Produced by Kiyotoshi Hayashi
Title: 幽霊書店 (Yurei Shoten)
English Title: The Haunted Bookshop
Author: Christopher Morley
Translator: 林清俊 (Kiyotoshi Hayashi)
幽霊書店
クリストファー・モーリー
書店主各位へ
このささやかな本を皆さまに愛情と敬意を込めて捧げます。
作品の欠陥はだれの目にもあきらかでしょう。わたしは「移動書店パルナッ
ソス」において大活躍し、一部の方からありがたくもお褒めの言葉をいただい
たロジャー・ミフリンの冒険談のつづきをお話ししたいと思ってペンを取りま
した。ところがミス・ティタニア・チャップマンがあらわれ、若き宣伝マンが
彼女に恋をし、むしろこの二人が物語の中心になってしまったのです。
さて、一言申し添えておきますが、第八章でシドニー・ドルー氏のすばらし
い才能を語った一節は、この魅力的な芸人の悲しむべき死の前に書かれたもの
です。しかしながらそれは嘘偽りのない、心からの賛辞でしたので、わたしは
削除する理由はなにもないと考えました。
第一章、第二章、第三章、および第六章はもともと「ザ・ブックマン」に掲
載されたものですが、このすぐれた雑誌の編集者には再版の許可をいただいた
ことを感謝します。
ロジャーは十台のパルナッソスに地方回りをさせることになりましたので、
もしかすると旅先で皆さまのお目に留まることがあるかもしれません。もしも
そのような機会があれば、パルナッソス巡回書店株式会社のあらたな行商の旅
が、わたしたちの高貴な職業の、ふるくて名誉ある伝統をけっして汚すもので
はないことをお確かめいただきたいと思います。
クリストファー・モーリー
フィラデルフィアにて
一九一九年四月二十八日
第一章 幽霊書店
ブルックリンといえば、とびきりあざやかな夕映えと、女房持ちが乳母車を
押すすばらしい光景の見られる街だが、もしもあなたがそこに行くことがある
なら、まことにめずしい本屋のある、とある静かな裏通りに行きあたることを
願う。
この本屋は「パルナッソスの家」という、いっぷう変わった屋号を持ち、店
をかまえた褐色砂岩のふるい快適な住居は、配管工とごきぶりが数代にわたっ
てこおどりしてきた場所だった。店の主人は家を改装し、古本のみをあつかう
自分の商売にいっそうふさわしい聖廟をつくろうと苦労をかさねた。世界じゅ
うを探しても、この店ほど敬服にあたいする古本屋はない。
寒い十一月のある晩、およそ六時ごろのこと、ときおり雨がはげしく降りそ
そぎ、舗道にあたってはねかえるなか、ひとりの若い男が道に迷ったかのよう
にときどき立ち止まりながら、頼りなげにギッシング通りを歩いてきた。彼は
暖かそうな明るいフランス式焼き肉料理店の前に立って、欄間窓にエナメルで
しるされた番地と、手にしたメモを見くらべた。それからさらに数分歩きつづ
け、ついに探していた住所にたどりついた。入り口の上の看板が目をひいた。
パルナッソスの家
R・ミフリンとH・ミフリン
愛書家のみなさん、ようこそ!
☞この店には幽霊がいます☜
彼は詩神のすみかに通じる三段の踏み段をおり、立てた外套の襟をなおして、
あたりを見まわした。
そこは行きなれた本屋とはずいぶん様子がちがっていた。二階建てのふるい
家は、床が打ち抜かれてつながっていた。下の空間はいくつもの小さなアル
コーヴ(くぼみ)にわかたれ、上のほうは回廊をめぐらした壁に、天井まで
びっしり本が並んでいた。あたりはふるびた紙と革の馥郁としたかおりに満ち、
それにたばこの強烈なにおいが加わっていた。目の前には額入りの掲示があり、
こう書いてある。
当店には幽霊がいます
あまたの偉大な文学の霊が。
にせもの、駄作は売りません。
本が好きなら大歓迎です。
むだ口をたたく店員はいません。
喫煙自由――ただし灰は落とさないように!
――
閲覧はお好きなだけどうぞ。
値段はすべてわかりやすく表示されています。
ご質問があれば、もうもうたるたばこの煙に包まれた店主まで。
本は現金で買い取ります。
あなたに必要なものがここにあります。もっとも、それが必要だということ
をあなたはご存じじゃないかも知れません。
☞読書する力が栄養不足におちいると一大事です。
本の処方は当店におまかせください。
店主 R・ミフリン、H・ミフリン
店内はあたたかく落ちついた薄暗さ、いわば眠気をさそう夕闇のなかにあり、
緑色の笠をかぶった電灯がそこここで黄色い円錐形の光をはなっていた。たば
この煙がすみずみまで行きわたり、ガラス製のランプシェードの下で渦を巻い
たり、もやもやと立ち迷っていた。アルコーヴのあいだの狭い通路を通るとき、
仕切られた区画のあるものは完全な闇にとざされていることに訪問者は気がつ
いた。ランプがともるほかの場所には机と椅子が見えた。「随筆」という表示
の下の一隅で、年輩の紳士が熱中のあまり恍惚とした表情を電灯に照らしださ
れて本を読んでいた。しかし、たばこの煙がまわりにただよっていなかったの
で、あれは店主ではないのだろうと、初めて店に来た男は判断した。
店の奥に行けば行くほど、まわりの印象はますます現実ばなれしていった。
はるか頭上に明かり取りの窓があって、そこに雨の打ちつける音が聞こえるの
だが、それ以外はしんとしていて、まるで住んでいるのは、充満する煙の渦と、
随筆を読む男の明るい横顔だけのような感じがした。そこは秘密の神殿、奇怪
な儀式のとりおこなわれる聖廟のような印象で、若者は、なかば不安のために、
なかばたばこのために、喉元がしめつけられるような気がした。見あげると暗
がりのなかに本棚が何段もつみかさなっており、屋根にちかづくほど闇にしず
んで見えるのだった。彼は褐色包装紙の筒と麻ひもをのせたテーブルを見つけ
た。あきらかに商品を包装する場所だったが、店員のいる気配はなかった。
「この店には本当に幽霊が住み着いているのかもしれない」と彼は思った。
「たばこの守護神で、ここが気にいったサー・ウォルター・ローリーの魂とか。
しかし店主は出没しないようだ」
彼の目は青くけむる店内を見わたしていたが、ふと卵のような奇妙な光沢を
はなつ光の輪に気がついた。それは吊り電球の光を受けてまるく白く輝き、た
ばこの煙の波間にうかぶ明るい島のように見える。ちかづいてみると、それは
はげあがった頭だった。
この頭は、よく見ると、回転椅子にふんぞりかえった目つきのするどい小男
の上にのっており、彼がいる片隅がこの建物の中枢神経と思われた。男の前に
は仕切り棚のついた大机があり、刻みたばこの缶や新聞の切り抜きや手紙とと
もに、ありとあらゆる種類の本がうずたかくつみあげられていた。ハープシ
コードに似た旧式のタイプライターが、原稿用紙の束に半分うもれていた。は
げ頭の小男はコーンパイプをくゆらし、料理の本を読んでいた。
訪問者はほがらかに話しかけた。「失礼ですが、この店のご主人でしょう
か?」
「パルナッソスの家」の店主、ミスタ・ロジャー・ミフリンは顔をあげた。
青いするどい目に、みじかい赤髭をたくわえ、いかにも有能で独創的な人物だ
という雰囲気をただよわせていた。
「そうですが、なにかご用ですか?」
「わたしはオーブリー・ギルバートといいます。グレイ・マター広告代理店
を代表してまいりました。わが社に広告業務のとりあつかい、しゃれたコピー
の作成、発行部数のおおきなマスメディアへの掲載などをまかせていただけな
いかと思い、ご相談にあがりました。戦争もおわりましたから、販売拡大のた
めに建設的な宣伝活動にとりくむべきだと思います」
店主はにっこりと笑みをうかべた。彼は料理の本を置き、勢いよくたばこの
煙をまわりに吹き出すと、楽しそうに相手を見あげた。
「きみ、わたしは宣伝をいっさいしないんだ」
「まさか!」相手はまるで背徳行為を目にして度をうしなったかのように叫
んだ。
「きみがいうような意味での宣伝ではない。わたしにとっていちばん役に立
つ宣伝は、業界最高の粋なコピーライターたちがやってくれている」
「というと、ホワイトウォッシュ・アンド・ギルト社ですね?」ミスタ・ギ
ルバートは残念そうにいった。
「とんでもない。うちの宣伝をしているのは、スティーブンソン・ブラウニ
ング・コンラッド商会だよ」
「おやおや」グレイ・マター社のセールスマンはいった。「そんな代理店は
知りませんでしたね。でも、うちのコピーほどパンチはきいていないでしょ
う」
「おわかりじゃないようだな。わたしがいっているのは、うちの広告はわた
しが売る本がやっているということだ。お客さんにスティーブンソンやコン
ラッドの本を売るとするね。おもしろがらせたり、こわがらせたりする本だ。
するとそのお客さんと本が、わたしの生きた広告になるんだよ」
「しかしその手の口コミは時代遅れです。それじゃ販路拡大ができません。
大衆の前にトレードマークをかかげなければ」
ミフリンは大きな声でいった。「今は亡きタウフニッツ(註 ドイツの出版
業者)に誓っていおう! いいかい、きみは医療の専門家である医者のところ
に行って、新聞雑誌で宣伝する必要を説いたりはしないだろう? 医者の宣伝
は医者がなおした肉体がする。わたしの商売の宣伝はわたしが刺激を与えた心
がする。それに一言いわせてもらえれば、本を売るのはほかの商売とちがう。
人々は自分が本を必要としていることを知らないんだ。わたしは一目見ただけ
できみの心が読書不足で病んでいるとわかるが、きみはおめでたくもそのこと
に気がついていない! 人は心に重い傷を受けたり、病いにかかり、重篤な状
態にでもならないかぎり本屋に来ないものだ。そういう状態におちいってはじ
めて本屋に来る。わたしの考えでは、宣伝の効用とは、どこも悪いと思ってな
い人に医者に行け、と忠告するようなものだ。きみはどうして人々が今までに
もまして読書をするようになったのか、知っているかい? 戦争という大惨事
によって、みんなが心を病んでいることを知ったからだ。世界はありとあらゆ
る精神の熱病、疼痛、障害にとりつかれていたのだが、そのことに気がつかな
かった。しかしいまや、心の病いは明らかすぎるくらい明らかだ。だれもが貪
欲に、せっかちに本を読み、災難が過ぎ去ったいま、われわれの心のどこに病
巣があったのかを知ろうとしている」
小柄な店主は立ちあがり、訪問者は興味と警戒のいりまじった表情で彼を見
つめた。
「こんなところでも来る価値がある、ときみが考えたことがわたしには興味
ぶかい。本屋のすばらしい将来にたいする、わたしの確信を裏づけるものだ。
しかし商売を拡充するだけじゃ、ほんとうの未来はおとずれない。肝心なのは
専門家としての誇りを持つことだ。粗悪な本やいんちきな本や嘘を書いた本を
ほしがると、一般大衆にむかって文句をいってもはじまらない。医者よ、汝自
身を癒やせ! 本屋に良書を見わけ、敬うことを学ばせよ。そうすれば客に教
えることができる。良書を読みたいという欲求はきみが夢想するよりはるかに
広がっているし、強いものだ。しかしそれはまだ、いうなれば意識下にとど
まっている。人々は本を必要としているが、必要としていることを知らないの
だ。たいていは必要としている本が存在することにも気づいていない」
「どうして宣伝でそのことを教えてやらないんです?」若い男はなかなかす
るどく尋ねた。
「きみ、わたしも宣伝の価値は理解している。しかしわたしの場合はむなし
いのだ。わたしは商品の卸業者じゃなくて、人の必要にあわせて本をえらぶ専
門家なんだ。ここだけの話、『よい』本という抽象的なものは存在しない。本
は人間の飢えを満たし、まちがいを証明するときにのみ、『よい』本といえる。
わたしにとってよい本は、きみにとって無価値ということもおおいにありうる。
わたしの楽しみはここに立ち寄り、喜んで症状を話してくれる患者さんに本を
