橋のちょうどまんなかまでくると、気持ちが落ち着いてきた。立ち止まって、

欄干にもたれ、壮麗な景色に目をむけた。夜は更けていたが――もうじき真夜

中になろうとしていた――マンハッタンの高くて黒い絶壁のような建築群のあ

ちらこちらに光が輝き、その奇妙で不規則な模様は――「ミルクで育てた七面

鳥を当ててみませんか」――といいながら東インドのエレベーター・ボーイが

ハロウィンのころアパートの住人にさし出す、まばらにくじ券の抜けたラッフ

ルくじのボードのようだった。黄金色の明かりのもやが、山の手のにぎわいを

覆うように渦巻いていた。メトロポリタン・タワーの赤い信号灯が三方にむ

かって合図を放っているのが見えた。広々とした橋桁の下をタグボートが煙を

噴き上げながら通った。左舷と右舷のランプの光が潮路に赤と緑の糸を引いた。

スタテンアイランド船隊の一隻である大型船が、ぎらぎらと輝く電飾に目をし

ばたたかせる劇場帰りの疲れてはてた乗客を乗せ、やわらかな光のローブをま

とう自由の女神のそばを通り、セント・ジョージの方向にしずしずと進んで

いった。見あげると夜空は、すみ切った寒気に星を散らした壮麗な天蓋だった。

路面電車が橋の上をがたがたと走るとき、青い火花が架線にからみつくように

飛び散った。

オーブリーはこのすばらしい光景を見るともなく見つめていた。彼は冷静に

考えるたちで、ミス・ティタニアの圧倒的なあでやかさにうろたえてしまった

自分を、こんなふうに慰めようとしていた。つまり、彼女も結局は彼が崇拝す

るわざ――広告――の所産であり成果ではないか、と。彼女が発する香気、ま

なざしが持つやわらかな強制力、心惑わす手首のひだ飾りすら、彼がほれこん

だわざの功績に帰せられるのではないか? グレイー・マター社のオフィスの

一角で人知れず「視線を釘づけにする」コピー、レイアウト、活字の字面に思

いをめぐらしていた彼は、この無自覚な受益者の勝ち誇ったような華やかさと

しとやかさの形成に一役買っていたのではないか? 愛らしいイメージではげ

しく彼を苦しめる彼女は、まさしく広告という神秘的でとらえがたい力の象徴

のように思えた。ここまで彼女を作り上げたもの――はにかみ屋で、おどけた

小男、ミスタ・チャップマンが娘に文明の粋をまとわせることを可能にしたも

の――地上を照らす明けの明星となるまでに、彼女を大切に育て上げることを

可能にしたもの――それこそまさに広告だったのだ! 広告が彼女の身をつつ

み、広告が彼女を養い、しつけ、屋根を与え、守ってきたのだ。ある意味で彼

女は父親の経歴を宣伝する最上の広告であり、その無邪気な完璧さはタイムズ

スクエアの群衆の頭上に輝く「チャップマン・プルーンズ」という電飾文字と

おなじように彼の心をもてあそんだ。自分自身の良心的な仕事が、この娘を近

づくこともできないような位置に押しあげたのだと思うと、彼はうめき声をあ

げた。

もしも彼が強い思いにかられ、知らず知らず橋の欄干をぐいと怒ったように

つかまなかったら、どんな口実をもってしても彼女に二度と近づくことはでき

なかっただろう。というのは、その瞬間、後ろから彼の頭に麻袋がかぶせられ、

何者かが乱暴に足を抱えて、あきらかに彼を欄干から突き落とそうとしたので

ある。はからずも手すりに手をかけていた彼は、かろうじてこの襲撃に抵抗す

ることができた。いきり立つ暴漢に足をすくわれたが、欄干に身体を押しあて

て横に倒れ、幸運にも敵の足をつかむことができた。袋をかぶせられていたの

で、大声を出してもむだだった。しかし彼はつかんだ足に必死になってしがみ

つき、彼と暴漢は歩道をいっしょに転がった。オーブリーも腕っ節は強かった

から、虚をつかれたとはいえ、相手をねじ伏せることはできたかも知れない。

ところが死にものぐるいで争い、袋を脱ごうとしているとき、彼は頭にすさま

じい一撃をくらい、なかば気絶状態に陥ってしまったのである。一瞬、彼はの

びてしまって、抵抗することもできなかった。しかし意識はまだ残っていて、

少々奇妙なことだが、これから空中に放り出されて、凍てつくようなイースト

リバーに落ちていく、目のくらむような感覚を期待して待っていた。腕が伸び

て彼をつかんだ――そのとき無抵抗な彼は、叫び声やら、厚板の上を駆ける足

音やら、全速力で逃げていく別の足音を聞いた。とたんに袋が頭から取りのけ

られ、親切そうな通りがかりの男が彼のそばに膝をついた。

「おい、大丈夫か?」その男が心配そうに言った。「まったく危ないところ

だったな」

オーブリーは気が遠くなりそうでしばらく口をきくこともできなかった。頭

はしびれ、きっと数インチはへこんだにちがいないと思った。弱々しく手をあ

げてみると、驚いたことに頭蓋骨の輪郭はいつもとまったく変わらなかった。

見知らぬ男は膝に彼の身体をもたれさせ、したたり落ちる血をハンカチでぬ

ぐった。

「きみ、おだぶつじゃないかと思ったぜ」彼は思いやりのこもった声でいっ

た。「あいつらがきみに飛びかかるのを見たんだ。残念だが逃げられたな。ほ

んとうに汚いことをしやがる」

オーブリーは夜の空気を大きく吸い込み、上体を起こした。橋が彼の足下で

揺れていた。星降る夜空に浮かび上がるウールワース百貨店の輪郭は、大風に

あおられるポプラのように折れ曲がりふらついていた。彼はひどい吐き気がし

た。

「とても助かりました」彼はどもりながらいった。「こんなのすぐに治りま

すよ」

「救急車を呼ぼうか?」彼を助けた男が言った。

「いや、結構」とオーブリーがいった。「なんでもないです」彼はよろよろ

と立ち上がって、欄干にしがみつき、気持ちを落ち着かせようとした。頭のな

かで一つの文句が忌々しいほど何度も繰り返された――「味はマイルド、気分

は爽快!」

「どこに行くんだい?」彼を支えながら男がいった。

「マディソン・アヴェニューと三十二丁目の――」

「タクシーを呼んでやろうか。おおい」彼はべつの市民が近づいてくるのを

見て叫んだ。「手を貸してくれ。頭を棍棒で殴られたんだ。おれはタクシーを

ひろってくる」

そこにあらわれた男はさっそく厚意の手をさしのべ、オーブリーのハンカチ

を、大量に出血している頭のまわりに巻いた。しばらくして最初のサマリア人

が、ブルックリンから走ってきたほろつき自動車をつかまえた。運転手は気持

ちよくオーブリーを家まで送ることに同意し、他の二人は彼が車に乗り込むの

を手伝った。彼は頭部をひどく切っていたが、ほかに傷はなかった。

「夜中にロングアイランドをうろつくなら鉄かぶとが必要だね」運転手がや

さしく話しかけた。「この前の晩、ロックヴィルセンターからこっちに走って

くるとき、二人組の男にピストルを突きつけられそうになったよ。もしかした

らあんたを襲ったのもおなじ二人組かも知れない。奴らの顔を見たかい?」

「いいや」オーブリーがいった。「あの袋があれば手がかりになったかもし

れないが、取ってくるのを忘れた」

「もどろうか?」

「その必要はないよ」オーブリーはいった。「思い当たるふしがあるんだ」

「正体を知っている? おいおい、陰謀に巻き込まれているのか?」

車は暗いバワリー街を飛ぶように走り抜け、四番街から三十二丁目に入り、

オーブリーを下宿の前で降ろした。彼は送ってもらったことを心から感謝し、

それ以上の手助けを断った。何度か差し込みそこねてようやく表の戸の鍵をあ

けると、きしむ階段を四つあがり、よろよろしながら部屋のなかに入った。手

探りして洗面台を探し、うずく頭を洗い、タオルを巻きつけるとベッドに倒れ

込んだ。

第六章 ティタニア、仕事を覚える

ロジャー・ミフリンは夜更かしするくせがあったが、朝起きるのも早かった。

朝寝をぬくぬくと楽しむのは年若い者だけである。五十代に近づく人間は人生

のはかなさを敏感に感じ取り、毛布にくるまってそれを浪費する趣味を持たな

い。

書店主の朝はいつもきびきびと一定の手順を踏んだ。彼はたいてい七時半こ

