翌朝だった。野島は不意にさむけがし、頭痛がした。熱をはかって見たら三十八度九分あった。彼は床に入った。しかし元気は失わなかった。彼は寝床で西洋の本や画《え》を見ていた。大宮や武子は心配したが、彼の方が反って安心していた。医者にかかる必要もない、その内なおると云った。そして風邪《かぜ》薬をのんだ。午後二人は海に入りに行った。野島はうとうとねむった。その内ふと足音で目がさめる迄、三時間許りねこんだ。

大宮は一人で入って来て「どうだ」と云った。

「大へんいいようだ。もう寒気もとまったし、こうしていると頭痛もしない」と云った。

「杉子さんからお大事にとことづけがあったよ」

「そうか」野島は感謝したかった。

大宮は杉子のことはそれっきり云わなかった。そして野島の枕許《まくらもと》にある泰西美術史を見ていた。すると不意に、

「西洋にゆきたくなった」と大宮は云った。

「どうして」

「僕はレオナルドや、ミケルァンゼロや、レンブラントの本物が見たくなった。ベートオフェンの音楽もじかに知りたい。マーテルリンクや、ローマン・ロランにも逢って見たい」

野島は大宮が西洋にゆきたい気のあるのは前から知っていた。しかし大宮は三十二三になってからゆくと云っていた。

「それは僕も行って見たい。しかし今はやはり日本にいる方がいいと思う」

「君は日本にいなければ駄目だよ。杉子さんのことがあるから。僕は自由な内に行って来たい」

「君は三十二三になってからゆくと云っていたろう」

「僕はこの頃はすぐにもゆきたくなった」

「そんな話はちっとも聞かなかった」

「正直に云うと今、不意にゆきたくなったのだよ。この本を見ていたら」

「なんだ。僕はもっと根拠のある話かと思った。今君に行かれると僕は本当に淋しい」

「僕も今君とはなれるのはよくないとも思うがね。向うへゆけば、本や画を送るよ」

「本当にゆくのか」

「ああ、僕はもう決心した」

野島の腹の底の何処かではこのことをよろこんだ。彼は杉子が早川や、その他の人を尊敬していないことを感じだしていた。それと同時に彼にとっての大敵は実に親友の大宮だと云うことを感付かないわけにはゆかなかった。大宮は安心だが、杉子の方が、大宮にあまり感心してしまわれては困ると思った。しかしそう思うだけ、ことが露骨なので、とめなければわるいような気がした。又実際、今大宮にわかれるのは淋しくもあった。しかしどっちの気が強いか、ややもすると押えようとしても押えきれない気持はどっちか。それは寧《むし》ろ大宮の外国へゆくことをのぞむ心だった。そして行くのをやめたと云われるのが反って怖《おそ》ろしい気もした。外国へ行くと思っていて行かなくなるとがっかりしはしないかと云う不安さえ感じた。そしてその根性を自分でも醜く思った。之が自分の本音か、自分の友情か。野島はそう思うと自分が骨の髄迄利己主義のような気がした。しかし大宮は外国へ行けば行くで、何か獲物をしてくる男だ。大宮は何処へ行ってもまちがいのない、得るものをちゃんとうる男だ。ジョットーや、ミケルァンゼロや、レオナルドや、デュラー、レンブラントの本物を見る。又ドラクロア、ミレー、シャバンヌ、セザンヌなぞの本物を見る。それからよき芝居とよき音楽と、よき本を見る。自由な心で。彼はそう思うと其処に又一種の恐れを感じた。おおお[#「おおお」に傍点]、自分は何と云う見下げた男だ。

自分も真価の方でしっかりやらなければならない。杉子よ、自分を信じてくれ、自分にたよってくれ、この獅子に翼を与えてくれ。

野島はそんなことを考えた。

二十九

其処に武子は入って来て、

「御病気どう」と云った。

「ありがとう、もう随分よろしい」と野島は云った。

「熱をお計りになったら」

「ありがとう」彼は武子の親切をありがたく思った。病気で気がよわくなっているので、なお、之が杉子だったら自分は病気したことをどんなに感謝したろうと思ったが。

熱は八度二分位にさがっていた。

「何かお食べになりたいものなくって」

「ありがとう。別に」

「口がかわくでしょ。梨でもとりにやりましょうね」

「それがいいだろう」大宮は云った。

「ありがとう」

武子は出て行って、すぐかえって来た。

野島は杉子のことが聞きたかった。自分の病気を本気に見舞ったのか、ただ礼儀に見舞ったのか、少しは心配してくれたのか。少しも心配してくれなかったのか。しかし聞くことは出来なかった。

大宮は武子に、西洋に行こうかと思うことを話した。

「何処にいらっしゃるの」

「まあ伊太利《イタリー》から仏蘭西《フランス》だね」

「羨《うらや》ましいわ、いついらっしゃるの」

「この九月か、十月に」

「そんなに早く、本当?」

「本当だよ」

「杉子さん、随分……」武子はそう云いかけてあわててどもった。しかし之は野島には随分の打撃だった。しかし聞きちがえのような気もした。誰も、そのことを気がつかないような顔していた。

「妾も行きたいわ」

「行ったらいいだろう」

「妾、だめよ。お兄さんが行くと云うと叔母さん随分心配なさってよ」

「今の内ゆく方が反《かえ》っていいよ。もう六七年あとにゆくより」

「妾、音楽の才があれば西洋にゆきますがね。ただ見ただけではすまないわ。それにお母さんは承知なさらなくってよ。妾がわきに居るのはお嫌いでも、妾をもう何処かに嫁にやろうと思って心あたりをつけていらっしゃるのですもの。再《さ》来年位になったら、妾新婚旅行で外国にゆくかも知れないわ」

