに住んでいたのに、それまでそこを訪れたことがなかった。

彼らは黙ってなじみのある入り口からなかへ入った。この奇妙な三人連れが大きな階段をのぼり、最初の展示場に着いたとき、ミスタ・スルースは急に立ち止った。奇怪な形で生のなかに死を示す、異様な、動かぬ、蝋人形を見て驚き、おののいたようだった。

デイジーは下宿人の躊躇と不安を利用してすばやくこう言った。

「ね、エレン」と彼女は大きな声で言った。「最初に恐怖の部屋に行きましょうよ!わたし、まだ行ったことがないの。前に一回だけここに来たときは、お父さんが連れて行ってくれなかったの、|伯母さん《オールド・アーント》があそこには連れて行くなって約束させていたのよ。でも、もう十八なんだから、好きなことをしたっていいでしょう。それに|伯母さん《オールド・アーント》には分りゃしないから」

ミスタ・スルースは彼女を見下ろした。その疲れてやつれた顔に一瞬ほほえみがひらめいた。

「ええ、恐怖の部屋に行きましょう。名案ですね、ミス・バンティング。わたしも恐怖の部屋はずっと見たかったんです」

彼らはナポレオン時代の遺物が保存されている大きな部屋を抜け、納骨所のようなおかしな小部屋に入った。そこには死んだ犯罪者たちの蝋人形が何体かずつに分けられて木の台の上に立ち並んでいた。

ミセス・バンティングは夫の古い知り合い、ミスタ・ホプキンスを見て、困惑すると同時にほっと安心もしたのだった。彼は回転木戸のところで恐怖の部屋に入る客の切符を切っていた。

「おや、珍しいですな」と彼はにこやかに言った。「結婚なさってからはじめてじゃないですか、ミセス・バンティング、ここでお目にかかるのは」

「ええ」と彼女は言った。「そうね。この子が夫の娘のデイジーよ。聞いていらっしゃるでしょうけど、ミスタ・ホプキンス。それからこちらの方は」――彼女はつかの間ためらった――「うちで下宿をしていらっしゃるミスタ・スルース」

しかしミスタ・スルースはしぶい顔をして、さっさと先へ行ってしまった。デイジーはまま母のそばを離れ、彼と一緒に歩いた。

俗に言う通り、二人なら気が合うが、三人では仲間割れ、である。ミセス・バンティングは六ペンス銅貨を三枚置いた。

「待ってください」とホプキンスが言った。「まだ恐怖の部屋には入れませんよ。四五分待っていただければいいんですけど、ミセス・バンティング。実は、お偉いさんが団体客を案内しているんですよ」彼は声をひそめた。「サー・ジョン・バーニーです。サー・ジョン・バーニーのことはご存じでしょう?」

「いいえ」と彼女は興味なさそうに答えた。「聞いたことがないわ」

彼女は少しだけ――ほんの少しだけ――デイジーのことが気にかかった。まま娘を姿が見え、声が聞える範囲に置いておきたかったのだけれど、ミスタ・スルースは彼女を部屋のむこう端に連れて行こうとしていた。

「彼とは知り合いにならないほうが――個人的な知り合いにはならないほうが――いいでしょうな、ミセス・バンティング」そう言って彼はくすりと笑った。「サー・ジョン・バーニーってのは警視総監ですよ――新任の。連れて歩いているお客さんの一人はパリ警視庁の総監です。サー・ジョンと同じ仕事をなさっているんですな。この方は娘さんと一緒に来ています。それからご婦人方も何人かいます。ご婦人方は恐いものがお好きですな、ミセス・バンティング。わたしらの経験じゃ、例外なしにそうですよ。『まあ、恐怖の部屋へ連れて行ってちょうだい』――この建物に入ったとたん、そう言いますね!」

ミセス・バンティングは考え込むように相手を見た。ミスタ・ホプキンスは彼女がひどく青ざめ、疲れていることにふと気がついた。バンティングと結婚するまえ、まだお仕えをしていたころは、もっと元気な様子だったのだが。

