「ようやくお帰りだぞ。よかった、よかった、エレン。番犬だってうちにいれてやりたい夜だものな」

バンティングの声には安堵感が満ちていたが、そう言いながら振り返って妻を見ることはしなかった。かわりに手にした夕刊を読みつづけた。

彼はさっきからずっと煖炉のそばの肘掛け椅子に心地よく納まっている。身体の調子は良さそうで、頬に赤みがさしていた。ミセス・バンティングはそれを見て強い羨望を、いや、それどころか憤りをすら感じた。これは実に不思議なことだ。冷淡なように見えて彼女は実はバンティングのことがとても好きだったのだから。

「そんなに神経質になることはないわ。ミスタ・スルースはちゃんと用心しているから」

バンティングは読んでいた新聞を膝の上に置いた。「こんな天気の日に出かけるなんて、わけが分からんね」彼はもどかしげに言った。

「まあ、あなたには関係ないじゃない、バンティング」

「うん、そりゃそうだ。だけど、あの人に何かあったら、こっちも困るからなあ。あの下宿人は、さんざん待ってようやく手にしたはじめての幸運なんだからね、エレン」

ミセス・バンティングは高椅子の上でちょっといらいらしたように身じろぎした。彼女はしばらく沈黙していた。バンティングが言ったことは当たりまえすぎて返事をするまでもなかった。それに彼女は聞き耳を立てていたのだ。想像のなかで、霧の立ち込める、ランプの灯った廊下を、下宿人がすばやく、奇妙なくらい静かに――まるで「人目をはばかる」ように、と彼女は思った――進むさまを追いかけていたのだ。ああ、今、彼は階段をあがっている。バンティングは今、何て言ったのかしら。

「こんな天気の日に外を出歩くなんて、危ないじゃないか――そうとも、まともな人がすることじゃない。明日まで待てない用事があるなら別だけど」話し手は妻のほそい、血色の悪い顔をまっすぐに見つめた。バンティングは頑固な男で、自分の正しさをあくまで主張する癖があった。「一言注意してさしあげよう。うむ、そうするか!危ないですよとね。ああいう方は、夜中に町をうろつくべきじゃないって。ロイズ保険者協会で起きた事件を読んでやったことがあったね。ショッキングだったなあ。あれもみんな霧のせいなんだからね!それに、あの怪物野郎がまたすぐ動き出すだろうし――」

「怪物?」ミセス・バンティングはぼんやりとその言葉を繰り返した。

彼女は頭の上を歩く下宿人の足音を聞こうとしていた。快適な客間に行ったのか、それともすぐ上にあがって、彼がいつも実験室と呼んでいる、あの寒い部屋に行ったのか、それが知りたくて仕方なかったのだ。

しかし夫は彼女の言葉が聞こえなかったかのように話をつづけ、彼女は上で起きていることを探ろうと、聞き耳を立てることをあきらめた。

「霧のなかでそんなのに出くわしたらたまらんだろうね、エレン」彼の口調には、でも、それはそれでスリルがあって楽しいぞ、というようなニュアンスが含まれていた。

「くだらないことを!」とミセス・バンティングはきびしい声を出し、立ち上がった。夫の言葉に彼女は取り乱していた。夫婦水入らずでゆっくりできるというときに、どうして楽しい会話ができないのだろう。

バンティングはまた新聞に眼を落とし、彼女は静かに部屋のなかを動き回った。もうすぐ夕食の時間になる。今晩は夫のためにおいしい焼きチーズを作ることにしていた。彼女は軽蔑と羨望の念をこめて、夫のことを幸せ者と呼んでいた。この幸せ者は強靱な胃袋を持っているのだが、なかなか食い道楽なところもあった。立派なお屋敷に勤めると、召使いはえてしてそんな趣味を身につける。

そう、バンティングは胃が丈夫で幸せ者だわ。ミセス・バンティングは自分の上品な話し方に誇りを持っていた。彼女は下品な言葉――たとえば「腹」とか、もっと下卑た言葉とか――は決して口にしようとしなかった。もちろん病室で医者に話をするときは別だったけれども。

ミスタ・スルースの女主人はすぐに寒い台所へ行かなかった。かわりに寝室のドアを開け、気づかれぬようさっとなかに入り込んだ。静かにドアを閉ざし、暗闇のなかへ後じさりすると、耳をすませて立ちつくした。

最初は何の物音もしなかったのだが、耳に神経を集中していると、次第に真上の部屋から誰かがそっと動き回る音が聞こえてきた。真上の部屋はミスタ・スルースの寝室である。しかしどんなに耳をそばだてても下宿人が何をしているのか見当もつかなかった。

ついに階段に通じるドアの開く音が聞こえた。階段のきしむ音がする。これはまちがいなくミスタ・スルースがあの殺風景な部屋で晩を過ごすということだ。ずいぶん長いことあの部屋は使われていなかった――ほぼ十日くらいも。よりによって今晩、こんなに霧が出ているときに、実験を行うなんて。

手探りして椅子を見つけ、腰かけた。ひどく疲れていたのだ――まるで思い切り体力を使ったかのように不思議なくらい疲れていた。

そうよ、ミスタ・スルースがわたしとバンティングに幸運を運んで来てくれた。それは事実。そのことを忘れるなんて、恩知らずもいいところだわ。

このときがはじめてというわけではなかったけれど、座りながら彼女は、下宿人に出ていかれたらどうなるのだろうということも考えた。そうなればまず確実にわたしたちはおわりだ。それは下宿人の滞在があらゆる良きものを意味するのと同じように確実なことだ。その良きもののなかには物質的な面での余裕が含まれているが、でもそれはいちばん重要じゃない。ミスタ・スルースがここにいてくれるなら、そして彼はそのつもりであることを明らかに示しているのだけれど、とにかくいてくれるなら、世間体が保てるし、何より安心感があるのだ。

ミセス・バンティングはミスタ・スルースのお金のことを考えた。あの人には手紙が来ない。でも何らかの収入があるにちがいない――そこまでははっきりしていた。たぶんお金が必要なときは銀行に行ってソブリン金貨を引き出すのではないか。

彼女の心は意識的に、意図的に、ミスタ・スルースのことからはなれていった。

復讐者?おかしな名前だわ!復讐者がどこの誰であれ、いつかは気が済むときが来るだろう。いわば復讐心を満たすときが来るだろう。そんなふうに彼女はもう一度自分を納得させた。