「そうすれば向うであうか」

「向うで逢えれば随分うれしいでしょうね。ルーブルにつれていって頂戴ね。それから芝居や、音楽会に」

野島は二人の会話を聞いている内に、へんにのけものになったような気がした。彼の家はやっと食うに困らない程度だった。大宮とはそう云う点では世界がちがっていた。しかしその点はまだよかった。二人はやはり自分にとって赤の他人だと云う気がした。武子だって自分をただ大宮の親友としていく分か厚意を持つだけで、大宮の方をどの位、信用したよっているかが露骨にわかった気がした。

杉子も。彼は淋しく、一人ぼっちのような気がして、早く母のもとに帰りたかった。彼は元気な時には母のそばにいるのを嫌った。ある齢《とし》がくると子供は親の手からはなれたくなる本能をもっていることをよく感じた。ところが人の家で病気をすると母が恋しかった。母なら本当に自分の事を心配してくれ、熱があると心配して手がすく度にやって来て、頭をひやしてくれたり、うるさい程容態を聞いたりしてくれる。其処に誠があらわれていて疑う余地がない。しかし母以外は今の自分にとって誰も他人だ。しかしそれは無理はない。

三十

その晩はうとうとしてふと、大勢の笑い声がしたと思って目をさますと、大宮の室にはお客が来ているらしかった。仲田の声が聞えた。又皆の笑い声が聞えた。その内に杉子の無邪気なというより、馬鹿気たと云いたい位に野島にはとれた、笑い声がまじっていた。見舞いに来たのか。そうじゃない。遊びに来たのだ。自分の病気なぞは杉子にとっては蚤《のみ》が喰った程にも思われないのだ。

彼は腹が立って来た。勝手にしろと思った。しかし淋しかった。孤独の感じが更に強くした。自分は杉子が病気だと聞くと本当に心配する。しかし杉子は自分の病気はまるで気にしないのだ。誰がなんと云っても、あの笑い声でわかる。そう思うと孤独な感じがした。

大宮も笑う、武子も笑う、仲田も笑う、杉子も笑うのはあたりまえだ。だが野島は杉子だけには笑ってもらいたくなかった。

杉子は自分のことを心配してくれて、皆にへんに思われることなんか平気になって、この室に来て、自分を看護してくれたら、自分はどんなに喜ぶだろう。極楽も之以上とは思えまい。そう思えば思う程、杉子の無頓着が、腹がたち淋しかった。

大宮が西洋にゆく。いい気味だ。自分はもう杉子のことなんか思ってやるものか。

自分は自分を偉大にする。自分は乞食《こじき》ではない。愛を嘆願はしない。自分を愛することも尊敬することも出来ないものに用はない。

しかし彼は淋しかった。そして枕|許《もと》の雑記帳に、

「杉子よ、杉子よ、俺の病気の時はどうか笑わないでくれ、たのむ。お前は親切な、人のいい女じゃないか。お前だけは笑うのはよしてくれ」

しかし杉子の笑いは、気にすれば気にする程、彼の耳にひびいた。

彼はまだ杉子の見舞いにくるのに望みをおいた。しかし来ないのがあたりまえだとも思った。そして杉子はとうとう来なかった。十一時がなるのを彼は聞いたが、仲田|兄妹《きょうだい》の帰ったのはそれから可なりあとだった。彼はおかげで自分の病気が重くなったと思った。

しかし翌日になると、すっかり熱がなく元気になっていた。起きると、少しふらつき、力はなかったが。そして午後皆が水泳にゆく時、彼も、大宮や武子にとめられたが、杉子の様子が見たいので出かけた。

杉子はもう来て居た。そして野島を見ると、微笑《ほほえ》みながら近づいて、親しく挨拶して、

「御病気はもうおよろしいの」と聞いた。

「ええ」

彼は他愛なく幸福を感じた。彼は砂の上に腰をおろした。杉子は海水服のまま、そのそばに腰をおろして、

「大宮さんが西洋にいらっしゃるって、本当」

「ええ」

「大宮さんがいらっしてはあなたお淋しいでしょう」

「ええ、大宮に行かれると、僕はもう話相手がなくなります」

「妾ではお話相手になれなくって」

「あなたなら、話相手になれます」

野島は幸福を感じた。

「妾《わたし》この頃だんだん神と云うものがあるような気がしてきましたわ」

「ありがとう」

「之からわからないことがあったら、色々教えて頂戴ね」

「僕に出来ることなら」

「あなたは大宮さんの先生でしょ」

「そんなことはありません」

「昨日大宮さんと武子さんはあなたのことを随分ほめていらっしてよ」

「僕はほめられる資格はありません」

彼は本当にそう思った。そして大宮たちに謝罪したい気がした。

三十一

彼は本当に幸福を感じた。自分が値しない幸福が彼に微笑みを見せて来た気がした。彼はすべての人を愛と感謝をもって見たく思った。自然はどうしてこう美しいのだろう。空、海、日光、水、砂、松、美しすぎる。そしてかもめ[#「かもめ」に傍点]の飛び方の如何《いか》にも楽しそうなことよ。そして人間にはどうしてこんなに深いよろこびが与えられているのだろう。まぶしいような。彼はそう思った。自分のわきに杉子がいる。そして自分を尊敬し、自分にたよろうとしている。自分に住む資格がないような幸福が自分をとりまいて、悲しみと淋しさに向って彼が自《おの》ずと用意していた甲冑《かつちゆう》がいつのまにか溶けている。しかし彼はまだ何となく運命を信じ切れず、不安を何処かに感じている。しかしうれしさがややもすると抑《おさ》えきれずあふれてくる。