「ええ」と彼女は言った。「まま娘もさっきそう言ったわ。『恐怖の部屋に連れて行って』って。ここに着いたとき、そっくりそのままのことを言っていた」

******

一団の人々がおしゃべりをし、笑い合いながら木の柵の内側から回転木戸のほうへむかって来た。

ミセス・バンティングは神経質そうに彼らを見た。ミスタ・ホプキンスが、個人的な知り合いにならないほうがいいでしょうな、と言った紳士はどの人だろうと思った。彼女はほかの人のなかから彼を選び出すことができそうな気がした。彼は背が高くて力強い、軍人のような顔つきのハンサムな男性だった。

ちょうどそのとき、彼はにこにこしながら一人の少女の顔を上から覗き込むように見ていた。「ムシュー・バルバルーのおっしゃる通り」と彼は大きな、陽気な声で話していた。「イギリスの法律は犯罪者に寛大すぎます。とりわけ殺人者には。わが国がフランス流の裁判をしていれば、今われわれが出てきた部屋にはもっと蝋人形が一杯詰まっていたでしょう。有罪は絶対まちがいないと警察が確信した人間がしばしば無罪放免になるのです。そして一般大衆からは『未解決事件がまた増えた!』と愚弄されるのですよ」

「サー・ジョン、それって、人を殺しても罰を受けないことがあるっていうことなの?先月から人を殺しているあの男も?きっと絞首刑になるわよね――捕まったら」

少女らしい声が鳴り響き、ミセス・バンティングはその一言一句を聞き取ることができた。

一団の人々は彼らのまわりに集り、熱心に聞き耳を立てていた。「いやいや」彼はゆっくりと言った。「あの殺人者は絞首刑にはならないと思いますね」

「警察には捕まえられないってこと?」少女の澄んだ声には気取ったような、おしゃまな調子があった。

「われわれは最後にはやつを引っ捕らえるでしょう――というのは」――彼は一瞬ためらって、それから低い声でこう付け加えた――「新聞記者には洩らさないでくださいよ、ミス・ローズ――というのは、われわれは問題の殺人者の正体を突き止めたと考えていますから――」

そばに立っていた数人の人が驚きあきれ、信じられないといった声を発した。

「じゃ、どうして捕まえないの?」と少女は憤慨したように叫んだ。

「犯人の居場所が分かっているとは言いませんでしたよ。ただやつが誰であるのか知っていると言ったのです。いや、それよりも、わたしが個人的に非常に強い疑いを抱いている人物がいると言うべきかもしれません」

サー・ジョンのフランス人の同僚はすばやく視線をあげた。「ライプシックとリバプールの男かね?」彼はいぶかしそうに訊いた。

相手は頷いた。「そうです。事件を調査なさったようですな」

彼はその話題を自分の心からも聞き手の心からも追い払おうとするかのように、ひどく急いでこう言った。

「八年前に同じような殺人が四件発生しました。ライプシックで二件、その直後にリバプールで二件。どの犯罪にもある特徴があって、同一人物によって犯されたことは明らかでした。犯人は幸いなことに現場で取り押さえられました。犯人は最後の犠牲者の家を出て行こうとしたところを捕まったのです。リバプールの二つ目の事件は家のなかで起きましてね。わたしはこの不幸な男を見ました――不幸というのは、どう見ても彼は気が狂っていたからです」――彼はためらい、声を低めてこう言い足した――「宗教的な妄想に取り憑かれていましたよ。わたし自身、かなり長いことこの男を観察しました。さて、ここからが本当に興味深い点なんですが、わたしは一月前にある知らせを受け取りました。この犯罪的な精神異常者が入院していた病院を脱走したというのです。彼は驚くべき狡猾さと知性で脱走を企てました。彼が逃げるとき、とてつもない額の金貨をくすねさえしなければ、とっくの昔に捕まっていたんでしょうがね。病院の職員に払うはずだった給料を盗んだんです。そのせいで脱走事件は秘密にされてしまったんですよ、非常にまずいことに――」