ミスタ・スルースのことに戻ろう。下宿人が部屋だけでなく、主人夫婦にも満足してくれたのは幸運だった。実際、こんなに気持ちのいい下宿を出たいなどと、ミスタ・スルースが思う理由は何もないのだ。

******

ミセス・バンティングは不意に立ちあがり、彼女をさいなむ不安と懸念を必死になって振り払った。廊下に出るドアの取っ手を手探りして回し、次の瞬間には軽い、しっかりした足どりで台所に降りていった。

彼らがはじめてこの家を借りたとき、地下の台所は彼女の努力によって快適とまではいえないまでも、ともかく非常に清潔な場所になったのだった。水しっくいを塗ったのだが、今でも白いその壁際にはガス・ストーブがぬっと大きな姿をあらわしていた。真っ黒い鉄と、ぴかぴかした鋼鉄でできている、巨大な四角い物体だった。この大きなガス・ストーブは十五分ごとに四シリングをガス会社に払うタイプのものだ。硬貨を投入口に入れて使うような馬鹿げたものは、この台所には、ない。こういうことにかけては、ミセス・バンティングはそつがなかった。ちゃんとしたガス・メーターがあり、彼女は使った分を、使ったあとに支払うのだ。

磨き込まれた木のテーブルの上にろうそくを置き、ガスの火口を開けると、ろうそくを吹き消した。

それからガスコンロの一つに火をいれ、ストーブの上にフライパンをのせた。とたんに彼女の心は、ついうっかりと、ミスタ・スルースのことに逆戻りしてしまった。あの下宿人くらいすぐ人を信じる紳士は見たことがない。にもかかわらず、彼にはひどく秘密めいたところが――とても変わったところがある。

彼女は鞄のことを考えた――飾り棚のなかで奇妙にがさごそしていたあの鞄。彼女はなぜか今晩、下宿人があの鞄を持ち出したような気がした。

彼女は乱暴といっていいくらい荒々しく頭のなかから鞄のことを追い払い、ミスタ・スルースの収入のこととか、彼が面倒をかけないことなど、もっと楽しいことを考えようとした。もちろん下宿人は風変わりな人である。そうでなければ下宿などしないだろう――親族とか同じ階級の友だちと、まったくちがう生活をしていただろう。

こうしたことがとりとめなく頭のなかを駆け抜けていくあいだ、ミセス・バンティングは料理をつづけた。チーズを用意し、小さく切り分け、慎重にバターの分量を量った。いつものことだが、彼女の作業にはある種のきめ細やかさ、手際よさ、正確さがあった。

トーストパンを作りながらその上に溶けたチーズをかけていると、突然音がしてびくりとした。彼女はじっとしていられない気持ちになった。

そろそろと、ためらいがちな足音が階段を降りてきた。

彼女は上を見あげ、耳をすました。

まさか、この寒い、霧の夜のなかに、またもや出かけて行くのだろうか――この前の晩のように。いいや、ちがう。聞こえてきた音、今はもう聞き慣れた足音は、そのあと玄関へむかう廊下を歩きはしなかった。

そのかわり――いったい何だろう、この音は?彼女は全神経を耳に集中させ、そのあまり、長いフォークの先にさしていたパンをすっかりこがしてしまった。びっくりしてそのことに気がつくと、彼女は顔をしかめた。自分が腹立たしかった。上の空で仕事しているからこんなことになるんだ。

ミスタ・スルースは明らかに今までしたことがないことをしようとしていた。彼は台所に降りてきたのだ。

ズシッ、ズシッと台所への階段を重々しく降りる足音がますます近づいてくる。ミセス・バンティングの心臓はそれに呼応するようにドキン、ドキンと打ちはじめた。彼女はガスコンロの火を消した。チーズが冷たい空気に触れて固くなり、台無しになるのもかまわなかった。

それから彼女は振り返ってドアのほうをむいた。

取っ手をまさぐる音がして、すぐにドアが開き、彼女が予想し怖れていたように、下宿人が姿をあらわした。

ミスタ・スルースはいつも以上に様子がおかしかった。格子縞の部屋着を着ているのだが、彼女はそんな格好の彼を見たことがなかった。とはいっても、彼がここに来てから間もなくしてその部屋着を買ったことは知っていた。彼の手には灯りのついたろうそくが握られていた。

台所が明るく照らされていて、そこに女が立っていることを見て取ると、下宿人はなぜかぎょっとし、ほとんど茫然とした表情になった。

「あら、旦那様。何でございましょうか。呼び鈴を鳴らされましたか」

ミセス・バンティングはストーブの前から動かなかった。こんなふうに彼女の台所に入ってくる権利など、ミスタ・スルースにはないのだ。彼女は自分の見解をはっきり相手に示すつもりだった。

「いや、な――鳴らしませんでした」彼はしどろもどろだった。「実をいうと、ここにあなたがいるとは知らなかったのです、ミセス・バンティング。こんな格好で失礼しますよ。わたしのところのガスストーブが使えなくなりましてね、というか、コインを入れるところが壊れたんでしょう。それでガスストーブを探して下に降りてきたんです。今晩貸してもらえないでしょうか。大切な実験をしたいのです」

ミセス・バンティングの心臓はドキドキと早鐘のように鳴った。彼女は不自然なくらいにどうしていいのか分からなくなった。ミスタ・スルースはどうして朝まで実験を待とうとしないのだろう。彼女は不審そうに相手を見たのだが、彼の顔にはあの表情、彼女を不安にさせ、同時に哀れみを催させるような、あの表情があった。それはひどく興奮し、真剣で、嘆願するような表情だった。

「ええ、もちろんですとも、旦那様。でも、ここはとても冷えこむんでございますよ」

「わたしには暖かくて快適ですよ」と彼は言ったが、その声には安堵の響きが充ち満ちていた。「上の階の寒い部屋に比べれば、暖かくて落ち着けます」

暖かくて落ち着ける?ミセス・バンティングは唖然としたように彼を見つめた。とんでもないわ。最上階の、あのがらんとした部屋だって、この冷たい地下の台所よりははるかに暖かくて、ずっと心地よいはずだ。

「火をおこしてさしあげましょう、旦那様。ここの煖炉は使っていないんですが、手入れはきちんとしてあるんです。この家に来て、わたくし、何よりも先にこの煙突を掃除させました。ひどい汚れようでしたわ。火事になるんじゃないかと思うくらい」ミセス・バンティングは主婦としての本能をかきたてられた。「そういえば、こんな寒い晩ですから、旦那様の寝室にも火をいれなくてはなりませんね」

