彼女は揺るぎない信念を持った教会の支持者で、機会さえ許していたら、目の不自由な人の家を回って聖書を読み聞かせたり、教区牧師の活動を補助する世話人になっていただろう。しかしベルヴュー・ロッジの切り盛りで彼女の人生は手一杯、教区の仕事などやっている暇はなく、それゆえドルカス会の会合だけが規則正しく参加のできる唯一の博愛行為だったのである。しかしこの義務の遂行に当たってまさしく彼女は規則正しさの化身であった。風も雨も、雪も熱波も、病気も娯楽も彼女を止めることはできず、彼女は毎週土曜日の午後三時から五時まで、必ず国民学校にその姿をあらわした。
ドルカス会がこの小柄な老婦人の義務だとしたら、それは同時に楽しみでもあった――数少ない彼女の楽しみの一つ、ひょっとしたらその中で最大のものだったかも知れない。彼女が会合を好んだのは、そうした場では自分よりも裕福な隣人たちと対等のような気がしたからだ。白痴が葬式や教会の礼拝に参加するのも、これと同じ気持ちからである。そういうときだけは同胞と同じ立場に立っていると感じるのだ。誰も彼も区別なく同じレベルに置かれる。話をする必要もなければ、計算をする必要もない。忠告を与えられることもなければ、決断を下すこともない。神の前では万人が愚か者のごとくあるのである(註 コリント人への前の書から)。
ミス・ジョウリフはドルカス会の会合にいちばんいい服を着て出席したが、帽子だけは別だった。とっておきのボンネットをかぶるのは安息日だけに限られた最高のおしゃれだったのだ。彼女の衣装箪笥は中身があまりにも切り詰められ、移り変わる季節に合わせて「晴れ着」を着変える余裕はなかった。冬の晴れ着は夏の晴れ着として用いられねばならないこともあり、それゆえ彼女はときどき十二月にアルパカを着ることもあれば、この日のようにモスリンの季節だというのに、毛皮の襟巻きをしなければならないこともあった。しかし「晴れ着」を着ていれば、いつも「誰に見られても大丈夫」という気分になった。それにこと裁縫にかけては彼女の右に出る者はなかった。
会員たちのほとんどは彼女に優しいことばをかけて挨拶した。嫉妬や憎しみや悪意が日の出から日の入りまで町中を腕組みして歩いているような場所だったが、それでもミス・ユーフィミアには敵がほとんどなかった。小さな町は大概そうだが、嘘や誹謗や悪口はカランの女たちにとっていちばん大切な活動だった。悪人はいないと思っている、世間知らずで時代遅れのミス・ジョウリフは、最初のうち、そうした歯に衣を着せない噂話で持ちきりという点が、この喜ばしい会合のただ一つの欠点であると思った。しかし昔からずっとつづいてきたこの悪弊もその後取り除かれることになる。醸造業者の奥さんで、ロンドン仕立てのドレスを着、カランで最も流行に敏感なミセス・ブルティールが、ドルカス会の午後は集まったお針子たちのために何かためになる本を読んで聞かせることにしようと提案したのである。ミセス・フリントは、そんな提案をするなんて自分が美声の持ち主だと思っているからよ、と言ったが、しかし理由はどうあれ、彼女はそういう提案をし、誰もそれに反対するものはなかった。そういうわけでミセス・ブルティールはまことに信心深い内容の本を読んだのだが、それがまたずいぶんほろりとさせる話で、彼女が涙にかきくれることなく、また彼女のご機嫌取りたちから同情のすすり泣きを誘発することなく、午後が過ぎることはめったになかった。ミス・ジョウリフ自身は、想像上の悲しみにそれほどたやすく感動できないことがあったが、しかしそれは自分の性格に哀れみ深さがかけているからだと思い、心の中で自分よりも感じやすい他の人々を慶賀した。
ミス・ジョウリフはドルカス会に出席、ミスタ・シャーノールは川沿いを散歩、ミスタ・ウエストレイは石工たちと袖廊の屋根の上、というわけで、正面玄関のベルが鳴ったとき、ベルヴュー・ロッジにいたのはアナスタシア・ジョウリフただ一人だった。叔母が家にいるときは、アナスタシアは「殿方の給仕」をすることも、ベルに応えることも許されなかったが、叔母は不在だし、家のなかには誰もいない。しようがなく彼女は観音開きになった大きな玄関ドアの一方を開け、半円形の外の階段に一人の紳士が立っているのを見いだした。その男が紳士であることは彼女には一目で分かった。彼女にはそんな役に立たない違いを識別する「才能」があったのだ。もっともカランにはその手の人間が多くはないので、家の近所で彼女の才能を鍛えるというわけにはいかなかったけれど。実は彼はテノールを歌ったあの見知らぬ男だった。彼女は女性の持つ鋭い観察眼で、男の外見についてオルガン奏者や聖歌隊や教会事務員が一時間かけて知ったことを一瞬のうちに見て取った。いや、それだけではない。彼女は男の服装が上物であることも見逃さなかった。男は装飾品をまったく身につけていなかった。指輪もネクタイピンもつけず、懐中時計の鎖さえも革製でしかなかった。服の色はほとんど黒といってもいいくらい濃い灰色だったが、生地は上等で、仕立ても最高のものだとミス・アナスタシア・ジョウリフは思った。ベルに応えて出ていくとき、彼女は「ノーサンガー・アベイ」(註 ジェイン・オースチンの小説)にしおり代わりの鉛筆をはさんだのだが、見知らぬ男が彼女の前に立ったとき、彼女はヒロインの恋人役、ヘンリー・ティルニーがあらわれたのではないかと思った。そして彼が唇を開こうとするとき、彼女はキャサリン・モーランドのように身構えて、重大な知らせが発せられるのを待ち受けたのである。しかしそこから発せられたのは少しも重大なことではなかった。空き部屋の有無という、彼女が半ば期待していた質問ですらなかった。
「聖堂工事の監督をしている建築家はここに下宿していますか。ミスタ・ウエストレイはご在宅でしょうか」それが彼の言ったすべてだった。
「ここに住んでいらっしゃいますわ」と彼女は答えた。「でも今はお出かけです。六時までお戻りにならないと思います。お会いになりたいのでしたら、たぶん聖堂にいると思うんですけど」
「今聖堂から来たところです。でも見つかりませんでしたよ」
建築家に会えずベルヴュー・ロッジまでわざわざ歩く羽目にあったのは、きっとおざなりにしか建築家を探そうとしなかったからだろう。当然の報いだった。手間暇惜しまずオルガン奏者か教会事務員に訊いていれば、ミスタ・ウエストレイの居場所はすぐに分かったはずである。
「メモを書いてもいいでしょうか。紙を一枚もらえれば、伝言を残していきたいのですが」
