広場に面したカラン大聖堂の北面はまだ日陰だったが、中に入ると南窓から太陽が射しこみ、建物全体が素晴らしく柔らかな光の洪水に包まれていた。確かにイギリスには聖セパルカより大きな教会はあるし、この聖堂は同じ規模の修道院建築と比べ、屋根が低いために均整がとれていないという欠陥があるが、しかしそれにもかかわらずこれほど真に威厳があり、堂々とした建造物がかつてあったかどうかは疑わしい。

身廊は千百三十五年、ウオルター・ル・ベックによって起工され、両側に低い、半円アーチのアーケードを備えている。アーチを一つ一つ区切っている円柱には、ダラムやウォルサムやリンディスファーンの聖堂に見られるような紋様の彫刻はなく、またウインチェスター大聖堂の身廊やグロスター大修道院の聖歌隊席に見られるような垂直様式の柱が巻きついてもおらず、ひたすらその無装飾とすさまじい直径によって見る人を圧倒した。その上には暗い洞窟のような奥行きを持つトリフォリウムがあり、さらにその上には小さな、まばらな開口部を持つクリアストーリーがある。これらすべての上にかぶさっているのが石造穹窿で、刳形装飾を施された重たい交差リブがアーチのあいだを横断し、かつ対角線状に伸びていた。

ウエストレイは扉口のそばに腰を下ろして夢中になって建物を観察し、巨大な石造物を横切る不思議な光りの戯れに見とれた。そのあまり立ち上がって聖堂のなかを歩き出すまでに半時間が経過してしまった。

がっしりした障壁が聖歌隊席を身廊からへだてていて、一つの聖堂からいわば二つの聖堂を作り出していた。ウエストレイが仕切りのドアを開けたとき、四つの声が語りかけてくるのを聞いた。見上げると塔を支える四つのアーチが頭上にあった。「アーチは決して眠らない」と一つが叫んだ。「彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた」と別の一つがそれにつづいた。「われわれはその重量を分散する」と三つ目が言い、四つ目は古い繰り返し文句に戻った。「アーチは決して眠らない。決して」

陽の光のなかでアーチをじっと見ていると、その幅といい細さといい、彼の驚きはいっそう深くなり、主任が建物の沈下や南の壁の不吉な割れ目をあれほどまでに軽視することがますます信じられなくなった。

聖歌隊席は身廊よりも百四十年後に、華麗な初期イギリス様式で造られた。幾つものランセット窓が、手のこんだ雨押さえ刳形によって二つずつ、三つずつにまとめられ、東端では七つの窓が一つにくくられている。ここには黒っぽい灰色のパーベック石でできた無数の柱身があった。柱頭は精巧な仕上がりを見せ、えぐりの深い草葉飾りがあり、羽を広げた天使がヴォールト軸を背負い、その上には尖った屋根がのっていた。

聖堂のこの部分だけでもカランの宗教的必要を満たすには充分で、堅礼式かミシリア・サンディ(註 在郷軍のメンバーをくじ引きで選ぶ日)のときでもないかぎり、会衆が身廊まであふれることはなかった。聖堂に来た人は誰もがゆったりと座ることができ、快適に礼拝することができた。というのも、千五百三十年、ヴィニコウム修道院長によって造られた天蓋付き聖職者席の前には信者席が長々と列をなして並び、緑色のベーズが張られ、真鍮の釘が打たれ、クッションや膝布団、祈祷書を収める箱が占有者の祈りのために備え付けられていたからである。カランで一角の人物たろうとする者は、誰もが金を払ってこの信者席を一つ借りていた。しかし宗教に対してさほどの贅沢ができない同じくらい多くの人々には樅板作りの別の席が与えられた。もちろんベーズは張られていないし、膝布団もなく、開き戸には番号もついていないけれど、それでもなんら不足はなく、ゆったりと座ることができた。

建築家が聖歌隊席にはいると、聖職者席を掃除していた事務員は、鷹が獲物をめがけて舞い降りるように彼のほうにむかってきた。ウエストレイは運命を避けようとはせず、それどころかこの老人のおしゃべりから聖堂に関する興味深い事実が得られることを期待していた。なにしろここはこれから何ヶ月ものあいだ彼の仕事場となるのである。しかし事務員は事物についてよりも人間について話したがった。そして会話はしだいにウエストレイが同居することになった家族のことへと移っていった。

ミスタ・シャーノールが賛嘆すべき沈黙を守ったジョウリフ家の先祖の疑惑は、事務員にとってはそれほど神聖な話題ではなかった。彼はオルガン奏者が踏むを恐れたところへ突進してゆき、ウエストレイもそれを制止すべきだとは感じず、むしろマーチン・ジョウリフとその想像上の主張について話をするよう水をむけたくらいだった。

「いやはや」と事務員はいった。「わたしが小さい子供の頃でした、マーチンのおっ母さんが兵士と駆け落ちしたのは。でもみんなの噂話はようく覚えとります。ただカランの人間は新しもの好きでね。あのときのことも今となっちゃあ昔語り、わたしと主任司祭をのぞいたら、あの話ができるのは一人もおらんでしょう。農場主のジョウリフさんと結婚したとき、彼女はソフィア・フラネリイと名乗ってました。どこで見つけてきたんだか誰も知りません。彼は親父の代からヴィドコウム農場に住んでいたんですよ、マイケル・ジョウリフは。陽気な男で、いつも黄色いズボンに青いベストを着とりました。それである日、彼は結婚するといってカランに来たんです。ソフィアはブランダマー・アームズで待っとって、二人はこの聖堂で結婚しました。そのとき彼女には三歳になる男の子がおりましてな、自分は未亡人だと言いふらしておったんですが、結婚証明書を見せろといわれても見せることはできないだろうと大勢の連中は考えとりました。しかしたぶん農場主のジョウリフさんは見せろなんて言わなかったんでしょう。さもなきゃ、何もかも承知の上だったんでしょう。すらりとした別嬪さんでしたよ、彼女は。分けへだてなくみんなに声をかけ笑っていたと、親父から何度も聞かされました。それに小金を持っとりましてなあ。三ヶ月おきにロンドンに出むいて家賃を集めるんだと彼女は言っとりました。戻るたびに目を見張るような新品の服を着とるんです。身なりは立派だし、風格みたいなものがただよっとるもんだから、みんなウィドコウムの女王様と呼んどりました。どこから来たのか知りませんが、あの人は寄宿学校を出とって、楽器も弾きこなせるし歌も見事でした。夏の夜なんか、わたしら若いもんはウィドコウムまで歩いていって農場近くの柵に腰かけ、開いた窓から聞こえてくるソフィの歌声を何度も聞きました。ピアノも持っとって、船長と水夫と失恋にまつわる、じんとくるような長い歌をよく歌っていて、みんな泣きそうになりましたよ。歌を歌ってないときは絵を描いてました。女房のやつは彼女が描いた花の絵を持っとりましてね。農場をあきらめんとならんくなったとき、たくさん売りに出されたんですよ。でもミス・ジョウリフはいちばん大きいのを手放そうとはなさらんかった。買いたいって連中は多かったんですが、あれはとっておくことにしたらしく、今でもあの人の手元にありまさあ。看板みたいにばかでかい絵で、そりゃきれいな花で埋めつくされているんですがね」

「ええ、見ましたよ」ウエストレイが口をはさんだ。「ミス・ジョウリフの下宿のわたしの部屋にあるんです」

彼は絵のまずさについても、それをはずすつもりでいることも黙っていた。話し手の芸術的感受性を傷つけたくなかったし、案外と面白くなり出した話の腰を折りたくなかったのである。

「ほら、そうでしょう!」と事務員は言った。「ウィドコウムにあったときは、いちばんいい応接間の、食器棚の上にかかってました。子供のとき見たんですよ。お袋が春の大掃除の手伝いに農場へ行きましてね。『トム、見てごらん』とお袋に言われました。『こんなお花、見たことがあるかい。可愛い毛虫がお花を食べようとしているよ!』ほら、下の隅っこに描かれている緑色の毛虫のことですよ」

ウエストレイは頷き、事務員は話しつづけた。

「『ねえ、ミセス・ジョウリフ』ってお袋がソフィアに言いました。『こんなきれいな絵を見たら、他の絵なんて見る気がなくなりますわ』ってね。そしたらソフィアは笑って、お袋は絵を見る目があるって言いました。値打ちがないってけちをつける連中もいるけど、売りに出したらいつだって五十ポンドか百ポンドかそれ以上の値がつくさ。絵の分かる人のところに持っていけばね。そのときは、絵の具をはねちらかしただけじゃねえかといった連中を笑ってやるんだ。そう言って笑っとりました。あの人はいつも笑っていて、いつも明るかった。