彼はしゃべりすぎたことに気がつき後悔したように突然言葉を切った。そのあと一行はサー・ジョン・バーニーを先頭に一列になって回転木戸を通り抜けた。

ミセス・バンティングは真正面を見つめていた。彼女はまるで――あとになって夫に言ったように――石になったような気分だった。

彼女は、いくらそうしたいと思っても、下宿人に危険を知らせる時間も力もなかった。デイジーとその同伴者は今、こちらのほう、警視総監のいるほうへまっすぐ向っていたからである。次の瞬間、ミセス・バンティングの下宿人とサー・ジョン・バーニーは鉢合わせした。

ミスタ・スルースは一方の側にそれた。その青ざめた、細い顔には恐ろしい変化が起きていた。怒りと恐怖にゆがみ、土気色になっていたのだ。

しかしミセス・バンティングがほっとしたことに――そう、言葉では言えないくらいほっとしたことに――サー・ジョン・バーニーとその友人たちはさっさとそこを通り過ぎていった。まるでその部屋には彼ら以外誰もいないような感じで、ミスタ・スルースと娘のそばを通り過ぎてしまったのだ。

「早く見ていらっしゃい、ミセス・バンティング」と回転木戸の番をしている男は言った。「お友だちといっしょに貸し切り状態でご覧になれますよ」彼は職員としてではなく、一個の男性として彼らに接していた。かわいらしいデイジー・バンティングにふざけたように話しかけたのは一人の男性としてのミスタ・ホプキンスだった。「あなたのような若い女性がああいう恐いものを見たがるなんて、世のなかいったいどうなっているんでしょうな」と彼はからかい半分に言った。

「ミセス・バンティング、ちょっとこちらのほうへ来ていただけますか」

その言葉はミスタ・スルースの唇から語られたと言うより、そこから洩れて出た息のように聞えた。

女主人はおどおどしながら一歩彼のほうに歩み寄った。

「あなたとお話しするのはこれが最後です、ミセス・バンティング」下宿人の顔はまだ恐怖と激しい怒りに歪んだままだった。「あなたの忌むべき裏切りには必ず報いが来ます。あなたを信頼していたのに、ミセス・バンティング、なのにあなたは裏切った!でもわたしは天の力によって守られています。まだやるべきことがたくさん残っているからです」彼はささやくように声をひそめ、次のような言葉を吐き出した。「あなたの最後はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭いでしょう。その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむくでしょう」

ミスタ・スルースはこの奇怪な、禍々しい言葉をささやきかけるあいだも、視線を彼方此方に走らせ逃げ道を探していた。

ついに彼の眼はカーテンの上の小さな札に釘付けになった。「非常口」とそこには書かれていた。ミセス・バンティングは彼がそこを目指して一目散に駆け出すのではないかと思った。しかしミスタ・スルースの取った行動はそれとはぜんぜんちがっていた。女主人のそばをはなれて、回転木戸に近寄り、しばらくポケットのなかを探ってから、番をしている男の腕をさわった。「気分が悪いんです」と彼はひどく早口に言った。「気分が悪くてたまらないんです!ここの空気のせいでしょう。どう行けばいちばん早く外に出られますか。こんなところで気を失いたくはないのです――特に女性がいますから」

左手がすばやくのびて、ポケットのなかで探っていたものを相手の手のひらに載せた。「あそこに非常口がありますね。あそこから出ることはできますか」

「ええ、もちろんですとも、旦那さん」

男はそう言って躊躇した。彼はほんのかすかではあったけれど、不安を感じたのだ。デイジーを見ると、彼女は顔を紅潮させ、嬉しそうに、何の心配事もないようにほほえんでいる。ミセス・バンティングを見ると、彼女は顔が真っ青だった。しかし下宿人の様子が急におかしくなったので当然のことながらきっと心配しているのだろう。ホプキンスは十シリング金貨が心地よく手のひらをくすぐるのを感じた。パリ警視庁の警視総監は半クラウンしかよこさなかった――けちんぼの、しけた外国人野郎め!