アナスタシアは頭のてっぺんからつま先まで、早撮り写真のようにすばやく相手を一瞥した。「乞食」はカランのご婦人たちにとって常に嫌悪すべき対象で、そうした怪しい男に対して持つべき恐れは、叔母によってアナスタシア・ジョウリフにも植え付けられていた。さらに男の下宿人が家にいて、もしものことがあった場合、取っ組み合ってもらえるというときでなければ、相手がどんな口実を設けようと、決して見知らぬ人間を家に入れてはならないというのが、昔からこの家にずっとつづく規則だった。しかしちらりと見ただけで、最初の判断を確認するには充分だった――この方は間違いなく紳士だわ。紳士乞食なんてものはあり得ない。そこで彼女は「ええ、もちろん」と答えて、彼をミスタ・シャーノールの部屋に案内した。そこが一階にあったからである。
訪問者は部屋の中をすばやく見回した。もしも彼が以前この家に来たことがあったなら、アナスタシアは彼が記憶にある何かを確認しようとしていると思っただろう。しかしオープン・ピアノといつも通り散らかった楽譜と手書きの原稿以外、見るべきものなど何もなかった。
「ありがとう。ここで書いてもかまいませんか。ここがミスタ・ウエストレイの部屋ですか」
「いいえ。もう一人の方がここに下宿しているんです。でもこの部屋でメモをお書きになればいいわ。外出中ですし、どっちみち気にしないでしょうから。彼はミスタ・ウエストレイのお友達です」
「できればミスタ・ウエストレイの部屋で書きたいのですよ。こちらの紳士とは関係がありませんし、戻ってきてわたしが彼の部屋にいたら気まずいでしょう」
今彼らがいる部屋がウエストレイの部屋ではないと知り、見知らぬ男はどういうわけかほっとしたようにアナスタシアには思えた。どんなに当惑したような振りをしていても、その態度にはかすかな、なんとも言えない安堵感が感じられた。もしかしたらこの人はミスタ・ウエストレイの大の親友で、部屋の中が散らかっていて、だらしないのを残念に思ったのじゃないかしら。ミスタ・シャーノールの部屋は本当にひどい有様だもの。だから自分の思い違いを知らされて嬉しいのだわ、と彼女は思った。
「ミスタ・ウエストレイの部屋はいちばん上の階なんです」彼女は弁解するように言った。
「階段を上がるくらい、なんでもありませんよ」と彼は答えた。
アナスタシアはまたもや一瞬戸惑った。紳士乞食はいないとしても、紳士強盗はいるかも知れない。彼女は慌ててミスタ・ウエストレイの所持品リストを頭に思い浮かべたが、犯罪を誘発しそうなものは何もなかった。それでも彼女は、自分一人しか家にいないときに、いちばん上の階へ見知らぬ男を案内するのは気が引けた。そんなことを頼むなんて作法をはずれているわ。やっぱり紳士じゃないのかも知れない。さもなきゃ自分の要求がどんなに礼を失しているか、分かるはずだもの。それとも何か特別な理由があって、ミスタ・ウエストレイの部屋を見たいのかしら。
見知らぬ男は相手の戸惑いに気がつき、彼女が考えていることを容易に読み取った。
「申し訳ありません。あなたとお話しさせていただいている人間が誰か、名乗りをあげるべきでしたね。わたしはブランダマー卿と申します。聖堂修復の件で、ミスタ・ウエストレイに二言三言伝えたいことがあるんです。これがわたしの名刺です」
恐らく町でアナスタシア・ジョウリフくらい平然とこの知らせを受け止めた女はいないだろう。祖父が死んで以来、新しいブランダマー卿は絶えず地元の人の噂と憶測のタネとなった。彼はこの地方の実力者で、町と周囲の田園地帯をことごとく所有していた。フォーディングの豪邸は、晴れた日なら、聖堂の塔から望み見ることができた。彼は才能豊かな、りりしい顔立ちの人物だという評判で、四十は超えておらず未婚とのことだった。しかし成人してからその姿を見た者はなく、二十年もカランから遠ざかっていると言われていた。
話によると、彼は若いとき祖父と原因不明の喧嘩をし、家を追い出された。父も母も彼が赤ん坊のときに水死していたため、誰も彼の肩を持つ者はなかったのだ。四分の一世紀のあいだ、彼は外国を放浪した。フランスとドイツ、ロシアとギリシャ、イタリアとスペイン。彼は東洋を訪ね、エジプトで戦い、南アメリカで封鎖をくぐり、南アフリカで値のつけられないようなダイヤを発見したと信じられている。ヒンドゥー教の行者の恐るべき苦行を経験し、アトス山(註 ギリシャ正教会の根拠地)の僧侶とともに断食をした。トラップ大修道院の無言の行に耐え、噂によるとイスラム教主教がみずからブランダマー卿の頭に緑のターバンを巻いたという。射撃、狩猟、釣り、拳闘、歌ができ、楽器は何でもこなした。どこの国のことばも母国語のように操った。彼こそはいまだかつてこの世に生まれた人間の中で最高の学識と美貌――そしてある人がほのめかすには――最も邪悪な心を持つということであったのだが、誰も彼を見たことはなかった。謎めいた、見知らぬ貴人と同じ屋根の下で顔をつきあわせるというのは、当然ながらアナスタシアにとってロマンスの絶好のきっかけであったはずである。しかし、彼女はそういう状況にふさわしいためらいも、おののきも感じず、気が遠くなることもなかった。
彼女の父親マーチン・ジョウリフは死ぬまでその美貌を保ち、自分でもそのことをよく知っていた。若いときは整った目鼻立ちを誇りにし、歳を取ってからは身だしなみに注意を払った。暮らしぶりがどん底に落ちこんだときでさえ、彼は仕立てのいい服を手に入れようとした。いつも最新流行の服というわけにはいかなかったが、それらは背の高い、姿勢のしゃんとした彼にはよく似合った。人は彼のことを「紳士ジョウリフ」と呼んで笑ったが、カランでしばしば聞かれる悪口と違って、そこにはそれほど嫌味がこめられていなかったようだ。むしろ農夫の息子がどこであんな物腰を身につけたのかと不思議がられた。マーチン自身にとっては貴族的な態度は気取りというより義務だった。彼の立場がそれを要求するのだ。なぜなら彼は自分のことを、権利を剥奪されたブランダマー家の人間と思いこんでいたからである。
グローヴ家のミス・ハンターが、父親のハンター大佐から、身分違いもはなはだしい、あんな男と結婚したら勘当だ、と固く言い渡されていたにもかかわらず、彼と駆け落ちしたのは、四十五才になっても彼の男っぷりがよかったからである。実は彼女は父親の不興に長く耐えることなく、最初の子供を産んだときに亡くなってしまった。この悲しい結末さえ大佐の心を和らげることはできなかった。小説に見られる前例をことごとく覆し、大佐は幼い孫娘に少しも関心を示さず、あまりの世間体の悪さにカランから引っ越してしまったのである。マーチンもまた親としての義務を真剣に受け止めるような男ではなく、子供の養育はミス・ジョウリフに任された。彼女の苦労が一つ増えたわけだが、しかしそれ以上に彼女は喜びを感じた。マーチンは娘をアナスタシアと名付けたことで充分に自分の責任を果たしたと考えていた。この名前はディブレット貴族名鑑によると、ブランダマー家の女性によって代々引き継がれてきた名前なのだそうだ。このひときわ輝かしい愛の証拠を与えたあと、彼はまた家系調査のため断続的につづく放浪の旅に出かけ、五年間カランに戻ってこなかった。