マイケルは元気のいいかみさんが大いに気に入っとって、よく大型二輪馬車でカラン市場に乗りつけて、みんなの注目を集めたり、彼女が途中ですれ違う農夫たちと冗談を交わすのを嬉しそうに聞いとりました。彼女のことはえらく自慢しとりましたが、ある土曜日、ブランダマー・ホテルで、かみさんが産んでくれた可愛い娘のために乾杯してくれと、客の全員に酒をおごったときはもっと得意そうでした。これで子供が二人になったと言いましてな。ソフィアの連れ子を自分のところで実の息子のように育ててたんでさあ。

それから一年か二年すると、ウィドコウム・ダウンの丘陵で軍事演習のキャンプが張られましてね。あの夏のことは、ようく覚えとります。ひどく暑い夏で、ジョウイ・ガーランドとわたしはメイヨーズ・ミードの洗羊場で泳ぎの練習をしましたから。丘陵にはずらっと白いテントが並び、士官用の食堂テントの前じゃ、夕方ブラスバンドが音楽を演奏するんで。たまに日曜の午後も演奏してました。司祭さんはとんでもねえ迷惑だと大佐に手紙を書きましてね、楽隊のせいで人々が教会に来ない、『民坐して飲食《のみくい》し起《た》ちて戯る』(註 出エジプト記から)さまは、金の子牛を崇拝するにも等しいと、こう言ったのです。ところが大佐はそんなものに鼻も引っかけやしませんや。で、天気のいい夕方になると、大勢の人が丘陵に出ておりました。娘っ子のなかには、あのクラリネットとバスーンみたいな素敵な音楽は、ウィドコウム大聖堂の階上廊じゃ聞いたことないって、あとで言ってるやつがおりました。

ソフィアも何度もあそこに出かけてました。最初は旦那の腕につかまって歩いとりましたが、それから他の人と腕を組んで歩くようになりました。ビャクシンの茂みの陰で兵士と腰を下ろしとったという噂もありました。あいつらが移動したのは聖ミカエル祭前夜のことですよ。聖ミカエル祭(註 九月二十九日)の前日にウィドコウム農場で食ったガチョウはさぞかしまずかったでしょうな。というのは兵士がいなくなったとき、ソフィアもいなくなったからなんで。マイケルも農場も子供たちも捨てて、誰にもさよならを言わなかったんです。子供ベッドに寝ている赤ん坊にさえね。軍曹と駆け落ちしたんだって言われてますが、本当のところは分かりゃしません。農場主のジョウリフさんは彼女を捜して、ひょっとしたら居場所を突き止めたのかも知れませんが、そんなことは一言も言いませんでした。彼女はウィドコウムに戻りませんでしたよ」

「彼女はウィドコウムに戻りませんでしたよ」彼はため息のようなものをつきながら声をひそめてそう言った。長らく忘れていた農場主ジョウリフ一家の崩壊に心を動かされたのだろう。いや、次のようにつづけたところを見ると、自分が被った損害のことしか考えていなかったのかも知れない。「そうそう、あの人は貧乏な人に煙草を一オンス分け与えたり、労働者の小屋にお茶を一ポンド送ったりしとりました。きれいな服を買ったら、お古は人にあげなさるんで。女房のやつは、あいつのおっ母さんがソフィ・ジョウリフからもらった毛皮の襟巻きをいまだに持っとります。他の点はともかく、まあ、気前よく人に金をやる人でしたな。農場で働いている連中の中に、彼女の悪口を言うやつは一人もいませんでした。出て行かれて喜んだ人間は一人もいませんでしたよ。

かわいそうにマイケルは、口数の多い男じゃねえんですが、はじめのうちひどく取り乱しました。黄色いズボンと青いチョッキは相変わらず着てましたが、仕事する気力がなくなり、市場にもきちんきちんと行くべきところが、足が遠ざかるようになりました。ただ子供たちをいっそうかわいがるようになったようでした――父親を知らねえマーチンと、母親を知らねえ赤ん坊のフェミーですよ。わたしの知るかぎり、ソフィーは子供に会いに戻ってきたことはありませんでした。しかしそれから二十年後にわたしはこの目で彼女を見ましたよ。ビーコン・ヒルの定期市へ馬を売りに行ったときのことでさあ。

あの日も陰気な日でした。というのはマイケルがはじめて持ち物を売って金を作らにゃならんかった日だったんです。かわいそうに旦那さん、その頃はげっそりやつれてました。以前と違って青いチョッキと黄色いズボンにたるみができて、おまけに服じたいがすっかり色褪せてしまいましてな。

『トム』と旦那さんが言いました――つまりわたしのことですよ――『この馬どもをビーコン・ヒルに連れて行って、できるだけ高く売ってこい。金がいるんだ』

『なんですって、お父さん、いちばんいい輓馬《ばんば》を売るの?』フェミー嬢ちゃんが言いました――そばにいらっしゃったんで――『ホワイト・フェイスとストライク・ア・ライトはいちばんいい輓馬なんだから売らないで!』すると馬が顔をあげるんですよ。お嬢ちゃんに名前を呼ばれたことがちゃあんと分かるんですな。

『そんなに大騒ぎすることはないよ、おまえ』旦那さんが言いました。『受胎告知(註 三月二十五日)の祭が来たら、また買い戻すから』

わたしは馬を連れて行きました。旦那さんがなぜ金を必要としたのか、ようく知っとりました。マーチンが借金をしこたま首にぶらさげてオックスフォードから戻ってきたんです。農場の仕事に手も貸さないで、自分はブランダマー家の人間なんだとか、フォーディングの屋敷も土地も本来なら自分のものになるはずなんだと言いふらしとったんでさあ。今調査をしてるとか言って、あちこちをほっつき歩き、時間と金をさんざんつぎこんでましたよ、益体《やくたい》もない調査とやらに。ありゃあ陰気な日でした。ビーコン・ヒルに行くと、大降りの雨だし、芝生はぐちゃぐちゃでした。馬どもはずぶ濡れで、しょげた顔つきなんですわ。売られることが分かってたんでしょう。そんなこんなで午後になりましたが、どっちの馬にも買い手はつきません。『お気の毒な旦那さんだ』わたしは馬どもに言いましたよ、『このまま帰るにしても、なんて言い訳したらいいのかねえ』って。でもね、馬どもと別れ別れにならんでいいんだと思うと、わたしはうれしかったですよ。

わたしらは雨の中に突っ立っとりました。農夫や商人はわたしらをちらと見て、なにも言わずに通り過ぎていきました。そのときですよ、誰かがこっちにやってくると思ったら、ソフィア・ジョウリフじゃねえですか。最後に見たときから一歳だって歳なんか取っちゃいないような様子でしたな。あの日の午後、わたしらが目にした中で、朗らかだったものといったら、あの人の顔だけでした。生き生きして陽気なのはちっとも変わっちゃいません。大きなボタンの付いた黄色い雨外套を着て、彼女が通るとみんな振り返ってじろじろ見るんです。彼女といっしょに馬喰《ばくろう》が歩いてましてね、人々が目を見張るたびに、彼女のほうを誇らしそうに見てました。ちょうどマイケルが馬車で彼女をカラン市場に連れて行ったときと同じように。彼女は馬には目もくれませんでしたが、わたしの顔をまじまじと見ましてね。通り過ぎてから頭をめぐらしてもう一度見るんですよ。それから戻ってきました。

『おまえさん、トム・ジャナウエイじゃないかい』と彼女は言いました。『ウィドコウム農場で働いていたんじゃないかい』

『へえ、そうです』とわたしは言いましたが、よそよそしい口調を使ってやりました。旦那さんにあんな仕打ちをしておいて、こんなに陽気な面《つら》してるなんて腹が立ちましたからな。

彼女はわたしの不機嫌を無視して尋ねました。『これは誰の馬なの』

『あなたの旦那さんのですよ、奥さん』わたしは思いきって言ってやりました。鼻っ柱をへし折ってやろうと思って。ところがどうですか、彼女はそんなこと、屁とも思わねえようで『わたしのどの旦那さ』ときました。そしてげらげら笑い出して、横にいる馬喰をつついてました。男のほうは彼女を絞め殺したそうな顔をしてましたがね。彼女はそれも気にかけませんでした。『どうしてマイケルは馬を売りたいんだい』

わたしは毒気を抜かれちまいましてね。もうやりこめようなんて気はなくなって、ありのままに事情を話したんです。その忌まわしい日一日ずっと突っ立ってたのに、買い手がつかねえってことも。彼女は何も訊きませんでしたが、マーチン坊ちゃんとフェミー嬢ちゃんのことを話したときは、目がきらっと光りましてな。それから急に馬喰のほうを振りむいて言いました。