ろ、階段下のコイル・バネ仕掛けの鐘に起こされる。この鐘の音は毎朝その日

の客の出入りに備えて店内と床の清掃をする、掃除婦のベッキー婆さんが来た

ことを知らせるものだ。ロジャーは着古した朱色のフランネルの部屋着をはお

り、気ぜわしく一階に下りて彼女をなかに入れ、同時にミルク瓶とパン屋が置

いていったロールパンの紙袋を取り上げる。ベッキーが正面ドアを開け放って

つっかい棒をし、明かり取りの窓を押しあけ、埃とたばこの煙に戦いを挑みは

じめると、ロジャーはミルクとロールパンを台所に運び、ボックに朝の挨拶を

した。ボックは文学的な犬小屋から出てくると、愛想よく服従の念をあらわし

前足を突き出した。これは礼儀を示すという意味もいくらかあるが、幾分は一

晩じゅう丸めていた背中をのばすという意味もあった。それからロジャーは彼

を裏庭に連れ出してひと走りさせ、自分自身は台所の上がり段に立って朝の輝

かしい新鮮な空気を吸い込んだ。

その土曜の朝は澄み切った、身の引き締まるような朝だった。ホイッティ

アー通り沿いの質素な家がその裏側を自由詩の行末のようにでこぼこと並べて

いたが、ロジャーにはそれがさまざまな愛すべき人間模様をあらわしているよ

うに思われた。家々の煙突からほそい煙の糸があがり、パン屋の荷馬車がいつ

もよりおそく裏通りを走っていった。寝室の張り出し窓にはシーツや枕がもう

すでに乾かされている。家族が憩い、朝ご飯をたっぷりいただくすてきなブ

ルックリンの町は、元気よく、にこやかな気持ちで朝の時間を迎えるのだ。

ボックは(隅から隅まで知りぬいている)小さな裏庭の土のなかに、まだなに

か新しい魅惑的な匂いが隠れているかのように、鼻を鳴らして嗅ぎまわった。

ロジャーはそれを見ながらしあわせな犬にたいして人がいつも感じる楽しさと

優しさの入り混じった親近感を抱いた――それはドイツの神様がさわがしい

ホーエンツォレルン家を見まもりながら感じた、寛容な父親的温情とおなじ気

分であったかもしれない。

刺すように冷たい空気が部屋着にしみてくると、ロジャーは小さな生き生き

した顔にやる気をみなぎらせ台所にもどった。調理用レンジの通気口をあけ、

湯わかし用のやかんを載せてから、かまどの火をよみがえらせるために下にお

りていった。シャワーを浴びようと上にもどってきたとき、糊のきいた朝のエ

プロンをつけ、はつらつとして上機嫌のミセス・ミフリンがおりてきた。ロ

ジャーは寝室の床に落ちていたヘアピンをつまみあげ、女が男よりも整頓上手

だと考えられているのはなぜだろう、と不思議に思った。

ティタニアの起床は早かった。彼女はサミュエル・バトラーの謎めいた肖像

にほほえみかけ、ベッドの上に並ぶ本の列を見やり、いそいで服を着た。本屋

の修行をはじめたくて気がはやっていた彼女は、いきおいよく階段を駆けおり

た。初めて幽霊書店を見たとき、あまりのみすぼらしさにあきれてしまったの

で、ミセス・ミフリンが塩入れをテーブルに置くこと以外、どうしても朝食の

支度を手伝わせてくれないことがわかると、彼女はギッシング通りに出て、昨

日の午後目にした小さな花屋にむかった。そこですくなくとも一週間分の給金

を出して、菊の花と白いヒースの大きな鉢植えを買った。彼女がそれを店のま

わりに飾っているとき、ロジャーがあらわれた。

「いったいどういうことかね!」と彼はいった。「こんなことをして、どう

やってお給料で暮らしていくつもりだい? 支払日は今度の金曜日なんだ

よ!」

「一回だけ贅沢をさせてください」彼女はほがらかにいった。「お店を

ちょっぴり明るくするのもたのしいかな、と思ったんです。売り場監督が来た

とき、とってもよろこびますわ」

「いやはや。まさか古本屋に売り場監督がいるなんて本気で思ってはいない

だろうね」

朝食のあと、彼は新米従業員に店の日常業務を手ほどきした。棚の並びを説

明しながらあちらこちらを歩きまわり、必要に応じて解説を加えた。

「もちろん本屋が知っておくべきいろいろな知識はだんだんとしか身につか

ない。フィロ・ガブとフィリップ・ギブズのちがいとか、ミセス・ウィルソ

ン・ウッドロウとミセス・ウッドロウ・ウィルソンのちがいといった書籍業特

有の知識はね。『鐘と翼』とかいう本が鳴り物入りで宣伝されているが、なん

のことはない、そんな本を買いに来る客なんてどこにもいやしないのさ。それ

がミスタ・ギルバートに広告を信じないといった理由の一つなんだ。『最高を

つかみとる』の作者はだれかと聞かれたときは、それがルーズヴェルト大佐で

はなく、ミスタ・ラルフ・ウォルド・トラインだということは知っておかなけ

ればならないよ。本屋のいいところは、文芸評論家になる必要がない点だ。つ

まり本を楽しみさえすればいいのだ。文芸評論家はワーズワースの『幸福な戦

士』が八十五行の詩であり、二十六行と五十六行の二つの文からなると教えて

くれるような人間だ。それが偉大な詩でありさえすれば、ワーズワースがウォ

ルト・ホイットマンやミスタ・ウィル・H・ヘイズとおなじくらい長い文を書

いたとしてもなんの関係があるだろう? 文芸評論家というのはおかしな連中

だよ。たとえばイェールにはフェルプスという教授がいる。彼は一九一八年に

『二十世紀における英詩の発展』という本を出版した。わたしが思うに、そん

な題の本は二〇一八年まで出版されるべきではないな。それからタイプライ

ターについての詩の本がほしいなどといってくる客がいる。そのうちわかって

くるが、じつはスティーブンソンの『下生え《アンダーウッド》』のことなん

だ。(註 アンダーウッドはタイプライターの商標でもある)まさに、ややこ

しい人生だ。客を説得しようなんて考えちゃいけないよ。ただ彼らが読むべき

本を与えるんだ。それが必要だということを彼らが知らないとしてもね」

二人は正面ドアから外に出て、ロジャーはパイプに火をつけた。窓の前のわ

ずかな空間に架台が並べられ、その上に大きな空き箱が載っていた。「わたし

がいつも最初にすることは――」と彼はいいかけた。

「お二人とも最初にすることは風邪をひいて死ぬことよ」ヘレンが彼の肩越

しにいった。「ティタニア、急いで毛皮を取ってらっしゃい。ロジャー、あな

たは帽子を取ってきなさい。そんなにはげているんだから、もうすこし気をつ

けたらどうなの!」

彼らが正面ドアにもどってきたとき、ティタニアの青い目はやわらかな毛皮

の上で燦めいていた。

「毛皮の趣味がいいね」とロジャーがいった。「まさしくたばこの煙色だ」

彼は色が似ていることを証明しようと毛皮にむかって煙を一吹きしてみせた。

彼はひどくおしゃべりになっていた。若い娘がティタニアのようにすばらしく

聞き上手であるとき、年かさの男はたいがいそんな気分になるものである。

「こじんまりしたすてきな場所だわ」ティタニアは通りより一段低い、舗装

された店の私有地を見まわしていった。「夏になったらここにテーブルを出し

てお茶をいただくこともできますね」

「毎朝いちばんにやるのは」とロジャーが話をつづけた。「この箱に入った

十セント均一本を外に出すことだ。夜のあいだはこの箱に入れて店のなかに保

管するんだ。雨が降るときは、雨よけの庇をかける。これがじつに商売の役に

立つ。だれかがかならず雨宿りに来て、本を見ていくからね。本降りの雨はた

いてい五十セントか六十セントの価値がある。店頭本は週に一度入れ替える。

今週ここに出しているのはほとんど小説ばかりだ。この手のものはいくらでも

入ってくる。大多数はくだらないものだが、それなりに役に立つ」

「なんだか汚れているような気がするんですけど」ほこりが何世代も堆積し

た青い小型のロロの本(註 ジェイコブ・アボットの児童文学)を見てティタ

ニアはためらうようにいった。「ちり払いしてもかまいません?」

「古本業では前代未聞といっていいだろうが」とロジャーがいった。「しか