その後何年もマーチンは娘をほったらかしにし、ときどきカランに戻っては来たものの、いつも雲形紋章に対する自分の権利を確立することに熱中し、アナスタシアの教育と扶養はすっかり妹にまかせて満足していた。彼がはじめて親としての権威を振りかざしたのは、娘が十五になったときだった。その頃久しぶりに家に戻った彼は、妹のミス・ジョウリフにむかって、姪の教育がけしからぬほどなおざりにされていると指摘し、このような嘆かわしい状態はすぐさま改められなければならないと言った。ミス・ジョウリフは悲しそうに自分の至らなさを認め、自分の怠慢を許して欲しいとマーチンに嘆願した。彼女は、下宿の管理や、自分とアナスタシアの生計を立てる必要が、教育に宛てるべき時間を甚だしく減らしているとか、手元不如意のために教師を雇って自分のあまりにも限られた教育を補うことができないのだ、などと言い訳しようとは夢にも思わなかった。実際、彼女がアナスタシアに教えられることといったら、読み書き、算数、地理を少々、「マグノール先生の質問集」から得た微々たる知識、見事な針使い、詩と小説に対するつきることのない愛、カランでは奇特というべき隣人への思いやり、そしてブランダマー家最上のしきたりとは残念ながら相容れぬ神への畏れ、せいぜいがこの程度であったのである。
ブランダマー家にふさわしい育て方をしていない、とマーチンは言った。令嬢アナスタシアとなったときに、どうしてその任に耐えることができるというのか。フランス語を勉強させなければならない。ミス・ジョウリフが教えたような初歩ではなくて。彼は妹の真似をして「ドゥ、デラ、デラポトロフ、デイ」と言って笑い、彼女のしなびた頬を真赤にさせ、テーブルの下で叔母の手を握っていたアナスタシアを泣かせた。そんなフランス語じゃなくて、上流階級で通用するようなちゃんとしたやつだ。それから音楽、これは必須科目だ。ミス・ジョウリフは、家事と痛風が共謀して節くれ立った指からしなやかさを奪うまで、自分が低音部を受け持ってアナスタシアとやさしいピアノの二重奏をしたことを恥ずかしさとともに思い出し、また顔を赤らめた。姪と二重奏するのは大きな喜びだったが、しかしもちろんおよそ下手くそなものでしかなかったろうし、自分が子供のときに弾いた曲だからおそろしく流行遅れだったに違いない。しかもピアノもウィドコウムの客間にあった、あの同じピアノだった。
そういうわけで彼女はマーチンが改善計画を提示するあいだ熱心に耳を傾けた。この計画とはアナスタシアを州都カリスベリにあるミセス・ハワードの寄宿学校に送ることに他ならなかった。この目論見を聞いて妹は息をのんだ。ミセス・ハワードの学校といえば、名門の教養学校であり、カランのご婦人方の中で娘をそこに送っているのはミセス・ブルティールだけだったのだ。しかしマーチンの高潔な寛容は留まるところを知らなかった。「そうと決まれば善は急げだ。やるべきことはさっさとやってしまおう」彼はポケットから粗布の袋を取り出し、テーブルの上にソヴリン金貨の小山を築いて議論に決着をつけた。兄がどうやってそんな富を得たのかというミス・ジョウリフの驚きは、彼の度量の大きさに対する感嘆の念によってかき消された。この富のほんの一部でベルヴュー・ロッジの逼迫した財政状態が緩和されるのに、と束の間彼女が思ったとしても、彼女はそんなぼやきを圧し殺し、天が与えたアナスタシアの教育費用に熱烈な感謝を捧げた。マーチンはテーブルのソヴリン金貨を数えた。前払いしてアナスタシアの印象をよくしたほうがいいと言われて、ミス・ジョウリフは賛成し、大いに胸をなで下ろした。彼女は学期終了前にマーチンがまた旅に出て、支払いを彼女に押しつけるのではないかとびくびくしていたのだ。
こうしてアナスタシアはカリスベリに行った。ミス・ジョウリフはみずからに課した規則を破って、幾つもの小さな借金を背負いこんだ。というのは当時持っていたような貧相な支度で姪を学校にやりたくはなかったし、かといってよりよい支度を買うには、手持ちの金がなかったのだ。アナスタシアはカリスベリで半期を二回過ごした。音楽の腕前は大いに上がり、退屈で気のない練習をさんざん積んだあげく、タールベルクの「埴生の宿」による変奏曲をつっかえながら弾くことができるようになった。しかしフランス語は本格的なパリのアクセントを習得できず、ときには習いはじめの頃の「ドゥ、デラ、デラポトロフ、デイ」に逆戻りすることもあった。もっともそうした欠点が後に深刻な不都合を招いたことはなかったようだけれど。教養を身につける以外にも、彼女は中流上層に属する三十人の子女と交わる特権を楽しみ、善悪を知る木から、それまでは気づきもしなかった果実を食べた。しかし第二学期の終わりに彼女はこれらの恵まれた機会を放棄せざるを得なかった。マーチンが娘の授業料を永続的に準備することなくカランを離れ、ミセス・ハワードの学校案内には重力の法則のごとき厳然たる規則があったのだ。すなわち、前学期の学費を納めていない場合は、いかなる生徒も学校に戻ることを許可せずという規則が。
アナスタシアの学校生活はこれをもって終了した。カリスベリの空気は彼女の健康によくないなどといった説明がなされたが、彼女がその本当の理由を知ったのは、それからほぼ二年後のことで、そのころにはミス・ジョウリフの勤勉と禁欲が、ミセス・ハワードへのマーチンの負債をほぼ払い終えていた。娘のほうはカランにいられることが嬉しかった。彼女はミス・ジョウリフを深く慕っていたからだ。しかし経験という点では彼女はずっと大人びて戻ってきた。視野は広がり、人生をいっそう深く見通すことができるようになりはじめていた。こうした広がりを持った考え方は好ましい実も結んだが、好ましくない実も結んだ。父親の性格をより公正に評価するようになったからである。父親がまた戻ってきたとき、彼女はそのわがままや、妹の愛情につけこむやり方に我慢がならなかった。