彼は皆に感謝したかった。殊《こと》に神に。

「私は謹《つつし》みます。出来るだけのことをします。どうかたった一つのことは叶《かな》えて下さい。お願いですから。杉子を私のものにして下さい。杉子を私から奪わないで下さい。私はあなたの為に出来るだけ働きます。皆の幸福の為に働きます。あなたの意志に出来るだけ従います。ですから、私を憐《あわ》れんでこのあなたから与えられた限りない幸福を奪わないで下さい」

彼は杉子にいつまでも自分のわきに居てもらいたかった。しかし杉子が立ってゆく時が怖《こわ》すぎるので、早くいい時に立って行ってほしくも思った。あまり幸福すぎる時、彼は一種の恐れを持つ。人間にはまだあまりに幸福になりきれるだけの用意が出来ていないように彼には思えた。生れたものは死に、会うものは又別れる。そう云う思想は何時となく彼の心にも忍び込んでいる。

「幸福であれ」と彼は心に祈った。沈黙が一寸《ちよつと》つづいた。

「あなたは殆んど病気をなさいませんね」

「ええ、妾は随分丈夫よ。武子さんに笑われるのよ。あなたは楽天家だから病気をしないのですって。ですけど妾だって心配はありますわ」

「どんな」

「だって人間は誰だって死ぬものでしょ。運と云うものはわからないものでしょ。こうしている内に母が死なないとも限りませんわ」

「だけど大丈夫でしょう」

「大丈夫だと思わなければ、妾、とんで帰りますわ」

「あんまり心配しない方がいいのですよ。夜半《よわ》に嵐の吹かぬものかは、と云う歌がありますね。しかし私逹は六千べんか、七千べん夜を無事に通して来ていますからね。その方が反《かえ》って不思議な気がしますが。あんまり心配すると損しますよ」

「妾だって、そう本気に心配してはいませんわ」

「あなたは出来るだけ身体を大事になさらなければいけませんよ」

「ありがとう。あなたもね」

「ありがとう。僕は本当に身体を大事にします」

「大宮さんがおっしゃってよ。あなたは意志の強い方で、身体のよわいのを意志で十分とり戻しているって。しかし御無理なさらない方がおよろしいわ。大宮さんは又あなたのことを、どうしてあんないい奴が日本に生れたのだろうとおっしゃってよ。本当に大宮さんはいい方ね」

「ええ、ええ。あんないい人間はありません。僕は大宮を限りなく尊敬しています。あんなに友情にとんだ、人の心がよくわかり、思いやりのある男は他にありません」

「本当ね。妾、あんなに友情の厚い方を見たのは初めてよ」

三十二

彼はもう恐怖なしに嬉しかった。

「大宮が居なかったらどんなに淋しかったでしょう。僕は大宮に慰められて勇気をとり戻すことが出来たことが何度あるかわかりません」

「本当にあなた方はいいお友達ね。それでこそ本当のお友達だといつも武子さんと話しておりますの」

其処へ仲田が来た。

「病気だったって、もういいのかい」

「ああ、もうすっかりいい」

「昨日大宮君や武子さんが心配していたっけ」

「そうかい。もういいのだ」

「早くなおってよかったね」

「ありがとう」

「僕は近い内東京に帰ることにした」

「どうして」

「もうそろそろ涼しくなったし、ここにいると五月蠅《うるさ》くって勉強出来ないからね」

「勉強するのか」

「勉強するよ。僕も、この頃勉強する気が猛烈に出て来た」

「それは感心だね」

「感心だろう。之からの世の中は何といったって勉強の世の中だからね」

「それはそうだ」

「おちついて勉強したくなった。大宮君も西洋へ行って、うんと勉強すると云っていた。大宮君が西洋へ行って勉強してくれば本当に鬼に金棒《かなぼう》だね」

「ああ」

「世界的な仕事をするだろう」

「それはするだろう」

「僕も大宮君の話をきいていると、勉強しなければ譃《うそ》だと云う気が本当にしたよ。勉強するのは今のうちだと思った。思想をちゃんとしておかなければ、之からの世界は駄目だからね」

「それはそうだ」

「僕も大いにやる。君も大いにやり給え」

「やるよ。僕も負けてはいない」

「大宮君は実に君を信じているね。大宮君や武子さんの話をきいていると君を見上げたくなってくるよ。君はいい友達をもっていると思うよ」

其処に大宮と武子が来た。

四人で話している内に不意に、「明日一緒に東京に帰ろう」と云うことにきまった。

大宮は西洋へゆく用意にとりかかると云った。

「何年いっていらっしゃるの」と杉子は聞いた。

「三四年、もっといった工合でいるかも知れません」

「もっと早くお帰りになるかも知れないのでしょ」

「それははっきりしたことはわかりません」

「妾《わたし》もゆきたいわ。何でもよろしいから、あちらにいらっしたら、何か送って頂戴ね」杉子は甘えるように云った。

「僕は無精《ぶしよう》ですから御約束は出来ません」

「それでも野島さんには何でもお送りになるでしょ」

「野島は別です」

「武子さんには」

「武子の母にたのまれれば」

「妾がおたのみしたのでは駄目」

「駄目です。しかし何かほしいものがあったら野島におたのみなさい」

杉子はそれには答えないで黙ってしまった。

野島は大宮の頑固なのにおどろいた。自分が大宮の位置にいてもああきっぱりは云えないと思った。譃がつけない点ではお互にまけないまでも、野島の方が頑固のこともあるが、道徳的潔癖では大宮には敵《かな》わないと思った。