「とんでもない――それはなさらないでください。あの部屋に火はいりません。煖炉はきらいなんです、ミセス・バンティング。まえにお話したと思うのですが」

ミスタ・スルースは顔をしかめた。まだ火がついているろうそくを手に持ち、台所の入り口のすぐ内側に立つ彼は、奇怪な姿を呈していた。

「長くはかかりません、旦那様。十五分くらいしたらおいでなすってください。すべてきちんと用意いたしますから。ほかに御用はございますか」

「まだ使わなくてもよいのですよ――しかしお礼は申しあげます、ミセス・バンティング。あとでまた来ますよ――ずっとあとで――あなたとご主人が就寝されたあとに。ただ明日、ガス会社の人を呼んでわたしのストーブを直していただけるとありがたいです。わたしが出かけているあいだにやってしまってください。硬貨の投入口が壊れては非常に困ります。たいへんな迷惑です」

「もしかしたらバンティングが直せるかもしれませんわ、旦那様。何でしたら、今、上の階に行かせましょうか」

「いや、いや、今晩はけっこうですよ。それにあれは直せません。わたしは多少知識がありましてね、ミセス・バンティング、いろいろ試してみたんです。故障の原因は単純です。機械のなかに硬貨がつまってしまった。いつもながら、まったくろくでもない仕組みだと思いますね」

ミスタ・スルースは普段よりもはるかに強い口調で不平をこぼした。しかしミセス・バンティングは彼に同情した。彼女は硬貨投入機を不正直なやつだと、まるでそれが人間であるかのように思っていた。ほんと、いやらしい、あの機械がシリング硬貨を飲み込むやり方は!昔一度使ったことがあるから、彼女はそれをよく知っているのだ。

ミスタ・スルースは彼女の考えを読み取ったかのように進み出て、ストーブをじろじろと見まわした。「投入機がついていないんですね」と彼は驚いたように言った。「これはありがたい。わたしの実験は少し時間がかかるんですよ。しかし、もちろん、ストーブの使用料としてお金は払いますよ、ミセス・バンティング」

「あら、とんでもないですわ、旦那様。そんなもの、いただくわけにはいきません。このストーブはあまり使っていないのでございます。それにこんなに寒いときは一分だって必要以上にここにいることはないんですから」

ミセス・バンティングは気分が次第に落ち着いてきた。ミスタ・スルースが眼のまえにいるとき、彼女の病的な恐怖は鎮められる。たぶん彼の態度がいつも紳士的で、ごく穏やかだからだろう。しかしそれでも彼が先に立ち、いっしょに一階へゆっくりあがっていくとき、彼女は何かしら薄気味悪いものを感じたのだった。

一階に着くと、下宿人は丁寧に女主人にお休みを言い、自分の部屋へと階段をあがった。

ミセス・バンティングは台所に戻った。ふたたびストーブに火をつけたが、自分でもわけの分からない不安に取りつかれ、心の落ち着きは消し飛んでしまった。チーズ料理を作りながら、彼女は自分がしていることに集中しようとした。そして大体のところ、それに成功したのである。しかし心のどこか別の部分が勝手に動いているらしく、彼女にしつこく質問を投げかけてくるのだった。

台所には得体の知れない存在がうようよ蠢いているようだった。ふと気がつくと彼女は耳をすましていた――もちろん二階上や、まして三階上の物音など聞こえはしないのだから、そんなことをしても意味はない。彼女は下宿人の言う実験とはどんなものなのだろうと思った。おかしなことだが、あの大きなガスストーブで彼が実際に何をやっているのか、彼女は探り出すことができないでいるのだった。彼女が知っているのは、非常に高温の熱が使われているということだけだった。

第十五章

バンティング夫婦はその晩、早めに床についたが、ミセス・バンティングはずっと起きていようと決心していた。その夜何時に下宿人が台所に降りてきて実験を行うのか、突き止めるつもりだった。とりわけどのくらいのあいだ台所にいるのかを知ろうと思っていた。

しかしその日は長い、ひどく不安な一日だったので、彼女は間もなく眠り込んでしまった。

近くの教会の時計が二時を打ち、突然ミセス・バンティングは目を覚ました。彼女は猛烈に自分に腹が立った。どうして眠ったりしたのだろう。ミスタ・スルースは下に降り、もう何時間もまえに上へ戻ったにちがいない!

しかし次第次第に彼女は、鼻につんとくるにおいがかすかに部屋のなかに立ちこめていることに気がついた。とらえどころがなく、実体はないのだけれど、しかし彼女と彼女のそばでいびきをかいている男をほとんど水蒸気のように包みこんでいるような感じだった。

ミセス・バンティングは上半身を起こして鼻をひくつかせた。そして寒いにもかかわらず、暖かい夜具からそっと抜け出すと、ベッドの端までそろそろと進んだ。そこでミスタ・スルースの女主人は実に奇妙なことをした。真鍮の支柱によりかかりながら、玄関広間に面するドアのちょうつがいに顔を近づけたのだ。まちがいない、この変な鼻につく臭いはここから漂ってくる。廊下に出たら相当強くにおうにちがいない。

震えながら夜具のなかにもぐり込むとき、彼女は寝ている夫を思いきり揺さぶってこう言ってやりたかった。「バンティング、起きて!地下室で何かとんでもない、おかしなことが起きてるわ。調べなきゃ」

しかしどんなに小さな物音も聞き逃すまいと夫の横で息苦しいほど緊張していた彼女は、自分が決してそんなことはしないだろうということをよく理解していた。

下宿人が彼女の清潔な台所を少しくらい汚したからといって――多少臭いが残ったからといって――それがどうしたというのだ。彼は――彼はまさに理想的といってもいい下宿人ではないか。彼の気分を害したら、二度と彼のような下宿人を見つけることなどできやしない。

三時の鐘が鳴るまえに、のろのろとした重い足音が台所の階段をきしませてあがって来るのを聞いた。しかし予想していた通り、ミスタ・スルースはまっすぐ自室にあがらなかった。かわりに正面玄関のほうへ行き、ドアを開け、チェーンをかけた。それから彼女のドアのまえを過ぎ――確かではないけれど、彼女の感じでは――階段に座りこんだようだった。

十分ほどして、またもや廊下を歩く音が聞こえた。そっと静かに玄関のドアを閉める。彼女はとっくに下宿人のおかしな振る舞いの理由を見抜いていた。何かを燃やしたこのつんとくる悪臭――羊毛を燃やした臭いだろうか――を家から追い出そうとしているのだ。