『ジョン。こりゃいい馬だよ。安く買って明日また売ろうじゃないか』

そしたらあの野郎、毒づきやがって、老いぼれの駑馬《どば》じゃねえか、犬の餌にもなりゃしねえって言うんですよ。

『ジョン』彼女は落ち着き払って言いました。『レディの前で毒づくなんてマナーがいいとはいえないよ。こりゃいい馬なんだから、買っとくれよ』

男はまた毒づきましたが、彼女は男のあしらい方をちゃんと心得ているようでした。えらく笑っちゃいなさるが、顔にはおそろしく断固とした表情を浮かべているんで。男はだんだん静かになって、彼女に話をさせるようになりました。

『この四頭をいくらで売りたいんだい、おまえさん』と彼女は言いました。わたしは八十ポンドと言おうかと思いました。昔のよしみでひょっとしたらそのくらいは出してくれるんじゃねえかと考えてね。でもそれで取引がご破算になっちまうのも怖くて、言い出せないでいたんです。『ほら、答えなさいよ。いくらなの。口がきけないの。おまえさんが値段をつけないなら、あたしがつけるよ。ジョン、百ポンドつけてやりなさいよ』

男は馬鹿みたいに目を剥きましたが、何も言いませんでした。

そうしたら彼女がきつく睨み付けて、

『百ポンドでなきゃだめよ』彼女は低いけれども、きっぱりした声で言いました。で、男が『おい、百ポンド出すぜ』と言いました。ところが、わたしが『売った』という前に、彼女がつづけてこう言ったんですよ。『だめ――この若者はだめだと言ってるわ。顔を見りゃ分かるのよ。それじゃ足りないって思っている。百二十ポンドでどうだって言ってみなさいよ』

男は魔物に魅入られたみたいに、えらくおとなしく『じゃあ、百二十出そう』と言いました。

『ああ、そのほうがいいわ』と彼女が言いました。『そのほうがいいって彼は言っているよ』彼女は胸元から小さい革の財布を取り出して、雨が入らねえように雨外套のすその下に隠しながら、二十枚ほど新札を数えて、わたしの手に握らせました。それが入ってたところにはもっとたくさんの札束がありました。財布にお札がびっしり詰まっているのが見えたんでさあ。わたしがそれを見ているのに気づくと、彼女はもう一枚取り出してわたしに寄こすんで。『こりゃおまえさんにやるよ。おまえさんに幸運が訪れますように。それで好い人のために土産でも買ってやるんだね、トム・ジャナウエイ。それから、ソフィ・フラネリイは昔の友達を忘れるような女だなんて言いふらしじゃないよ』

『奥様、ご親切にありがとうございます』とわたしは言いましたよ。『ご親切にありがとうございます。あとでもったいないことをしたなんてお思いになりませんように。家賃が今もきちんきちんと入ってきなさればいいですなあ』

彼女は大声で笑って、その点は心配おしでないよと言いました。それから彼女は小僧を呼んで、小僧がホワイト・フェイスとストライク・ア・ライトとジェニーとカトラーを連れて行って、わたしがお休みなさいと言う前に、馬喰もソフィーもみんないなくなっちまいました。彼女は二度とそのあたりにあらわれたことはありません――少なくともわたしは見たことがないですな。ただ噂であのあと二十年ほど生きて、ベリトン競馬のときに溢血をおこして死んだってのは聞きましたがね」

彼は少しだけ聖歌隊席の奥に進み、掃除をつづけたが、ウエストレイはあとを追って、また話を始めるきっかけを与えた。

「家に帰ってから何が起きたんです?農場主ジョウリフがなんて言ったのか、まだお話になっていませんよ。それにどうして農場をやめて教会事務員になったのかも」

老人は額をぬぐった。

「そのことは話すつもりがなかったんですがなあ」と彼は言った。「思い出すと今でも冷や汗が出ますわい。しかしお聞きになりたいというならお聞かせしましょう。みんながいなくなったとき、わたしはあまりの幸運にほとんど目まいがしましたよ。で、夢じゃないことを確かめるために主の祈りを唱えました。しかし夢じゃありませんでした。それでチョッキの裏地に切れこみを入れ、札束を中に落としたんです。彼女がわたしにくれた一枚を除いて。そいつだけはズボンの時計入れポケットにつっこみました。日が暮れてきて、寒いし濡れてるし、感覚がなくなってきましてな。なにしろ雨の中にずっと立ちっぱなしで、一日じゅう飲み食いしてなかったんですから。

あそこは吹きっさらしの場所なんですわ、ビーコン・ヒルってのは。あの日は道がぬかるんで、編み上げ靴に水がしみこみ、歩くとがぷがぷ音がしました。雨はひっきりなしに降って、仮小屋の外を照らしはじめたナフサランプにしぶきが飛びこみ、ぱちぱちはぜるんですよ。ある長いテントの外にやたらとぎらぎら輝く灯りがともってまして、中から油で炒めたタマネギの匂いがただよってきて、腹の虫が叫びたてました。『お願いしますよ、ご主人様、お願いしますよ!』ってね。

『ようし』とわたしは腹の虫に言ってやりました。『ちゃんと満腹にさせてやるからな。おまえをからっぽのままウィドコウムには帰らんぞ』それでテントに入ったんですが、いや、中はあったかいし、明るいし、男は煙草を吹かし、女は笑い、料理の匂いがたまんねえんで。架台の上に板をのっけたテーブルがテントの中に並べられておりましてね。その脇には長いベンチがあって、みんなが食べたり飲んだりしとりました。部屋の一方の端には売り台が横に延びとって、その上で錫の皿が湯気を立てているんでさあ。豚足、ソーセージ、胃袋、ベーコン、牛肉、カリフラワー、キャベツ、玉葱、ブラッドソーセージ、それに干し葡萄入りプディング。お札を小銭に換えるにはちょうどいい機会だと思いました。ポケットの中で木の葉になっちまう妖精の金じゃなくて、本物かどうか確かめることもできるってんでね。それでわたしは近づいて牛肉とジャック・プディング(註 ブラッドソーセージのことか)の皿を注文し、お札を差し出しました。娘さんが――カウンターの後ろにいたのは娘さんでした――それを手に取ってじっと見つめ、それからわたしをじっと見るんですよ。なにせずぶ濡れで泥だらけでしたからな。娘さんはお札を店のおやじのところに持って行って、おやじはそいつを女房に見せました。女房はそれを光りに透かし、みんなで議論を始めました。それから樽に印を付けていた物品税の收税吏に見せたんです。

近くに座っていた人は何事だろうとじろじろ見るし、こっちは顔が熱くなってきて、お札なんかうっちゃってさっさとウィドコウムに帰りたくなりました。でも收税吏はまともな金だと請け合ってくれたに違いありません。おやじがソブリン金貨四枚と十九シリングを持って戻ってきて、お辞儀しながらこう言いましたから。

『お客さん、飲み物を持ってきましょうか』

わたしはどんな酒があるのだろうとまわりを見ました。お札が本物だと分かって、そりゃあ嬉しかったですな。おやじが言いました。

『ミルク入りラム酒は元気がつきますよ。熱いミルク入りラム酒をお試しくだせえ』

それでミルク入りラム酒を一パイントもらって、いちばん近くのテーブルにつきました。わたしがとっつかまるのを見ようと待ちかまえていた連中は場所を空けてくれまして、御前様を見るみてえにわたしを見とりました。わたしは牛肉の皿をおかわりし、ミルク入りラム酒をもう一杯飲み、パイプをふかしました。ウィドコウム農場に夜遅く戻っても札びらが二十枚以上あるんだから叱られやしないと思いながらね。

肉と酒のおかげで人心地がついて、パイプとテントの暖かさで服が乾き、湿った感じがなくなりました。編み上げ靴の中はもうじめじめしちゃおりません。一緒になった連中も愉快だし、育ちのいい商人も何人かそばに座っていました。

『旦那の健康に乾杯』一人がグラスを上げてわたしに言いました。『心から敬意を表しやすぜ。あの連中、札びらなんて見慣れてねえんで、そいで旦那のお札にちょいとたまげちまったのさ。けど、おりゃあ、旦那を見たとたん、ダチ公に言ったんだ。『おい、あの紳士はおれらのお仲間だぜ。間違いねえ、御大尽様よ』ってね。入ってきた瞬間に立派な紳士ってこたあ分かりやしたぜ』