「ええ、旦那さん、あそこから出してさしあげましょう」彼はとうとうそう言った。「鉄のバルコニーがありますから、そこで外の空気を吸えば気分がよくなるでしょう。でも、またなかに入るときは正面までまわらないといけませんよ。あの非常口からはなかに入れないんで」

「ええ、知っていますよ!」とミスタ・スルースは慌てているように言った。「気分がよくなったら正面から入ってきて、もう一シリング払います。それがフェアというものです」

「そんなことなさらないでも事情をおっしゃれば大丈夫ですよ」

男は非常口のほうに行き、カーテンを引くと、肩でドアを押した。ドアは一気に開いて、一瞬、光がミスタ・スルースの眼をくらませた。

彼は手で眼を覆った。「ありがとう」と彼はつぶやいた。「ありがとう。外に出たら大丈夫ですよ」

鉄の階段が下の小さな庭まで延びており、そこの出入り口から脇道に抜けることができた。

ミスタ・スルースはもう一度あたりを見まわした。彼は本当に具合が悪かったのだ――具合が悪くて頭がくらくらしたのだ。バルコニーの手すりを飛び越え、永遠の安らぎを得ることができたらどれほど心地よいだろう。

いや、そういうわけにはいかない。彼はそんな思いや誘惑を頭から払いのけた。ふたたび怒りの表情が顔に浮んだ。彼は女主人のことを思い出したのだ。あれだけ寛容に扱ってやったのに、どうしてあの女はわたしをわたしの最大の敵に売り渡したのか。何年もまえに謀議してわたしを閉じ込めてしまおうとしたあの警官に。わたしは完全に正気なのに、そしてこの世で復讐という偉大な仕事をしなければならないのに、あの警官はわたしを精神病院に閉じ込めようとしたのだ。

彼は外に足を踏み出した。そのうしろでカーテンが垂れ下がり、彼を見つめていた人々の視界から、背の高い、痩せた姿を覆い隠した。

デイジーでさえかすかな怯えを感じた。「顔色がよくなかったわね」彼女は振り向いて訴えるような眼でミスタ・ホプキンスを見た。

「ああ、そうだね。お気の毒に――お宅の下宿人なんですって?」彼は同情するようにミセス・バンティングを見つめた。

彼女は舌で唇をしめらせて「ええ」と言い、こう力なく繰り返した。「うちの下宿人ですよ」

第二十七章

ミスタ・ホプキンスはミセス・バンティングとかわいらしいまま娘に恐怖の部屋を見せようとしたが、むだだった。「まっすくうちに帰りましょう」とミスタ・スルースの女主人は断固として言った。デイジーはおとなしく同意した。どういうものか娘は混乱し、下宿人が突然姿を消したことにかすかな不安を感じていた。このいつにない気持ちはまま母の顔に浮んだ驚きと、苦痛の表情によって引き起こされたのだろう。

ゆっくりと彼らは建物を出た。家に着いたときミスタ・スルースの奇妙な行動を報告したのはデイジーだった。

「もうすぐ帰ってくるんじゃないか」とバンティングは重々しく言い、妻の顔を不安そうに盗み見た。彼女はまるで胸に苦痛を抱えているような表情だった。彼は彼女の顔を見て、何かよくないこと――非常によくないことが起きたことを悟った。

時間はのろのろと過ぎていった。三人はむっつりと黙り込み、落ち着きがなかった。デイジーは、今日はチャンドラーが来られそうもないことを知っていた。

六時頃、ミセス・バンティングは二階にあがった。ミスタ・スルースの客間に入ってガスの火を灯し、恐る恐るまわりを見まわした。ありとあらゆるものが下宿人のことを語りかけてくるように思われた。聖書とコンコーダンスが並べてテーブルの上に置いてある。彼が下に降りてきて、不運な外出を下宿の主人の娘に持ちかけたときとまったく同じ状態だった。彼女は数歩踏み出し、下宿人が戻ってきたことを示す、カチリという聞き慣れた鍵の音が聞えまいかとひたすら耳をすませた。それから窓のほうへ行き外を見た。