しかし暗闇に横たわり、下宿人が忍び足で階段をあがる音を聞きながら、ミセス・バンティングはこの不快な臭いが二度ととれないような気がした。

自分自身が全身からその臭いを発しているような気がした。

とうとう不幸な女は深い、不安な眠りに落ちていった。そして何ともいえない恐ろしい、不自然な夢を見たのだった。いくつものかすれた声が耳のなかで叫んでいた。「復讐者が来た!復讐者が来た!」「エッジウエア通りで惨殺事件!」「またしても復讐者の仕業!」

夢のなかですらミセス・バンティングは腹を立てた――腹を立て、いらいらした。なぜこんなひどい悪夢に悩まされるのか、その理由がよく分かっていたからだ!バンティングのせいだ――バンティングときたら、話すことも考えることも、あのぞっとするような殺人のことばかり。不健全で、低俗な趣味の人しか興味を持たないようなことなのに。

そのとき夢のなかにまで夫の声が侵入してきた。

「エレン」――彼女はバンティングが耳元でそうささやくのを聞いた――「エレン、ちょっと起きて新聞を取ってくる。七時過ぎだ」

叫び声が――いや、もっとひどいドシドシという足音や走る音が畏縮する彼女の耳を打った。両手で額から髪の毛をかき分けながら、彼女は上体を起こし耳をすました。

あれは悪夢ではなかったのだ。それよりもはるかに悪いもの――現実だったのだ。

どうしてバンティングはもう少しのあいだ静かに夢を見させてくれなかったのだろう。どんなに不吉な夢だろうと、この目覚めにくらべれば、耐えしのぶのはずっと楽なのに。

夫が玄関に行き、新聞を買いながら、新聞売りと興奮したように二言三言言葉を交わすのが聞こえた。彼が家のなかに戻ってきてからしばらく沈黙があり、それから居間のガスコンロに火をつけるのが聞こえた。

バンティングは毎朝、お茶を一杯持って来てくれる。はじめて結婚したとき、そうすると約束し、いまだにその約束を破ったことがない。なるほど優しい夫なら、その程度のことくらい、何でもないごく普通の親切だろう。しかし今朝は夫がお茶を淹れてくれていると考えただけで、ミセス・バンティングの淡いブルーの眼に涙がこみ上げてくるのだった。その日にかぎっていつもより時間がかかっているようだった。

ようやくバンティングが小さなお盆を持って入ってきた。妻は顔を壁にむけて横になっていた。

「ほら、お茶を持ってきたよ、エレン」彼の声は強い興奮、いや、歓喜に満ちた興奮に震えていた。

彼女は寝返って身体を起こした。「で、何があったの?」と彼女は言った。「ほら、早く教えて」

「寝ていると思っていたんだが」と彼はどもりながら言った。「いやその、エレン、何も聞いてないと思ってたんだが」

「あんな騒音のなかで眠れますか。もちろん聞いたわよ。さ、話して」

「まだ新聞を見てないんだ」と彼はゆっくりと言った。

「さっき読んでいたじゃない」と彼女はぴしゃりとやっつけた。「新聞をめくる音が聞こえたわ。ガスコンロに火をつけるまえに読みはじめたでしょう。嘘をついてもだめ!エッジウエア通りで何があったって叫んでいたの?」

「そうさな」とバンティングは言った。「知ってるなら、言おうか。復讐者が西に移動しているんだそうだ。このまえはキングズ・クロス――今回はエッジウエア通りだ。こっちにむかって来るぞって言っていたら、本当に来やがった!」

「その新聞、取ってきてちょうだい」と彼女は命令した。「自分で読むわ」

バンティングはとなりの部屋に行き、戻って来ると何も言わず妙な、薄い紙切れを渡した。

「何よ、これ」と彼女は訊いた。「新聞じゃないじゃない!」

「そりゃそうさ」と彼は少々不機嫌に答えた。「復讐者が出たってんで、サンが早朝に号外を出したんだ。ここにちょっこっと記事が出ている」――彼はその場所を彼女に示した。しかし教えられなくても彼女は記事を見つけていただろう。化粧台の上のガス灯はかなり暗かったとはいえ、ニュースは大きな、はっきりした活字で印刷されていたからである。

「自らを復讐者と名乗る殺人鬼がまたもや警察の眼を逃れて凶行に及んだ。警察、及びこの奇怪残忍な連続殺人に関心を抱く数多の素人探偵がその注意をすべてイースト・エンド、さらにキングズ・クロスに集中しているとき、犯人はすみやかに、音もなく西のほうに移動していた。そしてエッジウエア通りがもっとも混雑し、人だかりのしているときを選んで、まさに電光石火の素早さと残忍さを持って新たな犠牲者を死に至らしめたのである。

犯人は犠牲者を人気のない倉庫の敷地に誘い込んだ。そこはクリスマス・ショッピングを楽しむ幸せで忙しい人々の雑踏から、ほんの五十フィートしか離れていなかった。冷酷な犯罪を犯して、犯人はすぐにこの陽気な群衆に紛れ込んだのだろう。死体はほんの偶然の出来事がなければこれほど早く――つまり真夜中直後に――発見されることはなかったはずだ。

さっそく臨検に呼ばれたドクタ・ダウトレイによると、女は死後、四時間とまではいかないが、少なくとも三時間を経過しているとのこと。最初この殺人は文明世界のあらゆる人を当惑させ震撼させている例の連続殺人とは何の関係もないと考えられた(記者は「人々はそう願っていた」と書きそうになった)。しかし、そうではなかった――死んだ女のドレスの裾に、いつものごとく、例の三角形の灰色の紙がピンで留められていたのである。人間によって作られた、もっともおぞましい名刺である!しかも今回の事件において復讐者は今までを上回る大胆不敵さを示した。まさしく平然として異常な狂信的行為、残虐で非道な犯行を行ったのである」

ミセス・バンティングがゆっくりと、痛ましいほど真剣に読みふけっているあいだ、彼女の夫は話しかけたくてたまらなさそうに、しかし同時にそうすることを怖れるように、ずっと彼女を見守っていた。エレンの冷たい耳にすら打ち明けたい、ある新しい考えがのど元までこみ上げていたのだ。