三十三

帰りの汽車は楽しいものだった。野島は久しぶりに東京へ帰るのは嬉しかった。夏の夕方の東京を野島は好きだった。殊に本屋へ行って本をさがすのが好きだった。又久しぶりに自家《うち》の人に逢うのも自家に帰るのも嬉しかった。しかし汽車がいつまでも、いつまでも東京につかなければいいと思った。このまま極楽まで行ってもいいと思った。

其処《そこ》には杉子がいる。機嫌よくしている。野島にもよく話しかける。梨をむいてくれる。身体のことを気にしてくれる。笑い顔を見せてくれる。親しさが目に見えて進んで来たように見えた。あたりの人は楽しそうな五人を見る。羨ましがるものも、不快に思うものも、一緒に笑いにつり込まれるものもある。

野島にはそれは気にならない。彼は汽車がいつもより性急なのを感じる許《ばか》りだ。

いつのまにか横浜についた。

「早いね」

「早い」大宮は少し冷かすように云った。

横浜を出るとなお汽車は早かった。東京駅で別れをつげて、四人は俥《くるま》にのった。野島だけは電車に乗ろうとした。しかし電車は中々来なかった。身体は少し大儀だったが、歩きたい気もした。それで電車道を通って日比谷の方に歩いた。朝の十一時頃で、日は可なり強く照りつけ、あたりは日光を反射したが、彼は久しぶりに東京の土をふむのは嬉しかった。帰ると母がさぞよろこぶだろうと思った。しかし彼はそんなことより、杉子のことを考えていた。杉子のめきめきと親切になったことを考えた。

杉子の口からもれた一こと一ことを思い出しかみしめた。其処に自分にたいする親しさと厚意が味わえた。彼は嬉しく思わないわけにはゆかなかった。

三十四

その後大宮は外国にゆくのに忙しかった。

九月の末にはたつことにきまった。その日野島は横浜まで送ることにした。東京駅に大宮を送る人は五六十人来ていた。武子の父も母も来て居た。武子は大宮の母について横浜迄ゆくことになっていた。雑誌記者や、文士も見えていた。新聞記者も来て大宮と何か話していた。しかし野島はそれ等の人のことは気にならなかった。彼の気になったのは勿論同じく送りに来ていた杉子だった。杉子にしてはいつもより厚く化粧していて、いつもより美しくは見えたが、無邪気には見えなかった。そして誰とも話をせずに一人淋しく立っていた。つつましく、だが何か考えているように。少し痩《や》せたのではないかと思った。

武子がそれに気がついて近づくとさすがに笑って見せた。大宮は野島に近づいた。

「僕は君の幸福を祈っているよ」大宮はそういきなり云った。彼は泣きたいような気がした。大宮も涙ぐんでいるように見えた。

「ありがとう。君は身体を大事にしてくれないといけないよ」

「ありがとう。僕が向うへ行っている内に二人で来給え。旅費位、どうでもするよ」

「そういけば」

野島はそのさきは云えなかった。其処へ大宮の母が来て、野島に挨拶して、

「何とかさんがお見えになったから、挨拶しておいで」と大宮に云った。

「一寸失敬する」

「どうぞ」

切符を切る様になったので、皆、我勝ちに入った。

野島の一生忘れることの出来なかったのは杉子のこの日の態度と目だった。杉子は誰にも気がつかれない処に立って、気がつかれないように、一つのものを見つめていた。

それは大宮を見つめているのだった。野島は杉子の心がすっかりわかったように思った。

三十五

ここで自分は少し筆をはしょる。野島は杉子が大宮を恋していることを瞬間的に直覚した。汽車は動き出して皆万歳を云って、手をふったり、帽をふったりした。杉子も人々のかげで謹み深くはんけち[#「はんけち」に傍点]をふっていた。彼女の姿は人々の動くので見えたり、見えなかったりした。しかしその目は汽車の窓から首を出して皆に返礼している大宮にそそがれていた。野島は大宮の目をぬすみ見た。しかし大宮は杉子を時々見るようでもあり、見ないようでもあった。野島は大宮が立ったあとでも、仲田の処に時々出かけて、杉子に逢った。杉子の態度は別にかわらなかった。大宮の話も時には出たが、別に野島には気にならなかった。ピンポンもした。トランプもした。しかし前程のり気になれなかった。野島は段々おちつかなかった。彼はいつ何時、杉子が人妻になるかわからない気がした。彼はとうとう一年後に間に人をたてて杉子の家に結婚の申込みをした。だが体裁よく断られた。彼はそれでもあきらめられなかった。それで仲田に、「杉子さんの本当の意志を知らせてほしい」と手紙をかいた。仲田からは「当人も今結婚する意志はまるでない」と云って来た。彼はそれから仲田の家には行くことが出来なくなった。彼は段々仲田の手紙だけでおちつけなくなった。仲田は如才ない男だ。当人の本当の意志でないことも当人の意志のように書き兼ねない男だ。本当に杉子さんの意志を知らない内は思い切りたくも思い切れないと思った。