し見てくれはよくなるかもしれないな」

ティタニアは店のなかへ駆け込み、ヘレンからはたきを借りると、汚い箱を

掃除しはじめた。そのあいだロジャーは機嫌よくおしゃべりをつづけた。すで

に新体制への変化に気がついていたボックは、会話にくわわっているかのよう

に戸口の上がり段にうずくまっていた。朝のギッシング通りを歩く人々は本屋

の愛くるしい助手はいったいだれなのだろうといぶかった。「あんなメイドさ

んがいたらいいわねえ」ブルックリンのある裕福な主婦は市場に行く道すがら

そう考えた。「そのうち電話してお給料がいくらなのか聞いてみましょう」

ロジャーはティタニアがほこりをはたいているあいだに両腕いっぱいの本を

持ち出してきた。

「きみが手伝いに来てくれて非常にありがたい。その理由の一つは外出の機

会がふえるからだよ。今までは店に縛りつけられて本探しに出かけたり、蔵書

を買いあげたり、競売に出されたコレクションに入札したり、そんなことをす

るひまがなかった。今在庫がすこし減ってきている。売りに来るのを待ってい

るだけではほんとうにいい本はあまり入らないんだ」

ティタニアは「故ナル夫人」のほこりをぬぐっていた。「こんなにたくさん

の本が読めたらきっとすてきでしょうね。わたしはあんまり本は読まないんだ

けど、すくなくとも父から良書を大切にすることは教わりました。父は、遊び

にきたわたしの友達に、どんな本を読んでいるかと聞いて、『いとしいメイブ

ルへ』しか知らない様子だと、ものすごく怒りだすの」

ロジャーは静かに笑った。「客がまじめな顔をしてこういったことがある。

『イーリアス』も『アーゴジー』もどっちも好きだって。わたしのこともそん

なただの知ったかぶりと思わないでくださいよ。わたしが一つだけ我慢できな

いのは要りもせぬのにわざとバニラの味つけをした文学だ。お菓子の味はじき

にうんざりする。それがマルクス・アウレリウスであろうがクレイン博士であ

ろうが関係ない。ときどき不思議に思うんだが、クレイン博士のいうことは、

正しさの点でベーコン卿のいうことにこれっぽっちも引けを取らない。なのに

どうして博士の文章は一節を読んだだけで眠くなり、卿のエッセイなら一晩

じゅう起きていられるのだろう?」

ティタニアはいずれの哲学者にもなじみがなかったため、自分がくわしく

知っている話題に固執するという女性特有の話し方にしたがった。鈍い男はこ

うした習癖を見て女には筋の通った話ができないといったりするが、それはま

ちがっている。女性的な知性はバッタのように飛躍するのであり、男性のそれ

は蟻のようにこつこつと進むのである。

「新しいメイブルの本が出るんですって。『おれらしいよな、メイブル』っ

ていう題で、オクタゴンの新聞売り場の人は千冊売れるだろうっていっている

わ」

「ふむ、そうしたことにはなにかしら意味があるな」とロジャーがいった。

「人は娯楽を求めるし、そのことじたいはけっして非難されるべきではないと

思う。わたしは残念ながら『いとしいメイブルへ』を読んだことがないが、ほ

んとうに愉快なものなら、人々がそれを読むことは喜ばしいことだ。だがあま

りたいした本ではないのじゃないかな。フィラデルフィアの女学生が『いとし

いビルへ』という返事の手紙を書いて、それが原作に劣らない出来だというか

らね。フィラデルフィアのフラッパーがベーコンの『随想集』にたいして印象

深い姉妹編が書けるとは到底思えないが。しかしそんなことはどうでもいい。

作品がおもしろいなら、それなりの価値があるということだ。考えてみれば、

罪のない気晴らしを求める人間の欲望というのは悲しいものだ。人生がかくも

絶望的で不快なものになったということを示しているのだから。わたしが知る

いちばん魅力的なものの一つは、土曜日のマチネーの劇場を包む期待と敬愛に

満ちた、息をのむような静けさだよ。劇場内は暗くなり、フットライトが幕の

裾を燃え立つように照らし、遅れてきた人たちが座っている人の足をまたいで

自分の席にもぐり込む――」

「すてきな一瞬だわ!」ティタニアが叫んだ。

「その通り。しかし悲しいことだが、熱心な、期待に胸をふくらませている

観客にさしだされるのは、たいていの場合、くだらない演し物なのだ。観衆は

みんなわくわくさせられる準備をし、心揺さぶられることを待ち望んでいる。

芸術家の手中にある粘土のように、なにをされてもそれを受け入れる、あの輝

かしい希有な心がまえでいるときに――なんということだろう! 喜びと悲し

みのかわりにどれほどみすぼらしい演し物を与えられることか! 来る日も来

る日も人々は劇場や映画館に押し寄せる。いつも行き当たりばったりに入って

いって、満ち足りた思いになったつもりだが、じつは子供だましの駄作を与え

られているだけだ。悲しいことに、駄作に満足した気でいると、中身のある本

物を味わう食欲を失ってしまうのだよ」

ティタニアは自分が駄作に満足した気でいたのでは、とかすかにうろたえた。

彼女は数日前の晩、ドロシー・ギッシュの映画をおおいに楽しんで観たことを

思い出した。「だけども」と彼女は思いきっていった。「さっき人は娯楽を求

めているとおっしゃったわ。笑い声をあげてしあわせそうにしていたら、楽し

んでいるってことじゃないかしら?」

「楽しいと思っているだけなんだよ!」ミフリンが強くいった。「本当の楽

しさがわからないから、楽しい気がしているのさ。笑いと祈りは人間の気高い

二つの習性だ。それこそが人間を獣から区別する。安っぽい冗談を聞いて笑う

のは、安っぽい神に祈りを捧げることくらいあさましい。ファッティ・アー

バックルを観て笑うなんざ、人間精神を堕落させることだよ」

ティタニアは話がなんだか難しくなってきたような気がしたが、彼女には健

康的な若い女性のたくましい考え方があった。彼女はいった。

「でも安っぽく思える冗談でも、笑っている人には安っぽくないのかもしれ

ませんわ。そうでなければ笑わないでしょうから」

彼女は新しい考え方が心のなかにあふれてきて、顔を輝かせた。

「野蛮人が祈りをささげる木の彫像は安っぽく思えるかもしれないけど、野

蛮人にとっては最高の神様で、だからそれに祈りをささげるのは当然なんじゃ

ないかしら」

「おそれいったな」とロジャーがいった。「まったくその通りだ。しかしわ

たしが考えていたことから話がそれてしまった。人類は今まで以上に真実や美、

慰めとなり、人生に価値を与えるものを渇望している。わたしの周囲では毎日

そのことが感じられる。恐ろしい試練をへて、心ある人間はみな、どうすれば

断片と化したものを拾いあげ、世界を望ましい姿につくり直すことができるだ

ろうかと自問している。ほら、この前、ジョン・メイスフィールドの劇の序文

にこんな言葉を見つけたんだ。『人間の真実と歓喜は神聖なものであって、

軽々しくあざわらうべきものではない。人生と美をぞんざいにする者はいつの

世をみても暴食家、不精者、死の道を歩む愚者である』じつは、わたしは身の

毛もよだつ過去数年間、店のなかに座りこみながら真剣に考えていた。ウォル

ト・ホイットマンは南北戦争の時期に短い詩を書いている。『戦きよろめいた

年よ』とウォルトは呼びかける。『わたしは挫けた者の冷たい挽歌と、陰鬱な

敗北の聖歌が歌えるすべを学びとらねばならないのか』――わたしは夜中にこ

の店のなかに座りこんで棚を見わたし、男と女の希望、優しさ、そして夢を詰

め込んだすばらしい本を眺め、もしかするとこの本はすべてまちがっていて、

信用にあたいしない敗北者ではないかと思った。世界はいまだに狂乱の渦巻く

場に過ぎないのではないかと思った。わたしはウォルト・ホイットマンがいな

かったら気が狂っていただろうと思う。ブリトリング氏じゃないが――ウォル

トは『本質を見抜いていた』男だ。(註 H・G・ウエルズは「ブリトリング

氏、本質を見抜く」という小説を書いている)