とうとう読み終わった彼女は挑戦するように目をあげた。

「わたしをじろじろ見るしか能がないの?」彼女はぷりぷりして言った。「殺人があろうがなかろうが、もう起きなくっちゃ!さっさと行きなさいよ!」

バンティングはとなりの部屋へ行った。

夫が行ってしまうと、妻は仰向けに寝て眼を閉じた。彼女は何も考えまいとした。いや、それどころではない――彼女の意志があまりにも強く、あまりにも堅かったので、実際しばらくのあいだ彼女は何も考えなかったのだ。ひどく疲れて、気力がなく、心も身体もぼんやりして、消耗の激しい長患いから、ようやく回復しつつある人のようだった。

やがてたわいもない考えが、夏の空の小さなちぎれ雲のように心の表面を漂ってきた。あのいやらしい新聞売り子は、ベルグレイブ・スクエアでもやっぱり怒鳴り声をあげているのかしら。もしもそうなら、マーガレットは、彼女の義兄とは似ても似つかないマーガレットは、起き上がって新聞を買うかしら。いいや、そんなことはあるまい。マーガレットはそんなくだらないことのために暖かいベッドをはなれるような人じゃない。

デイジーが帰ってくるのは明日だったろうか。そう――明日だ。今日じゃないわ。ああ、ほっとした。デイジーは今回のマーガレット訪問の話をおもしろおかしく聞かせてくれるだろう!あの娘は物真似の天才だわ。マーガレットはその几帳面で偏屈な態度と、引きも切らない「ご一家」の話で、あの娘の残酷な才能のえじきになるんだ。

それからミセス・バンティングの心は――哀れな、力のない、疲れた心は――チャンドラー青年のことへと移っていった。愛って、考えてみたら、おかしなものね――彼女、エレン・バンティングは、愛について考えることなどめったになかった。ここにジョーという好青年がいる。若い女やかわいい娘もたくさん見ている――そう、デイジーと同じくらいかわいくて、その十倍も媚びを売るのがうまい女たちを――でも、どうだろう!彼はこの前の夏以来、そんな連中をみんな素通りするようになった。狡猾な女ギツネどもはきっとただでは彼のそばを通りすぎはしないだろう――しかし彼はそんな連中に見向きもしないのだ!デイジーがこの家にいないから、今日はたぶんこちらには来ないはずだ。それも彼女を安心させる材料だった。

ミセス・バンティングが起き上がると、記憶がどっと洪水のように押し寄せてきた。もしもジョーが来たら、彼女は勇気を出してすべてを聞かなければならない――彼とバンティングのあいだで交わされる復讐者の話をすべて。

少しずつ彼女は身体をベッドの外に引きずり出した。まるで病み上がりのような、ひどく衰え、心も身体も疲れ切っているような感じだった。

彼女は立ち上がって、しばらく、耳をすませた――耳をすませながら彼女はぶるっと震えた。ひどく寒かったのだ。まだ朝早いのにずいぶん大勢の人がメリルボーン通りを行き来しているようだ。閉じた玄関のドアや、固く閉ざした居間の窓を通して、いつもとはちがう音が聞こえてきた。男も女もそれこそ群れをなし、ある者は徒歩で、ある者は馬車で、復讐者が犯した驚くべき最新の犯罪現場へと急いでいるのだ。

突然どさっという音が聞こえた。いつもの朝刊が郵便受けから押し込まれ、玄関広間の床に落ちたのだ。さっそくバンティングがすばやく、静かに部屋を出てきて新聞をひろった。居間に戻って、火をおこしたばかりの煖炉のそばに腰かけ、満足のため息をつく、そんな夫の様子が彼女の眼に浮んだ。

物憂い動作で彼女は服を着はじめた。そのあいだじゅう、遠くの足音や往来の音が、刻一刻とますます烈しさを増していった。

******

ミセス・バンティングは台所へ降りてみた。何もかも、彼女が出ていったときとまったく同じであるような気がした。鼻につんとくる臭いは彼女の予想とちがって跡形もなく消えていた。そのかわりに水しっくいを塗った洞穴のような部屋は霧がたちこめていた。しかしよく見ると、なるほど鎧戸は彼女が出ていったときと同じように、かんぬきがかかり、横木を渡してあるが、その背後の窓は大きく開いている。彼女は閉めておいたはずなのに。

新聞をねじって「こより」を作り――娘時代にお仕えした老婦人からこのやり方を教わったのだ――屈んでガスストーブのかまどを開けた。やっぱりだ。思った通り、彼女が最後にかまどを使ったときから、そこで猛烈な火が熾されている。その下の石床にまで真っ黒な、粘着質のすすが落ちていた。

ミセス・バンティングは自分とバンティングの朝食用に前日買っておいたハムエッグを持って上へ行き、居間のコンロで火を通した。夫はびっくりして何も言わず彼女を見ていた。そんなことをしたのははじめてだったのだ。

「下にいられなかったのよ」と彼女は言った。「寒すぎるし、霧が入り込んでいるんですもの。今日だけ朝ご飯はこっちで作ろうと思って」

「なるほど」彼は優しく言った。「そのほうがいいね、エレン。そのほうがいいと思うよ」

しかしいざ食べる段になると、妻は自分で用意したおいしそうな朝食にちっとも食欲が湧かないのだった。彼女はお茶をおかわりしただけだった。

「具合が悪いのかい、エレン」バンティングは気遣うように言った。

「そんなこと、ないわ」彼女は短く言った。「具合悪いわけないでしょう。馬鹿なこと、言わないで。すぐ近くでむごたらしい事件があったんだと思うと、気持ちが混乱して、食べる気がなくなったのよ。ほら、あれを聞いてごらんなさいな!」

閉じた窓を通して急ぎ加減の足音や、大きな、野卑な笑い声が聞こえてきた。何という群集、いや、何という野次馬たちが、事件現場へと忙しくむかい、そこから帰ってくるのだろう!見るものなどもう何もありはしないのに。

ミセス・バンティングは夫に正面の門を閉めるように言った。「あんなハゲタカみたいな連中に入って来られちゃたまらないわ!」彼女は怒ってそう叫んだ。「この世のなかには、何て暇人がそろっているんでしょう!」

第十六章

バンティングはそわそわと部屋のなかを歩きはじめた。窓のところへ行ってしばらく急ぎ足の人々を眺め、それから煖炉のほうへ戻ってきて椅子に座った。

しかし長くはそこにじっと座っていられなかった。新聞をちらりと見て、椅子から立ち上がり、またもや窓辺へ寄った。

「もうちょっと静かにしてほしいわ」と、妻がとうとうそう言った。それから数分後には「あなた、帽子とコートを着て外に行ってきたら」と強い声で言うのだった。

バンティングは少し恥ずかしそうな顔をして、帽子とコートを身につけ外に出た。

そうしながら彼はこう思った。おれだって結局は人間なんだよ。すぐ近くでどえらい、とんでもない事件が起きたんだ、興奮してぞくぞくしたって、それが人情ってものじゃないか。エレンにはそういうことが分からないんだ。今朝のあいつはつんけんして、様子が変だった――騒がしい理由を聞きに、外に出ただけで怒るし、戻ってきて何も言わなかったらもっと怒りやがった。あいつがいやがると思って言わなかったのに!