このような事態はミス・ジョウリフを大いに悲しませた。彼女は姪を愛し、崇拝にも似た気持ちすら持っていたのだが、同時に彼女は非常に良心的で、子供は何よりもまず親を敬うべきだということを忘れなかった。そういうわけで彼女は、アナスタシアがマーチンより自分に愛着を覚えていることを悲しまなければならないと考えたのだ。姪が誰よりも自分を愛しているということに、しかるべき不満を抱けないことがあったとしても、そんな自分の心の弱さを償うために彼女は姪といっしょにいる機会を犠牲にし、チャンスがあれば彼女を父親と二人きりで過ごさせようと努力した。真の基盤がないところに愛情を生じさせようとする努力が永遠に不毛であるように、それは無駄な努力に終わった。マーチンは娘と一緒にいることにうんざりした。彼は一人でいることを好み、彼女を料理と掃除と繕いをする機械としかみなしていなかったのだ。アナスタシアはそんな態度に憤慨し、おまけに父親の聖書たるぼろぼろに破れた貴族名鑑とか、口を開けばいつも飛び出す家系調査だの、雲形紋章にまつわる専門用語だのには何の関心も持てなかった。その後、彼が最後の帰還を遂げたとき、彼女は義務感から模範的な辛抱強さで身の回りの世話や看護をし、親への敬愛がすることをうながす、ありとあらゆる親孝行をやってのけた。父の死は安堵ではなく悲しみをもたらしたのだと信じこもうとし、それがうまくいって叔母はその点についてはなんらの疑いも持たなかった。
マーチン・ジョウリフの病気と死はアナスタシアを医者や聖職者と接触させ、それによって彼女は人生経験をさらに深めた。ブランダマー卿の名乗りを聞いても、その衝撃に耐え、ほんの少し顔を赤らめるだけで目に見えるような当惑のしるしを一つも見せなかったのは、疑いもなくこうした修練とミセス・ハワードの学校が与えた上流階級との付き合いのおかげだった。
「あら、もちろんミスタ・ウエストレイの部屋でお書きになって結構ですわ。ご案内しましょう」
彼女は部屋へ案内し、書くための道具を用意すると、ミスタ・ウエストレイの椅子に心地よく腰かける卿を残して部屋を出た。出しなに後ろ手でドアを閉めようとしたとき、何かが彼女を振り返らせた――もしかしたらそれは単なる若い女の気まぐれだったのかも知れないし、あるいは見つめられているという意識がときどき人間に及ぼす曰く言い難い魔力のせいだったのかも知れない。とにかく後ろを見たとき、彼女はブランダマー卿と目がかち合い、彼女は自分の愚かしさに腹を立てドアをぴしゃりと閉めた。
彼女は台所に戻った。神の手の台所はあまりにも広かったので、ミス・ジョウリフとアナスタシアはその一部を居間の代わりに使っていた。彼女は「ノーサンガー・アベイ」から鉛筆を抜き取り、自分の身をその舞台であるバースに送りこもうとした。五分前は彼女も鉱泉室にいて、ミセス・アレンやイザベラ・ソープやエドワード・モーランドがどこに座っているか、そしてキャサリンがどこに立っていて、ティルニーが歩み寄ってきたときジョン・ソープが彼女に何を話していたのか、正確に知っていたのである。ところがどうだろう!アナスタシアは二度とそこに入ることができなかった。灯りは消え、鉱泉室は真暗だった。五分間のあいだに悲しむべき変化が起きたのだ。入会の難しいこの団体は、もはやミス・アナスタシア・ジョウリフの興味の中心ではないことを知り、憤然として解散してしまったのである。彼らがいなくなっても、もちろん彼女は少しも寂しくなかった。彼女は自分に素晴らしい恋愛小説の才能があることを見いだしていたし、すでに胸をときめかす物語の第一章を書きはじめていたからである。
それからほぼ半時間後に叔母が帰ってきたのだが、そのあいだにミス・オースチンの騎士たちや貴婦人たちはいっそう背景に引っこみ、ミス・アナスタシアの主人公が完全に舞台を独占していた。年上のほうのミス・ジョウリフがドルカス会から戻ってきたのは、五時二十分だった。「かっきり五時二十分過ぎでしたわ」その後彼女は幾度となくそう言った。画期的な事件があると凡人はそれが起きた正確な時間に不自然なくらい重要性を付加するものである。
「お湯は沸いているかしら」台所のテーブルに座りながら彼女は尋ねた。「よかったら今日は、殿方たちが戻る前にお茶を一杯いただきたいわ。お天気はすごくむっとしているし、教室は窓が一つしか開いてなかったからとっても暑苦しくって。お気の毒にミセス・ブルティールは風が吹きこむとすぐ風邪をひくのよ。彼女の朗読の最中に眠りそうになったわ」
「すぐ用意する」とアナスタシアは言い、巧みに無関心を装ってこう付け加えた。「紳士の方が上でミスタ・ウエストレイを待っているわよ」
「あなた」ミス・ジョウリフが咎めるように叫んだ。「私がいないときにどうして人を家に入れたの。怪しげな人が大勢うろついていてすごく危ないのよ。ミスタ・ウエストレイの記念インクスタンドや、大金で買い取りの申しこみのあった花の絵があるじゃない。貴重な絵はよく額から切り取られてしまうの。泥棒なんて何をしでかすか分かりゃしないんだから」
アナスタシアの唇には微かな笑みが浮かんでいた。
「心配しなくても大丈夫よ、フェミー叔母さん。紳士の方だってことは間違いないんですもの。これがその人の名刺よ。ほら!」彼女はただならぬ秘密を帯びた一片の白い厚紙をミス・ジョウリフに手渡し、叔母が眼鏡をかけてそれを読む様子を見ていた。
ミス・ジョウリフは名刺に焦点を合わせた。「ブランダマー卿」と、たった二つのことばが実に平々凡々とした字で書かれているだけだったが、それは魔法のような効果をあらわした。疑心暗鬼はたちどころに消え、輝くばかりの驚きが顔に広がった。そのさまは、ローマ帝国軍旗の幻を見たコンスタンティン大帝もかくやと思われた。彼女は徹頭徹尾浮き世離れした女で、現世の何ものにも価値を置かず、ひたすら来世の到来を待ち望み、彼女よりも大きな世俗的財産を持つ者にはめったに持つことを許されない堅固な志操と悟りを胸に抱いていた。彼女の善と悪に対する観念ははっきりと定められて揺るぎなく、それにそむくくらいなら喜んで火あぶりの刑に処せられただろうし、もしかしたら無意識のうちに、文明が信仰厚き者から火刑を奪ったことを嘆いていたかも知れない。とはいえ、こうした性癖にはある種のちょっとした欠点、とりわけ有名人の名前に弱いという欠点が結びついていて、この世の高貴な人々をやや過大に評価する傾向があったのである。もしも慈善市や伝道集会の際、対等の人間として彼らとともに同じ四つの壁にはさまれたなら、彼女はその素晴らしい機会に狂喜しただろう。しかしブランダマー卿が自分の家の屋根の下にいるというのはあまりにも驚くべき、予想外の恩寵で、彼女はほとんど気が動顛してしまった。
「ブランダマー卿が!」彼女はやや落ち着きを取り戻したとき、口ごもるように言った。「ミスタ・ウエストレイの部屋が片付いていればいいんだけど。今朝、隅から隅まで掃除したんだけどね。いらっしゃるなら、あらかじめ連絡して欲しかったわ。汚れているのを見られるなんて嫌ですもの。今何をしていらっしゃるの、アナスタシア。ミスタ・ウエストレイが帰るまで待つとおっしゃったの」
「ミスタ・ウエストレイにメモを書くそうよ。書くものを探してあげたわ」
「ミスタ・ウエストレイの記念インクスタンドをお出ししたでしょうね」
「いいえ、考えもしなかった。小さい黒いインクスタンドがあって、中にたっぷりインクが入っていたから」