家もなく、友だちもなく、外をうろつき回るには寒すぎる夜だ。しかもほとんど金の持ち合わせがないことを思うと彼女は胸が痛んだ。

不意に向きを変えて彼女は下宿人の寝室に入り、姿見の引き出しを開けた。

やっぱりだ。ずいぶん減っているがソヴリン金貨の山がある。このお金を持って行ってくれたらよかったのに!一晩宿を取るだけの持ち合わせさえないのではないかと彼女は思った。そして唐突にあることを思い出しほっとしたのだった。下宿人はあのホプキンスになにがしかの金を与えたではないか――一ポンドだったか半ポンドだったか、はっきりおぼえてはいないけれど。

ミスタ・スルースの残酷な言葉、脅迫の記憶はさして気にならなかった。あれはまちがいなのだ。すべて誤解なのだ。ミスタ・スルースを裏切るどころか、彼女は彼をかくまったのだ。もっともサー・ジョン・バーニーの言葉が伝えた恐ろしい事実、つまりミスタ・スルースは一時的な錯乱の犠牲者ではなく、もう何年も狂人であり殺人狂であったということを知っていたら、あるいはおぼろげにでもそんな疑いを抱いていたら、秘密を守ることなどできなかっただろうけれども。

彼女の耳にはフランス人のなかばぞんざいな、しかし自信に満ちた質問がまだ鳴り響いていた。「ライプシックとリバプールの男かね?」

彼女は衝動に駆られて客間に戻り、ボディスから頭の黒いピンを一本抜き取って聖書のページのあいだに差し込んだ。それから本を開き、ピンの差し込まれたページを見た。

「わたしの天幕は破れ、綱はことごとく切れ……もはやわたしの天幕を張る者はなく、幕を掛ける者もない」

聖書を開いたままミセス・バンティングは下に降りた。居間のドアを開けるとデイジーがまま母のほうにむかってきた。

「わたし、台所に行って下宿人の夕ご飯を作る」と娘は愛想よく言った。「お腹がすいたらきっと帰ってくるわ。でも具合がわるそうだったわね、エレン。ほんとに顔色がわるかった!」

ミセス・バンティングは答えなかった。彼女はただ脇によってデイジーを下に行かせた。

「ミスタ・スルースはもう戻ってこないわ」と彼女は沈んだ声で言い、表情を一変させた夫に対して喜びと同時に怒りを感じた。いや、夫の安堵の表情、心の底から喜んでいる様子はひねくれた怒りをはるかに強く喚起し、彼女は思わずこう付け加えた。「私はそう思うってだけの話よ」