一方、ミセス・バンティングは勇気をふるいおこして台所へ降りていった。天井の低い、水しっくいを塗った場所へ入ると、恐怖というか、強烈な戦慄が彼女の全身を襲った。彼女はくるりと振り返り、それまでやったことのないことをした。彼女の知るかぎり、ほかの誰も台所でそんなことをしたことはない。彼女はドアを閉めてかんぬきをかけたのである。

しかし誰からも切り離され、とうとうたった一人になっても、奇怪で異様な恐怖は彼女に取り憑いたままだった。何だか眼に見えない存在といっしょに閉じ込められたような気分だった。それらは代わる代わる彼女をあざけり、冷やかし、非難し、脅かすのだ。

どうしてわたしはデイジーを二日も外に出してしまったのだろう。いや、出て行くように仕向けたのだろう。デイジーは少なくとも話し相手になる――親切で、若くて、疑うことを知らない話し相手。デイジーといると彼女はいつものシャキッとした自分になれるのだ。話しかける必要も義務もない人といっしょにいられるというのは何と気楽なことだろう。バンティングといるときは、悪いことをしているような、恥ずべきことをしているような、いやな感じに追いかけられる。彼女は彼の妻なのだ――鈍感ではあるけれど、彼はとても優しい。なのに彼女は隠し事をしている。彼にも当然知る権利があることなのに。

しかし彼女は絶対にバンティングに恐ろしい疑惑を――いや、ほとんど確信していることを――話そうとはしなかった。

ようやくドアのところに戻り、かんぬきをはずした。上にあがり、寝室を掃除した。それで気分が少しよくなった。

バンティングには帰ってきてほしかったが、ある意味で彼の不在に安堵も感じていた。夫にそばにいてほしいと思いつつも、夫を家から追い出す理由があれば、何でも歓迎だった。

ミセス・バンティングは床を掃いたりほこりを払ったり、仕事に集中しようとしながら、上では何が起きているのだろうと絶えずみずからに問いかけていた。

下宿人はぐっすりと休んでいる!しかしそれも当然だ。ミスタ・スルースは、彼女がよく知っているように、昨日の晩は遅くまで、いや明け方近くまで起きていたのだから。

******

不意に客間の呼び鈴が鳴った。しかしミスタ・スルースの女主人は上にあがらなかった。いつもなら下宿人の朝食兼帯の簡単な昼ご飯を作る前に上にあがるのだ。しかしそのときはもう一度下に降り、急いで下宿人の食事を用意した。

それから不思議なくらい心臓を高鳴らせ、ゆっくりゆっくり階段をあがった。客間のまえでお盆を手すりの上に置き、聞き耳を立てた――彼女はミスタ・スルースがもう起きていて、きっとその部屋のなかで彼女を待っていると確信していた。しばらく何も聞こえなかったが、ふとドアを通して、あの聞き慣れた、甲高い、震えるような声が聞こえてきた。

「女は彼に云う。『盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい』と。しかしその人は、死の影がそこにあることを知らず、彼女の客は陰府の深みにおることを知らない」

長い沈黙が訪れた。ミセス・バンティングは聖書のページを熱心に、忙しくめくる音を聞くことができた。と、またミスタ・スルースが声をあげた。今度は先ほどよりも静かな声だった。

「彼女は多くの人を傷つけて倒した、まことに、彼女に殺された者は多い」そしてさらに落ち着いた、低い、もの悲しい調子で「わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った」

その場に立ち尽くして聞き入っているとき、深い苦しみと心の憂鬱がミセス・バンティングを襲った。彼女は生まれてはじめて人間の生にまつわる計り知れない謎、悲しさ、奇怪さに触れたような気がした。

お気の毒なミスタ・スルース――お気の毒で、不幸で、心の平静を失ったミスタ・スルース!圧倒的な哀れみの気持ちが下宿人に対する恐怖、いや、嫌悪すらをも一瞬かき消してしまった。

彼女はノックし、お盆を取りあげた。

「お入りください、ミセス・バンティング」ミスタ・スルースの声は普段より弱々しく、生気がなかった。

彼女はドアの取っ手を回してなかに入った。下宿人はいつもの場所に座っていなかった。寝ながら読書するとき、いつもろうそくを置いている小さな丸テーブルを寝室から客間の窓際へ移していた。その上には聖書とコンコーダンスが開いたまま置いてある。しかし女主人が入ってくると、ミスタ・スルースは急いで聖書を閉じ、夢見るような目つきで窓の外を眺めはじめた。下のほうでは浅ましい男女が大勢、急ぎ足にメリルボーン通りを通り過ぎていく。

「今日はたいへんな人出のようですね」彼は振り返りもせずそう言った。

「さようでございます、旦那様」

ミセス・バンティングはテーブルクロスを敷き、朝食兼帯の昼ご飯を広げはじめた。そのあいだじゅう彼女はそこに座る男に対して本能的な死の恐怖を感じていた。

ようやくミスタ・スルースは立ち上がり振り返った。彼女は無理やり彼に眼をむけた。何て疲れた、何てやつれた表情だろう――そして何て不思議な表情だろう!