「なんてことでしょう、なんてことでしょう!」ミス・ジョウリフはこのとてつもない事態に思いをめぐらしながら言った。「誰も見たことのないブランダマー卿が、とうとうカランにやってきて、今この家にいるなんて。このボンネットだけ、とっておきのと取り替えてくるわ」彼女は鏡を見ながらそう言い足した。「それから御前様に歓迎の挨拶をして、なにか入り用の品がないかお尋ねするわ。ボンネットを見たら、わたしがたった今外出から戻ったところだってすぐ分かるでしょう。さもなきゃ、さっさと挨拶に来ないなんて恐ろしく怠慢な女だと思われてしまう。そうよ、ボンネットをかぶっていったほうが絶対いいわ」
アナスタシアは叔母がブランダマー卿に面会すると思うといささかとまどいを覚えた。彼女はミス・ジョウリフの度を超した熱狂や、浴びせかけずにはいられないであろうお世辞、そして地位ある人への当然の敬意でしかないのに卑屈な追従と取られかねない賞賛のことばを思った。どういうわけかアナスタシアは自分の家族が賓客の目にできるだけ好ましく映ることを願い、一瞬、ミス・ジョウリフに、呼ばれるまではブランダマー卿に合う必要などまったくないと説得しようかと思った。しかし彼女には達観したところがあって、すぐに自分で自分の愚かしさを咎めた。ブランダマー卿がどう思おうとわたしには何の関係もないわ。お帰りになるとき、ドアを開けでもしないかぎり、再び会うことなんかありはしない。ありふれた下宿屋やその住人のことなど、彼は一顧だにしないだろうし、もしそんな詰まらぬことを考えることがあったとしても、あんなに賢い人なのだから、自分とは立場が違うことを斟酌して、叔母のことを、わざとらしさはいろいろあっても善良な女だと見抜いてくれるだろう。
そこで彼女は抗議をせずに雄々しく静かに椅子に座り、ブランダマー卿とその訪問が引き起こしたくだらない興奮などきれいさっぱり忘れ去ろうと決意して「ノーサンガー・アベイ」をもう一度開いた。
第八章
ミス・ジョウリフはブランダマー卿とのおしゃべりに夢中になっているに違いない。台所で待ちながらアナスタシアは、叔母がもう降りてこないのではないかと思った。彼女は強い決意で「ノーサンガー・アベイ」に集中しようとしたが、目が活字の列を追ってもさっぱり頭に入らず、挙げ句の果てにふと気がつくと、ぱらぱらと騒々しくしきりにページをめくるばかりで、かえって空想の邪魔をしている自分に気がついたのだった。彼女はぱしんと本を閉じ、椅子から立ち上がって叔母が戻るまで台所を行ったり来たりした。
ミス・ジョウリフは訪問者の愛想のよさについて滔々とまくしたてた。
「本当に立派な人は例外なしにそういうものなのよ」彼女はほとばしるようにしゃべった。「いつも思うんだけど、貴族の方って腰が低いものよ。すっかりまわりに溶けこんで」ミス・ジョウリフはたった一度の行為を習慣とみなしてしまう、よくある誇張に陥っていた。いままで貴族と面とむかって話したことなどなかったのに、ブランダマー卿の第一印象を、まるで彼のような地位や立場の人を見てきた長い経験に基づく慎重な判断のように提示した。
「どうぞ記念インクスタンドをお使いくださいって、みすぼらしい黒いやつはのけてしまったの。すぐ分ったわ、銀のほうが使い慣れていらっしゃるものにずっと近いことは。わたしたちのこと、多少はお聞き及びのようよ。中に入れてくれた若い女性はわたしの姪かってお尋ねにまでなったんだもの。あなたよ。あなたのことよ、アナスタシア。あなたかってお訊きになったのよ。きっとどこかでマーチンにお会いになったんだと思うわ。でも、わたし、あんまり予想外のご訪問なので、本当に取り乱してしまって、お話がほとんど理解できなかった。でも、わたしが落ち着けるように絶えず気を遣ってくださって、だから、わたし、とうとう軽い飲み物でもいかがですかって思い切って訊いてみたの。『御前様、お茶を一杯さし上げたいのですが、いかがでしょうか。たいしたおもてなしはできませんが、お受けいただければとっても光栄ですわ』って。そうしたら、あなた、なんてお答えになったと思う?『ミス・ジョウリフ』――あの方はすごく魅力的な表情をなさるの――『そうしていただければ、こんなにありがたいことはありません。聖堂を歩き回ってとても疲れていましてね。それにもうちょっと時間をつぶさないとならないんです。夜の汽車でロンドンに行くので』お若いのに大変ね!(八十才を越えた先代しか知らないカランでは、ブランダマー卿はまだ若いのである)きっと何か公のお仕事でロンドンに呼ばれているのよ――上院とか宮廷とか、そんな関係だわ。他人に気を遣っていらっしゃるようだけど、同じくらいご自分にも気を遣っていただきたいわ。すごく疲れていらっしゃるみたいだし、顔つきも寂しそうなんですもの、アナスタシア。それでいてとっても思いやりがあるの。『是非お茶を一杯いただきたいです』――一語一句この通りにおっしゃったのよ――『でもそれを持ってくるのにまた階段を登ることはありませんよ。わたしが下に降りて、一緒にいただくとしましょう』ですって。
『申し訳ございません、御前様』とわたしは答えたの。『それはご容赦ください。この家はみすぼらしすぎますし、お給仕をさせていただくのは名誉なことですわ。午後の会合から戻ったばかりですので、わたしの外出着は大目に見ていただければ嬉しいんですが。姪がよくわたしを手伝うと言ってくれますけど、でも今だって彼女の若い足より、私の老いぼれた足のほうが元気だって言ってやるんです』」
アナスタシアの頬が赤くなったが何も言わなかった。叔母は話しつづけた。「そういうわけだから、さっそくお茶を持って行くわ。あなたがお茶を淹れてもいいわよ。でもお茶の葉はいつもよりたっぷりね。上流階級はそういうことでけちけちしないし、あの方もきっと濃いお茶を飲みつけていると思うわ。ミスタ・シャーノールのティーポットがいちばんいいんじゃないかしら。わたし、銀の角砂糖ばさみとJの字が入ったスプーンを一本取ってくる」
ミス・ジョウリフがお茶を持って行こうとしたとき、玄関でウエストレイに出くわした。聖堂から戻ってきたばかりの彼は、女主人の挨拶に少なからず胸騒ぎを覚えた。彼女は盆を置くと不吉な仕草と「まあ、ミスタ・ウエストレイ、何があったと思います」ということばで彼をミスタ・シャーノールの部屋に招き入れたのである。彼が最初に思ったのは、何か深刻な事故が起きたのではないか、オルガン奏者が死んだとか、アナスタシア・ジョウリフが足首をくじいたのではないかということだった。何が起きたのか、本当のことを知ったときはほっとした。彼はミス・ジョウリフが訪問者にお茶を運ぶのを数分待って、それから自分も階段を上がった。
ブランダマー卿が立ち上がった。