『いつの世をみても暴食家、不精者、死の道を歩む愚者』――うむ、まさに

死の道だな。ドイツの軍人は不精者じゃなかったが、暴食家で愚かさをN乗し

た痴れ者だった。彼らが歩んだ死の道を見てごらん! それから他の人々が歩

んだ死の道も。貧民窟に刑務所に精神病院をみてごらん――

そんな恐ろしい時に、ここでのうのうと生きている自分の存在をどうやった

ら正当化できるだろうか、とわたしはよく考えた。多くの人が自分のせいでも

ないのに苦しみ死んでいくときに、いったいどんな権利があってわたしは静か

な本屋のなかにこっそり逃れているのか。わたしは医療部隊に参加しようとし

たが、医学的な訓練は受けてないし、熟練した医者でもないかぎりわたしのよ

うな年の男はいらないそうだ」

「お気持ちはわかります」ティタニアは驚くほどの理解を示していった。

「なんのお手伝いもできない女の子のなかにだって、ただサムブラウン・ベル

トつきのかわいい制服を着ていることに飽き飽きしている人が大勢いるって考

えたことはありません?」

「そうだな」とロジャーがいった。「時代が悪かったのだ。戦争がわたしの

目指していたものに異議を唱え否定したのだ。わたしの気持はとても言葉には

できないよ。自分でもよくわからないのだから。あの気高いお人好し、ヘン

リー・フォードが和平交渉の船旅を組織したことがあったね。たぶんあの時、

彼が感じたものとおなじものを感じながら、わたしもときどき思ったものだ―

―戦争を止めさせるためならどんなに愚かなことでもやってやるぞ、とね。冷

笑的で、残忍で、抜け目のない人間ばかりの世界に、ヘンリーのようなとこと

ん単純で希望を持っている人間がいるとは驚くべきことだ。お人好しだとみん

なはいう。だが、わたしはお人好し万歳といいたい。あえていえば、十二使徒

だってほとんどみんなお人好しだった――もしかしたら彼らは自分たちのこと

をボルシェヴィキと呼んでいたかもしれない」

ティタニアはボルシェヴィキのことを漠然としか知らなかったが、新聞の漫

画はすくなからず見ていた。

「ユダはボルシェヴィキだったと思うわ」彼女は無邪気にいった。

「ああ、それにジョージ三世もベンジャミン・フランクリンをボルシェヴィ

キと呼んだだろう」ロジャーは切り返した。「やっかいなことに真実と嘘は白

黒はっきり分かれて差し出されるわけじゃない――真実とフン真実(註 ドイ

ツ兵のことをフンといった。フン真実は同時に反真実のしゃれになっている)