食事を広げたテーブルに近寄ると、彼は神経質そうに両手をこすり合わせた――それは何かが気に入ったとき、いや何かに満足したときだけ、彼が見せる仕草だった。ミセス・バンティングはそれを見ながら、以前も彼がこんなふうに手をこすり合わせたことを思い出した。はじめて上の階の部屋を見て、そこに大きなガスストーブと便利な流しがあることに気づいたときだ。

おかしなことだがミスタ・スルースの仕草は同時に、昔見た芝居を思い出させた――はるか昔の少女の頃、若い男といっしょに行って興奮し、魅了された芝居だった。「消えろ、忌まわしいこのしみ!」女王の役を演じていた背の高い、荒々しい、美しい女性が、ちょうど今下宿人がしているように、両手をよじり合わせてそう言ったのだった。

「いいお天気ですね」ミスタ・スルースは座ってナプキンを広げながら言った。「霧が晴れましたよ。あなたはどうお考えになるか分からないけど、ミセス・バンティング、わたしは今みたいに太陽が照っているときは気分がいつも明るくなります。ともかく日が差しているときは」彼は問いかけるように彼女を見たが、ミセス・バンティングは返事をしなかった。ただ頷いただけだった。しかしミスタ・スルースは機嫌を損じなかった。

彼はこの落ち着いた、寡黙な女に大いに好意と尊敬を抱いていた。そのような感情を女性に抱いたのはもう何年もなかったことだ。

彼は蓋をかぶせたままの皿を見下ろし、頭を振った。「今日は食欲があまりありません」彼はもの悲しそうに言った。それから唐突にチョッキのポケットから十シリング金貨を取り出した。

ミセス・バンティングはとっくにそれが昨日着ていたチョッキとはちがうことに気づいていた。

「ミセス・バンティング、こちらにおいでいただけますか」

つかのま、ためらったあと、女主人はその言葉に従った。

「どうかこのささやかな贈り物を受け取ってください。ご親切にも昨晩、台所を使わせていただいたお礼です」彼は静かに言った。「できるだけ汚さないようにしたのですよ、ミセス・バンティング、しかし――その、実をいうと、たいへん手の込んだ実験をしていたのです」

ミセス・バンティングは手を差出したものの、迷ったように躊躇し、それから硬貨を受け取った。彼女の手のひらをさっとかすめた指は氷のように冷たかった――冷たくじっとりしていた。ミスタ・スルースは明らかに具合が悪いのだ。

階段を降りているとき、くすんだ空にかかる赤い玉のような冬の太陽が、ミスタ・スルースの女主人を照らしだし、彼女が手に持つ金貨を血のような赤色に輝かせた。少なくとも彼女の眼にはそのように見えたのだった。

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その日、その静かな家のなかではいつものように時間が経過していった。もちろん小さな家の外では普段よりはるかに大きなざわめきが起きていた。

久しぶりに太陽が照っていたせいだろう、ロンドンじゅうの人々がそのあたりに遊びに来たようだった。

ようやくバンティングが戻ってきて、あたりを覆う異常な興奮について話すのを、妻は黙って聞いていた。ひとしきり夫がしゃべったあとで、彼女は急にじろりと奇妙な目つきを彼にむけた。

「現場を見に行ったのね」

悪いことでもしたように、彼はそれを認めた。

「それで?」

「うむ、見るものなんて何もなかった――今頃行ったってだめさ。しかしね、エレン、犯人の野郎は大胆だよ!だって、エレン、被害者が一声叫んでいたら――その暇はなかったらしいけど――一声叫んでいたら、必ず誰かが聞きとがめただろうからな。こんな調子で、午後なんかに事件を起こされたら、犯人は捕まりっこないって話だ。だってズブリとやって十秒後には雑踏に紛れ込んじまうんだから」

その日の午後、バンティングは金に糸目をつけず新聞を買いあさった――実をいえば、ほぼ六ペンスを散財したのである。しかし事件の鍵らしきものがいろいろあげられているにもかかわらず、目新しい情報は何もなかった――前よりも少なくなっているくらいだった。

警察が途方に暮れていることは明らかだった。ミセス・バンティングはそれを知って朝のうちより不思議なくらい気分がよくなりはじめた。疲れが取れ、かげんがよくなり――恐怖感がずっと減ったのである。

そのとき劇的といってもいいくらい突然、その日の静けさを破るあることが起きた。

彼らはお茶をすませ、バンティングは走って買ってきた最後の新聞を読んでいた。すると不意に大きなノックの音が雷のように玄関から響いてきたのだ。

ミセス・バンティングは驚いて顔をあげた。「まあ、いったい誰かしら」と彼女は言った。

バンティングが立ちあがると彼女はすぐにこう付け加えた。「あなたは座ってらっしゃい。わたしが行く。下宿を探してきたんでしょう。すぐ追っ払うわ!」

彼女は部屋を出たが、出るまえにまたもや大きなノックが二回響いた。

ミセス・バンティングは玄関のドアを開けた。眼のまえに見知らぬ人が立っていた。体格のいい、浅黒い顔つきの男で、獰猛な黒髭を生やしている。なぜか――彼女自身にもよく分からなかったけれど――その男はミセス・バンティングに警察官を思い起こさせた。

彼女の印象は男が最初に発した言葉によって確認された。というのは、彼は芝居じみた、くぐもった声で、こう言ったからである。「令状により捜査する!」

か細い抗議の叫び声をあげ、ミセス・バンティングはとっさに腕を広げ、男の行く手をさえぎろうとした。彼女は真っ青になった――ところがその瞬間、見知らぬ男と思われた人間が笑い声を放った。腹の底から愉快そうに笑うその声は、聞き慣れた声だった。

「ひっかかりましたね、ミセス・バンティング!こんなにうまくいくとは思わなかった!」

それはジョー・チャンドラー――変装したジョー・チャンドラーだった。それほど多くはないにしろ、ときどき彼が仕事の関係で変装することは、彼女も知っていた。

ミセス・バンティングは笑い出した――止めどなく、ヒステリックに。デイジーが到着した朝と、ちょうどそっくりだった。新聞売り子が怒鳴りながらメリルボーン通りを走ってきたあのときと。

「どうしたんだね」とバンティングが出てきた。

チャンドラー青年はうしろめたそうに玄関のドアを閉めた。「こんなふうにおどかすつもりはなかったんです」彼はしまらない顔をして言った。「ただのいたずらのつもりだったんです、ミスタ・バンティング」彼らは二人して彼女を支え、居間に連れて行った。

しかし居間に入ると、ミセス・バンティングの取り乱し様はさらにひどくなった。黒いエプロンで顔を覆い、ヒステリックにしゃくりあげはじめた。

「ぼくだと分かるようにしゃべったんですけど」若者は詫びるように言った。「でも、おどかしてしまったんですね。ごめんなさい!」

「気にしないで!」エプロンを顔からはなしながら彼女は言った。しかし交互に泣いたり笑ったりする彼女の目からはまだ涙がこぼれている。「ちっとも気にすることないのよ、ジョー!わたしが馬鹿だからあんなにびっくりしたのよ。でも、殺人が近くで起きたじゃない。あのせいで――今日はすごく気が高ぶっているのよ」