彼は其処で思い切って杉子に手紙をかいた。

「私は貴女なくして此世に生きることの淋しさをあまり強く味わされております。私はそれに耐え兼ねて失礼も顧みず手紙をかきます。私の心は貴女は既に御存知と思います。私は何にも申しません。唯々お願いします。貴女の本当の意志を御知らせ下さい。私は何年でもお待ちします。少しは望みがあるのですか。少しも望みはないのですか。何もかも正直に云って下さい。私はこわいのです。しかし貴女の言葉をきかない内は、少しもおちつきません。少しでも希望のある言葉を私は望んでおります。私は知らぬ神に祈ります。泣いて祈ります。少しでも希望がありますように。ですが本当のことを知らして下さい。私も男です。本当のことを知れば、あきらめなければならない時はあきらめます。そんな時のこないことを祈っておりますが、どうぞ御返事下さい。私は貴女からの宣告を恐る恐る希望に燃えながら待っております」

杉子はそれに簡単に答えた。

「御手紙拝見いたしました。あなたのような尊敬すべき方にか程云って戴くことは勿体なく思います。しかし父や兄のお答え申した通りより私も御返事が出来ませぬ。どうぞあしからず。心であやまっております」

野島はこの冷たい手紙を繰り返しよんだ。そして絶望だと云うことを本当に感じた。彼はすっかり参ってむせび泣いた。その二三日後に彼はベートオフェンの肖像に次のベートオフェンの言葉の原文を乱暴にかいて柱に鋲《びよう》でとめた。

「お前は人間ではない。自分の為に生きる人間ではない。ただ他人の為にのみ。お前には自分自身の内、芸術より他に幸福はない。神よ、私に克つ力を私に与えて下さい。私を人生に結びつけるものは何にもありません。Aとこうなってはすべてが失われました」ただAのかわりにSがつかわれていた。

彼はこのことを巴里《パリ》にいる大宮には勿論報告した。大宮からは時々たよりがあったり、本や画《え》の類を送って来たが、その頃からばったり杉子のことはかいて来なくなった。彼はそれを自分の傷にふれない為ととった。

それから一年程たって、既に結婚した武子が夫と西洋へゆく時不意に杉子も一緒に洋行することを野島は聞いた。

野島はそれを本当にはしなかった。彼は文壇からは少しずつ認められて来、彼の芝居も二つ三つ演じられた。元よりそれは一般の注意をひく力はなかったが、一部からは大いに期待され、恐れられもした。しかし野島はそれで満足は出来なかった。彼はただ淋しかった。そして杉子のことが忘られなかった。

一度彼は往来で杉子に出逢った。まばゆいように美しくなったと彼は思った。杉子は彼に気がついた。そして謝罪するように彼に辞儀をした。彼も丁寧に罪人のようにお辞儀をした。一こともまじえなかった。彼はもう心を失った人のように立ちどまって、彼女の方をふり向いた。彼女はふり向かずに一番近い四つ角を右の方へ曲って行った。彼は杉子がお辞儀してくれたことが、嬉しかった。そして感謝した。しかし同時に失ってはならないものを失ったことに気がつかないわけにはゆかなかった。自分は実に全世界を失ったのだと云う気がした。彼は丸善へ行こうと思って出たのだがすぐやめて家に帰って、泣いた。そして大宮から送ってくれたベートオフェンのマスクに顔をあてた。それはベートオフェンの肖像を柱に鋲でとめたことを知らした時、少しおくれて大宮から送って来たので、彼は大宮の友情に感謝して涙ぐんだ。その時の彼にこれ程ありがたい贈りものはないと思えたので。彼は持つべきものは友だと思った。杉子の洋行は事実だった。彼はあることを感じはしたが、それはうち消していた。彼はまるで誰とも逢わず、散歩と読書とものをかくのと泣くのとで日を送っていた。

杉子がたって三四ケ月たった時、彼は大宮からへんな手紙をうけとった。それはミケルァンゼロのピエターのエハガキの裏全面に英語でかかれていた。大宮は仏語と英語が出来た。野島は独逸語《ドイツ》と英語が出来た。それで英語でかかれていた。

「尊敬すべき、大なる友よ。自分は君に謝罪しなければならない。すべては某同人雑誌に出した小説(?)を見てくれればわかる。よんでくれとは云えない。自分の告白だ。それで僕逹を裁《さば》いてくれ」

この僕逹と云う言葉が野島にはへんに気になった。某同人雑誌は大宮を尊敬する人々によって出されている雑誌で野島もその寄贈をうけている。彼はその雑誌をうけとると、すぐ大宮のものをひらいた。そしておどろいた。目まいがした。それには次のようなことがかかれていた。

下 篇

一

大宮さん、怒らないで下さい。私が手紙をかくのには随分勇気がいりました。私は何度かきかけてあなたを不愉快におさせしてはすまないと思ってやめたかわかりません。あなたに怒られ、手紙をよこしては困ると、おっしゃられては私は立つ瀬がありません。私はあなたに軽蔑され愛想をつかされることも恐れておりました。ですがもう私はそんなことを心配していられなくなりました。一生のことです。一生のことよりもっと以上のことかも知れません。ともかく手紙をかきます。怒られても、愛想つかされても、この気持でいるよりはましと思います。