「勝手にお部屋にあがりこんだりして申し訳ありません。わたしのことは、もう下宿のご主人からお聞きになったでしょうね。勝手させていただいた事情についても。言うまでもありませんが、わたしはカランに関係することすべてに興味を持っています。この町のことも早速詳しく知ろうと思っています――それからここの住人のことも」彼はちょっと考えてからそう言い添えた。「まったくお恥ずかしいのですが、今は何も知らないのですよ。しかしこれは長いあいだ外国にいたせいなのです。ほんの数ヶ月前に戻ってきたばかりですから。しかしそんなことはわざわざ申し上げる必要はないでしょう。実はここに来たのは、大聖堂で行われることになっている修復計画についていくつか教えていただきたかったからなのです。そんな計画があるとは、先週まで知りませんでした」
彼の口調は落ち着いていて、澄んだ低い声がそのことばに重みと誠実さを与えていた。きれいに髭を剃ったオリーブ色の顔、整った目鼻立ちと黒い眉を見て、ウエストレイはしゃべりながらスペイン人のようだと思った。その印象は相手の慎み深く、謹厳な態度によって強められた。
「わたしに分かることなら何でも喜んでお話しますよ」と建築家は言い、棚から見取り図や書類を下ろした。
「残念ですが、今晩は時間がありません」とブランダマー卿は言った。「もうすぐロンドン行きの汽車に乗らなければならないのです。しかしよろしければ早い機会にもう一度ここに来ようと思います。たぶん、そのとき一緒に聖堂に行けると思います。あの建物にはとても愛着を感じているんです。建物自体の壮麗さもさることながら、昔の思い出もありましてね。子供の頃、まあ、ときにはとてもみじめな子供時代だったのですが、よくフォーディングからここまで遊びにきて大聖堂のあちこちをぶらぶらしながら何時間も過ごしたものです。螺旋階段や、暗い壁廊や、いわくありげな障壁や信者席を見ているとロマンチックな夢にひたってしまい、今でもその夢から完全に覚めてはいないんじゃないかという気がします。あの建物は大幅な修理の必要があると聞きました。素人目には変わったところは何もないように見えますけど。昔からずっと荒れた感じがしていたせいでしょうか」
ウエストレイは最終的にやらなければならないこと、そして今取り組もうとしていることを、手短に説明した。
「こんな具合に工事の計画は立ててあります」と彼は言った。「袖廊の天井がいちばん緊急を要することは間違いないんですが、ほかにも長く放置しておくわけにはいかないところが多々あるのです。塔の安定度にも大いに疑問があります。もっともわたしの上司はそれほど深刻には考えていないようですが。それでいいのかもしれませんけどね。というのはわれわれは資金難でにっちもさっちもいかない状態だからです。来週慈善市を開いて資金を募ろうとしているんですが、慈善市を百回催しても必要な金の半分も集まらないでしょう」
「その手の問題があることは聞いています」訪問者は考えこむように言った。「今日礼拝が終わって聖堂を出るときにオルガン奏者に会いました。わたしの正体を知らずに、何もかもブランダマー卿の責任であると、とても厳しい意見を述べていましたよ。特にオルガンを直すべきだとね。南袖廊(註 原文では「北袖廊」になっている)に関しては、わたしたちにある種の道義的責任があると思います。あそこを墓所として付属させましたから。確かブランダマー側廊と呼ばれていたと思います」
「ええ、今でもそう呼ばれていますよ」とウエストレイは答えた。会話がこういう方向に進んだことを彼は喜び、機械仕掛けの神があらわれたと思った。ブランダマー卿の次の質問はさらに彼を勇気づけた。
「袖廊の修復にはいくらかかるとお考えですか」
ウエストレイは書類をかき回して、表紙にカラン大聖堂の絵が載っている、印刷された小冊子を探しだした。
「これはサー・ジョージ・ファークワーの見積もりです」と彼は言った。「寄付を呼びかけるために各方面に送ったパンフレットなんですが、印刷費をまかなうことさえできませんでした。今どきこうしたことに金を出そうなんて人は一人もいません。ああ、これですね――南袖廊に七千八百ポンド(註 原文では「北袖廊」)」
短い沈黙がつづき、ウエストレイはまごついた。総額がブランダマー卿の予想を越えていたのだろう。いきなり金額を示したせいで、せっかくの寄付者の意気込みに水をかけてしまったのではないかと心配で顔が上がらなかった。
ブランダマー卿は話題を変えた。
「オルガンを弾いていたのは誰なんですか。あの人の態度は結構気に入ってしまいました。相当きついことをいわれましたよ。悪気はないんでしょうけど。有能な音楽家のようですね。でも楽器は無惨な有様だとか」
「確かにとても有能なオルガン奏者です」とウエストレイは答えた。ブランダマー卿が寄付する気でいるのは明らかだった。袖廊の修復費用を出すところまで気前がよくないにしろ、少なくともオルガンには幾ばくかの金を出すのではないだろうか。建築家は友人ミスタ・シャーノールのために力をつくそうとした。「彼はとても有能なオルガン奏者です」と彼は繰り返した。「シャーノールといって、この下宿に住んでいるんです。呼んできましょうか。オルガンのことをお訊きになりますか」
「いやいや、今は止めておきます。時間がありません。別の日に話し合いますよ。きっとお金はそんなにかからないでしょうね、オルガンの修理には――他の費用と比べればたいしたことはないでしょう。わたしの祖父、亡くなったブランダマー卿に、この修復費用の話を持ちかけなかったのですか」
寄付に対するウエストレイの期待は再び打ち砕かれ、こんなふうに話をそらすのは彼にはいささか蔑むべきことのように思われた。ブランダマー卿が不必要なまでに愛情をこめて聖堂を賛美したすぐあとだっただけに見苦しい感じがした。
「ええ、参事会員のパーキン、ここの主任司祭が先代のブランダマー卿に手紙を書いて、聖堂修復費用の寄付をお願いしたんですが、梨のつぶてでした」
ウエストレイはその口調に皮肉めいたものを含ませたのだが、しゃべり終わるよりも先に自分の無礼なことば遣いを後悔していた。しかし人によっては怒るようなことを言ったのに、相手は少しも気にしていないようだった。
「ああ、わたしの祖父は実に嘆かわしい老人でした。さあ、もう行かないと、汽車に遅れてしまいます。この次カランに来たときはミスタ・シャーノールに紹介してください。聖堂を見せてくださるって約束でしたよね。よろしいですか」
「ええ――ああ、もちろんですよ」とウエストレイは言ったが、さっきほど誠意のこもった話し方ではなかった。彼はブランダマー卿が寄付の約束をしなかったことに失望し、彼に付き添って階段下まで降りるときは、半時間ほど品物を物色したあと、考えてまた来るなどと言って帰ってしまうご婦人をもてなした、店員のような気分だった。