処方することだ。なかには読書能力を衰退させてしまって、検死をしてあげる
ほかは手のうちようのない人もいる。しかしたいていはまだ治療の道がのこさ
れている。いちばん喜んでくれるのは、その人の魂が求めていた、まさにその
本を紹介することができ、しかもその本のことを知らなかったお客さんだ。こ
の世に喜んでくれるお客さんほど強力な宣伝はないよ」
彼はつづけた。「わたしが宣伝をしない理由をもうひとつ話そう。猫も杓子
もきみがいうように大衆の前にトレードマークをかかげる今日では、宣伝をし
ないというのがもっとも独創的ではっとさせる注目の集め方なんだ。きみをこ
こに引き寄せたのも、わたしが宣伝をしないという事実だった。それにここに
来た人はだれもが、ここを発見したのは自分だけだと思っている。そして変人
と狂人が経営するこの本の収容所のことを友だちにいいふらし、今度はそれを
聞いた友だちがどんな場所なのだろうと見に来てくれるというわけさ」
「わたしもまたここにきて、本を見てまわりたいです。あなたに処方してい
ただきたいですよ」と宣伝マンはいった。
「最初に学ぶべきは残念だと思う心だ。世界は四百五十年間、本を印刷しつ
づけてきたが、火薬のほうがいまだにそれより広く行きわたっている。しかし
心配はいらない! 印刷屋のインクのほうが強力な爆弾だからね。いつかきっ
と火薬を負かすだろう。そうだね、ここにはよい本が何冊かある。世界には本
当に重要な本が三万冊くらいしかない。そのうち五千冊は英語で書かれ、もう
五千冊が翻訳されているはずだ」
「夜もあいているんですか?」
「十時までね。うちのお得意さんは昼間ずっと働いている人が多くて、夜で
ないと本屋に来ることができないんだ。真の読書家というのはたいてい貧しい
階層の人々だよ。読書に夢中という人は、仲間から金をまきあげてやろうなど
と、あくどい計画をねる暇もないし、忍耐も持っていない」
小柄な店主のはげ頭は、包装台の上のつり電球の明かりを受けてひかった。
目は真剣さにかがやき、短い赤髭が針金のようにぴんと立っていた。彼はボタ
ンがふたつとれた、みすぼらしい茶色のノーフォークジャケットを着ていた。
ちょっと狂信的なところがあるな、と訪問者は思った。しかしとても愉快な
狂信者だが。「それでは、ご主人、お話を聞かせていただいてほんとうに感謝
します。またまいります。おやすみなさい」彼はドアにむかって通路をもどり
はじめた。
店の正面にちかづいたとき、ミスタ・ミフリンが天井高くぶらさがっている
電球の群れに明かりをともしてくれたので、若者は脇に大きな掲示板があるの
に気がついた。切り抜き、お知らせ、回状、そして小さくこぎれいな字でカー
ドに書かれた本の短評がそこを埋めている。こんな掲示が彼の目をとらえた。
処方箋
もしもあなたの心が、燐を必要としているなら、ローガン・ピアソール・ス
ミスの「トリヴィア」をおためしあれ。
もしもあなたの心が、丘の上と、桜草の谷から吹きつける、青く清浄な一陣
の強い風を必要としているなら、リチャード・ジェフリーズの「わが心の物
語」を。
もしも鉄分配合の強壮酒と、とことん頭のなかを引っかきまわされるような
経験が必要なら、サミュエル・バトラーの「ノートブックス」あるいはチェス
タートンの「木曜日の男」を。
「アイルランド的な奇想」、羽目をはずしたどんちゃん騒ぎが必要なら、
ジェイムズ・スティーブンスの「半神半人」を。教えるのがもったいないよう
な、思った以上にいい本です。
砂時計をひっくりかえすように、時には心を上下反対にして、砂粒を逆流さ
せるのもいいもの。
英語をいつくしむ人なら、ラテン語の辞書はとてもおもしろいはず。
ロジャー・ミフリン
人間はすでに多少知っている事柄でないと、あまり注意をはらわないものだ。
若者は書籍療法士が処方した本はどれひとつ聞いたことがなかった。彼がドア
を開けようとしたとき、ミフリンがそばにあらわれた。
「ねえ、きみ」彼はどことなく妙におどおどした様子でいった。「きみとの
話はとてもおもしろかったよ。今晩、わたしはひとりなんだが――妻が旅行に
出ているんだ。よかったらいっしょに夕ご飯をどうだろう? きみが来たとき、
ちょうど新しいレシピを見ていたところだ」
相手はこの思いがけない招待に驚き、おなじくらい喜びもした。
「ああ、それは――ご親切にありがとうございます。でもほんとうにお邪魔
じゃないんですか?」
「とんでもない! わたしはひとりで食事をするのがだいきらいなんだ。だ
れかうちに寄ってくれないかと思っていたところだ。妻がいないときはいつも
お客さんを招くようにしている。ほら、店番があるから、わたしは家にいなけ
ればならないんだ。召使いがいないので自分で料理をしている。料理はじつに
楽しいね。さあ、パイプに火をつけて、準備をするあいだ、くつろいでくれ。
奥の居間に行こう」
ミフリンは正面入り口の本の平台《ひらだい》につぎのように書かれた大き
な札をのせた。
店主食事中につき
ご用の方は
ベルを鳴らしてください
札の横に大きくて古風なディナーベルを置くと、彼は先に立って店の奥へす
すんだ。
この変わり者の商人が料理の本を研究していたせまい帳場のうしろには、左
右にほそい階段があって、それぞれ二階の回廊までのびていた。その階段のう
しろの短いあがり段をあがると、家族が住まう奥の間にでる。訪問者はまねか
れるままに左手の小部屋にはいった。黄色がかった大理石のすすけたマントル
ピースのなかで石炭があかあかと燃えていた。その飾り棚の上には黒ずんだ
コーンパイプが一列に並び、刻みたばこの缶が一つ置いてある。上の壁には
びっくりするくらいどぎつい油絵がかかっていた。大きな青い馬車が、見たと
ころ馬らしき、白い屈強な動物にひかれている。青々としげる草の背景が、画
家の力強い筆づかいをきわだたせていた。壁は本でびっしりつまっていた。貧
弱だが座り心地のよさそうな椅子が二脚、鉄の炉格子の前に引き寄せられてい
る。からし色のテリヤが寝そべっていたが、火にちかづきすぎて、毛のこげる
においがした。
「さあ、ここがうちの居間、くつろぎの礼拝堂だよ。コートを脱いでお座り
なさい」
「あのう」とギルバートが話しはじめた。「こんなことをしていただいて―
―」
「なにをおっしゃる! さあ、座って魂を、神と台所のかまどにゆだねなさ
い。わたしは夕食の支度をしてくる」
ギルバートはパイプを取り出し、うきうきした気持ちで奇妙な一夜をたのし
む心づもりをした。彼は愛想がよくて、よく気がつく、人当たりのいい青年
だった。文学の話題にとぼしいことは自覚していたが、それは名門大学に進学
したものの、グリークラブと演劇活動がいそがしくて、読書する時間がほとん
どなかったからである。しかし、主に噂で情報を手にいれるとはいえ、よい本
を読むのは大好きだった。年齢は二十五歳、職業はグレイ・マター広告代理店
のコピーライターだった。
彼がいる小部屋が店主にとって神聖な場所であることはあきらかで、店主個
人の蔵書が並べられていた。ギルバートは本棚を興味ぶかく眺めまわした。本
はぼろぼろにいたんでいるものがほとんどだった。どうやら古本屋の粗末な飼
い葉桶から一冊一冊選ばれたものらしい。どの本にも手あかと瞑想のあとがつ
いている。
ミスタ・ギルバートは自己修養なるものに熱中していて、これは多くの若者
の人生をしおれさせてきたものなのだが、しかし大学卒という経歴や男子学生
友愛会《フラターニティ》のきらめく記章を負担に感じる人々にあっては賞賛
にあたいする情熱である。彼はふとミフリンが蒐集した本のタイトルをいくつ
か書き抜いておけば、自分の読書の貴重な参考になるのではないかという気が
した。彼は手帳を取り出し、興味をそそる本の題を書きつけはじめた。
フランシス・トンプソン全集(三巻)
アパーソン「喫煙の社会史」
ヒラリー・ベロック「ローマへの道」
岡倉覚三「茶の本」
F・C・バーナンド「名案」
「ジョンソン博士の祈祷と瞑想」
J・M・バリー「マーガレット・オギルビイ」
テイラー「サグ団員の告白」
オクスフォード大学出版部総目録
C・E・モンタギュー「夜明けのたたかい」
ロバート・ブリッジズ編「人間の精神」
ボロー「ジプシー紳士」
エミリー・ディッキンソン「詩集」
ジョージ・ハーバート「詩集」
ジョージ・ギッシング「蜘蛛の巣の家」
ここまで書き取り、(嫉妬ぶかい女王さまである)広告のためにも、もう止
めたほうがいいと思ったとき、主人が小さな顔をかがやかせ、目を青い光の点
にして部屋のなかに入ってきた。
「さあ、ミスタ・オーブリー・ギルバート!」彼は叫んだ。「食事の準備が
できました。手を洗いますか? じゃあ、いそぎましょう。こちらです。卵が
熱々で待っていますよ」
客が招じ入れられた食事室は、たばこの煙にかすむ店内や居間にはない女性
らしさをしめしていた。窓には笑っているようなチンツのカーテンがかけられ、
ピンクのゼラニウムの鉢が置いてあった。オレンジ色のシルクにおおわれたつ
るしランプの下には、テーブルが置かれ、まばゆい銀器や青い皿がならんでい
た。カットグラスのデカンターには赤茶色のワインがきらめいている。有能な
広告業者は気持ちが高揚するのをはっきりと感じた。
「さあ、座ってください」ミフリンは大皿のふたを取りながらいった。「こ
れはサミュエル・バトラー風卵といいまして、わたしが考案した、卵料理の精
髄ですぞ」
ギルバートはその考案を賞賛の言葉でむかえた。サミュエル・バトラー風卵
を家庭の主婦のメモ用に簡単に紹介すると、トーストの土台にベーコンの薄切
りと、かためにゆでた落し卵をのせ、まわりをきのこで飾ってピラミッド状に
し、てっぺんに唐辛子をふりかけたものといっていいだろう。全体に考案者秘
密のあたたかいピンク色のソースがかけられている。書店主のシェフはこれに
フライドポテトをべつの皿からもりつけ、客のグラスにワインをそそいだ。
「これはカリフォルニアのカトーバ・ワインだ。このなかで葡萄と太陽の光
が、それぞれさだめられた運命をじつに味わいよく、しかも安価にまっとうし
ている。きみの黒魔術、広告の繁栄に乾杯しよう!」
広告の本質をなす心理作戦の要諦は、如才のなさ、聞き手の気分にぴったり
の口調や言葉づかいを直感的に察知することにある。ミスタ・ギルバートはこ
のことをよく理解していた。主人はおそらく本屋という神聖な職業よりも、美
食家としての余技のほうを自慢に思っているのではないかと彼は直感した。
「ご主人」彼はジョンソン博士のまねにしては、ずいぶんわかりやすい言葉
づかいでそう話しはじめた。「かくも美味なる一品を、かくもすばやくおつく
りになるなど、はたして可能でありましょうか? わたしをかついでいらっ
しゃるのではありませんか? ギッシング通りとリッツホテルの厨房のあいだ
に秘密の通路がありはしないでしょうね?」
「ああ、妻の手料理を味わってごらんなさい! わたしは彼女がいないとき
に道楽で手を出すしろうとにすぎない。妻はボストンの従姉妹をたずねている。
この建物にこもるたばこの煙にうんざりして、当然といえば当然なんだが、健
康のために年に一度か二度、ビーコンヒルのすんだ空気を吸いに行くんだよ。
妻が留守のあいだ、家事という儀式を研究するのはわたしの特権だ。店でたえ
ず興奮したり思索したりしたあとでは、心をしずめるのに非常にいいね」
「本屋さんはとてものどかな生活をおくっているものだと思っていました
が」
「とんでもない。本屋の生活は爆弾倉庫に住むようなものだ。あの棚にはこ
の世でもっとも危険な可燃物――人間の頭脳がならんでいる。雨の日の午後を
読書してすごすと、わたしの心は人間がかかえる諸問題にかき乱され、不安に
おちいり、気がめいってしまう。あれはおそろしく神経をつかれさせる。カー
ライル、エマーソン、ソロー、チェスタートン、ショー、ニーチェ、それに
ジョージ・エードに囲まれてみなさい――興奮するのも当然じゃないかね?