バンティングがまた表情を変えた。以前と同じ、不安そうな、重苦しい表情、この数日間浮かべていたあの表情が戻ってきた。

「どうして戻ってこないと思うんだい?」と彼は言った。

「話せば長くなるわ」と彼女は言った。「子供が寝るまで待ってちょうだい」

バンティングは好奇心を抑えなければならなかった。

デイジーがとうとうまま母と寝ている裏部屋へ行ったとき、ミセス・バンティングは夫を手招きして二階へむかった。

夫は階段をあがるまえに廊下を通って玄関のドアにチェーンをかけた。このことについて二人はひそひそ声で鋭くやり合った。

「あの方を閉め出す気?」彼女は声をひそめて怒ったように言った。

「デイジーが一階にいるんだぞ。あの男がいつ入ってくるかもわからんような、そんな状態にはできん」

「ミスタ・スルースはデイジーに乱暴したりしないわ。するとしたらわたしに対してよ」そう言って彼女は半泣きになった。

バンティングは眼を丸くして彼女を見た。「どういうことだ?」と彼は荒々しく言った。「二階でどういうことか説明しろ」

ミセス・バンティングは下宿人の客間だった部屋で起きたことをありのままに語った。

彼はむすっと黙りこくって聞いていた。

「だからね、バンティング」と彼女は最後に言った。「やっぱりわたしの言うことが正しかったのよ。下宿人は自分の行為に責任はないの。わたしの思った通り」

バンティングはじっと考え込みながら彼女を見ていた。「責任の意味にもよるが――」と彼は議論をふっかけるように話し出した。

しかし彼女は聞く耳を持たなかった。「わたしはその紳士が精神異常者って言うのを直接聞いたのよ」と彼女は激したように言った。それから声を落して「宗教的な妄想に取り憑かれている――そう言っていたわ」

「しかし、おれにはそうは見えなかったがな」とバンティングはゆずらなかった。「ただの変わり者にしか見えなかった。気は狂っちゃいなかったよ」彼はそわそわと部屋のなかを歩き回っていたが、とうとう急に立ち止った。「で、おれたちはどうすればいいと思う?」

ミセス・バンティングは苛立たしげに頭を振った。「何もすべきじゃないわ」と彼女は言った。「何かする必要がある?」

ふたたび彼は意味もなく部屋のなかを歩きはじめ、それが彼女をいらいらさせた。

「あの方に夕食を届けることができたらいいのに!ついでにこのお金も。ここにあるなんて、考えただけでもいや」

「心配するな――取りに戻ってくるさ」バンティングはきっぱりと言った。

しかしミセス・バンティングは首を横に振った。彼女のほうが分かっているのだ。「さ、あなたはもう寝たらいいわ。これ以上わたしたちが夜更かししたってどうにもならないもの」

バンティングは黙ってそれに従った。

彼女は急いで下に降り、夫のためにろうそくを持ってきた。上の階の小さな裏部屋にはガス灯がなかったのだ。彼女は夫がゆっくりと階段をあがるのを見ていた。

すると急に彼はまた引き返してきた。「エレン」と、彼は心配そうにささやいた。「おれだったらチェーンをはずして部屋に鍵をかけるね。おれはそうするつもりなんだ。そうすればあいつもこっそり入ってきて、汚い金を持って行けるだろうから」

ミセス・バンティングは首を縦にも横にも動かさなかった。ゆっくりと階段を降り、バンティングの忠告の半分を実行に移した。つまり玄関のドアのチェーンをはずしたのである。しかしベッドには入らず、部屋の鍵をかけることもなかった。彼女は一晩じゅう起きて待っていた。七時半になったとき、自分でお茶を一杯淹れ、それから寝室に入った。

デイジーが目を覚ました。

「あら、エレン」と彼女は言った。「わたし、相当疲れていたのね。ぐっすり眠ってしまったわ。あなたがベッドに入ったのも起きたのも気づかなかった。おかしいわね」

「若い人は老人みたいに眠りが浅くないのよ」ミセス・バンティングは教え諭すように言った。

「下宿人は結局戻ってきたの?今、二階にいるんでしょう?」

ミセス・バンティングは首を振った。「リッチモンドに行くには絶好の日和になりそうね」と彼女はやさしい口調で言った。

デイジーはごく幸せそうな、自信に満ちたほほえみを浮かべた。

******

その日の晩、ミセス・バンティングは勇気をふるってチャンドラー青年に下宿人が「消えた」ことを伝えた。彼女とバンティングはあらかじめしゃべることを注意深く決めておき、彼らが意図した通りにうまく話ができたので、チャンドラーはいたって冷静にその知らせを受け取った。いや、彼はデイジーと一緒に過ごした長い幸福な一日のことで頭がいっぱいだったので、さして注意を払わなかった、といったほうがずっと当っているだろうけれども。

「消えたんですか」彼は無頓着に言った。「支払いはちゃんと済ませていったんでしょうね」

「それは、もちろんよ」とミセス・バンティングが急いで言った。「その辺はきちんとしているわ」

バンティングは恥ずかしそうに言った。「うん、下宿人はとても正直な紳士だったよ、ジョー。しかしね、心配なんだ。あの人は気の毒なくらいおとなしいからね。一人でどこかをうろうろしているんじゃないかと思うと気が気でないよ」