と戦時中に冗談めかしていったものだ。わたしには真実が地上から消えてし

まったのではないかと思えることがときどきある」彼は苦々しくいった。「ほ

かのものとおなじように、それも政府からの配給品だったのだ。わたしは新聞

に書いてあることの半分は信じないようにした。世界は激高してみずからをず

たずたに引き裂こうとしているように思えた。残忍でばかばかしい現実をあり

のままに直視し、それを描く勇気のある者はほとんど一人もいなかった。暴食

家、不精者、愚者が拍手喝采し、勇敢で素朴な人々が地獄の恐怖のなかを歩ん

でいった。家にこもっているだけの詩人たちは、それを栄光と犠牲のきれいな

叙情詩に変えてしまった。彼らのなかで真実を語ったのはおそらく片手で数え

られる程度だろう。サスーンは読んだことがあるかね? あるいはラツコーの

『戦争のなかの人間』は? あまりにも真実を描きすぎて政府が発禁処分にし

た本だよ。ふん! 真実まで配給品扱いするとはな!」

彼はパイプをかかとにこつこつと打ちつけて灰を出した。青い目はいわばい

ちずな真剣さに輝いていた。

「だが、わたしが思うに、世界はもうすぐ戦争の真実を知るだろう。わたし

たちはこの狂気に終止符を打つんだ。それは容易なことじゃない。今は、ドイ

ツが崩壊したことに酔いしれて、だれもが新たなしあわせを感じ、歓喜してい

る。だがね、ほんとうの平和が来るのは、これからずっと先のことだ。文明と

いう織物を切れ切れに引き裂いてしまったのだもの、それを元通りに縫い直す

には時間がかかる。ほら、学校にむかって通りを歩くあの子供たちを見てごら

ん。平和は彼らの手のうちにある。彼らが学校で戦争こそ人類が逃れることが

できないもっとも忌むべき疫病であり、人間精神の美しい活動をことごとく汚

し、冒涜するということを学べば、そのときは未来にいくばくかの希望がもて

るかもしれない。しかし賭けてもいいが、彼らが教えこまれるのは、戦争が栄

光に満ちた、崇高な犠牲であるという考え方だよ。

塹壕を飛び出して突撃する神々しい狂気について詩を書く人は、たいてい塹

壕の泥だらけの踏み板からはるかに遠い場所でペンをインクに浸している。わ

たしたちがどれほど現実直視をいやがるか、それはもうおかしくて笑いたくな

るくらいだ。以前、わたしの知り合いに毎日八時十三分の列車で町に行く通勤

者がいた。でも彼はそれを七時三十七分の列車だというのだ。そのほうが勤勉

な人間になった感じがするからだそうだ」

遅刻しそうな腕白小僧が急いで学校に行くのをロジャーが眺めているあいだ

沈黙がつづいた。

「将来、戦争が二度と起きないように、目覚めているあいだにあらゆる努力

をおこたらないと誓わない人は、人類にたいする裏切り者だといえるだろう」

「それに反対する人はだれもいないと思います」とティタニアはいった。

「でもわたしは思うんです、今度の戦争には心底ぞっとさせられたけれど、同

時にそれはとても名誉に満ちたものだったって。わたしも出征した人をたくさ

ん知っています。みんな、戦地でなにとむきあうことになるのか、よくわかっ

ていました。でも正しい大義のためだと信じ、よろこんで謙虚に出かけていっ

たんです」

「それほど正しい大義なら何百万もの犠牲者を必要とはしない」とロジャー

は重々しくいった。「そこに恐るべき崇高さがあることはわたしにもわからな

いことはないんだよ。しかし哀れな人間にそんな犠牲を払ってまで崇高である

ことを要求するのはおかしい。そこがいちばん痛々しい悲劇だな。ドイツ人た

ちも、戦争をはじめ、世界にこの不幸を押しつけはじめたとき、崇高な大義に

むかって進んでいるのだと考えていたんじゃないのかね? 彼らは一世代のあ

いだ、そう信じるように教育されたんだ。それが戦争の恐ろしい催眠状態、凶

暴な群衆的衝動、思い上がった国民精神、自分の所有するものをほかのなによ

りも崇めさせる人間の本能的な愚かさなのだ。わたしもみんなとおなじように

愛国的な誇りに身を震わせ、叫び声をあげたりした。音楽や旗や足並み合わせ

て行進する兵士にみんなが魅了されたように、わたしも魅了された。しかしそ

れから家に帰って、わたしは自分の魂からこの悪の本能を根絶やしにしようと

誓ったのだ。神よ、わたしたちを助けたまえ――世界を愛し、人類を愛しよう

――自分の国を愛するだけでなく! だからわたしは講和会議でわが国が担う

役割に非常に関心を持っているのだ。そこでわが国が標榜する立場は『アメリ

カはいちばん最後』だ! アメリカ万歳、とわたしは叫ぶよ。アメリカは『利

己的な目的をなに一つ持たない』《ノー・アックス・トゥ・グラインド》唯一

の国家だろうからね。あるのは『平和の時代を築こう』《パックス・トゥ・グ

ラインド》という気持ちだけだ!」

その議論はティタニアのおおらかな心にも納得のいくもので、あわれな書店

主の苦悩にみちた熱弁に失望したり、おびえたりすることはなかった。彼女は

相手が人にはいえない剣呑な思いを胸からはき出しているのだと賢く推察した。

不思議なことだが、彼女は精神が持ちうる最高の、そしてもっともたぐいまれ

な資質――寛容を学んでいたのだ。

「自分の国を愛さずにはいられないわ」と彼女はいった。

「なかに入ろう」彼はそれに応えていった。「ここじゃ風邪をひいてしまう。

戦争の本を集めたアルコーヴを見せてあげるよ」

「もちろん自分の国は愛さずにはいられない」と彼はつけ加えた。「わたし

は祖国を愛しているからこそ、この国に新しい時代を切り開く先達となってほ

しいのだ。わが国は戦争で犠牲を払うことがもっともすくなかった。だから平

和のために最大の犠牲を払うことをいやがってはいけない。わたしとしては」

と彼は笑いながらいった。「共和党の連中全員を犠牲に祭りあげたい気分だ」

「どうして戦争がばかげているとおっしゃるのかしら」とティタニアがいっ

た。「わたしたちはドイツを負かさなければならなかったんです。さもないと

文明はどうなっていたでしょう?」