そんな具合におだてられちゃいまして、お札一枚でこんなに騒ぐんなら、ポケットいっぱいの札束を持っていることを知ったら何て言うだろうと思いましたよ。しかし何も言いませんでした。ただその気になりゃあ、このテントの半分を買い占めることができるんだと思ってくすっと笑いましたがね。そのあとでわたしは連中に酒をおごり、おごり返され、ひどくいい気分で一晩を過ごしたってわけで――しかもわたしら、親密な仲になって、相手が名誉を重んじる立派な人たちだって分かると、わたしも札束を持っていて、いっしょにお付き合いさせていただく資格がちゃんとあるってところを見せてやったんだから、なおさらいい気分でした。連中は敬意を表してさらに乾杯してくれたんですが、そのうちの一人が、今飲んでる酒はわたしみたいな紳士にふるまうにゃ、ふさわしくないって言って、自分のポケットから小瓶を取り出し、わたしのグラスをいっぱいにしてくれたんですよ。その人の親父がウオータールーの戦いがあった年に買った銘酒なんだそうで。いや、これが強いの何のって、飲んだら目から火が出るようなしろもんでした。でもわたしは平気な顔で飲みましたよ。古酒の味が分からねえなんて思われたくなかったですからな。

わたしらはテントの中がむっとしてナフサランプの光りが煙草の煙でぼやけちまうまで座っとりました。外はまだ雨が降っとって、屋根を激しくたたく音が聞こえました。屋根の粗布のへこんだところからは水が染みてきてぽたぽたしたたり落ちてきました。酔っぱらったやつらのなかには、声を荒げて言い争う者もありましたな。わたしも声が他人みたいになっちまうし、頭がふらふらしてしゃべることもままならねえありさまで、こりゃあ限界まで飲んだかなと思いました。そうしたら鐘が鳴って、收税吏が『閉店だ』と叫び、売り台のうしろのおやじが『さあ、今日はこれでおしめえですぜ。ぐっすりお休みくだせえよ。女王様万歳、明日も楽しくお会いできますように』それでみんな立ち上がって、外套の襟を耳まで立てて、外に出ました。五人ほどへべれけになっちまって、架台の下の芝生に一晩寝かされましたがね。

わたしは足もとがふらついたんですが、友達が両側から腕を取って支えてくれました。とっても親切な連中でしてな。わたしは眠いし、外に出ると目まいがしちまいました。わたしがどこに住んでいるか告げると、連中は心配するな、送ってってやる、畑をつっきればウィドコウムまで近道できるって言うんでさあ。出発してからちっと暗いところに入りこみましてね。で、次の瞬間何かに顔をぶん殴られたんですよ。気がついて起きたら、若い雌牛がわたしの臭いを嗅いどりました。真昼間になっとって、わたしは生け垣の根本で、アルムの花に囲まれて寝っ転がっとりました。びしょびしょに濡れて泥まみれですわ。(粘土質の土だったんですな)おまけに頭はまだ少しだけぼうっとしてるし、恥ずかしいかぎりでしたわい。ですが旦那さんのために取引を成立させたことや、チョッキに隠した金のことを思い出して気を取り直しました。で、札束に手を伸ばして、濡れてだめになっていないか確かめようとしたんです。

ところがそこに札束がねえんで――いや、一枚もねえんですよ。チョッキをひっくり返して裏地を破いて調べたんですがね。わたしが寝ていたところはビーコン・ヒルから半マイルしか離れていませんでした。それでさっそく市のあったところへ引き返したんですが、前の晩の友達は見つからないし、酒屋のテントの親父に訊いても、そんなやつら見たことねえと、こう言うんですわい。わたしは一日中あっちこっちを探し回って、ついにはみんなに笑われちまいました。何しろ前の晩は酒をかっくらって野宿はするし、一銭残らず盗まれたせいで何も食ってねえし、えらく取り乱した様子をしてましたからな。お巡りさんに報告したら記録にゃつけてくれましたが、そのあいだもわたしの顔や、チョッキの下から垂れ下がっている破れた裏地を見つめるんですよ。それを見て、お巡りさんが、こりゃあただの与太話だ、こいつまだ酔いが残ってるな、と思ってることが分かりました。あきらめて家に帰ろうとしたときにはもう暗くなっとりました。

ビーコン・ヒルからウィドコウムまで近道してもたっぷり七マイルあります。わたしはくたくたに疲れたのと、腹が減ったのと、恥ずかしいのとで、プラウドさんの水車小屋を見下ろす橋の上で半時間ほど足を止めていました。あそこに飛びこんで死んじまおうかなと思いながらね。でもふんぎりがつかねえで、結局ウィドコウムに帰ったんで。みなさん寝ようとするところでしたな。事情を話してるあいだ、農場主のマイケルもマーチン坊ちゃんもフェミー嬢ちゃんも幽霊を見るみたいにわたしを見てましたよ。でも馬を買ったのがソフィー・ジョウリフだということは言いませんでした。マイケルは何も言わず、ただもう呆然としてました。フェミー嬢ちゃんは泣いとりました。しかしマーチン坊ちゃんは、そんなの作り話だ、わたしが金を盗んだんだ、お巡りさんを呼ぶべきだと、こう怒鳴るんで。

『嘘だ』と坊ちゃんは言いました。『こいつは悪党だ。しかも見え透いた嘘をつく大馬鹿者だよ。誰が信じるものか、どこぞの女が七十ポンドでも高い馬に百二十ポンドも払ったなんて。その人は誰だい。知ってる人かい。そんな人なら市にいた人が大勢覚えているだろうよ。ポケットに札束をいっぱい詰めこんで、馬を倍の値段で買い取る人なんてめったにいないからな』

買ってくれた人のこたあ、ようく知っておりましたが、農場主のジョウリフさんをこれ以上悲しませたくないと思って、その名前は口にしたくなかったんです。だから何も言わずに黙っとりました。

そうしたら農場主が言いました。『トム、わたしはおまえを信じるよ。三十年の付き合いだが、おまえが嘘をついたことはなかった。今もおまえを信じている。しかしその女の名前を知っているなら教えてくれないか。知らないとしても、どんななりをしていたか、話してくれ。そうすりゃ誰か見当がつくかも知れん』

けれども、それでもわたしは黙っとったので、とうとうマーチンがこんなことを言いました。

『女の名前を白状しろ。本当に馬を買ったなら、名前くらいちゃんと知ってるはずだ。父さん、甘やかしちゃだめですよ、こんな馬鹿の話を信じたりして。お巡りさんを呼ぶぞ。さあ、名前を言え』

わたしもそんな乱暴な口のきき方にはむかつきましてな。苦しんでいるお父さんは許してくださったというのに。それで言ってやったんです。

『ええ、名前は知ってまさあ。お聞きになりてえとおっしゃるなら。奥様ですよ』

『奥様だと?』坊ちゃんは言いました。『どこの奥様だ?』

『坊ちゃんのお母さんでさあ。男といっしょでしたがね。ここを出ていったときの相手じゃありませんでした。奥様がそいつに馬を買わせたんで』

マーチン坊ちゃんはもう何も言いませんでした。フェミー嬢ちゃんは泣きつづけとりました。しかし旦那さんの顔はいっそう虚ろになりました。そしてえらく静かな声でこう言いました。

『もういい。わたしはおまえを信じているし、今回のことは大目に見る。百ポンドなくそうがなくすまいが、今となっちゃあたいした違いはない。これが運命とあきらめるさ。おまえの話した場所でなくさなかったとしても、どこか別の場所でなくしていただろうからな。中に入って風呂を浴び、何か食べたらいい。それから今回は許すが、二度と酒に手を出しちゃいかんぞ』

『旦那様』とわたしは言いました。『ありがとうございます。ちっとでも金が入りましたら、返せるものはお返しします。酒は神様に誓ってもう飲みません』

わたしが旦那さんに手を差し出したら、旦那さんは握り返してくれました。泥だらけだったんですがね。

『気にするな、おまえ。明日は警察にやつらを追いかけてもらおう』

わたしは約束を守りましたよ、ミスタ――ミスタ――ミスタ――」

「ウエストレイ」と建築家は教えた。

「お名前を伺ってなかったんですよ。ほら、主任司祭はわたしを紹介してくれませんでしたからね。わたしは約束を守りました、ミスタ・ウエストレイ。それからはずっと禁酒してるんで。でも旦那さんは警察にやつらの跡を追わせることはなかったんです。というのは次の日の朝早くに卒中を起こして、二週間後にゃお亡くなりになってしまったんです。ウィドコウムには緑の柵をめぐらしたお父さんとお祖父さんの墓があるんですが、その近くに埋めてさし上げましたよ。黄色いズボンと青いチョッキは羊飼いのティモシー・フォードに形見分けしてやったんですが、あいつはそのあと何年も日曜日になるとそれを着とりました。わたしは旦那さんが埋葬された日に農場を離れてカランに来ました。片手間仕事をやっとったんですが、寺男が病気になってからは墓堀の手伝いをしとりました。で、彼が死んだときに代わりの寺男にされたんで。つぎの精霊降臨祭(註 復活祭後の第七日曜日)であれから四十年になりますわい」