もしも猫が好物のイヌハッカのつづれ織りで飾られた部屋に住まなければなら
ないとしたらどうなるだろう? そりゃあ、気が変になるだろう!」
「正直にいって、本屋さんにそんな側面があるとは思いもよりませんでし
た」と若者はいった。「しかし、それなら図書館はどうしてあんなにおごかな
静けさにつつまれた神殿なのでしょう? あなたがおっしゃるように本が挑発
的なら、図書館員はみんな秘儀の祭司のように甲高い叫び声をあげ、ひっそり
したアルコーヴのなかで夢中になってカスタネットでも打ち鳴らしそうなもの
ですよ!」
「だがね、きみ、きみは検索カードを忘れているよ。図書館員は、魂の熱冷
ましとして鎮静効果のあるしかけを考え出したんだ。わたしが台所の儀式を利
用するのとまったくおなじだ。集中してものを考えることができる図書館員だ
もの、ひんやりとして心をいやす薬のような検索カードがなければ、みんな頭
がおかしくなるよ! 卵のおかわりはどうだい?」
「ありがとうございます」ギルバートはいった。「この料理の名前のもとに
なった執事《バトラー》はだれでしたっけ?」
「なんだって?」ミフリンはショックを受けて叫んだ。「きみはサミュエ
ル・バトラーを聞いたことがないのか? 『万人の道』の作者を? きみ、こ
の本と『エレホン』を読まずに死んだ人間は、天国に行く機会をわざと放棄し
たようなものだ。あの世で天国に行けるかどうかはわからないが、この世には
まちがいなく天国がある。それはよい本を読むときに住まうことができる天国
だ。ワインをもう一杯めしあがれ。それではここでひとつ……」
(ここからサミュエル・バトラーの反逆的な哲学について、熱のこもった説
明がはじまるのだが、読者に敬意を表して割愛しよう。ミスタ・ギルバートは
会話の最中にメモを取り、うれしいことに、自分の罪ぶかさを心から自覚した
らしい。数日後、彼は市立図書館にあらわれ、「万人の道」はないかとたずね
ているところを目撃されている。図書館を四つ訪ねてまわり、いずれの場所で
も本が貸し出し中であることを知り、彼は一冊購入せざるをえなかったが、そ
のことを後悔はしていない)
「おやおや、お客さまをおまねきしながら、わたしはなにをしているのや
ら」ミフリンはいった。「デザートはアップルソース、ショウガ入りケーキ、
そしてコーヒーだよ」彼はからになった皿を手早くテーブルからかたづけ、つ
ぎの品を持ってきた。
「さっきから食器棚の上の注意書きが気になっていたんですが」ギルバート
はいった。「今晩、かたづけのお手伝いをさせてもらえませんか?」彼は台所
のドアのちかくにかかっている札を指さした。それにはこう書いてある。
食事が終わったすぐあとに
かならず皿を洗うこと
あとで手間がかかりません
「残念だが、いつもあの教えを守っているわけではない」店主はコーヒーを
そそぎながらいった。「妻は注意をうながすために出かけるときはいつもあれ
をかけていく。しかしわたしたちの友人、サミュエル・バトラーがいうように、
些末なことにとらわれるおろか者は、大切なことを見失うおろか者だ。わたし
は皿洗いにかんして人とはちがう見解をもっていて、わたしなりの流儀でたの
しんでやっている。
わたしは皿洗いをいやしい雑用、いってみれば眉間にしわをよせ、辛抱づよ
く堪えしのばなければならない、憎むべき試練にすぎないと思っていた。妻が
はじめて出かけたとき、わたしは流しの上に書見台と電球を取りつけ、手が自
動的に食器洗いというくだらない行為をおこなっているあいだ、本を読んでい
たものだ。偉大な文学の霊を悲しみの友にし、鍋や皿にまじって水をあび、の
たうちまわりながら、『楽園喪失』やウォルト・メイソンをずいぶん暗記した。
よくキーツの詩の二行を口ずさんで自分を慰めたものだ。
動きやまぬ波は神官のごとく
人住まう大地の岸辺を浄め……
そのとき、新しいものの見方にはっと気がついた。人間は、いかなる仕事も、
強制されて苦行のようにいつまでもつづけることはできない。どんな仕事であ
れ、それになんらかの精神的な意味を賦与し、ふるい考え方を打ちこわし、心
から望むものに作り変えなければならない。皿洗いの場合はどうしたらいいだ
ろう?
わたしはこの問題を考えながら、かなりの数の皿を割ったよ。そしてふいに、
これこそわたしに必要な息抜きなんだとさとったのだ。それまで、人生の栄光
や苦悩について相矛盾する見解を叫びつづけるやかましい本たちに終日囲まれ、
頭がくたくたになってしまうことに不安を感じていたのだ。それなら皿洗いを
わたしの鎮痛剤と湿布薬にしたらどうだろう?
どうにもならないような事実も、あたらしい角度から見ると、おどろくほど
輪郭や縁の形がちがってくるものだ! とたんに洗い桶は一種、哲学的な神々
しさをおびて光りはじめた! なまぬるい泡だらけの水は、かっかした頭を冷
す特効薬になり、コップや皿を洗って乾かす地味な行為は、いうことを聞かな
いまわりの世界に人間が押しつける秩序と清潔さの象徴に変わった。わたしは
流しの上から書見台と読書灯をとっぱらった。
ギルバートさん、笑わないで聞いてほしいんだが、わたしは独自の台所哲学
を発展させたんだ。台所はわたしたちの文明の聖堂、人生における好ましいも
のすべての中心だと思う。ストーブの赤いかがやきは、どんな夕焼けにも負け
ないくらい色鮮やかだ。丹念にみがかれた水入れやスプーンは、ソネットのよ
うに優雅で、完璧で、美しい。きちんと洗って水切りをし、裏口のドアの外に
ほしてある皿洗い用のモップは、それじたいが一編の説教だ。冷蔵庫の水受け
をからにして、スコットランド風にいえば、台所をくまなく『レッドアップ
(整理)』したあと、勝手口から見る星くらいかがやかしいものはない」
「とてもすてきな哲学ですね」とギルバートはいった。「さあ、食事がおわ
りましたから、ぜひ皿洗いのお手伝いをさせてください。あなたの汎皿論をた
めしてみたくてうずうずしているんです」
「きみ」ミフリンはせっかちな客を手で押さえるようにしていった。「たま
には否定を甘んじて受けいれるぐらいでないと、本物の哲学とはいえない。い
やいや――いっしょに皿を洗ってくれとたのんだんじゃないんだ」彼は客をふ
たたび居間のほうへ導いた。
「きみが入ってくるのを見たとき、新聞記者が取材に来たのかと心配になっ
たよ。いちど若いジャーナリストがうちに来て、非常に不愉快な目にあったこ
とがある。やつは妻に取り入って、わたしたちの話を本にしてしまった。『パ
ルナッソス移動書店』というんだが、わたしにとってはいささか目ざわりな本
でね。その本のなかで、わたしは本屋の仕事について、あさはかで感傷的な発
言をいくつもしていることになっているんだが、それが同業者をいらいらさせ
ている。しかしさいわいなことに、その本はほとんど売れなかった」
「聞いたことがない本ですね」とギルバートはいった。
「本屋の仕事に真剣な興味があるなら、いつかまた晩に来てコーンパイプ・
クラブに顔を出しなさい。月に一回、書店主が大勢ここにあつまって、コーン
パイプをくゆらし、リンゴジュースを飲みながら本の話をするんだ。じつにい
ろいろな書店主がいるよ。一人は図書館の話ばかりをする。彼は、市立図書館
をことごとく爆破すべし、と考えている。それから映画が出版業を破滅させる
と考えている人もいる。ばかな話だ! 精神をとぎすまし、疑問をいだかせる
ものは、どんなものであれ、かならず読書欲をかきたてるものだ」
「本屋の生活は知性をひどく堕落させる」一息おいて彼はつづけた。「数知
れぬ本に取り囲まれているが、すべてを読むことはできないので、あっちを
ちょいとのぞき、こっちをすこしかじるという読み方をする。しだいに頭のな
かは漂流物の寄せ集め、うすっぺらな意見、千の生半可な知識でいっぱいにな
り、ほとんど無意識のうちに、大衆の需要という尺度で文学を評価しはじめる。
ラルフ・ウォルド・トラインはラルフ・ウォルド・エマソンよりすぐれている
のではないかとか、J・M・チャプルはJ・M・バリーとおなじくらい偉大な
文人じゃないかとか考えるようになる。こうして知性は自殺してしまうのだ。
しかしよい本屋には一つだけ認めてやらなければならないことがある。それ
は寛容だということだ。本屋はどんな思想や理論にも辛抱づよく接する。奔流
のような人間の言葉にのみこまれても、喜んで一人ひとりの言い分に耳をかた
むける。出版社のセールスマンにさえおおらかに耳を貸す。人類の幸福のため
ならすすんでだまされようというのだ。よい本が生まれることをひたすら願っ
ているのだ。
わたしの商売は、ごらんのとおり、ほかとくらべるとずいぶん毛色がちがっ
ている。あつかっているのは古本だけだし、買い取るのも正当な存在価値があ
ると、わたしが考える本だけだ。人間の判断がおよぶ範囲で、わたしは駄本を
棚に置かないようにしている。医者はにせの薬を売買しない。わたしはいいか
げんな本を売買しない。
先日、おもしろいことがあったよ。あるお金持ちで、ミスタ・チャップマン
という人がいるんだが、この店に足繁くかようになってもうずいぶんにな
る……」
「もしかするとチャップマン・デインティビッツ株式会社のミスタ・チャッ
プマンですか?」ギルバートは勝手を知った領域に足を踏み入れたことを感じ
ながらいった。
「そうだが」ミフリンはいった。「知っているのかい?」
「やっぱり」青年は敬意のこもった声で叫んだ。「あの人こそあなたに広告
の美徳をお話しできる人ですよ。あの人が本に興味を持っているとしたら、そ
れは広告のせいです。あの会社の広告は、すべてうちが引き受けているんです
――わたし自身もたくさん作りました。わたしたちがチャップマン社のプルー
ンを、文明と文化の必需品にしたんです。大きな雑誌ならかならずのせている
『わが社の自慢、チャップマン・プルーン』というあの標語はわたしが考えた
んです。チャップマン社のプルーンは世界じゅうが知っています。日本の帝