先日武子さまに三越でお目にかかりました。夫の方も御一緒でした。武子さまは実際お美しくおなりでした。夫の方も立派な方でお似合の御夫婦と思いました。その時、私の方では遠慮しておりましたが、御丁寧に挨拶して戴き、その上夫の方に引きあわして戴き、そして御主人の役所にゆかれる留守に退屈だから来てくれとのお話で、私も大喜びで一昨日参上いたしました。そしてあたなのお話も伺い、最近のお写真も拝見いたしました。ハイカラにおなりになったと二人で笑いました。しかしちっとも軽薄の感じのしないのが不思議だと申しました。私は其時、武子さまに大宮さんにおねだりしたいものがあるのですが、いいでしょうかと申しました。それはいいでしょ、いくらでもおねだりになるといいわとおっしゃって下さいました。そしてお処も伺ったのでした。武子さまも、この十一月にはお二人で巴里にいらっしゃるようなお話でした。どんなに羨ましかったか知れません。巴里は私は是非一度はゆきたいと思っておりますの。ゆけそうもありませんが、一番好きな都です。日本は別として。

私はおねだりしたいものは実は何にも御座いません。いや、あり過ぎるので御座います。が今日は御遠慮しておきます。あなたの御機嫌を伺って見て、御機嫌によって段々お願いしたいと思っておりますが、あなたはきっと頭から御断りになると思いますので。

野島さまはこの頃ちっともお見えになりません。こないだ帝劇の廊下で一寸お目にかかりましたが、すぐ気がつかないようにお逃げになりました。くわしいことは野島さまからお話があったことと思いますが、私はおどろきました。私は野島さまを二番目に尊敬しております。いい方だと思います。私には勿体ない方とも思われないことは御座いません。あなたはきっとそうお思いになると思います。ですが、私は野島さまの妻には死んでもならないつもりでおります。このことをあなたに申しておきます。両親が反対したからではありません。兄は少し勧めてもくれました。ですが私は、どうしても野島さまのわきには、一時間以上は居たくないのです。なぜだか自分にはわかりません。自分では説明もつきますが、それは要するのに私の神経の話で、かく程のこととは思いません。

野島さまは私がいなくっても、なお立派になれる方と思います。この頃おかきになるものには凄《すご》い程、強い感じが出て来たように思います。ですが私はあなたのものの方がどの位好きで御座いましょう。あなたのおかきになるものは一言一句拝見いたします。あなたについてかかれたものもすべて拝見いたしております。私はあなたの一番いい読者になりたいと思っております。

あなたを尊敬している方は沢山御座いましょう。ですが他の方にはわからない所もちゃんと私にはわかっておりますつもりです。

さもないと口惜《くや》しいので、そう思っております。毎日々々、あなたの御健康と、御幸福を祈っております。どうかお許し下さい。どんな短い御返事でも下さればとび上がります。

二

御手紙拝見しました。正直に云うと、あなたの手紙を受けとらなかったことを僕は望んでいます。受けとっても御返事を出さない方がいいのかとも思います。ですが野島のことを、も一ぺん考えて戴きたいことを申します。

あなたはまだ野島のいい所を本当には御存知ないのです。野島の見かけ許りにまだひっかかっていらっしゃるように見えます。野島の魂を見てほしく思います。野島を友だからほめるのではありません。野島は実際、ほめていい僅《わず》かの人間の一人です。そんな男に恋されたことはあなたの名誉です。その名誉にあなたが値しないとは申しません。僕はあなたを野島をはなして考えるわけにはゆきません。僕は野島の妻になる人としてあなたを尊敬して来ました。

あなたは野島を二番目に尊敬すると云いました。一番目が西洋人なら今の所仕方がありません。しかしその人が日本人だったら、あなたは野島を本当には知らないのです。正直に云います。あなたはあの言葉で、僕を尊敬していることをほのめかそうとしたのでしょう。僕は野島より以上の人間ではありません。野島は僕の方が尊敬するのが至当の人間です。あなたは厚意をもって野島をもう一度見て下さい。

野島をどうか愛してやって下さい。愛される価値のある男です。人づきのわるい無愛想で、怒りっぽい。しかし人のいいことは無類です。もう一度見なおして下さい。僕を信ずるならば、野島を愛して下さい。必ずいろいろのいい所を発見されると思います。僕は嘆願します、野島を愛して下さい。

三

御手紙を拝見いたしましたが、それ許りは出来ません。私も負けずに正直に申します。あなたが此世にいらっしゃらなかったら、あなたにお目にかからなかったら、私は寧ろ早川さんの妻になっていたでしょう。私はその時でも野島さまの妻になるとは思いません。私が野島さまを愛することが出来ないのは罪でしょうか。そんなことがあるわけはないと思います。野島さまが私を愛して下さったことを私は正直に申しますと、ありがた迷惑に思っております。お気の毒な気もします。しかし私のようなものをそう本気で愛して下さるのは不思議な気もします。ともかく私はどんなことがあっても野島さまを尊敬しますが、愛するわけにはゆきません。それはいいことかわるいことか、わかりませんが、私には絶対な事実です。私の力ではどうすることも出来ません。あなたのおたのみでもこのことはきくわけに参りません。

私は何もかも申します。そして私の一生をきめてしまいたく思います。それは恐ろしすぎることです。しかし黙って運命に任せるわけにはゆきません。私は死力を尽して運命と戦います。戦うと云うよりは運命を開こうと思います。私は静かに門のそとに立って戸の自ずとあくのを待ちたくも思いました。しかし今はその戸をたたけるだけたたきたいと思います。私の真心が通じなければ仕方がありません。ともかく私は一生の勇気をふるって戸をたたきます。

大宮さま、私を一個の独立した人間、女として見て下さい。野島さまのことは忘れて下さい。私は私です。仮りに野島さまのことを忘れて私のことをお考えになったことを、どうかくわしくかいて下さい。正直に何もかもかいて下さい。そうすれば私はあきらめなければならない時はあきらめます。