「マーチン・ジョウリフはお父さんが死んだあと、農場の経営を引き継いだのですか?」ウエストレイはしばらく沈黙がつづいたあと尋ねた。

彼らは話をしながら信者席の列のあいだをぶらぶら歩き、大聖堂を二つに区切る石の障壁を通り抜けた。カラン大聖堂の聖歌隊席は他の部分よりも床が数フィート高くなっており、身廊に降りる階段の上に立つと左右に交差廊が広々とひろがっているのが見えた。北袖廊の端の壁――かつてその外にチャプターハウスと修道院の宿坊が建っていた――には高いところに小さなランセット窓が三つあるだけだった。しかし交差部分の南端には壁がまったくなくて、二つの欄間窓と無限に入り組んだ狭間飾りを持つヴィニコウム修道院長の窓がその全面を占めていた。その結果、奇妙な対照が生み出された。教会の他の部分は、窓が小さいために寂しいくらい光りが抑えられており、北袖廊は建物の中でもっとも薄暗い部分となっているのだが、南袖廊、つまりブランダマー側廊は常に澄みきった陽の光を浴びていたのである。さらに、身廊はノルマン様式で、袖廊と聖歌隊席は初期イギリス様式であるのに、この窓は複雑な構成と、ごてごてと手のこんだ細部を持つ後期垂直様式なのだ。その相違はあまりにも顕著で、建築をまったく知らない素人も思わず注意をむけるくらいだった。まして専門家の目ともなれば、なおさらひきつけられて当然だろう。ウエストレイは一瞬、質問を繰り返しながら階段の上に立ち止まった。

「マーチンは農場の経営を引き継いだのですか」

「ああ、引き継ぎましたが、真剣にやらんかったんですな。もっぱらフェミー嬢ちゃんが仕事をなさりました。マーチンの邪魔がなければお父さんよりいい農場主になっとったでしょう。ところがマーチンは彼女が半ペニー稼いぐあいだに一ペニー使っちまい、とうとう何もかも競売に付されちまいました。オックスフォードでうぬぼれて、誰もいさめる人がいなかったんです。紳士にならにゃならねえとさんざん気取りまくって、しまいに『紳士ジョウリフ』とか、もっとあとになっておつむがいかれてきた頃は『雲形じいさん』とか呼ばれとりました。頭が変になったのはあれのせいですよ」そう言って寺男は巨大な窓を指さした。「あの銀色と緑のしわざでさあ」

ウエストレイが見上げると、窓の中央の仕切り上部に雲形紋章が見えた。まわりをそれよりも濃いガラスに囲まれ、日中の光りの中で見るその輝きは、昨晩、夕闇の中で見たときよりも、いちだんと強い印象を与えた。

第五章

ためしに一週間住んでみたところウエストレはミス・ジョウリフの下宿の住み心地のよさに満足した。「神の手」は確かに聖堂からやや離れているが、町ではいちばんの高台にあり、建築家は食事にこだわるだけでなく、空気がさわやかで、低地でないことを極端に重視したのだ。家中どこも念入りに掃除されていることもよかったし、ミス・ジョウリフの料理も気に入った。凝ったものを作るのでないかぎり、彼女の料理は長い経験によってある意味で完璧という域に達していた。

召使いがおらず、ミス・ジョウリフは自分が下宿にいるときは、姪に給仕をさせないことも分かった。このため彼はやや不自由を強いられることになった。もともと性格的に思いやり深い彼は、もう若いとはいえない女主人に無理をさせないよう気を遣ったからである。呼び鈴は鳴らさないようにし、鳴らしたときはしばしば踊り場まで出て、螺旋階段の下のほうにむかって大声で用件を告げ、真暗な石の階段をわざわざ登ってこなくてもいいようにした。このような気遣いはミス・ジョウリフにも伝わり、彼女が彼にこのまま下宿しつづけて欲しいと切に願っている様子をありありと示すと、ウエストレイは虚栄心をくすぐられた。

自分の好意が充分に感謝されていると見て、彼はある夕方、お茶の時間近くに、女主人を呼んでベルヴュー・ロッジに住みつづける旨を伝えることにした。これからも部屋を借りることをはっきり目に見える形で示すため、彼は自分の趣味に合わない置物や、とりわけ食器棚の上にかかる大きな花の絵をはずすよう要求することに決めていた。

ミス・ジョウリフは書斎と彼女が呼んでいる部屋に座っていた。これは家の裏手にある小さな部屋で(かつては宿の食品室だった)、彼女はいかなる家計の問題に取り組まなければならないときも、ここに引きこもるのだった。家計の問題はもう何年にもわたって嫌になるほど頻繁に起きていたが、今や兄の長期にわたる病いと死が、この二と二を足して五にしなければならない難儀な戦いに危機的な状況をもたらしていた。彼女は病気という口実のもとに求められるものはどんな贅沢も惜しみなく兄に与え、マーチンもそれをいちいち気にするようなこまかい男ではなかった。寝室の暖房、牛肉スープ、シャンペン、金持ちにとってはどうということのないものながら、貧乏人の献身的な愛にとっては重い負担となってのしかかる千と一つのことどもが、すべて借金として勘定書に記録されていた。こうした出費が家計のなかで突出することは、ミス・ジョウリフにとって、倹約の規則をあまりにも大きく逸脱することであり、贅沢の罪――七つの大罪の先陣をつとめるルクスリア、つまり奢侈の罪――から良心の目をそらすには、事態の緊急性という言い訳がどうしても必要になった。(註 ルクスリアは色欲の罪。作者の勘違いと思われる)

肉屋のフィルポッツはミス・ジョウリフ用の帳簿にスイートブレッド(註 子羊の膵臓)という記載があるのを見て半ば笑みをもらし、半ばため息をついた。実をいえば、彼はこれに類する幾つもの購入品をわざと記録につけ忘れた。優しい思いやりからこっそりそうしたのだが、にもかかわらず好意の受け手はそのことに気がついていて、まさにそのさりげなさのゆえにこうした人助けはいっそうありがたく感じられるものだ。雑貨屋のカスタンスも痩せ衰えた老婦人にシャンペンを注文されたときは、びくびくしながら応じた。ワインのような高級品に対して請求しなければならない料金を少しでも取り返させてやろうと、お茶や砂糖の注文があったときは、きっちり料金分の量目を入れたうえ、さらにそれをぐっと押しこみ、入れ物からあふれるくらいサービスしてやった。しかしどんなに倹約を心がけても全体としての出費はかさみ、ミス・ジョウリフはそのとき、世界中で珍重されているドゥック・ドゥ・ベントヴォリオの金の薄紙を巻き付けた三本の瓶が、頭上の棚から今も首を突き出しているのを眺めながら、借金の重みをずしりと感じていたのである。ドクタ・エニファーに借りている分のことは考えようともしなかったし、恐らくほかの借金より心配する必要がなかっただろう。医者は、金があるなら払ってくれるだろうし、まったく払えないというなら全額免除してやろう、と腹を決めて、請求書を送ってこなかったからである。

彼女は医者の配慮に感謝し、彼がいつも犯す、とりわけいまいましい不作法を、まれに見る寛容の心で見逃した。この不作法というのは薬を送る宛先を、そこがいまでも宿屋であるかのように書き記すことだった。ミス・ジョウリフは「神の手」に引っ越す前に、修繕費用として支給されたなけなしの金のほとんどを、正面に書かれた宿屋の名前を塗り消すことに費やした。ところが大雨のあとは、あの大きな黒い文字が天の邪鬼にも皮膜を透かしてじろりとこちらを見、オルガン奏者は「神の手」の裏をかくのは容易じゃないな、などと軽口をたたいた。ミス・ジョウリフはそんな冗談をくだらないし、無礼だと言い、ドアの上の明かり取り窓に「ベルヴュー・ハウス」と金文字を入れることにしたのだった。ところがカランのペンキ屋は「ベルヴュー」を小さく書きすぎ、残りの空間を埋めるために「ハウス」をあまりにも大きく書いたものだから、オルガン奏者はこの不釣り合いを見てまたしても皮肉を言った。ここが「ハウス」であるのは誰でも知っているが、「ベルヴュー」であることは誰も知らないのだから、あれは逆に書くべきだ、と。

その後、ドクタ・エニファーが「手 ミスタ・ジョウリフ」という宛名で薬を送ってきた――「神の手」ですらなく、ただ「手」と書いて。ミス・ジョウリフは陰鬱な広間のテーブルに置かれた薬瓶をさげすむように見、怒りの声が口からもれぬよう息を殺しながら、手早く包みを引き破いた。このように心優しい医者は、日頃の仕事の忙しさに取り紛れ、知らず知らずのうちに心優しい婦人をいらだたせていたのである。そのあげく彼女は書斎に引きこもり、人もし汝の頬をうたば、もう一方の頬をもむけよ、という教えを読んで、ようやく心の平静を取り戻すことができたのだった。