《みかど》は一週間に一回食べているし、ローマ法王も食べています。そうだ、
講和会議に出席するため大統領が乗船するジョージ・ワシントン号にも十三箱
積み込まれたって話ですよ。チェコスロバキア軍の糧秣はほとんどがプルーン
でした。チャップマン・プルーンの宣伝が戦争勝利におおいに寄与したと、う
ちの会社は確信しています」
「このまえ読んだ広告――もしかしたらあれもきみが書いたのかい?」と店
主はいった。「エルジン時計が戦争を勝利に導いた、というやつだが。ともか
く、チャップマンさんは長いことうちのお得意さんのひとりなんだ。彼はコー
ンパイプ・クラブのことを聞いて、もちろん書店主じゃないんだが、ぜひ集ま
りに参加したいと熱心に頼みに来た。わたしたちは大歓迎だったし、彼も真剣
に議論の輪にくわわってくれた。鋭い意見を出すこともしばしばあった。彼は
本屋の生活にいれこんでしまって、先日、娘さんのことでわたしに手紙をよこ
したくらいだ。(チャップマンさんはやもめ暮らしをしている)娘さんは上流
階級の女の子が通う学校に行っているのだが、彼がいうには、そこで常識はず
れの贅沢な俗物思想をたっぷり吸収したらしい。人生の意義とか美しさがわか
らない点は、ポメラニア犬とおなじだそうだ。彼は娘を大学にやるかわりに、
わたしたち夫婦が引き取って、ここで書籍商の仕事を教えてくれないかといっ
てきた。彼女には自活しているように思わせておいて、内緒で住み込みの費用
を払うというのだ。本に囲まれていれば、すこしは良識をわきまえるようにな
るのではないかと考えているようだ。そんなことをこころみて大丈夫なのかと、
ちょっと不安なんだが、しかし店にとっては名誉なことだ。ちがうかね?」
「おどろいたなあ」ギルバートは大声を出した。「それをネタにしてすごい
コピーが作れますよ!」
ちょうどそのとき店のベルが鳴り、ミフリンは飛びあがった。「夜のこの時
間帯はちょいとだけいそがしくなることがある」彼はいった。「残念だが、下
に行かなければならない。常連客のなかには、わたしが本の話に花を咲かせよ
うと、うずうずしながら待ちかまえていると思っている人がいる」
「お礼の言葉もないくらいたのしかったです」ギルバートはいった。「また
お邪魔して、本棚をじっくり見ることにします」
「そうだ、さっきのお嬢さんの話は秘密にしておいていただきたい」と店主
はいった。「きみのようなさっそうとした青年が押し寄せて、彼女の心をまど
わすようではこまる。この店にいるあいだ、恋をする相手はジョセフ・コン
ラッドかジョン・キーツにしてもらわなければね!」
外に出て行くとき、ギルバートはロジャー・ミフリンが髭をはやした大学教
授風の男と話しているのを見た。「カーライルの『オリバー・クロムウェル
伝』ですか?」彼はそういっていた。「もちろんですとも! こちらですよ!
おや、変だな! ここにあったんだがなあ!」
第二章 コーンパイプ・クラブ*
*読者が書店経営者でないなら、本章の後半は飛ばしていただいてかまわない。
幽霊書店は魅力にあふれる店だが、とりわけ夕方、ものういアルコーブにラ
ンプの光がともり、本の列を照らし出すときがそうだった。多くの通行人がひ
たすら好奇心にかられて階段をおりてきた。それ以外のなじみの客は、クラブ
を訪れる男のようにゆったりとした気分で店に立ち寄った。ロジャーは店の奥
で机にむかい、パイプをふかして本を読むのが常だったが、客に話しかけられ
ると、たちまち会話に夢中になった。おしゃべりな獅子は身体のなかに眠って
いるだけで、それを目ざめさせるのは造作もなかった。
夜も営業している本屋は、どこも夕食後が多忙な時間帯といっていいだろう。
真の読書好きは夜行性の種族であって、闇と静けさと笠を被った電球の光が、
あらがいがたい力で読書へと誘《いざな》うまで外に出ようとしないからだろ
うか? もちろん夜は文学と神秘的な類縁性を持っている。イヌイットが偉大
な書物を生み出していないのは奇怪なことだ。われわれのほとんどは北極の夜
などオー・ヘンリーとスティーブンソンがなければ耐えられないだろう。また、
いっときアンブローズ・ビアスにかぶれたロジャー・ミフリンはこういったこ
ともある。真に甘美な夜《ノクテス・アムブロジアナエ》は、アンブローズ・
ビアスの夜である、と。
しかしロジャーは十時になるとパルナッソスの家をさっさと閉めた。その時
刻に彼とボック(からし色のテリヤで、ボッカチオから名前をとった)は、店
を巡回してすみずみまで点検し、客用の灰皿をあけ、正面ドアに鍵をかけて明
かりを消した。そのあと彼らが居間にもどると、たいていミフリン夫人が編み
物か読書をしていた。彼女はポットにココアをわかし、二人は床につくまでの
半時間あまりを読書やおしゃべりで過ごすのである。ロジャーは寝る前にギッ
シング通りを散策することもあった。一日じゅう本といっしょにいると、精神
的な疲労は相当なものになる。だからブルックリンの通りを吹き抜けるさわや
かな風にあたって、ボックが老犬らしく鼻を鳴らしたり、夜道をのろのろ歩く
かたわら、読書中に思いついたことをじっくり考え直したりしたものだ。
しかしミセス・ミフリンが家にいないとき、ロジャーの行動はいつもの手順
をいささか逸脱する。店じまいをしたあと、彼は机にもどり、こそこそと恥ず
かしそうに、いちばん下の引き出しからメモや原稿が乱雑につめこまれた紙ば
さみを取り出す。これは押し入れのなかの骸骨、人に知られてはならない彼の
罪悪だった。それはすくなくとも十年のあいだ、彼が編集して本にしようとし
てきた資料で、「文学ノート」、「松葉杖をついた詩神」、「本とわたし」、
「若き書籍商が知っておくべきこと」などといったいろいろな仮題がつけられ
ていた。はるか昔、彼が本の行商人として田舎をうろつきまわっていたころに
「農民と文学」という題で書きはじめたものなのだが、しだいに枝葉がついて、
ついには(すくなくとも分量だけは)リドパス教授の布張りの著作(註 「リ
ドパスの世界文学集成」のこと)をおびかすまでにいたった。いまのところ、
この草稿には出だしも終わりもなく、ただ中間部分だけが猛烈な勢いでふくれ
つつあり、何百枚もの原稿用紙がロジャーのこまかな手書き文字で埋まってい
た。「アルス・ビブリオポラエ」、すなわち本を売る技術の章は、いまだ生ま
れざる書籍販売業者に古典として世代を超えて読み継がれることを彼は望んで
いた。散らかった机にむかい、もうもうたるたばこの煙の掛布団にやさしく包
まれ、彼は原稿を熟読しながら、字句を消し、手を加え、議論をやり直し、棚
の本を参照した。ボックは椅子の下でいびきをかき、じきにロジャーは頭が朦
朧としてきた。結局、彼は原稿用紙の上につっぷして寝てしまい、夜中の二時
ごろ、からだが痛くなって目をさまし、いらいらと床をきしませひとり寝の
ベッドにむかうのだ。
長々とこんなことを話したのは、オーブリー・ギルバートが訪ねてきた晩の
真夜中、ロジャーが机にむかってうとうとしていたことを説明したかったから
にすぎない。渓流のように冷たいすきま風がはげた頭の上を通りすぎ、彼は目
をさました。上半身をぴんと起こして、まわりを見た。店内は頭上の明るい電
球以外は暗闇に包まれている。飼い主よりも規則正しい生活を送っているボッ
クは、台所にある寝床にもどっていた。かつてはブリタニカ百科事典が一式詰
め込まれていた荷箱で作ったものだった。
「変だな」ロジャーはひとりごとをいった。「たしかに鍵はかけたんだが」
彼は店の正面に行き、スイッチを押して、天井からぶらさがる電球の群れに明
かりをともした。ドアがすこし開いていたが、ほかはなんの異常もないよう
だった。彼の足音を聞きつけたボックが、木の床に爪音を響かせながら台所か
らとことこと出てきた。主人の奇矯なふるまいに慣れた犬らしく、辛抱づよく
問いかけるような目で彼を見あげた。
「だんだんぼけてきたようだ」ロジャーはいった。「きっと閉め忘れたん
だ」彼はドアを閉めて鍵をかけた。そのときテリヤが店の正面の左側にある歴
史のアルコーヴに入り込み、においを嗅いでいることに気がついた。
「どうしたんだ、おまえ」ロジャーはいった。「寝床で読む本がほしいの
か?」彼はアルコーヴの明かりをつけた。なにも変わったところはないように
思われた。が、ふと一冊の本がまっすぐに並んだ背表紙の列から一インチほど
飛び出しているのを見つけた。ロジャーは几帳面に棚の本をことごとく平らに
並べる癖があり、ほとんど毎晩、閉店の時間になると、てのひらを背表紙に
そってはしらせ、不注意な閲覧者による本の不揃いを直すことにしていた。彼
は手を伸ばして本を押し込もうとした。そして手を止めた。
「こりゃまた変だな」彼は思った。「カーライルの『オリバー・クロムウェ
ル伝』じゃないか! 昨日探したときは見つからなかったのに。あの教授がこ
こにいたとき。もしかしたら疲れて、まともにものも見えなくなったのかも知
れない。寝ることにしよう」
つぎの日はきわめて重要な日だった。感謝祭とコーンパイプ・クラブの十一
月例会がかさなっているだけでなく、ミフリン夫人がそれに間にあうようにボ
ストンから帰ってきて、書店主たちのためにチョコレートケーキを焼いてあげ
ると約束していたのである。クラブのメンバーのなかには、本の話をするため
というより、ミフリン夫人のチョコレートケーキと、彼女の兄アンドリュー・
マギルがサビニ農場から毎年秋に送ってくる樽詰めのリンゴジュースを目あて
に欠かさず出席する者もあるという。
ロジャーは妻の帰りをむかえる準備として、かるく家の掃除をして午前中を
すごした。食べ物のくずやら、たばこの灰が食事室の絨毯の上にたくさんた
まっていて、彼はいささか恥ずかしくなった。昼食はつつましくラムチョップ
とベークトポテトですませたが、食べ物にかんする警句が頭にうかんだのでご
満悦だった。「大切なのはあなたが夢に見る食べ物ではない」彼はひとりつぶ
やいた。「家のなかに入り来たり、家族の一員となる食べ物こそ重要なのであ