私の写真をお目にかけます。私の云いたいことはすっかりおわかりと思います。

四

あなたの云おうとすることはわかり切ってしまいました。僕はそれを恐れていたのです。僕は正直に云います。僕はあなたが僕に厚意を持ち出したことを感じたので、僕がいてはいけないと思って、日本を去ることにしたのです。僕さえいなくなればあなたは当然、野島を愛して下さると思ったのです。そして結婚さえしてしまえば、僕にあなたが冷淡になるのはわかり切ったことです。僕はそれをのぞんでいました。尤《もつと》も僕のここに来たく思っていたのは昔からです。そして今は来てよかったと思っていました。野島のこともあなたのことも殆んど忘れて、毎日画を見たり、音楽をきいたり、芝居を見たり、本をあさったり、散歩したり、建築を見たり、何かかいたりしています。ここへ来てからいろいろのことを考えます。私達は恋になんか酔っている暇がないように思います。したいこと、しなければならないことが多すぎます。日本は貧弱すぎます。私達は出来るだけの力をもって、日本の文明を高め、思想を高め、世界的の仕事をどんどんしてゆくようにしなければ、日本人は世界的存在の価値を失います。今は大へんな時です。私達がふるい立たなければならない時です。あなたも、野島も。せめてあなたは、野島に親切にしてやって下さい。野島は淋しそうです。本当にうちくだかれて参っています。尤《もつと》も野島は今に起き上るでしょう。しかし淋しさは野島につきまとうでしょう。僕は今野島の脚本を一つ訳して西洋人に見せつけてやろうかと思っています。僕はあなたを憎んではしません。しかし野島にそう冷淡なのをきくといやな気がします。早川の妻になったでしょうはよくありません。あなたにはまだ本当の男の価値を見ぬく力はありません。あなたは野島を愛することが出来ないと云っています。しかしそれは譃《うそ》です。野島のいい所にふれたら、あなたは厚意をもたないわけにはゆきません。一ぺん厚意をもてばそれが愛にかわらないとは限りません。あなたは僕をも本当に知らない。あなたは僕を理想化している。僕の処に来たと仮定しても、それはあなたにとって幸福ではない。僕はいつか、野島には征服される人間です。こう云うのは残念ですが、正直にそう申します。

五

御手紙拝見しました。あなたは譃つきです。本当に譃つきよ。私はちゃんと知っております。何もかも知っております。私はあなたがいないことは考えられません。そしてあなたこそ本当に私を愛していて下さるのです。あなたは私を嫌い、私に冷淡を装っていらっしゃる。しかし私のいい性質をそのままに認めていて下さるのはあなた許りです。野島さま、野島さまのことをかくのはいやですが、野島さまは私と云うものをそっちのけにして勝手に私を人間ばなれしたものに築きあげて、そして勝手にそれを讃美していらっしゃるのです。ですから万一一緒になったら、私がただの女なのにお驚きになるでしょう。あのお方は意志の強い方です。おかきになるものは、あなたのものより世間を征服なさるでしょう。しかしその時でも、あなたは一方に平気で輝いていらっしゃいます。あなたは何もかも御存知のくせして、無理にも友情をふるい起してその他のものをはらいのけようとなさっていらっしゃいます。野島さまは私があなたの処に参ればなお偉くなる方です。そして決して参り切りにはおなりになりません。私は女です。私にはあなたのお役に立つことより他に望みはないのです。私はあなたのわきにいて、あなたを通じて世界の為に働きたい、人生の為に働きたい、私のこの願いをどうか、友情と云う石で、たたきつぶさないで下さい、野島さまには出来るだけ親切にもいたしますし、尊敬もいたします。ですがそれ以上のことは出来ないことを、罪だと思いません。

六

あなたからの御返事をおまちしておりますが、まだ参りません。私は心配になります。怒っていらっしゃるのですか、憐れと思って御返事下さい。私はパリに行きとう御座います。一目あなたにお目にかかりたい。そうすれば死んでもいいと思います。武子さまはこのくれにおたちになります。羨《うらや》ましく思います。御返事を、御返事をお待ちしております。

七

僕は何と返事していいかわかりません。僕は迷っています。野島に相談したい。だが相談する勇気はない。野島はあまり気の毒です。偉くはなってくれるでしょう。日本の、いや、人類の誇りになってくれるでしょう。だがその時、僕逹はどんな役をするでしょう。しかしそんなことは問題にならない。しかし僕は親友の恋している女を横取りには出来ません。それは友を売ることです。あの尊敬すべき、そして僕を信じ、たよっている友を。あなたはなぜ僕をそんなに愛してくれたのでしょう。僕が野島にたいする遠慮から、僕があなたにこびず、冷淡にしていた態度をあなたが買いかぶったのではないでしょうか。僕は野島のことがなければ野島よりもなおあなたに媚《こ》びたかも知れない。私はこの手紙を出そうか、出すまいか、考えた。出さない方が本当と思う。だが出す。野島よ、許してくれ。

八

あなたの御手紙はどんなに私をよころばしましたろう。ありがとう、ありがとう。私は今天国におります。あなたがこの世にいらっしゃる。私は本当に感謝いたします。私程の仕合せ者は世界中にありません。その内長い手紙をかきます。今はうれしくって何にもかけません。