ミス・ジョウリフは書斎に座ってマーチンの借金をどう返済しようと考えていた。彼の兄はその無秩序で非能率的な人生を通して、おのれの秩序だった能率的な習慣を誇りにしていた。それは几帳面で組織的な請求書のまとめ方にあらわれているにすぎなかったが、しかしその点だけは確かに秀でていたといえる。彼は借金の支払いをしたことがなかった。支払いをしようと思ったことすらなかっただろう。ただ手袋を入れる古い箱の蓋を物差しがわりに使って、請求書を一枚一枚同じ幅に折り、実にこぎれいな字で日付、貸し主の名前、借りた額を記し、それをまとめてゴムバンドで丸くとめていたのである。ミス・ジョウリフは彼の死後、引き出しの中にそんなため息をつきたくなるような束がごっそり溜めこまれているのを知った。彼にはいろいろな商人をひいきにし、広くあまねく借金の木を植え、しだいにそれをウパス(註 毒がとれる木)の森へと育て上げる才能があった。

ミス・ジョウリフの困難は数日前に届いたある手紙によって一千倍にもいや増された。この手紙は良心にかかわる問題を引き起こした。その書面が目の前の小さなテーブルの上に開かれていた。

ニュー・ボンド・ストリート百三十九番地

奥様

このほどわが社は静物画数点の購入を委託され、つきましては、貴殿がお持ちのはずの花の大作を引き取らせていただけないかと、お伺い申し上げるしだいです。お尋ねさせていただいている作品は故マーチン・ジョウリフ殿《エスクワイア》が以前ご所蔵になっていたもので、マホガニーのテーブルの上に花かごがあり、左手に毛虫が描かれています。わが社は依頼主の鑑識眼に信頼を置いており、作品がすぐれたものであることを固く信じておりますので、事前の鑑定抜きで五十ポンドをお支払いするつもりです。

ご都合が付きしだい、お返事をいただければ幸甚です。

あなたの従順なるしもべ

ボーントン・アンド・ラターワース商会

ミス・ジョウリフがこの手紙を読むのはこれが百回目だった。彼女は「故マーチン・ジョウリフ殿《エスクワイア》が以前ご所蔵になっていた」という部分をつきることのない喜びとともに繰り返し読んだ。その言い回しには祖先の威厳と貫禄を感じさせる何かがあり、彼女の気持ちを浮き立たせ、周囲に対するみじめな苦々しい思いを和らげた。「故マーチン・ジョウリフ殿《エスクワイア》」――まるで銀行家の遺言みたい。彼女は再びユーフィミア・ジョウリフになった。夏の日曜日の朝、ウィドコウム大聖堂に座っている夢見がちな少女、小枝模様の新しいモスリン服を自慢し、まわりの壁にいくつも飾られたジョウリフ家の先祖の銘板を誇らしく思う少女に。サウスエイヴォンシャの中産農民《ヨーマン》には公爵と同じように家系というものがあるのだ。

はじめのうちこの手紙は苦境を脱するための天佑のように思われたが、あとになると良心のとがめがその脱出路をふさぐようにたちあらわれてきた。「花の大作」――それは彼女の父の自慢だった――恥さらしな妻の作品だったが、自慢のタネだったのだ。彼女がまだ幼い頃、父はよく彼女を両腕に抱きかかえ、輝くテーブルの上板を見せたり、毛虫に手を触れさせたりしたものだ。妻が与えた傷はきっとまだうずいていただろう。なにしろソフィアが彼と子供たちを捨ててからたった一年しか過ぎていなかったのだから。それにもかかわらず彼は妻の才能を自慢し、彼女が戻ってくるという希望を捨ててはいなかったらしい。死んだとき彼は、中年という暗い峡谷の半ばにあったユーフィミアに古い書き物机を残した。その中にはささやかな母の形見がぎっしり詰まっていた――結婚式に着用した手袋、派手なブローチ、けばけばしいイヤリング、その他多くの取るに足りない小物であったけれど、父はそれらを大切に保存していたのだ。その他にもソフィアの細長い木製の絵の具箱と、絵の具を混ぜ合わすための色付き顔料の小瓶と、そしてこの「マホガニーのテーブルの上に花かごがあり、左手に毛虫が描かれて」いる絵を彼女に残した。

この絵の価値についてはいつも言われていることがあった。父は子供たちに妻の話をほとんどせず、ミス・ユーフィミアは大人になるまでのあいだに、いろいろなほのめかしやごまかし半分の話を切れ切れに聞き、ようやく母の恥について知るようになったのだった。しかしマイケル・ジョウリフはこの絵を妻の傑作とみなしていたと言われ、年老いたミセス・ジャナウエイによると、ソフィアはこの絵には百ポンドの値打ちがあると何度も言っていたそうだ。ミス・ユーフィミア自身もその価値に少しも疑問をさしはさんだことはなかったので、今度の手紙にあるような申し出は彼女にとってなんら驚きではなかった。実のところ、提示された金額は市場価値よりずっと低いと思われたくらいなのである。しかし絵を売ることはどうしてもできなかった。それは神聖な委託物であり、(Jの字を彫りこまれた銀のスプーンをのぞいて)むさ苦しい現在を裕福な過去につなぐ最後の輪だった。それは家の宝であって、手放す気にはとうていなれなかった。

そのとき呼び鈴が鳴り、彼女は手紙をポケットに滑りこませ、ドレスの前のしわを伸ばすと、ミスタ・ウエストレイの用を聞きに石の階段を登った。建築家はカラン滞在中はここに下宿しつづけたいと彼女に告げ、その知らせがミス・ジョウリフに大きな喜びを与えたのを見て、自分の寛大さに満足した。彼女は大いに安堵して、羊歯やらマットやら貝殻サルビアやら蝋細工の果物を取り除き、彼の望み通り調度品にさまざまな小さな変更を加えることに快く同意した。建築家であるにもかかわらず、ミスタ・ウエストレイはひどく趣味が悪いように思われたが、その優しい態度や彼女の下宿に残りたいという気持ちに免じて可能なかぎりの寛容を彼に示した。それから建築家は花の絵の取りはずしに話を持っていった。彼は遠回しに、絵がこの部屋には大きすぎるのではないか、とか、絶えずカラン大聖堂の見取り図を参照しなければならないので、それを貼る場所があるとうれしい、とか言った。ちょうど沈む太陽の光がまともに絵に当たって、下品なけばけばしさを照らし出し、何としてもこの絵を取りはずそうという彼の決意をさらに固いものにした。しかしミス・ジョウリフの顔に広がる動揺の色は攻めかからんとする勇気をいささか萎えさせた。

「ほら、この部屋にはちょっと派手すぎて気が散るんですよ。ここは作業場として使うことになるんですからね」

ミス・ジョウリフは、この下宿人には審美眼がまったく欠けているのだと確信し、次のように答えるとき、驚きと悲しみを隠しきることができなかった。

「おっしゃる通りにして、便宜をお図りしたいのはやまやまですわ。家柄のよい方に下宿して欲しいといつも思っているんですもの。紳士じゃない方にお貸しして評判を落とすような真似はできません。でもこの絵をはずせ、なんておっしゃらないでください。この家に来てからずっとここにかかっていたのです。わたしの兄、亡くなったマーチン・ジョウリフは」――無意識のうちにポケットの手紙に影響されていた彼女は、あやうくマーチン・ジョウリフ殿《エスクワイア》と言うところだった――「とても価値のあるものと考えて、死ぬ前、病気に冒されながらも、何時間もここに座ってこれを見つめていたものです。絵をはずせなんておっしゃらないでください。もしかしたらお分かりじゃないかも知れませんが、わたしの母が描いた絵というだけじゃなくて、絵としてみても、とても価値のある芸術作品なんですのよ」

そのことばには、ごく微かではあれ、下宿人の趣味の悪さを見くだし、その無知を啓発してやろうという調子があり、ウエストレイをいらいらさせた。彼は小馬鹿にしたような口調で言い返した。

「ああ、もちろん感傷的な理由からそのままにしておきたいというのなら、それ以上は何も言いませんよ。それにわたしがあなたのお母さんの作品を批判するなんてとんでもない話です。しかしですね――」そこまでしゃべって彼は口を閉ざした。老婦人のひどく傷ついた様子を見て、些細なことに腹を立てたことを後悔したのである。