る」もうすこしみがきあげ、言葉づかいを工夫する必要があるが、ちょっと気
がきいていると思った。ひとりで食事をするときは、よくいろいろなことを思
いつくのだった。
そのあと流し場で皿洗いに精を出していると、二本の腕がじつに手早く彼を
つつみ、ギンガムのピンク色のエプロンを頭からすっぽりかぶせたのでびっく
りした。「ミフリン」妻がいった。「何度いったらわかるの! 洗い物をする
ときはエプロンをおつけなさい」
二人は気があって結婚した中年者どうしの、あっさりしたなかにも心から愛
情のこもった挨拶をかわした。ヘレン・ミフリンはふくよかな健康的な女性で、
良識とユーモアに富み、心にも身体にも栄養がゆきわたっていた。彼女はロ
ジャーのはげた頭にキスをし、相手の小柄な身体に腕をまわしてエプロンの紐
を結び、台所の椅子に座って彼が食器をふきおわるのを見ていた。彼女の頬は
身を切るような空気にあたって冷たく赤みをおび、その顔は快適な都市ボスト
ンに逗留した者があじわう静かな満足感にかがやいていた。
「さあ、おまえ」ロジャーはいった。「これでほんとうの感謝祭になった。
『家庭版名詩選集』みたいにふっくらして元気いっぱいのようだね」(註
「家庭版名詩選集」は四千ページあまりのぶあつい本)
「すばらしかったわ」彼女は膝もとのボックをかるくなでながらいった。犬
は人間の友を見わける嗅ぎなれた不思議なにおいを吸いこんでいた。「三週間
というもの、本の話はいっさいなし。きのう、オールド・アングル書店に立ち
寄って、ジョー・ジリングスにひとこと挨拶して来たの。彼は、書店主はみん
な頭が変だけど、あなたは群を抜いて変だっていっていたわよ。まだ店はつぶ
れていないのか、ですって」
ロジャーの灰色がかった青い目がひかった。彼は瀬戸物戸棚のフックにコッ
プをひっかけ、パイプに火をつけてから返事をした。
「なんて答えたんだい?」
「うちの店には幽霊がついているから、普通の本屋とはわけがちがうの
よ、って」
「よくぞいった! で、ジョーはなんていっていた?」
「『変わり者にとりつかれているのさ』だって」
「そうだな」ロジャーがいった。「文学が破産することになったなら、その
ときはわたしも運命を共にしよう。それまではやめるものか。ところで、もう
すぐ、うちの店に美しい乙女がとりつくことになっているんだ。チャップマン
さんがお嬢さんをうちの店で働かせたいといったのを覚えているだろう? ほ
ら、これは今朝、彼からとどいた手紙だよ」
彼はポケットをさぐって手紙を取り出した。ミセス・ミフリンが読んだのは、
つぎのような文面だった。
親愛なるミフリン
きみと奥さんが娘を試験的に見習いとして雇うことにこころよく同意してく
れたので、わたしは心から喜んでいる。ティタニアはほんとうはとてもかわい
い娘で、いわゆる「教養学校」のくだらない考え方を頭から取りのぞいてやれ
ば、立派な女性になるだろう。(これは彼女のせいではなく、わたしに問題が
あったのだが)彼女はほしいものはなんでも手に入り、気まぐれはすべて許さ
れるという悪い環境のなかで育てあげられてきた、というか、育てさげられて
きた。彼女のためにも、また、結婚することがあるなら、未来の夫のためにも、
彼女に生計を立てることを多少学んでもらいたいのだ。彼女はもうすぐ十九歳
になる。わたしは彼女に、しばらく本屋の仕事をしたなら、そのあとは一年間
ヨーロッパ旅行につれていってやると約束した。
前にも説明したとおり、彼女にはほんとうに自活しているのだと思わせてお
きたい。もちろん毎日の仕事がきつすぎるというのでは困るが、しかし自力で
人生に立ちむかうことの意味をいくらかでも理解させたい。給料は新米あつか
いで毎週十ドル、そこから食費を差し引いてくれたら、わたしのほうからは、
娘の世話ときみたちのやさしい監督にたいして、こっそり毎週二十ドルを払う。
あすの夜、コーンパイプ・クラブに出るから、そのとき最終的な手はずをとと
のえよう。
さいわいなことに、娘は本が大好きで、今回の冒険におおいに期待している
ようだ。たまたま昨日、娘が友達の一人に、今年の冬は「文学的な仕事」をす
る、などと言っているのを耳にした。わたしが娘に卒業してもらいたいのは、
こういうばかげたものの言い方だ。本屋で働く、と言えるようになったら、彼
女の病気は治ったということだ。
親愛なるきみの友
ジョージ・チャップマン
「どうだい?」ミフリン夫人がなにもいわないのでロジャーは尋ねた。「わ
れわれの平穏な暮らしがかかえる諸問題に純真な若い娘がどう反応するか、
ちょっと興味ぶかいと思わないか?」
「ロジャー、あなたってどこまで世間知らずなの!」妻は叫んだ。「ここに
十九歳の女の子が来たら、平穏な暮らしどころじゃなくなるわよ。自分をだま
すことはできるかもしれないけど、わたしはだまされない。十九歳の女の子は
『反応』するんじゃないのよ。爆発するの。『反応』がおきるのはボストンと
化学実験室だけ。あなたは兵器庫に人間爆弾をつれこもうとしているのよ。わ
かっている?」
ロジャーは、そうだろうか、という顔をした。「『ハーミストンのウィア』
のなかで女の子のことを『爆発機関』とか書いてあったな。しかしべつに困る
こともないだろう。われわれは二人とも砲弾ショックには充分抵抗力がある。
考えられる最悪の事態は、わたしの『エリザベス女王時代の炉端談話』が見つ
かってしまうことだ。どこかに鍵をかけてしまっておくよう、あとで注意して
くれないか?」
マーク・トゥエインの手になるこの秘密の傑作は、店主の宝物の一つだった。
ヘレンですら読むのを許されていなかったが、彼女は賢明にも自分が好んで読
むような本ではないことを見抜いていた。保管場所はちゃんと知っていたが
(生命保険証券、自由公債、チャールズ・スペンサー・チャップリン直筆の手
紙、新婚旅行で撮った彼女のスナップ写真などといっしょにしまってあった)、
手にとって見ようとしたことは一度もなかった。
「とにかく」ヘレンはいった。「ティタニアが来ようが来まいが、今晩、
コーンパイプ・クラブがチョコレートケーキを食べたいというなら、遊んでる
ひまはないわ。お願いだからスーツケースを二階に持って行ってちょうだい」
書店主の集まりは、参加してたのしい衆議所《サンヘドリン》である。歴史
のふるいこの業界の人々には、洋服製造業者やそのほかの業界の人とおなじく、
はっきりそれとわかる癖や特徴がある。彼らは、いってみれば、装丁がすり切
れかかっているのだ。つまり、世俗的な利益に背をむけ、現金にはめぐまれな
い高貴な天職に殉じようとする者にふさわしい身なりをしている。彼らは幾分
苦虫をかみつぶしたような顔をしているかも知れないが、不可解な天意を前に
した人類にしてみれば上出来の表情である。出版社のセールスマンと長くつき
あっているため、ごちそうの合間に賞賛される本には疑いの目をむける。出版
社のセールスマンが夕食に誘う場合、最後の豆粒が皿の上で追いまわされるこ
ろ、会話が文学に流れたとしても驚くことではない。しかしジェリー・グラッ
ドフィストがいうように(彼は三十八番街で店を経営している)、出版社の
セールスマンは、長いあいだ満たされなかった、切実な要求を満たしてくれる。
彼らは書店主風情には、そういう機会でもないかぎり、ありつけそうもないよ
うな食事をときどきおごってくれるのだ。
「さあさあ、みなさん」ロジャーは客が彼の小部屋に集まったときにいった。
「寒い晩になったね。火のそばに寄ってくれ。リンゴジュースはご自由にどう
ぞ。ケーキはテーブルの上。妻はこれを作るためにわざわざボストンからも
どってきたんだ」
「ミフリン夫人の健康に乾杯!」ミスタ・チャップマンがいった。彼は人の
話をよく聞く、しずかな小柄な男である。「わたしたちが騒いでいるあいだ、
奥さんにに店番をしてもらっていいのかね?」
「気にすることはない」ロジャーがいった。「彼女は店番が好きなんだ」
「ギッシング通りの映画館で『ターザン』を上映しているな」グラッドフィ
ストがいった。「傑作だよ。見たかい?」
「『ジャングルブック』が読めるあいだは、見るつもりはない」ロジャーが
いった。
「きみの文学談義にはうんざりだ」ジェリーが大声でいった。「本は本だよ、
ハロルド・ベル・ライト(註 説教師からベストセラー作家になった人物)が
書いたとしても」
「本は本さ、読んで楽しければ」五番街に大きな書店をかまえるメレディス
が訂正した。「ハロルド・ベル・ライトははやっているね。くだらないものが
はやるように。不愉快きわまりないが、しかし心は広く持とう」
「きみの議論には論理的一貫性がまるでないぞ」ジェリーはリンゴジュース
に刺激され、いつになく頭が冴えていた。
「前提から結論までロングパットは決まらなかったな」稀覯本と初版本をあ
つっているベンソンが笑った。
「わたしがいいたいのはこういうことだ」ジェリーがいった。「われわれは
文芸評論家じゃない。なにがよくて、なにが悪いかなど、知ったことではない。
われわれの仕事はただ、大衆がほしがる本を、ほしいと思ったときに与えるこ
とだ。どうしてその本がほしくなったかなど、われわれには関係ない」
「きみのような人間が書籍業をこの世で最低の仕事だといったりするんだ」
ロジャーは興奮していった。「そしてきみのような人間が書籍業を最低の仕事
にするんだ。きみは本にたいする一般人の食欲をかき立てることなど本屋の関
心事ではないというんだろう?」
「食欲というのはいいすぎだ」ジェリーがいった。「本というのはせいぜい
寝ている病人が起き直って、すこしだけ食べる流動食くらいのものさ。食べご
たえのあるものは敬遠される。病人の喉にローストビーフを詰め込んだら、死
んでしまうよ。一般人のことは放っておけ。そして苦労してかせいだ金を手放
しにやってきたら神さまに感謝することだ」
「ふむ、儲けという最低レベルで考えてもだね」ロジャーはいった。「根拠
があるわけじゃないが……」