ミス・ジョウリフは台所の階段に立って待っていたおかげで、玄関ホールでまったく偶然にもブランダマー卿と会うことができた。彼女は新たな敬意の表明とともに正面玄関のドアを開けて彼を外に導いた。彼女は彼がけちくさく寄付を回避したことを知らなかったし、彼女にとって御前様は何があろうと御前様なのである。彼は立ち去るとき彼女と握手して、今度カランに来たときもお茶をご馳走してくださいねと言い、彼がふりまくあらゆる魅力と親切に最後の仕上げを施した。
ブランダマー卿がベルヴュー・ロッジの外の階段を降りていくとき、日はかげりはじめていた。いつもより早く日が暮れたのだろう、訪問者が上の階にあがってすぐ、アナスタシアは台所が暗すぎて本が読めないことに気がついた。そこで彼女は本を持ってミスタ・シャーノールの部屋へ行き、窓辺の席に座った。
そこはミスタ・シャーノールが外出しているときも、家にいるときも、彼女が好んでよく行く場所だった。ミスタ・シャーノールは子供のときから彼女を知っていたし、作曲しているとき静かに読書する優雅な娘の姿を見るのが好きだったのだ。奥行きのある窓辺の腰掛けはペンキを塗った樅の板で作られていた。背に沿って色あせたクッションが垂れ下がっていて、窓が開いているときは上に持ちあげ窓枠に載せることができ、夏の夜など、誰でも肘を休めながら外を眺めることができた。
夕闇が垂れこめていたが、窓はまだ開いていた。しかし窓枠の上にちょこんとあらわれたアナスタシアの頭は、下までおろされたブラインドに隠され、外からは見えなかった。このブラインドは緑色をした、幾つもの小さな木の羽根板でできており、何度も夏の太陽に当たって色はかすれ、火ぶくれができていた。壺形の真鍮のつまみを回すと隙間が空いて、部屋の中から外がのぞけるようになっている。
しばらく前から読書ができないくらい暗くなっていたのだが、アナスタシアは窓辺の席に座りつづけた。ブランダマー卿が階段を降りてくる音を聞きつけると、通りの景色が見えるように真鍮のつまみを回した。叔母が玄関で滔々と同じお世辞を繰り返すのを聞き、暗闇の中で顔が赤くなるのを感じた。彼女が赤面したのはウエストレイが重要人物にむかってあまりにもぞんざいでなれなれしい口を利くのが癇に障ったからでもある。そして顔を赤くするという自分の愚かさに対して赤面した。正面玄関のドアがようやく閉まり、ガス灯の明かりが階段を降りるブランダマー卿の活力のある姿と、まっすぐで四角い肩に当たった。三千年前、もう一人の乙女が側柱とドアのあいだから、父の宮殿を去るもう一人の偉大なよそ者のまっすぐな広い背中を見ていた。しかしアナスタシアはナウシカアより幸運だった。バイエケス人の船にむかいながら、ユリシーズが後ろを振り返ったという記録はないけれど、ブランダマー卿は振り返って後ろを見たからである。
彼は振り返って後ろを見た。アナスタシアには彼が火ぶくれのできた小さな羽根板を通してまっすぐ彼女の目を覗きこんだように思われた。もちろんまことにつまらない町の、まことにつまらない下宿屋にいる、まことに愚かな女主人の姪である、まことに愚かな娘が、日よけの後ろから彼を見ているなど、彼に推測できようはずがなかった。しかし彼は振り返って後ろを見たのだ。アナスタシアは彼が帰ったあとも半時間あまりその場から動かなかった。またたくガス灯の光りの中に垣間見た厳しく、目鼻立ちの整った顔のことを考えていたのだ。
それは厳しい顔だった。彼女は暗がりの中で目を閉じ、何度もその顔を思い浮かべた。彼女にはその厳しさが分かった。厳しくて――ほとんど残酷ですらあった。いや、残酷ではない。ただ情け容赦ない決意を秘めているのだ。目的を達するために必要ならば残酷さえも辞さない決意を。このように彼女は小説風のやり方で議論を重ねた。ヒロインたるもの、この程度の議論ができなくてどうしようと彼女は思っていた。ヒロインは、どれほど謎めいた顔であっても一目でその仮面をはぎ取り、「涙なしの読み物」(註 イギリスの初等読本)の頁を読むように、そこに書かれた情熱を明瞭に読み取ることができなければ、残念ながらその気高い役割を勤める資格がないのである。彼女、アナスタシアにそのくらいの単純な能力が欠けているはずがあるだろうか。いや、彼女は男の顔つきを一瞬で見定めた。あれは残酷なまでに固く決意している顔だわ。厳しいけれど、でも、なんてハンサムなのかしら!彼女ははじめて戸口で会ったとき、灰色の目が彼女の目とぶつかり、その力で彼女の目を眩ませてしまったことを思い出した。十代の田舎娘にしては驚くべき洞察、驚くべき心理の読み取りである。しかし嬰児《をさなご》や乳飲み子の口によってこそ、力の基《もとゐ》は永遠に定められるのではなかっただろうか。(註 詩篇から)
ドアが勢いよく開かれ、空想は破られた。ミスタ・シャーノールが部屋に入ってきたとき、彼女は椅子から飛び上がった。
「おやおや!どうなっているんだね。火は焚かず、窓は開けっ放し。お嬢さんはサー・アーサー・ベディバ(註 アーサー王伝説に出てくる忠実な騎士)を夢見て風邪をおめしになる――えらく詩的な鼻風邪じゃないかね」
彼のおしゃべりは石筆をとがらす音のように彼女の気分を不快にした。彼女は何も言わず、脇をすり抜け、後ろ手にドアを閉めると、ぶつぶつ言う彼を暗がりに残して去った。
ブランダマー卿の訪問という興奮は、ミス・ジョウリフを疲労困憊させてしまった。彼女は殿方たちに夕食を持っていき――ミスタ・ウエストレイはその晩ミスタ・シャーノールの部屋で食事をした――アナスタシアにちっとも疲れていないと請け合ったのだが、しかし程なくそんなそぶりもできなくなって、首もたれが左右に張り出した背の高い椅子に、安らぎを求めて避難せざるを得なかった。この椅子は台所の隅に置いてあって、病気とかほかの緊急事態のときにしか使われないものだった。食事の片付けを促す呼び鈴が鳴ったが、ミス・ジョウリフはぐっすりと寝こんでいて、その音が聞こえなかった。アナスタシアは通常は「給仕」をすることを許されていなかったが、疲労の溜まりすぎた叔母を起こしてはならないと、自分でお盆を持って階段を上がった。
「なかなかの美男子ですね」彼女が部屋に入ったとき、ウエストレイがそう言っていた。「しかしそのほかの点ではあまり好ましい印象を持たなかったな。聖堂のことをやけに熱心に話していましたよ。そのあと五百ポンドの寄付をしてくれたのなら、それも大いに結構なんですがね。しかしいくらうっとりしてしゃべっても、それを現実のものにするために半ペニーだって払う気がないんだからどうしようもない」
「あいつは爺さんそっくりだ」とオルガン奏者は言った。
うるう年 二月は二十九日まで
支払いは 三十日《みそか》にするぞとブランダマー
「ここらじゃそういっているのさ。今日の午後、さんざん言ってやったよ。まさかブランダマーとは知らなかったから、思い切りこっぴどくやっつけてやった」