ミス・ジョウリフは悔しさを呑みこんだ。絵の価値が正しく評価されていないと思ったことは一再ならずあったけれど、面とむかってけなされたのははじめてだった。しかし彼女は絵の価値を保証するものをポケットに持っていたので心を広く持つことができた。

「この絵はたいへんな値打ちものだと、今までずっと評価を受けてきたんです」と彼女はつづけた。「といってもわたし自身、その美しさのすべてが分かるわけではありません。充分絵の勉強をしませんでしたからね。でも手放す気にさえなれば、高値で引き取ってもらえることは絶対間違いありません」

ウエストレイは暗に美術に関して無知だと言われてかちんときた。また片意地としか思えない売値の誇張のせいで、絵に対する女主人の、家族的な愛着に同情する気持ちがだいぶそがれてしまった。

ミス・ジョウリフは彼の心のうちを読み、ポケットから一片の紙切れを取り出した。

「これはこの絵に五十ポンドを支払うという、ロンドンのとある紳士からの申し入れです。どうぞ読んでください。間違っているのがわたしでないことが分かるでしょうから」

彼女は業者からの手紙を差し出し、ウエストレイは彼女に調子を合わせるようにそれを受け取った。彼は手紙を注意深く読み、読み進むにつれますますいぶかしく思った。いったいどういうことなのだろう。この申し出は別の絵に対するものだろうか。なにしろボーントン・アンド・ラターワースといえばロンドンの美術商でも有数の業者である。レターヘッドつきの便箋紙や、手紙の全体的な様式から見て、偽物であるとは考えられない。彼は問題の絵に視線を投げかけた。陽の光がまだ当たっていて、今まで以上に醜悪に見えた。が、再びミス・ジョウリフに話しかけたとき、彼の口調は変化していた。

「この絵のことを言っているんだと思いますか。他に絵はないんでしょうか」

「ええ、こんなのは他にありません。間違いなくこの絵のことですわ。だって隅に毛虫が描いてあるって書いてありますでしょう」そして彼女はテーブルの上をはうぶくぶくした緑色の虫を指さした。

「そうですね。でもどうやって彼らはこの絵のことを知ったのだろう」彼は新たな問題の出現に絵を取りはずすことなどすっかり忘れてしまった。

「たぶん本当にいい作品は業者もよく知っているんじゃないでしょうか。問い合わせがあったのはこれがはじめてじゃないんです。わたしの兄が亡くなった当日にも紳士の方があの絵のことでこちらにいらっしゃったんです。家にいたのは兄だけで、わたしはその方を見てはいないんですが、きっとあれをお買いになりたかったんでしょうね。でも兄は売ろうとしなかったのです」

「これは悪くない取引だと思いますよ」ウエストレイは言った。「断るなら、よく考えてからにするべきですね」

「ええ、事情が事情ですからよく考えなければいけませんわ」ミス・ジョウリフは答えた。「わたしはお金持ちではありませんから。でもどうしてもこの絵は売りたくはないのです。だって小さいときからずっとこの絵と一緒でしたし、父がそれは大切にしていましたからね。ミスタ・ウエストレイ、はずしてしまおうなんてお考えにならないでください。もうしばらくこのままにして見ていたら、あなたもきっと好きになると思いますわ」

ウエストレイはそれ以上議論をしなかった。絵をはずすことが女主人にとってつらいことであることが分かったし、必要なら間に合わせの手段として、絵の上に見取り図をはることもできると考えたのである。こうして協定は成立し、ミス・ジョウリフはボーントン・アンド・ラターワースの手紙をポケットに戻し、少なくとも幾分かは心の落ち着きを回復して、再び請求書のもとへと帰っていった。

彼女が部屋を出て行ってから、ウエストレイはもう一度絵を子細に眺め、今までにもましてその価値のなさを確信した。色づかいが粗く、輪郭が強調されすぎた最悪の素人画で、与えられた空間を塗りつぶす以外、何の目的もないような印象を与えた。その印象は金箔をかぶせた額縁がことさら凝った、巧みな作りであるという事実によって強められた。ソフィアは何かの折りにこの額縁を手に入れたのだろう、そして内側を埋めるためにこの絵を描いたのだ、彼はそう結論した。

窓を開け、屋根屋根のむこうに広がる海を望むと、太陽は赤い玉となって水平線に浮かんでいた。夕暮れはしんと静まりかえり、町は深い休息のなかに浸っていた。青い煙が町の上を長く水平にたなびき、草を燃やす匂いがかすかに空中をただよっていた。中央棟の鐘釣り場は夕陽に照らされて淡紅色に輝き、ねぐらに帰る前のコクマル烏が大群となってけたたましくさえずりながら、金色の風見鶏のまわりを旋回していた。

「目を奪われるような眺めじゃないかね」肘のところで声がした。「秋の空気には不思議なかぐわしさがあって、はっとさせられる」オルガン奏者がいつの間にか部屋に入ってきていた。「わたしはつきに見放されたような気分だよ。今晩はわたしの部屋で食事しながら話をしよう」

ウエストレイはそれまでの数日間、彼とはあまり会っていなかったので喜んで晩を一緒に過ごすことに同意した。ただし場所は変更になって、夕食は建築家の部屋で取ることになった。その晩の二人は多くのことを語り合い、ウエストレイは相手に心ゆくまでカランの住人や風習についておしゃべりをさせた。人の話を聞く気分になっていたのと、自分が住むことになった場所にはどんな人がいるのか、できるかぎり詳しく知りたかったためである。

彼はミスタ・シャーノールにミス・ジョウリフとの会話のことや、絵を取りはずしてもらえなかったことを話した。オルガン奏者はボーントン・アンド・ラターワースの手紙のことは何もかも知っていた。

「可哀想にあの人はこの二週間というもの、あれに良心を悩まされているんだよ。悶々と絵のことについて思いわずらい、幾晩も眠れぬ夜を過ごしている。『売るべきだろうか、売るべきではないのだろうか』『売れ』と貧乏は言う。『売って債権者どもに胸を張ってみせてやれ』。マーチンの借金も『売れ』と言う。ムク鳥の雛みたいに大きな口を開けて彼女のまわりに群がり、『売って俺たちを満足させてくれ』と言うのさ。『いけない』と自尊心は言う。『売ってはいけない。家のなかに油絵があることは、立派な社会的地位を示すしるしなのだから』。『いけないわ』と家族への愛着が言い、彼女が子供だった頃の妙に甲高い小さな声が『売らないで。可哀想なお父さんがどんなに絵を愛していたか、愛しいマーチンがどんなに大切にしていたか、覚えてないの』と言う。『愛しいマーチン』か――ふん!マーチンは六十年間、彼女にとって疫病神でしかなかった。しかし女は身内のものが死ぬと聖者の列に加えてしまうんだよ。きみは信心深いと言われている女が悪人をこっぴどくののしるのを聞いたことがないかい。ところが彼女の夫や兄弟が死ぬと、生前どんなにろくでもない人生を送ったとしても、彼女は非難しないのさ。愛は彼女の刑法典をも無効にする。自分の家族には抜け道が作ってあって、愛しいディックや愛しいトムのことはまるでバクスター(註 十七世紀英国ピューリタンの指導者)描くところの聖人より二倍も偉かったかのように語るのさ。いやはや、血は水よりも濃い。家族に地獄の劫罰はくだらないんだ。愛は地獄の火よりも強く、ディックやトムに奇跡を示す。その代わり彼女は釣り合いを保つために、他人に対しては余計に硫黄の火を燃やさなきゃならん。

最後に世俗的な知恵、というか、ミス・ジョウリフが知恵と考えるものがこう言う。『いや、売るな。あれだけの逸品なら五十ポンド以上の値をつけさせるべきだ』こんな具合に彼女は翻弄されているんだ。カラン大聖堂に修道士がいた時代なら、彼女は聴罪師に尋ねていただろうね。聴罪師は『スンマ・アンゲリカ』(註 道徳神学の辞書と呼ばれる著作)を手に取り、Vの項目――『売るべきか《ウェンデトゥル》?売るべきか 売らざるべきか』――をのぞき、彼女を安心させてやっただろう。わたしがラテン語でその道の最高の学者とだって話ができるとは知らなかっただろう?ああ、しかしできるんだよ。主任司祭はネビュルスとかネビュルムとか言っておったが、彼の相手だってすることができる。ただわたしはあまり知識をひけらかさないようにしているだけだ。今度わたしの部屋に来たら『スンマ』を見せてあげよう。けれども今は聴罪師なんていないし、親愛なるプロテスタントのパーキンは『スンマ』を持っていたとしても読めやしない。だから彼女の悩みを解決できる人は誰もいないんだよ」