「きみの話にはいつも根拠がないな」ジェリーがちゃちゃをいれた。
「しかしわたしは、ライト牧師の本を全部合わせたより、ブライスの『アメ
リカ共和国』のほうが、業界に利益をもたらしたと思いたい」
「それがどうした? 両方とも出版すればいいだろう?」
この前哨戦的な論争はさらに二人の客が到着したことによって中断した。ロ
ジャーはリンゴジュースのカップを手わたし、ケーキとかごに入ったプレッ
ツェルを指さして、コーンパイプに火をつけた。あらたにやってきたのはクイ
ンシーとフリューリングで、前者は巨大な百貨店の書籍部門に勤めている。後
者はグランド通りのユダヤ人地区に店をかまえていた。山の手の愛書家にはあ
まり知られていないが、そこはブルックリンでもっとも在庫のそろった本屋の
一つである。
「さてさて」フリューリングは血色のいい頬と、もじゃもじゃの髭の上の黒
くひかる目を輝かせていった。「なにを議論しているんだい?」
「いつものやつさ」グラッドフィストがにやにや笑っていった。「ミフリン
が商品と形而上学とを混同しているんだ」
ミフリン――とんでもない。わたしはただ、まっとうな商売とは最上のもの
しか売らないことだといっているだけだ。
グラッドフィスト――それもちがう。売り物は客に合わせなければならない。
ここにいるクインシーに訊いてみろ。百貨店の客がエレナ・ポーターとターザ
ンものをほしがっているときに、メーテルリンクとショーを棚に積み上げてど
うする? 田舎の雑貨屋が、五番街のホテルのワインリストにのっているよう
な葉巻を置くか? もちろん置かない。よくさばける、いつもの葉巻を仕入れ
るものだ。本屋もふつうの商売のやり方に従わなければならない。
ミフリン――ふつうの商売のやり方とはしゃらくさい! わたしはそういう
ものがいやで、このギッシング通りに来たんだ。こせこせと意地汚く需要と供
給にこだわらなければならないなんて、思っただけでも頭のなかのヒューズが
吹っ飛ぶ。わたしに関するかぎり、供給が需要を生むんだ。
グラッドフィスト――それでも、きみ、生計を立てるためにはこせこせと汚
くやらなければならないだろう? だれかがお金を寄付してくれるのでないか
ぎり。
ベンソン――うちの商売は、厳密にいえば、もちろん、みんなとおなじとは
いえない。しかし稀覯本を売りながらわたしがよく考えることは、みんなにも
興味があるんじゃないかな。客の金離れのよさは、たいていの場合、購入した
ものから期待できる永続的な利益と反比例するんだ。
メレディス――なんだかちょっとジョン・スチュアート・ミルみたいだな。
ベンソン――でも、まちがってはいないと思うよ。人は教養よりも娯楽に
ずっと金を払うものだ。劇場の席を二席取るのにしぶしぶ五ドル払ったり、毎
週いつの間にか葉巻に二ドル使っているじゃないか。でも一冊の本に二ドルと
か五ドルを使うのは耐えがたい苦痛だ。きみたち小売業の人間がやるまちがい
は、顧客にむかって、本は必需品だと信じこませようとすることだ。本は贅沢
品だといってみろよ。客は気持ちを引きつけられるから! みんな生きるため
に苦労して働いているから、必需品はなかなか買おうとしない。スーツなどは
すり切れるまで着つづけるものね。それにくらべれば安葉巻にはすぐ手を出す。
グラッドフィスト――なかなかいいところを突いている。ここにいるミフリ
ンはわたしのことを物欲にとらわれた皮肉屋と呼んでいるが、ところがどっこ
い、わたしは彼よりもさらに理想主義者だと思っている。わたしはかわいそう
ななにも知らない顧客をだまして、自分が買わせたいと思っている本をむりや
り押しつける宣伝活動家ではない。ほとんどの客は本屋にふらりと入ってきて
も、自分がなにを読みたいのか、どの本が買うにあたいするのか、すこしもわ
からず、お手上げのあわれなありさまなんだが、それを見たら彼らの弱みにつ
け込もうなんて、とんでもない話だと思う。彼らは完全に店員のいうがまま。
教えられたものならなんでも買うよ。しかし名誉を重んじる高潔の士、つまり
わたしは、ただ自分が必読書だと思うからといって、彼らに輝かしい名著を押
しつけることはしない。でくの坊にまわりをうろつかせて、つかめるものをつ
かませるんだ。自然選択がはたらくにまかせるんだ。彼らが頼りなげに手さぐ
りする様子や、奇妙きてれつな本の決め方を観察するのは興味がつきない。本
を買う理由というのが、たいていは、表紙が魅力的だとか、値段が一ドル五十
セントじゃなくて一ドル二十五セントだからだとか、書評を見たからというん
だ。「書評」といっても、よくきくとたいがい広告のことなんだけど。本を買
う人のなかで、千人に一人もその区別のわかる人はいないだろう。
ミフリン――きみの考え方は無慈悲で、さもしくて、誤っている! 治る病
気に苦しんでいる人を見て、その苦痛をやわらげてやろうとしない医者を、き
みはどう思う?
グラッドフィスト――きみがいう苦痛など、インテリしか買わないような本
を大量に仕入れてしまったときの、わたしの苦痛にくらべればなんでもない。
毎日々々、わたしの店の前を通りすぎ、そこに住む高潔な主を飢え死にさせる、
いやしい大衆をきみはどう思う?
ミフリン――きみの病気は自分をただの商人と考えるところにある。わたし
がいっているのは、書店主は公僕なのだということだ。政府から年給をもらう
べきだよ。この職業が名誉あるものだからこそ、よい作品を広めるために全力
をつくそうという気になるんだ。
クインシー――きみは新刊を中心にあつかっている本屋がどれだけ出版社の
いいなりになっているか、忘れているよ。わたしたちは新刊本を仕入れなけれ
ばならないが、その大部分は決まって駄本だ。なぜ駄本なんか寄こすのかなあ。
ほとんどが売れ残るんだからね。
ミフリン――ああ、それはたしかに不思議だね! しかしそれなりに理由は
考えられる。第一に、良書はみんなに行きわたるほど数が多くない。第二に、
出版社が無知で、正直なはなし、良書を見わけることができないところが多い。
出版しようとする本の選定がまったくいいかげんなのだ。大きな製薬会社とか
有名なジャムの製造業者は、薬効成分の化学的検査や分析、ジャムに煮詰める
果物の収集選択に大金をかける。ところが出版業でいちばん大切な部門である
原稿収集と品質検査は、いちばんなおざりにされていて、いちばん報酬もすく
ないのだそうだ。わたしはある出版社の原稿閲読者《リーダー》と知り合い
だったが、彼は大学を出たての世間知らずで、本と男子学生友愛会《フラター
ニティ》のバッジを区別することもできない。ジャム工場が熟練した化学者を
雇うのなら、出版社がなぜ本の目利きのプロを雇わないのだ? そういう連中
はいることはいるんだ。たとえば『パシフィック・マンスリー』の販売業務を
切り盛りしている男だ! 彼はちょいとものを知っているぞ。
チャップマン――熟練した専門家を過大評価しているんじゃないかな。彼ら
は得てして口だけの人間であることが多いものだよ。以前、うちの工場にも一
人いたんだが、わたしの知るかぎり、赤字を出しているときにかぎって、会社
の景気はいいと思っているような男だった。
ミフリン――わたしが見るところ、世のなかで金儲けくらい簡単なことはな
い。まっとうな製品、一般の人が必要としているものを送り出せばいいのだ。
きみのところにはそれがあり、彼らにはそれが必要だということを宣伝してみ
ろ。彼らはその製品がほしくてたまらなくなり、正面玄関のドアをどんどんた
たいて壊してしまうだろう。しかしもしも偽物をわたしはじめたら、もしも正
面は総大理石仕上げだが裏手は煉瓦造りといったアパートみたいな本を売りは
じめたら、自分で自分の喉をかき切るというか、自分で自分のポケットを切り
落とすことになる。
メレディス――わたしはミフリンの言うことが正しいと思う。みんな、うち
の店がどんなところか知っているだろう。正面は板ガラスを張り、大理石の柱
が間接照明を受けて満月の夜の樺《かば》の木みたいに輝いている典型的な五
番街の店だ。うちでは毎日、くだらない本の売り上げが数百ドルにのぼる。そ
れというのもそうしたものへの要求があるからだが、でもね、本心をいえば不
本意ながら売っているんだ。うちの店では本を買う一般大衆を軽蔑して、いつ
もものを知らない木偶の坊などと呼んだりするんだが、しかし彼らは本当は良
書を求めているんだ――ところがかわいそうなことに、どうやってそれを手に
入れるのかが、わからない。でも、ジェリーのいうことにも一抹の真実がある
ことは認めるよ。ニュートンの「書籍蒐集の愉しみ」を売るほうが、そうだね、
ターザンを売るより十倍も満足感がある。しかし自分の個人的な趣味を客に押
しつけるのはよくない。せいぜいできることといったら、機を見て如才なく価
値のある本をほのめかすくらいなものだ。
クインシー――そういや、この前、うちの書籍部門でこんなことがあったよ。
今時の若い女《フラッパー》が一人やってきて、タイトルは忘れたけど、僧侶
《モンク》に育てられた若い男の本がほしいっていうんだ。途方に暮れたね。
「僧院と炉端」とか「修道院の鐘」とか「修道会の伝説」とか題名を挙げたん
だけど、相手はぽかんとしている。そうしたら売り子の女の子がふとわたした
ちの会話を耳にして、たちどころにその本をいい当ててしまった。もちろん、
「ターザン」さ。(註 ターザンは猿《モンキー》に育てられた)
ミフリン――馬鹿だなあ。マウグリとバンダー・ログを紹介するいい機会
だったのに。(註 「ジャングル・ブック」の登場人物)
クインシー――そうだな。うっかりしていたよ。
ミフリン――みんなが広告をどう思っているか聞かせてくれないか。この前、
ここに広告代理店の若者が来て、新聞に広告を出さないかというんだ。出した
らそれに見合う利益はあるのかい?
フリューリング――利益は必ず出るさ――だれかには。ただ一つの問題は、
広告の費用を出した人間に利益が出るかということだ。
メレディス――どういうことだ?