「誰だってそうなりますよ」若者は浮かぬ調子で言った。「ちょっと寄ってみただけなんです。仕事の最中にこんなことしてちゃだめなんだけど――」

ジョー・チャンドラーはまだテーブルに残っていた食事の残りを物欲しげに見つめていた。

「ちょいと一口食べていけばいい」バンティングはあたたかく言った。「それからニュースがあったら教えてくれないか、ジョー。われわれは事件のまっただなかだな」彼は身の毛もよだつ事実を、いかにも楽しそうに、ほとんど誇らしげに語った。

ジョーは頷いた。とっくにバター付きのパンを口いっぱいに頬ばっていたのだ。彼はしばらく待ってこう言った。「一つだけニュースがありますよ――あまり面白くはないだろうけど」

夫婦は二人とも彼を見た――ミセス・バンティングは急に落ち着きを取りもどした。もっともその胸はまだときどき波打っていたけれど。

「うちの大ボスが辞任したんです!」ジョー・チャンドラーはゆっくりと、重々しく言った。

「まさか!警視総監がかね?」バンティングが叫んだ。

「そうなんです。非難に耐えられなかったんですよ――同情しますね!総監は最善を尽しました。ぼくらもみんな。でも一般大衆はただもう怒り狂って――今日のウエスト・エンドでの話ですけどね。それに新聞ときたら残酷ですよ――まったくあの連中は。ろくでもないことを書き立てるし!連中の要求ときたら信じられませんよ――それも真顔で言ってくるんだから」

「どういうことを?」とミセス・バンティングが訊いた。彼女は本当に知りたがっていた。

「たとえばクーリエ紙は一軒一軒しらみつぶしに捜査しろと言うんです――ロンドン全域をですよ。考えてもみてください!どの家も警察に入りこまれて、隅から隅まで調べられるんですよ。復讐者が隠れていないかって屋根裏部屋から台所まで。正気の沙汰じゃないです!ロンドンでそんなことしようものなら、それだけで何ケ月もかかってしまう」

「わたしの家に警察が入ろうとしたら目にもの見せてやるわ!」ミセス・バンティングは怒って言った。

「復讐者が今度、やり方を変えたのは、あのいまいましい新聞どものせいなんです」とチャンドラーがゆっくりと言った。

バンティングは客にむかってサーディンの缶詰を押しやり、熱心に聞き入っていた。「どういうことだね」と彼は訊いた。「意味が分からんよ、ジョー」

「こういうことです。新聞は復讐者が特定の時間を選んで事件を起こすのは実に驚くべきことだ、といつも言っていました――つまり誰も通りにいないような時間帯を選んでるってことです。だから犯人はそれを読んで、当然、『そうだ』って気がついたんですよ。『今度は別のやり方で行くか』って。まあ、これを聞いてください!」彼はポケットから紙切れを取り出した。新聞の切り抜きだった。

「元ロンドン市長、復讐者について語る。

『復讐者は捕まるだろうかだって?もちろんだ』とサー・ジョンは答えた。『必ず捕まるに決まっている――たぶん今度事件を起こしたときだ。比喩的な意味でも文字通りの意味でもブラッドハウンドたちが大挙してやつのあとを追いかけることになるだろう。やつがまたもや血を吸い取ったその瞬間からだ。全社会を敵に回して、逃げられるわけがない。特に、一日でいちばん静かな時間帯を選んで犯罪を行うことが分かっているんだから。

ロンドン子は今、恐慌状態に陥っている――こう言ってよければ、疑心暗鬼のびくびく状態だ――何の罪もないのに、仕事の都合で夜中の一時から三時のあいだに外出しただけで、誰もがとなりの人から疑惑の眼で見られてしまう』」

「この元市長には猿ぐつわをはめてやりたいな!」とジョー・チャンドラーはかっかしながらしめくくった。

ちょうどそのとき、下宿人の呼び鈴が鳴った。

「おれが行ってくるよ」とバンティングが言った。

妻は先ほどのショックでまだ顔が青ざめ、身体が震えていた。

「だめ、だめ」彼女はすぐにそう言った。「あなたはここでジョーとお話しなさい。わたしがミスタ・スルースの用事を聞いてくる。今日はいつもより少し早めに夕食を召し上がるのかもしれない」

彼女はゆっくりと、つらそうに階段をあがった。またもや足が綿でできているような感じがした。二階にたどりつくと、ドアをノックし、なかに入った。

「お呼びになりましたか、旦那様」彼女は静かな、うやうやしい声で言った。

ミスタ・スルースが顔を上げた。

彼女はふと気がついたのだが――しかしあとから考えてみると、それはただの気の迷いだったのかもしれないが――下宿人はそのときはじめて怯えているように――怯えてびくびくしているように見えた。

「下から声が聞こえてきました」彼はそわそわしながら言った。「何があったのでしょう。最初、この部屋を借りるときに言いましたが、ミセス・バンティング、静かであることがわたしにはいちばん大切なんです」

「わたくしどもの友人が来ただけでございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。あしたノッカーを取り外しましょうか。ノックの音がお耳に触るようでしたら、バンティングが喜んではずしますが」

「いいえ、とんでもない。そんなことまでなさることはありません」ミスタ・スルースはほっと安心したようだった。「お友達ですか、ミセス・バンティング。とても声が大きいですね」

「若いものですから」彼女は謝るように言った。「バンティングの古い友だちの息子でございます。よく遊びにまいりまして。今まであんなに大きなノックの音を二回もたてたことはございませんでしたのに。一言申しつけておきましょう」

「それには及びません、ミセス・バンティング。どうかそんなことはなさらないで。ちょっと迷惑しただけですから!」

彼女はしばらく待った。ミスタ・スルースがあの耳障りな叫び声について何も言わないのはいかにも変だった。外の道は、その日、一時間か二時間おきに、ベツレヘム精神病院そっくりの大騒ぎをしていたのだから。しかしミスタ・スルースは、物静かな紳士の読書を妨げるあの騒音については何一つ話さなかった。

「今晩、夕食はいつもより早めに用意いたしましょうか、旦那様」

「お任せしますよ、ミセス・バンティング――ご都合のいいときでかまいません。よけいなお手間をおかけしたくないのです」

彼女はこれが引き時だと感じ、静かに出ていくとドアを閉めた。

そのとき玄関のドアがバシンと閉まる音が聞こえた。彼女はため息をついた――ジョー・チャンドラーときたら、なんて騒々しい若者なのだろう。

第十七章

下宿人 · 第 5 / 9 段