「彼のことをいつも変人だって言っていましたよね」とジョーは考え込むように言った。

「ああ、そうだよ」とバンティングはゆっくりと言った。「正真正銘の変わり者だよ。ちいっとネジがゆるいんだ、ここんところがね」と彼は意味ありげに頭をポンポン叩いて見せた。若者二人は思わずふきだした。

「人相書きを出しましょうか」とジョーは機嫌良く言った。

バンティング夫婦は顔を見合わせた。

「いや、それはいらんよ。ともかく、しばらくのあいだは。あの人もびっくりするだろうから」

ジョーは同意した。「失踪して、それきり姿を見せない人は、びっくりするくらい多いんですよ」彼は明るくそう言った。それからしぶしぶと立ち上がった。

この時ばかりはデイジーも遠慮なく彼を見送りに廊下に出て、居間のドアを閉めた。

戻ってくると肘掛け椅子に座る父親のほうへ歩いて行き、うしろから彼の首に腕を巻き付けた。

彼女は顔を寄せてこう言った。「お父さん。ちょっとお知らせがあるの!」

「何だい?」

「お父さん、わたし、婚約したのよ。びっくりした?」

「びっくりして当たり前じゃないか」とバンティングは愛情をこめて言った。うしろを振り返って娘の頭に両手を添え、優しくキスをした。

「|伯母さん《オールド・アーント》は何て言うかな」と彼はささやいた。

「|伯母さん《オールド・アーント》のことは心配しないで」と妻が唐突に言った。「わたしが何とかするから。直接会って話をしてくる。彼女とはいつだってうまくやってきたんだから。そうでしょう、デイジー」

「ええ」とデイジーはちょっぴり驚いたように言った。「もちろんよ、エレン」

******

ミスタ・スルースは戻ってこなかった。いくつもの昼と、いくつもの夜を経て、ようやくミセス・バンティングはカチリという鍵の音がしないかと耳をすますことをやめた。それは彼女が期待し、かつ怖れる、下宿人の帰還の合図のはずだった。

はじまったときと同じく突然に、そして理由もなく、復讐者の殺人はとまった。しかしまだ春浅いある朝、リージェント・パークで働いている庭師が新聞にくるまれたゴム底の靴と、奇妙な形の長いナイフを発見した。警察はこの事実に強い関心を示したけれど、新聞によって報道されることはなかった。同じころ、ソヴリン金貨を入れた小さな箱が匿名氏によって孤児院の管理者宛に寄付されたという、面白い小さな記事が新聞に掲載された。

ミセス・バンティングは約束通り|伯母さん《オールド・アーント》に結婚を承諾させた。|伯母さん《オールド・アーント》は、デイジーが予想していたよりもずっと冷静にこのすばらしいニュースを受け止めた。彼女はただこう言っただけだった。留守宅の管理を警察にまかせたら、まず確実に泥棒に入られるっていうのに、いったい何を考えているのかしらねえ。この一言にはジョーよりもデイジーのほうがかちんときた。

ミスタ・バンティングとエレンは現在、ある老婦人にお仕えをしている。彼らは尊敬されると同時に怖れられ、老婦人は彼らのおかげでたいそう安楽に暮しているということだ。

後記

この翻訳は Project Gutenberg 版 The Lodger by Marie Belloc Lowndes (https://www.gutenberg.org/files/2014/2014-8.txt)を底本にしました。

翻訳に際し、以下の書籍を参照し、訳文を作成しました。ただし訳者の責任に置いて訳文を変更して使わせていただいた部分もあります。

○安西徹雄訳「マクベス」光文社文庫

○口語訳「聖書」(1954/1955年版)

End of Project Gutenberg's Geshukunin (The Lodger), by Marie Lowndes

下宿人 · 第 9 / 9 段