フリューリング――わたしは利他的な広告と呼んでいるんだが、そんな問題
を考えたことがあるかい? つまり自分よりもライバルにとって好都合な広告
ということだ。例をあげよう。六番街にちょっと値がはる、しゃれたデリカ
テッセンがあるんだ。照明でぴかぴかのショーウインドウに思いつくかぎりの
砂糖菓子やオードブルが並んでいる。そのショーウインドウを見たら、思わず
よだれが出てくる。なにか食べようという気になる。でもその店で食べるのか
というと、とんでもない! 通りをもうすこし先に行ったオートマットとかク
リスタル・ランチで食べるんだ。デリカテッセンの主人はあの見事な食べ物の
陳列に諸経費を払っているが、その恩恵にあずかっているのはほかの店という
ことだ。わたしの商売でもおなじことがいえる。わたしがいるところは工場地
帯で、そこの人々は最高の本しか買うことができない。メレディスが請合って
くれると思うが、くだらない本を買う余裕があるのは金持ちだけだよ。彼らは
新聞雑誌にのっている本の広告を読み、メレディスの店やほかの本屋の広告を
見て、それからうちにやってくる。広告は有効だと思うが、その費用は他人に
払わせるべきだ。
ミフリン――それじゃあ、わたしもメレディスの広告に便乗させてもらった
ほうがいいかな。そんなことは考えたこともなかったよ。しかしいつか新聞の
ひとつに小さなビラをはさんでみたい。ごく小さな案内状で
パルナッソスの家
良書の販売・買取
当店には幽霊がいます
と書くんだ。どんな反応が返ってくるか楽しみだ。
クインシー――百貨店の書籍部門はフリューリングのいう利他的広告の恩恵
にあずかることはないな。だって、室内装飾の専門家がルイ十八世風の寝室を
ひきたたせようと、しわ加工した布装のキップリングの海賊版か「内わに足物
語」を置くとするね。すると展示スペースの料金はうちの部門に請求されるん
だぜ! 今年の夏のことだけど、ポーチ用家具の展示にパンチのきいた仕上げ
がほしいと、彼から「名前は忘れたが、リングなんとかの本をなにかくれ」っ
て頼まれたんだ。たぶんワグナーの楽劇「ニーベルンゲンの指輪《リング》」
のことだろうと思って、本の山をひっくり返しはじめた。そうしたら彼がいっ
ていたのはリング・ラードナー(註 アメリカの短編作家)のことなのさ。
グラッドフィスト――そうらね。かねがねいっているが、本の販売は文学愛
好家にはむかない仕事さ。本屋が世界の幸福のためになにかまともな貢献をし
たことなどあるかね?
ミフリン――ジョンソン博士の父親は本屋だった。
グラッドフィスト――そうだ。それで息子のサムの教育費を払えなかった。
フリューリング――もう一つわたしが関心を抱いているべつのタイプの利他
的広告がある。コールズ・フィリップスが描いているある銘柄のシルク・ス
トッキングの絵を例に取ろう。もちろんその絵はすごい美人のストッキングが
強調されるように巧妙に描かれている。でも、かならず絵のなかにべつのもの
――自動車とか別荘とかモリス式安楽椅子とかパラソル――があって、そうし
たものがストッキングとおなじくらい効果的に宣伝されているんだ。ときどき
フィリップスは絵のなかに本を描き込んでいるんだが、そのおかげで五番街の
本の売り上げは得をしていると思う。絹の靴下が足首にぴったり合うように、
心にしっくりくる本はきっと売れるだろう。
ミフリン――きみたちはみんな野卑な物質主義者だ。いいかね、本は人間精
神の保管場所であり、この世でただ一つ朽ちることのないものなんだ。なん
だったかな、シェイクスピアがいったのは――
王侯の大理石の墓も 金箔を張った記念碑も
この力ある詩より長くは残らない
ホーエンツォレルン(註 ドイツ帝国の王家)の名にかけて、彼は正しい!
ちょっと待ってくれ! カーライルの『クロムウェル伝』になにか書いてあっ
たのを思い出したぞ。
彼は興奮して部屋を飛び出し、コーンパイプ友愛会のメンバーはたがいに顔
を見あわせて笑った。グラッドフィストはパイプから灰を落としてリンゴ
ジュースをかるくそそいだ。「いつものご高説がはじまったぞ」彼はくすくす
と笑った。「やつをいじめるのはおもしろくてたまらん」
「カーライルの『クロムウェル伝』といえば」フリューリングがいった。
「あまり注文されることのない本だね。でも先日それを探してうちに来た男が
いたよ。残念だが在庫がなかった。その手の本はつねにそろえておくというの
が自慢だったんだが。それでブレンターノ書店に電話して一冊手に入らないか
と訊いたんだ。するとむこうが持っていた唯一の本がちょうど売れたところだ
というじゃないか。だれかがトマスの売り上げをあおっているぞ! もしかし
たら『ターザン』に引用でも出てくるのかな。そうでなければだれかが映画化
権を買ったんだ」
ミフリンが部屋に入ってきたが、顔には困惑の表情があった。
「妙なんだよ」と彼はいった。「『クロムウェル伝』が棚にあったのは絶対
まちがいないんだ。だって昨日の晩そこにあるのを見たんだから。それがなく
なっているんだよ」
「そんなことか」クインシーがいった。「古本屋に来る連中は気に入った本
を見つけても、ちょっと持ち金がたりないなっていうときは、見えないところ
に隠したり、他人には見つからなくても、お金ができたとき引き出せるよう、
べつの棚に移したりするじゃないか。きみの『クロムウェル伝』もおなじ目に
あったんだと思うよ」
「そうかもしれないが、しかしどうかな」ミフリンがいった。「妻の話じゃ、
今晩あの本は売ってないらしい。起こして聞いたんだよ。彼女は机に座って編
み物をしながらうたた寝していた。旅行の帰りで疲れているんだろう」
「カーライルの引用が聞けなくて残念だ」ベンソンがいった。「だいたいど
ういう内容なんだい?」
「たしかノートに書き留めておいたはずだ」ロジャーはそういって棚を探し
た。「ああ、ここにあった」彼は読み上げた。
人間の著作は鳥糞石の山や、胸の悪くなるようなフクロウの糞尿の下に埋め
られようとも朽ち果てることはないし、朽ち果てることなどあり得ない。人間
とその人生のなかに見いだされる勇気ある行動、永遠の光はきめ細かく不変の
真実に書き加えられ、森羅万象の新たな神々しい一部分となっていつまでも残
るのである。
「ほら、諸君、本屋は真実を書き足す宇宙的加算機に欠かせない重要な存在
の一つなんだ。人間と本の交配を助けるのだからね。本屋が自分の天職に喜び
を感じるのにコールズ・フィリップスが描くところの色あざやかな足なんて必
要ないのさ」
「まったく、ロジャー」とグラッドフィストがいった。「きみの純真な情熱
はトム・デーリーお得意の小話を思い出させるよ。アイリッシュの牧師さんが
ウイスキーを飲んだくれる会衆を叱咤する話だ。彼はこういうんだ。『ウイス
キーはここに集まる信者にとって災いのもとである。ウイスキー、それがため
に人は考える力を奪われる。ウイスキー、それがためにあなたがたは地主にむ
かって銃を撃ち――狙いをそらしてしまうのだ!』まさにこれとおなじだよ、
ロジャー、その情熱のためにきみは真実にむかって銃をぶっ放すが、弾はあ
さってのほうに飛んでいく」
「ジェリー」ロジャーがいった。「きみはウパスの樹だ。きみの影には毒が
ある!」
「さて、みなさん」チャップマン氏がいった。「ミフリン夫人は持ち場をは
なれたがっていると思います。早めに散会しようじゃありませんか。みなさん
の会話はいつ聞いても愉しいですね。もっとも結論には少々納得できないこと
がままありますが。わたしの娘は本屋になる予定です。この商売にたいする彼
女の意見を聞く日が待ち遠しいですよ」
来客が店を通って出て行くとき、チャップマン氏はロジャーを脇に引き寄せ
た。「ティタニアを寄こしても問題はないんだね?」彼は訊いた。
「もちろんだよ」ロジャーがいった。「彼女はいつ来るつもりだい?」
「あしたじゃ急かな?」
「早いほどいい。彼女が使える小部屋が二階に一つ空いている。部屋の備え
つけについてはいくつか考えていることがある。明日の午後に来させたらい
い」
第三章 ティタニア到着
朝食後の最初の一服は年季の入った喫煙家にとっていささか重要な儀式であ
る。ロジャーは階段の下にたたずみ、パイプの火皿に火をいれた。強烈な青い
煙がもうもうと吹き出され、急いで階段をのぼる彼の背中で渦を巻いた。その
あいだ、彼の頭はもうすぐやってくる雇用人のために小さな空き部屋を準備す
るという楽しい仕事のことでいっぱいだった。そして階段をのぼりきったとき、
彼はパイプの火がすでに消えていることに気がついた。「パイプを詰めたりか
らにしたり、火をつけたりつけ直したりで、人生の大事な問題にあまり時間を
さけないような感じだな。考えてみると、人生というのはどのみち、たばこを
吸ったり、お皿を汚して洗ったり、人と話のやりとりをしたりして、その大半
が過ぎていく」
この考え方はなかなかおもしろいと思い、彼はまた一階におりていって、そ
のことをミフリン夫人に告げた。
「さっさと部屋の支度をしてしまいなさい」彼女はいった。「こんな朝早く
からおかしな説法はやめてちょうだい。朝ご飯が終わったら家庭の主婦は哲学
なんかやっている暇はないの」
ロジャーは新しい助手のために客室を準備するという仕事を存分に楽しんで
いた。それは裏に面した二階の小さな寝室で、ドアを開けると狭い通路があり、
その通路はべつのドアを隔てて店の回廊部分に繋がっていた。二つある小窓か
らは、そのあたりのブルックリンのつつましい屋根々々が見えた。その下には
おなじ数だけのたくましい人々と、乳母車と、まずいコーヒーをいれたカップ
と、チャップマン・プルーンの箱が隠れていた。
「ところで」彼は一階に呼びかけた。「今晩の夕食にプルーンを用意してお
いたほうがいいぞ。ミス・チャップマンに敬意を表して」
ミフリン夫人はユーモアたっぷりに黙っていた。
こうしたあたりさわりのない首脳会議のあいだ、ミフリン夫人が手ずから選
んでアイロンをかけた、ぱりっとした綿モスリンのカーテンをかけながら、店
主はその光る目でニューヨーク湾に浮かぶ巨大なフェリー、スタテン島と文明
をつなぐ船の姿をとらえていた。「眺めにほんのすこしロマンがあればいい」
と彼は思った。「世間ずれした若い娘に生きることの刺激を思い出させるには、
それで充分だろう」
ヘレン・ミフリンが采配をふるう家だから当然予想されるように、その部屋
はどんな住人でも受け入れられるよう万全の用意がととのえられていた。しか
しロジャーは間借り人となるべき迷える若者に(彼が考える)好ましい精神的
影響を与えることができるよう、みずから一工夫することをかって出たのだ。