大宮さま、私程仕合せ者はないとしみじみ思います。よくあなたのような方がこの世に生きていて下さいました。そしてお目にかかることが出来、そしてお話することが出来、そして私に厚意を持って下さる。私は本当に、仕合せものです。あなたのおかきになるものを拝見した時から、私はあなたを他人とは思っておりませんでした。そしていつか芝居で野島さまと一緒にいらっしゃる所を拝見してから、私はあなたのような方がこの世にいらっしゃることを本当にうれしくたのもしく思いました。私はその時まだ十四で野島さまとも御話したことはありませんでしたが、あなたの男らしい立派な御容子をその後忘れることは出来ませんでした。私はそのことを恥じました。そしてそのことをいつのまにか忘れることを望んでいました。実際又忘れていました。その後往来で一度お目にかかる迄。あれは武子さまの処へ上って二人でお友達の処に参る時でした。あなたのおうちの前を偶然通って少し参りますと、あなたは大きな本のつつみを重そうに持って急ぎ足で帰っていらっしゃいました。あっと思った時、あなたは微笑みながら挨拶なさったので、私はどの位びっくりいたしましたろう。私も赤い顔してあわてて御挨拶しようと思いました時に、あなたが武子さまに御挨拶なさったのだと云うことがわかりまして、気まりの悪いような、がっかりしたような気がいたしました。妬《ねた》ましいような気さえいたしました。そして武子さまからあなたと従兄妹《いとこ》だとお聞きした時、羨ましい気がいたしました。あなたは武子さまと何か話していらっしゃいました。いい画の本を買ったのだとよろこんでいらっしゃいました。武子さまはその内、拝見に上ってよとおっしゃいました。私は余程、武子さまにおねがいして画の本を拝見さして戴きたいと申しかけましたがやめました。私はここでもう一つ白状いたします。それは私はあなたのお家の前を通った時、お家の立派なのにおどろいたことです。しかし私を虚栄心の強い女とは思わないで下さい。野島さまがあなたの位置に居、あなたが野島さまの位置にいらっしても私はあなたを愛しないわけには参りません。私はあなたにだけは何んでも申し上げることが出来るように思います。世の中では女に生れても、本当の女のよろこびを味わうことが出来ない人が多いように思います。むしろ本当のよろこびを知った人は甚《はなは》だ少ないと思います。私もあなたに逢い、あなたとお話し、あなたと一緒に遊んだり笑ったりするまではこの世にこんなよろこびがあり、人間がこんなにまでよろこべるものかと云うことを知りませんでした。知らない内はよろしい。しかし一度知った以上は、それを失っては生きてはゆけないような気がします。いつかあなたとトランプをした時、いつかあなたと海岸で二人で散歩した時――あなたが外国にゆくことをおきめになった日――その晩またお邪魔に上った時、私はうれしくってうれしくって、どうしていいかわかりません。神に感謝しないわけには参りませんでした。人間に生れてよかった。女に生れてよかった。あなたに逢えてよかった。勿体なさすぎる程自分は運がいいと思いました。なぜか私はあなたの外国行をあの時、本当にはしておりませんでした。私の力でもおとめして見せると思っておりました。あなたが私に冷淡になさろうと努力なさる度に、反って私はあなたが私を愛していて下さることを信じることが出来ました。ピンポンの会の時も、私はそれを感じて、負けてもうれしかったのです。あなたの義侠心と男らしさと、女に媚びるものに対する怒りと、其処に又私をひそかにいたわって下さった御心づかいとを私はちゃんと感じておりました。私は野島さまのことはまるで無頓着でおりましたから気がつきませんでしたが、あなたの御心だけはちゃんと見ぬいておりました。ところがやはり西洋にいらっしゃる、私は本当にびっくりしました。心配になって来ました。しかし私は東京駅へお見送りをした時にあなたの御心を又見ぬいたと思いました。しかし私には一つ腑《ふ》に落ちないことが御座いました。なぜあなたがそんなに迄、私に冷淡を装い、外国にいらっしたか、それがわかりませんでした。野島さまから求婚して下さってから、やっと合点がゆきました。それで私は反って安心もいたしました。

今になってあなたが野島さまのことをいろいろおほめになった理由が、すっかりわかります。あなたが外国へいらしったことの表と裏の理由もわかります。

今でもあなたは野島さまのことを心配していらっしゃる。野島さまへの義理をかかない為に、私を捨ててもいいように思っていらっしゃる。私はあなたの義理の固いのを尊敬いたしますが、もっと私のこともお考え下さい。さもないと私が可哀そうです。野島さまはきっと私を失っても、もっと適当な方におあいになるにちがいありません。その証拠には私を私のままにはお愛しになれないのでもわかります。第一、私の心に野島さまの愛が少しもひびかないのでわかります。大宮さま、あなたは私をおすてになってはいけません。私はあなたの処に帰るのが本当なのです。大宮さま、あなたは私をとるのが一番自然です。友への義理より、自然への義理の方がいいことは「それから」の大助も云っているではありませんか。どうぞ、私をすてないで下さい。私はあなたのものです、あなたのものです。私の一生も、名誉も、幸福も、誇りも、皆、あなたのものです、あなたのものです。あなたのものになって初めて私は私になるのです。あなたを失ったら私はもう私ではありません。それはあまりに可哀そうな私です。私はただあなたのわきにいて、御仕事を助け、あなたの子供を生む為に(こんな言葉をかくことをお許し下さい)ばかりこの世に生きている女です。そしてそのことを私はどんな女権拡張者の前にも恥じません。「あなた達は女になれなかった。だから男のように生きていらっしゃい。私は女になれました。ですから私は女になりました」そう申して笑いたく思います。二人で生きられるものは仕合せ者です。ね、そうではありませんか。大宮さま。

九

友情 · 第 2 / 3 段