「ドイツを負かさなければならなかったというのは、その通り。しかしその

ためにわたしたちは自分自身を負かさなければならなかった。その点がばかば

かしいのだ。講和会議が軌道に乗ったらまっさきに気がつくと思うが、ドイツ

を法にかなったやり方で罰するには、まずドイツが立ち直れるよう手を貸さな

ければならない。わたしたちはドイツに食料を与え、商売をするのを認めてや

らなければ、ドイツは賠償金を払うことができない――わたしたちがドイツの

都市の治安を維持してやらなければ、革命が全土を燃やしつくすだろう――と

どのつまり人間が史上最悪の戦争をたたかい、名状しがたい恐怖にたえたのは、

敵を元気になるまで看病するという特権のためだったのさ。それがばかばかし

くなくてなんだというのだ? ドイツのような偉大な国家が正気を失うとこん

なことが起きる。

さて、われわれはひどく込み入った問題にぶつかっている。わたしにとって

の唯一の気休めは、世界の正気を再建するにあたり、本屋がだれにも負けない

くらい有用だということだ。わたしにどんな貢献ができるだろうと悩んでいる

とき、大好きな詩人の作品のなかにこんな二行を見つけて励まされたよ。昔の

詩人ジョージ・ハーバートがこういっている。

謙虚と綯い交ぜられた ほんの僅かの誇りは、

熱狂をも 無気力をも ともに癒してくれる。

確かに古本屋はごくごく卑しい職業だが、すくなくともわたしの想像力のな

かではそこに一抹の栄光が綯い交ぜられている。いいかい、本には人間の思い

や夢、希望や努力など朽ちることのないあらゆる要素が詰まっている。人は人

生がすばらしく価値あるものであることを、たいてい本を読んで知るのだ。わ

たしはミルトンの『アレオパジティカ』を読むまで人間精神の偉大さ、屈服す

ることなき魂の威厳に気がつかなかった。烈々火を吐く怒りを読むと、ミルト

ンと同類であるというだけで凡夫の気持ちも高揚する。書物は人類が残した不

滅の足跡、いつくしむべき価値あるほとんどのものの父であり母なのだ。よい

本を行きわたらせ、肥沃な精神の土壌にその種を植え、理解しあうことと、人

生や美を大切にすることを教えひろめる、これは人間にとって充分すぎるくら

い立派な使命ではないかね? 本屋こそ正真正銘の奉真勇夫(註 「天路歴

程」中の人物)なのだ。

「ここが戦争のアルコーヴだよ」と彼はつづけた。「先の大戦から生まれた

ほんとうにいい本がここに積み上げられている。人間がこれらの本を心して読

むくらい分別があるなら、二度と今回のような混乱に陥ることはないだろう。

印刷屋のインクはここ何年ものあいだ火薬とつばぜり合いを演じてきた。イン

クはある意味では不利な条件を背負っている。火薬は人間を吹き飛ばすのに一

秒の半分もあればいいが、本の場合は二十年かかるかも知れないからね。しか

し火薬は犠牲者とともに自分も消滅するが、本は何世紀も爆発しつづける。た

とえばハーディーの『覇者たち』だ。あの本を読むと精神を吹き飛ばされるよ

うな気がするだろう。息が止まり、不快さに吐き気を催す――真に純粋な知性

が頭のなかに沁み通って来るというのは、まったくもって心地のよいものでは

ないな! それは痛みをともなうものだ! あの本には地上から戦争を一掃し

てしまうくらいの炸薬が詰まっている。しかし燃えるのがおそい導火線がくっ

ついているのだ。あれはまだほんとうに爆発はしていない。おそらくあと五十

年たっても爆発しないだろう。

今回の戦争で、本がどんな役割を果たしたか考えてごらん。どこの政府も最

初にはじめたことは――本を出すことだ! 青書、黄書、白書、赤書――黒書

をのぞいてあらゆる色の本が出た。ベルリンには黒書こそふさわしかっただろ

うに。ともかく政府は、鉄砲や軍隊といったものは、本を味方につけてはじめ

て有効だということを知っていたのだ。本はアメリカに参戦をうながすにあ

たって、ほかのなにものにも負けないくらい力があった。ドイツで出た本のい

くつかは皇帝を退位に追いやった――『われ、告発す』、ミュロン博士の格調

高い怒りの書『ヨーロッパの破壊者』、そしてリヒノウスキー(註 イギリス

に駐在していたドイツの外交官)の個人的なメモはただ真実を述べているとい

うだけでドイツを根本から揺すぶった。ほら、『戦争のなかの人間』がある。

たしか作者はハンガリーの士官で、この本に『友と敵へ』という気高い献辞を

添えている。こっちにはフランスの本が何冊かある――あの民族の明晰で情熱

的な知性が残酷なアイロニーとともに火のように燃えている。ロマン・ロラン

がスイスに亡命しているときに書いた『戦いを超えて』。バルビュスの恐るべ

き『砲火』。デュアメルの苦渋に満ちた『文明』。ブールジェの奇妙に魅力的

な『死の意味』。さらにイギリスから生まれた崇高な作品もある。『武器を取

る学徒』、『天上の樹』、バートランド・ラッセルの『人間はなぜ戦うか』―

―わたしはいつか彼に『人間はなぜ監禁されるのか』を書いてほしいと思って

いる。知っているだろうが、彼は反戦を唱えて投獄されているからね。それか

ら群を抜いて感動的な作品の一つ――西部戦線で殺された温和で感受性のする

どいオックスフォード大学の若いチューターが書いた『アーサー・ヒースの手

紙』だ。あれは読まなければいけないよ。あれを読むとイギリス側にまったく

敵意がなかったことがわかるんだ。ヒースと友達は入隊する前夜を彼らが愛す

るドイツの歌を歌って明かしたんだ。いはば古き、友好的な、喜びに満ちた人

生への決別として。そう、戦争というのはそういうことをする――アーサー・

ヒースのような立派な人間を消してしまうんだ。あれは読んでほしいな。その

あとはフィリップ・ギブズやローズ・ディッキンソンや若い詩人をみんな読ま

ずにはいられなくなるだろう。もちろんウェルズはとっくに読んでいるね。読

んでない人はいないだろうが」

「アメリカ人はどうなんです? 戦争について価値のあることを書いていま

せんか?」