救いがたい理想主義者である彼は家主として、かつチャップマン氏の令嬢の雇
い主として、責任を重く受け止めていた。いかなる部屋のあるオウム貝も、傷
つきやすい魂の館を広げるのに、これ以上望ましい機会に恵まれることはない
だろう。(註 人間の知性の成長をオウムガイに喩えたオリバー・ウエンデ
ル・ホームズの高名な詩から)
ベッドの脇には読書灯つきの本棚があった。ロジャーが考え込んでいた問題
は、このたった一人の会衆にたいして、どんな本と絵がもっとも優れた説教師
になるだろうかということだった。ミセス・ミフリンはひそかにおかしがって
いたのだが、彼は以前そこにかけていたサー・ガラハッド(註 アーサー王伝
説に出てくる高潔の騎士)の絵をはずしてしまっていた。その絵をかけた理由
は(彼がいうには)サー・ガラハッドがいま生きていたなら、本屋になっただ
ろうから、というものだった。「彼女が若いガラハッドにうつつをぬかすよう
では困るな」彼は朝食の席でそういった。「その先には早すぎる結婚が待ち受
けている。わたしがやりたいのは、彼女の部屋によく撮れた現実の男の写真を
一枚か二枚貼ることだ。全盛期には魅力にあふれ、彼女が目にしそうな若者な
ど、どれも生ぬるく欲の皮が張っているようにしか見えなくなる男だ。そうす
れば今どきの若者に愛想をつかし、本屋の仕事に本気で打ち込むようになるか
もしれない」
そこで彼は出版社の「宣伝担当」がいつもどさりと置いていく作者の写真と
肖像画を入れた蓋つきの大箱をひっくりかえして、しばらく時間を過ごしたの
だった。ひとしきり考えたあと、彼はよさそうに思えたハロルド・ベル・ライ
トとスティーブン・リーコックの銅版画を捨てて、シェリー、アンソニー・ト
ロロープ、ロバート・ルイス・スティーブンソン、そしてロバート・バーンズ
の写真を選んだ。それからさらに熟慮をかさね、シェリーもバーンズも若い女
性の部屋にはいまひとつむいてないと判断し、それらを除外してサミュエル・
バトラーの肖像画を採用することにした。このほかに彼がとても気に入って、
自分の机の前にかけていた額入りの記事をつけ加えた。以前、ライフ誌から切
り抜いたもので、彼はこれを読むとおおいに愉快な気持ちになった。それはこ
んな内容である。
友に貸したる
本のもどりきたりて
この本が友人の書棚と、そのまた友人の書棚という危地を乗り越え、思った
以上によい保存状態で手元にもどってきたことにたいし、わたしは謙虚に心か
らの感謝を捧げる。
友人がこの本を幼児のおもちゃにおあつらえむきだと思わなかったことにた
いし、あるいは火のついた葉巻の灰皿代わりや、マスチフ犬の輪形おしゃぶり
の代わりにしなかったことにたいし、わたしは謙虚に心からの感謝を捧げる。
この本を貸したとき、わたしはもうなくしたも同然だと思っていた。わたし
は長い別れのつらさを受け入れた。そのページを二度と目にすることはないと
思った。
しかしその本がもどってきたのだから、わたしは嬉しくて天にも昇る心持ち
だ! やわらかくなめしたモロッコ革を持ってきたまえ。製本しなおし、名誉
の棚に飾ってやろう。なぜならこの本は人に貸し出され、ふたたびもどってき
たのだから。
そういうわけだから、わたしが借りた本のうち何冊かはもうじき返してやっ
てもいいだろう。
「よしよし! これを読めば、書物にたいして守るべきいちばん大事な徳義
がわかるはずだ」
これらの飾りを壁にかけ、彼はベッド脇の書棚に置くべき本を考えた。
これはごくごく念をいれて検討すべき問題である。ある権威たちは、客室に
ふさわしい本は苦もなくたちどころに休息へといざなう催眠作用のある本だと
考える。この一派が勧めるのは「国富論」、「帝政下のローマ」、「萬国年
鑑」、ヘンリー・ジェイムズのある種の小説、そして「ヴィクトリア女王書
簡」(全三巻)である。このような本は(夜遅くには)一度に数分しか読むこ
とができず、それでいて有益な知識の断片を与える、というのが彼らのもっと
もらしい議論である。
別の一派が勧める就寝前の読み物は短編小説、短い逸話集など、さっと読め
て生きがよく、しばらくは目覚めた状態でいさせてくれるが、それだけに最後
にはいっそう心地よい眠りをもたらす作品だ。こちらの先生方は幽霊談や痛ま
しい話さえよかろうと言う。この手の読み物にはオー・ヘンリー、ブレット・
ハート、レナード・メリック、アンブローズ・ビアス、W・W・ジェイコブズ、
ドーデ、ド・モーパッサン、さらに場合によってはあの鉄道売店の嘆かわしい
古典、作者トマス・W・ジャックソン氏が「これは永遠に売れるし、永遠の千
年後にも売れるだろう」と語った「アーカンソー横断 普通列車の旅」すらふ
くまれる。さらにジャックソン氏が人間の知性に攻撃を加えたべつの一冊、
「おれの生まれはテキサス 人の指図は受けない」も加えていいだろう。この
本は(作者によると)「固ゆで卵みたいなもので、白身と黄身を攪拌しようっ
たって、そうはいかない」というものだそうだ。ジャックソン氏の本はほかに
もあって、タイトルは思い出せないが、「これらは悲しみを吹っ飛ばすダイナ
マイトだ」と彼は話している。ミフリンにとって客がこうした作品を求めてく
ることくらい腹立たしいことはなかった。彼の義兄で作家のアンドリュー・マ
ギルは以前(単なる嫌がらせから)業界で「鳩色ウーズ」と呼ばれているビ
ロード仕上げの革に金文字をあしらった麗々しい装丁の「アーカンソー横断
普通列車の旅」をクリスマスプレゼントとしてロジャーに贈ったことがある。
ロジャーは仕返しにロバート・コルテス・ホリデーが「浮き出し模様のついた
ヒキガエルの皮」と評する装丁の「偶像破壊主義者ブラン」二巻を(相手のつ
ぎの誕生日に)贈った。しかしこれは物語とは関係のない話だ。
ロジャーはミス・ティタニアの書棚になにを置こうかと考えながらたのしい
朝の時間を過ごした。何度かヘレンが、下におりて店番をしなさいと声をかけ
たが、彼は床に座ったまま足のしびれも忘れて、最後の間引きのために二階に
運びあげた本を眺めまわしていた。「たいへんな特権だよ」と彼はひとりごち
た。「若者の心を感化するというのは。妻は、たしかにすばらしい女性だが
――わたしが幸運にも彼女に出会ったとき、彼女はどこから見ても分別盛りの
年だった。心の成長を適切に監督するなど不可能だった。しかしチャップマン
の娘はまったく白紙の状態でうちに来るわけだ。父親の話だと、彼女は上流階
級の子女がつどう学校に行っていたらしい。それなら、やわらかい心のまきひ
げはきっとまだ芽生えていないだろう。ひとつ(彼女に気づかれないように)
ここに置く本を使って彼女をためしてみよう。そのどれに反応するかで、今後
の方針が立てられる。週に一度は店を閉めて文学について短い話をしてやるの
もいいかもしれない。たのしみだな! そう、『トム・ジョーンズ』を手はじ
めに、イギリス小説の発達に関するミニ講座とか――いや、これはだめだ!
しかし、わたしは教師になるのが夢だったし、これはそのいいきっかけにな
るかもしれない。隣近所に声をかけて週に一度こどもたちを集め、小さな学校
をはじめる。実際は『月曜閑談』をするってわけだ! わたしはブルックリン
のサント・ブーブと呼ばれるかもしれないぞ」
新聞記事の一節が彼の頭をよぎった――「この類いまれな文学の徒はその輝
かしい才能を古本屋の店主というつつましい外見の下に隠しているが、今や衆
目の認めるところ――」
「ロジャー!」ミセス・ミフリンが階下から呼びかけた。「お店に来てちょ
うだい! お客さんが『フォウミー・ストーリーズ』のバックナンバーがある
か知りたいんですって」
邪魔者を追い出してから、ロジャーはまた考え込んだ。「この選定は」と彼
は物思いに沈んだ。「もちろん、仮のものでしかない。予備試験的に彼女がど
んなものに関心を示すか、調べるためのものだ。まず選ぶべきは、彼女の名前
からして当然シェイクスピアとエリザベス朝の文人たちだ。すばらしい名前だ
な、ティタニア・チャップマンというのは。プルーンには偉大な徳が備わって
いるにちがいない! 一冊目はクリストファー・マーローにしよう。それから
キーツ。若い人はりんとした冬の月夜に『聖アグネス祭前夜』を読んで身震い
すべきだ。『ビマートン書店の二階で』も入れなければ。なにしろ本屋の話な
んだから。ユージーン・フィールドの『トリビューン初等読本』は彼女のユー
モアのセンスをためすのにいい。それからおなじ理由で『アーチー』はぜひ入
れなければ。下にいってアーチーのスクラップブックを取ってくるか」
ロジャーがニューヨーク・イブニング・サンのユーモア作家、ドン・マーキ
スの熱烈な崇拝者だったことを説明しておくべきだろう。マーキス氏はかつて
ブルックリンに住んでいたことがあり、店主は彼のことをウォルト・ホイット
マン以来、この街に栄誉をもたらしたもっとも傑出した作家であると、倦むこ
となく語った。アーチーは想像上のゴキブリで、彼を通してマーキス氏はきわ
めて良質な笑いを表現するのだが、ロジャーはこれをいつも心を躍らせながら
読み、アーチーの切り抜きはすべてスクラップブックに保存していた。いまロ
ジャーはこの分厚い本を、とりわけ大切な宝物を保管する机の横の穴から取り
出した。彼はそれにぱらぱらと目を通し、ミフリン夫人は彼が甲高い笑い声を
あげるのを聞いた。
「いったいそれはなんなの?」彼女は訊いた。
「なに、アーチーだよ」彼はそういって、朗読をはじめた。
都会の下にワイン貯蔵庫があり
老人ふたりが座って酒を飲んでいる
服は破れ 髪にも髭にもほこりが混じり
一人はコートを着ていたが 足は素足にひとしいありさま
頭の上を電車が走る
聖誕祭を祝うため 家路を急ぐしあわせな人々を乗せ
アディロンダックスの山中では猟師たちが鉄砲を撃ち
半島沖の海を大きな船が航海していた
小さな女の子がやってきて おじいちゃんにキスをねだった
まだ小さくてよちよち歩きもままならない
おじいちゃん キスして ナニーちゃんにキスして
でもおじいちゃんは彼女の頭にウイスキーの瓶を投げつけた
外では雪が舞いはじめ
遙か海上を水夫を乗せた船がゆく
天使のようなナニーはもう一言もしゃべらない
祖父は笑ってウイスキーの悪魔に乾杯した
もう一人の男が口を開いた 彼はやつれてぐったりしていた
涙が頬をつたっていた 涙のほかはただ青白い顔
あの子はエリー湖をわたって仕事に通う両親が大好きだった
兄貴 あの子をぶつのはすこし軽率だったんじゃないかい
しっかりおめかしして会いに来たんだ
母親の庭からクリスマス用の花を摘んで
ハドソン川の下のトンネルをくぐって
兄貴 血も涙もなくなったのはラム酒のせいかい