小男は気持ちがたかぶってきて、目を輝かせながら自分の学識についてしゃべった。「ラテン語か」と彼は言った。「くそっ。わたしのラテン語は誰にも負けないぞ――そう、ベーズ(註 十六世紀フランスの神学者)にだって負けるものか――ラテン語で思わず耳をふさぎたくなるような話をすることだってできる。ああ、わたしは馬鹿だよ、なんて馬鹿なんだ。『我がパウロよ、パウロ、このふしだらなるページに満足せよ』(註 アウソニウスの詩から)」彼はラテン語でそうつぶやくと神経質そうに指でテーブルを打ち鳴らした。

ウエストレイはこうした発作的な興奮を恐れていたので、話題を元に戻そうとした。

「理解に苦しみますね、こんなまずい絵に価値がないことくらい、見たら分かりそうなものなのに――まったくおかしな話ですよ。それにしてもロンドンの業者はどうしてこの絵を買い取ろうとしたのでしょう。あの商会はよく知っているんですが、一流の美術商ですよ」

「『ポップ・ゴーズ・ザ・ウィーゼル』と『ハレルヤ・コーラス』の違いが分からない人間がいるように、絵を理解しない人間もいるのさ。わたしもそんな人間の一人だ。もちろんきみの言うことは全面的に正しいよ。この絵はまともな人間にとっちゃ目障りでしかない。しかしわたしは長いこと見てきたせいか、これが好きになってきたよ。売られたら残念に思うだろう。それからロンドンのバイヤーたちだが、たぶんどこぞの無知蒙昧の輩がこの絵を気に入って買いたがっているんじゃないか。たまに一晩か二晩、この部屋に泊まっていく不時の客があったからね――もしかしたら、さんざんけなしたにもかかわらず、それはアメリカ人かも知れないよ――あの連中が何をやらかすか分かったものではない。マーチン・ジョウリフが死んだ日にも、彼からこの絵を買いあげようとして誰かが来たそうだ。あの日の午後は、わたしは聖堂にいて、ミス・ジョウリフはドルカス会に行き、アナスタシアは薬剤師のところに行っていた。家に戻ってからわたしはマーチンの顔を見よう思って、今われわれがいるこの部屋まで上がってきたんだが、彼は話をしたくてうずうずしていた。彼によると玄関のベルが鳴ったかと思うと、誰かが家の中に入ってくる音が聞こえ、ついにはドアが開いて、見知らぬ男が彼の部屋に上がりこんできたのだそうだ。マーチンはわたしが今座っているこの椅子に座っていた。あの頃は身体が弱っていて、ここから動くことができなかったんだ。それで男が部屋の中に入ってくるまでじっとしていなければなかったんだよ。見知らぬ男は丁寧な口調で花の絵を買いたい、といったそうだ。なんと二十ポンドも出すというのさ。マーチンはその頼みを聞こうとせず、その十倍払うと言われても手放すつもりはないと言うと、男は帰っていったそうだ。そういう話なんだが、あのときはただのでまかせで、マーチンは幻覚でも見ていたんだろうと思った。ひどくふらふらしていて、夢から覚めたばかりみたいに顔が紅潮しているようだったから。でもしゃべっているとき、彼の目はずるそうな色を浮かべていた。そして、あと一週間すれば、おれはブランダマー卿になるんだ、そうなりゃ絵を売りたいなんて思いもしないだろう、と言うんだ。彼は妹が戻ってきたときもそう言っていたよ。しかし男の人相については、髪の毛がアナスタシアに似ているということ以外、何も言えなかった。

マーチンは命数つきて、ちょうどその日の晩に死んだ。ミス・ジョウリフは恐ろしく気を落としていたよ。というのは彼女は睡眠薬を与えすぎたのじゃないかと思ったからだ。エニファーは彼が睡眠薬を飲みすぎたのだと彼女に言い、彼女は自分が間違って渡したのでないかぎり、彼が薬を手に入れるはずがないと考えたのだ。エニファーが死亡証明書を書いたので死因審問はなかった。しかしそのおかげでわれわれは見知らぬ男のことを忘れてしまい、思い出したときは、もう捜そうにも手遅れになっていた。もちろん男が病人の頭から生まれた幻じゃないとすれば、なんだけれど。他には誰も見ていないし、手がかりはウエーブした髪の毛だけだ。男はマーチンにアナスタシアを思い起こさせたということだからね。しかしそれが本当だとすると、この絵に入れこんだ人間が他にもいたっていうことになる。可哀想なマイケルには大事な絵だったんだろう、こんなに立派な額に入れたんだから」

「どうでしょうかね」ウエストレイは言った。「わたしには額の中を埋めるために絵を描いたような気がするんですけど」

「そうかも知れないね、そうかも知れない」オルガン奏者は素っ気なく言った。

「どうしてマーチン・ジョウリフは、夢の実現は間近いと思ったんでしょう」

「ああ、そんなこと、わたしには分からないよ。彼はいつも丸を四角にし、謎にぴたりと当てはまる欠けた一片を見つけたと思っていた。しかし彼は自分の企みを他人に打ち明けることをしなかった。死んだときに書類でいっぱいの箱をいくつも残していってね、ミス・ジョウリフが燃やすかわりに調べてくれと、それをわたしに寄こしたんだ。そのうち中身をあらためるつもりだが、きっとろくなことは書かれていないだろう。かりに彼が手がかりをつかんでいたとしても、彼の死とともにそれもなくなってしまったさ」

短い沈黙が訪れた。聖セパルカ大聖堂の組鐘が「エフライム山」を奏で、大鐘がカラン・フラットに真夜中を告げた。

「ぼちぼち寝る時間だ。ウイスキーを一杯もらえないかね」彼は暖炉の前の三脚台にかけられた薬罐を見ながらいった。「おしゃべりして喉が渇いた」

その懇願には石のような心をも溶かす哀れさがあったが、ウエストレイの原則はびくとも揺るがず、彼はかたくなな態度を貫いた。

「残念ですが、置いていないんですよ。お酒は飲まないので。ココアをお付き合い願えませんか。薬罐が沸きましたから」

ミスタ・シャーノールはがっかりした。

「きみは婆さんになるべきだったな。ココアを飲むのは婆さんだけだ。まあ、それでもいい。急場をしのげれば」

その晩のオルガン奏者は模範的なくらいしらふの状態でベットに入った。自室に戻ってから棚の中を探したが酒は見つからず、マーテレットがくれた最後のブランデーはお茶の時間に飲んでしまい、新たに買おうにも金が一銭もないことを思い出したのだ。

第六章

一ヶ月後、聖セパルカ大聖堂の修復工事は軌道に乗りはじめた。南袖廊には木の足場が支柱の上に高々と組まれて、石工が内部から穹窿天井に作業の手を加えることができるようになった。この天井が建物の中でもっとも修理の必要な部分であることは疑いを入れないが、ウエストレイは他にも放っておけない危険な箇所があるという事実に目をつぶることができず、サー・ジョージ・ファークワーの注意を脆弱化した複数の部分にむけさせようとした。いずれもこの偉大な建築家の、おざなりな点検をまぬがれた部分である。

しかしウエストレイの不安のいちばん底にひそんでいたのは、塔を支えるアーチへのほの暗い懸念だった。彼は中央塔のとてつもない重量が夢魔のように建物全体に覆いかぶさっているさまを思い描いた。サー・ジョージ・ファークワーは代理人の説明に充分耳を傾け、特に塔を検査する目的でカランを訪れることにした。彼はある秋の一日を測定や計算に費やし、中断されたピールの話を聞き、壁の割れ目を細かく調べたが、以前の判断を改めたり、塔の安定性に疑いをさしはさむいかなる理由も見いださなかった。彼はやんわりとウエストレイの神経質をからかい、他のところも確かに修理が必要だと同意しつつも、不運にも資金が足りないのだから、今のところ工事の規模と進捗は、いずれも限られたものにならざるを得ないと言った。

カラン大聖堂は他のより大きな修道院とともに千五百三十九年に解体された。この年、最後の修道院長であったニコラス・ヴィニコウムは王に反抗して修道院の明け渡しを拒否したために西の大門楼の前で反逆者として絞首刑にされた。修道院の一般財源は王室収入増加庁の手に移り、すぐそのまわりの修道院領有地は王室のお抱え医師シャーマンに与えられた。スペルマンは冒涜を主題にしたその著作のなかで、修道院の土地がその新たな所有者一族に没落をもたらした例としてカランを挙げている。というのも、シャーマンには放蕩者の息子があって、彼は家督を食いつぶし、その後エリザベス女王の時代にスペインの陰謀家と策動して斬首刑になったのである。

悪徳領主にわざわいを

もたらす僧院領有地

教会堂を盗む者

必ず天の罰を受く

雲形紋章 · 第 2 / 14 段