「この本にはみっちり肉がついていて、哲学的なすじが入っている」ロ

ジャーはパイプに火をつけ直しながらいった。彼は「ラティマー教授の巡礼」

を棚から引き出した。「この本の一節に印をつけておいたんだが――ええと、

どんな内容だったかな?――ああ、ここにあったぞ!

『新聞編集者に聞き取り調査をすれば、大多数が戦争は悪であると考えてい

ることがきっとわかるだろう。しかし大都会のしゃれた教会に勤める牧師を調

査すると……』

「いや、まさしくその通りだ! ほとんどの良識ある人々にとって教会は自

殺したも同然だよ――『ラティマー教授』にはもう一つ、皿洗いの哲学的価値

を指摘したすてきな一節がある。ラティマー教授の話を聞くと意見の一致する

ところが多くて、いつかこの店に立ち寄ってもらいたいものだと思っているく

らいなんだよ。ぜひ会ってみたいものだ。アメリカの詩人について言えば、エ

ドウィン・ロビンソンは読まなければいけない――」

書店主の独白はいつ果てるとも知れなかったが、ちょうどそのときヘレンが

台所からあらわれた。

「ロジャーったら!」彼女は大声を出した。「ずっと聞いていたけど、あな

たのおしゃべり、いつまでつづくのかしら。お嬢さんに文化講演会でも開いて

いるの? 震えあがらせて本の仕事を辞めさせたがっているみたいよ」

ロジャーはいささかばつが悪そうだった。「いや、なに、書籍業の原則をい

くつか説明していただけだよ――」

「とてもおもしろかったわ、ほんとうに」ティタニアは明るくいった。青い

チェックのエプロンを着て、まるまるとした腕を肘まで粉まみれにしたミセ

ス・ミフリンは彼女にむかって片目をつぶって見せた――あるいは女性にでき

るもっとも目くばせに近いものをやって見せた(目くばせを受けた男に聞いて

みるとよい)。

「ミスタ・ミフリンは商売のことですごく落ち込むことがあるとね」と彼女

はいった。「いつもこんな理想高い考え方にすがりつくの。牧師のつぎに割り

の悪い職業についたと思っているくせに、それを自分から隠そうとして一所懸

命なのよ」

「ミス・ティタニアの前でばらすのはまずいと思うがなあ」ロジャーが笑い

ながらいったので、ティタニアはこれが夫婦間の冗談に過ぎないことがわかっ

た。

「でも嘘じゃないんですよ」と彼女は訴えた。「ほんとうにお話は楽しいわ。

『ヨーロッパの和解者』を書いたラティマー教授のこととか、いろいろなこと

を教えてもらっていたんです。お客さんが来て中断したらいやだなって思って

いたんです」

「それなら心配におよばないわ」とヘレンがいった。「朝早くに客が来るこ

とはめったにないから」彼女は台所にもどった。

「さて、ミス・ティタニア」ロジャーが話を再開した。「わたしの言いたい

ことはおわかりだろう。わたしは人々に本屋にたいするまったく新しい考え方

を与えたいのだ。熱狂と無気力をともに癒してくれるほんの僅かの誇り、それ

こそが発電所のように真実と美を放つ場所、つまり本屋の命じゃないかと、わ

たしは思う。書物はけっして死物ではない。伝説の竜の歯のように命をおびて

いて、土に植えれば兵士を生み出す可能性だってある。ベルンハルディがそう

じゃないかね? (註 ドイツの軍人フリードリヒ・フォン・ベルンハルディ

は当時の政権を批判した「現代戦争論」を書いた)コーンパイプ・クラブの友

人のなかには、本は単なる商品だという人がいる。たわけたことを

《ショー》!」

「バーナード・ショーはあまり読んでいませんわ」とティタニアがいった。

「本が人を追いかけ、結局その人を捕まえてしまうことに気がついたことが

あるかね? 本はフランシス・トンプソンの詩に出てくる猟犬みたいに追いか

けてくる。本は獲物のことを知りつくしているんだ! 『ヘンリー・アダムズ

の教育』を見てごらん! あの本が今年の冬、どれほど思慮深い人々を追いつ

めただろう。それから『黙示録の四騎士』――あれが読書人のあいだを駆けめ

ぐっているのはきみも知っているね。実際、本がものすごい勢いで人を追いま

わすさまは、わたしが知るかぎりもっとも奇怪な現象の一つだな――どこまで

も追跡し、隅に追い込んで、無理矢理自分を読ませてしまう。わたしも古い妙

な本に今まで何年も追いかけられているんだ。『ジョン・バンクル氏の生活と

意見』という本でね、さんざん逃げまわってきたのだが、あいつは折を見て

ひょいと頭をもたげる。いつか捕まえられ、読まされることになるだろう。

『年収一万ポンド』もおなじようにわたしをつけてきて、とうとう降参させら

れた。ある種の本のずるがしこさは言葉では表現できないね。追跡を振り切っ

たと思ったら、ある日客が何気ない様子でひょっこりやってきて話をはじめる。

するとその客が知らず知らずのうちに本という名の運命の仲介人を演じている

ことがわかるのだ。ここにときどきやってくる年のいった船長がいる。まさに

マリアット船長の小説から飛び出したような人物だ。わたしは彼に一種の呪い

をかけられてしまったよ。きっと死ぬまでに『ピーター・シンプル』を読むこ

とになるだろう。なにせ老船長酷愛の書だからね。そんなこんなでこの店は

『幽霊書店』というのさ。わたしが読んでいない本の幽霊にとりつかれている

という意味でね。かわいそうな精霊たちがそわそわとわたしのまわりをうろつ

いている。霊をしずめる方法は一つしかない。つまりそれを読んでやること

だ」

「よくわかりますわ」ティタニアがいった。「わたしはバーナード・ショー

をあまり読んでないけど、いつか読まなければならないような気がします。ど

こに行っても待ちかまえていて、わたしをいじめるの。それからH・G・ウエ

ルズにひたすらおびえている人もたくさん知っています。あの作家の本て、

しょっちゅう出版されるけど、そのたびに彼らは本を読みおわるまで気が狂っ

たようになるんです」

ロジャーは笑った。「なかにはそのために『ニュー・リパブリック』を予約

購読した人もいるよ」(註 「ニュー・リパブリック」はウエルズが寄稿して

いたアメリカの雑誌)