汚れた皿や夕食の残り物を盆に集めながらアナスタシアの頬は激しく色づき、胸の中にはさらに激しい感情が渦巻いていた。彼女は懸命に動揺を隠そうとしたが、そうすればそうするほどいっそう動揺は募った。オルガン奏者は彼女の方に視線をむけることなく、じっと様子をうかがっていた。彼は抜け目のない男で、彼女がテーブルを片付けおわるまでに、一時間前、彼によって破られたあの夢の中で誰が主人公を演じていたのか察しをつけてしまった。
ウエストレイはミスタ・シャーノールのパイプからただよってくる煙を片手で払った。
「誰か先代の卿に修復工事の話を持ちかけなかったのかって質問されたので、主任司祭が手紙を書いたけど梨のつぶてだったと言ってやりましたよ」
「手紙は先代の卿に出したんじゃないよ」ミスタ・シャーノールが口をはさんだ。「他でもないあいつに宛てて出したんだ。あいつに出したことを知らなかったのかい?先代のブランダマーに手紙を出したって紙とインクの無駄だってことは皆知っている。そんな馬鹿なことをしたのはわたしだけだよ。一度、オルガン修理の嘆願書を印刷し、名簿の筆頭に署名して欲しいと一部送りつけたことがある。しばらくして十シリング六ペンスの小切手を送ってきたよ。わたしは礼状を書いて、オルガン椅子の脚が折れたら、これで直せますわいと言ってやった。もっともやつのほうが一枚上手だった。小切手を現金に換えようと銀行に行ったら、支払い停止になっていたんだ」
ウエストレイは細くて甲高い声で愉快そうに笑ったが、それがアナスタシアには、あけすけな馬鹿笑いよりいらだたしく感じられた。
「聖堂に七千八百ポンドかかると聞いて躊躇したとき、それならあなたのためにオルガンを何とかしてもらおうと思ったんですよ。わたしはあなたがこの家に住んでいると言ったんです。お会いになりませんかって。『いやいや、今は止めておきましょう』とこう言いましたよ。『別の日に』ってね」
「爺さんそっくりだ」オルガン奏者はもう一度苦々しく言った。「採れるものなら、あざみから無花果を取るがいい(註 マタイ伝から)。しかしブランダマーから金をせしめようとは思うな」
皿を取り上げるとき、アナスタシアは親指をカレーの中に突っこんだことも気がつかなかった。彼女はとにかくその場を離れ、二人の毒舌の聞こえないところへ行き、こっそり隠れて胸のつかえをおろしたくてたまらなかった。ミスタ・シャーノールは部屋を出ようとする彼女にむかってもう一撃を放った。
「じいさんに似ているのは握り屋というところだけじゃない。じいさんは女たらしで悪名高かったが、今度のはそれに輪をかけた女たらしだ。身持ちの悪いやつらさ――どいつもこいつも」
ブランダマー卿がベルヴュー・ロッジによい印象を残せなかったのは確かに不運だった。若い娘は彼の顔つきを厳しく残酷であると判断し、建築家は彼のけちな性格を見抜き、オルガン奏者は断固彼を敵に回す覚悟をしたのだから。そうしたことを何一つ知らずいたのは彼の心の平安にとって幸いであった。いや、もしかしたら、そうしたことすべてを知っていたとしても彼はあまり悩まなかったかも知れない。彼のことを褒める唯一の人間はミス・ジョウリフだった。彼女は一寝入りしたあと顔を赤らめ、しかし元気を回復して起きあがった。そして夕食の食器が洗って片付けられていることに気がついた。
「あらまあ、あなた」彼女はたしなめるように言った。「わたし、寝こんで全部あなたにやらせてしまったのね。こんなことしちゃいけないわ、アナスタシア。起こしてくれればよかったのに」だが肉体は弱し(註 マタイ伝から)。彼女はあくびを隠すために、とっさに手を顔の前に持っていかなければならなかった。しかし彼女の心は本能的にその日の大事件のことへと戻っていった。彼女は穏やかに振り返って言った。「とっても立派な方ね。威厳があって、それでいて愛想がよくて。おまけにとびっきりハンサムだったじゃない」
第九章
こうした注目すべき出来事のあった翌朝、郵便屋がベルヴュー・ロッジに配達した手紙の中に、恐ろしいほど興味をそそる封筒が一通混じっていた。垂れ蓋の上に宝冠模様が黒く小さく押され、表には「カラン、ベルヴューロッジ、エドワード・ウエストレイ様」と太い読みやすい字で書かれていた。それだけではない。左下の隅には「ブランダマー」という署名がはいっていたのだ。たった一語ではあるが、それはあまりにも神秘的な意味に満ち、アナスタシアは胸をときめかせながら手紙を叔母に渡し、建築家の朝食と一緒に上の階へ持って行ってもらった。
「お手紙ですわ、ブランダマー卿から」ミス・ジョウリフは盆をテーブルに置きながら言った。
しかし建築家はただうなっただけで、定規とコンパスを使って忙しく製図に取り組みつづけた。ミス・ジョウリフがかくのごとき重要な書状の内容に燃えるような好奇心を感じなかったとしたら、彼女は女性を超越した存在だっただろう。それに貴人からの手紙をテーブルの上に放っておくのは、彼女にしてみれば、ほとんど神を冒涜するにも等しかった。
朝食を並べるのにそのときほど時間がかかったことはなかったが、それでも例の手紙はつつましい燻製ニシンを覆うブリキ蓋の横に置いてあった(栄光がいかに無価値なものと隣り合っていることか)。哀れなミス・ジョウリフはウエストレイにことの重大さを正しく認識させようと部屋を出る前に最後の努力をした。
「お手紙が来てますよ。ブランダマー卿からだと思いますわ」
「ええ、ええ」建築家は突っ慳貪に言った。「すぐ読みますよ」
こうして彼女は打ちのめされて引き下がった。
ウエストレイの無関心は一部は見せかけでしかなかった。彼は他人はどうあれ、自分は階級という人工的な身分差など意に介さない、農民に感銘を受けないように貴族にも感銘を受けない、そういうところを見せたかったのである。この超然とした無関心はミス・ジョウリフが部屋を出たあともつづいた。彼は人生を真面目に生きようとし、自分に対する義務は少なくとも隣人に対する義務と同じくらい大切だと思っていた。決意は二杯目のお茶まで持続し、そこで彼は封を切った。
拝啓(と手紙は始まっていた)
昨日のお話ではカラン大聖堂の南袖廊(註 原文では北袖廊)の修復に7800ポンドかかるということでした。この費用はわたしが負担しますので、すでに寄付として集めたお金は別の修復目的に回していただきたいと思います。また建物全体を根本的に修復するのに必要な追加費用もすべて差し出す用意があります。サー・ジョージ・ファークワーに連絡を取っていただき、以上の事情を考慮の上、修復計画を見直すようお取りはからい願えないでしょうか。次の土曜日にカランへ参ります。午後五時頃、お宅に伺いますので、そのあと聖堂を見せていただければ幸いです。
敬白
ブランダマー