「でも幽霊書店といえば、どうしてあのオリバー・クロムウェルの本に格別

な関心をお持ちなんです?」

「そうそう、思い出させてくれてありがとう。あれは棚にもどしておかなけ

ればならないな」彼は本を取りに居間に駆けこんだのだが、ちょうどそのとき、

ドアのベルが鳴った。客が入ってきて、一方的なおしゃべりは当分中断するこ

とになった。

第七章 オーブリー、間借りする

ミスタ・オーブリー・ギルバートがこの作品の主人公としてけっして理想的

な青年でないことは作者も承知している。この時期、主役の青年が左の袖にな

ぜ金の山形袖章をつけていないのか。これには少々説明が必要だろう。じつを

言えば、われらがグレイ・マター広告代理店の若き社員は偏平足《フラット・

フィート》を理由に徴兵局と徴兵委員会から入隊を拒否されていたのである。

しかし作者はこの処分に異議を唱えなければならない。足が扁平だからといっ

て彼の見かけに問題があるわけではないし、素直な青年にできることならなん

でもこなす体力もあるのだ。軍が、彼がいうように「にべもなく《フラット》

入隊を拒否した」とき、彼は広報委員会に入って、一年以上謎めいた活動に従

事し、それがユナイテッド・プレスによる休戦協定締結までつづいた。今はも

うだれも覚えてないちょっとした判断ミスが彼の側にもあったのだが、なにし

ろ惜しむらくはドイツの外交使節が浮かれすぎた特派員に調子を合わせず、ぐ

ずぐずしていたものだから、戦争最後の三日間は彼の積極的な貢献をともなう

ことなく過ぎ去った。(註 ユナイテッド・プレスは休戦協定締結を誤ってそ

の四日前に報じた)十一月十二日は当然英気を養い、そのあとはふたたびグレ

イ・マター広告代理店に吸収された。同社とは数年にわたって関係があり、彼

の堅実で陽気な性格は高く評価されていたのである。いつもの行動範囲をはる

かに逸脱してロジャー・ミフリンを訪れたのは、戦後のビジネスを盛り上げる

活動の真っ最中のことだった。こうしたことはもっと早くに説明しておいたほ

うがよかったかもしれない。

ともかくオーブリーは土曜日の朝、ティタニアが店頭本の箱からほこりを払

いはじめたころ、世界征服達成とはおよそ正反対の気分で目を覚ました。半ド

ンの日だったので、事務所に行かなくても一向に気はとがめなかった。母親の

ようにかいがいしい宿のおかみさんはコーヒーとスクランブルエッグを持って

きて、医者を呼び、傷の手当てを受けるよういいはった。数針縫ったあと、彼

は昼寝をした。午後起きたとき、頭痛は相変わらずひどかったが、気分はまし

になっていた。部屋着を身につけ、椅子に腰掛けた。家財道具といえばパイプ

立てと灰皿とオー・ヘンリーの小説一そろいくらいしかない質素な部屋のなか

で、彼は気を紛らせようとお気に入りの一冊を取り上げた。ミスタ・ギルバー

トがいわゆる「文学青年」でないことはすでに話した。彼が読むのはほとんど

が新聞売り場に置いてあるような本と、広告業者むけの幼稚な雑誌「プリン

ターズ・インク」だった。彼の大好きな気晴らしは広告クラブで昼食をとり、

そこで魅入られたように広告用パンフレットやポスター、「あなたの話をボー

ルド体で」(註 「ずうずうしく語れ」という意味とかけてある)などといっ

たタイトルの小冊子を読みあさることである。彼はふだん「ラルフ・ウォル

ド・エマソンよりパッカードのコピーを書いたやつのほうがてんで上だよ」な

どと話していた。しかしそれもこの青年がオー・ヘンリーを愛読することに免

じて大目に見てやらなければならない。彼は、ほかの大勢のしあわせな人々が

気づいたように、オー・ヘンリーが時代をこえた、類まれな天才ストーリー・

テラーの一人であることを知っていた。どれほど疲れていても、どれほど気が

滅入っていても、どれほど意気消沈していても、このキャバラビアン・ナイト

(註 キャバラビアンとはタクシーのキャブ、キャバレー、アラビアンをかけ

た造語)の名手はいつも喜びを与えてくれる。「ディケンズの『クリスマス・

ストーリーズ』なんてくそくらえだ」オーブリーはブルックリンでの冒険を思

い出していった。「オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』のほうがディックのど

の作品よりずっといい。彼が『ローリング・ストーンズ』(註 オー・ヘン

リーの最後の短編集)のクリスマス・ストーリーを完成させないで死んだのは

残念なことだ! アーヴィン・コブとかエドナ・ファーバーとか大物作家が結

末を書いてくれたらいいのに。自分が編集者だったら、だれかを雇ってあの話

を完成させるんだがな。あんなにいい物語を中途半端なままで投げ出しておく

なんて犯罪だよ」

彼がたばこの煙にやわらかく包まれて座っていたとき、宿のおかみさんが朝

刊を持って入ってきた。

「タイムズが読みたいんじゃないかと思ったんだよ、ミスタ・ギルバート」

と彼女はいった。「その身体じゃ、外に買いに出るわけにもいかないしね。ど

うやら大統領は水曜日に船に乗るようだよ」

オーブリーはおもしろいものを見わける熟練した眼で記事を読んでいった。

それから、つい習慣で、広告ページを注意深く見わたした。求人広告欄のひと

つの記事が彼の目に飛び込んできた。

求む――オクタゴン・ホテルはシェフ三名、経験豊かなコック五名、ウエイ

ター二十名を臨時募集する。申し込み受付はシェフの事務所にて火曜日午後十

一時まで。

幽霊書店 · 第 3 / 8 段